音楽

May 19, 2019

宮崎国際音楽祭の夕べ ラ・ボエーム&らんぷ亭

【舞台@宮崎日日新聞より】

La-bohme

 連休をまたいで毎年行われている宮崎国際音楽祭。
 最終日は演奏会形式のオペラ上演が恒例になっており、今年も聞きに行くことにした。
 しかしその日は宮崎では前日から空の底が抜けたかのような大雨が止むことなく降り続き、列車は動くのだろうかと不安に思っていた。(雨は結局翌日まで、つまり3日連続で降り続き、月曜は多くの通勤難民を生むことになってしまった。5月のこれほどの大雨は初めて経験した)
 じっさいこの大雨で、宮崎の交通機関はどこも大混乱になっていたが、日豊本線は運よくほぼ定時運行が出来て、雨のなか無事に会場に着くことができた。

 今回の演目はプッチーニの「ラ・ボエーム」。
 19世紀のパリを舞台に、若い芸術家たち(ボヘミアン)の、貧しいけれども、心に夢と大志を抱いて、逞しく、そして快活に生きていく姿を描いている。
 話の筋も、また曲の旋律も分かりやすく、幕開きとともにすんなりとオペラの世界に入っていける、良い作品である。
 ただ、若いときには何とも思わなかったけど、ああいう「青春」という、中年族には遥かに過ぎ去ったものを題材にしている作品って、今の年代になって見ると、なんだかとても「痛く」感じる。
 もはやあの情熱や感性はもう自分にはないという自覚のかなしさや、自分の才能を信じて夢抱く若者の姿を見ているとどうしても想像してしまう彼らの末路とか、あるいは作品中いじられ苛められている中年族に対する同感とか同情とか、いろいろな要素が舞台を見ていてチクチクと心を刺し、どこかしこの場面で、「これは痛い」と思ってしまう。
 そういう意味では、久しぶりにずいぶんと心に響いたオペラであった。

 筋に関してはそういうふうに始終痛かったけど、音楽の演奏はじつに立派。メリハリ利いた活気あふれる広上淳一氏の指揮、福井敬氏のホールいっぱいに響く高音、世界的ソプラノ歌手中村恵里さんの情緒あふれる美声。とても素晴らしく、国際レベルの演奏が宮崎で経験できる幸せを感じた。

 演奏会ののちは宮崎市繁華街へと夕食へ。

【らんぷ亭にて】

Tail

 この音楽祭のときは、必ず誰か知合いが来ているので、その誰かに便乗して食事に行くことにしており、今回はバーNのマスター御夫婦と、演奏会のほぼ全てに参加しているMさんとの四名で「らんぷ亭」へ。うまい具合に4名ぶんのみ空席があったのだ。
 写真はこの店のスペシャリテ「宮崎牛テールのシチュー」。その他、いろいろな料理を取り分けつつ、美味しいワインもいただく。

 良い音楽を聞いたあと、その余韻が残るなか、美味しい食事とワインを味わいつつ、談笑しながら楽しい時を過ごす。
 一年に一度の定番の実りある夕べであった。

 

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March 02, 2019

幻想交響曲+レリオ:レ・シエクル管弦楽団

Berlioz

 香港最後の夜のコンサートは、ベルリオーズの幻想交響曲。
 初日のN響の現代曲シリーズと違い、ポピュラーな名曲であって、聞いていて分かりやすい。指揮者はマキシム・パスカル(Maxime Pascal)という若い人であった。初めて聴く人だったけど、若者らしくエネルギッシュできびきびとした気持ちのよいテンポで音楽を運び、この曲の良さを十分に表現していたと思う。
 そしてこの指揮者、注目すべきことは指揮法がユニークであり、指揮棒とともに身体全体を使って指揮を取り、演奏中指揮台の上でずっと踊っている。それが誇張でなく、プロのダンサーのごとき踊りで、それは当然ながら音楽に合っているので、たとえ耳をふさいでいても、その動きを観るだけで、今どのような音楽が流れているか分かるであろうほど。
 というわけで、聴くとともに、観ても楽しめた幻想交響曲であった。
 ただし今回の旅程を仕切った幹事氏は、「演奏はよかったけど、あの指揮スタイルは気に入らない」とあとで不平を言っていた。幹事氏はかつてクライバーの追っかけをやっていてカナリア諸島までも行ったという大のクライバーファンだったので、「クライバーだって同じように踊ってたじゃないですか」と言ったら、「いやまったく違う。クライバーは体幹がしっかりしていたので、動きがエレガントだったけど、今日の指揮者は、芯がなくて身体全体がふにゃふにゃで、あれじゃまるで『ひょっとこ踊り』だよ」とけなした。なんでこの人は宮崎日向のローカルな祭りのことを知っているのだろう、と不思議に思ったが、言われてみれば、たしかにあれはひょっとこ踊りであった。
 こうして私は、「マキシム・パスカルといえばひょっとこ踊り」と頭にインプットされてしまった。

【参考:日向ひょっとこ踊り】
Hyottoko

 幻想交響曲のあとは、「レリオ」。朗読、声楽、管弦楽から成る複雑な曲である。
 この曲は元々は幻想交響曲とセットで創作され、そしてセットで演奏されるように作曲家から指示されていたのだが、時代がたつにつれ幻想交響曲は残ったけど、この曲はほぼ忘れ去れてしまったので、現在ではそのようの形式で演奏されることは滅多になく、今回の試みは希なものである、ということである。よほどのベルリオーズファンでないと聴いたことないたぐいの音楽であり、じっさい今回の一行も誰も聴いたことなかった。
 香港芸術節は、プログラムに先端的なものや、通常で行われないものを取りこむのが好きなので、これもその試みの一つであろう。

 この作品はまず舞台上の俳優による朗読から始まる。俳優は観衆に向かってフランス語で語りかけ、聴衆は泣き所とか笑い所ではなにか反応しないといけないだろうけど、字幕も出ていないので、まじめにリスニングに勤しむ。ただその内容は、poison, désespoir, tortures…と陰気な単語が続き、鬱々と、失恋というか見向きもされない恋の苦しみを語るものであり、要は我々が標題音楽「幻想交響曲」で知る内容の、解説版みたいなものであった。ついでながら全編通じて笑わせ所は全くなかった。
 音楽そのものに関しては、この作品が忘れられていったことが分かる、そのようなものであった。すなわち「幻想交響曲」に比べると、一段二段落ちる、つまりは魅力がない。それで少々退屈な時間を過ごしていたのだが、そうなると困ったことが生じて来た。
 隣の客が、寝だして、さらにはイビキまでかきだしたのである。音楽会で寝てイビキをかくなんて会場内のテロ攻撃みたいなもので、客として最も行っていけない行為である。さらには我々の座っていた席は実質最前列であり、演奏者にもとても近い。この世で最も耳の良い職業人の集団を前に堂々とイビキをかいて寝られる、その外道ぶりに、私は驚き呆れたのであるが、まさかそのままにもしておけず、寝たと同時にゆり動かして起こすことを何度も何度も行うことになり、注意力が散漫してしまった。

 …残念ながら音楽会で寝る人って、少ないながらも常にいるわけで、クラシックの音楽会って値段もけっこうするのに、そこにわざわざ寝に来る人が一定数いるというのは、私にとって大きな謎の一つである。

 とかなんとか考えているうちに、音楽は最終章のほうに行き、朗読者は音楽家ということが分かり、舞台は現実の世界に変じて、演奏家たちも舞台上の役者の一員として演奏を行うという、面白い仕組みの作品であったことが判明。
 朗読者=音楽家は、演奏が終わりのほうで、オーケストラの演奏を称え、演奏者たちもそれに応え、そして幕。こういうメタ表現のクラシック作品は初めて見たけど、話のネタにはなったので、いい経験だったとしよう。

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March 01, 2019

歌劇:タンホイザー@香港芸術節2019年

Tannhauser

 吟遊詩人であるタンホイザーはエリザベート姫という恋人がいたが、清き乙女である姫との愛に物足りなさを覚え、愛欲の女神ヴェーヌスの統べる国ヴェーヌスベルクに赴き、そこで情欲の日々に溺れる。しかしタンホイザーはその生活に飽きてそこを去ろうとする。タンホイザーに惚れていたヴェーヌスは彼を引き止めようとするも、もうヴェーヌスに興味を失っていたタンホイザーは彼女を振りきって、元住んでいた国に戻り、姫とも復縁した。
 そして国では歌合戦が開かれ、そこでの歌のお題は「愛とは何か?」というものであり、歌手たちは騎士道精神に満ちた奉仕の愛の歌を次々に歌いあげる。それを聞いていたタンホイザーはその欺瞞性に腹を立て、さらには俺は本当の愛欲というものを知っているのだぞと自慢したくなり、ヴェーヌスを称える愛欲賛歌を朗々と歌い、その場にいた騎士達や領主から総スカンをくらい追放されてしまった。
 一時の私憤で全てを失ったタンホイザーはうろたえ、元の生活に戻るためにローマまで行って教皇に赦しを乞うのだが、「お前のような罪深きものが赦されることは永遠にないだろう」と冷たく突き放される。そういうことならばと、一回袖にしたヴェーヌスのもとに戻り、また愛欲の日々に浸ろうとヴェーヌスベルクに向かうことにした。そこへエリザベート姫の葬列が通る。エリザベート姫はタンホイザーの罪の赦しを得るべく自分の命を絶ったのだ。己の愚かさに悲嘆にくれ、姫の亡きがらにすがるタンホイザーのもと、ローマの教皇から使者が現れる。エリザベート姫の願いが聞きいられ、タンホイザーの罪は赦されたのだとの知らせをもって。

 というふうな話。
 あら筋だけ書くと、いかにもつまらないというか、男にとって都合のいい話、というのはヴァグナーの楽劇の特徴ではある。しかし良い脚本を書く才能はなかったけど、音楽の創造については音楽史上希にみる才能を持っていた大天才の造り上げた作品だけあって、いざ幕があけ音楽が鳴り出すと、序曲最初のホルンの抒情的な調べから一気に音楽に引き込まれ、その旋律が盛り上がっていきトロンボーンが咆哮するころには世界がこの音楽に満たされているような、圧倒的な迫力でもって劇は進んでいく。

 そういうふうに音楽はとてもよい。しかし、ヴァグナーの楽劇は、CDとかで聞くぶんにはそうも思わないのだが、劇場でライブを観ると、「筋はこんなにくだらないのに、何故こんなにも自分は感動してしまうのだろう」という感想が、どうにも頭のなかに浮かんでしまうのが常ではある。

 ヴァグナーの劇はだいたいワンパターンで、「情欲、情動に溺れた人物が、自らの救済を試みるも、己の欲の深さにそれはできず、結局は自分を愛する乙女の献身にてようやく救われた」というものである。タンホイザーは典型的なそれであり、ヴァグナーはその後もえんえんと似たような筋の楽劇を亡くなるまで書き続けることになる。
 ヴァグナーの伝記を読むと、ヴァグナー自体が情欲に溺れ続けた人であり、自身の懊悩を一貫して書き続け、そして己の欲望を音楽に浄化することによって己の精神を救おうとした、芸術家としてはある意味立派な人であり、しかし情欲から死ぬまで逃げられなかった点では、業の深い人であった。

 ただしヴァグナーの時代の倫理観は現在では少々厳しすぎる点があり、(もちろんヴァグナーその人のように、人妻ばかり手を出して、さらには自分の弟子の妻を奪って我がものにしてしまうようなのは、さすがに今の基準でも論外だとは思うけど)、あの時代の倫理観に基づくタンホイザーの苦悩について、現代人には理解しがたいことも多く、そのため今回の演出は、全体的にすべてを曖昧にした、観客によって解釈自由というふうなものになっていた。
 今回の演出を担当したビエイトという人は、独特のエログロ路線で有名だそうだが、べつにそんなに個性的な演出はなく、演出家自身の独自の解釈はあえて盛り込まず、ヒントは与えますが解答はありませんよ、といった抽象的な場面が続いた。これはつまりは演出家自体、タンホイザーについてよく分かっていなかった、あるいは現代の倫理観では観客をうまく納得させる解釈を作れなかった、というふうなことだったのだろう。

 そういうわけで、演出に関してはグダグダだったと思うが、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏はさすが本場だけあって立派なものであり、ヴァグナーの偉大な音楽に酔いしれることができた。

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February 28, 2019

香港 音楽と食の旅

 毎年春に香港で開かれる芸術祭で当代一流のアーティスト達の演奏を楽しみ、かつ香港特有の多彩な中華料理も満喫しようという、恒例の音楽と食の旅に、今年も行ってきた。

 初日、香港に夕方到着。
 演奏会は午後8時からで、夕食はその後10時からというゆっくりプランなので、ホテルでのんびり寛いでそれから出かけようと思っていたら、スマホのグループメールに「演奏の前にホール近くの料理店で小腹を満たしてからコンサートに行きましょう。皆そろっています」とのお知らせが。
 それで、せっかくなのでその料理店へと。

【華苑 潮州閣】
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 この店は予約とかはしていなかったのだけど、ネイザンロード界隈を歩いていて、よさげな雰囲気の店なので入ってみたとのこと。
 私が着いたときにはだいぶ料理が来ていて、みなわいわいと楽しく騒いでいた。
 潮州料理の店のようで、素材をシンプルに味付けした料理の数々。一通り食べたのちの〆は、炒飯に焼そば。
 美味しかったけど、「小腹を満たす」なんて量ではなかったな。ビールもさんざん飲んだし。

【NHK交響楽団】
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 食事を済ませたのち、すぐ近くの文化センターホールに行き、NHK交響楽団による演奏を観賞。
 プログラムは、(1)武満 徹/ハウ・スロー・ザ・ウィンド (2)ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調 (3)プロコフィエフ/交響曲 第6番という何やら玄人好みの構成。指揮はN響首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ氏。

 香港に来てまでN響を聞かなくとも、という気がしないでもないが、この芸術祭は各国の一流オーケストラが来ているので、それらと日本のオーケストラの聴き比べが出来て、ためになった。

 曲のなかでは、ラヴェルが一番良かった。曲そのものが親しみやすいし、ピアノを弾いたツゥオ・チャン氏も大変なテクニシャンで、快適なリズム・メロディに溢れたこの曲の魅力を存分に引き出していたと思う。
 武満徹の音楽については、こういうのは「音楽的教養」の勉強みたいなものなんだろうなとか思いながら聞き、プロコフィエフと共に、こんな音符が好き勝手に飛び交うような難しい音楽を正確に弾ききるN響の技量に感心した。さらには聞きながら、音楽って本来はエンターテイメントそのもののはずなのに、どうしてクラシック音楽の歴史は、その本質と離れる方向に進んでしまったのだろうとかいろいろ考えた。

【潮福蒸気石鍋】
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 演奏会のあとは、尖沙咀の料理店「潮福蒸気石鍋」。
 この店の料理は、「中華料理」の本道とは少し外れたところにあり、潮州料理を東南アジアの料理器具を用いてアレンジしたもの。
 テーブルの上に載せてある陣笠帽みたいなのがそれで、この下に素材を置いて、蒸気で蒸すという、ある意味シンプルな料理であるが、この器具の構造に何やら秘訣があるらしく、通常の蒸し料理よりも香りや味の凝集度が増している。

【素材】
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 こういうふうに生きている新鮮な具材を展示して、それらをチョイスして調理してもらうのが潮州料理の特徴である。

【料理】
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 この店では様々な素材を蒸したあと、それらから滴り落ちたエキスによるお粥で〆るという流れになっているので、まずは鍋底に米と具を敷く。

【料理】
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 貝、魚、海老、鶏肉、野菜、糸瓜等々が、高圧蒸気で一気に調理され、次々に出てくる。

【お粥】
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 そして、全部の素材が蒸されたあと、それらの全てのエキスを吸い込んだお粥がいつの間にか鍋底に出来ている。
 これがやはりとても見事な味。

 日本にはない珍しい料理であり、普通に美味しいので、香港に来た際はぜひ経験すべき店だと思う。

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December 11, 2018

「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞の謎について考えてみる

 映画「ボヘミアンラプソディ」を観た人がたいていそうであるように、私もそれからクイーンの音楽CDを棚から掘り出して、その音楽に聴きふけっている。
 クイーンにはいい曲の多いことに感心すると同時に、やはり「ボヘミアン・ラプソディ」はそのなかでも傑出しているな、とも思う。この曲がクイーンを、そしてあの時代の音楽を代表する傑作と評価されているのは当然であろう。

 ただ、この曲、内容がかなり難しい。
 曲全体としては一人の若者のストーリーで、ある若者が殺人という犯罪を犯し、自分の人生が終わってしまったと嘆く。そしてそのあと世間から厳しい非難と糾弾を受け、それに激しく抗うも、その嵐のような責め苦の日々が終わったのち、自分の罪を受け入れ、静かに諦念の境地に到る、という一幕が描かれている。

 ここで歌詞について考えてみるが、いったいその若者は何者なのか、そして殺した相手は誰なのか、さらにはその犯罪の動機はいったい何なのか、という謎がある。
 歌詞では、若者は社会人になりたての若さであり、殺人については銃を一発額に撃った、くらいの情報しかなく、誰が、誰を、いかなる理由で、ということのいっさいの詳細は不明である。
 しかしながら、大きなヒントはある。
 それは若者が我が身を嘆いての一言、「I sometimes wish I'd never been born at all」。「僕なんて生まれて来なかったほうが良かったと思うんだ」、という台詞である。
 「never been born」は、ここでは自責に使われているけど、普通は「お前なんか生まれてこなかったほうがよかったんだ」と、他人を責めるときの定番の悪口である。馬鹿、アホ、間抜け、等々悪口にはいろいろあるが、これは本人の存在自体を否定する、悪口のなかでも特上級のものであり、これを口にするときは絶交覚悟が必定の、強い力を持つ悪口だ。

 古来よりこの悪口は無数に放たれたのであろうが、しかし、史料に残されたもので、最大級に有名なものが一つある。言った人、言われた人は、それこそ世界中知らぬ者のいない有名人だし。
 その史料は、世界最大のベストセラーである聖書で、言った人はイエス、言われた人はユダである。

【最後の晩餐:サンマルコ教会壁画】
Last

 聖書の受難物語の「最後の晩餐」のシーン、十二人の使徒を前にしてイエスは「お前たちのなかに私を裏切る者がいる」と言い、そしてその裏切り者がユダということを示す。それに続きイエスはユダに言い放つ。
 「It would be far better for that man if he had never been born. -お前のようなものは、いっそ生まれて来なかったほうが、ずっとよかったのだ」
 愛と慈悲の人であるイエスにしては、あまりにひどい言い草であり、古来よりここは論争の的になっていて、ゆえにとても大きな罪を犯す運命にあるユダへの同情からイエスはこのように言ったのだと、好意的に読み取る人もいるが、受難物語の筋を追っていけば、ここではイエスは裏切り者に対して単純に激怒していたと捉えるのが、自然な解釈であろう。
 だいたい、「愛と慈悲の人」というイエスのイメージは後世のものであり、聖書に描かれたイエスは、神殿の境内で暴れたり、実がなっていないからといってイチジクの樹に怒って呪いの言葉をかけたりと、相当に気性が荒い人物であったから、これくらいの悪口は平気で放ってなにもおかしくない。

 ボヘミアン・ラプソディの歌詞は神話や史実をいろいろ引用しており、フレディがこの語句を偶然使うことはありえず、意図をもって聖書から取ったのは明らかだと思う。
 そしてもしこの若者をユダとし、殺した相手をイエスとすると、曲で示される若者の激しい懊悩、そして世間の圧倒的な糾弾が、案外とよく理解できる。それこそ、「20世紀の受難曲」としていいくらいに。
 まあ、以上は少々極端な解釈であり、私も「若者=ユダ」とまでは思わないが、それでもnever been bornというキーワードから、若者の犯した犯罪が衝動とか無思慮とかによるものでなく、深く長く悩み抜いた末、自分の最も大切な人を敢えて捨て去る決断をした、深刻な葛藤劇が、そこにあったのは間違いないと思う。あの受難劇のユダの物語のように。

 もちろんボヘミアン・ラプソディの歌詞の本当の意味については、作詞者フレディしか知らないだろうし、そしてたぶんフレディ自体もじつは知ってないとは思う。
 それが、本当に優れた、後世に伝わっていく名作というものであって、その作品は最終的には作者を離れて、聴く人々によって、無数の解釈を与えてくれる。
 ボヘミアン・ラプソディは、そういう名作の、典型的なものであろう

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December 10, 2018

映画:ボヘミアン・ラプソディ

Queen

 人気バンド、クイーンを題材とした映画。
 主人公はいちおうフレディ・マーキュリーであり、彼が出自や容姿、性癖等に社会との疎外感をもつなか、ブライアン・メイとロジャー・テイラーと出会い、彼らと切磋琢磨し続けることによって、音楽パフォーマとしての希代の才能を開花させた。クイーンは当代一流のバンドとして成長し、そして伝説の舞台「ライブエイド」で圧巻の演奏を行い、世界中の聴衆を圧倒させる、そこまでを描いている。
 つまりはクイーンの成功一代記なわけだが、主役がフレディなので、話はいろいろと複雑なことになる。なにしろフレディは、けっこう、というかかなり壊れている人物であり、それがバンドに様々な問題と軋轢を起こし、いたらぬ事件と迷走を生じさせる。
 フレディは本来なら、社会から弾き出されたアウトローとして底辺を流浪する羽目になっておかしくない生活破綻者なのだが、なにしろ傑出した音楽的才能を持っており、そして良いところも多少はある人物なので、彼を理解しようと努めサポートしてくれる人たちが幸運なことに彼の周囲に幾人もいた。それでフレディはその才能を真っ当な方向に伸長させることができた。
 そして「クイーン」というのは、すなわちそのフレディに対する代表的サポーターであった。フレディ以外の3人は、優れた音楽才能を持っているのに加え、あちらの音楽界では珍しいことに、いたって常識人であった。とりわけ、ジョン・ディーコンはあまりにいい人に描かれ過ぎているようにもみえるが、これは映画的誇張というわけではなく、実際に彼はそういう人物であったことは誰もが証言している。
 クイーンというバンドは、フレディのワンマンバンドではなく、フレディは他のメンバーのサポートがあって、真の実力を発揮でき、そのことがバンド全体の実力を高めていき、数々の名曲を生み出すことができた。

 映画はそういうクイーンの内実を丁寧に描きながら、そして伝説のショー「ライブエイド」をクライマックスに持ってくる。このラストの20分が本当に素晴らしい。そしてこの演奏で、「クイーン」そのものも魅力を我々はダイレクトに感じ取ることができる。

 クイーンにはある特殊性がある。

 70~80年代の洋楽ポップス界は、現代とは比べものにならない興隆ぶりで、たくさんの優秀なグループや歌手が百花繚乱と輩出し、多くの名曲を生み出していた。クイーンもそのうちの一つで、それこそ映画でライブエイドに出演するスターたちの名をマネージャーがずらりと並べ、君たちも彼らに比肩しうる人気者なんだよ、てなことを言うシーンがあるが、それはすなわちクイーンにしても当時は「ワン オブ ゼム」であったことを意味する。
 それから30年近くの時が過ぎ、ポップス自体が過去の音楽となりつつあり、大スターたちのヒット曲も懐メロ化しているなか、クイーンの音楽だけが、いまなお現在世界中の多くの人達によって歌われ、世代を越えて聴かれ継がれ、若い人達にとっても自分の世代の音楽のような新しさをもって体験されている。
 あの時代の音楽で、クイーンだけが生き残ったのだ。彼らはあのスター達のなかの、オンリーワンだったことを、ポップスの歴史は示した。
 クイーンがそういう特殊なバンドであったことは、いろいろな理由が考えつくわけだが、理屈とか理論ぬきに、映画でラストのコンサート20分を観れば、その理由が容易に分かる。
 要するに彼らの音楽がとても魅力的だったのだ。結局それに尽きる。そしてそのことを、映画館のなかで、ライブそのものの臨場感あふれる大画面で観れば、それが全身の全感覚を通して、感動をもって伝わってくる。

 私はクイーンのライブを観たことはなく、それは私の人生の後悔の一つだけど、おそらくはそのライブと同等の迫真性をもつステージショーを再現して見せてくれたこの映画に、私は深く感謝する。

 ……………………………

 映画:ボヘミアンラプソディ →公式ホームページ

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September 19, 2018

ミュージカル:レ・ミゼラブル@クイーンズ劇場

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 ピカデリーサーカス駅を出ると、そこはミュージカルの聖地ウエスト・エンド。数多くの劇場が立ち並び、そこでいくつものミュージカルが開催されている。
 今回の目的の一つはクイーンズ劇場での「レ・ミゼラブル」。この高名なミュージカルが最初に演奏された地での、まさに本場の演奏であり、さらにはオリジナルの演出で行われているのは、今ではロンドンだけなので、それも楽しみにしていた。

 ロンドンの劇場は、歴史のあるものが多く、それゆえ規模が小さく、また設備も古い、ということになりがちであり、クイーンズ劇場はまさにその典型であって、ずいぶんとこじんまりとした、そして音響がややこもりがちの施設であったけれど、それが幸いして、音のリアル感が強く、演奏が進むにつれ、舞台と観客とが一体化したような迫力あるミュージカルを経験できた。

 役者については、世界中からこれを目当てに人が集う演目に選ばれただけあって、どの人も歌が上手く、また演技も立派であった。
 とりわけ良かったのが、ヤング・コゼット。
 コゼットって、レミゼのなかでは、少女時代で役割が終わっていて、成長してからはマリウスの恋人としての脇役的立場しか与えられていない、さして劇中重きを置かれていない役なんだけど、コゼットを歌った役者がじつに素晴らしく、まさに天使のような美しい声で、情感豊かに各パートを歌うものだから、彼女が歌いだすと、舞台の雰囲気が一変して、明るく、幸せあふれるものになり、舞台を支配してしまう。
 観ていて、コゼットって、こんなに重要な役だったのかあ、とか思ってしまった。
 そしてそれで何が起きるかというと、マリウスとコゼットのかけあいの歌のところ、彼らが愛の二重唱を歌うところは、たいてい片思いのエポニーヌが絡んできて、「なんて私は惨めなんだろう」「私って何というつまらない人生を送ってるんだろう」と哀切なる心情を歌い、それが観客の心に痛切に突き刺さるわけだが、この舞台ではコゼットがあまりに良すぎて、カップルの幸せオーラが強すぎるため、エポニーヌの歌が二人の歌に割り込むと、観客としては、つい、「エポニーヌ、お前じゃま」とかひどいことを思ってしまう。
 ああ、なんて可哀相なエポニーヌ。

 とはいえ、エポニーヌって「徹底的に可哀相な存在」なのだから、これはこれでいいのかもしれない。だからこそ、エポニーヌの最後のところ、傍目には悲惨であるけど、しかし彼女なりの幸せをつかむところが、より印象的、感動的になったし。

 それやこれやで、観て聞いて、いろいろな新発見もあり、そして改めてこのミュージカルの偉大さも知り、たいへん充実した時間を過ごせた。

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September 01, 2018

ミュージカル:オペラ座の怪人@ケンヒル版

Phantom

 東京に行く用事があり、そのついでに何か面白そうなコンサートはないかなと探したところ、渋谷ヒカリエでの開演のミュージカル「オペラ座の怪人(ケンヒル版)」を見つけた。「オペラ座の怪人」、といえばもちろん天才アンドリュー・ロイド・ウェーバーによるものが有名だけど、それより先につくられたケンヒル版もなかなかの傑作との説明があり、それではと行ってみることにした。

 オペラ座の怪人については、私はウェーバー版と、ルルーの原作しか知らず、ケンヒル版については何の予備知識もないまま観てみたが、たいへん面白かった。

 劇の筋については、前半はほぼ原作に準拠したもの。
 有名なウェーバー版は、じつはけっこう原作と異なっている。
 ウェーバー版での主人公ファントムは、容姿にやや難はあるものの、極めて優れた音楽の才能の持ち主で、さらには演出、歌、演技、そして教育でも名人である。彼はその能力を十二分に生かして、若い魅力的な歌手をスター歌手に育てあげ、そして愛人にしてしまう。そしてやがてその愛人の歌唱力と容色が衰えると、彼女を捨て去り、また他の若い女性を同様に育てて愛人にする、ということを繰り返す、なんともけしからん男であり、まさに作曲者自身をモデルにしているかのような、まあそういう「人間味のある」怪人である。
 しかし、ケンヒル版のファントムは、芸術面では圧倒的な才能の持ち主であることは変わりないが、人格画はまったく「非人間的」としかいいようがなく、己の欲のまま妄執に囚われ無慈悲な行動を続けるモンスターであって、その行動が様々な悲劇を起こしていく。

 そういうファントムが主役となって筋を進めて行くので、このミュージカルは陰惨な物語になると思いきや、ファントム以外の登場人物は、歌姫クリスティーヌを除いては、みな変人そろいであり、彼らのやりとりは始終コミカルなものとなり、ファントムの毒が彼らによって中和される、なんとも微妙なダークコメディとなっている。そして、そこで流れる音楽は、どれも美しく、舞台の美しさもあいまって、全体的にはファンタジックな雰囲気に満ちている。

 そうして、今回のミュージカル、肝心の役者の演技と歌が、これがまた高いレベルのものであった。まあ、主役にジョン・オーェン=ジョーンズみたいなミュージカル界の大スターを招聘しているくらいなので、それは予想できていたことだが、彼のみならず、出演者たち全体のレベルが高く、アンサンブルも見事なもので、とても素晴らしいミュージカルとなっていた。

 この「オペラ座の怪人」。ウェーバー版のかげに隠れてあまり知られることないミュージカルだが、まったくアプローチの違う、そしてとても個性的なものであって、観てとても得をした気分になった。

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July 10, 2018

音楽:N響宮崎公演

Ns


 未曽有の大水害が西日本を襲い、各種主要交通機関が不通になっている状況、はたしてN響公演は予定通りに行われるのだろうかと思っていたが、ネットで確認すると、普通に公演は行われるとのことで宮崎市へ。

 そして、そこで知ったのだが、N響は九州公演のツアー中で、7日(土)鳥栖市→8日(日)→大分市→10日(火)宮崎市と移動しており、うまいぐあいに災害の少ないところを通りぬけて宮崎まで到達したのであった。

 演奏会は、最初の曲は、プログラムを変更して、大水害へ被災者への祈りのために、チャイコフスキーの静かな美しい小品から開始。

 メインの曲は、ショスタコーヴィッチの交響曲第五番。
 この、作成に関して複雑な背景のある、高名な曲は、いろいろな解釈はできるのだろうが、普通に聞いているかぎり、全体的に重苦しい、出口のないような、圧迫感をずっと感じる。弦も、管もその圧迫に対する、嘆きや憤りや怒りといった負の感情を常に響かせている。
 そして最終楽章にいたって曲調は一変し、「その圧迫感、閉塞感を打ち破るかのように、あらゆる楽器が、勝利の歓喜の響きをあげて咆哮し、曲は堂々と幕を閉じる」という解釈から、この曲に「革命」なる副題が、だいぶと昔に我が国でつけられたのではある。
 じつは、それはけっこう無茶な解釈ではあって、ほんとのところ曲調はまったく変わってはいず、その歓喜の音楽も、「人間は絶望に沈んでいても、権力者が強制的に笑えといえば、笑うものだ」という手の、強いられた「歓喜」にしか解釈はできず、まあなんというか、救いのない音楽なのである。
 ソヴィエトという国家が成り立ち、スターリンの粛清が凄惨を極めていた時代、20世紀で最も優れた音楽家の一人の、蹂躙された精神の劇という、ある意味時代の生き証人ともいえる曲である。

 プログラム全体は、ロシア音楽によるもので、メインのショスタコーヴィッチの曲の前座として、チャイコフスキーのチェロ協奏曲風の管弦楽曲が奏でられた。
 チャイコフスキーの生きた帝政ロシアの時代は、決してのどかな時代ではなかったのであるが、それでもソヴィエトの頃に比べると、数千万倍は、人間にとって生きやすい時代であったんだろうなあ、と思えてしまう、のびのびとした、軽やかで、花やかな、気持ちのよい音楽であった。

 そんなこんなで、いろいろと考えること多きプログラムであったけど、なにはともあれ生で鳴るN響の音はやっぱり素晴らしいもので、このような美しい音を、見事な音響効果を持つホールで聞くのは、すばらしき喜びである。

 観衆の大満足の拍手のなか、しかし指揮者は、アンコールには応えずあっさりと舞台から去った。
 少々残念ではあるが、翌日鹿児島、翌々日熊本というハードスケジュールでは、それもやむをえまい。N響って、過酷な日々を送っているということを、今回スケジュール表を見て初めて知った。

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May 13, 2018

宮崎国際音楽祭:蝶々夫人

Buterfly

 
 春の宮崎の音楽一大イベント、宮崎国際音楽祭。最終日は、プッチーニの「蝶々夫人」。
 タイトルロールは、世界で活躍している中村恵里さん。
 私は、新国立劇場でのスザンナを観て以来の、中村さんのファンなので、彼女の歌を聞くのを楽しみにしていた。

 1904年に作曲された「蝶々夫人」は、日本が自身で文化を発信できる力を持つようになるまで、欧米で日本を紹介する有名な文化作品はこれしかなく、「蝶々夫人」で日本を初めて知った、あるいはそれのみでしか日本を知らないという欧米人がたくさんいた、そういう文化史的に重要な作品である。
 しかしながら、いざ日本人がこのオペラを観ると、ヤマほど突っ込みどころがあり、それらの場面では「ひょっとしてこれはギャクなのか?」という思いにどうしてもかられ、せっかくの美しい音楽に集中できない、という困った現象も生じがちな問題作品である。

 さらには音楽的にも問題がある。主役蝶々さんの歌は、「太めの力強い」声質を持つソプラノ、リリコスピントが要される。その手の歌手は大柄で、体重も多めのことが多い。
 そして蝶々さんは、数あまたあるオペラのなかで、一流劇場で主役を普通に日本人歌手が歌うことができる唯一の役であるが、体型的に華奢な日本人がこの役を歌うにはいろいろと無理があり、作曲家プッチーニには、日本人に対してなんらかの誤解があったとしか思えない。

 中村さんは典型的なリリックソプラノなので声質は合ってはいないだろうから、さて蝶々夫人にはどのようなアプローチをするのだろうと思っていたのだが、いざ始まってみると、なにしろ表現力の豊かな人なので、自己のものに完全に取り込んだ、とても説得力がある歌であった。
 そして、よくよく考えれば蝶々さんって、15歳の愛らしい乙女なんだから、ああいう澄んだ、爽やかな声のほうがかえっていいのでは、とか思ってしまった。
 蝶々さんは舞台にでずっぱりで、声に負担の大きい役なのだけど、第一幕、第二幕、第三幕と進むにつれ、歌のテンションはギアをあげていき、見事な盛り上がりをみせて幕となった。
 素晴らしい声、素晴らしい歌であった。

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