音楽

June 17, 2017

オペラ:ジークフリート@新国立劇場

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 ワグナー作の「ジークフリート」は、大変楽しく面白い劇である。
 主神ヴォータンの血をひく英雄ジークフリートは孤児として生まれ、森のなかでニーベルング族のミーメに育てられていた。ミーメはラインの宝を守っている巨人族のファフナーから宝を奪うためという目的のみに、ジークフリートを育てていたため、ジークフリートはまともな教育を受けていなかった。本能のみで育ったようなため、己の怪力自慢の暴君に育ち、成人してからは養父ミーメも手がつけられない。ジークフリートはミーメを疎んじ、腕の良い鍛冶職人であるはずのミーメが鍛錬した刀をすべてへし折り、そしてミーメが所有していた折れた名剣ノートゥングを自ら鍛え直し、この名剣を持って森から出ていくと宣言する。
 ミーメはせめてファフナーは退治してもらいたく、ジークフリートをファフナーの住む洞窟の近くまで連れて行く。そしてそこで大蛇に化けたファフナーとジークフリートの諍いが始まり、ジークフリートはノートゥングでファフナーを切り斃す。そこでジークフリートは世界を支配できる力を持つ指輪を手に入れる。それを横取りしょうとしたミーメをついでに切って捨て、ジークフリートは小鳥の声に導かれ、妻を求めて旅に出る。目的地は、戦乙女ブリュンヒルデが眠る、炎で囲まれた岩山である。
 そこは主神ヴォータンが守っておりジークフリートの行く手を阻む。ヴォータンの武器である槍は世界で最も強力な武器のはずだった。しかしジークフリートはヴォータンの槍をノートゥングで折ってヴォータンを退かせる。
 何人の侵入も許さなかった炎もジークフリートを拒むことはできず、炎を突破したジークフリートは至高の美女ブリュンヒルデを得て、二人の歓声のうちに舞台は幕となる。

 ジークフリートはとにかく強く、そして思慮も分別もない脳筋男なので、なんでもやりたい放題、己の道を突き進み、欲しいものを全て得ていく。シンプルにしてストレートな英雄譚。いちいち難しいことは考えずに筋を追うことができる。
 そしてジークフリートは、舞台はずっと出ずっぱりで、咆哮のような強いテノールで歌いっぱなしであり、5時間近い舞台を一人で支配するという、過酷な役である。それゆえ「ジークフリート」は本格的な公演の実現が困難なことで知られている。これは作曲者ワーグナーの作劇法に問題があった、というふうに誤解されがちだが、じつはワーグナーの時代にはそれを歌える歌手はふつうに居たので、ワーグナーは悪くない。なにより現代音楽界の、人気歌手を消耗させ、育つまでに使い切ってしまうシステムに問題がある。

 それはともかく、ジークフリートを歌える歌手がいない、というのは何十年も前からのオペラ界の深刻な問題であった。しかしひさしぶりに本格的な力強い声を持つヘルデンテナー、ステファン・グールドが現れた。
 私は前回の「ワルキューレ」で彼のジークムントを聞き、これぞヘルデンテナーと感心して、今回のジークフリートを楽しみにしていた。
 そして一幕から終幕までずっと飛ばしっぱなし、ハイテンションの彼の素晴らしい声を聞くことができ、ほぼ理想に近いジークフリートを聞くことができ、感銘を受けた。

 さらには、そのほかの歌手の出来もよく、劇全体としても高水準のものになっていた。日本でこのような素晴らしいワーグナーの演奏を経験でき、たいへん満足した夜であった。

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October 30, 2016

ブルックナー第七交響曲@プロムシュテット指揮バンベルク交響楽団

Miyazaki

 名指揮者プロムシュッテットによるブルックナーの第七交響曲が宮崎市のアイザックスターンホールで演奏されるので、行ってきた。
 公演の演目は「未完成交響曲」と「ブルックナー」の組み合わせ。なんだか微妙な組み合わせであり、この二つの曲の愛好者はあんまり重ならないと思う。
 ・・・おそらくは今回の演奏会では、ブルックナーが演奏の本命なのだが、しかしそれだけだと客が集まらないだろうから、よりポピュラーな「未完成」を主催者がつけ加えたとみた。
 「未完成」は日本で人気のある曲であり、昔のLPって、とにかくA面あるいはB面に「未完成」入れときゃ、それなりに売れたという時代があったわけだし。

 開演。
 まずはシューベルトの「未完成」。
 この曲、旋律は美しいとは思うけど、流れが悪いのでどうにも好きになれない。
 美しい旋律が流れ、それが情緒を高めて行くと、急にジャ・ジャーンとその流れを妨げる音楽が入り、それからやり直し。またクライマックスに近づくと、同じく邪魔する音楽が入り、ずっとその繰り返しであり、イライラすることこのうえない。
 シューベルトには美しい旋律をつくる才能はあったが、交響曲を組み立てる才能はなかったのだと思いたくなるが、でも「グレイト」みたいな傑作もつくっているし、どうにもよく分からない。
 聴きながらいろいろと、才能の無駄使いとか、感性の違いとか考えているうちに「未完成」は終了。

 そして20分間の休憩ののち、ブルックナー第七開演。
 静かな弦のトレロモから始まり、雄大な第一主題が流れると、一挙にブルックナーの世界に引き込まれる。神秘的で、思索的で、祈りに満ちた第一章、この壮大で深遠な世界は、オーケストという巨大な楽器のみが奏でられるものであり、ずっとその世界にひたることができた。
 バンベルク交響楽団は、LP、CDのみならず、私がそれを聴いたのは今回が初めてなのだが、中、低音楽器が特に充実しており、こういうふうな重厚な音楽を演じるにふさわしい楽団だったと思う。
 なかでもチェロの演奏者達は大活躍。首席奏者は顔を真っ赤にして、懸命に弓を引き、「未完成」のときとはうってかわっての大違いの気迫の入り方であった。

 この曲のメインである第二楽章も演奏は快調。ホルン、チューバが時々盛大に音を外していたのは御愛嬌として、音の流れは良く、クライマックスに向けてどんどん緊張感を高めて行き、見事な盛り上がりをみせた。(クライマックスでシンバルが鳴らなかったのは個人的にはちょっと残念だった。原典版にないのは知っているが、あれ、私好きなのである。)

 第三、第四楽章は、スピード感が見事。とりわけ、フルート奏者は踊るように演奏していて、それがこの楽章の舞踏感とうまくマッチしていて、見て、聴いて楽しかった。
 第四楽章、混乱ある秩序のうちに、盛大にフィナーレを迎え、見事に着地。
 観客の大拍手に、齢89才というプロムシュテット氏が、何度も舞台に出てきて、歓声に応える。

 素晴らしい演奏であった。
 遠きドイツの地から、宮崎の地に、本場の音楽を持ってきてくれておおいに感謝いたします。

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October 15, 2016

楽劇 ワルキューレ@新国立劇場

Photo

 上演に4日間かかる壮大な舞台音楽芸術「ニーベルングの指輪」。「ワルキューレ」はその第二日目の作品である。
 序幕に当たる第一日目の楽劇「ラインの黄金」では、栄華を誇っている神々の世界が終わりに近づいていることを予感した神々の長ヴォータンが、それに抗って色々と策略をめぐらす話である。ヴォータンは懸命に頑張ってはいるのだけど、結局彼は有限不実行、言うことはコロコロ変わり、約束はまったく守らない、どうしょうもないやつということのみ分かって一日目の幕は終わり、そうして第二日目に入る。

 「ワルキューレ」もその流れであり、ここでもヴォータンが策略をめぐらす。
 ヴォータンは神々の没落を防ぐために神々を補佐する者たちを得ようとして、人間と交わり我が子を産ませる。その子たちは双子であった。しかしヴォータンは我が子を育てる努力はせずに、悪名のみふりまいたのち勝手に離れ彼らは辛酸極まる人生を送る。その双子のうち、兄のジークムントは一匹狼として、野獣のごとき人生を生き、強い男として成長はする。
 妹のジークリンデは、ジークムントの元の部族の敵である一族の長と結婚させられ、不遇の日々を送っていた。 ある日フンディングの地に立ち入ったジークムントはそこで狩りの対象として追われ、ジークリンデの住む家に迷い込む。そこで二人は運命的な出会いをして、一瞬で互いに一目ぼれして逃亡する。
 それを天空で見ていたヴォータンは、自分の待っていた英雄がいよいよ出現してきたことに喜び、愛娘ブリュンヒルデを呼びよせ、二人の逃避行を助け、ジークムントに勝利を与えるよう命令する。ところがここでヴォータンの妻フリッカが登場し、正式に婚姻した夫婦から妻を奪い、さらにはその妻が実の妹なのに結婚をするという、不道徳極まりない行為を神が許すとは、神々の掟を何と思っているのか、いいかげんにしろと罵る。もともと夫の浮気ぶりに業を煮やしていたフリッカだけあって怒りも凄絶である。己が正妻のその剣幕に畏れをなしてヴォータンはブリュンヒルデへの命令を撤回し、不倫の主ジークムントの死を命ずる。
 主神のくせにこの優柔不断さ、右往左往ぶりは、前作で示されていたこととはいえ、情けない。そして、またヴォータンは神としてのみならず、夫、親としても最低のやつということが分かる。
 とにかくここから、ヴォータンの無能さを原因とした、第四作「神々の黄昏」終幕までいたる「ヴォータン一家の家庭騒動」が始める。

 ・・・まあ、つまらん話である。
 ヴァグナーの楽劇は台本だけ読むと、どれもじつにつまらないし、退屈きわまりなく、まともに読めたものではない。
 しかしだ、これがヴァグナーの音楽が鳴り出すと、この台本がとんでもない説得力に満ちた、迫力あふれたものになって迫って来る。

 ヴォータンのあの台本だけでは下らないと思えた台詞は、世界の悲劇を一身に背負い、苦悩にひしがれながら、救済の道を求める男の、崇高で真摯な言葉に変化する。
 ジークムントの荒々しい情熱、ジークリンデの悲哀、歓喜、フンディングの重厚さ、登場人物全てが、芸術史上のページに残るべく芸術性を持った者であることが、楽劇を聞いていると、ほんとうに実感できる。そしてこれらの音楽に飲み込まれているうち、「ヴォータン一家の家庭騒動」が、じつは世界そのものの憎悪、激情、絶望、愛情、全てのものと連動し、一体化した壮大な劇となってくるのがみえてくる。


 ヴァグナーの楽劇は観ると、とにかく圧倒される。
 ここで鳴る音楽は、人生、世界の全てが凝集、象徴されたもののように思われ、それが流れているあいだ、そこには世界の根幹を示す何か重要なものが次々に示されているような、そういう感覚を覚える。
 まあ、それがヴァグナーの麻薬性とか、詐欺師性とか、19世紀からずっと言われてきたわけなんだけど、やはりここまで人の精神を震撼させる芸術が厳として存在することを目のあたりにすると、人間の出来ることは天井知らずということも分かってしまう。

 そして、そのとんでもない楽譜・台本を、見事に舞台芸術として実現できた演奏者には感心するしかない。
 まったく今回の演奏の出演者たちは、素晴らしいレベルの者ばかりであった。
 まず第一幕目のジークムントとジークリンデを演じた、ステファン・グールドとジョゼフィーネ・ウェーバーの歌唱からしてたまげた。劇場の空間を満たす迫力ある輝かしい歌唱。ヴァグナーを演じるにふさわしい見事なヘルデンテナーとドラマチックソプラノであった。
 タイトルロールを演じたイレーネ・テオリンも天を駆ける戦乙女らしい張りのある見事な美声。それは神々しく、雄々しく、かつ可憐なところも見せ、とても印象的であった。
 ただ欲を言わせていただければ、主役級ソプラノ二人がビア樽体型で、見た目をもう少しなんとかしてほしかったということがあるが、これは美声を発する発声器として、そういう肉体が理想ということなのだろう。(歴代のドラマチックソプラノも大半はそうだし。)

 ゲッツ・フリードリヒの演出も控えめながら奥深いもので、音楽を主役としながらも、いろいろ考えさせるものがあり、よかったと思う。
 飯守泰次郎氏の指揮も安定したもので、安心して聴けた。東京フィルハーモニーは弦楽器が秀逸。よく鳴り、よく歌っていた。


 ヴァグナーの楽劇は、尽きることなき音楽の魅力の泉である。
 その真髄を日本でみせてくれた、この上演に感謝。30年以上のヴァグネリアンとして、ほんとうに心からそう思う。

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August 27, 2016

和食:きじの松田屋@菊池市

 暑いなか不動岩を登り、下山後は菊池温泉に泊まり、気持ちのよい風呂に入って登山(というか暑さ)の疲れを癒す。
 夕食はどうするかといえば、菊池には「きじの松田屋」という雉料理の名店があることが知られており、今まで訪れる機会がなかったので、行ってみることにした。

 「きじの松田屋」は、雉を育てながら料理店を経営しているので、山のなかにあり、菊池市から阿蘇外輪山方向に向かい7kmほどをタクシーで行く必要がある。
 そして着いてみれば、菊池川源流に近き地ゆえ、自然豊かなところにあり、その高台にあるので、周囲の雑木林や田圃を一望することができる。

【店からの風景】
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 料理は雉をいろいろな調理法で楽しめるフルコースを頼んでみた。

【料理】
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 雉という食材、私は今までジビエでしか食ったことはないのでその印象が強く、この店の雉はあの独特のクセのあるものかと思ったら、とても素直で上品な味のものであった。
 それゆえジビエ料理的なもの、あるいは地鶏的なもの-宮崎の地頭鶏や熊本の天草大王みたいな濃厚系な味を持つものを期待しておくと、ちょいと肩すかしを食うと思うけど、(私がくらったのだけど)、これが食べ進むうち、だんだんとその旨みの深みが分かってきて、雉という食材の素晴らしさをおおいに知ることができた。
 雉のタタキはまずは雉という食材をストレートに味わせてくれる。そしてそれを溶岩焼きにすると(いわゆる焼鳥)、雉の脂がとてもすっきりした純粋なものなので、これを合わせて肉を焼きあげると、雉肉の澄んだ旨みがよく分かり、それでいくらでも食える気になる。
 鍋は雉の骨をしっかりと煮込んだ出汁で食う。溶岩焼き同様に、その美味い出汁に包まれたあっさりした味の雉がさらに旨みを深め、これもいくらでも食べる気になれる。

 フルコース、大満足の料理であった。
 この店はかなり不便なところにあるので、訪れるのが大変なのであるが、それでも遠方から客がよく訪れる、その理由がよく分かりました。

 もっとも、「雉はあっさり系統の肉なので、いくらで食べられる」とは書いたが、この店では写真に示すように肉は最初から多量に出すし、それに追加もあるので、全部食べるのはかなり困難ではある。
 それゆえ私は残念ながら少量を残してしまったのだが、でも、その余りは新鮮なまま、この店の番をしている名犬ルパンの餌となり、それを食しているルパン号の嬉しそうな鳴き声を聞くことができ、・・・なんかうれしかった。

【名犬 ルパン@店主ブログより】
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 「きじの松田屋」店主は熊本で大企業に勤めていたのであるが、田舎で自由きままに農業をやりたいという希望強く、その夢を実現するために早期退職をして、それから熊本中探して、この菊池の水源近き地を理想の地として見出し、今までの資産をこれに費やして購入した。
 そして雑木林を開拓して、男手一本で田圃、柿林を造り、さらには雉の養雉も行い、雉を全国に配送するかたわら、ついには雉料理店も開店し、そのレベルの高さから、食べ物好きな人たちが遠方から訪れるという、サクセスストーリーを築きあげた。
 そのテンション、エネルギーに高さにはほとほと感心するしかなく、食事をしながら店主の話を聞くと、それだけで元気をもらった気分になれます。

 このようなエネルギー、そういう力は遺伝するらしく、店主の息子が阿蘇の産山で熊本赤牛を出す民宿を経営してるそうで紹介を受けた。そこもまたぜひ訪れてみたい。

 ……………………………

 きじの松田屋→HP
 産山の赤牛の店:「山の里」→HP

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February 28, 2016

オペラ: シモン・ボッカネグラ@ヴェルディ作曲

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 今回訪れた香港音楽祭でのメインの目的。
 席に着くと、最前列である。
 「オペラはなるだけ前の席で見るべきである」との幹事氏の主義により、毎年この音楽祭のオペラは最前列である。予約時には、おおざっぱな座席指定しかできないはずなのだが、そこは幹事氏の交渉力でなんとかなっている。でも、国際電話で、英語を使って、そういうけっこうややこしそうな交渉をやるって、どう考えても大変なことである。そのことに感心すると同時に、感謝することしきり。まあ、幹事氏はそういう系の仕事のプロなんだが、やっぱりプロってたいしたものだ。

 オペラは、中世期のイタリアの都市国家ジェノバを舞台にした、政争劇+家庭劇。
 主人公のシモン・ボッカネグラは、海賊の親分にして、ジェノバ共和国の初代総督、悲恋の当事者であり、生き別れの娘の庇護者、といろいろな役割を持っていて、それらの役割に個性的な人物がからみ、複雑な筋となっている。
 ヴェルディのオペラは、だいたい脚本がしっかりしているが、このオペラもそうであり、劇の部分だけ観ていても面白い。そして曲もヴェルディの円熟期のものだけあって、どの場面でもそれにふさわしい音楽が流れていた。

 アバドの指揮も、元気のよい、リズム良く、伸びやかな音が鳴っていて、イタリアオペラにふさわしい演奏であった。

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February 27, 2016

ガラコンサート:ロベルト・アバド指揮 トリノ王立歌劇場管弦楽団

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 今回の香港音楽祭のメインは、トリノトリノ王立歌劇場管弦楽団を率いてのアバドのヴェルディのオペラ「シモン・ボッカネグラ」。
 その前日にガラコンサートが開かれた。
 演目は前半がヴェルディの歌劇からの抜粋。後半はヴァグナーの楽劇からの抜粋であった。

 この指揮者、ナマを聞くのは初めてであったが、たいへんリズミカルで、ノリのよい、快調な、それこそ「いかにもイタリア」という演奏をする。そのスタイルがヴェルディの曲によくあっていて、前半のプログラムはたいへん楽しめた。
 ただし、後半のヴァグナーをそのノリのままでいったら、どうにも違和感ありまくりになってしまうのではないかとも思った。プログラムは、「さまよえるオランダ人序曲と水夫の合唱」「パルシファル 聖金曜日の音楽」「タンホイザー序曲 巡礼の合唱」の3曲である。

 後半はオランダ人序曲から始まった。そして、演奏スタイルは前半同様であった。
 軽く、優しく、快調なテンポで、あの呪われた船長の物語が語られていく。うーむ、と最初のうちは当惑したが、だんだんと面白く感じられてきた。あの北の海を描写した、荒れ狂う波濤のうねりが押し寄せて来る情景が、アバドが棒を振ると、まるで南国の、波は高いけど、透明で、光に満ちた美しい海の情景になり、そこを走る船は、スポーティな快遊艇である。聞いてて心地よく感じられ、これはこれでありと思えた。タンホイザー序曲も同様であり、そこにドイツ式の金管群の暗い咆哮はなく、リズミカルな若者たちの元気溌剌な行進曲のような、元とはベツモノになっていた。
 そうして、一番の問題になると思われたパルシファル、これがじつはたいへん良かった。
 パルシファルは、「音楽家が、音楽の枠を超えて、宗教をも創造した」という、音楽史上の特異な曲であり、そこにはヴァグナー教祖による、独特の宗教観が濃厚に詰め込まれている。だからこの曲を演奏する場合は、どうしてもヴァグナー教の宗教儀式みたいになりがちなのだが、アバド流の演奏では、そういう宗教的背景はいっさい取り払われ、音楽がナマの姿で光のもとにさらされて、じつに明快に演奏される。まるで室内楽のように、一つ一つの楽器の音が明瞭に鳴らされ、そしてスムーズに流れて行く。そうなるとですね、これが美しいのである。パルシファルってこんなに旋律が美しく、楽器も美しく鳴る曲って、初めて知った。聖金曜日のテーマを奏でる管楽器のリレーのところは、ただただひたすらに美しく、私は、感動いたしました。
 まあ、あとでの皆での雑談のとき、クラシカルなヴァグナー好みの人の意見は、「やっぱり、あれはダメ」とのことであったが。


 アバドは指揮姿も優雅であり、まるで踊るかのように全身を使って指揮をしており、こういう指揮だからこそ、ああいう流れのよい音楽が作れるのかと思い、聞いても良し、眺めても良しの、素晴らしい指揮者であった。

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December 25, 2015

ギエム引退公演@福岡市

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 ギエムが今年で引退するとの声明を行ったが、その今年いっぱいである2015年の年末に日本で公演を行うとの発表がされ、そのなかに福岡が入っていたので、発売と同時にチケットをゲットし、本日に臨んだ。

 公演で踊るギエムの演目はコンテンポラリーの「two」と、それに「ボレロ」。
 ボレロに関しては、以前の熊本公演でも福岡公演でも観ており、(地方だとボレロやらないと集客が稼げないという事情があるみたい)、ボレロはもういいやという気もしないでもなかったのだが、なにはともあれギエムの踊りが見られるのなら演目はなんでもいいのではあり、その日はこれで最後に観ることになるギエムの踊りを真摯に観ていた。

 とてもよかった。

 そしてもういいやと思っていたボレロであるが、それでも闇のなかからギエムの手がスポットライトに浮かび出る最初から、ずっとその世界に没頭させられた。
 一人の踊り手が静と闇の世界から現れ、孤独なまま無心に踊るうち、その踊りは徐々に熱を帯びて感情を盛り上げて行き、周りの踊り手を、そして観客をも、その情熱に引き入れて、やがて光と狂乱と歓喜の世界へと巻きこんでいく。圧倒的な踊り手にのみ許された、闇と光の祭典劇。
 これを踊るにはまずは卓越した技術がいる。ギエムはもちろんその技術を持っているけれど、ただ、以前に比べると明らかに跳躍力は減じており、あの空中でポーズがコマ送りのような感じで決まる、超人的な芸は今度は見ることができなかった。
 それでも、ボレロというダンス、そしてダンスの器の会場を支配するカリスマは圧倒的であり、要所要所のポーズがじつによく決まっている。その踊り、ポーズはギエムそのものであり、そしてギエムの人生そのものなのである。その途方もない芸、一人の超人的ダンサーが、とんでもない努力をして築きあげたダンスが、福岡サンパレスの劇場の空間に、深く強く刻まれていく姿に、今の時代に生でこういうものが見られる幸せがただただ嬉しかった。

 ボレロが終わったのちは、会場全体のスタンディングオベーション。そしていつまでも止むことのない拍手の嵐。カーテンコールに幾度も現れる半泣きのギエム。
 ギエムの公演でこんなに盛り上がっていたのは初めての経験だけど、盛り上がるのは当たり前の、素晴らしい燃焼度のギエムの踊りであった。

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May 17, 2015

トゥーランドット@宮崎市国際音楽祭2015

 宮崎市の毎年恒例の一大イベント、国際音楽祭。今年のトリは「トゥーランドット」である。このオペラ、一度はナマの大音量の演奏で聞きたかったでの、行ってみた。

 トゥーランドットのあらすじ。

 遥か昔、支那の歴代帝国のうちのどれかの帝国の首都北京を舞台にしての物語。
 善政を行ってきた皇帝には跡取りは一人しかいなかった。その唯一の跡取りの王女トゥーランドットは、世継ぎのために養子をとらねばならず、結婚を強いられているが、姫は男性恐怖症であり結婚などしたくない。それで先祖の呪いとかなんとか理由をこじつけて、婿探しを先のばしている。それでも婿を取る義務ある身ゆえ結婚へのプレッシャーは強く、それで婿選びはするものの、伴侶となる者には過酷な条件を課した。それは伴侶となる者は王女の出す3つの謎を解かねばならない、そしてその謎が解けなければ問答無用で首をはねるという超ハイリスクな婿トライ。そんな命がけのチャレンジ、誰がするんだいと思いきや、美貌の姫と皇位を同時にGetできるという機会は貴重のようで、それに挑む若者は次々と現れる。しかし姫の謎は難解であり、皆失敗して、毎年毎年多数の若者の首をはねられていき、それを王女が冷酷に見据える光景が北京の日常茶飯事になっていた。

 ある時、たまたまこの国を訪れた韃靼国の王子カラフは、処刑の場に現れたトゥーランドットを見て、その類まれなる美貌に一目ぼれして、彼女を得るために、命を懸けた3つの謎にチャレンジするこを決意した。

 周囲の者たち、-王子の父、それから皇帝、大臣たちは、「命は大事にしなさい」と懸命に忠告をするのだが、一目ぼれの心の高揚の勢いのまま、カラフは3つの謎にチャレンジして、見事に解き明し、王女の伴侶の資格を得る。

 しかし、トゥーランドット姫は前言を翻し、求婚を激しく拒否する。父親の皇帝は「約束したのはお前だろ。ちゃんと守れ」と諭すものの、王女は断固として結婚を拒む。そして王子に対して「こんなに嫌がる娘を無理やりに嫁にして何が楽しい!」とそこだけ聞けば真っ当な、しかし今までの己の所業からすると極めて理不尽な抗議をする。

 王子は、しかし甘い人間であり、王女を哀れに思ったらしく、そこで、王女に半日の猶予を与える。「夜が明けるまでに自分の名前を知ることが出来たら、それで私は諦めて死のう」と。こんな異国で自分の名前を知る者などいるわけはなく、半日悶々と過ごせば王女も頭が冷えるであろうという企みだ。

 それでも結婚が嫌で嫌でたまらない王女は当然この提案に飛びつき、全市民にお触れを出す。
 「夜明けまでになんとかこの王子の名前を探せ。もしそれが出来なければ、みんなの首をはねる」

 ここ数年、人の首を狩ることに慣れ親しんだ王女は、このような非人道的、残酷なお触れも平気で出せるのである。

 事態は相当に複雑なことになってしまった。
 それまでは単に3つの問いに答えて、その結果で全てが決定するはずの求婚劇はいつのまにか何十万という人が住む北京市全体を巻き込んだ騒動になったのである。
 この事態を平穏に収め、そして王子が姫と結婚するためには、
 (1)自分の名前を秘密のままにする 
 (2)それでも市民の命を助ける 
 (3)氷の心を持つ姫の人間的な心の持ち主に変える 
 の3つの難問を同時に解く必要があり、舞台はその難題への対処方法を求めて進むと思いきや、そうではない。

 第3幕はその難題への対処の物語なのだが、そこで冒頭、有名なアリア「誰も寝てはならない」が王子によって歌われる。
 そこで、王子のきまぐれによる提案で恐怖の一夜を迎える羽目になった何十万という市民たちは、「王子の名前が分からないと自分たちは死ぬことになる。なんとかしてくれ」と王子への嘆願の大合唱をするのだが、肝心の王子はそれら哀れな市民を一顧だにせず、「誰も俺の名前など知らない。夜が明ければ自分の勝ちだ。それで自分は王女を得る。俺の勝ちだ(Vincerò!)、俺の勝利だ。びんちぇろ、びんちぇ~ろ!」と高々と歌い上げる。まことに天晴な外道っぷりである。

 アリア「誰も寝てはならない」は美しい旋律なので、その歌詞もロマンチックと思いきや、じつは相当にろくでもない内容なのではある。

 このサイコパス王女と外道王子の、奇っ怪な恋物語はどのように着地していくのだろうか。
 このままいけば、夜明けとともに大虐殺が行われ、何十万という市民たちが血まみれになって地に伏す北京の街を背景に、王宮のなか、嫌だ嫌だと泣き喚く王女を引きずって、強引に結婚式があげられるというようなフィナーレになりそうなものだが、いろいろと紆余曲折があって、そうして感動的なフィナーレを迎える。


 筋だけ書けば、乱暴な話なのだが、その乱暴さを音楽が支えているのが、トゥーランドットというオペラのいいところである。
 そしてサイコパス王女トゥーランドットの極端な性格を描出するには、相当な表現力を要し、これを歌う歌手は特殊な声量声質が必要とされるのであるが、今回招待された歌手シューイン・リーは、それを見事に歌いきっていたと思う。
 終幕、オーケストラがフルボリュームで演奏するなか、それに負けず、その高い声は、オーケストラを突き抜け、コンサートホール全体に響き渡り、トゥーランドットの世界を描ききっていた。
 とても良かったと思う。


 毎年行われている宮崎国際音楽祭、これからも面白い演目を繰り広げてくれることを期待しております。

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March 21, 2015

オペラ:皇帝の花嫁 リムスキー・コルサコフ作曲

 香港音楽祭の第三夜は、オペラ「皇帝の花嫁」。
 そんなものは知らん、という人が大多数であろう。私も事前にプログラムを見るまで、こういうオペラがこの世に存在することさえ知らなかった。
 ロシアの有名作曲家リムスキー・コルサコフの作曲によるもので、ロシアではけっこう有名なオペラだそうだ。しかしロシアのオペラ自体がマイナーな我が国では知名度はゼロに等しく、いまだに本邦では演奏されたことがない。どころか、アジア全体でも演奏されたことはなく、1899年にこの作品が作られて以来、100年以上経っての今回の香港での上演がアジア初演となるそうだ。そしてたぶん今回一回きりの演奏となるであろうから、ほとんど幻のような作品なのであり、これを生で見た経験のある人は極めて少ない。それゆえ見たことがなにかの自慢のタネになるかもしれない。

 このオペラ、事前にどんなものか調べておこうかと思い、CDをアマゾンで探したが、さすがマイナー曲だけあって、なにもなかった。ただしオペラを映画形式で撮ったDVDがあったので、それで一通り勉強しておいた。(半世紀前につくられたこの映画は、ロシアの風景が美しく撮られており、なかなかの逸品。ソ連という国は、政治と経済は出鱈目だったけど、芸術のレベルは高かったことを改めて認識。)

 劇場、最前列の席に座り、そして幕が開く。
 最初、DVDで聞いていたとおりのバリトンのアリアが始まる。そのあと、イワン・セルゲーヴィッチという若い男が紹介され、朗々たるテノールの歌声を響かせる。いかにも主役級の歌なのであるが、映画にはそのような人物は出ておらず、「誰だ、こいつ?」と思ったが、そのうちヒロインの婚約者と判明。映画のほうは時間内に収めるため、イワンの歌と出番をカットしまくっていたみたい。イワンの歌は良いものが多かったので、カットは残念であった。

 舞台の演出は変にモダンにいじったものではなく、帝政ロシア時代の建物、内装、風景、衣装をそのまま再現したものであり、演奏もいたってスタンダード。
 オペラの筋は、どろどろの愛憎劇であって、見ていて面白い。また音楽も分かりやすく、どれも美しい旋律のものであった。
 オペラというものは本来はさして高尚なものではなく、どころか民衆の娯楽として支持されていた。現代で言えば、人気テレビドラマに似たようなものであった。
 この「皇帝の花嫁」はまさにそういう感じで、いかにも「古き良き時代のオペラ」という感じであった。4時間近い上演、退屈することなくおおいに楽しめた。

 

 ところでこのオペラ、プログラムでは指揮はロジェストヴェンスキーであった。80歳を越えた大指揮者が、遠いアジアにまで演奏に来るのだと、その気力・体力に感心したけど、…夕方に体調を崩して演奏が出来なくなり、アシスタント指揮者の指揮に変更になったとの知らせがあった。がっかりすると同時に、しかたないかと少々納得もした。

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March 20, 2015

ドゥダメル演奏会:「シティノワール」「新世界より」@香港音楽祭

 ドゥダメル第二夜の一曲目は「シティノワール」。
 アメリカの作曲家ジョン・アダムスの現代曲である。香港音楽祭のプラグラムにこの曲が載っているのを見て、CDを聴いて事前準備はしたのであるが、CDを聴いた時点でさっぱり分からなかった。
 まあ、現代曲はバルトーク、ベルクあたりまではともかくシェーンベルク以後はさっぱり分からない私なので、CD聴いたところで分かることは期待していなかったけど、でもライブを見たら少しは分かるようになるであろうかとかも思いながら、ライブを聴いてみた。
 とにかく大量多種の楽器からなる大編成の曲。そして、パーカッション部隊は当たり前のことながら、管も弦も、旋律よりもリズムを重視して、そこから曲を造り上げる仕組み。旋律らしきものはサックス、その他の金管が単発的に吹き鳴らすだけ。下手すればてんでばらばらになりそうな曲なのであるが、各パートは高い完成度と、そしてバランス感を持って演奏しているので、全体の統一感は失われることなく、最後のクライマックスまで一塊となってなだれ込んでいく。
 指揮者と、そしてオーケストラの卓越した技術があって初めてこの世に音楽として存在できる、そういう曲であった。
 私にとっては一回ライブで聴けば十分な曲ではあるが、曲の構成がアクロバットなこともあり、これを聴くのはなかなかエキサイティングな経験であった。

 二曲目はドヴォルザークの「新世界より」。
 全く耳慣れぬ現代曲と、ある意味通俗的な「名曲」の組合わせは意図したものなのではあろう。
そして、たぶんドゥダメルにとって手慣れた演奏であった「シティノワール」のやり方は、そのままこの曲にも使われている。
 この曲で濃厚に漂う土俗的なメロディは、快適なテンポとリズムにより、颯爽かつ明瞭な旋律にとなり、たいへん流れよく進む。それゆえこの曲にまとっていたはずの民俗的雰囲気は削ぎ落とされ、曲本来の持っていた旋律の美というものが、単純化されて、鮮やかに見えてくる。
 それゆえ、そういう土俗的雰囲気が最も薄く、また元々リズミカルである第4楽章が、ドゥダメルの力量を存分に発揮すべき舞台となり、全体の仕上げのように、リズムの積み重ねがどんどん迫力を増していき、圧倒的フィナーレへとなだれ込む。

 昨日のマーラーから続けて、二日かけて、ここでようやく、指揮者+オーケストラの真の底力を見せつけたような、そういう怒涛のフィナーレであった。


 しかし、今夜の本番はじつはアンコールにあった。
 一曲目の「スラブ舞曲 終曲」は、指揮者もオーケストラの楽員も乗り乗りの、みんなソロでの演奏は、演奏しながら椅子から飛び上りそうな、あるいは踊りだしそうな、そういう音楽の自発的喜びがじかに感じられてくる、魅力あふれるものであった。
 そしてさらに観客の大拍手に促されての二曲目の曲も、舞曲のたぐい(知らない曲であった。香港の会場は、あとでアンコール曲名貼り出さないから不親切ではある)で、これも乗り乗り。終わったのち、また大拍手であったが、ドゥダメルはオーケスラのメンバーを讃えながらの喝采を求め、そしてさすがにここで終了となった。

 ドゥダメルは、昔の巨匠たちの演奏に慣れきった私のごとき者にとっては、深さとか荘厳さとか精神性とか、そういうあやふやなものについては、物足りないものはあるのだが、全体を盛り上げていくリズムの管理、そしてオケの慣らし方については抜群の腕を持っていることを実感した。
 日本にもよく訪れる指揮者なので、また機会があれば聴きに行ってみたいものだ。

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