イタリア

November 19, 2019

ティベリウス帝別荘(Villa Jovis)@カプリ島 探訪記

(1)政治システムについて
 人類は社会性生物であるため、地球上に出現した時点から社会を構築して生活している。そして社会全体を統治する手法―政治について、人類は様々なシステムを考案してきた。そのなかで最も効率のよいものは、有能な政治家がリーダーとなり、トップダウン式に物事を決めて行く、ということが判明している。このことは社会が困難な状況に面し、その解決にスピードが必要なときに特に顕著になる。合議制などを用いて、全体の意見の調整を行ってから解決を図るようなことをしていては、その間に社会が滅びてしまう、ということは普通にあり得るからだ。だから多くの国を巻き込む戦乱の時代には、有能なリーダーが一手に責任をもって率いる国が、最終的に生き残る、ということはよくある。

 この非常に効率的な政治システム、―独裁制は、しかし大きな弱点をいくつか持っていて、それゆえ長期の運営はかなりの困難を伴う。
 その最大の弱点は、一国を任せるに足る有能な政治家、そういう人間自体が極めて少数なことである。そのような人物は一国家においては、100年に一人か二人出ればいい、というのが人類の生物的限界と、歴史は教えている。それゆえ独裁制を登用した国家は、稀に出現する超優秀な人材を除き、大抵は「それなりに優秀」な人物をリーダーに据えることになるが、種々の事情で無能な人が選ばれることもまたあったりする。
 第二の弱点は、第一の弱点と密接に関係しているのだが、リーダーに権限を集中させているため、国家の命運がリーダーの資質によって容易に左右されてしまうことである。これは帝政なり絶対君主制なりの独裁制を用いた国家の歴史を読めば判然としており、そのような国は名君を擁したときは興隆するが、暗君がその座にあるときは存亡の危機に瀕し、たいていはリーダー交代のための内乱に突入する。
 これらに加え、その他いろいろと独裁政治には弱点があるのだが、それらは長くなるので省くことにする。

(2)ローマ帝政の樹立

 共和制ローマは約500年間共和制で政治を行い国民全体で政治を行っていたのだが、ポエニ戦争に勝利して地中海の覇者となり大国化すると、様々な政治問題が噴出して社会が不安定化した。そのためカエサルが台頭して、一時的に独裁制を敷いて社会のリストラクションを行っていた。ところが共和制の国家とは、独裁制に対するアレルギーが強く、カエサルは改革の半ばで暗殺されてしまい、その改革はいったん頓挫してしまった。

 カエサルの跡を継いだのが養子のアウグストゥスである。彼は熾烈な権力闘争を勝ち抜いて、最高権力者の座に着いた。しかしローマを治めるのに、そのまま独裁制に移行しては、まだまだ独裁制アレルギーが残っているなかでは、カエサル同様に暗殺されかねない。そこで彼はいったん権力を元老院(国会みたいなもの)に戻すと宣言し、しかし実権は握ったままで、徐々に元老院を無力化し、実質的な独裁制―帝政を一代で築きあげた。アウグストゥスは大変有能な政治家で、彼の指導は広大なローマ帝国は平和と安定をもたらし、ローマ帝国は大いなる繁栄を謳歌する。
 アウグストゥス統治下のローマ帝国は、「超有能なリーダーのもとの独裁制国家」の典型のようなもので、アウグストゥスが生きているかぎり国家体制はまさに盤石であった。しかしいかに有能な人物であれ、いつかは寿命は尽きる。そしてアウグストゥスは75歳で亡くなり、ここでようやく本記事のテーマであるティベリウスの話題となる。

(3)ティベリウス帝の悲劇

【ティベリウス】

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 ローマ帝国という国は、じつは「皇帝」という職業は正式には存在せず、国民の代表である元老院が国家を運営している、という建前になっていた。しかしアウグストゥスは実質上全ての権力を握って国家を運営しており、そしてそれは非常に上手く機能していたので、アウグストゥスの長い統治のうち、元老院はその政治的な能力を失ってしまった。元老院議員は政治に関しては名誉職みたいなものであり、政治の決定についてはアウグストゥスのイエスマンと化していたのである。

 そしてアウグストゥスが亡くなっては、ローマの政治機能の根本が失われたことになった。しかしアウグストゥスは自分が死んだのちは、あとは野となれ山となれとかいう無責任な考えの持ち主ではなく、きちんと後継者を指名していた。それがティベリウスである。ただし、当のティベリウス自身にとって、それは悲劇的なことであった。

 

 先に、独裁制にとって最大の問題点は「独裁制を行える能力を持つ人物が極めて少ないこと」と述べた。帝政樹立期のローマ帝国にとってたいへん幸運なことに、二代目を継ぐことになったティベリウスはローマ帝政史でも有数の有能な人物であった。しかしそれはティベリウス自身にとっては不幸なことであった。

 ティベリウスという人は教養もあり、威厳もあり、人望も厚く、責任感強く、軍事の才能にも長け、そしてローマきっての名門家の嫡男という、ローマ帝国の第一人者としてこれ以上ない人物だったのだが、政治家としては看過できない欠点があった。彼は高潔な精神を持ち、誇り高く、自他ともに厳しい人だったのである。それは個人としては美点とすべき特質ではあろうが、政治家にとっては険しい欠点となる。政治力とは、すなわち調整能力のことでもある。個人、団体、すべてに存在する利害関係をうまく調整して、世の中を進めて行く、それが政治の大事な役割だ。しかしティベリウスは、無能な者、卑怯な者、下劣な者は大嫌いであり、それらの者たちともやむをえなく付き合わざるを得ない政治家という職業はまっぴらごめんと思っていた。

 そういう彼がローマ帝国の指導者になりたいと思うわけもない。そして元老院で読み上げられたアウグストゥスの遺言書には「後継者として期待していた二人の息子が亡くなってしまった今、私はティベリウスを後継者に指名せざるを得ない」などと失礼なことが書かれていたのだから、それはなおさらであったろう。

 ティベリウスは遺言書読み上げのあと、「偉大なアウグストゥスの指名であるが、私には後継者という重責を果たす能力はない。その地位は辞退して、全ての権力は元老院に戻したいと思う」と述べた。困ったのは元老院である。すでに元老院は政治的能力を失ってしまっている。今さら権力を戻されても、国家が乱れるだけだ。元老院はティベリウスに馬鹿を言うな、あんたがその座を引き受けないと、アウグストゥスが築いたローマが無茶苦茶になってしまうと抗議した。ティベリウスは責任感の強い人間である。自分の気持ちはともかくとして、元老院の言うことも理解できたので、それではこれからはお互い協力してローマ帝国を運営していこうという方針でまとめ、アウグストゥスの正式な後継者となった。

 ティベリウスの治世においては、なにしろティベリウスは有能な人なので、ローマ帝国全体に的確な指示を与え、国家は平和安定を享受した。ただしティベリウスにとって、政治とは彼の精神を蝕んでいくものであった。就位のさい、協力を誓った元老院は政治のパートナーとしてはまったく無能であり、いつまでたってもまともに機能する兆しはなかった。政治家ティベリウスに対して近寄ってくる人たちも、彼にとってはまったく心を許せるものではなかった。政治という職業を続けていくと、彼は人間の嫌な面ばかりを見ることになっていった。まあ政治家という職業は、元々そういうものなのであって、人間にはいろいろな人がいて、そして個人にもあらゆる面があるので、人間とはそういうものだと受け入れ、妥協する必要があるし、じっさいアウグストゥスを始めとする大政治家はそうしてきたのだが、潔癖なティベリウスにとってそれは耐えがたいことであった。そうして政治家という職業を続けることによって、彼の心は病んでいった。
 仕事により心が病んでしまったとき、その治療法の第一は、仕事を放棄して、ゆったりと休むことである。これだけで治ることは、ままある。しかしながら、責任感強いティベリウスには仕事を放棄する選択肢はなかった。それで次なる治療法としてティベリウスはローマ帝政史上、どの皇帝もやっていない荒技に出る。

 ティベリウスは治世12年目にして、ローマからちょっと旅に出るといって、少数の側近と友人を連れてカプリ島に行き、そしてそこから約10年間、亡くなるまでローマに戻らなかった。これは隠遁というわけではなく、ティベリウスは政治家としてはずっと現役であった。つまりローマで人と会うのが嫌で嫌でたまらないので、首都ローマから遠く離れた孤島のカプリ島に引きこもり、人との交わりを絶ったうえで、そこから手紙の交換で指示を出し、亡くなるまでの政治家としての仕事を行ったのである。大帝国の元首としては常識外れ、破天荒な行為ではあるが、ティベリウスにとっては、自らに課した重い責任を果たしつつ、己の人間の心を守るにはこれが唯一の方法であったのだ。

 ティベリウスという人の伝記を読むと、仕事の辛さは言うに及ばす、アウグストゥスにはいろいろとひどい目にあわされ、家族とはうまくいかずなんでもかんでも島流しに処す羽目になり、唯一愛していた息子は暗殺され、本当に不幸な人生なのだけど、それは結局彼が有能であったからそういう目にあったわけで、それを考えると、彼の政治家としての一生の厳しさ、哀しさがより伝わってくる。

 そういう悲劇的な人生を送っていたティベリウスが、心を癒すために選んだカプリ島の別荘、伝記を読んださいに是非とも一度訪れたいと思っていたけど、今年の秋訪れることができた。

(4)ティベリウス別荘 Villa Jovis探訪記
【カプリ島 対岸のエルコラーノからの眺め】

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 カプリ島はナポリから30kmほど離れたところに浮かぶ小島である。全体が巨大な岩であり、周囲は絶壁に囲まれているが、一ヶ所だけ入江になっているところがあり、そこを港として島に渡ることができる。そしてその港から100mほど登った小高い平地が人々の居住地になっており、今もそこにはたくさんの家、建築物が並んでいるけど、ティベリウスの別荘はそこと遠く離れた島の東端にあり、ティベリウス、いったいどんだけ人嫌いなんだ、と思わず突っ込みたくなってしまう。

 そして港から、私はナポリ旅行の主目的ティベリウスの別荘「Villa Jovis」を目指して歩いて行った。お洒落な家々と庭に挟まれた小径をずっと歩いて行き、島の端に近づくとようやくVilla Jovisへと着いた。

【Villa Jovis】

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 かつては豪華な宮殿であったVilla Jovisは、二千年近い前に主を失ったのち、荒れるに任され、今では基礎部と石壁のみかろうじて残されているのみで、往時の栄華をつたえる術もない。政治家の住処としてはおろか、普通の者さえ住むのも不便な地ゆえ、偏狭な主人がいなくなったのちは、誰もそこに住もうとは思わず、時の流れのまま朽ちていったのであろう。
 この宮殿の跡地からは、ティベリウスの見ていたものは、もはや想像もできない。

【カプリ島からの風景】

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 かつてのローマ帝国最高権力者の住居は荒れ果てていたけど、二千年前と同様の眺めは、もちろんある。別荘の高台の前には、紺碧のティレニア海が広がり、そこにカプリ島に向かってソレント半島が突き出ている。その半島を奥に辿って行くと、円錐形の秀峰ヴェスヴィオ火山があり、さらにその奥にナポリの街が扇型に弧を描いている。
 とても美しい、まさに名画のような眺め。

 仕事と人生に疲れ果て、絶望に沈んだ、世界で最も気難しい男が、広大なローマ帝国のなかから、終の棲家として選んだ、カプリ島の東端の崖の上。

 この眺めを見ていると、なぜティベリウスがこの地を選んだのか、はっきりと理解できる。そしてあれほど疲弊させられたティベリウスの心が、この眺めによって癒されることによって、残りの激動の政治人生を全うできた、ということも。

 伝記だけ読んでは分からない、その地に行ったことによってのみ理解できる、そういうものを私はカプリ島の探訪で知ることができた。

 

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January 01, 2019

イタリア料理:Acanto@ミラノ

 1月1日の夕食は、ミラノの有名ホテル「プリンシペ・ディ・サヴォイア」のレストラン「Acanto」にて。
 年始年末にさして重きをおかぬヨーロッパといえど、1月1日はさすがに閉店のレストランが多く、そのなかホテルのレストランは確実に休日でも営業しているので、便利である。

 食事はコースは量が多すぎそうだったので、アラカルトで、前菜はパスタ、それにメインを二種類とした。

【パスタ】
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 パスタはなるべくシンプルなものを選び、蛸のスパゲッティ。オリーブオイルと黒胡椒。

【魚料理】
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 鱸のグリル塩焼。それにチコリとキャビアの付け合わせ。キャビアをたっぷり使っており、こちらのほうが主張が強かった。

【肉料理】
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 若鳥の胸肉ロースト。黒トリュフと杏茸。
 ジューシーな鶏肉。焼き加減も丁度よい。

 料理は、「イタリアンと言いながら、じつはパスタもあるフランス料理」といった感じの、高級系料理であった。ホテルが五つ星だから、レストランもそういう趣向になるみたい。
 料理も良かったが、また内装が素晴らしく、豪華で華やかなものであった。サービスも充実丁寧なものであって、新年早々快適な気持ちで過ごすことができた。

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ミラノ散策

 ミラノでは「最後の晩餐」と「大聖堂」が圧倒的で、これでお腹いっぱい、という感じにもなったのだが、ここは世界的観光地であって、まだまだ見るべきものはある。
 それで散策がてら、それらを訪ねてみた。

【ガッレリア】
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 ミラノ大聖堂からスカラ座はアーケードでつながっていて、ミラノ一の繁華街となっている。見事な造形であり、繁華街そのものが芸術作品である。

【スカラ広場】
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 アーケードを抜けるとスカラ座広場。
 ここでは、シャネル5番の香水のオブジェが大人気であった。

【スカラ座】
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 音楽好きにとって、ミラノといえば「スカラ座」。
 といってもそれは中で音楽が鳴って初めて価値あるものなのであり、それで何か面白いものを演っていたらチケットを取ろうかと思っていたけど、年末の演目は「くるみ割り人形」であり、食指が動かないのでやめておいた。 これについては、またの機会にということで。

【マリーノ宮】
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 宮殿として建てられ、現在は市庁舎として使われている建物。普段は公開されていないが、年末年始は絵画展覧会御が催されていたので入場することができた。絵画よりも、建物そのもののほうが印象的であった。

【ポルディ・ペッツォーリ美術館】
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 ミラノの貴族の個人収集美術品を私邸に展示した美術品。建築、それに収集品でこの持ち主の趣味がよく分かる、まさに私立美術館であった。

【モンテ・ナポレオーネ通り】
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 日本で言えば銀座に当たる、ショッピングストリート。一流のブランドショップが立ち並ぶ。
 Brioniだけ入ってみたけど、日本と似たような品揃えであった。さらには、どこの店舗も客が入っていないのも、日本同様であった。この手の店って、どうやって成り立っているのがいつも不思議に思ってしまう。

【モンタネリ公園】
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 ミラノには公園が多いけど、そのうちの一つ。
 ホテルの近くだったので、ここをよく通った。

【ミラノ中央駅】
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 ムッソリーニが国家の威信をかけて造った駅だそうで、たしかに威風堂々たる立派な駅である。
 外見はローマ帝国式であるが、中の設備は近代的であった。

【プレラ美術館】
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 ミラノ一の規模の美術館。収蔵品も名品ぞろい。
 ただし、休館日が年末年始に集中してしまい、入館する機会がなかった。

【スフォルツォ城】
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 文化が華やいだルネッサンス期に立てられた城塞。中には博物館、美術館があるのだけど、あいにく休館日。

【教会】
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 歴史上ミラノ一の有名人となると、たぶんローマ帝国時代のミラノ大司教アンブロージョとなるのだろうけど、彼を祀ったサンタンブロージュ教会はロマネスク建築の傑作と言われており、訪れてみることにした。しかしGoogle mapに従って行くと、そこにはロマネスクとは大違いの近代的教会があって驚いた。
 これは単にGoogle mapの間違いで、そこはサンタンブロージュという地区であって、教会名で検索しても、そこにポイントを置いてしまうのであった。改めて訪ね直す気力もなく、結局教会には行っていない。

【ナヴィリオ運河】
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 かつてミラノは運河がはりめぐされ、運河の町だったのだが、今では多くは埋め立てられ残っていない。
 その名残を示すのが、ナヴィリオ運河。露天市が開かれ、人通り多いにぎやかなところである。


 ミラノ、いろいろ見残したものは多いので、いつかまた訪れてみることにしてみよう。

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December 31, 2018

最後の平成年越しを、Pont de ferr@ミラノにて。

 平成30年大晦日は平成最後の年越しの日。
 ミラノ大聖堂を見物して、それから市街地を散策したのちホテルへと戻る。ミラノは日本より8時間遅れているので、午後からはBSテレビで紅白歌合戦を見ながらの年越し、という一般的日本人的の過ごし方をした。

【鉄橋】
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 意外と充実した内容の紅白に感心したのち、それから今夜のレストラン「Pont de ferr(鉄橋)」へと。このレストラン、名前はフランス語だが、イタリアンの店である。
 駅からすぐに観光名所のナヴィリオ運河があり、店の近くにその名前の由来である鉄橋があり、これを越えてしばらくのところに店があった。

【new year’s eve menu】
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 本日は年末なので、メニューは一種類「The new year’s eve menu」、年末特別コースである。
 照明の暗い店だったので、うまく写真は撮れていないけど、いくつか並べてみる。
 前菜は6皿で、創作系のイタリアン。牡蠣、マグロ、海老、蛸といった地元の海産物を用いたものが続く。そしてパスタはアザミクとアンチョビのトルテリーニ。ミラノ名物リゾットはヤマウズラとココアのリゾット。メイン料理はアーティチョークにベルガモットと鹿肉。
 いずれもミシュラン星付き店だけある、良い素材を使い、丁寧な調理がなされた素晴らしいものばかりであった。

 夕食は午後8時からのスタートだったけど、ゆっくりしたペースで進み、そして12時近くになると全ての客にシャンパンが配られる。そうして多くの者は、外に出る。そこには大勢の人が運河沿いに集まっていて、新年の訪れを待っていた。やがて新年の到来とともに、あちこちで大きな花火が夜空に打ち上げられた。そして小さな仕掛け花火も、人の集まっている様々なところで火がつけられ、閃光と爆裂音を放ち、あたり一帯光と音で満たされた。人々はたがいに歓声をあげて抱き合い、新年を祝う。
 う~む、イタリアだなあと、この暖かな雰囲気の喧騒に、実感した。

【ナヴィリオ運河地区 年越し】
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 騒ぎが一段落したところで私は店に戻って、残りのメニューを味わい、ゆったりとした気分であらためて新年の訪れを祝った。

 食事が終わったのち、まだ運行していた地下鉄を使って、ホテルへと戻った。
 ミラノ中央駅から出たとき、そこはもう閑散としていたが、おそらく花火のあとの名残のような、煙とにおいが漂っていた。

 日本から8時間遅れの平成最後の年越し、ここイタリアでも終了である。

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誰でもたまげるミラノ大聖堂

【ミラノ大聖堂】
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【大聖堂前広場(臨時コンサート会場)】
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 観光都市ミラノの二大名物は「最後の晩餐」と「ミラノ大聖堂」。
 「最後の晩餐」の次は大聖堂に行こう。
 地下鉄駅を出ると、すぐ正面に大聖堂がある。その姿、世界最大級のゴシック建築といわれるだけあって、壮大壮麗そのものである。青空を背景に、大理石の尖塔を100本以上も突き立てる巨大建築物、見ただけで圧倒されてしまった。

 大聖堂は祈りの場である教会なので以前は入場料無料だったそうだが、今は有料なのでまずはチケットを買わねばならない。教会の近くにチケットオフィスがあるので、そこでまず購入。
 大聖堂はミラノに来た人は必ず寄る人気観光地なので、教会前にはいつも入場待ちの長い行列ができている。この行列に並ばずに済む「fast ticket」なるチケットもあるのだが、それは10時から開始であり、それ以前に来てしまったので、通常のチケットを購入して行列に並んでみた。
 入場の速度は、扉の前でのセキュリティチェックにかかっており、列は遅々として進まないのだが、ちょうど年末なので広場でコンサートが行われていて、退屈はしなかった。

【礼拝堂】
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 1時間ほど並んでようやく中に入ることができた。
 日の光がステンドグラスを通して差し込み、厳かな雰囲気をかもしだしている。中にあまたある宗教画、偉人像もまたその荘厳さを増している。さらには高い天井を支える幾本もの太い大理石の柱が、幾何学的統制をもって立ち並ぶ様が、この建築物そのものの非日常感を増幅させ、ここが外界と違う世界にある、という感覚を覚えさせる。
 神秘的空間の魅力に満ちた場所であり、これは長時間行列しても、必ず入らねばならないところだと実感した。

【大聖堂テラス】
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 この高い大聖堂には、テラスにいたる階段があり、そこも名所なので行ってみた。
 昔に造られたとおぼしい、やたらに狭い階段を登って行き、そしてテラスにいたる。道が狭いので、ここも行列ができている。
 屋上テラスはガイド本には「ミラノの街を一望できる」と書いていたけど、大聖堂はゴシック建築の常として、尖塔が立ちまくっているので、それが視界を邪魔して、風景が広がって見える場所はほとんどなかった。
 写真はテラスに着いてのもの。一番高い尖塔の上には、黄金に輝くマリア像。テラスにはくつろぐ観光客が多くいるけど、このテラス傾いているので、居心地はあんまり良くない。

【テラス展望】
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 テラス展望は、尖塔や壁のあいまから、街の一部が見えるという感じ。まあ展望台として造ったわけでもないからこんな感じでしょう。
 テラスから下りて行く通路側からは、世界一醜いビルと称される「ヴェラスコタワー」を見ることができる。こういう不安定そうな建築物を見ると、ミラノって地震の少ない地なんだろうなと思う。大聖堂だって、中規模な地震が起きると、尖塔の先端に設置してある聖人の立像がいっぱい落ちてきそうだ。

【正面扉】
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 大聖堂の名物その3、正面の青銅の大扉。
 聖母マリアの一生が描かれ、受胎告知、三博士礼拝、ピエタまで、いくつもの聖書の場面が精緻に彫られている。見事な工芸品であり芸術品である。


 ミラノ大聖堂、これは誰が見てもたまげるような大伽藍であり、全体をよく見れば、完成に500年の歳月がかかったことが納得できる、とんでもなく手間がかかった建築物であった。そしてさらにはこのような建物が現在も維持できているところに、カソリック教会の実力というものも知ることができた。

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December 30, 2018

絵画:最後の晩餐@ミラノ

 絵画というものは移動性があるので、有名な絵画は待っていれば日本の美術館に来ることがあり、わざわざそれが常設されている異国の地まで行かずとも見る機会がいつかはあるのだが、そのなかで「移動不可能な名画」がいくつかあり、それらは現地まで行かねば見ることができない。
 その「移動不可能な名画」の代表的存在であるダ・ヴィンチ作の「最後の晩餐」を見に、ミラノに行くことにした。

 「最後の晩餐」はサンタ・マリア-デッレ・グラツィエ教会の食堂の壁に描かれていて、教会ごと世界遺産になっている。絵画の歴史のなかでも特級の傑作が、壁画という不安定な状況におかれているので、厳重に保全管理されており、見物の客の数は限定されていて、事前の予約が必要になる。
 それでネットで予約を取ろうとしたが、チケットオフィスのサイトはイタリア語であって、なんだかよく分からない。それで確実を期して少々値ははるが英語ガイドツアーのほうの予約をとっておいた。

【チケットオフィス】
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 mail添付のファイルを印刷したチケットでは、指定時間の前に教会の前に集まってくださいと書いていたので、早めに教会前に着。開館前からチケットオフィスの前には行列が出来ていた。当日券はまずない、との情報だったので、予約していたチケットを早めに受け取りに来ていた人であろうか。

【サンタ・マリア-デッレ・グラツィエ教会前】
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 ガイドツアーに関しては、それらしきオフィスはなかったが、教会の前にいるとだんだん外国人観光客らしい人たちが集まって来たので、彼らと話すとどうやら同じツアーメンバーらしかった。ただし持っているチケットはそれぞれ、自分たちの言語のものなので、本当のところはまだ不明であった。(写真での、土産ものを売る準備をしている人の後ろにいるグループがそれである)
 そして入館予定時間5分ほど前に現地人のガイドの人が来て、参加者の名簿と参加者を確認して、チケットとイヤホンガイドを渡して、それからツアー開始。

 教会の付設美術館は、外見とは違って、中はモダンスタイル。ガラスの扉でいくつかの部屋が仕切られていて、絵画のある部屋に前のグループが入っているあいだ、そこで待機ということになる。グループは30人弱ほどで、見物の時間は15分と決まっていた。やがて我々のグループの番となり、入室である。

【最後の晩餐】
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 壁画の部屋に入室すると、人々はまず絵の前に行くのだけど、ガイドはそれを制して最初は部屋の後方から見るように指示。そこで説明があったのだが、この絵は正面のイエスの顔を消失点とした遠近法で描かれている。それは壁、天井、床にはっきりしたラインが引かれていて、非常に分かりやすい形で示されており、その絵のラインはこの実際の部屋の天井と床のラインにもつながっていて、それゆえ部屋と絵が融合して一挙に奥行きを深め、我々が最後の晩餐に参加しているような臨場感を与えてくれる。ダ・ヴィンチは「壁画」という材料を、このように効率的に利用したわけだ。
 これは実物を観ないと分からない、そして教えられねば分からないことで、ガイドツアーの良さであった。

【最後の晩餐の設置部屋 概略図】
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 いちおう、部屋全体の概略図を示してみる。
 このように床と天井のラインが引かれ、中に入った見物者が壁画を見ると、その視点は正面のイエスに一挙に持っていかれる。
 さて、部屋と壁画の一体性を実感したのち、それから壁画の近くに案内され、絵の細部を見る。
 この絵は損傷が激しく、絵具の剥落が多いため、オリジナルの色は非常に損なわれていることが知られており、元が100とすると今は10くらいの色しか残されていないそうだが、それでも十分に元の絵の美しさを想像できる、その程度には残されていた。
 そして鮮烈な色は失われたにしろ、その表現の素晴らしさは健在であり、師イエスの突然の「お前たちのなかに私を裏切る者がいる」の宣言のあとの、弟子たちの動揺、疑念、激情、憤怒、怯え、等々の感情が渦巻く、このドラマチックな一瞬の場面が、ダ・ヴィンチの卓越した技術で切り取られ、永遠の姿となって、私たちに強い印象を与える。
 人類の芸術史上の大天才ダ・ヴィンチの最高峰の作品だけあって、この絵画が語りかけるものは多く、そして深い。
 この壁画を見るためだけでもミラノに来る価値はある、そういう作品であった。

 ただし、この傑作を生で見られるのは15分という短い時間なので、ミラノに来る手間を考えると、コスパはまったくよくないのだが。

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January 02, 2018

フィレンツェ5日目→羽田

 フィレンツェ滞在5日目。本日午後に飛行機に乗るので、観光は午前中のみである。

【聖マルコ修道院】
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 「天使の画家」フラ・アンジェリコの作品が多く納められていることで名高い、聖マルコ修道院。修道僧の暮らすたくさんの部屋ごとに彼の絵が飾られており、それらはどれも優しさと慈しみに満ちたものであり、いかにもこの静謐な修道院にふさわしいものばかりであった。
 その多くの絵のなかで最も有名なものが「受胎告知」である。ダ・ヴィンチのような迫真性や迫力はないけれど、穏やかで、暖かな雰囲気を持つ独特の名画である。敬虔な修道僧でもあった、フラ・アンジェリコの人柄を偲ばせてくれる。

 聖マルコ修道院から、次は大聖堂近くの大聖堂付属美術館へ。

【大聖堂付属美術館 ピエタ】
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 以前大聖堂に置かれていた美術品が置かれている美術館。この美術館も観るべきものが多く、けっこうな時間がかかった。
 最も印象的だったのは、やはりミケランジェロの「フィレンツェのピエタ」。
 ミケランジェロが自身の墓に飾るために作成された像であるが、途中で製作は放棄され未完となった。
 全体像はともかくとして、彫られた部分だけでも傑作であることは間違いないけど、若い頃のピエタとは違い、この像には観るものをして、心を沈ませる、悲劇性や懊悩といった苦々しいものがどうしても感じさせられる。そしてそれは大理石から深い精神劇を抉りだす、芸術家の大変な苦心をもどうしても思い知らさせるものでもあった。

【大聖堂付属美術館 マグダラのマリア】
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 数ある彫刻群のうち、もっとも個性的なものがドナテッロ作のマグダラのマリア像。
 やつれ果てた、みすぼらしい装いのマグダラのマリアは、しかし、その真摯な祈りの姿から、崇高な精神性を放っている。
 初期ルネッサンスの巨匠ドナテッロは、私は今まで美術書でしかその作品を観たことはなかったけど、フィレンツェに多く置かれている彼の彫刻をオリジナルでみると、どれも感銘を受けるものばかりで、その実力の高さをよく知ることができた。

【ペレートラ空港】
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 フィレンツェの空路の入り口、ペレートラ空港。この空港、フィレンツェに近いので、便利なのではあるが、滑走路が短く大型の旅客機が利用できないのが難である。
 そして今回使用のエア・ドロミティは来るときも1時間くらい出発が遅れたが、帰りもまた1時間遅れるとのことである。ラテン系の航空会社はどうも信用できないなあ。まあ、親会社はルフトハンザなのだが。
 フランクフルトでの乗継ぎは、タイトな時間割りで大丈夫かなあと危惧していたが、イミグレがほとんど素通り状態だったのが幸いして、ギリギリで乗ることができた。エア・ドロミティからの乗り継ぎ組以外はみな既に着席して、我々をただ待っている状況のようであった。
 ただし、エア・ドロミティからの荷物搬入とかあるので、結局は出発は定刻よりも遅れるだろうと思っていたら、定刻通りに出発。エア・ドロミティやるじゃん、とか感心してしまった。

【羽田空港】
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 そうして着いた羽田空港。天気良好である。
 ルフトハンザの飛行機は、日本でも滅多に見なくなったジャンボであった。あんまり乗り心地のいい飛行機でもなかったので、これが廃れた理由はよく分かった。
 さて、降りてみると、なんと私の荷物がLOSTになっていることが判明。乗り継ぎのさい積みそこねたそうで、・・・エア・ドロミティ、やっぱりできんやつだったか。感心して損した。

【羽田 寿司幸】
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 Lost baggageについては、3時間後に飛んでくるANA機が運んでくれるとのことであった。自宅に郵送でもよいのだが、それもあとが面倒なので、今日のうちに手にいれるべく、空港で時間をつぶすことにした。
 そういうわけで、第一ターミナルの寿司店で、酒を飲みながらだらだらと過ごした。
 平成30年の寿司の食べ初めは、「羽田 寿司幸」であった。

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January 01, 2018

フィレンツェ4日目@平成30年元旦

 平成30年、元旦の朝はフィレンツェにて迎える。
 日本では元旦は初詣というイヴェントがあり、どこでも賑わっているのであるが、ヨーロッパでは1月1日を祝う習慣はないようで、どころか本格的な休日になっており、観光都市フィレンツェにおいても、たいていの観光施設は教会も含めて休館となっている。
 もっともそれは事前情報でよく分かっているので、この日はフィレンツェ市内の観光は行わず、郊外のフイエーゾレに行く予定にしていた。

【朝】
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 フィレンツェではずっと天気が良かったが、元旦は朝から強い雨が降っている。
 ホテルの古風な庭は、ちょっとした池になっていた。
 この雨ではフイエーゾレどころか、市内の散策をする気もおきず、でも天気予報では午前11時くらいから晴れるとのことだったので、それから出発することにした。

【マルコ広場】
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 11時になると予報通り雨が上がったので、バスの発着所のマルコ広場へと行く。
 今回の旅で、観光施設を巡るのに重宝していたフィレンツェカードは、5ユーロ別に払うとバスの乗り放題機能も着く。
 フィレンツェはバスが便利だということだったので、その機能もつけていたけど、フィレンツェって大聖堂を中心とすると主要施設は半径1.5kmに収まるような狭い都市なので、速度の早いバスで目的地に行くより、歩いて周囲の家や施設や教会などを観るほうがずっと楽しいと思え、結局バスは使うことなく過ごしていた。
 そしてフィエーゾレもじつはフィレンツェから丘が見えており、その距離からして歩いて1時間半くらいに思え、歩いて行けぬこともなかったのだけど、フィレンツェカードのバス機能を一回くらいは使わないと損とも思い、バスを使用した。
 このバス停で、7番のバスに乗ればフイエーゾレに直行です。

【ミーノ広場】
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 バスの終点はフィエーゾレのミーノ広場。
 ここに、イタリア統一の英雄ガリバルディの銅像がある。
 ガリバルディって、イタリアの歴史における重要人物であるが、伝記を読むかぎり正直なにがなんだかよく分からない人物なのであり、でもこういう観光名所に銅像があるということは、地元の人に支持されているという証拠であり、あらためてまた調べてみようとか思った。

【サン・フランチェスコ教会への坂道】
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 バス終点の広場から、まずはサン・フランチェスコ教会へと向かう。
 趣ある石畳の、急勾配の道である。

【フィレンツェ風景】
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 教会へ向かう途中に小さな展望所があり、そこからフィレンツェを一望することができる。
 天気の良い日なら、その全貌がくっきりと分かるのだけど、本日は雨上がりで全体的にもやけており、せっかくの絶景がよく見えなかったのが残念。

【サン・フランチェスコ教会】
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 ルネッサンスにおける宗教で大きな役割を果たしたのち、全世界に活動を行い、戦国時代の日本においても、いろいろと影響を及ぼした、フランシスコ教会の、総本山ではないのだけど、それなりに趣と迫力のある教会。

【ローマ劇場】
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 ローマから歴史の始まるフィレンツェであるが、ローマ時代にいくらでも建てられたであろう劇場は、フィレンツェには残っていない。
 しかし、そのほぼ完全な遺跡はフィエーゾレに残っている。
2000年以上も前に造られた、この美しい半円形の劇場は、いまも現役で、毎夏にここで演劇が行われている。

【考古学博物館】
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 ローマ劇場に隣接している考古学博物館。
 フィエーゾレの歴史は、じつはフィレンツェよりも古く、ここに置かれている遺物は膨大なものであった。

【Florence Pizzeria@フィレンツェ】
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 夕食は、1月1日はどこの店も営業していないだろうけど、なかには営業している店もあるだろうと期待して、ホテルの前の通りを、繁華街のあるサン・ロレンツォ教会方向に向けて歩くと、意外とあっさり営業しているピザ店「Florence Pizzeria」を見つけることができた。
 そこで、大盛りサラダとナポレターナピザ、それに地元のキャンティの赤ワインを注文。本場のピザ、それにチーズの美味しさを堪能できました。

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December 31, 2017

大晦日そして年明けの夜@フィレンツェ

 ヨーロッパは日本と違って、年末年始はさほど特別視はされてなく、1月1日が休日になっているくらいで、あとは普通の日の扱いとなっている。
 それでも新年を迎える時くらいは、皆で集まりお祝いをするとのことなので、それを観てみることにした。
 ガイド本によると、共和国広場の年越しが、花火があがったりして景気がよいと書いていた。それを第一候補として、ついでに人の集まりそうな広場を訪ねて、新年を迎える場所を探してみよう。

【大聖堂前広場】
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 フィレンツェを象徴する建物「大聖堂」。ここの広場はさすがに人出が多い。しかし、なにかのイヴェントがあるという雰囲気ではなかった。

【鐘楼と大聖堂】
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 本日は月が満月に近く、鐘楼とドームの間に、きれいな月が顔をのぞかせている。

【共和国広場】
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 ツリーと、それにメリーゴーランドの電飾が美しい共和国広場。ここも人は多いが、イヴェントの気配なし。

【ピッティ宮殿】
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 観光名所、ピッティ宮殿。壮大な建物であるが、広場の人の数は少ない。

【ヴェッキオ橋、それにヴェッキオ宮殿のライトアップ】
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 アルノ川は、両側の岩に煌々と明かりが灯され、川面がそれを反射しきれいである。
 そして向うにはライトアップされたヴェッキオ宮殿、その塔からレーザーが放たれていて、どこからでもその場所が分かるようになっている。

【夜の通り】
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 フィレンツェの通りは、過剰ではない、落ち着いた電飾でライトアップされており、この古風な街によくあっていた。

【ヴェッキオ宮殿】
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 その明るい街路に導かれ、ヴェッキオ宮殿へと行く。レーザーを下から見上げる図。

【シニョリーア広場】
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 シニョリーア広場は、なにかの演奏の準備中であった。そのせいか、まだ人出は少ない。

【聖母廣場】
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 アカデミア美術館近くの聖母廣場は、すでにミュージシャンの演奏が始まっており、そしてイノセント博物館を使ってプロジェクションマッピングを行っており、華やかである。

【自由広場】
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 フィレンツェの北にある自由広場。ここは工事中なので、人はまったくいなかった。

【年明け@聖母廣場】
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 いろいろなところを回った結果、いちばん賑わっており、居て楽しそうな聖母廣場で年越しを迎えることにした。
 新年が近くなると、生演奏によるポップミュージックが流れるなか、20秒前くらいから司会者による、10、9、8のカウントダウンが始まった。そして本当の年明けの10秒前くらいに、ゼロ、と宣言され、Happy New Year !の歓声があがった。ラテン民族のおおらかさというか、気の早さというか、なんというか。

【マルコ広場】
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 新年となり、夜空に上がる花火はなかったけど、街中いたるところで爆竹が鳴らされた。それはけっこう長い時間鳴らされていて、ホテルに帰ってからも、外から響いて来た。

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フィレンツェ 3日目

 ルネッサンスの大天才を幾人も生んだフィレンツェで、その作品が市内に最も残っているのはミケランジェロであり、すでにその作品を各美術館で多く観て来たけど、今回はその本命、彼の大傑作を収める「メディチ家礼拝堂」と「アカデミア美術館」に行くことにする。

【メディチ家礼拝堂】
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 サン・ロレンツォ教会に付属したメディチ家礼拝堂は、豪華かつ荘厳な建物であり、往時のメディチ家の勢力を物語っている。

【メディチ墓碑】
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 礼拝堂奥、ミケランジェロ製作の霊廟は、礼拝堂とは異なり、静謐なる空間。
 そこにミケランジェロ作の彫刻が置かれている。
 「曙」「黄昏」「昼」「夜」とそれぞれ名付けられた彫刻は、生命を持たぬ大理石から穿たれたものとは分かってはいるものの、艶めかしい、独自の、永遠の生命を持ったような、生物感に満ちた異様な作品群である。
 とにかく、これは何かが違う、何か異次元から来たような、この世にあることが間違いなような、とんでもない傑作の数々である。本来こういうものはギリシャ美術の名作のように、作者不詳、それこそ神みたいな存在がつくったことにしておいたほうが落ち着くようなものだろうけど、造った者の名がきちんと記録に残されている、それが不思議に思える至高の芸術品であった。

【アカデミア美術館】
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 次は、アカデミア美術館へ。
 フィレンツェで最も有名な彫刻「ダヴィデ像」は世界中から人気があるので、ここも大行列。そしてウッフィツィ美術館同様、フィレンツェカードはパスカードではなく、やはり専用のほうの行列にならぶ必要がある。20分ほど並んで、美術館へ。

【ダヴィデ像】
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 美術書とか、あるいは雑誌のフォトページとかで、もう見なれた、円蓋のもとのダヴィデ像。
 でも、実物観ると、やはり感動が胸に迫って来る。
 ああ、これがあのダヴィデか!という感じで。

【ダヴィデ像】
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 そうして、今までフィレンツェでさんざん観て来たダビデ像であるが、やはりオリジナルは一味も二味も違うものがあった。
 なにより迫力と躍動感が違う。さらには眼力。ダヴィデが睨む方向の先に行って、ダヴィデ像を観ると、その視線の強さに圧倒されてしまった。

【未完の彫刻像】
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 アカデミア美術館には、ミケランジェロによる未完の彫刻がいくつも並べられていた。
 本来大理石になかに埋もれていた魂を彫り出すべく、そこに刻まれた鑿跡が生々しい、しかし途中で放擲された、大理石の残骸である。なぜこれらが未完で放置されたかには諸説いろいろあるのだが、まあ普通に、このまま彫っていても、傑作になりそうな雰囲気はなく、あんまりいい作品になりそうになかったので、途中で止めたんだろうな、というのが私の観た率直な感想。これら、苦労してミケランジェロが選んだ大理石のなかに、結局彫刻の魂はなかったのだろう。
 と、辛辣なことを言うのは、翌々日観た、ドゥオーモ付属美術館の未完のピエタを観てからのあとの感想。あそこには、本来ある魂を彫り出すのに、苦心惨憺し、結局敗北した、崇高な悲劇性があったけど、この彫刻群にはそういうものはなかった、と思う。

【ダヴィデ像】
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 フィレンツェの御土産店には、どこでもこのダヴィデ像が人気。
 大から小まで、いっぱいサイズがそろっております。

【ジョットの鐘楼】
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 アケデミア美術館から出たあと、チェントロに寄り、ドゥオーモ付属美術館に入ろうとして、行列に並んだあと、フィレンツェカードをリーダーにかざしたら反応しない。受付に理由を聞いたら、チェントロの洗礼堂前の7番の事務所まで行って、切符をGetしないといけないとか言われたので、そこまで行って手続きを済ませた。そこでは、大聖堂クーポラ、付属美術館、鐘楼のチケットをフィレンツェカードで入手できた。それで、鐘楼に登ってみることにした。

【鐘楼からの眺め】
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 チェントロの施設はすべて大人気であり、この写真に写っている行列は、鐘楼入場の行列。
 この行列みると、並ぶ気はしなくなるけど、ここで初めてフィレンツェカードが役に立った。
 この行列には、フィレンツェカード専用の入り口があり、そこでカードとさきほど手に入れたチケットを見せると優先的に入れてくれる。それで待つことなく、鐘楼に登ることができた。

【鐘楼からの眺め】
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 フィレンツェの象徴大聖堂がすぐ隣にあるので、それを観ることができるが、あまりに近すぎるので、あんまり全体像が分からない。
 やはり、大聖堂の姿を正当的に観るには、私はヴェッキオ宮殿を勧めます。

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