演劇

February 26, 2020

グリザベラ@キャッツはなぜ嫌われているのか? & 絵画と寓意

【グリザベラ:Elain Paige】

Elain-paige

 以前キャッツの四季版ミュージカルを福岡で観たのち、西中洲で宴会してからカラオケで二次会を開いていたときに、「グリザベラはどうしてあんなに嫌われているのか?」という話題が出た。
 劇中の野良猫コミュニティでは個性豊かな猫たちが勝手気ままに仲良く暮らしているのに、グリザベラだけは禍々しいもののように扱われ、姿を見せただけで舞台の雰囲気が暗転し、みなグリザベラから逃げ去ってしまう。
 それほどまでに忌み嫌われているグリザベラであるが、劇中ではそれに対する詳しい説明がないので戸惑う人がいるようだ。それで何故グリザベラが嫌われているかについての考察をふんふんと聞いているうち、いろいろな解答例がでたけど、それらは
(1)グリザベラが娼婦だから。
(2)グリザベラがかつて猫のグループにひどいことをしたから。
(3)グリザベラが空気を読まない、いわゆるKY猫だから。
 と三つくらいにまとまることになった。
 これらについて解説を述べると、
(1)の娼婦説についてはまずないだろう。西洋の芸術作品において娼婦という職業はいろいろと複雑な役割を持たされることになるが、たいていは魅力的な役であり、一方的に忌避される存在ではない。だいたい劇中の妖艶猫ボンバルリーナとかディミータとかはその手の職業猫っぽいし。
(2)については、それならきちんとその過去について述べるはずなので却下。
(3)については判断が微妙である。グリザベラがKYなのは事実で、そして「嫌われているのに、それに気がつかずにグループに接しようとするので、さらに嫌われる」悪循環の原因になっているのは明らかなのだが、大本の「何故嫌われているか」の説明にはならない。
 というわけですべて不正解。

 じつはグリザベラが嫌われている理由、それはあまりに明らかなので、劇中ではいちいち説明する必要はないのである。ただしそれは西洋の文化基準によるもので、西洋人には明らかでも、東洋的文化基準とはずれているので、それで我々には分かりにくいんだなあ、とこれらのディベートを聞きながら私は思った。

 正解をあっさりと述べると、グリザベラが嫌われているのは彼女が老女だからである。西洋文化的には、老いたる女性は、それだけで忌避されるべき忌まわしい存在なのだ。東洋にはそんな文化はないので、このへんにどうしても違和感を持ってしまうのであるが、そういう前提があることを知っておかないとキャッツは肝心のところが分からないであろうと思う。

 

 以上については私の勝手な思い込みとか思う人もいるであろうが、これについては西洋の美術の勉強をすると、イロハ的に最初のほうで入って来る知識なので、その手の勉強が好きな人にとっては常識である。
 写真と違って絵画にはそこにあるものは全て意図を持って存在している。そして西洋美術においては、画かれた人物なり静物にはアレゴリー(寓意)とかアトリビュート(特定へのヒント)が関わっているものが多く、それらを読み解くことによって、絵全体の理解が進みやすい。だから西洋の美術を観賞するときに、これらのアレゴリーやアトリビュートの知識があると、より一層理解が深まり、興が増す。
 そして「老女」のアレゴリーはまずは「死」。そして「忌むべきもの」「禍々しいもの」というふうになる。「老女」は人に否応なく死という不吉なものを意識させる、汚らわしい、なるべくなら身近から遠ざけるべき存在、というわけだ。
 私は若いころ美術のムック本でその項を読んだとき、我々の東洋文化の常識から外れたその概念に、ひっでぇなあと憤慨した記憶がある。そして、ならそれは男性だって一緒だろうという当然次に思う疑問に対してのムック本の解答は、老いたる男「老人」のアレゴリーは「叡智」とか「賢明」とかいう良いものである、ということだったので呆れてしまった。つまりあちらの文化的には「老女」というものは若き日の美しさを失ってしまった全く役に立たないどころか忌むべき存在なのに対して、「老人」のほうは若き日の体力は失ってしまってもその分智恵と経験を蓄えた敬すべき存在だ、ということだ。こういうアレゴリーがあるので、西洋の宗教画などでは威厳ある男性の神は老人ないしは壮年の姿で描かれることが多い。対して神々しい女神はまず若い女性の姿であり、老いた姿で描かれることはまずない。


 ともあれ、西洋の芸術では、女性に対して若さを過剰に賛美し、そのかえりに老女を卑下する概念が基礎にあるため、老女はいかなる分野でも大きな役はもらえない。もしもらえるならその不吉さを表に出した「魔女」役くらいであり、だから美術、小説、劇、童話では、存在感ある老女ってたいていは「魔女」である。あの膨大な多種多彩の魅力あるキャラクターを創出した偉大なシェイクスピアでさえ、その多作の劇で、一流の俳優が演じるに値する老女役って、マクベスの魔女くらいであろう。
 まったくこの文化は今にいたるまで徹底しており、ミュージカルのキャッツでは老女グリザベラがああも嫌われているのに対して、老人男性陣では、長老オールド・デュトロノミーは畏敬の対象だし、肥満猫バストファー・ジョーンズも尊敬されていて、老残の駄目オヤジ猫アスパラガスでさえ皆から愛されている。ずいぶんな違いである。

 もっとも21世紀の西洋では、性別・人種等の差別を防ぐべくポリコレがうるさいので、ハリウッドも原作をそのまま映画化することはできず、老女グリザベラは中年女性に、智恵深き長老オールド・デュトロノミーは女性に変更になっている。作成陣もさすがにキャットは元のままでは現代の映画にはできないと認識していたのだ。ただし役割りの改変はよいとして、歌詞はそのまま採用したために、クライマックスの「メモリー」の整合がとれなくなっている。メモリーでは「年をとって私は若き日の美しさを失ってしまい、誰も相手をしてくれなくなった。こういう年老いた哀れな私に誰か触ってください」とグリザベラが切々と感動的に歌い上げるのに、それを歌うのが現役感バリバリの艶満な中年女性じゃ違和感ありまくりで、原作を知らずに映画を観た人はこの場面で、頭に?マークがいっぱい浮かんだのでないだろうか。映画キャッツが多くの評者から、まったくの怪作と評されることになった要因の一つである。
 ま、ポリコレというのはあくまでも建て前なので、ハリウッドの現実は今もそのままである。ハリウッドでは男性俳優が年をとってキャリアップするにつれギャラも上がっていくのに対して、女優は若き頃と比べての年を経ての扱いって男性と比べてひどいの一言だ。「ノッティングヒルの恋人」でのジュリア・ロバーツの嘆きは、今も通用するものだろう。

 こういう妙ちくりんな文化、それが当たり前の概念として存在しているため、西洋の絵画ではそれが堂々と描かれている。
 代表例として、ハンス・バルデゥング・グリーンの「女の三世代と死」をあげてみよう。

 

【The Three Ages of Woman and Death】

3-age

 解説をする必要もないような露骨な絵であるけど、絵には女性の三世代、「赤ん坊と若い女性、それに老女」それに砂時計と折れた槍を持った「死」が描かれている。
 若い女性は美しさの盛りであり、生の豊かさを謳歌しているさなかである。しかしその隣の老女は「美しいお前が味わっている人生の豊かさは束の間のものであって、すぐに私のような醜い存在になってしまうのだ。さあ、早くこっちに来なさい」というふうな表情で布を引っ張っている。そして老女と一体化した「死」は、その流れる時の速さを測るかのように砂時計を見つめている。
 この不快な絵、好意的に解釈するなら、「若きの日は貴重である。だから大事に使いなさい」との教訓を描いたものとかにもなりそうだが、しかし絵そのものからは、中心に置かれた老女の存在感がもっとも強く、それはやはりこの世に実在する、最も死に近きアイコンとして扱われていると解釈せざるをえない。

 

 もう一枚、有名な老女の絵をあげてみよう。

【la Vecchia(老女)】

Col_tempo

 天才画家ジョルジョーネ作。16世紀に画かれたもので、当時肖像画というものはたいてい金持ちから注文されるものであり、こういう一般の女性の老いたる姿の肖像画自体がたいへん珍しい。どのような意図でもって画かれたのか不明であるけど、ヒントらしきものはある。それは老女の手に握られた紙片であり、そこには「Col tempo /(with time)時とともに」と書かれてある。つまりは「老女」そのものを題材にしたものではなく、そこには時間というものが大事な役割を果たしていて、そして老女は時間によってそうなったということだ。この老女は今まで述べた概念に沿うごとく、人生に疲れ切った表情をし、もはや若きときの美しさは全て失われた、死に近き存在に思える。ま、典型的な「老女」だ。
 こういう、「時がたてば、どんなに美しい女でもこうなってしまうんだ」という、女性への悪意に満ちた、掛けておいて不快になるような、どこにも置き場のないような絵ってなぜ画かれたのだろう。
 つらつらと私が妄想するに、この絵にはモデルがあったのだろう。それも若い美人の。ある時その女性に懸想した画家がくどいたところ、こっぴどく振られた。それを逆恨みした画家、なんとか仕返しをしたく、いろいろと考えたところ、己の卓越した技術を用いることを思いついた。その女性の年を取ったリアルな姿を想像して描き、時とともに必ず来る醜い姿を見せつけるという。その陰険な企てに画家は持てる技術を全て使い、その女性が見れば、絶対に己自身の老いた姿ということが分かる超写実的な絵を生みだした。そしてそれを彼女に送りつけ、恐怖と絶望に沈ませるという、思い通りの結果を得て画家は大いに満足した、とかいうのはどうだろう。じっさいそれくらいの強い意思がないと、このような悪意の塊のような絵は描けないと思う。
 ただ、画家の真意なり悪意がどうあれ、老女の概念の典型を目指したようなこの絵は、描いた画家ジョルジョーネが天才であったために、当初の意図を超えた、偉大な名画となっている。
 老女はたしかに人生に疲れ果てた老残の姿をさらしているけど、そこには真摯に懸命に辛い人生をやり遂げた形が、表情に克明に刻まれており、そしてその人生から得られた諦念とか洞察とか悟りとか慈愛といった複雑にして深奥な精神が、その強い眼差しから伝わってくる。余計なことが書かれた紙変がなければ、この絵はある老女の一生の精神劇を画像化した名品として、普通に観賞されるであろうに。まったくもってもったいない。

 

 キャッツのグリザベラついでに、絵の紹介まで来たけど、最後の私の妄想のところ、じつはネタみたいなものがある。
 ジョルジョーネの「老女」のモデル、いろいろと説はあるのだけど、有力なものにジョルジョーネの代表作「テンペスタ」の女性モデルを老化させたものというのがある。テンペスタに描かれている授乳中の半裸の若い女性がそれで、この女性と老女は顔の輪郭とかパーツのつくりがほぼ一致するそうだ。だからもしその若い女性をわざわざ老化させた絵を描いたなら、その理由って、やっぱりモデルへの嫌がらせくらいしか思いつかないので、先のような妄想を思いついた次第。

【テンペスタ La Tempesta】

Latempest

【比較】

Compare

 似ている…… のかなあ。

 

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March 16, 2019

キュリオス@シルクドソレイユ福岡公演

1kurios

 シルク・ドゥ・ソレイユ30周年を記念する作品ということで、彼らの芸の集大成みたいなところもあるショー。
 開演前に、ステージには産業革命の時代のころと思しき骨董品(サイズはでかい)が並べられ、真空管はピカピカと光り、蓄音器からはホーンよりレトロな音楽が流れ、それらはいちおう現役のもののようである。そして開幕して蒸気機関車が現れ、そこからアーティストたちが続々と現れ、それぞれの芸を見せる、というなかなか懐古的にして情緒的な演出。

 そして、いくつものショーが為されていく。これ、最初のシーンからは、ショーが進むにつれ文明が発展していくような筋書きなのかと予想していたけど、そういうことはなく、いつものごとくシルク・ドゥ・ソレイユ得意の大道芸に、筋力自慢の力芸が次々と披露されていく。それらには何のつながりがあるようにも思えず、昔のシルク・ドゥ・ソレイユがやっていた全体が統合された象徴的ストーリーというのからはずいぶんと離れたところに来た、という印象を受けた。

 まあそのほうが小難しいことは考えずに、アーテイスト達の人間離れした、超人的芸をありのまま楽しめるわけで、シルク・ドゥ・ソレイユを観たとき常に感じる、「人間って、鍛えればこれほどまでのことが出来るんだ」という感嘆が、より直接的に出て来る。

 まったくシルク・ドゥ・ソレイユは一貫して人間賛歌をやっているサーカス団であり、そのショーを観ると、何か勇気とかやる気とかが湧いてくる。
 福岡にシルク・ドゥ・ソレイユが来るたびに観にいっているけど、今回もいいものを観させてもらった

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September 20, 2018

オセロ@ロンドン グローブ座

【グローブ座】
Globe_theatre

 イギリスという国は、ヨーロッパにおいて政治・経済・産業・科学等の分野で歴史的に非常に重要な役割を果たした国であるが、芸術面においてはさしたる役を果たしていない面がある。
 それこそ大英博物館に行ったら、そこには偉大な美術品は数多くあるものの、大半は他国から持ち運んできたものであり、自国産のものは極めて乏しく、イギリスは芸術に関しては、国力が弱かったようだ。
 ではイギリスに偉大な芸術を生み出す作家はいなかったかといえば、まあ数は全然いないのだが、一人だけ特筆すべき大物がいて、彼一人でその分野において、それ以後の作家を全員束にしてもとうてい敵わないような仕事を成し遂げた、そういう大天才がいる。
 もちろん、ウィリアム・シェイクスピアのことであって、彼の創作した劇はいまなお世界中で演じられ、ずっと高い人気を保ち、かつ現代の劇作家たちにも尽きることなき影響を与え続けている。

 だからイギリスに行ったからには、シェイクスピアの劇は当然観るべきであり、そしてそれは聖地グローブ座で観るに限る。
 それではネットでグローブ座のチケットを購入してみよう。で、グローブ座のホームページを開くと、いろいろな劇が載っていたけど、旅程からは「オセロ」しか観られないことが分かった。「オセロ」は、シェイクスピアの劇のなかでは私は例外的にあまり好きでないのだが、しかしこれしかないのでとにかくゲット。

 ゲットしたのちメールが来て、料金払ってチケットを自宅に送ってもらうか、あるいはメールの添付アドレスにあるチケットを印刷して持ってくること、とのことが書いていた。そりゃ印刷のほうが楽なので印刷してみた。

【Eチケット(の一部)】
Ticket_2

 印刷したはいいのだけど、PDF文書を印刷しただけの「print at home tickets」なるEチケットであり、バーコードやQRコードがあるわけでもなく、これって簡単に偽造ができそうである。
 それでこんなのが本当に使えるのかいと不安に思い、念のため当日早めに劇場に行ってカウンターで聞いてみたら、まったく問題なしとのことで、ひと安心。私以外にも同じように不安に思う人もたぶんいるであろうから、いちおうwebに情報提供しときました。

 そして劇が始まった。
 私はシェイクスピアの悲劇では、オセロは苦手である。
 何故かというと、登場人物がイヤーゴを除いて、全員馬鹿にしか見えないからだ。それゆえ、馬鹿の群れが、一人の悪人に振り回され、悲劇の底に陥って行く、そういう馬鹿の愚かな集団劇に思え、悲劇特有のカタルシスを感じられないからである。
 そしてさらに大事なことには、シェイクスピアの主な悲劇は、登場人物は各人が懸命に自分の人生を己の強い意思で切り開いているけど、劇全体には、見えない巨大な歯車のようなものが回っていて、誰しもがいかに逃れようとしても、その歯車に巻き込まれ、砕かれ、破滅していく、そういう形をとっている。脚本の行間全体に感じ取れる、劇を進行させていくその歯車の超自然的かつ圧倒的な存在感が、シェイクスピア悲劇の真の醍醐味と私は思うのだが、「オセロ」にはそういうものはない。
 劇を回していくのは、イヤーゴという、肉体を持った一人の人間であり、彼の策略通りに人々は動き、そして破滅していく。それゆえ、その劇は「人間の劇」以上のものは感じられない。

 というふうな印象を私は持っていたわけだが、舞台が始まってしまうと、やっぱりシェイクスピアだけあって、とても面白い。なにしろあらゆる台詞が過剰なまでに美しく、過剰なまでに意味深いものなので、その素晴らしい台詞を一流の役者たちが途切れることなく喋りまくるのだから、まさに言葉の贅沢なショーである。

 さらには劇を読んでいるだけでは分からないものが、舞台にするとよく分かったりする。
 「オセロ」では、イヤーゴが劇進行係であり、その台詞は非常に多い。そしてその台詞の多くは一人言であり、彼はなんらかの行動をなすとき、常に一人言を言って説明をするので読者は筋を容易に追えるわけだが、現実的にはあんなに一人言を言う人間の存在は奇妙である。「オセロ」を読んでいると、「なんでこの男はこんなに一人言ばかり言うのだろう?」と変に思ってしまうのだが、舞台を観てそのわけがわかった。
 あれは一人言ではなかった。観客に向かって己の心情と行動を説明しているのであった。
 グローブ座の造りは、舞台のすぐ前が立見席になっていて、役者たちは観客に話しかけ、その反応を伺いながら演技を進めて行く。反応が悪いと、そこにちょっとしたアドリブも追加されていた。そしてそのやり取りには笑いもあり、憎しみもあり、恐怖もある。シェイクスピアの劇は、観客も劇のなかに取り込む、全体一体型の仕組みであり、まさに生き物であったのだ。

 そういう具合に、興味深く劇を観るうち、終幕となる。
 本来「オセロ」は罪なく気高きものが滅び、悪人はなんの反省もなく沈黙に沈む、なんの救いもないエンディングなのだが、現代的感覚ではこれはひどい、ということになっているのであろうか、そのあとに舞踊と歌による、「でも、二人はあの世で、あらためて結ばれることになりました」というふうなシーンが付け加えられていた。
 たいへん美しいシーンではあったが、……まあ蛇足だよな。

 「オセロ」、好きではなかったが、やっぱりシェイクスピア、圧倒されるものがありました。
 そして、次回は「マクベス」「ハムレット」「リア王」、残りの悲劇も是非観たい。

 ……………………………

【グローブ座】
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 立見席のヤードはもちろん自由席。
 早めに並ぶと、舞台のすぐ近くで観ることが出来る。でも、90分立ちっぱなしは、中年の人とかにはきつそうであった。

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September 01, 2018

ミュージカル:オペラ座の怪人@ケンヒル版

Phantom

 東京に行く用事があり、そのついでに何か面白そうなコンサートはないかなと探したところ、渋谷ヒカリエでの開演のミュージカル「オペラ座の怪人(ケンヒル版)」を見つけた。「オペラ座の怪人」、といえばもちろん天才アンドリュー・ロイド・ウェーバーによるものが有名だけど、それより先につくられたケンヒル版もなかなかの傑作との説明があり、それではと行ってみることにした。

 オペラ座の怪人については、私はウェーバー版と、ルルーの原作しか知らず、ケンヒル版については何の予備知識もないまま観てみたが、たいへん面白かった。

 劇の筋については、前半はほぼ原作に準拠したもの。
 有名なウェーバー版は、じつはけっこう原作と異なっている。
 ウェーバー版での主人公ファントムは、容姿にやや難はあるものの、極めて優れた音楽の才能の持ち主で、さらには演出、歌、演技、そして教育でも名人である。彼はその能力を十二分に生かして、若い魅力的な歌手をスター歌手に育てあげ、そして愛人にしてしまう。そしてやがてその愛人の歌唱力と容色が衰えると、彼女を捨て去り、また他の若い女性を同様に育てて愛人にする、ということを繰り返す、なんともけしからん男であり、まさに作曲者自身をモデルにしているかのような、まあそういう「人間味のある」怪人である。
 しかし、ケンヒル版のファントムは、芸術面では圧倒的な才能の持ち主であることは変わりないが、人格画はまったく「非人間的」としかいいようがなく、己の欲のまま妄執に囚われ無慈悲な行動を続けるモンスターであって、その行動が様々な悲劇を起こしていく。

 そういうファントムが主役となって筋を進めて行くので、このミュージカルは陰惨な物語になると思いきや、ファントム以外の登場人物は、歌姫クリスティーヌを除いては、みな変人そろいであり、彼らのやりとりは始終コミカルなものとなり、ファントムの毒が彼らによって中和される、なんとも微妙なダークコメディとなっている。そして、そこで流れる音楽は、どれも美しく、舞台の美しさもあいまって、全体的にはファンタジックな雰囲気に満ちている。

 そうして、今回のミュージカル、肝心の役者の演技と歌が、これがまた高いレベルのものであった。まあ、主役にジョン・オーェン=ジョーンズみたいなミュージカル界の大スターを招聘しているくらいなので、それは予想できていたことだが、彼のみならず、出演者たち全体のレベルが高く、アンサンブルも見事なもので、とても素晴らしいミュージカルとなっていた。

 この「オペラ座の怪人」。ウェーバー版のかげに隠れてあまり知られることないミュージカルだが、まったくアプローチの違う、そしてとても個性的なものであって、観てとても得をした気分になった。

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March 28, 2015

オーヴォ@シルクドソレイユ福岡公演

Ovo

 定期的に新作の公演を行っているシルクドソレイユ。
 今年の新作は「オーヴォ」。虫の世界をつかって、シルクドソレイユならではの幻想的、情緒的なショーとのことである。
 
 今回の劇「オーヴォ」の筋については、いつものような筋があってなきがごときものではなくて、いちおう旅人の恋物語ふうなものになっていた。
 とある虫がいっぱいいる所を訪れた旅人トゲ虫が、そこでテントウ虫に恋をする。それを見た周囲の虫たちが、茶化したり、応援したり、あるいは全然関係なしに盛り上がったりして、様々な虫達の大宴会(?)が広げられる。
 これらがどれもこれも圧巻。コオロギ、コオロギ、クモ、コガネムシ、アリ、トンボ等々が、重力の法則を無視したような、とんでもないパフォーマンスを次々に繰り広げる。

 シルクドソレイユを初めて見たとき、その超人的な体術に圧倒されたけれど、今回もまた同様に圧倒されてしまった。なにをどうやったらこんなこと出来るんだろうとか、そもそもこの人たちは関節の可動域がどうかしているとか、命知らずにもほどがあるとか、いろいろと呆れ、感嘆してしまうパフォーマンスが途切れることなく繰り出される。

 まあ、この劇は虫たちのパフォーマンスの擬人化なのであって、確かに虫なら、現実界でもとんでもなく飛べるし、走られるし、跳ねられし、曲がれるし、…で、虫の世界を忠実に具現化したものとも言えるが、それを本当に演じられる団員には感心することしきりなしであった。
 そしてそれらを可能にしたのは、団員たちの絶えまぬ努力と訓練の結果演じられるようになったものなのではあり、あのようなパフォーマンスを間近で見ていると、人間というものは、鍛えれあげれば、ここまでのことが出来るようになるのだと、見ているとなにか人間賛歌のような思いもこみあげてくる、そういうショーでもあった。

 シルクドソレイユ、何度見ても、楽しく、面白く、そして新しい。


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July 05, 2014

ミュージカル:キャッツ

Cats

 福岡キャナルシティでの劇団四季のキャッツを見てきた。

 簡単なあらすじ。
 一年に一度、美しい満月が輝く夜、あるゴミ捨て場でたくさんの猫たちが集まり宴会を開く。その宴では、一匹の猫が選ばれて、「天上に昇って新たな生命を得る」という報酬を受ける。
 そこで個性豊かな猫たちが、歌って、踊って、様々な芸を見せて、自己紹介をする。タップダンスあり、ロックスターパフォーマンスあり、鉄道芸あり、劇中劇あり、どれも見事なものだ。どの猫が選ばれてもおかしくはないレベルの芸が続くなか、「誰よりも賢い猫」ミストフェリーズが圧倒的なダンスとマジックショーを見せ、観客も盛り上がり、この猫が選ばれるであろうという雰囲気になる。
 そこへ老娼婦猫グリザベラが現れる。彼女は皆から忌み嫌われ、他の猫の傍によることさえ拒絶されるほどの存在だったのだが、舞台にあがり、「memory」を歌いだすと、皆その美声と表現力に呆然とし、歌い終えると、皆手のひらを返して歓喜で彼女を迎え、そうしてグリザベラが「選ばれた猫」となり、天上への階段を上って行く。
 まさに「芸は身を助く」という諺の実践例である。
 このグリザベラの登場から歌唱、昇天までは、そうとうにベタな筋であり、…ここで泣いてたまるかとか思っても、ぜったいに感動して涙が出てしまう。
 まあキャッツという劇の核心は「memory」のところにあるわけだから、演出側もここに一番力を入れ、歌手も一番歌唱力のある人を使うのだろうが、やはり「memory」は泣ける。

 キャッツは美味しいところは全部グリザベラが持っていってしまっているけど、それでもたくさんの猫たちの歌唱とダンスもまた見事なものなのであり、舞台のどのシーンも見ていて楽しいものであった。各猫のダンスをそれぞれもっと集中して見たかったと思うし、キャッツが通い詰めるリピーターの多い劇というのもよく理解できた。


【memory】

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August 24, 2013

レ・ミゼラブル感想:エポニーヌ(3) エポニーヌが終幕に再登場する意味について考えてみてみる

 レ・ミゼラブルで最も印象的な役エポニーヌは第二幕の半ば、革命騒動のなかで絶命し退場する。これで出番はなくなるはずであるが、劇の終幕ジャン・バルジャンの終焉の場で、霊として再登場する。

 もう聞けないと思っていたエポニーヌの歌声が、またここで聞けるわけだから、観衆としてはラッキーな気持ちにはなるのだが、…やっぱり変である。
 ここでのエポニーヌの役は、ジャン・バルジャンを天国に導く天使みたいなものである。ジャン・バルジャンを天国に導く役はもう一人いて、それはファンテーヌであり、この人は終幕の最初のほうから出ている。

 レ・ミゼラブルという劇は、最初の牢獄のシーンからジャン・バルジャンが登場し、そしてジャン・バルジャンの臨終の床が終幕という、徹底的にジャンバルジャンの物語ではある。
 ジャン・バルジャンの後半生は、彼は孤児コゼットを育て嫁に出すことに専念している。ジャン・バルジャンは高い知力と頑健な体力をあわせ持つたいへん有能な人物であるけれど、そういう人物の畢生の仕事がそれというのも、能力の無駄使いのような気がして、私としては気に入らないところがあるのだが、ジャン・バルジャン本人としてはそういうことは考えておらず、コゼットを育て上げることを至上の幸福としていた。
 とはいえコゼットを嫁に出したところでもう自分は用済みと、コゼットと絶縁し、そして死を迎えるにいたり、「自分の人生は正しかったのだろうか? 自分は天国に行けるのだろうか?」 と自問する。

 ここで現われたのがファンテーヌの霊である。
 ファンテーヌはコゼットの母であり、コゼットをジャン・バルジャンに預けた人であるからして、彼に感謝を捧げ、「あなたは天国に行けます」と言うのは当然であり、ジャン・バルジャンの天国への導き手としてこのうえない適役である。

 この感動的で静謐な場面に突如マリウスとコゼットが乱入し雰囲気をぶちこわすのであるが、この若夫婦との会話のあとついにジャン・バルジャンは息を引き取る。

 ここでエポニーヌが登場する。
 観衆はそれでぎょっとしてしまう。
 あとでエポニーヌの霊はジャン・バルジャンを天国に導く第二の精霊として登場したことが分かるのだが、今の時点ではそういうことは分からない。

 そして、エポニーヌが登場したとき舞台上にいるのは、ジャン・バルジャン、ファンテーヌ、マリウス、コゼットの4人である。エポニーヌがそのなかの誰に用があるかと言えば、どう考えてもマリウスであろう。彼女はマリウスに惚れぬき、彼を守るために命を落としたのだから。
 それゆえ、精霊というものが人を天国に導く存在だとしたら、まずはファンテーヌがジャン・バルジャンを導き、次にはエポニーヌがマリウスを天国に導くというのが、話の流れとしては正しい。
 ファンテーヌがジャン・バルジャンと手をつないで天国への道を歩き、エポニーヌがジタバタ暴れるマリウスをつかんで強引にそのあとを追っていったら、牡丹灯籠フランス版みたいで、これはこれで感動的(?)なシーンとなるのでは。

 もちろん劇ではそのような斬新な演出はなされず、エポニーヌはファンテーヌとともに美しい二重唱でジャン・バルジャンの魂の救済を歌い、ジャン・バルジャンは二人の霊に導かれ天国に召される。

 ここでまた問題になるのは、なぜエポニーヌ?である。
 エポニーヌとジャン・バルジャンはほとんど人生での接点はなく、臨終の場でエポニーヌが来たところで、ジャン・バルジャンは「おまえ、誰?」と思うのが普通だろう。それでもジャン・バルジャンがそういう怪訝な表情を見せず、エポニーヌの導きを素直に受けいれた。
 …ということは、エポニーヌが既に高次の存在になっていたからなんでしょうねえ。

 人を懸命に愛することと無償の献身、この劇の大きな主題の体現者エポニーヌは、同じことをおこないそして死んだジャン・バルジャンを迎え導くものとしてふさわしい、天使のような存在になっていた、と結論つけておこう。

 …でも、どうもエポニーヌにそういう役を求めるのはなにかが違うとは私は思う。エポニーヌはもっと人間的であり、霊になってもマリウスに会ったら、そこで号泣してしまいそうな、そういうイメージがある。
 どちらにしろ、劇終幕でのエポニーヌの登場は、少々無理筋気味とは思える。映画でも、ここではエポニーヌは登場せず、ミリエル司教がその役をやっていた。そっちのほうが、万人の納得を得やすいと映画監督が考えたからであろうけど、そのほうが正しいと私も思う。


 エポニーヌ(1)
 エポニーヌ(2)


【Résumé(まとめ)】

 Quand Jean Valjean est mort dans l'épilogue, Esprit de Fantine et sont apparu pour le conduir à paradis.
 Fantine lui a laissé sa fille, et leur observé. Apparaître est naturelle.
 Mais Éponine ne voir plus Jean Valjean dans sa vie, on croit que sa apparaître est étranger.
 Je crois que Éponine devient comme un ange par sa esprit du sacrifice de soi, et elle vient secouirir Jean Valjean par cette qualité。


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レ・ミゼラブル感想:エポニーヌ(2)日本人がエポニーヌを演じる利点など

 エポニーヌは舞台女優なら誰でもやりたいと願う名役であり、多くの女優によって演じられ、それは検索すればいくらでもその動画を見ることができる。
 ただそれらを見ると、私はけっこう違和感を感じることが多い。
 原作のエポニーヌって、極貧の食うや食わずやの生活をしているため、栄養失調で発育不良なのであり、小柄で痩せこけた少女である。しかし、エポニーヌを演じる役者は現代人だからしようがないにせよ、とくに外国の女優などは体格のいい人が多く、その姿からは、エポニーヌの哀れさが伝わってこない。

 私にとってエポニーヌの登場シーンで一番泣けるところは、片思いの悲しさを切々と歌う「オンマイオウン」でも、マリウスに抱かれ息をひきとる「恵みの雨」でもなく、テナルディエ一派によるジャンバルジャン邸襲撃の「プリュメ街の襲撃」である。

 ジャン・バルジャン邸の裏庭でコゼットとマリウスが逢引しているところ、エポニーヌの父親テナルディエと悪党一派が、強盗しに押し寄せて来る。二人の愛が成就するかどうか大事なところなのに、ここで家に押し入られては滅茶苦茶になってしまう。エポニーヌは扉の前に立ちはだかり、こんな家に入ってもしょうがないよと言い、必死に防ごうとする。しかしテナルディエは邪魔するな、とエポニーヌを容易に押し倒す。
 ここの場面は、エポニーヌは原作とおりに小柄で華奢な娘でないと、エポニーヌの健気さ懸命さが、最大限には伝わらない。動画で見られる、体格のしっかりした女優が扉の前に立ったりすると、妙な迫力があって、どうにもしっくりこない。

 それゆえ、エポニーヌ役は日本人が演じるメリットのずいぶんとある役に思えた。
 日本人ってどうやっても外国人には体格では負けるのだが、そのぶん華奢な体格が普通ゆえ、エポニーヌはどの人がやっても、いかにもエポニーヌという感じになり舞台で自然である。
 それで、エポニーヌが最初登場したとき、その姿を見て安心感を覚えた。


Hiranoaya_2

 私の観た舞台では、エポニーヌは平野綾さんが演じていた。
 彼女はエポニーヌ役にしては少々美人すぎるような気がしないでもないが、ただし「エポニーヌは不器量な娘である」との思いこみは、あくまでもミュージカル限定のものである。エポニーヌは歌唱力が要される役なので、配役には容姿よりも歌唱力が優先されるため、その手の俳優が選ばれることが多かったからそういう認識が出来上がってしまったのだけれども、しかし原作には、「エポニーヌは身なりはみすぼらしいけど、美しい娘である」とちゃんと書かれており、というわけで原作準拠のエポニーヌであったといえる。
 その平野綾さんの演技は、エポニーヌそのものが乗り移ったような熱演であり、どのシーンでもテンション高く、劇をぐいぐいと引っ張っていた。バリケードでの死の場面でも、じつに迫真的な死にかたであった。銃弾で胸を貫かれたのなら、このように苦しんで死ぬんだろうなと誰にも思わせる悶えぶり、そこでの歌詞が「痛くない、つらくない」というんだから、余計に悲しい。

 また先に述べた「プリュメ街の襲撃」での歌唱も上手かった。
 エポニーヌは父親たちに、「この家は老人と娘が普通の暮らしをしているだけで、金などない」と言う。この台詞、オリジナルでは「just the old man and the girl. They live ordinary lives」である。このgirlとはもちろんコゼットのことであり、憎い恋敵でありながら現在懸命に守っている対象なのでもあり、非常に複雑な感情をエポニーヌは抱いているわけで、ここのgirlという言葉の歌唱はその感情を込めて歌わねばならず、歌い手にとってはとても難しく、しかし歌い甲斐のあるところである。
 日本語版では、「爺さんと、ケチな暮らしさ」という歌詞になっているけど、やはりここでの「」の歌いかたは大事なポイントとなっており、そして上手くこなせていたと思った。


 レ・ミゼラブル:エポニーヌ(1)
          エポニーヌ(3)


【Résumé(まとめ)】
 Éponine qui joe la rôle importante de les misérables est petite femme dans le original.
 Mais quand il est joué à l’autre pays, une actrice de grande physique joue souvent elle.Je me sens mal à ça.
 Mais Éponine est joué par la actrice japonaise dans japon. Japonaise est ordinairement petite, nous pouvons voir elles qui ont atmosphère resemblé la Éponine originale.


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 ついでながら「プリュメ街の攻撃」でのオリジナルのgirlの歌い方、やはりレア・サロンガのものが傑出している。この人、超絶的に上手い歌手である。

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ミュージカル:レ・ミゼラブル@博多座  感想 エポニーヌ(1)

Hakataza

 ミュージカル「レ・ミゼラブル」の新演出版。東京公演が好評に終わったのち、福岡へと来た。プリンシパルもアンサンブルも熱気のこもった大熱演。見事な歌と演奏、演技であり、劇全体を通して、とても心を打たれた。

 この劇、いろいろと書いてみたいことは多いのだが、やはりまずはエポニーヌについて書いてみたい。

 レ・ミゼラブルでは、幾人もの魅力的な、主役級の人たちによって物語はつくられ、劇が動いて行く。
 劇の主役はもちろんジャン・バルジャンであるが、しかしエポニーヌはジャン・バルジャンを補助するかのように劇の筋のもう一つの主軸を受け持っていて、その存在感は強く、場合によってはこの劇はエポニーヌの物語にも思えてしまうほどである。

 というのは、ジャン・バルジャンという人物は、どうにも感情移入しにくい面があるからだ。ジャン・バルジャンは、辛酸極まりない前半生において、人を憎むことしか知らなくなった男であるが、放浪の時に崇高なる司教に出会ったことから改心をする。そして人を愛することを覚え、そこから真の幸福を知り、やがて魂が救われるにいたる。彼の苦難と憎悪、そこからの改心と受難、そして救済がレ・ミゼラブルという劇の主筋である。

 この主役であるジャン・バルジャン、観ている側からすると、真面目すぎ、融通が利かず、妙に神懸かりなところがあって、どうにも観ていて辛くなるものがある。彼に融通をきかせる要領さがあれば、もっと豊かな幸せを自分にも他人にも与えられたのに、とかどうしても思ってしまう。

 これに対して、エポニーヌには神懸かったところはなく、自分の感情に素直に生きており、その生き方がたいへん理解しやすい。
 またエポニーヌは、劇のなかの重要な支点であり、彼女とからむことにより人々の交流が広がり、そして筋は流れて行く。
 それゆえ、何処で誰がエポニーヌと絡むかが観劇のポイントとなるが、劇ではエポニーヌは一際目立つ赤い帽子をかぶっており、群衆のシーンのなかでもエポニーヌの所在はすぐに知れ、動きが分かりやすい。こういうのもエポニーヌが演出的に重視しているからであろう。

 エポニーヌは幼少の頃から舞台に登場している。彼女は詐欺師の両親に幼少時から悪事の片棒を担がされるという劣悪な環境で生まれ育った。そしてパリに移り住んだときも、両親と悪党仲間と一緒に泥棒強盗稼業をやっているというひどい環境にいる。観衆は、彼女はさぞかし性格の悪い娘に育ったのだろうな、と予想するわけだが、劇が進行するにつれ、彼女は愛情深い健気な娘であることが分かる。

 なんであの極悪の両親から、こんな素直ないい娘が出来たんだろう、と思ってしまうのだが、…いや、違っていた。劇での主要場面でのエポニーヌの健気ぶりがあまりに印象強いため、エポニーヌはずっとそういう娘だったと観衆は思いがちなのだが、そうではなかった。
 よくよく観れば、エポニーヌは幼い頃は、テナルディ夫人と一緒にコゼットをいじめる意地悪な子供だったし、成長した姿でパリに登場したときも、いきなり「エポニーヌは泥棒一家の一味で、悪いことしても気にしない」などと紹介されており、かなり性悪な娘であることは間違いない。

 しかし、エポニーヌはマリウスを愛するようになってから変貌をとげた。
 彼女は愛を知ったことにより、成長していったのである。
 彼女はマリウスに愛情のありったけを捧げる。それでも全く見向いてもくれないマリウスに対して、彼を幸せにすることに懸命になる。鈍感男マリウスに対して、エポニーヌはマリウスとコゼットのキューピッド役を務めさせられるという、ある意味究極の苛めをマリウスよりくらうわけであるが、そこでの健気なエポニーヌの姿は、心痛くなるまで哀しく、また美しい。


 ジャン・バルジャンの静かな愛の捧げ方に対し、エポニーヌの愛情は、不器用ではあるが、情熱的であり、一直線に進んでいく。
 彼女の恋は悲恋としか言えないのだが、それでも最後には幸福を得ることはできた。惨めな人生の果てに、つかむことのできた幸福を胸に、彼女は息をひきとる。

 レ・ミゼラブルの主題は、ジャン・バルジャンの最期の言葉「To love another person is to see the face of God」という台詞で示されている。これは直訳すれば「他人を愛することは、神の顔を見ること」。分かりやすく訳せば「人を愛することによって、人は天国に行ける」であり、この台詞が三重唄で歌われるところはじつに感動的であり、じっさい舞台でのこの場面は、全観衆落涙必至という名場面。

 ただしジャン・バルジャンはたしかにそういうフシはあるものの、エポニーヌはべつに神様に会いたくて、マリウスを愛したわけではない。彼女は人を愛し、その人を幸福にしょうとした、そしてそのことが彼女の無上の幸福となり、彼女自身を幸福にした。
 ジャン・バルジャンの愛が少々独りよがり気味なのに比べ、エポニーヌの愛と献身は純粋であり誰しも理解しやすい。

 レ・ミゼラブルでは様々な登場人物は、それぞれに愛するものを抱え、それから各々の行動をおこなっている。レ・ミゼラブルは愛情についても多くを語っている物語なのであるが、それについては、私にはジャン・バルジャンよりも、エポニーヌがそれの象徴人物に思え、より劇の主題を深く感じられた。

 というわけで私にとっては、レ・ミゼラブルはまずはエポニーヌの物語なのである。


 エポニーヌ(2)
 エポニーヌ(3)

【Résumé(まとめ)】
 Musicale les misérables s’est joué en Fukuoka ville.
 Exécution, interprétation, chanson tout est été excellent, et je suis été ému.
 Sur ca musicale, je veux ecrire des choses variés.
 Premiére, je ecris par Éponine qui est l’un de personnage de ca musicale.
 Les misérables a beaucoup de objet, l’un dans les grands thèmes est “amour”
 Ce musicale dit en aimant autre persone gen, le gen peut obtenir le bonheur.
 Personne qui symbolise cette thèmes est Éponine, je trouve.
 Histoire d'amour elle est la chose la plus importante dans ca musicale.

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June 01, 2013

マイケル ジャクソン:ザ・イモータル・ワールドツアー@福岡2013年

Michel

 シルクドソレイユが、マイケル・ジャクソンの歌に合わせてパフォーマンスを行う、「ザ・イモータル」。シルクドソレイユとマイケル・ジャクソン両方のファンにとっては、一回で両方とも楽しめるというお得なステージである。
 ただし、1+1が常に2以上のものになるかといえば、案外そうでないことも多く、今回はどうなることであろう。

 ステージ開始。マイケル・ジャクソン風のダンスから始まるが、ダンサーのムーンウォークが全くムーンウォークになっていないのにずっこける。そして、マイケルのアップテンポな曲にあわせて踊り出すのだが、どうにも踊りに切れがないし、シンクロがなってないし、…シルクロソレイユ、ダンスユニットとしては微妙だなあ。
 もしこのダンサーたちが、マイケルのバックダンサーをやってたら、あの完璧主義のマイケル・ジャクソンならキレるだろうな、というレベル。

 それでも、シルクドソレイユの得意技である、鍛え上げられた肉体を使ってのパフォーマンスは、やはり見事なものである。世にダンスの上手いダンサーは数多くあれど、ここまで身体が柔軟に動き、高く跳躍でき、絶妙のバランスで身体を支えられるダンサーはシルクドソレイユ以外どこにもいないだろう、と感心してしまうほど。
 とりわけ圧巻だったのが、screamに合わせての新体操風ダンス。これはさすがに見事にシンクロしており、高い跳躍力も、タイミングも全てが完璧。マイケルの音楽と、シルクドソレイユの超絶的な肉体パフォーマンスの素晴らしい融合であった。

 シルクドソレイユの普段の舞台は、瞑想的、思索的なところがあり、激しい演技のなかにも、静かに思考を強いるようなところがあるけど、「ザ・イモータル」は、初めから終わりまでマイケルのリズミカルな音楽に合わせて、踊りまくり、演技しまくっていて、そしてその姿は、彼らが本当にマイケル・ジャクソンが好きで、彼の音楽に合わせて踊り、パフォーマンスすることが楽しくてたまらないという、弾けるような喜びを感じさせるものであった。

 シルクドソレイユの新しい一面を知ることが出来たステージであった。
 まあ、ダンスには少々不満はあったが、シルクドソレイユでしか見られない超人的なパフォーマンスが、よく知っているマイケルの曲にあわせて、2時間濃密に演じられたステージは、やはり大いに見るべき価値のあるものであった。


 「ザ・イモータル・ワールドツアー」 公式サイト

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