演劇

March 28, 2015

オーヴォ@シルクドソレイユ福岡公演

Ovo

 定期的に新作の公演を行っているシルクドソレイユ。
 今年の新作は「オーヴォ」。虫の世界をつかって、シルクドソレイユならではの幻想的、情緒的なショーとのことである。
 
 今回の劇「オーヴォ」の筋については、いつものような筋があってなきがごときものではなくて、いちおう旅人の恋物語ふうなものになっていた。
 とある虫がいっぱいいる所を訪れた旅人トゲ虫が、そこでテントウ虫に恋をする。それを見た周囲の虫たちが、茶化したり、応援したり、あるいは全然関係なしに盛り上がったりして、様々な虫達の大宴会(?)が広げられる。
 これらがどれもこれも圧巻。コオロギ、コオロギ、クモ、コガネムシ、アリ、トンボ等々が、重力の法則を無視したような、とんでもないパフォーマンスを次々に繰り広げる。

 シルクドソレイユを初めて見たとき、その超人的な体術に圧倒されたけれど、今回もまた同様に圧倒されてしまった。なにをどうやったらこんなこと出来るんだろうとか、そもそもこの人たちは関節の可動域がどうかしているとか、命知らずにもほどがあるとか、いろいろと呆れ、感嘆してしまうパフォーマンスが途切れることなく繰り出される。

 まあ、この劇は虫たちのパフォーマンスの擬人化なのであって、確かに虫なら、現実界でもとんでもなく飛べるし、走られるし、跳ねられし、曲がれるし、…で、虫の世界を忠実に具現化したものとも言えるが、それを本当に演じられる団員には感心することしきりなしであった。
 そしてそれらを可能にしたのは、団員たちの絶えまぬ努力と訓練の結果演じられるようになったものなのではあり、あのようなパフォーマンスを間近で見ていると、人間というものは、鍛えれあげれば、ここまでのことが出来るようになるのだと、見ているとなにか人間賛歌のような思いもこみあげてくる、そういうショーでもあった。

 シルクドソレイユ、何度見ても、楽しく、面白く、そして新しい。


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July 05, 2014

ミュージカル:キャッツ

Cats

 福岡キャナルシティでの劇団四季のキャッツを見てきた。

 簡単なあらすじ。
 一年に一度、美しい満月が輝く夜、あるゴミ捨て場でたくさんの猫たちが集まり宴会を開く。その宴では、一匹の猫が選ばれて、「天上に昇って新たな生命を得る」という報酬を受ける。
 そこで個性豊かな猫たちが、歌って、踊って、様々な芸を見せて、自己紹介をする。タップダンスあり、ロックスターパフォーマンスあり、鉄道芸あり、劇中劇あり、どれも見事なものだ。どの猫が選ばれてもおかしくはないレベルの芸が続くなか、「誰よりも賢い猫」ミストフェリーズが圧倒的なダンスとマジックショーを見せ、観客も盛り上がり、この猫が選ばれるであろうという雰囲気になる。
 そこへ老娼婦猫グリザベラが現れる。彼女は皆から忌み嫌われ、他の猫の傍によることさえ拒絶されるほどの存在だったのだが、舞台にあがり、「memory」を歌いだすと、皆その美声と表現力に呆然とし、歌い終えると、皆手のひらを返して歓喜で彼女を迎え、そうしてグリザベラが「選ばれた猫」となり、天上への階段を上って行く。
 まさに「芸は身を助く」という諺の実践例である。
 このグリザベラの登場から歌唱、昇天までは、そうとうにベタな筋であり、…ここで泣いてたまるかとか思っても、ぜったいに感動して涙が出てしまう。
 まあキャッツという劇の核心は「memory」のところにあるわけだから、演出側もここに一番力を入れ、歌手も一番歌唱力のある人を使うのだろうが、やはり「memory」は泣ける。

 キャッツは美味しいところは全部グリザベラが持っていってしまっているけど、それでもたくさんの猫たちの歌唱とダンスもまた見事なものなのであり、舞台のどのシーンも見ていて楽しいものであった。各猫のダンスをそれぞれもっと集中して見たかったと思うし、キャッツが通い詰めるリピーターの多い劇というのもよく理解できた。


【memory】

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August 24, 2013

レ・ミゼラブル感想:エポニーヌ(3) エポニーヌが終幕に再登場する意味について考えてみてみる

 レ・ミゼラブルで最も印象的な役エポニーヌは第二幕の半ば、革命騒動のなかで絶命し退場する。これで出番はなくなるはずであるが、劇の終幕ジャン・バルジャンの終焉の場で、霊として再登場する。

 もう聞けないと思っていたエポニーヌの歌声が、またここで聞けるわけだから、観衆としてはラッキーな気持ちにはなるのだが、…やっぱり変である。
 ここでのエポニーヌの役は、ジャン・バルジャンを天国に導く天使みたいなものである。ジャン・バルジャンを天国に導く役はもう一人いて、それはファンテーヌであり、この人は終幕の最初のほうから出ている。

 レ・ミゼラブルという劇は、最初の牢獄のシーンからジャン・バルジャンが登場し、そしてジャン・バルジャンの臨終の床が終幕という、徹底的にジャンバルジャンの物語ではある。
 ジャン・バルジャンの後半生は、彼は孤児コゼットを育て嫁に出すことに専念している。ジャン・バルジャンは高い知力と頑健な体力をあわせ持つたいへん有能な人物であるけれど、そういう人物の畢生の仕事がそれというのも、能力の無駄使いのような気がして、私としては気に入らないところがあるのだが、ジャン・バルジャン本人としてはそういうことは考えておらず、コゼットを育て上げることを至上の幸福としていた。
 とはいえコゼットを嫁に出したところでもう自分は用済みと、コゼットと絶縁し、そして死を迎えるにいたり、「自分の人生は正しかったのだろうか? 自分は天国に行けるのだろうか?」 と自問する。

 ここで現われたのがファンテーヌの霊である。
 ファンテーヌはコゼットの母であり、コゼットをジャン・バルジャンに預けた人であるからして、彼に感謝を捧げ、「あなたは天国に行けます」と言うのは当然であり、ジャン・バルジャンの天国への導き手としてこのうえない適役である。

 この感動的で静謐な場面に突如マリウスとコゼットが乱入し雰囲気をぶちこわすのであるが、この若夫婦との会話のあとついにジャン・バルジャンは息を引き取る。

 ここでエポニーヌが登場する。
 観衆はそれでぎょっとしてしまう。
 あとでエポニーヌの霊はジャン・バルジャンを天国に導く第二の精霊として登場したことが分かるのだが、今の時点ではそういうことは分からない。

 そして、エポニーヌが登場したとき舞台上にいるのは、ジャン・バルジャン、ファンテーヌ、マリウス、コゼットの4人である。エポニーヌがそのなかの誰に用があるかと言えば、どう考えてもマリウスであろう。彼女はマリウスに惚れぬき、彼を守るために命を落としたのだから。
 それゆえ、精霊というものが人を天国に導く存在だとしたら、まずはファンテーヌがジャン・バルジャンを導き、次にはエポニーヌがマリウスを天国に導くというのが、話の流れとしては正しい。
 ファンテーヌがジャン・バルジャンと手をつないで天国への道を歩き、エポニーヌがジタバタ暴れるマリウスをつかんで強引にそのあとを追っていったら、牡丹灯籠フランス版みたいで、これはこれで感動的(?)なシーンとなるのでは。

 もちろん劇ではそのような斬新な演出はなされず、エポニーヌはファンテーヌとともに美しい二重唱でジャン・バルジャンの魂の救済を歌い、ジャン・バルジャンは二人の霊に導かれ天国に召される。

 ここでまた問題になるのは、なぜエポニーヌ?である。
 エポニーヌとジャン・バルジャンはほとんど人生での接点はなく、臨終の場でエポニーヌが来たところで、ジャン・バルジャンは「おまえ、誰?」と思うのが普通だろう。それでもジャン・バルジャンがそういう怪訝な表情を見せず、エポニーヌの導きを素直に受けいれた。
 …ということは、エポニーヌが既に高次の存在になっていたからなんでしょうねえ。

 人を懸命に愛することと無償の献身、この劇の大きな主題の体現者エポニーヌは、同じことをおこないそして死んだジャン・バルジャンを迎え導くものとしてふさわしい、天使のような存在になっていた、と結論つけておこう。

 …でも、どうもエポニーヌにそういう役を求めるのはなにかが違うとは私は思う。エポニーヌはもっと人間的であり、霊になってもマリウスに会ったら、そこで号泣してしまいそうな、そういうイメージがある。
 どちらにしろ、劇終幕でのエポニーヌの登場は、少々無理筋気味とは思える。映画でも、ここではエポニーヌは登場せず、ミリエル司教がその役をやっていた。そっちのほうが、万人の納得を得やすいと映画監督が考えたからであろうけど、そのほうが正しいと私も思う。


 エポニーヌ(1)
 エポニーヌ(2)


【Résumé(まとめ)】

 Quand Jean Valjean est mort dans l'épilogue, Esprit de Fantine et sont apparu pour le conduir à paradis.
 Fantine lui a laissé sa fille, et leur observé. Apparaître est naturelle.
 Mais Éponine ne voir plus Jean Valjean dans sa vie, on croit que sa apparaître est étranger.
 Je crois que Éponine devient comme un ange par sa esprit du sacrifice de soi, et elle vient secouirir Jean Valjean par cette qualité。


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レ・ミゼラブル感想:エポニーヌ(2)日本人がエポニーヌを演じる利点など

 エポニーヌは舞台女優なら誰でもやりたいと願う名役であり、多くの女優によって演じられ、それは検索すればいくらでもその動画を見ることができる。
 ただそれらを見ると、私はけっこう違和感を感じることが多い。
 原作のエポニーヌって、極貧の食うや食わずやの生活をしているため、栄養失調で発育不良なのであり、小柄で痩せこけた少女である。しかし、エポニーヌを演じる役者は現代人だからしようがないにせよ、とくに外国の女優などは体格のいい人が多く、その姿からは、エポニーヌの哀れさが伝わってこない。

 私にとってエポニーヌの登場シーンで一番泣けるところは、片思いの悲しさを切々と歌う「オンマイオウン」でも、マリウスに抱かれ息をひきとる「恵みの雨」でもなく、テナルディエ一派によるジャンバルジャン邸襲撃の「プリュメ街の襲撃」である。

 ジャン・バルジャン邸の裏庭でコゼットとマリウスが逢引しているところ、エポニーヌの父親テナルディエと悪党一派が、強盗しに押し寄せて来る。二人の愛が成就するかどうか大事なところなのに、ここで家に押し入られては滅茶苦茶になってしまう。エポニーヌは扉の前に立ちはだかり、こんな家に入ってもしょうがないよと言い、必死に防ごうとする。しかしテナルディエは邪魔するな、とエポニーヌを容易に押し倒す。
 ここの場面は、エポニーヌは原作とおりに小柄で華奢な娘でないと、エポニーヌの健気さ懸命さが、最大限には伝わらない。動画で見られる、体格のしっかりした女優が扉の前に立ったりすると、妙な迫力があって、どうにもしっくりこない。

 それゆえ、エポニーヌ役は日本人が演じるメリットのずいぶんとある役に思えた。
 日本人ってどうやっても外国人には体格では負けるのだが、そのぶん華奢な体格が普通ゆえ、エポニーヌはどの人がやっても、いかにもエポニーヌという感じになり舞台で自然である。
 それで、エポニーヌが最初登場したとき、その姿を見て安心感を覚えた。


Hiranoaya_2

 私の観た舞台では、エポニーヌは平野綾さんが演じていた。
 彼女はエポニーヌ役にしては少々美人すぎるような気がしないでもないが、ただし「エポニーヌは不器量な娘である」との思いこみは、あくまでもミュージカル限定のものである。エポニーヌは歌唱力が要される役なので、配役には容姿よりも歌唱力が優先されるため、その手の俳優が選ばれることが多かったからそういう認識が出来上がってしまったのだけれども、しかし原作には、「エポニーヌは身なりはみすぼらしいけど、美しい娘である」とちゃんと書かれており、というわけで原作準拠のエポニーヌであったといえる。
 その平野綾さんの演技は、エポニーヌそのものが乗り移ったような熱演であり、どのシーンでもテンション高く、劇をぐいぐいと引っ張っていた。バリケードでの死の場面でも、じつに迫真的な死にかたであった。銃弾で胸を貫かれたのなら、このように苦しんで死ぬんだろうなと誰にも思わせる悶えぶり、そこでの歌詞が「痛くない、つらくない」というんだから、余計に悲しい。

 また先に述べた「プリュメ街の襲撃」での歌唱も上手かった。
 エポニーヌは父親たちに、「この家は老人と娘が普通の暮らしをしているだけで、金などない」と言う。この台詞、オリジナルでは「just the old man and the girl. They live ordinary lives」である。このgirlとはもちろんコゼットのことであり、憎い恋敵でありながら現在懸命に守っている対象なのでもあり、非常に複雑な感情をエポニーヌは抱いているわけで、ここのgirlという言葉の歌唱はその感情を込めて歌わねばならず、歌い手にとってはとても難しく、しかし歌い甲斐のあるところである。
 日本語版では、「爺さんと、ケチな暮らしさ」という歌詞になっているけど、やはりここでの「」の歌いかたは大事なポイントとなっており、そして上手くこなせていたと思った。


 レ・ミゼラブル:エポニーヌ(1)
          エポニーヌ(3)


【Résumé(まとめ)】
 Éponine qui joe la rôle importante de les misérables est petite femme dans le original.
 Mais quand il est joué à l’autre pays, une actrice de grande physique joue souvent elle.Je me sens mal à ça.
 Mais Éponine est joué par la actrice japonaise dans japon. Japonaise est ordinairement petite, nous pouvons voir elles qui ont atmosphère resemblé la Éponine originale.


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 ついでながら「プリュメ街の攻撃」でのオリジナルのgirlの歌い方、やはりレア・サロンガのものが傑出している。この人、超絶的に上手い歌手である。

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ミュージカル:レ・ミゼラブル@博多座  感想 エポニーヌ(1)

Hakataza

 ミュージカル「レ・ミゼラブル」の新演出版。東京公演が好評に終わったのち、福岡へと来た。プリンシパルもアンサンブルも熱気のこもった大熱演。見事な歌と演奏、演技であり、劇全体を通して、とても心を打たれた。

 この劇、いろいろと書いてみたいことは多いのだが、やはりまずはエポニーヌについて書いてみたい。

 レ・ミゼラブルでは、幾人もの魅力的な、主役級の人たちによって物語はつくられ、劇が動いて行く。
 劇の主役はもちろんジャン・バルジャンであるが、しかしエポニーヌはジャン・バルジャンを補助するかのように劇の筋のもう一つの主軸を受け持っていて、その存在感は強く、場合によってはこの劇はエポニーヌの物語にも思えてしまうほどである。

 というのは、ジャン・バルジャンという人物は、どうにも感情移入しにくい面があるからだ。ジャン・バルジャンは、辛酸極まりない前半生において、人を憎むことしか知らなくなった男であるが、放浪の時に崇高なる司教に出会ったことから改心をする。そして人を愛することを覚え、そこから真の幸福を知り、やがて魂が救われるにいたる。彼の苦難と憎悪、そこからの改心と受難、そして救済がレ・ミゼラブルという劇の主筋である。

 この主役であるジャン・バルジャン、観ている側からすると、真面目すぎ、融通が利かず、妙に神懸かりなところがあって、どうにも観ていて辛くなるものがある。彼に融通をきかせる要領さがあれば、もっと豊かな幸せを自分にも他人にも与えられたのに、とかどうしても思ってしまう。

 これに対して、エポニーヌには神懸かったところはなく、自分の感情に素直に生きており、その生き方がたいへん理解しやすい。
 またエポニーヌは、劇のなかの重要な支点であり、彼女とからむことにより人々の交流が広がり、そして筋は流れて行く。
 それゆえ、何処で誰がエポニーヌと絡むかが観劇のポイントとなるが、劇ではエポニーヌは一際目立つ赤い帽子をかぶっており、群衆のシーンのなかでもエポニーヌの所在はすぐに知れ、動きが分かりやすい。こういうのもエポニーヌが演出的に重視しているからであろう。

 エポニーヌは幼少の頃から舞台に登場している。彼女は詐欺師の両親に幼少時から悪事の片棒を担がされるという劣悪な環境で生まれ育った。そしてパリに移り住んだときも、両親と悪党仲間と一緒に泥棒強盗稼業をやっているというひどい環境にいる。観衆は、彼女はさぞかし性格の悪い娘に育ったのだろうな、と予想するわけだが、劇が進行するにつれ、彼女は愛情深い健気な娘であることが分かる。

 なんであの極悪の両親から、こんな素直ないい娘が出来たんだろう、と思ってしまうのだが、…いや、違っていた。劇での主要場面でのエポニーヌの健気ぶりがあまりに印象強いため、エポニーヌはずっとそういう娘だったと観衆は思いがちなのだが、そうではなかった。
 よくよく観れば、エポニーヌは幼い頃は、テナルディ夫人と一緒にコゼットをいじめる意地悪な子供だったし、成長した姿でパリに登場したときも、いきなり「エポニーヌは泥棒一家の一味で、悪いことしても気にしない」などと紹介されており、かなり性悪な娘であることは間違いない。

 しかし、エポニーヌはマリウスを愛するようになってから変貌をとげた。
 彼女は愛を知ったことにより、成長していったのである。
 彼女はマリウスに愛情のありったけを捧げる。それでも全く見向いてもくれないマリウスに対して、彼を幸せにすることに懸命になる。鈍感男マリウスに対して、エポニーヌはマリウスとコゼットのキューピッド役を務めさせられるという、ある意味究極の苛めをマリウスよりくらうわけであるが、そこでの健気なエポニーヌの姿は、心痛くなるまで哀しく、また美しい。


 ジャン・バルジャンの静かな愛の捧げ方に対し、エポニーヌの愛情は、不器用ではあるが、情熱的であり、一直線に進んでいく。
 彼女の恋は悲恋としか言えないのだが、それでも最後には幸福を得ることはできた。惨めな人生の果てに、つかむことのできた幸福を胸に、彼女は息をひきとる。

 レ・ミゼラブルの主題は、ジャン・バルジャンの最期の言葉「To love another person is to see the face of God」という台詞で示されている。これは直訳すれば「他人を愛することは、神の顔を見ること」。分かりやすく訳せば「人を愛することによって、人は天国に行ける」であり、この台詞が三重唄で歌われるところはじつに感動的であり、じっさい舞台でのこの場面は、全観衆落涙必至という名場面。

 ただしジャン・バルジャンはたしかにそういうフシはあるものの、エポニーヌはべつに神様に会いたくて、マリウスを愛したわけではない。彼女は人を愛し、その人を幸福にしょうとした、そしてそのことが彼女の無上の幸福となり、彼女自身を幸福にした。
 ジャン・バルジャンの愛が少々独りよがり気味なのに比べ、エポニーヌの愛と献身は純粋であり誰しも理解しやすい。

 レ・ミゼラブルでは様々な登場人物は、それぞれに愛するものを抱え、それから各々の行動をおこなっている。レ・ミゼラブルは愛情についても多くを語っている物語なのであるが、それについては、私にはジャン・バルジャンよりも、エポニーヌがそれの象徴人物に思え、より劇の主題を深く感じられた。

 というわけで私にとっては、レ・ミゼラブルはまずはエポニーヌの物語なのである。


 エポニーヌ(2)
 エポニーヌ(3)

【Résumé(まとめ)】
 Musicale les misérables s’est joué en Fukuoka ville.
 Exécution, interprétation, chanson tout est été excellent, et je suis été ému.
 Sur ca musicale, je veux ecrire des choses variés.
 Premiére, je ecris par Éponine qui est l’un de personnage de ca musicale.
 Les misérables a beaucoup de objet, l’un dans les grands thèmes est “amour”
 Ce musicale dit en aimant autre persone gen, le gen peut obtenir le bonheur.
 Personne qui symbolise cette thèmes est Éponine, je trouve.
 Histoire d'amour elle est la chose la plus importante dans ca musicale.

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June 01, 2013

マイケル ジャクソン:ザ・イモータル・ワールドツアー@福岡2013年

Michel

 シルクドソレイユが、マイケル・ジャクソンの歌に合わせてパフォーマンスを行う、「ザ・イモータル」。シルクドソレイユとマイケル・ジャクソン両方のファンにとっては、一回で両方とも楽しめるというお得なステージである。
 ただし、1+1が常に2以上のものになるかといえば、案外そうでないことも多く、今回はどうなることであろう。

 ステージ開始。マイケル・ジャクソン風のダンスから始まるが、ダンサーのムーンウォークが全くムーンウォークになっていないのにずっこける。そして、マイケルのアップテンポな曲にあわせて踊り出すのだが、どうにも踊りに切れがないし、シンクロがなってないし、…シルクロソレイユ、ダンスユニットとしては微妙だなあ。
 もしこのダンサーたちが、マイケルのバックダンサーをやってたら、あの完璧主義のマイケル・ジャクソンならキレるだろうな、というレベル。

 それでも、シルクドソレイユの得意技である、鍛え上げられた肉体を使ってのパフォーマンスは、やはり見事なものである。世にダンスの上手いダンサーは数多くあれど、ここまで身体が柔軟に動き、高く跳躍でき、絶妙のバランスで身体を支えられるダンサーはシルクドソレイユ以外どこにもいないだろう、と感心してしまうほど。
 とりわけ圧巻だったのが、screamに合わせての新体操風ダンス。これはさすがに見事にシンクロしており、高い跳躍力も、タイミングも全てが完璧。マイケルの音楽と、シルクドソレイユの超絶的な肉体パフォーマンスの素晴らしい融合であった。

 シルクドソレイユの普段の舞台は、瞑想的、思索的なところがあり、激しい演技のなかにも、静かに思考を強いるようなところがあるけど、「ザ・イモータル」は、初めから終わりまでマイケルのリズミカルな音楽に合わせて、踊りまくり、演技しまくっていて、そしてその姿は、彼らが本当にマイケル・ジャクソンが好きで、彼の音楽に合わせて踊り、パフォーマンスすることが楽しくてたまらないという、弾けるような喜びを感じさせるものであった。

 シルクドソレイユの新しい一面を知ることが出来たステージであった。
 まあ、ダンスには少々不満はあったが、シルクドソレイユでしか見られない超人的なパフォーマンスが、よく知っているマイケルの曲にあわせて、2時間濃密に演じられたステージは、やはり大いに見るべき価値のあるものであった。


 「ザ・イモータル・ワールドツアー」 公式サイト

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