海外旅行

December 29, 2019

ムンジュイックの丘から@バルセロナ

【バルセロナ風景©アイアムヒーロー】

Barcelona

 上図はゾンビ漫画の名作、花沢健吾氏作のアイアムヒーローからの一頁。
 人類が謎の感染症によりほぼ全滅し、無人と化したバルセロナの街を偵察ゾンビが彷徨しているシーンで、バルセロナを最も美しくし俯瞰できる場所を訪れたところ。
 ここを訪れるためにバルセロナを訪れたわけではないのだが、滞在中のホテルがこの場所、ムンジュイックの丘、カタルーニャ美術館のテラスに近いところにあったため、ここをよく訪れることになった。
 そこで見た風景をいろいろ紹介してみる。

【マジカ噴水】

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 カタルーニャ美術館正面にあるマジカ噴水は、夜間にライトアップされる噴水ショーが有名。しかし私が訪れた時期は微妙にショーの時間がずれていたのか、水さえ出ている姿も見ることができず、ただの水たまりであった。

【バルセロナ風景】

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 階段をのぼりきってテラスに立つと、先に漫画で紹介したこのバルセロナの街の風景を望むことができる。
 バルセロナは狭い街なので、主要な建物はここでほぼ見ることができる。

【サグラダ・ファミリア教会遠景】

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 テラスを東側に移動すると、ぽつぽつ立つ高層建築のなかに、ひときわ異様な姿の建物が見える。これが今回のバルセロナ旅行の目的のサグラダ・ファミリア教会であろうが、遠景ゆえ確信はつかない。
 それでここに設置してある、1ユーロの有料双眼鏡で観てみる。

【サグラダ・ファミリア教会】

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 双眼鏡で見ると、間違いなくサグラダ・ファミリア教会であった。
 バルセロナで最も有名であり、世界的にも有名な教会であるが、ナマで観たのは今回が初めてであった。

【マジカ噴水工事風景?】

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 眺めを楽しんだのち階段を下って行くと、大きなクレーン車が入ってきて、なにやら作業していた。何かの工事かと思ったが、翌日その理由が分かった。

【スペイン広場大通り】

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 マジカ噴水からスペイン広場までの大通りは、ほぼ歩行者天国みたいになっている。
 この幅広い道がスペイン広場まで一直線に通じている。

【スペイン広場】

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 「スペイン広場」って、誰でもローマにあるものと思っているけど、本場のスペインにもあるのである。私も今回旅行プランを立てるときに初めて知った。
 スペイン広場は空港バスが最初に着くところだし、主要駅のサンツ駅も近くにあるので、交通にいろいろ便利だろうと思い、ホテルをここの近くにとってみた。
 しかし、バルセロナの観光名所はたいていカタルーニャ広場周辺にあるので、それらを訪れるときいちいちカタルーニャ広場まで歩いていくのが面倒で、今回はホテル選びに失敗してしまったと思った。もっとも交通の便はよい地なので、地下鉄使えば、すぐにカタルーニャ広場へは行けることに二日後に気付き、それからはすいすいとどこでも訪ねられるようになった。

【ムンジュイックの丘 夜景@12月30日】

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 昼間見たクレーン車は、その先に大きな照明球をぶらさげ、そこからレーザー光線を出して光を全方向に放っていた。そして噴水にもぐるりと照明装置を並べ、ここからも光線を放ち、バルセロナの夜の闇を裂いている。

【ムンジュイックの丘 夜景@12月30日】

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 これはテラス側から見たライトアップの光景。
 見上げる姿も良かったが、こうやって見下ろすと、バルセロナを照らす新たな太陽という感じがして面白い。

【ムンジュイックの丘 夜景@12月31日】

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 30日であれほどのライトアップをするのだから、ニューイヤーイブの31日にはもっと派手なライトアップをするのだろうなと期待して31日の深夜訪れたが、クレーン車、照明器具のたぐいは既に撤去され、これは定番らしい後光のような光がカタルーニャ美術館の裏から放たれているのみであった。
 普通は31日こそ本番だと思うのだが、どうもこちらの国の感覚はよく分からない。

【ムンジュイックの丘 夜明け@1月1日】

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 初日の出はムンジュイックの丘で拝もうと、夜明けの前に見晴らしのよいところに訪れた。正面が北なので、右側から日は登るはずである。 しかし私の方角感覚が微妙に間違っていたようで、日は丘のほうから登って来た。そのため、私のいるところにはなかなか日は当たらず、丘から外れた方向、バルセロナの市街地のほうに日が当たり始めた。写真では、バルセロナの高いビルの窓に日が当って、橙色に輝いている。

【ムンジュイックの丘 夜明け@1月1日】

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 やがてバルセロナの街北半分に日が当たり、風景全体も明るくなった。しかし私のいるところはいつまでたっても日の光は来ず、日の陰である。気分的にも白けてきたし、グエル公園の予約の時間も迫ってきてるしで、初日の出はあきらめ退散した。
 こうして私は2020年の初日の出ゲットを失敗したわけだが、「初日の出を見ようとするときは、きちんと方角と地形を確認しておくべし」という、来年への教訓を得たということでよしとしよう。

 

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November 19, 2019

ティベリウス帝別荘(Villa Jovis)@カプリ島 探訪記

(1)政治システムについて
 人類は社会性生物であるため、地球上に出現した時点から社会を構築して生活している。そして社会全体を統治する手法―政治について、人類は様々なシステムを考案してきた。そのなかで最も効率のよいものは、有能な政治家がリーダーとなり、トップダウン式に物事を決めて行く、ということが判明している。このことは社会が困難な状況に面し、その解決にスピードが必要なときに特に顕著になる。合議制などを用いて、全体の意見の調整を行ってから解決を図るようなことをしていては、その間に社会が滅びてしまう、ということは普通にあり得るからだ。だから多くの国を巻き込む戦乱の時代には、有能なリーダーが一手に責任をもって率いる国が、最終的に生き残る、ということはよくある。

 この非常に効率的な政治システム、―独裁制は、しかし大きな弱点をいくつか持っていて、それゆえ長期の運営はかなりの困難を伴う。
 その最大の弱点は、一国を任せるに足る有能な政治家、そういう人間自体が極めて少数なことである。そのような人物は一国家においては、100年に一人か二人出ればいい、というのが人類の生物的限界と、歴史は教えている。それゆえ独裁制を登用した国家は、稀に出現する超優秀な人材を除き、大抵は「それなりに優秀」な人物をリーダーに据えることになるが、種々の事情で無能な人が選ばれることもまたあったりする。
 第二の弱点は、第一の弱点と密接に関係しているのだが、リーダーに権限を集中させているため、国家の命運がリーダーの資質によって容易に左右されてしまうことである。これは帝政なり絶対君主制なりの独裁制を用いた国家の歴史を読めば判然としており、そのような国は名君を擁したときは興隆するが、暗君がその座にあるときは存亡の危機に瀕し、たいていはリーダー交代のための内乱に突入する。
 これらに加え、その他いろいろと独裁政治には弱点があるのだが、それらは長くなるので省くことにする。

(2)ローマ帝政の樹立

 共和制ローマは約500年間共和制で政治を行い国民全体で政治を行っていたのだが、ポエニ戦争に勝利して地中海の覇者となり大国化すると、様々な政治問題が噴出して社会が不安定化した。そのためカエサルが台頭して、一時的に独裁制を敷いて社会のリストラクションを行っていた。ところが共和制の国家とは、独裁制に対するアレルギーが強く、カエサルは改革の半ばで暗殺されてしまい、その改革はいったん頓挫してしまった。

 カエサルの跡を継いだのが養子のアウグストゥスである。彼は熾烈な権力闘争を勝ち抜いて、最高権力者の座に着いた。しかしローマを治めるのに、そのまま独裁制に移行しては、まだまだ独裁制アレルギーが残っているなかでは、カエサル同様に暗殺されかねない。そこで彼はいったん権力を元老院(国会みたいなもの)に戻すと宣言し、しかし実権は握ったままで、徐々に元老院を無力化し、実質的な独裁制―帝政を一代で築きあげた。アウグストゥスは大変有能な政治家で、彼の指導は広大なローマ帝国は平和と安定をもたらし、ローマ帝国は大いなる繁栄を謳歌する。
 アウグストゥス統治下のローマ帝国は、「超有能なリーダーのもとの独裁制国家」の典型のようなもので、アウグストゥスが生きているかぎり国家体制はまさに盤石であった。しかしいかに有能な人物であれ、いつかは寿命は尽きる。そしてアウグストゥスは75歳で亡くなり、ここでようやく本記事のテーマであるティベリウスの話題となる。

(3)ティベリウス帝の悲劇

【ティベリウス】

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 ローマ帝国という国は、じつは「皇帝」という職業は正式には存在せず、国民の代表である元老院が国家を運営している、という建前になっていた。しかしアウグストゥスは実質上全ての権力を握って国家を運営しており、そしてそれは非常に上手く機能していたので、アウグストゥスの長い統治のうち、元老院はその政治的な能力を失ってしまった。元老院議員は政治に関しては名誉職みたいなものであり、政治の決定についてはアウグストゥスのイエスマンと化していたのである。

 そしてアウグストゥスが亡くなっては、ローマの政治機能の根本が失われたことになった。しかしアウグストゥスは自分が死んだのちは、あとは野となれ山となれとかいう無責任な考えの持ち主ではなく、きちんと後継者を指名していた。それがティベリウスである。ただし、当のティベリウス自身にとって、それは悲劇的なことであった。

 

 先に、独裁制にとって最大の問題点は「独裁制を行える能力を持つ人物が極めて少ないこと」と述べた。帝政樹立期のローマ帝国にとってたいへん幸運なことに、二代目を継ぐことになったティベリウスはローマ帝政史でも有数の有能な人物であった。しかしそれはティベリウス自身にとっては不幸なことであった。

 ティベリウスという人は教養もあり、威厳もあり、人望も厚く、責任感強く、軍事の才能にも長け、そしてローマきっての名門家の嫡男という、ローマ帝国の第一人者としてこれ以上ない人物だったのだが、政治家としては看過できない欠点があった。彼は高潔な精神を持ち、誇り高く、自他ともに厳しい人だったのである。それは個人としては美点とすべき特質ではあろうが、政治家にとっては険しい欠点となる。政治力とは、すなわち調整能力のことでもある。個人、団体、すべてに存在する利害関係をうまく調整して、世の中を進めて行く、それが政治の大事な役割だ。しかしティベリウスは、無能な者、卑怯な者、下劣な者は大嫌いであり、それらの者たちともやむをえなく付き合わざるを得ない政治家という職業はまっぴらごめんと思っていた。

 そういう彼がローマ帝国の指導者になりたいと思うわけもない。そして元老院で読み上げられたアウグストゥスの遺言書には「後継者として期待していた二人の息子が亡くなってしまった今、私はティベリウスを後継者に指名せざるを得ない」などと失礼なことが書かれていたのだから、それはなおさらであったろう。

 ティベリウスは遺言書読み上げのあと、「偉大なアウグストゥスの指名であるが、私には後継者という重責を果たす能力はない。その地位は辞退して、全ての権力は元老院に戻したいと思う」と述べた。困ったのは元老院である。すでに元老院は政治的能力を失ってしまっている。今さら権力を戻されても、国家が乱れるだけだ。元老院はティベリウスに馬鹿を言うな、あんたがその座を引き受けないと、アウグストゥスが築いたローマが無茶苦茶になってしまうと抗議した。ティベリウスは責任感の強い人間である。自分の気持ちはともかくとして、元老院の言うことも理解できたので、それではこれからはお互い協力してローマ帝国を運営していこうという方針でまとめ、アウグストゥスの正式な後継者となった。

 ティベリウスの治世においては、なにしろティベリウスは有能な人なので、ローマ帝国全体に的確な指示を与え、国家は平和安定を享受した。ただしティベリウスにとって、政治とは彼の精神を蝕んでいくものであった。就位のさい、協力を誓った元老院は政治のパートナーとしてはまったく無能であり、いつまでたってもまともに機能する兆しはなかった。政治家ティベリウスに対して近寄ってくる人たちも、彼にとってはまったく心を許せるものではなかった。政治という職業を続けていくと、彼は人間の嫌な面ばかりを見ることになっていった。まあ政治家という職業は、元々そういうものなのであって、人間にはいろいろな人がいて、そして個人にもあらゆる面があるので、人間とはそういうものだと受け入れ、妥協する必要があるし、じっさいアウグストゥスを始めとする大政治家はそうしてきたのだが、潔癖なティベリウスにとってそれは耐えがたいことであった。そうして政治家という職業を続けることによって、彼の心は病んでいった。
 仕事により心が病んでしまったとき、その治療法の第一は、仕事を放棄して、ゆったりと休むことである。これだけで治ることは、ままある。しかしながら、責任感強いティベリウスには仕事を放棄する選択肢はなかった。それで次なる治療法としてティベリウスはローマ帝政史上、どの皇帝もやっていない荒技に出る。

 ティベリウスは治世12年目にして、ローマからちょっと旅に出るといって、少数の側近と友人を連れてカプリ島に行き、そしてそこから約10年間、亡くなるまでローマに戻らなかった。これは隠遁というわけではなく、ティベリウスは政治家としてはずっと現役であった。つまりローマで人と会うのが嫌で嫌でたまらないので、首都ローマから遠く離れた孤島のカプリ島に引きこもり、人との交わりを絶ったうえで、そこから手紙の交換で指示を出し、亡くなるまでの政治家としての仕事を行ったのである。大帝国の元首としては常識外れ、破天荒な行為ではあるが、ティベリウスにとっては、自らに課した重い責任を果たしつつ、己の人間の心を守るにはこれが唯一の方法であったのだ。

 ティベリウスという人の伝記を読むと、仕事の辛さは言うに及ばす、アウグストゥスにはいろいろとひどい目にあわされ、家族とはうまくいかずなんでもかんでも島流しに処す羽目になり、唯一愛していた息子は暗殺され、本当に不幸な人生なのだけど、それは結局彼が有能であったからそういう目にあったわけで、それを考えると、彼の政治家としての一生の厳しさ、哀しさがより伝わってくる。

 そういう悲劇的な人生を送っていたティベリウスが、心を癒すために選んだカプリ島の別荘、伝記を読んださいに是非とも一度訪れたいと思っていたけど、今年の秋訪れることができた。

(4)ティベリウス別荘 Villa Jovis探訪記
【カプリ島 対岸のエルコラーノからの眺め】

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 カプリ島はナポリから30kmほど離れたところに浮かぶ小島である。全体が巨大な岩であり、周囲は絶壁に囲まれているが、一ヶ所だけ入江になっているところがあり、そこを港として島に渡ることができる。そしてその港から100mほど登った小高い平地が人々の居住地になっており、今もそこにはたくさんの家、建築物が並んでいるけど、ティベリウスの別荘はそこと遠く離れた島の東端にあり、ティベリウス、いったいどんだけ人嫌いなんだ、と思わず突っ込みたくなってしまう。

 そして港から、私はナポリ旅行の主目的ティベリウスの別荘「Villa Jovis」を目指して歩いて行った。お洒落な家々と庭に挟まれた小径をずっと歩いて行き、島の端に近づくとようやくVilla Jovisへと着いた。

【Villa Jovis】

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 かつては豪華な宮殿であったVilla Jovisは、二千年近い前に主を失ったのち、荒れるに任され、今では基礎部と石壁のみかろうじて残されているのみで、往時の栄華をつたえる術もない。政治家の住処としてはおろか、普通の者さえ住むのも不便な地ゆえ、偏狭な主人がいなくなったのちは、誰もそこに住もうとは思わず、時の流れのまま朽ちていったのであろう。
 この宮殿の跡地からは、ティベリウスの見ていたものは、もはや想像もできない。

【カプリ島からの風景】

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 かつてのローマ帝国最高権力者の住居は荒れ果てていたけど、二千年前と同様の眺めは、もちろんある。別荘の高台の前には、紺碧のティレニア海が広がり、そこにカプリ島に向かってソレント半島が突き出ている。その半島を奥に辿って行くと、円錐形の秀峰ヴェスヴィオ火山があり、さらにその奥にナポリの街が扇型に弧を描いている。
 とても美しい、まさに名画のような眺め。

 仕事と人生に疲れ果て、絶望に沈んだ、世界で最も気難しい男が、広大なローマ帝国のなかから、終の棲家として選んだ、カプリ島の東端の崖の上。

 この眺めを見ていると、なぜティベリウスがこの地を選んだのか、はっきりと理解できる。そしてあれほど疲弊させられたティベリウスの心が、この眺めによって癒されることによって、残りの激動の政治人生を全うできた、ということも。

 伝記だけ読んでは分からない、その地に行ったことによってのみ理解できる、そういうものを私はカプリ島の探訪で知ることができた。

 

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February 28, 2019

香港 音楽と食の旅

 毎年春に香港で開かれる芸術祭で当代一流のアーティスト達の演奏を楽しみ、かつ香港特有の多彩な中華料理も満喫しようという、恒例の音楽と食の旅に、今年も行ってきた。

 初日、香港に夕方到着。
 演奏会は午後8時からで、夕食はその後10時からというゆっくりプランなので、ホテルでのんびり寛いでそれから出かけようと思っていたら、スマホのグループメールに「演奏の前にホール近くの料理店で小腹を満たしてからコンサートに行きましょう。皆そろっています」とのお知らせが。
 それで、せっかくなのでその料理店へと。

【華苑 潮州閣】
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 この店は予約とかはしていなかったのだけど、ネイザンロード界隈を歩いていて、よさげな雰囲気の店なので入ってみたとのこと。
 私が着いたときにはだいぶ料理が来ていて、みなわいわいと楽しく騒いでいた。
 潮州料理の店のようで、素材をシンプルに味付けした料理の数々。一通り食べたのちの〆は、炒飯に焼そば。
 美味しかったけど、「小腹を満たす」なんて量ではなかったな。ビールもさんざん飲んだし。

【NHK交響楽団】
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 食事を済ませたのち、すぐ近くの文化センターホールに行き、NHK交響楽団による演奏を観賞。
 プログラムは、(1)武満 徹/ハウ・スロー・ザ・ウィンド (2)ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調 (3)プロコフィエフ/交響曲 第6番という何やら玄人好みの構成。指揮はN響首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ氏。

 香港に来てまでN響を聞かなくとも、という気がしないでもないが、この芸術祭は各国の一流オーケストラが来ているので、それらと日本のオーケストラの聴き比べが出来て、ためになった。

 曲のなかでは、ラヴェルが一番良かった。曲そのものが親しみやすいし、ピアノを弾いたツゥオ・チャン氏も大変なテクニシャンで、快適なリズム・メロディに溢れたこの曲の魅力を存分に引き出していたと思う。
 武満徹の音楽については、こういうのは「音楽的教養」の勉強みたいなものなんだろうなとか思いながら聞き、プロコフィエフと共に、こんな音符が好き勝手に飛び交うような難しい音楽を正確に弾ききるN響の技量に感心した。さらには聞きながら、音楽って本来はエンターテイメントそのもののはずなのに、どうしてクラシック音楽の歴史は、その本質と離れる方向に進んでしまったのだろうとかいろいろ考えた。

【潮福蒸気石鍋】
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 演奏会のあとは、尖沙咀の料理店「潮福蒸気石鍋」。
 この店の料理は、「中華料理」の本道とは少し外れたところにあり、潮州料理を東南アジアの料理器具を用いてアレンジしたもの。
 テーブルの上に載せてある陣笠帽みたいなのがそれで、この下に素材を置いて、蒸気で蒸すという、ある意味シンプルな料理であるが、この器具の構造に何やら秘訣があるらしく、通常の蒸し料理よりも香りや味の凝集度が増している。

【素材】
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 こういうふうに生きている新鮮な具材を展示して、それらをチョイスして調理してもらうのが潮州料理の特徴である。

【料理】
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 この店では様々な素材を蒸したあと、それらから滴り落ちたエキスによるお粥で〆るという流れになっているので、まずは鍋底に米と具を敷く。

【料理】
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 貝、魚、海老、鶏肉、野菜、糸瓜等々が、高圧蒸気で一気に調理され、次々に出てくる。

【お粥】
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 そして、全部の素材が蒸されたあと、それらの全てのエキスを吸い込んだお粥がいつの間にか鍋底に出来ている。
 これがやはりとても見事な味。

 日本にはない珍しい料理であり、普通に美味しいので、香港に来た際はぜひ経験すべき店だと思う。

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January 01, 2019

イタリア料理:Acanto@ミラノ

 1月1日の夕食は、ミラノの有名ホテル「プリンシペ・ディ・サヴォイア」のレストラン「Acanto」にて。
 年始年末にさして重きをおかぬヨーロッパといえど、1月1日はさすがに閉店のレストランが多く、そのなかホテルのレストランは確実に休日でも営業しているので、便利である。

 食事はコースは量が多すぎそうだったので、アラカルトで、前菜はパスタ、それにメインを二種類とした。

【パスタ】
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 パスタはなるべくシンプルなものを選び、蛸のスパゲッティ。オリーブオイルと黒胡椒。

【魚料理】
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 鱸のグリル塩焼。それにチコリとキャビアの付け合わせ。キャビアをたっぷり使っており、こちらのほうが主張が強かった。

【肉料理】
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 若鳥の胸肉ロースト。黒トリュフと杏茸。
 ジューシーな鶏肉。焼き加減も丁度よい。

 料理は、「イタリアンと言いながら、じつはパスタもあるフランス料理」といった感じの、高級系料理であった。ホテルが五つ星だから、レストランもそういう趣向になるみたい。
 料理も良かったが、また内装が素晴らしく、豪華で華やかなものであった。サービスも充実丁寧なものであって、新年早々快適な気持ちで過ごすことができた。

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ミラノ散策

 ミラノでは「最後の晩餐」と「大聖堂」が圧倒的で、これでお腹いっぱい、という感じにもなったのだが、ここは世界的観光地であって、まだまだ見るべきものはある。
 それで散策がてら、それらを訪ねてみた。

【ガッレリア】
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 ミラノ大聖堂からスカラ座はアーケードでつながっていて、ミラノ一の繁華街となっている。見事な造形であり、繁華街そのものが芸術作品である。

【スカラ広場】
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 アーケードを抜けるとスカラ座広場。
 ここでは、シャネル5番の香水のオブジェが大人気であった。

【スカラ座】
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 音楽好きにとって、ミラノといえば「スカラ座」。
 といってもそれは中で音楽が鳴って初めて価値あるものなのであり、それで何か面白いものを演っていたらチケットを取ろうかと思っていたけど、年末の演目は「くるみ割り人形」であり、食指が動かないのでやめておいた。 これについては、またの機会にということで。

【マリーノ宮】
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 宮殿として建てられ、現在は市庁舎として使われている建物。普段は公開されていないが、年末年始は絵画展覧会御が催されていたので入場することができた。絵画よりも、建物そのもののほうが印象的であった。

【ポルディ・ペッツォーリ美術館】
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 ミラノの貴族の個人収集美術品を私邸に展示した美術品。建築、それに収集品でこの持ち主の趣味がよく分かる、まさに私立美術館であった。

【モンテ・ナポレオーネ通り】
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 日本で言えば銀座に当たる、ショッピングストリート。一流のブランドショップが立ち並ぶ。
 Brioniだけ入ってみたけど、日本と似たような品揃えであった。さらには、どこの店舗も客が入っていないのも、日本同様であった。この手の店って、どうやって成り立っているのがいつも不思議に思ってしまう。

【モンタネリ公園】
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 ミラノには公園が多いけど、そのうちの一つ。
 ホテルの近くだったので、ここをよく通った。

【ミラノ中央駅】
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 ムッソリーニが国家の威信をかけて造った駅だそうで、たしかに威風堂々たる立派な駅である。
 外見はローマ帝国式であるが、中の設備は近代的であった。

【プレラ美術館】
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 ミラノ一の規模の美術館。収蔵品も名品ぞろい。
 ただし、休館日が年末年始に集中してしまい、入館する機会がなかった。

【スフォルツォ城】
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 文化が華やいだルネッサンス期に立てられた城塞。中には博物館、美術館があるのだけど、あいにく休館日。

【教会】
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 歴史上ミラノ一の有名人となると、たぶんローマ帝国時代のミラノ大司教アンブロージョとなるのだろうけど、彼を祀ったサンタンブロージュ教会はロマネスク建築の傑作と言われており、訪れてみることにした。しかしGoogle mapに従って行くと、そこにはロマネスクとは大違いの近代的教会があって驚いた。
 これは単にGoogle mapの間違いで、そこはサンタンブロージュという地区であって、教会名で検索しても、そこにポイントを置いてしまうのであった。改めて訪ね直す気力もなく、結局教会には行っていない。

【ナヴィリオ運河】
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 かつてミラノは運河がはりめぐされ、運河の町だったのだが、今では多くは埋め立てられ残っていない。
 その名残を示すのが、ナヴィリオ運河。露天市が開かれ、人通り多いにぎやかなところである。


 ミラノ、いろいろ見残したものは多いので、いつかまた訪れてみることにしてみよう。

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December 31, 2018

最後の平成年越しを、Pont de ferr@ミラノにて。

 平成30年大晦日は平成最後の年越しの日。
 ミラノ大聖堂を見物して、それから市街地を散策したのちホテルへと戻る。ミラノは日本より8時間遅れているので、午後からはBSテレビで紅白歌合戦を見ながらの年越し、という一般的日本人的の過ごし方をした。

【鉄橋】
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 意外と充実した内容の紅白に感心したのち、それから今夜のレストラン「Pont de ferr(鉄橋)」へと。このレストラン、名前はフランス語だが、イタリアンの店である。
 駅からすぐに観光名所のナヴィリオ運河があり、店の近くにその名前の由来である鉄橋があり、これを越えてしばらくのところに店があった。

【new year’s eve menu】
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 本日は年末なので、メニューは一種類「The new year’s eve menu」、年末特別コースである。
 照明の暗い店だったので、うまく写真は撮れていないけど、いくつか並べてみる。
 前菜は6皿で、創作系のイタリアン。牡蠣、マグロ、海老、蛸といった地元の海産物を用いたものが続く。そしてパスタはアザミクとアンチョビのトルテリーニ。ミラノ名物リゾットはヤマウズラとココアのリゾット。メイン料理はアーティチョークにベルガモットと鹿肉。
 いずれもミシュラン星付き店だけある、良い素材を使い、丁寧な調理がなされた素晴らしいものばかりであった。

 夕食は午後8時からのスタートだったけど、ゆっくりしたペースで進み、そして12時近くになると全ての客にシャンパンが配られる。そうして多くの者は、外に出る。そこには大勢の人が運河沿いに集まっていて、新年の訪れを待っていた。やがて新年の到来とともに、あちこちで大きな花火が夜空に打ち上げられた。そして小さな仕掛け花火も、人の集まっている様々なところで火がつけられ、閃光と爆裂音を放ち、あたり一帯光と音で満たされた。人々はたがいに歓声をあげて抱き合い、新年を祝う。
 う~む、イタリアだなあと、この暖かな雰囲気の喧騒に、実感した。

【ナヴィリオ運河地区 年越し】
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 騒ぎが一段落したところで私は店に戻って、残りのメニューを味わい、ゆったりとした気分であらためて新年の訪れを祝った。

 食事が終わったのち、まだ運行していた地下鉄を使って、ホテルへと戻った。
 ミラノ中央駅から出たとき、そこはもう閑散としていたが、おそらく花火のあとの名残のような、煙とにおいが漂っていた。

 日本から8時間遅れの平成最後の年越し、ここイタリアでも終了である。

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誰でもたまげるミラノ大聖堂

【ミラノ大聖堂】
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【大聖堂前広場(臨時コンサート会場)】
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 観光都市ミラノの二大名物は「最後の晩餐」と「ミラノ大聖堂」。
 「最後の晩餐」の次は大聖堂に行こう。
 地下鉄駅を出ると、すぐ正面に大聖堂がある。その姿、世界最大級のゴシック建築といわれるだけあって、壮大壮麗そのものである。青空を背景に、大理石の尖塔を100本以上も突き立てる巨大建築物、見ただけで圧倒されてしまった。

 大聖堂は祈りの場である教会なので以前は入場料無料だったそうだが、今は有料なのでまずはチケットを買わねばならない。教会の近くにチケットオフィスがあるので、そこでまず購入。
 大聖堂はミラノに来た人は必ず寄る人気観光地なので、教会前にはいつも入場待ちの長い行列ができている。この行列に並ばずに済む「fast ticket」なるチケットもあるのだが、それは10時から開始であり、それ以前に来てしまったので、通常のチケットを購入して行列に並んでみた。
 入場の速度は、扉の前でのセキュリティチェックにかかっており、列は遅々として進まないのだが、ちょうど年末なので広場でコンサートが行われていて、退屈はしなかった。

【礼拝堂】
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 1時間ほど並んでようやく中に入ることができた。
 日の光がステンドグラスを通して差し込み、厳かな雰囲気をかもしだしている。中にあまたある宗教画、偉人像もまたその荘厳さを増している。さらには高い天井を支える幾本もの太い大理石の柱が、幾何学的統制をもって立ち並ぶ様が、この建築物そのものの非日常感を増幅させ、ここが外界と違う世界にある、という感覚を覚えさせる。
 神秘的空間の魅力に満ちた場所であり、これは長時間行列しても、必ず入らねばならないところだと実感した。

【大聖堂テラス】
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 この高い大聖堂には、テラスにいたる階段があり、そこも名所なので行ってみた。
 昔に造られたとおぼしい、やたらに狭い階段を登って行き、そしてテラスにいたる。道が狭いので、ここも行列ができている。
 屋上テラスはガイド本には「ミラノの街を一望できる」と書いていたけど、大聖堂はゴシック建築の常として、尖塔が立ちまくっているので、それが視界を邪魔して、風景が広がって見える場所はほとんどなかった。
 写真はテラスに着いてのもの。一番高い尖塔の上には、黄金に輝くマリア像。テラスにはくつろぐ観光客が多くいるけど、このテラス傾いているので、居心地はあんまり良くない。

【テラス展望】
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 テラス展望は、尖塔や壁のあいまから、街の一部が見えるという感じ。まあ展望台として造ったわけでもないからこんな感じでしょう。
 テラスから下りて行く通路側からは、世界一醜いビルと称される「ヴェラスコタワー」を見ることができる。こういう不安定そうな建築物を見ると、ミラノって地震の少ない地なんだろうなと思う。大聖堂だって、中規模な地震が起きると、尖塔の先端に設置してある聖人の立像がいっぱい落ちてきそうだ。

【正面扉】
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 大聖堂の名物その3、正面の青銅の大扉。
 聖母マリアの一生が描かれ、受胎告知、三博士礼拝、ピエタまで、いくつもの聖書の場面が精緻に彫られている。見事な工芸品であり芸術品である。


 ミラノ大聖堂、これは誰が見てもたまげるような大伽藍であり、全体をよく見れば、完成に500年の歳月がかかったことが納得できる、とんでもなく手間がかかった建築物であった。そしてさらにはこのような建物が現在も維持できているところに、カソリック教会の実力というものも知ることができた。

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December 30, 2018

絵画:最後の晩餐@ミラノ

 絵画というものは移動性があるので、有名な絵画は待っていれば日本の美術館に来ることがあり、わざわざそれが常設されている異国の地まで行かずとも見る機会がいつかはあるのだが、そのなかで「移動不可能な名画」がいくつかあり、それらは現地まで行かねば見ることができない。
 その「移動不可能な名画」の代表的存在であるダ・ヴィンチ作の「最後の晩餐」を見に、ミラノに行くことにした。

 「最後の晩餐」はサンタ・マリア-デッレ・グラツィエ教会の食堂の壁に描かれていて、教会ごと世界遺産になっている。絵画の歴史のなかでも特級の傑作が、壁画という不安定な状況におかれているので、厳重に保全管理されており、見物の客の数は限定されていて、事前の予約が必要になる。
 それでネットで予約を取ろうとしたが、チケットオフィスのサイトはイタリア語であって、なんだかよく分からない。それで確実を期して少々値ははるが英語ガイドツアーのほうの予約をとっておいた。

【チケットオフィス】
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 mail添付のファイルを印刷したチケットでは、指定時間の前に教会の前に集まってくださいと書いていたので、早めに教会前に着。開館前からチケットオフィスの前には行列が出来ていた。当日券はまずない、との情報だったので、予約していたチケットを早めに受け取りに来ていた人であろうか。

【サンタ・マリア-デッレ・グラツィエ教会前】
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 ガイドツアーに関しては、それらしきオフィスはなかったが、教会の前にいるとだんだん外国人観光客らしい人たちが集まって来たので、彼らと話すとどうやら同じツアーメンバーらしかった。ただし持っているチケットはそれぞれ、自分たちの言語のものなので、本当のところはまだ不明であった。(写真での、土産ものを売る準備をしている人の後ろにいるグループがそれである)
 そして入館予定時間5分ほど前に現地人のガイドの人が来て、参加者の名簿と参加者を確認して、チケットとイヤホンガイドを渡して、それからツアー開始。

 教会の付設美術館は、外見とは違って、中はモダンスタイル。ガラスの扉でいくつかの部屋が仕切られていて、絵画のある部屋に前のグループが入っているあいだ、そこで待機ということになる。グループは30人弱ほどで、見物の時間は15分と決まっていた。やがて我々のグループの番となり、入室である。

【最後の晩餐】
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 壁画の部屋に入室すると、人々はまず絵の前に行くのだけど、ガイドはそれを制して最初は部屋の後方から見るように指示。そこで説明があったのだが、この絵は正面のイエスの顔を消失点とした遠近法で描かれている。それは壁、天井、床にはっきりしたラインが引かれていて、非常に分かりやすい形で示されており、その絵のラインはこの実際の部屋の天井と床のラインにもつながっていて、それゆえ部屋と絵が融合して一挙に奥行きを深め、我々が最後の晩餐に参加しているような臨場感を与えてくれる。ダ・ヴィンチは「壁画」という材料を、このように効率的に利用したわけだ。
 これは実物を観ないと分からない、そして教えられねば分からないことで、ガイドツアーの良さであった。

【最後の晩餐の設置部屋 概略図】
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 いちおう、部屋全体の概略図を示してみる。
 このように床と天井のラインが引かれ、中に入った見物者が壁画を見ると、その視点は正面のイエスに一挙に持っていかれる。
 さて、部屋と壁画の一体性を実感したのち、それから壁画の近くに案内され、絵の細部を見る。
 この絵は損傷が激しく、絵具の剥落が多いため、オリジナルの色は非常に損なわれていることが知られており、元が100とすると今は10くらいの色しか残されていないそうだが、それでも十分に元の絵の美しさを想像できる、その程度には残されていた。
 そして鮮烈な色は失われたにしろ、その表現の素晴らしさは健在であり、師イエスの突然の「お前たちのなかに私を裏切る者がいる」の宣言のあとの、弟子たちの動揺、疑念、激情、憤怒、怯え、等々の感情が渦巻く、このドラマチックな一瞬の場面が、ダ・ヴィンチの卓越した技術で切り取られ、永遠の姿となって、私たちに強い印象を与える。
 人類の芸術史上の大天才ダ・ヴィンチの最高峰の作品だけあって、この絵画が語りかけるものは多く、そして深い。
 この壁画を見るためだけでもミラノに来る価値はある、そういう作品であった。

 ただし、この傑作を生で見られるのは15分という短い時間なので、ミラノに来る手間を考えると、コスパはまったくよくないのだが。

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September 21, 2018

ロンドン行ったところ、見たところ

【大英博物館】
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 ロンドン随一の名所といえば、大英博物館。何はともあれここに行ってみよう。

【展示物】
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 膨大な大英博物館の収蔵物のうち、一番人気はロゼッタストーン。ここは常に大勢の人だかり。
 大文明を築いたエジプト王国において、王国の没落とともに、滅びてしまったと思われていた古代エジプト語(神聖文字)が、この石碑を手がかりにして解読できるようになり、古代のエジプトの書物が読めるようになった、歴史的記念物。
 学者シャンポリオンによる神聖文字の解読の物語は読んでいてとても面白いけど、「エジプトの古代語はじつは文字の形を変えて、コプト語として現代まで細々と生き残っていた。つまり古代エジプト語は滅びていなかった」というオチはけっこう好きである。

【展示物】
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 館内の展示品でひときわ目を引くのが、モアイ像。
 はるか離れた太平洋上の孤島、イースター島からわざわざ運んできたもので、レプリカでなく、本物である。
 しかもこれは本物すぎるほどの本物。
 イースター島では、かつて信仰の対象とされていたモアイ像は、歴史の流れとともに住民から見捨てられ、殆どのモアイは倒れたままに放置されていたのだが、一体だけ立ったまま残っていた。そのモアイは、島民から特別なものとして神聖視され、大事に祀られていたのだが、イギリス海軍の調査隊は、わざわざその一体を強奪するようにしてイギリスに持ってきて、そのモアイ像がこれとのことである。それゆえ、イースター島の先住民から返還を強く要求されている。

【展示物】
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 アテネのパルテノンを模した部屋に、パルテノンから持ってきた大理石の彫像の数々が並べられている。持ってきたエルギン卿の名前から、エルギンマーブルと名付けられた傑作の数々。
 もちろんギリシャからは返還の要求があるけど、イギリス政府は頑として応じていない。

 大英博物館には、とにかく世界中の宝が集められており、その量と質に圧倒されるわけであるが、ただしイギリス本国のものは非常に少ないのもまた印象的である。
 創造よりは、収集の才に長けた民族であったのだろうか。

 そしてこれらの宝を奪われた各国が文句を言ってくるのもよく分かるが、しかしながら近年の中近東や北アフリカの混乱で、数多くの芸術品、美術品が奪われ、破壊されたことを考えると、人類の宝は、こういうきちんと維持管理できる施設が保管すべきとも思え、なかなかに難しい問題である。

【ロンドン塔】
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 これもロンドン名物、ロンドン塔。
 塔というより城塞である。
 世界でも有数の幽霊の名所であるが、外見的にはそういった凄惨なイメージは乏しく感じられた。
 中に入ってみようかとも思ったが、入り口も切符売り場も長蛇の列だったので、あきらめた。

【ロンドンアイ】
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 テムズ川傍にそびえる大観覧車のロンドンアイ。
 かなりの高さまで達するので、ここから一望するロンドンの眺めはいいだろうと思い、乗ってみようかとは思ったけど、ここも入り口、切符売り場とも大行列であり、あきらめた。

【ノッティングヒル】
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 ロンドンを舞台にした映画は数多かれど、私としてはまずは「ノッティングヒルの恋人」の舞台であるノッティングヒルを訪れたい。
 ジュリア・ロバーツの超人的な美人っぷりが印象的な映画ではあるが、それとともに洒落た感じの美しいノッティングヒルの街もまた印象的であったから。
 ノッティングヒルでは、主人公の営む本屋と、それから住んでいた家がそのままの形で残っていたので、そこを訪れてみた。それから街を散策。パステルカラーで彩られた高級住宅街が、エレガントであり、とても趣味よく思えた。

【セントブライズ教会】
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 ロンドンには有名な教会がいくつもあり、そのどの教会も立派な建物であり、なかには美術品も多く飾られているであろうと思われた。しかし、それらの教会は、入るには予約がいるようで、なかなか容易に観光客は入られない。
 他の国の教会は、宗教行事と関係なしに、容易に入ることができるのに、これはカソリックと英国教会の文化の違いなのであろうか。

 そのなか、路地に「これは世界的に有名な教会です。お寄りください」みたいなことを書いている看板を見つけ、それに従ってその教会に入ってみた。
 ……、まあ普通の教会であった。
 どこがどう有名なのだろうと思っているうち、近所の住民らしき中年のご婦人が傍に来ていろいろと説明してくれた。ロンドンの大火から始まるロンドンの歴史を絡めての、けっこう長い説明だったのだが、要は「近くのケーキ職人が、この教会の形をモチーフにウェディングケーキをつくり、それが現代に到るウェディングケーキの発祥となった。だから世界中の花嫁たちは、この教会で結婚式をあげることに憧れている」とのことであった。
 なるほど。聞かねば分からなかった。

 ちなみにロンドンにおいて、住民はたいてい親切で礼儀正しかった。「イギリスは紳士の国」と言われているけど、今回の旅で本当だったことを知った。

【バッキンガム宮殿 衛兵交代式】
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 ロンドン名物、バッキンガム宮殿における、赤い上着に黒の帽子の衛兵たちの交代式。
 交代時刻近くに行くと、すでに正門近くの多くの人で占められており、観るスペースがない。それで衛兵の出発場所であるウエリントン兵舎に行き、バンド演奏とともに出発するところを観た。
 賑やかな楽隊の音楽とともに行進する衛兵を、しばらくバッキンガム宮殿まで後をついて行った。

【パディントン@パディントン駅】
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 ロンドンの主要駅であるパディントン駅は、有名な「くまのパディントン」の出身地でもある。それゆえ銅像が置かれており、記念撮影。


 ロンドン、いろいろと回ってみたけど、とにかく行くべきところが多すぎて、まだまだ見残したところがたくさんあるので、近いうちにロンドンを再訪してみたい。

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イギリス料理:サヴォイ・グリル@ロンドン

 近代ホテルの歴史はここから始まったと称される老舗ホテル「ザ・サヴォイ」のなかのレストラン。
 ガイド本「地球の歩き方」のイギリス料理の項に、このレストランが一番最初に紹介されていたので、それなりの店ではあるだろうと思い、選んでみた。

【ザ・サヴォイ】
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 このホテル一目見た時、どうも見覚えがある気がしたが、「ノッティングヒルの恋人」のロケに使われていたのをあとで思いだした。

 ホテルに入ると、さすが高級ホテルの典型であって、全てが格調高いつくりであった。
 レストラン「サヴォイ・グリル Savoy grill」は玄関から入ってすぐのところにあった。
 中に案内されると、室内はホテル同様に、高級感あふれる空間であった。客もドレスコードをみなきちんと守っており、今回訪れたレストランではここが一番格が高いと思った。

【舌ビラメのグリル】
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 この店のスペシャリテである舌ビラメのグリル。
 ドーバー海峡の質のよい舌ビラメを厳選して調理したものだそうだ。

【鶏の丸焼き】
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 この店のスペシャリテは魚は舌ビラメ、肉はローストビーフだそうだが、メニューをみるとビーフは300g以上からとなっており、その量をとても食べられるわけないので、鶏を選んでみた。

 それで、魚も鶏も、普通に火を通して、普通に味付けしたという感じで、よく言えば昔からの料理を伝える伝統的な料理、悪く言えばあんまり特徴のない料理、というところで、私の感覚としては、いわゆる世間一般が想像する「イギリス料理」に、これはけっこう近いものではと思った。

 もちろん、不味い、とかいうことはまったくなく、普通においしい料理である。
 そして何と言っても、クラシカルなレストランの雰囲気がたいへん良く、かつてハリウッドの大スター達がこのレストランを贔屓にして幾度も訪れたという歴史をダイレクトに感じとれる、そういう大いなる魅力がある。

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