レ・ミゼラブル

September 19, 2018

ミュージカル:レ・ミゼラブル@クイーンズ劇場

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 ピカデリーサーカス駅を出ると、そこはミュージカルの聖地ウエスト・エンド。数多くの劇場が立ち並び、そこでいくつものミュージカルが開催されている。
 今回の目的の一つはクイーンズ劇場での「レ・ミゼラブル」。この高名なミュージカルが最初に演奏された地での、まさに本場の演奏であり、さらにはオリジナルの演出で行われているのは、今ではロンドンだけなので、それも楽しみにしていた。

 ロンドンの劇場は、歴史のあるものが多く、それゆえ規模が小さく、また設備も古い、ということになりがちであり、クイーンズ劇場はまさにその典型であって、ずいぶんとこじんまりとした、そして音響がややこもりがちの施設であったけれど、それが幸いして、音のリアル感が強く、演奏が進むにつれ、舞台と観客とが一体化したような迫力あるミュージカルを経験できた。

 役者については、世界中からこれを目当てに人が集う演目に選ばれただけあって、どの人も歌が上手く、また演技も立派であった。
 とりわけ良かったのが、ヤング・コゼット。
 コゼットって、レミゼのなかでは、少女時代で役割が終わっていて、成長してからはマリウスの恋人としての脇役的立場しか与えられていない、さして劇中重きを置かれていない役なんだけど、コゼットを歌った役者がじつに素晴らしく、まさに天使のような美しい声で、情感豊かに各パートを歌うものだから、彼女が歌いだすと、舞台の雰囲気が一変して、明るく、幸せあふれるものになり、舞台を支配してしまう。
 観ていて、コゼットって、こんなに重要な役だったのかあ、とか思ってしまった。
 そしてそれで何が起きるかというと、マリウスとコゼットのかけあいの歌のところ、彼らが愛の二重唱を歌うところは、たいてい片思いのエポニーヌが絡んできて、「なんて私は惨めなんだろう」「私って何というつまらない人生を送ってるんだろう」と哀切なる心情を歌い、それが観客の心に痛切に突き刺さるわけだが、この舞台ではコゼットがあまりに良すぎて、カップルの幸せオーラが強すぎるため、エポニーヌの歌が二人の歌に割り込むと、観客としては、つい、「エポニーヌ、お前じゃま」とかひどいことを思ってしまう。
 ああ、なんて可哀相なエポニーヌ。

 とはいえ、エポニーヌって「徹底的に可哀相な存在」なのだから、これはこれでいいのかもしれない。だからこそ、エポニーヌの最後のところ、傍目には悲惨であるけど、しかし彼女なりの幸せをつかむところが、より印象的、感動的になったし。

 それやこれやで、観て聞いて、いろいろな新発見もあり、そして改めてこのミュージカルの偉大さも知り、たいへん充実した時間を過ごせた。

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October 09, 2015

ワインバーしろ@鹿児島市

 以前、鹿児島市の「ワインバーしろ」のマダムが、リーデルと共同して、宮崎市の光洋を訪れ、ワインとグラスそして食材のマリアージュについての啓蒙というか、講義というか、そういうワイン会を行ったことがあり、それにたまたま参加した私は、いろいろと学ぶべきこと多く、感心しきりの時を過ごせた。それで鹿児島市に行ったとき、「ワインバーしろ」を訪れてみた。

 入ってみての感想。
 お、キューブリック監督の世界がある。

【参考画像 キューブリック監督の映画の場面いろいろ】
Barry

Odessey1

Shinning

 映画監督のなかで、その映像美学において私がもっとも尊敬するキューブリック監督の映像美が、そのまま三次元空間に現れていたので、ちょいと驚いた。

【ワインバーしろ】
Siro

 キューブリック監督の映像は、「必要なものだけが画面にあり、いたってシンプルなものなのであるが、それらが各々最良の位置に置かれ、全体として完璧な風景を作っている」というものである。
 そして「ワインバーしろ」も名前のとおり白を基調とした空間に、ワインを楽しむ道具のみが置かれ、それらのポジションが見事に決まっており、じつに完璧なものとなっている。

 こういう美学的なワインバーの店って、はじめて経験いたしました。

 この店は、ちろろんワインバーなので、空間だけが魅力なわけでなく、ワインにしろマダムとの会話にしろ、それはたいへんよいものであり、それら含めて、非日常的な時間を過ごせる、じつに面白い店でありました。
 「ソムリエ秋葉」に引き続き、鹿児島市の素晴らしいワインの店を知った夜であった。

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August 24, 2013

レ・ミゼラブル感想:エポニーヌ(3) エポニーヌが終幕に再登場する意味について考えてみてみる

 レ・ミゼラブルで最も印象的な役エポニーヌは第二幕の半ば、革命騒動のなかで絶命し退場する。これで出番はなくなるはずであるが、劇の終幕ジャン・バルジャンの終焉の場で、霊として再登場する。

 もう聞けないと思っていたエポニーヌの歌声が、またここで聞けるわけだから、観衆としてはラッキーな気持ちにはなるのだが、…やっぱり変である。
 ここでのエポニーヌの役は、ジャン・バルジャンを天国に導く天使みたいなものである。ジャン・バルジャンを天国に導く役はもう一人いて、それはファンテーヌであり、この人は終幕の最初のほうから出ている。

 レ・ミゼラブルという劇は、最初の牢獄のシーンからジャン・バルジャンが登場し、そしてジャン・バルジャンの臨終の床が終幕という、徹底的にジャンバルジャンの物語ではある。
 ジャン・バルジャンの後半生は、彼は孤児コゼットを育て嫁に出すことに専念している。ジャン・バルジャンは高い知力と頑健な体力をあわせ持つたいへん有能な人物であるけれど、そういう人物の畢生の仕事がそれというのも、能力の無駄使いのような気がして、私としては気に入らないところがあるのだが、ジャン・バルジャン本人としてはそういうことは考えておらず、コゼットを育て上げることを至上の幸福としていた。
 とはいえコゼットを嫁に出したところでもう自分は用済みと、コゼットと絶縁し、そして死を迎えるにいたり、「自分の人生は正しかったのだろうか? 自分は天国に行けるのだろうか?」 と自問する。

 ここで現われたのがファンテーヌの霊である。
 ファンテーヌはコゼットの母であり、コゼットをジャン・バルジャンに預けた人であるからして、彼に感謝を捧げ、「あなたは天国に行けます」と言うのは当然であり、ジャン・バルジャンの天国への導き手としてこのうえない適役である。

 この感動的で静謐な場面に突如マリウスとコゼットが乱入し雰囲気をぶちこわすのであるが、この若夫婦との会話のあとついにジャン・バルジャンは息を引き取る。

 ここでエポニーヌが登場する。
 観衆はそれでぎょっとしてしまう。
 あとでエポニーヌの霊はジャン・バルジャンを天国に導く第二の精霊として登場したことが分かるのだが、今の時点ではそういうことは分からない。

 そして、エポニーヌが登場したとき舞台上にいるのは、ジャン・バルジャン、ファンテーヌ、マリウス、コゼットの4人である。エポニーヌがそのなかの誰に用があるかと言えば、どう考えてもマリウスであろう。彼女はマリウスに惚れぬき、彼を守るために命を落としたのだから。
 それゆえ、精霊というものが人を天国に導く存在だとしたら、まずはファンテーヌがジャン・バルジャンを導き、次にはエポニーヌがマリウスを天国に導くというのが、話の流れとしては正しい。
 ファンテーヌがジャン・バルジャンと手をつないで天国への道を歩き、エポニーヌがジタバタ暴れるマリウスをつかんで強引にそのあとを追っていったら、牡丹灯籠フランス版みたいで、これはこれで感動的(?)なシーンとなるのでは。

 もちろん劇ではそのような斬新な演出はなされず、エポニーヌはファンテーヌとともに美しい二重唱でジャン・バルジャンの魂の救済を歌い、ジャン・バルジャンは二人の霊に導かれ天国に召される。

 ここでまた問題になるのは、なぜエポニーヌ?である。
 エポニーヌとジャン・バルジャンはほとんど人生での接点はなく、臨終の場でエポニーヌが来たところで、ジャン・バルジャンは「おまえ、誰?」と思うのが普通だろう。それでもジャン・バルジャンがそういう怪訝な表情を見せず、エポニーヌの導きを素直に受けいれた。
 …ということは、エポニーヌが既に高次の存在になっていたからなんでしょうねえ。

 人を懸命に愛することと無償の献身、この劇の大きな主題の体現者エポニーヌは、同じことをおこないそして死んだジャン・バルジャンを迎え導くものとしてふさわしい、天使のような存在になっていた、と結論つけておこう。

 …でも、どうもエポニーヌにそういう役を求めるのはなにかが違うとは私は思う。エポニーヌはもっと人間的であり、霊になってもマリウスに会ったら、そこで号泣してしまいそうな、そういうイメージがある。
 どちらにしろ、劇終幕でのエポニーヌの登場は、少々無理筋気味とは思える。映画でも、ここではエポニーヌは登場せず、ミリエル司教がその役をやっていた。そっちのほうが、万人の納得を得やすいと映画監督が考えたからであろうけど、そのほうが正しいと私も思う。


 エポニーヌ(1)
 エポニーヌ(2)


【Résumé(まとめ)】

 Quand Jean Valjean est mort dans l'épilogue, Esprit de Fantine et sont apparu pour le conduir à paradis.
 Fantine lui a laissé sa fille, et leur observé. Apparaître est naturelle.
 Mais Éponine ne voir plus Jean Valjean dans sa vie, on croit que sa apparaître est étranger.
 Je crois que Éponine devient comme un ange par sa esprit du sacrifice de soi, et elle vient secouirir Jean Valjean par cette qualité。


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レ・ミゼラブル感想:エポニーヌ(2)日本人がエポニーヌを演じる利点など

 エポニーヌは舞台女優なら誰でもやりたいと願う名役であり、多くの女優によって演じられ、それは検索すればいくらでもその動画を見ることができる。
 ただそれらを見ると、私はけっこう違和感を感じることが多い。
 原作のエポニーヌって、極貧の食うや食わずやの生活をしているため、栄養失調で発育不良なのであり、小柄で痩せこけた少女である。しかし、エポニーヌを演じる役者は現代人だからしようがないにせよ、とくに外国の女優などは体格のいい人が多く、その姿からは、エポニーヌの哀れさが伝わってこない。

 私にとってエポニーヌの登場シーンで一番泣けるところは、片思いの悲しさを切々と歌う「オンマイオウン」でも、マリウスに抱かれ息をひきとる「恵みの雨」でもなく、テナルディエ一派によるジャンバルジャン邸襲撃の「プリュメ街の襲撃」である。

 ジャン・バルジャン邸の裏庭でコゼットとマリウスが逢引しているところ、エポニーヌの父親テナルディエと悪党一派が、強盗しに押し寄せて来る。二人の愛が成就するかどうか大事なところなのに、ここで家に押し入られては滅茶苦茶になってしまう。エポニーヌは扉の前に立ちはだかり、こんな家に入ってもしょうがないよと言い、必死に防ごうとする。しかしテナルディエは邪魔するな、とエポニーヌを容易に押し倒す。
 ここの場面は、エポニーヌは原作とおりに小柄で華奢な娘でないと、エポニーヌの健気さ懸命さが、最大限には伝わらない。動画で見られる、体格のしっかりした女優が扉の前に立ったりすると、妙な迫力があって、どうにもしっくりこない。

 それゆえ、エポニーヌ役は日本人が演じるメリットのずいぶんとある役に思えた。
 日本人ってどうやっても外国人には体格では負けるのだが、そのぶん華奢な体格が普通ゆえ、エポニーヌはどの人がやっても、いかにもエポニーヌという感じになり舞台で自然である。
 それで、エポニーヌが最初登場したとき、その姿を見て安心感を覚えた。


Hiranoaya_2

 私の観た舞台では、エポニーヌは平野綾さんが演じていた。
 彼女はエポニーヌ役にしては少々美人すぎるような気がしないでもないが、ただし「エポニーヌは不器量な娘である」との思いこみは、あくまでもミュージカル限定のものである。エポニーヌは歌唱力が要される役なので、配役には容姿よりも歌唱力が優先されるため、その手の俳優が選ばれることが多かったからそういう認識が出来上がってしまったのだけれども、しかし原作には、「エポニーヌは身なりはみすぼらしいけど、美しい娘である」とちゃんと書かれており、というわけで原作準拠のエポニーヌであったといえる。
 その平野綾さんの演技は、エポニーヌそのものが乗り移ったような熱演であり、どのシーンでもテンション高く、劇をぐいぐいと引っ張っていた。バリケードでの死の場面でも、じつに迫真的な死にかたであった。銃弾で胸を貫かれたのなら、このように苦しんで死ぬんだろうなと誰にも思わせる悶えぶり、そこでの歌詞が「痛くない、つらくない」というんだから、余計に悲しい。

 また先に述べた「プリュメ街の襲撃」での歌唱も上手かった。
 エポニーヌは父親たちに、「この家は老人と娘が普通の暮らしをしているだけで、金などない」と言う。この台詞、オリジナルでは「just the old man and the girl. They live ordinary lives」である。このgirlとはもちろんコゼットのことであり、憎い恋敵でありながら現在懸命に守っている対象なのでもあり、非常に複雑な感情をエポニーヌは抱いているわけで、ここのgirlという言葉の歌唱はその感情を込めて歌わねばならず、歌い手にとってはとても難しく、しかし歌い甲斐のあるところである。
 日本語版では、「爺さんと、ケチな暮らしさ」という歌詞になっているけど、やはりここでの「」の歌いかたは大事なポイントとなっており、そして上手くこなせていたと思った。


 レ・ミゼラブル:エポニーヌ(1)
          エポニーヌ(3)


【Résumé(まとめ)】
 Éponine qui joe la rôle importante de les misérables est petite femme dans le original.
 Mais quand il est joué à l’autre pays, une actrice de grande physique joue souvent elle.Je me sens mal à ça.
 Mais Éponine est joué par la actrice japonaise dans japon. Japonaise est ordinairement petite, nous pouvons voir elles qui ont atmosphère resemblé la Éponine originale.


  ……………………………………
 
 ついでながら「プリュメ街の攻撃」でのオリジナルのgirlの歌い方、やはりレア・サロンガのものが傑出している。この人、超絶的に上手い歌手である。

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ミュージカル:レ・ミゼラブル@博多座  感想 エポニーヌ(1)

Hakataza

 ミュージカル「レ・ミゼラブル」の新演出版。東京公演が好評に終わったのち、福岡へと来た。プリンシパルもアンサンブルも熱気のこもった大熱演。見事な歌と演奏、演技であり、劇全体を通して、とても心を打たれた。

 この劇、いろいろと書いてみたいことは多いのだが、やはりまずはエポニーヌについて書いてみたい。

 レ・ミゼラブルでは、幾人もの魅力的な、主役級の人たちによって物語はつくられ、劇が動いて行く。
 劇の主役はもちろんジャン・バルジャンであるが、しかしエポニーヌはジャン・バルジャンを補助するかのように劇の筋のもう一つの主軸を受け持っていて、その存在感は強く、場合によってはこの劇はエポニーヌの物語にも思えてしまうほどである。

 というのは、ジャン・バルジャンという人物は、どうにも感情移入しにくい面があるからだ。ジャン・バルジャンは、辛酸極まりない前半生において、人を憎むことしか知らなくなった男であるが、放浪の時に崇高なる司教に出会ったことから改心をする。そして人を愛することを覚え、そこから真の幸福を知り、やがて魂が救われるにいたる。彼の苦難と憎悪、そこからの改心と受難、そして救済がレ・ミゼラブルという劇の主筋である。

 この主役であるジャン・バルジャン、観ている側からすると、真面目すぎ、融通が利かず、妙に神懸かりなところがあって、どうにも観ていて辛くなるものがある。彼に融通をきかせる要領さがあれば、もっと豊かな幸せを自分にも他人にも与えられたのに、とかどうしても思ってしまう。

 これに対して、エポニーヌには神懸かったところはなく、自分の感情に素直に生きており、その生き方がたいへん理解しやすい。
 またエポニーヌは、劇のなかの重要な支点であり、彼女とからむことにより人々の交流が広がり、そして筋は流れて行く。
 それゆえ、何処で誰がエポニーヌと絡むかが観劇のポイントとなるが、劇ではエポニーヌは一際目立つ赤い帽子をかぶっており、群衆のシーンのなかでもエポニーヌの所在はすぐに知れ、動きが分かりやすい。こういうのもエポニーヌが演出的に重視しているからであろう。

 エポニーヌは幼少の頃から舞台に登場している。彼女は詐欺師の両親に幼少時から悪事の片棒を担がされるという劣悪な環境で生まれ育った。そしてパリに移り住んだときも、両親と悪党仲間と一緒に泥棒強盗稼業をやっているというひどい環境にいる。観衆は、彼女はさぞかし性格の悪い娘に育ったのだろうな、と予想するわけだが、劇が進行するにつれ、彼女は愛情深い健気な娘であることが分かる。

 なんであの極悪の両親から、こんな素直ないい娘が出来たんだろう、と思ってしまうのだが、…いや、違っていた。劇での主要場面でのエポニーヌの健気ぶりがあまりに印象強いため、エポニーヌはずっとそういう娘だったと観衆は思いがちなのだが、そうではなかった。
 よくよく観れば、エポニーヌは幼い頃は、テナルディ夫人と一緒にコゼットをいじめる意地悪な子供だったし、成長した姿でパリに登場したときも、いきなり「エポニーヌは泥棒一家の一味で、悪いことしても気にしない」などと紹介されており、かなり性悪な娘であることは間違いない。

 しかし、エポニーヌはマリウスを愛するようになってから変貌をとげた。
 彼女は愛を知ったことにより、成長していったのである。
 彼女はマリウスに愛情のありったけを捧げる。それでも全く見向いてもくれないマリウスに対して、彼を幸せにすることに懸命になる。鈍感男マリウスに対して、エポニーヌはマリウスとコゼットのキューピッド役を務めさせられるという、ある意味究極の苛めをマリウスよりくらうわけであるが、そこでの健気なエポニーヌの姿は、心痛くなるまで哀しく、また美しい。


 ジャン・バルジャンの静かな愛の捧げ方に対し、エポニーヌの愛情は、不器用ではあるが、情熱的であり、一直線に進んでいく。
 彼女の恋は悲恋としか言えないのだが、それでも最後には幸福を得ることはできた。惨めな人生の果てに、つかむことのできた幸福を胸に、彼女は息をひきとる。

 レ・ミゼラブルの主題は、ジャン・バルジャンの最期の言葉「To love another person is to see the face of God」という台詞で示されている。これは直訳すれば「他人を愛することは、神の顔を見ること」。分かりやすく訳せば「人を愛することによって、人は天国に行ける」であり、この台詞が三重唄で歌われるところはじつに感動的であり、じっさい舞台でのこの場面は、全観衆落涙必至という名場面。

 ただしジャン・バルジャンはたしかにそういうフシはあるものの、エポニーヌはべつに神様に会いたくて、マリウスを愛したわけではない。彼女は人を愛し、その人を幸福にしょうとした、そしてそのことが彼女の無上の幸福となり、彼女自身を幸福にした。
 ジャン・バルジャンの愛が少々独りよがり気味なのに比べ、エポニーヌの愛と献身は純粋であり誰しも理解しやすい。

 レ・ミゼラブルでは様々な登場人物は、それぞれに愛するものを抱え、それから各々の行動をおこなっている。レ・ミゼラブルは愛情についても多くを語っている物語なのであるが、それについては、私にはジャン・バルジャンよりも、エポニーヌがそれの象徴人物に思え、より劇の主題を深く感じられた。

 というわけで私にとっては、レ・ミゼラブルはまずはエポニーヌの物語なのである。


 エポニーヌ(2)
 エポニーヌ(3)

【Résumé(まとめ)】
 Musicale les misérables s’est joué en Fukuoka ville.
 Exécution, interprétation, chanson tout est été excellent, et je suis été ému.
 Sur ca musicale, je veux ecrire des choses variés.
 Premiére, je ecris par Éponine qui est l’un de personnage de ca musicale.
 Les misérables a beaucoup de objet, l’un dans les grands thèmes est “amour”
 Ce musicale dit en aimant autre persone gen, le gen peut obtenir le bonheur.
 Personne qui symbolise cette thèmes est Éponine, je trouve.
 Histoire d'amour elle est la chose la plus importante dans ca musicale.

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February 01, 2013

映画:レ・ミゼラブル

 ミュージカル映画は好きなのでたいていは観ているが、「レ・ミゼラブル」ばかりは原作がなんとも悲惨な筋なので、観る気が起きなかった。誰もが懸命に生きているのに、誰もが結局は不幸になり、主人公もほとんど救いのないまま死を迎える。惨めな人々の群像、…まあ「レ・ミゼラブル」という題名がそれそのものなので、そういう筋なのは仕方ないにしても、あえてそのような小説の映像作品を見に行く必要はないと思っていた。

 しかし、ミュージカル映画としては異例のロングランとなり、また評判も大変良いので、ならば見てみようかと、封切りからずいぶん経ったのちに観ることにしてみた。


 幕明け、囚人達が巨大な難破船を港に引き入れる壮大なシーンに圧倒される。まさに大画面で観る映画の醍醐味。それから、ヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウ、アン・ハサウエィ…など、綺羅星のごときハリウッドスターが何人も出演している豪華な配役、これもまた映画の醍醐味である。そして、彼らがまた歌が上手い。向うのスターって、とんでもない競争を勝ち抜いて来た人たちであるからして、やはりみんな芸達者なもんだなあ、と感心。

 そして、そのなかでもとりわけエポニーヌ役の女優が、やたらに歌が上手い。声が美しく、声量も豊かで、表現力も優れている。
 エポニーヌは、「レ・ミゼラブル」という劇のテーマ、「報われぬ愛」「報われぬ献身」「報われぬ人生」といったものを凝集させたような存在であり、劇の象徴ともいってよいような重要な役割だから、当然に歌も重要度が増すため、このような役者を配したのであろう。
 まったくエポニーヌが歌うシーン、ソロの「on my own」が説得力があるのは当然として、マリウスとコゼットの二重唱にからむ「a heartfull of love」にしろ、集団での歌「One day more!」にしろ、彼女の歌がそこに入ると、その歌声が歌全体の芯となって突きぬける、そんな強い存在感を示し、彼女のパートになるとついその歌に耳を集中させてしまう。

【サマンサ・バークス】
Smantha

 この存在感抜群のエポニーヌを演じる俳優は初めて見るし、また映画のポスターにも載っていなかったので、あとで知ったのだがサマンサ・バークスという人であった。この人、じつのところ映画俳優ではなく、ミュージカルスターであり、本物のミュージカルのほうの「レ・ミゼラブル」で現在エポニーヌをやっている人であった。…本職そのものであり、そりゃ、上手くて当たり前だ。

 ところで、この重要な役であるエポニーヌは、じつは最初は、歌って踊れる美人スター、アマンダ・セイフライドにオファーがあったそうだ。

【アマンダ・セイフライド】
Amanda

 アマンダは「レ・ミゼラブル」の大ファンであり、当然内容を詳しく知っていた。
 それでアマンダはそのオファーがあったとき、「私にエポニーヌが歌えるわけがない。でもレ・ミゼラブルには出たいので、コゼットをやらしてちょうだい」と答え、そうしてコゼット役をゲットしたそうだ。
 「レ・ミゼラブル」において役の大きさからいえば、エポニーヌ>>コゼットなので、欲のない人というか、誠実な人というか。(しかし、プロデューサーは「あんた、コゼットやる歳じゃなかろう」とは突っ込まなかったのかな)

 アマンダは具体的には、「エポニーヌを歌うには、『聴く者の心まで激しく揺さぶるような高音』が必要だが、私には出せない」と言ったそうで、それは全く正しい意見なのであり、アマンダに断られたのち、プロデューサーは『聴く者の心まで激しく揺さぶるような高音』を持つスターを探すのに四苦八苦することになった。

 ミュージカル映画はあくまでも映画であり、名作ミュージカルを映画にするには、配役には映画スターを出すのが肝要なところであって、…でもエポニーヌを歌える俳優はハリウッド中探しても見つからなかった。そして、その必要とされる歌唱力を持つ者を採用するにあたって、結局ミュージカルでエポニーヌを演じている者をそのまま用いるという、ある意味安易で、かつ確実な方法が取られた次第。
 でも、サマンサは他のスターと比べると、たしかに持っているオーラはやや乏しいが、演技はそれなりに上手く、そして何より歌が圧倒的なので、この配役は成功であろう。

 エポニーヌという役は、「レ・ミゼラブル」の核でもあるので、この役の成功は、そのまま「レ・ミゼラブル」の成功ともなっている。


 冒頭に上げた映画クリップは、「On my own」が映画用に装飾されて入っているので、改めてサマンサがステージで「On my own」を歌っているビデオクリップを紹介しておこう。
 (というか、映画クリップはエポニーヌの心象風景の描出があまりによく出来過ぎていて、観ていて心が痛くなる。)

【On my own Samantha Barks】

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