歴史

November 19, 2019

ティベリウス帝別荘(Villa Jovis)@カプリ島 探訪記

(1)政治システムについて
 人類は社会性生物であるため、地球上に出現した時点から社会を構築して生活している。そして社会全体を統治する手法―政治について、人類は様々なシステムを考案してきた。そのなかで最も効率のよいものは、有能な政治家がリーダーとなり、トップダウン式に物事を決めて行く、ということが判明している。このことは社会が困難な状況に面し、その解決にスピードが必要なときに特に顕著になる。合議制などを用いて、全体の意見の調整を行ってから解決を図るようなことをしていては、その間に社会が滅びてしまう、ということは普通にあり得るからだ。だから多くの国を巻き込む戦乱の時代には、有能なリーダーが一手に責任をもって率いる国が、最終的に生き残る、ということはよくある。

 この非常に効率的な政治システム、―独裁制は、しかし大きな弱点をいくつか持っていて、それゆえ長期の運営はかなりの困難を伴う。
 その最大の弱点は、一国を任せるに足る有能な政治家、そういう人間自体が極めて少数なことである。そのような人物は一国家においては、100年に一人か二人出ればいい、というのが人類の生物的限界と、歴史は教えている。それゆえ独裁制を登用した国家は、稀に出現する超優秀な人材を除き、大抵は「それなりに優秀」な人物をリーダーに据えることになるが、種々の事情で無能な人が選ばれることもまたあったりする。
 第二の弱点は、第一の弱点と密接に関係しているのだが、リーダーに権限を集中させているため、国家の命運がリーダーの資質によって容易に左右されてしまうことである。これは帝政なり絶対君主制なりの独裁制を用いた国家の歴史を読めば判然としており、そのような国は名君を擁したときは興隆するが、暗君がその座にあるときは存亡の危機に瀕し、たいていはリーダー交代のための内乱に突入する。
 これらに加え、その他いろいろと独裁政治には弱点があるのだが、それらは長くなるので省くことにする。

(2)ローマ帝政の樹立

 共和制ローマは約500年間共和制で政治を行い国民全体で政治を行っていたのだが、ポエニ戦争に勝利して地中海の覇者となり大国化すると、様々な政治問題が噴出して社会が不安定化した。そのためカエサルが台頭して、一時的に独裁制を敷いて社会のリストラクションを行っていた。ところが共和制の国家とは、独裁制に対するアレルギーが強く、カエサルは改革の半ばで暗殺されてしまい、その改革はいったん頓挫してしまった。

 カエサルの跡を継いだのが養子のアウグストゥスである。彼は熾烈な権力闘争を勝ち抜いて、最高権力者の座に着いた。しかしローマを治めるのに、そのまま独裁制に移行しては、まだまだ独裁制アレルギーが残っているなかでは、カエサル同様に暗殺されかねない。そこで彼はいったん権力を元老院(国会みたいなもの)に戻すと宣言し、しかし実権は握ったままで、徐々に元老院を無力化し、実質的な独裁制―帝政を一代で築きあげた。アウグストゥスは大変有能な政治家で、彼の指導は広大なローマ帝国は平和と安定をもたらし、ローマ帝国は大いなる繁栄を謳歌する。
 アウグストゥス統治下のローマ帝国は、「超有能なリーダーのもとの独裁制国家」の典型のようなもので、アウグストゥスが生きているかぎり国家体制はまさに盤石であった。しかしいかに有能な人物であれ、いつかは寿命は尽きる。そしてアウグストゥスは75歳で亡くなり、ここでようやく本記事のテーマであるティベリウスの話題となる。

(3)ティベリウス帝の悲劇

【ティベリウス】

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 ローマ帝国という国は、じつは「皇帝」という職業は正式には存在せず、国民の代表である元老院が国家を運営している、という建前になっていた。しかしアウグストゥスは実質上全ての権力を握って国家を運営しており、そしてそれは非常に上手く機能していたので、アウグストゥスの長い統治のうち、元老院はその政治的な能力を失ってしまった。元老院議員は政治に関しては名誉職みたいなものであり、政治の決定についてはアウグストゥスのイエスマンと化していたのである。

 そしてアウグストゥスが亡くなっては、ローマの政治機能の根本が失われたことになった。しかしアウグストゥスは自分が死んだのちは、あとは野となれ山となれとかいう無責任な考えの持ち主ではなく、きちんと後継者を指名していた。それがティベリウスである。ただし、当のティベリウス自身にとって、それは悲劇的なことであった。

 

 先に、独裁制にとって最大の問題点は「独裁制を行える能力を持つ人物が極めて少ないこと」と述べた。帝政樹立期のローマ帝国にとってたいへん幸運なことに、二代目を継ぐことになったティベリウスはローマ帝政史でも有数の有能な人物であった。しかしそれはティベリウス自身にとっては不幸なことであった。

 ティベリウスという人は教養もあり、威厳もあり、人望も厚く、責任感強く、軍事の才能にも長け、そしてローマきっての名門家の嫡男という、ローマ帝国の第一人者としてこれ以上ない人物だったのだが、政治家としては看過できない欠点があった。彼は高潔な精神を持ち、誇り高く、自他ともに厳しい人だったのである。それは個人としては美点とすべき特質ではあろうが、政治家にとっては険しい欠点となる。政治力とは、すなわち調整能力のことでもある。個人、団体、すべてに存在する利害関係をうまく調整して、世の中を進めて行く、それが政治の大事な役割だ。しかしティベリウスは、無能な者、卑怯な者、下劣な者は大嫌いであり、それらの者たちともやむをえなく付き合わざるを得ない政治家という職業はまっぴらごめんと思っていた。

 そういう彼がローマ帝国の指導者になりたいと思うわけもない。そして元老院で読み上げられたアウグストゥスの遺言書には「後継者として期待していた二人の息子が亡くなってしまった今、私はティベリウスを後継者に指名せざるを得ない」などと失礼なことが書かれていたのだから、それはなおさらであったろう。

 ティベリウスは遺言書読み上げのあと、「偉大なアウグストゥスの指名であるが、私には後継者という重責を果たす能力はない。その地位は辞退して、全ての権力は元老院に戻したいと思う」と述べた。困ったのは元老院である。すでに元老院は政治的能力を失ってしまっている。今さら権力を戻されても、国家が乱れるだけだ。元老院はティベリウスに馬鹿を言うな、あんたがその座を引き受けないと、アウグストゥスが築いたローマが無茶苦茶になってしまうと抗議した。ティベリウスは責任感の強い人間である。自分の気持ちはともかくとして、元老院の言うことも理解できたので、それではこれからはお互い協力してローマ帝国を運営していこうという方針でまとめ、アウグストゥスの正式な後継者となった。

 ティベリウスの治世においては、なにしろティベリウスは有能な人なので、ローマ帝国全体に的確な指示を与え、国家は平和安定を享受した。ただしティベリウスにとって、政治とは彼の精神を蝕んでいくものであった。就位のさい、協力を誓った元老院は政治のパートナーとしてはまったく無能であり、いつまでたってもまともに機能する兆しはなかった。政治家ティベリウスに対して近寄ってくる人たちも、彼にとってはまったく心を許せるものではなかった。政治という職業を続けていくと、彼は人間の嫌な面ばかりを見ることになっていった。まあ政治家という職業は、元々そういうものなのであって、人間にはいろいろな人がいて、そして個人にもあらゆる面があるので、人間とはそういうものだと受け入れ、妥協する必要があるし、じっさいアウグストゥスを始めとする大政治家はそうしてきたのだが、潔癖なティベリウスにとってそれは耐えがたいことであった。そうして政治家という職業を続けることによって、彼の心は病んでいった。
 仕事により心が病んでしまったとき、その治療法の第一は、仕事を放棄して、ゆったりと休むことである。これだけで治ることは、ままある。しかしながら、責任感強いティベリウスには仕事を放棄する選択肢はなかった。それで次なる治療法としてティベリウスはローマ帝政史上、どの皇帝もやっていない荒技に出る。

 ティベリウスは治世12年目にして、ローマからちょっと旅に出るといって、少数の側近と友人を連れてカプリ島に行き、そしてそこから約10年間、亡くなるまでローマに戻らなかった。これは隠遁というわけではなく、ティベリウスは政治家としてはずっと現役であった。つまりローマで人と会うのが嫌で嫌でたまらないので、首都ローマから遠く離れた孤島のカプリ島に引きこもり、人との交わりを絶ったうえで、そこから手紙の交換で指示を出し、亡くなるまでの政治家としての仕事を行ったのである。大帝国の元首としては常識外れ、破天荒な行為ではあるが、ティベリウスにとっては、自らに課した重い責任を果たしつつ、己の人間の心を守るにはこれが唯一の方法であったのだ。

 ティベリウスという人の伝記を読むと、仕事の辛さは言うに及ばす、アウグストゥスにはいろいろとひどい目にあわされ、家族とはうまくいかずなんでもかんでも島流しに処す羽目になり、唯一愛していた息子は暗殺され、本当に不幸な人生なのだけど、それは結局彼が有能であったからそういう目にあったわけで、それを考えると、彼の政治家としての一生の厳しさ、哀しさがより伝わってくる。

 そういう悲劇的な人生を送っていたティベリウスが、心を癒すために選んだカプリ島の別荘、伝記を読んださいに是非とも一度訪れたいと思っていたけど、今年の秋訪れることができた。

(4)ティベリウス別荘 Villa Jovis探訪記
【カプリ島 対岸のエルコラーノからの眺め】

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 カプリ島はナポリから30kmほど離れたところに浮かぶ小島である。全体が巨大な岩であり、周囲は絶壁に囲まれているが、一ヶ所だけ入江になっているところがあり、そこを港として島に渡ることができる。そしてその港から100mほど登った小高い平地が人々の居住地になっており、今もそこにはたくさんの家、建築物が並んでいるけど、ティベリウスの別荘はそこと遠く離れた島の東端にあり、ティベリウス、いったいどんだけ人嫌いなんだ、と思わず突っ込みたくなってしまう。

 そして港から、私はナポリ旅行の主目的ティベリウスの別荘「Villa Jovis」を目指して歩いて行った。お洒落な家々と庭に挟まれた小径をずっと歩いて行き、島の端に近づくとようやくVilla Jovisへと着いた。

【Villa Jovis】

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 かつては豪華な宮殿であったVilla Jovisは、二千年近い前に主を失ったのち、荒れるに任され、今では基礎部と石壁のみかろうじて残されているのみで、往時の栄華をつたえる術もない。政治家の住処としてはおろか、普通の者さえ住むのも不便な地ゆえ、偏狭な主人がいなくなったのちは、誰もそこに住もうとは思わず、時の流れのまま朽ちていったのであろう。
 この宮殿の跡地からは、ティベリウスの見ていたものは、もはや想像もできない。

【カプリ島からの風景】

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 かつてのローマ帝国最高権力者の住居は荒れ果てていたけど、二千年前と同様の眺めは、もちろんある。別荘の高台の前には、紺碧のティレニア海が広がり、そこにカプリ島に向かってソレント半島が突き出ている。その半島を奥に辿って行くと、円錐形の秀峰ヴェスヴィオ火山があり、さらにその奥にナポリの街が扇型に弧を描いている。
 とても美しい、まさに名画のような眺め。

 仕事と人生に疲れ果て、絶望に沈んだ、世界で最も気難しい男が、広大なローマ帝国のなかから、終の棲家として選んだ、カプリ島の東端の崖の上。

 この眺めを見ていると、なぜティベリウスがこの地を選んだのか、はっきりと理解できる。そしてあれほど疲弊させられたティベリウスの心が、この眺めによって癒されることによって、残りの激動の政治人生を全うできた、ということも。

 伝記だけ読んでは分からない、その地に行ったことによってのみ理解できる、そういうものを私はカプリ島の探訪で知ることができた。

 

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September 10, 2017

西郷どん帰郷の路@鹿川古道再生プロジェクト

【西郷軍敗走路@宮崎県内】
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 西南戦争末期、西郷軍は延岡和田峠で決定的な敗戦を喫し、事ここまでと悟った西郷は、軍の解散令を出した。そこで多くの降伏兵が出て、西郷は残った兵たちを率い、延岡から鹿児島への逃避行を行った。
 主要道路にはもちろん政府軍が待ち構えているので、裏道、山道を通っての行程になる。行く所々で糧食、武器を略奪しながらの行軍であったため、地元の住民にとってははなはだ迷惑な集団であったとは思われるが、なにはともあれ西郷軍は険しい山々を辛酸辛苦の末に突破し、鹿児島城山への帰還に成功した。
 西郷軍は、戦略・戦術等の軍隊そのものの能力には著しく難があったが、サバイバル技術には優れたものがあったようで、彼らは能力の使い方を根本的に間違っていたのでは、と後世の者からは残念に思われている。

 その西郷軍の敗走に使ったルートをざっと上の図に示す。
 これらの道は、今も生活道に使われていたり、登山道に使われていたりもするが、西南戦争から150年近くがたった今、その半ばは廃道になっている。

 ところで近年の歴史ブームの余波からか、宮崎県の地方起こしで、この敗走路を復活させようという活動が数年前から起こり、たとえば日之影から岩戸までは、「天の古道」として復活した。
 それで、チーム大崩でも、大崩山山麓の西郷軍が通ったルート、「鹿川古道(上の地図で赤線の部分)」を整備して復活させようという話が持ち上がり、私もそれに参加してみた。

【西郷隆盛宿陣の跡】
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 上祝子集落に残る、西郷隆盛が泊まった農家の跡。
 ここをもう少し行ったところから、鹿川古道は始まる。

【鹿川古道】
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 鹿川古道は、この川を渡るところから始まる。
 鹿川古道は、かつて上祝子と鹿川が林業で栄えていたころ、人々の往来に使われていた道だったが、人々が去ってしまい、道が使われなくなった今、かつて掛けられていた橋は落ちたままとなっている。

【鹿川古道】
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 林道を少し歩いて、それから山のなかに入って行く。

【鹿川古道】
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 使われなくなった道は、樹々や草で覆われてしまう。
 地道に樹々を切り、草を刈って行く。

【鹿川古道】
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 先頭者が樹々を切ったあと、後続の者がそれらを脇に捨てていって、道が整備されていく。

【展望所】
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 鹿川古道は基本的には茂った林のなかの道なので展望がきかないが、ところどころ展望の利くところがある。
ここはその一つ。
 広ダキ、やかん落とし、大崩山山系の特徴である巨大な花崗岩のスラブを見ることができる。

【鹿川古道】
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 ここらは日当たりがよいせいか、カヤが生い茂って、自然に還ってしまっている。
 ここは刈り払い機にぞんぶんに活躍してもらって、道を切り開いて行く。

【鹿川古道】
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 使用前、使用後という感じで、道が復活している。
 もっともカヤはすぐにまた生えて来るので、人が入り続けないかぎり、この道もやがては自然に戻ってしまう。

【林道】
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 3kmほど進んで、機械用の燃料もなくなってきたので、本日の整備作業は終了。帰りは、古道は使わずに、快適な林道を歩くことにした。

 終点である鹿川越までは、あと半分くらいを残すのみ。あと一回作業を行えば、鹿川古道全行程が復旧できそうである。


【本日の鹿川古道作業区間】
Sisigawa

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July 20, 2014

東北旅行 世良修蔵の墓

【世羅修三:1835年~1868年】
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 大動乱期幕末は、数々の英傑、偉人を輩出した時代であったが、光の輝きと同時に影も深く、また愚劣な人物も数多く出した時代でもあった。
 その数ある愚劣な人物のうちでも、東北において最も悪名高き人物が世良修蔵である。

 この人物は、戊辰戦争中の東北戦争勃発のキーマンである。
 東北戦争は「日本の歴史の恥」とでもいうべき内戦であり、これを起こしたというだけで、明治新政府には行政機関の正当性はないと断言できるほどの、大義無き、愚かな戦争であった。

 この最悪の東北戦争がなぜ起きたかという理由には、いろいろと複雑な事情があるのだが、とにかく新政府軍の東北鎮撫実務トップという要職にありながら、現地で傲岸不遜な態度で乱暴狼藉を働いた世良修蔵が戦争勃発の原因となったのは誰しも否定できぬ事実である。
 それゆえ戊辰戦争史において、本来長州の無名武士であったはずの世良修蔵の名は、東北戦争における主役級の役割をもって刻まれることになってしまった。

【世良修蔵の墓碑】
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 私は世良修蔵という人物にはじつのところさほど興味はなかったが、その墓碑に興味があり10年ほど前に訪れた。
 世良修蔵は仙台において斬首された。世良修蔵は誰からも憎まれていたため、どこにも墓をつくることができず、無縁仏のような扱いを受けていたのであるが、明治新政府成って、いちおう新政府側のかつての要職者としてこれではあんまりだと、白石市陣場山に改葬された。この時墓碑には「戊辰元年、世良修蔵は賊によって殺された。享年34歳」というふうな語句が刻まれた。
 世良修蔵は、仙台藩壊滅の謀議を図ったため、それを阻止すべく、仙台藩士有志が上司の許可を得て捕縛して処刑したのであり、その正当たる藩務を果たした仙台藩士を「賊」呼ばわりとは何事かということで、後にこの「賊によって」の部分が何者かにより削られた。
 東北人の中央政府に対する憤激の強さの象徴ということで、この墓碑は有名だったのである。

【墓碑:拡大図 赤丸部が該当部】
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 墓碑を拡大したところ。文字が消えているところが「為賊(賊によって)」と書かれていた部である。
この部、ノミで無理やり削りとったような姿を想像していたのだが、実物はヤスリで丁寧に擦り落としたような感じであった。
 webの情報によれば、明治の大赦令によって東北人が赦されたことにより、それに従って官庁レベルでこの処理がなされたとのこと。
 この消えた文字は、巷間伝わる「東北人の恨みの象徴」というようなものではなかったらしい。
 けれども、いくら新政府樹立のドタバタ時とはいえ、「為賊」と平気で彫らせることが、当時の新政府の田舎者ぶりというか、無教養性が如実に現れており、それを伝えるためにも、かえってそのままの姿で残してほしかったとも思う。


 ところで、世良修蔵という人物について、私はのちに知識を得る機会があった。
 歴史のなかではただの愚か者として墓碑だけ残して歴史に埋没してしまったような人物だと思っていたのだが、萩市の博物館を訪れたとき、この人物に対してけっこう詳しい評伝の本があった。
 さすがに長州出身の人物であり、長州ではそこそこ関心がもたれているのであろう。

 世良修蔵は歴史においては、「東北で大義なき戦争を無理やり起こさせるために、薩長が送り込んだ鉄砲玉」という役割をはたしている。そういう捨て駒のような役だったので、「薩長はあえて、失ってもかまわない世良修蔵のような劣悪な人物を東北に送り込んだ」というふうに一般には認識されているわけだが、評伝を読むとあんがいそうではなかった。

 世良修蔵はしっかりした高等教育を受けており、また奇兵隊においても中隊を指揮する尉官レベルの指導力を持っており、幾多の戦果もあげていた。他藩との交渉に対してもきちんと結果を出しており実務能力もあった。あいつぐ内訌により人材が払底していた長州において、残り少ない、希少な有能な若手だったのである。

 そうだとすると、世良修蔵はその能力によって大役に抜擢されたわけだが、それにしては、東北での狼藉ぶり愚人ぶりとはずいぶんと乖離がある。まるで別人だ。
 このミステリに対する解答は、…やはりいくら能力があったとはいえ、役目がその能力以上に大きすぎて、それが手に余り、精神を病んでいったというところなんでしょうねえ。
 こういうことはべつだん珍しいことではなく、それこそ先の大震災のときに、政府の大臣級の人たちが自分の能力を超える事態に半狂乱になって、事態をさらに悪化させていった姿はいまだに記憶に新しいとことであるし。

 ただしそういうことが、結果として招いた悲劇の免罪符となるわけではない。
 世良修蔵は結局は無能だったわけで、その無能さがいまだに東北人に怨恨を残す、あの東北戦争を引き起こした。世良修蔵がいなくても東北戦争は起きたかはしれないが、あのような悲惨な形にはならなかったであろう。

 無能はそれ自体は悪いことではない。しかし立場ある人の無能は、それはそのまま罪となる。
 長州ではそれなりの人物だったとはいえ、仙台時代において、世良修蔵が唾棄すべき最低の人物であったことは間違いない。世良修蔵が最低であった理由は、その能力もないのに重要な役目を許諾し、かつその任に耐えぬことが判明したのちもそれを手放さなかったことによる。それが、世良修蔵自身の悲劇と、そして東北の悲劇を招いた。
 そして、これは今なおいたるところで続く、悲劇の事例でもある。

 世良修蔵の悲劇は決して他人事ではなく、社会を生きる我々にとっては重要な教訓を伝える出来事といえるだろう。

【世良修蔵の墓 2014年】
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 世に災いをもたらす者を悪人とするなら、その悪人には二種類がある。
 一つは悪を為す強い意思をもってその結果災厄をもたらす者。
 次は、悪を為す意思はないけど、その無能さをもって災厄をもたらす者。
 世良修蔵はその行いがあんまりだったので、前者に思われがちだが、評伝を読むかぎりは後者の代表例であったようだ。

 そういうわけで、十年前からは世良修蔵に対する考えが少々変わったこともあり、私は10年ぶりに墓を訪れることにした。
 今回は墓の入り口の門が閉まっていたので、あえて墓碑までは近づかなかった。

 10年前は寂れた地だなと思った記憶があるが、その記憶に比べ、さらに寂れた雰囲気が増しているようであった。
 元々この墓は世良修蔵とは地縁なきものだし、また世良修蔵は歴史の人気者というわけでは全くない。ここは今でもそうなのだが、歴史マニアしか訪れぬ墓なのだろう。

 かつて東北の恨み、憎しみを一身に背負ったような人物が、徐々に人々の記憶から消え去り、その墓が時とともに草木のなかに埋もれていてく。
 時間というものの有難さと残酷さが、伝わって来る、そういう場所であった。

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 世良修蔵の墓 地図  白石市福岡蔵本陣場福岡小学校傍

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October 30, 2013

邪馬台国は何処にあったのか? 統計学的手法で考察した記事の紹介。

【鉄の鏃(やじり)】
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 日本古代史最大のミステリ、「邪馬台国は何処にあったのか?」については古来より様々な論議がなされている。
 考古学的には、
 (1) 卑弥呼の墓が見つかる
 (2) 紀元3世紀に30万人もの人が住んでいた大規模な遺跡が見つかる
 のいずれかの発見が為されれば、それでミステリの解答は得られ、邪馬台国の位置は決定ということになるだけど、いまだそのようなものは見つからず、今後ともそのようなものが出て来る可能性は非常に低い。
 それゆえ、邪馬台国の位置については、元々のテキスト魏志倭人伝を詳しく研究することが肝要で、それに日本の古代史文献、考古学資料を絡めて検討していき、精度を増していくしかない。

 その邪馬台国ミステリについて、今月号の文芸春秋に「邪馬台国を統計で突き止めた (著)安本美典」という面白い論文が載っていたので、紹介。

 日本は考古学調査がしっかりした国であり、なにかの工事が行われ遺跡が見つかるたび、調査が行われ、詳細な報告書が作成される。それらは多大な量であり、この国には膨大な資料が蓄積されている。
 邪馬台国本体自体は見つかっていないものの、これらの資料を用いれば、どのへんにあったかは類推できる。それで、著者は近年の膨大な考古学的資料に統計学的な検討を加え、邪馬台国の位置を高い精度で導き出した。

 その手法はこうである。
 著者は「魏志倭人伝」の著述から、そこに登場しているもので、現在でも発掘されたものに注目した。それは「鏡」「鉄の鏃(やじり)」「勾玉」「絹」の4つである。これらのものが卑弥呼の時代(紀元3世紀前半)に、どの県でどれくらいの数が出土したかを調べ、ベイズ統計学という手法を用い、比較検討したのである。
 それによれば、邪馬台国があった確率は各県ごとに、福岡99.9%、佐賀0.1%、その他の県0%という結果であった。九州説とならび、支持者の多い畿内は、奈良を始めすべて0%であったのである。これではあんまりなので、範囲を広げ九州VS畿内としたが、それでも九州99.7%、畿内0.3%という結果となった。

 著者の安本氏は邪馬台国九州説の本家みたいな人なので、この結論には何らかのバイアスがかかっている可能性もあるのだが、論文中の統計学者のコメントによれば、「統計学者が純粋に出土品の各県別データを見る限り、邪馬台国は福岡以外にはありえない」とのことである。
 まあ、たしかに出土品の数が圧倒的に違うのだから、それはそうであろう。

 著者の説の説得力は非常に強く、この論文は邪馬台国のだいたいの位置の決定版とも言っていいのではと思われる。そして紀元3世紀という、古代日本における渡洋の技術がまだ未熟な時代、大陸の魏に幾度も使いを送る意志を持った国が、玄界灘に面する福岡あたり以外にあったとは考えにくく、著者の「邪馬台国=福岡」説は普通に考えても順当なものなのであろう。

 ただし、それでは当たり前すぎて面白くない。
 私は魏志倭人伝における風俗形態と、その時代の大規模な遺跡の存在から、「邪馬台国=宮崎県西都」と考えている。それは統計学には無理があっても、考古学は現場主義なので、一つの発見で全てがひっくり返る可能性は常にある。
 宮崎であれ、奈良であれ、そこに「親魏倭王」の金印が入った卑弥呼の墓が見つかれば、一発逆転でそこが邪馬台国に決定である。
 現場で見つかったものが全てである考古学にはそういうロマンがある。
 もっとも、「そのようなことは統計学的にあり得ません、もし卑弥呼の墓が見つかるならそれは絶対に福岡です。それが統計学というものです」というのが、この論文の一番のキモなんではあろうけど。


【Résumé(まとめ)】
 Selon “Gishiwajinndenn” qui est le livre d’histoire de la Chine , Il y avait un grand pay appelé Yamataikoku au Japon en le troisième siècle.
 Ancienne nation que la Reine Himiko a contrôlé semble avoir été à l'origine de Yamato Cour du Japon.
 Pour cette raison, les recherches sur où avait Yamataikoku existé s’est fait jusqu'à présent beaucoup.
 Dans le présent document le auteursa fait conclusion que Yamatikoku avait exsisté à Kyusyu. Sa discussion est très précis, je dois consentir à ce. Mais je pense que Yamataikoku est existé à Siato de Myazaki préfecture par autore raison.
 Il est posible que le avis du auteur est correct. Mais l'archéologie est l'étude de se concentrer sur la réalité. Alors par exemple, La tombe de Reine Himikose s’est trouvé, ce terrain sera confirmé comme Yamataikoku.
 Par ce papier, le possibilité sont plus faibles, Je éspere enocore que Yamataiokku a été à Miyazaki.

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May 27, 2012

登頂の証拠 -登山の歴史をふりかえる

 近代登山の黎明期、アルプスを征服したヨーロッパの登山家たちは次の目標をヒマラヤとした。8000mを越える山がひしめくヒマラヤのなかでも難攻不落を誇った山がナンガ・パルバットであり、その険しく広大な山容から、ヨーロッパの精鋭達の挑戦を頑として阻んでいた。果敢にアタックしても、山は雪崩や吹雪で応え、この山の征服を目指すドイツ隊は合計24人という死者を出すことになり、ナンガ・パルバットは「人食い山」の別称を持つことになる。

 執念の鬼と化したドイツ隊は懸命のアタックを続け、ついに1953年に登頂を果たすのであるが、それを達成したのが、かの鉄人ヘルマン・ブールである。
 その時の登山は、極めて過酷な条件のもとであり、ブールは当時としては破格の単独無酸素にて登頂している。登頂後ブールは決死の下山を続け、ほとんど動けないような、半死人のような状態でベースキャンプにたどり着き、登頂の成功を報告した。

 ここで問題になるのが、ブールが本当に登頂したかどうかである。
 なにしろ単独で登ったので、それを証明してくれる証人はいない。登頂の印として、山頂に何か残しておくとか、岩に字を刻むとかしていれば、後の証拠ととはなるが、下山時ではその物証の証明は無理である。
 「単独無酸素」での8000m高峰は不可能と思われていた時代、それゆえブールの登頂は嘘か妄想かと隊員は思っていたのであるが、…証拠はあった。

 ブールは山頂に到達したとき、息も絶え絶えの態だったのだが、それでも隊旗を結んだピッケルを山頂に立て、写真を撮っていた。
 ナンガ・パルバットの山頂なんてブール以外にそれを見た者は世界中に誰もいないので、「これが山頂」と言われても、誰もそれを証明できないわけなのだが、しかし山頂写真には周囲の山々が写っている。その写り方から、その写真がどこで撮られたかは厳密に判断でき、そしてブールの撮った写真は、そこが山頂であることを間違いなく示していた。
 こうして魔の山ナンガ・パルバット初登頂者の栄誉は、ブールに輝くことになった。
 下がその有名な写真である。

【Summit shot of Herrman Buhl 1953 July 7】
Hermann_buhis_photo_2


 さて、5月26日に竹内洋岳氏がダウラギリ登頂を果たした。
 氏は基本的に単独登山はやらず、今回もパートナーとして写真家の中島ケンロウ氏と共にダウラギリに登る計画であったのだが、中島氏が体調不良でリタイアすることになり、結局単独での登頂となった。
 だから本来なら竹内氏が山頂に立っている姿を中島氏が撮影することで登頂の証拠成立ということになったはずが、仕方なく竹内氏は自分の影の入った山頂の写真を撮ることでその代わりとし、その写真も公開されたわけだが、…

【ダウラギリ山頂写真:竹内氏撮影】
Takeuchi

 この写真、奥に見えている岩山がダウラギリ山頂である。
 しかし、これって「山頂を撮った写真」であり、山頂にいることを証明する写真ではないなあ。


 ダウラギリ登頂記念の写真をずらりと以下に並べると、

【Kinga Baranowska 2008 May 01】
Kinga

【Edurne Pasaban 2008 May 01】
Pasaban

【Air2 Breeze team 2009 May 18】
Summit

【Mario Panzeri 2012 May 17】
Mario

 「Dhaulagiri submmit」のkeywordで検索して適当に拾ってきた写真群であるけど、世界山岳界のスーパースターがずらずら並んでいるなあ、という感想はともかくとして、厳密には登山者が山頂にいる「登頂写真」は一番最後のマリオ氏のものだけのような気もするが、とりあえずは皆、竹内氏が撮った写真に写っている岩山のところで写真を撮っている。
 あそこまで行っておけば「ダウラギリ登山登頂」と認定されるようであり、それゆえ竹内氏の写真は詰めが甘く、下手をすると「登頂の証拠なし」と判断されてしまいかねない
 これは竹内洋岳14座完登認定ピンチか? という状況なのだが、そうでもない。

 現代にはGPSというじつに便利なものがあり、竹内氏はずっとGPSで現在位置を発信しながら登山をしていて、彼の登山はネットにより全世界に生中継されていた。私もそれをリアルタイムでみていたけど、怪物と称すしかないデスゾーンでの行動の速さには呆れていた。ま、そういうわけで、登頂の記録はばっちりと残っている。
 また今回の登山はNHKも参加しており、高性能のテレビカメラで山頂が撮影されていて、竹内氏の登頂も記録されている。(山頂の写真の天気からすると、そのはずだ)
 というわけで、ヘルマン・ブールの昔ならいざしらず、現代では各種機器の発達により、登頂の証明はだいぶと容易になってきているわけだ。

 以上、登頂にまつわる、登山の歴史をふりかえった話。


 ところで、ヘルマン・ブールは写真を撮ったことで、登頂を証明できたのだが、もし氷点下30度とかの過酷な条件でカメラが故障して、写真が撮れなかったとする。
 そうなると、登頂は彼の証言のみにかかり、「ヘルマン・ブールはナンガ・パルバットに本当に登頂したのか否か」は、マロリーのエベレスト登頂の謎に並ぶ、山岳史最大級のミステリとなったはず。
 しかし、もしこのミステリが生じても、それには解決編が用意されていた。

 ブールは山頂に隊友のピッケル(たぶん写真に写っているもの)を登頂の証拠として残していて、そのことも証言していた。しかしそのピッケルは氷雪に埋もれ、のちにナンガ・パルバットに登った人は誰もそれを見つけることはできなかった。
 ところが地球温暖化の影響か、ヒマラヤも氷が溶けだし、1999年日本人登山家により山頂で古いピッケルが発見された。持ち帰られたピッケルは、まさにブールのドイツ隊使用のものと確認され、山岳博物館に収められることになった。

 あの写真がなかったなら、ピッケル発見は50年近く続いていたミステリの解決ということになり、「ヘルマン・ブールは本当に登っていた」との見出しつきの記事が世界中を駆け巡る大ニュースとなったのに、…とかミステリ好きの私としては、勝手な感想を抱いたりもしてしまった。

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May 21, 2012

宮崎の日蝕ロマン 1700年の時を経て

【日向灘】
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 平成24年5月21日は宮崎全域で金環日蝕が観察できるとのことで楽しみにしていたのだけど、前日の予報では曇りとのこと。
 朝起きてみると、やはり空一面に雲がかかっている。それでも雲が少しでも切れることを期待して、日向灘の海岸まで行ってみたが、金環日蝕の時間はずーと曇りであり、そのときに少し暗くなったかな、という程度で過ぎてしまった。

【期待された日蝕の図】
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 晴れていたら、こういう金環日蝕を見ることが出来たのだが、こればかりはどうにもならない。
 私の生きている間は、この地に金環日蝕が起きることはなく、残念であった。


 日蝕は、天空ショーのなかでも最大級の見世物であり、この仕組みがよく分かっていない時代には、神の怒りとも捉えられていたようだ。
 日本における記録では、古事記における「天岩戸」の記事が、日蝕を記した最初のものと考えられている。ここでは天照大神の怒りが、日蝕となったわけであるが、この日蝕は、いつの日蝕であろう?

 日本の歴史初期のスター天照大神にモデルがあるとしたら、それは邪馬台国女王卑弥呼しかおらず、そしてたぶんそうだと言われている。
 卑弥呼の時代は紀元3世紀であり、天文学的にたしかにその時期日本に皆既日蝕が起きている。そして皆既日蝕のせいで、女王の神性が疑われ、卑弥呼が殺されたという説もある。
 それはともかくとして、もし卑弥呼と日蝕に関連があるなら、それは邪馬台国の位置の大きなヒントとなる。

 日蝕は日本列島でバンド状の位置でしか観察できず、その日にどこでも見られるというわけではない。

【日蝕バンド】
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 邪馬台国で皆既日食が起きたとするなら、邪馬台国は日本列島のうち、この紀元3世紀の日蝕バンドのなかのどこかにあったはずとなる。
 邪馬台国の候補地は、北部九州と近畿奈良の二つが最も可能性が高いとされており、この二つはバンド内には入っている。
 しかし、3世紀の皆既日蝕では、九州ではたしかに日蝕は観察できたが、奈良では観察は困難であったとされている。バンドには入ってはいるものの、この時の日蝕は日の出に近い時刻であり、盆地の奈良では、太陽はまだ山に隠れており、日蝕を観察できなかったからだ。
 そうなると、邪馬台国は九州にしぼられることになる。

 考古学的には、邪馬台国が北部九州にあったのか、近畿奈良にあったのか、いまだに結論はついていない。
 紀元3世紀に30万人も人が住んでいた遺跡がどこかに見つかれば、それで簡単に決定ということになるのだけど、いまだにそのようなものが見つからない以上、たぶんこれかも正解は出ないであろう。

 それで、邪馬台国の位置は、魏志倭人伝の読解が重要になるのであるが、魏志倭人伝を読むかぎりは、私は「邪馬台国=近畿奈良」説はありえないと思っている。
 魏志倭人伝の一節、「男子は大小と無く、皆黥面文身す。今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う」における邪馬台国の風習、「男子は身体全体に入れ墨をして、また潜水漁法が得意で、魚や蛤を捕る」からは、邪馬台国は南洋風の文化を持ち、かつ水産物の採取が得意であったことが分かる。
 これだと奈良ではおかしい。奈良には海はないし、たとえ川か湖での漁としても、「好んで沈没して、魚蛤を補う」文化にはほど遠かったはずだから。

 ただし、北部九州にしても、この記事はおかしい。この記事からは邪馬台国は、それこそ沖縄あたりの南洋系の文化を持っていたように思え、九州ならせめて宮崎・鹿児島あたりの南九州のあたりにないとおかしい。

 ここで宮崎は西都原古墳の出番となる。
 紀元3世紀において、九州では巨大な遺跡はここにしかない。西都原古墳群は、日本最大級の古墳群であり、この地に大きな人口を持つ都市があったことは間違いないと思われる。
 「西都原=邪馬台国」説はあまり聞いたことはないけど、魏志倭人伝の記事、それに日蝕から、ここが邪馬台国の可能性は高いのではないだろうか。
 それならば卑弥呼の見た日蝕は、宮崎の地での日蝕となる。


 まあ、そういうふうに邪馬台国の卑弥呼にも関連があったかもしれぬ宮崎の日蝕を、千七百年以上の時を経て、また見るのだなあとか思いながら日蝕を観察する予定であったのだが、厚い雲に隔たれてしまい、…繰り返して言うが、まったく残念であった。

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October 27, 2011

秋田編(9)大曲→横手→湯沢横掘 68.8km

 大曲からは南に向けて走行。
 このルート上の横手市金沢は「後三年の役」の起きたところで、古戦場跡や公園、資料館などに寄ってみた。
 なにしろ1000年近い前の争いなので、痕跡のようなものはほとんど残ってはいないのだが、それでも鎌倉幕府の出来たモトのような歴史的重大な事件のあったとこゆえ、歴史好きには是非訪れたいポイントだ。

【資料館近く】
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【平安の風わたる公園】
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 古戦場跡につくられた公園だそうだが、その歴史とは少々離れたネーミングの公園である。
 この三連の太鼓橋など見ごたえがある。

【後三年駅】
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 この地の最寄りの駅の名前が「後三年駅」。
 もちろん「後三年の役」にちなんだものなのだろうが、センスがいいのか悪いのかよく分からんネーミングである。

 ここを越えてしばらくすると横手市市街地になる。
 横手市は「横手焼きそば」で有名なので、一度食ってみようと店を横目で探しながら走行したが、見つからずに横手市を通り過ぎてしまった。
 残念。
 ちゃんと市内の奥まで入るべきであったか。

【小町堂】
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 本日のサイクリングは山形県の手前、湯沢市横掘まで。
 県境は坂を登っていかないといけないので、それで坂の手前の横掘を宿にしたわけで、横掘については位置以外なんの事前情報も持ってなかった。そして着いてみると、ここは小野小町の誕生の地で有名だそうだ。
 日本歴史上最高の美女小野小町は、その歌以外なにも詳しいことが分かっていない人だったはずだが、こんなところに生誕の地があったのかあ。
 そういえば「あきたこまち」とか「新幹線こまち号」とか、秋田県は小野小町を使った名称のものが多いけど、そういうわけだったんだな。
 (私はてっきり秋田は美人が多いから、そういう名称を使っているんだと思っていた)
 というわけで、湯沢市横掘には、小野小町を祀った御堂があるのである。

【民宿 小町荘】
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 宿泊した民宿は「小町荘」という優雅な名前。
 しかし、…普通の民宿だわな。

【夕食(オードブル)】
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 横掘は、小町堂以外はなにもないと言ってよいようなところで、商店街なんてものはない。町なかを散策し、かろうじて見つけたレストラン「バルーガ」で夕食。
 けっこうがっつりした料理が出てきて、ビールを美味しく飲めた。


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June 20, 2011

愛宕山の伝説 -古代史ロマン

【愛宕山】
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 延岡のランドマーク愛宕山には伝説があり、それが展望公園の案内板に書かれている。それによると、「天孫ニニギノミコトが笠沙の岬(=愛宕山)に到来し、ここで妻となるコノハナサクヤヒメと出会った」とのことである。

 日本書記および古事記から神話的装飾をあえて外して天孫一族の足取りをたどれば、彼らは「笠沙の岬に上陸し、それから高千穂の地で勢力を増してから、日向の地に下りてきて、さらに勢力を増したのち美々津の岬から東征へ船出していった」ということになる。
 その天孫一族上陸の地「笠沙の岬」こそ、現在の愛宕山というわけなのだが、…これにはずいぶんと無理がある。そういう無理なことを、堂々と案内板に載せるのもいかがなものかと思わぬこともないが、…まあ神話でそういうことになっているので、いいといえばいいか。


 天孫一族の足取りは、すなわち弥生文化―稲作文化の広がりと一致する。
 稲作文化は東南アジアを発祥の地とする。これが九州に渡ってきて、それから全国へ広がっていった。中国から日本への文化伝達のルートは、中国→朝鮮半島→壱岐対馬→九州がメインルートであるが、稲作文化に関してはそのルートではないことが、近年の学術的調査から判明している。

 稲作文化は朝鮮半島を経由せずに、直接九州に伝わっている。
 そのルートであるが、中国南部から船を出して海流に乗ると、だいたい鹿児島の薩摩半島の野間岬あたりに着くようになっている。たとえば中国南部から出港して遭難した鑑真和上はそこに漂着しているし、またマカオ発で日本を目指したフランシスコ・サビエルも同じようなところに上陸している。

【笠沙の岬】
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 数百年もあいだに幾度も幾度も行われた、中国南部からの九州への船旅を行った者たちのなかに、天孫一族がいたことは間違いなく、この渡航者たちのなかで歴史を伝える力を持っていた天孫一族によって、あいまいな形ながら、いかなるルートで彼らの文化が広がっていったかが記録に残された。

 新文化の到来の記録として、九州には天孫降臨の伝承のある地は二つほどあるが、海を渡っての天孫上陸の伝承の残る地は一つしかない。それは、やはり中国からの船旅の到着点である野間岬周辺であり、現在の鹿児島県南さつま市笠沙町である。
 地理的条件からも、伝承からも、神話に伝わる「笠沙の岬」は、ここと断定してよいであろう。


【笠沙→高千穂→美々津】
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 笠沙の岬に上陸した天孫一族の移動を地図で現わせばこういう感じとなる。
 笠沙に上陸した一族がその近傍である鹿児島や熊本南部で勢力を持てなかったのは、そこが稲作に適した地でなかったということより、そこには隼人族や熊襲族などの、強力な土着の縄文族が勢力をふるっており、そこでの生存競争には打ち勝てなかったからであろう。
 そして一族は長い旅ののち、高千穂~阿蘇に安住の地を持ち、そこで勢力を蓄える。その後一族は海沿いの日向に出てさらに力を強くさせ、それから東へ向けさらに勢力を拡大させていったというのが神話に伝わる、天孫一族の行跡である。

【海→愛宕山】
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 さて、もし延岡の愛宕山が、伝説の笠沙の岬とすると、天孫一族は図のごとき行跡をたどったことになる。
 明らかに、これはあり得ない。
 中国南部から九州を目指した場合、この日向灘の愛宕山に着くまでには、関門海峡というものが途中にあって、九州上陸が目的なら、彼らはこの周囲で北部九州に上陸するはずであり、日向の地までわざわざ来る理由がない。
 ではなぜ愛宕山が、笠沙の岬と伝えられるようになったのだろう?


 日向の地に天孫一族が居住していたことは歴史的事実である。
 愛宕の山が上陸の地「笠沙の岬」ではないにせよ、この延岡の地でひときわ目立つランドマークがなんらの信仰を受けていたのは間違いなかろう。

 日向の地には愛宕山以外にも、天孫一族に関与した伝説を持つ山が多く、
 (1) 行縢山:クマソタケルが住んでいたとされる
 (2) 可愛岳:ニニギノミコトの御稜とされる
 (3) 速日の峰:ニギハヤノミコトの降臨した山とされる
 と、延岡から見ることのできるほとんどの山に、その手の伝説が残っている。

 笠沙の岬にしろ、クマソタケルの地にしろ、実際の場所は鹿児島なので、日向とは相当に離れている。それなのに、そのような伝説が残されたのは、おそらく遠い日々に行われた先祖の大遠征を記憶に残すために、これらの地にその古き伝説を付与し、遠征のミニチュア版を今住んでいるところにつくることによって、一族の記憶を紡いできたのでは、などと私は思っている。

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February 10, 2011

本因坊道知と八百長の話

 元禄時代に道策の登場で囲碁のレベルは一気に上がった。
 道策師匠指揮する本因坊道場は、日本全国から囲碁の俊英が集まり、活況を呈した。
 江戸時代は囲碁の家元は四家あり、そのなかでは本因坊家が別格の存在であった。道策は次代の家元として、その俊英集う弟子のなかでも特に優秀な者を選ぶが、残念なことに選ばれた跡目、小川道的、佐山策元は2人続いて若くして夭折してしまう。これは集団生活が災いしての、結核感染であったと現代では推察されている。

 策元の死後、道策は跡目をすぐには立てようとはしなかった。
 何故なら坊門の弟子のうち、その時10歳の神谷道知が、どうみても囲碁の天才であり、道知はやがて誰よりも強くなるのは確実なので、あわてて跡目を立てる必要を認めなかったからである。

 そして不世出の大棋士本因坊道策は58歳で生涯を閉じるが、その臨終の席で、当時13歳の道知を後継者に指名し、道知はその若さで本因坊家を継ぐことになる。

 道策の炯眼通り、道知は棋力を加速度的に上げて行き、15歳の時に、家元の一つである安井家の頭領から挑まれた争い碁に圧勝し、その地位を確たるものとする。

 その後も道知は囲碁の鍛錬を怠たらず、めきめきと囲碁の実力を伸ばしていったのだが、20歳を超えたころから困ったことが生じてしまった。
 あまりに強くなりすぎて、相手をするものがいなくなったのである。
 
 「孤高の天才」というものはどの分野にも存在するが、音楽・絵画・文学等々ではそれは十分に成り立つけど、囲碁は対戦型ゲームである。同等とまでは言わぬも、少々劣った程度のものが同世代にいないと、まともな勝負の棋譜が残せない。
 というわけで、大成後、本因坊道知はまともな棋譜を残せなかった。

 ここで、最初のテーマの八百長の話に移る。


 江戸時代、囲碁界は将軍お抱えの職業であり、各家元は将軍より扶持を受けていた。その家元の大事な仕事に、年に一度江戸城に登城して、各家元の代表者たちが囲碁を打ちあい、その棋譜を将軍に献上する、「御城碁」というものがあった。

 道知は本因坊家の代表として当然御城碁に参加していたが、道知は黒番では5目勝ち、白番では2~3目負けと、いつもワンパターンの碁ばかり打っていた。

 さて、江戸時代には棋界に「名人」という存在があった。
 現代では「名人」は数あるタイトル戦の一つであるけど、江戸時代の名人は、将軍の囲碁指南役であり、全棋士の段位認定権を持つという、名実ともに棋界の最高実力者であった。それほどの権威者であるため、名人は卓越した実力を認められ、各家元から推挙された者しかなることはできなかった。

 道知が少年の頃の名人は道策であり、そして道策の次は道節因碩という人であった。道節因碩は道知より40歳ほど年上で、少年道知の後見者であり、まだ若き道知を指導、育成した。道知はそのことに恩を感じて道節因碩を名人に推挙し、そして道節因碩は名人に就位した。

 道節因碩は享保四年に死去し、さあ次は道知の番である。
 道知は他家からの名人推挙の知らせを待っていたが、いつまでたってもその知らせは来ない。
 まあ、あんまり力のない人たちにとっては、名人など煙たいだけの存在であり、できるならいないほうがいいにこしたことはないわけで、各家元も知らんぷりを決め込んでいたわけだ。

 しかし道知としは、それに納得できないわけがあった。
 道知は温厚な人物であり、人に対して怒ることはまずない人であったのだが、このときばかりは怒った。
 道知は、各家元に書状を送る。
 それには、「おれを名人に推挙しないというなら、今後の御城碁では、事前に相談して、碁を作るような交渉にいっさい応じず、本気で実力を出して対局するぞ」と書かれていた。

 碁というもの、手合いが違うと形にならない。50手も進まぬうちに、弱い方の石はすべて働きを失い、一方的な殺戮劇に終わってしまう。道知が本気を出したら、どの家元もそのような惨状を呈すのは明らかだ。そんな棋譜を将軍に献上することなどできない。

 家元たちはあわてふためいて道知を名人に推挙し、そして道知は名人となった。


 この騒動、この書面から、道知の御城碁はすべて「事前に相談して作った碁」であり、すなわち八百長であることが分かった。(道知が怒ったのも、「せっかく八百長までしてお前たちを立てたのに、おれを名人に推挙しないとは何事だ」というわけである)
 一人だけ化け物のように強い者がいると、八百長でもしないと、その業界の秩序が保たれなかったゆえであるが、それにしても、ここまで堂々と八百長の証拠が残ったのは稀なることとはいえる。
 (というか、これ将軍にバレたら、本因坊家以下、家元全員打ち首になるようなとんでもないことだよなあ。各家元ともそれが分かっていたろうけど、しかし焼き捨てるのも悔しいから、こっそり隠しており、そして後世に残ったわけだ。)

 本因坊道知は37歳で生涯を閉じるが、成人してからは、ついに真剣に碁を打つことなく終わってしまった。
 棋聖道策が天才と認めたこと、そして10代の時点でとんでもなく強かったこと、成人してからまともな勝負をする者がいなくなってしまったことから、道知が途方もなく強かったことは明らかなのではあるが、なにしろその強さを発揮する場がなかったので、道知の本領を示した棋譜は後に残ることはなく、だから道知の本当の強さは、もはや誰も知ることはできない。

 本因坊道知は、囲碁人として位人身を極めた人であるけど、碁打ちとしては不幸であったと言われている。囲碁の神様から凄まじい力を与えられたのに、それを使う機会がついに与えられなかったからだ。
 囲碁の神様もときとして変なことをする。

 なお、囲碁の神様は基本的にはしっかりしており、囲碁の名手たちには、だいたい同時代には好敵手がいて、素晴らしい棋譜がたくさん残っている。


 ………………………………………
 その1:八百長するのはいいとして、文章に残してはいかんだろう and 本因坊道知の話

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January 21, 2011

カッサンドラの悲劇

Laokoon


 前エントリで紹介した画家カッサンドルはペンネームであり、ギリシャ神話に登場するトロイの王女カッサンドラからその名をとっている。

 王女カッサンドラは悲劇的人物であって、予知能力を持ちながら、誰もそれを信じず、自分の国と自分自身が滅びる未来を見ながらも、それを変えることができずにその予知とおりに滅びてしまった。

 カッサンドラがなぜ予知の力を持ったかと言えば、太陽神アポロンの仕業である。カッサンドラは可憐な美少女であり、彼女に惚れたアポロンは何度も言い寄るのだけど、純情なカッサンドラはそれを受け入れようとしなかった。
 業を煮やしたアポロンは自身が持つ予知能力を分けてあげるから、私のものになりなさいと迫り、予知能力をカッサンドラに与えた。アポロンのものになる決意をしたカッサンドラではあったが、その予知能力をもらった瞬間、将来アポロンに捨てられる自分の姿を予知して、ただちにアポロンから逃げ去ってしまう。
 プレイボーイのアポロンが純情な娘にそういう能力与えりゃ、そういう結果になるのは目に見えているのであり、アポロンはなんともまぬけな神様であるが、主神ゼウス以下ギリシャの神様は皆だいたいそういう感じである。

 自らのまぬけさが招いた当然の結果なのに、アポロンは己の愚かさを反省することはなく、カッサンドラにたいそう腹を立てた。そして、いったん与えた能力は奪うわけにはいかないので、その代わり「カッサンドラは予知能力はあるけれど、誰もその予知を信じない」という呪いをかけた。
 たかが小娘に与えた能力にそのような呪いかけるとは、神様にしては、ずいぶんと器量の小さい話に思えるが、主神ゼウス以下(…以下略)。

 こうしてカッサンドラはいろいろな未来を予知するのであるが、トロイの人はだれもその予知を信じることはなかった。

 彼女はそれでもトロイの運命を決めるような事態のたび、それをやってしまえばトロイは破滅すると、己の予知を主張するのであるが、人々はカッサンドラを嘲笑するだけで、その予知を信じようとはせず、やがて予言通りにトロイは滅びてしまった。

 さて、神話ではカッサンドラの予知予言が人から信じられなかったのは、アポロンの呪いのせいであるということになっている。説明の難しいもの、なんだかよく分からないこと、運命にせいにするしかないもの、とかを「神様のせい」にするのはギリシャ神話の特徴であり、これもそのたぐいなのだろうが、トロイ物語を現代的思考で読めば、カッサンドラの予言を人々が信じなかった理由は神のせいにせずとも、はっきりしている。

 カッサンドラの予言を人が信じなかったのは、カッサンドラが悲劇ばかり予言していたからである。
 人間というのは、自分が聞いて嫌なこと悲しいこと辛いことは、信じたがらない存在である。とくにトロイ物語のように、戦争がからむと、人々はこちらが勝って当然との景気のいい話ばかりを信じたがり、冷静な「これじゃ負けますよ」というふうな意見は、それこそ売国奴の意見とばかり、怒号とともに排斥するものだ。
 カッサンドラは、負けます、破滅しますというふうな予言ばかりしていたので、人から嫌われ、疎外され、その予言はなんの役にも立たなかった。

 社会とは度し難い人たちの集まりであり、たとえ正確無比な予知能力をもっていたところで、それを役に立てるには技術がいる。

 カッサンドラは何度も予言をしては、それを信じさせられずにいたので、少しは学ぶべきであった。
 彼女の予言の帰結は、トロイと、それに自分自身の破滅を示していた。それならばそれを防ぐ努力はしなければいけない。

 トロイの破滅は、馬鹿王子パリスとスパルタ王妃ヘレナとの不倫愛に始まる。カッサンドラはそれを予知し、パリスの王家復帰やギリシャ行きを、トロイが破滅するからと反対するのだが、誰もそれを信じない。
 ならばカッサンドラは、パリスがいかにいい加減で、自分のことしか考えない男ということを、きちんと情報を集め、そういう男にトロイの命運をかけるようなことを任せてはいけないと、説得力をもってみなに説明するべきであった。
 それが出来ない、あるいは失敗したなら、こっそり夜中にパリスの部屋に忍び込み、寝首を掻いて、トロイの悲劇の元凶を断つべきであった。

 カッサンドラは、完璧な予知能力をもっていたので、その時は仁義に反する、あるいは人道にもとる行為でも、彼女は確信をもってそれを行える資格をもっていたであろう。
 しかしカッサンドラは、自分の予言を誰も信じないことを嘆くのみで、トロイの破滅の道を止めることはできなかった。

 10代の小娘にそのようなことを望むのは酷ではあろうが、いちおう能力を持つものには、それなりに責務というものがあるのである。


 ここでいきなり話は現代に戻る。
 ちかごろ政治が動いているけれど、菅首相は財政再建について本気モードに入っているようだ。
 菅首相は自分が政権を担当することになって、あまりの日本の財政破綻ぶりに恐怖を感じ、消費税増税を画策している。
 「少子高齢化が進む日本では、現役世代のみに社会負担を任せていては、社会保障が成り立たなくなる。文明国家として社会保障は維持しないといけないので、その財源は消費税増税によって得るしかない。これを成功させないと、日本は破滅する」
 との日本破滅の予言を宣言して、この計画に野党が参加しないなら、それは歴史への反逆とまで言いきっている。

 間違いだらけの民主党の政策で、これは正しい。予言として、まったく間違っていない。
 ただしギリシャ神話の昔から、正しい予言が受け入れられるのは、きわめて困難と話は決まっている。とくにこのように増税という誰もが嫌がることが付随する予言なんて、誰も聞きたくないし、信じないであろう。

 じつは、トロイに限らず、国が滅びるときには、それを見通すことのできるカッサンドラは幾人も出現した。しかし予言のできるだけのカッサンドラには、悲劇を回避する力はなく、カッサンドラはその存在じたいが個人的悲劇といえた。

 平成の日本、菅首相が、ギリシャから続く、カッサンドラの系譜につながる人物になってしまうのか。それとも、ここで人々の予想を覆す胆力を菅首相が発揮して、日本を破滅から救うのか。

 その結論は、あと数年で知ることができる。

 ………………………………………
 (おまけ)
 冒頭の彫像は、トロイの神官ラオコーンの像。
 カッサンドラとこの人のみがトロイの木馬の城内搬入を反対し、それゆえ命を失った。
 周囲が過激な主張で盛り上がっているときに、冷静で正しいことを主張するのが極めて危険な行為であることは、今も昔も同じなのである。

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