歴史

July 20, 2014

東北旅行 世良修蔵の墓

【世羅修三:1835年~1868年】
Serasyuuzou

 大動乱期幕末は、数々の英傑、偉人を輩出した時代であったが、光の輝きと同時に影も深く、また愚劣な人物も数多く出した時代でもあった。
 その数ある愚劣な人物のうちでも、東北において最も悪名高き人物が世良修蔵である。

 この人物は、戊辰戦争中の東北戦争勃発のキーマンである。
 東北戦争は「日本の歴史の恥」とでもいうべき内戦であり、これを起こしたというだけで、明治新政府には行政機関の正当性はないと断言できるほどの、大義無き、愚かな戦争であった。

 この最悪の東北戦争がなぜ起きたかという理由には、いろいろと複雑な事情があるのだが、とにかく新政府軍の東北鎮撫実務トップという要職にありながら、現地で傲岸不遜な態度で乱暴狼藉を働いた世良修蔵が戦争勃発の原因となったのは誰しも否定できぬ事実である。
 それゆえ戊辰戦争史において、本来長州の無名武士であったはずの世良修蔵の名は、東北戦争における主役級の役割をもって刻まれることになってしまった。

【世良修蔵の墓碑】
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 私は世良修蔵という人物にはじつのところさほど興味はなかったが、その墓碑に興味があり10年ほど前に訪れた。
 世良修蔵は仙台において斬首された。世良修蔵は誰からも憎まれていたため、どこにも墓をつくることができず、無縁仏のような扱いを受けていたのであるが、明治新政府成って、いちおう新政府側のかつての要職者としてこれではあんまりだと、白石市陣場山に改葬された。この時墓碑には「戊辰元年、世良修蔵は賊によって殺された。享年34歳」というふうな語句が刻まれた。
 世良修蔵は、仙台藩壊滅の謀議を図ったため、それを阻止すべく、仙台藩士有志が上司の許可を得て捕縛して処刑したのであり、その正当たる藩務を果たした仙台藩士を「賊」呼ばわりとは何事かということで、後にこの「賊によって」の部分が何者かにより削られた。
 東北人の中央政府に対する憤激の強さの象徴ということで、この墓碑は有名だったのである。

【墓碑:拡大図 赤丸部が該当部】
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 墓碑を拡大したところ。文字が消えているところが「為賊(賊によって)」と書かれていた部である。
この部、ノミで無理やり削りとったような姿を想像していたのだが、実物はヤスリで丁寧に擦り落としたような感じであった。
 webの情報によれば、明治の大赦令によって東北人が赦されたことにより、それに従って官庁レベルでこの処理がなされたとのこと。
 この消えた文字は、巷間伝わる「東北人の恨みの象徴」というようなものではなかったらしい。
 けれども、いくら新政府樹立のドタバタ時とはいえ、「為賊」と平気で彫らせることが、当時の新政府の田舎者ぶりというか、無教養性が如実に現れており、それを伝えるためにも、かえってそのままの姿で残してほしかったとも思う。


 ところで、世良修蔵という人物について、私はのちに知識を得る機会があった。
 歴史のなかではただの愚か者として墓碑だけ残して歴史に埋没してしまったような人物だと思っていたのだが、萩市の博物館を訪れたとき、この人物に対してけっこう詳しい評伝の本があった。
 さすがに長州出身の人物であり、長州ではそこそこ関心がもたれているのであろう。

 世良修蔵は歴史においては、「東北で大義なき戦争を無理やり起こさせるために、薩長が送り込んだ鉄砲玉」という役割をはたしている。そういう捨て駒のような役だったので、「薩長はあえて、失ってもかまわない世良修蔵のような劣悪な人物を東北に送り込んだ」というふうに一般には認識されているわけだが、評伝を読むとあんがいそうではなかった。

 世良修蔵はしっかりした高等教育を受けており、また奇兵隊においても中隊を指揮する尉官レベルの指導力を持っており、幾多の戦果もあげていた。他藩との交渉に対してもきちんと結果を出しており実務能力もあった。あいつぐ内訌により人材が払底していた長州において、残り少ない、希少な有能な若手だったのである。

 そうだとすると、世良修蔵はその能力によって大役に抜擢されたわけだが、それにしては、東北での狼藉ぶり愚人ぶりとはずいぶんと乖離がある。まるで別人だ。
 このミステリに対する解答は、…やはりいくら能力があったとはいえ、役目がその能力以上に大きすぎて、それが手に余り、精神を病んでいったというところなんでしょうねえ。
 こういうことはべつだん珍しいことではなく、それこそ先の大震災のときに、政府の大臣級の人たちが自分の能力を超える事態に半狂乱になって、事態をさらに悪化させっていった姿はいまだに記憶に新しいとことであるし。

 ただしそういうことが、結果として招いた悲劇の免罪符となるわけではない。
 世良修蔵は結局は無能だったわけで、その無能さがいまだに東北人に怨恨を残す、あの東北戦争を引き起こした。世良修蔵がいなくても東北戦争は起きたかはしれないが、あのような悲惨な形にはならなかったであろう。

 無能はそれ自体は悪いことではない。しかし立場ある人の無能は、それはそのまま罪となる。
 長州ではそれなりの人物だったとはいえ、仙台時代において、世良修蔵が唾棄すべき最低の人物であったことは間違いない。世良修蔵が最低であった理由は、その能力もないのに重要な役目を許諾し、かつその任に耐えぬことが判明したのちもそれを手放さなかったことによる。それが、世良修蔵自身の悲劇と、そして東北の悲劇を招いた。
 そして、これは今なおいたるところで続く、悲劇の事例でもある。

 世良修蔵の悲劇は決して他人事ではなく、社会を生きる我々にとっては重要な教訓を伝える出来事といえるだろう。

【世良修蔵の墓 2014年】
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Sera

 世に災いをもたらす者を悪人とするなら、その悪人には二種類がある。
 一つは悪を為す強い意思をもってその結果災厄をもたらす者。
 次は、悪を為す意思はないけど、その無能さをもって災厄をもたらす者。
 世良修蔵はその行いがあんまりだったので、前者に思われがちだが、評伝を読むかぎりは後者の代表例であったようだ。

 そういうわけで、十年前からは世良修蔵に対する考えが少々変わったこともあり、私は10年ぶりに墓を訪れることにした。
 今回は墓の入り口の門が閉まっていたので、あえて墓碑までは近づかなかった。

 10年前は寂れた地だなと思った記憶があるが、その記憶に比べ、さらに寂れた雰囲気が増しているようであった。
 元々この墓は世良修蔵とは地縁なきものだし、また世良修蔵は歴史の人気者というわけでは全くない。ここは今でもそうなのだが、歴史マニアしか訪れぬ墓なのだろう。

 かつて東北の恨み、憎しみを一身に背負ったような人物が、徐々に人々の記憶から消え去り、その墓が時とともに草木のなかに埋もれていてく。
 時間というものの有難さと残酷さが、伝わって来る、そういう場所であった。

 ……………………………………
 世良修蔵の墓 地図  白石市福岡蔵本陣場福岡小学校傍

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October 30, 2013

邪馬台国は何処にあったのか? 統計学的手法で考察した記事の紹介。

【鉄の鏃(やじり)】
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 日本古代史最大のミステリ、「邪馬台国は何処にあったのか?」については古来より様々な論議がなされている。
 考古学的には、
 (1) 卑弥呼の墓が見つかる
 (2) 紀元3世紀に30万人もの人が住んでいた大規模な遺跡が見つかる
 のいずれかの発見が為されれば、それでミステリの解答は得られ、邪馬台国の位置は決定ということになるだけど、いまだそのようなものは見つからず、今後ともそのようなものが出て来る可能性は非常に低い。
 それゆえ、邪馬台国の位置については、元々のテキスト魏志倭人伝を詳しく研究することが肝要で、それに日本の古代史文献、考古学資料を絡めて検討していき、精度を増していくしかない。

 その邪馬台国ミステリについて、今月号の文芸春秋に「邪馬台国を統計で突き止めた (著)安本美典」という面白い論文が載っていたので、紹介。

 日本は考古学調査がしっかりした国であり、なにかの工事が行われ遺跡が見つかるたび、調査が行われ、詳細な報告書が作成される。それらは多大な量であり、この国には膨大な資料が蓄積されている。
 邪馬台国本体自体は見つかっていないものの、これらの資料を用いれば、どのへんにあったかは類推できる。それで、著者は近年の膨大な考古学的資料に統計学的な検討を加え、邪馬台国の位置を高い精度で導き出した。

 その手法はこうである。
 著者は「魏志倭人伝」の著述から、そこに登場しているもので、現在でも発掘されたものに注目した。それは「鏡」「鉄の鏃(やじり)」「勾玉」「絹」の4つである。これらのものが卑弥呼の時代(紀元3世紀前半)に、どの県でどれくらいの数が出土したかを調べ、ベイズ統計学という手法を用い、比較検討したのである。
 それによれば、邪馬台国があった確率は各県ごとに、福岡99.9%、佐賀0.1%、その他の県0%という結果であった。九州説とならび、支持者の多い畿内は、奈良を始めすべて0%であったのである。これではあんまりなので、範囲を広げ九州VS畿内としたが、それでも九州99.7%、畿内0.3%という結果となった。

 著者の安本氏は邪馬台国九州説の本家みたいな人なので、この結論には何らかのバイアスがかかっている可能性もあるのだが、論文中の統計学者のコメントによれば、「統計学者が純粋に出土品の各県別データを見る限り、邪馬台国は福岡以外にはありえない」とのことである。
 まあ、たしかに出土品の数が圧倒的に違うのだから、それはそうであろう。

 著者の説の説得力は非常に強く、この論文は邪馬台国のだいたいの位置の決定版とも言っていいのではと思われる。そして紀元3世紀という、古代日本における渡洋の技術がまだ未熟な時代、大陸の魏に幾度も使いを送る意志を持った国が、玄界灘に面する福岡あたり以外にあったとは考えにくく、著者の「邪馬台国=福岡」説は普通に考えても順当なものなのであろう。

 ただし、それでは当たり前すぎて面白くない。
 私は魏志倭人伝における風俗形態と、その時代の大規模な遺跡の存在から、「邪馬台国=宮崎県西都」と考えている。それは統計学には無理があっても、考古学は現場主義なので、一つの発見で全てがひっくり返る可能性は常にある。
 宮崎であれ、奈良であれ、そこに「親魏倭王」の金印が入った卑弥呼の墓が見つかれば、一発逆転でそこが邪馬台国に決定である。
 現場で見つかったものが全てである考古学にはそういうロマンがある。
 もっとも、「そのようなことは統計学的にあり得ません、もし卑弥呼の墓が見つかるならそれは絶対に福岡です。それが統計学というものです」というのが、この論文の一番のキモなんではあろうけど。


【Résumé(まとめ)】
 Selon “Gishiwajinndenn” qui est le livre d’histoire de la Chine , Il y avait un grand pay appelé Yamataikoku au Japon en le troisième siècle.
 Ancienne nation que la Reine Himiko a contrôlé semble avoir été à l'origine de Yamato Cour du Japon.
 Pour cette raison, les recherches sur où avait Yamataikoku existé s’est fait jusqu'à présent beaucoup.
 Dans le présent document le auteursa fait conclusion que Yamatikoku avait exsisté à Kyusyu. Sa discussion est très précis, je dois consentir à ce. Mais je pense que Yamataikoku est existé à Siato de Myazaki préfecture par autore raison.
 Il est posible que le avis du auteur est correct. Mais l'archéologie est l'étude de se concentrer sur la réalité. Alors par exemple, La tombe de Reine Himikose s’est trouvé, ce terrain sera confirmé comme Yamataikoku.
 Par ce papier, le possibilité sont plus faibles, Je éspere enocore que Yamataiokku a été à Miyazaki.

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May 27, 2012

登頂の証拠 -登山の歴史をふりかえる

 近代登山の黎明期、アルプスを征服したヨーロッパの登山家たちは次の目標をヒマラヤとした。8000mを越える山がひしめくヒマラヤのなかでも難攻不落を誇った山がナンガ・パルバットであり、その険しく広大な山容から、ヨーロッパの精鋭達の挑戦を頑として阻んでいた。果敢にアタックしても、山は雪崩や吹雪で応え、この山の征服を目指すドイツ隊は合計24人という死者を出すことになり、ナンガ・パルバットは「人食い山」の別称を持つことになる。

 執念の鬼と化したドイツ隊は懸命のアタックを続け、ついに1953年に登頂を果たすのであるが、それを達成したのが、かの鉄人ヘルマン・ブールである。
 その時の登山は、極めて過酷な条件のもとであり、ブールは当時としては破格の単独無酸素にて登頂している。登頂後ブールは決死の下山を続け、ほとんど動けないような、半死人のような状態でベースキャンプにたどり着き、登頂の成功を報告した。

 ここで問題になるのが、ブールが本当に登頂したかどうかである。
 なにしろ単独で登ったので、それを証明してくれる証人はいない。登頂の印として、山頂に何か残しておくとか、岩に字を刻むとかしていれば、後の証拠ととはなるが、下山時ではその物証の証明は無理である。
 「単独無酸素」での8000m高峰は不可能と思われていた時代、それゆえブールの登頂は嘘か妄想かと隊員は思っていたのであるが、…証拠はあった。

 ブールは山頂に到達したとき、息も絶え絶えの態だったのだが、それでも隊旗を結んだピッケルを山頂に立て、写真を撮っていた。
 ナンガ・パルバットの山頂なんてブール以外にそれを見た者は世界中に誰もいないので、「これが山頂」と言われても、誰もそれを証明できないわけなのだが、しかし山頂写真には周囲の山々が写っている。その写り方から、その写真がどこで撮られたかは厳密に判断でき、そしてブールの撮った写真は、そこが山頂であることを間違いなく示していた。
 こうして魔の山ナンガ・パルバット初登頂者の栄誉は、ブールに輝くことになった。
 下がその有名な写真である。

【Summit shot of Herrman Buhl 1953 July 7】
Hermann_buhis_photo_2


 さて、5月26日に竹内洋岳氏がダウラギリ登頂を果たした。
 氏は基本的に単独登山はやらず、今回もパートナーとして写真家の中島ケンロウ氏と共にダウラギリに登る計画であったのだが、中島氏が体調不良でリタイアすることになり、結局単独での登頂となった。
 だから本来なら竹内氏が山頂に立っている姿を中島氏が撮影することで登頂の証拠成立ということになったはずが、仕方なく竹内氏は自分の影の入った山頂の写真を撮ることでその代わりとし、その写真も公開されたわけだが、…

【ダウラギリ山頂写真:竹内氏撮影】
Takeuchi

 この写真、奥に見えている岩山がダウラギリ山頂である。
 しかし、これって「山頂を撮った写真」であり、山頂にいることを証明する写真ではないなあ。


 ダウラギリ登頂記念の写真をずらりと以下に並べると、

【Kinga Baranowska 2008 May 01】
Kinga

【Edurne Pasaban 2008 May 01】
Pasaban

【Air2 Breeze team 2009 May 18】
Summit

【Mario Panzeri 2012 May 17】
Mario

 「Dhaulagiri submmit」のkeywordで検索して適当に拾ってきた写真群であるけど、世界山岳界のスーパースターがずらずら並んでいるなあ、という感想はともかくとして、厳密には登山者が山頂にいる「登頂写真」は一番最後のマリオ氏のものだけのような気もするが、とりあえずは皆、竹内氏が撮った写真に写っている岩山のところで写真を撮っている。
 あそこまで行っておけば「ダウラギリ登山登頂」と認定されるようであり、それゆえ竹内氏の写真は詰めが甘く、下手をすると「登頂の証拠なし」と判断されてしまいかねない
 これは竹内洋岳14座完登認定ピンチか? という状況なのだが、そうでもない。

 現代にはGPSというじつに便利なものがあり、竹内氏はずっとGPSで現在位置を発信しながら登山をしていて、彼の登山はネットにより全世界に生中継されていた。私もそれをリアルタイムでみていたけど、怪物と称すしかないデスゾーンでの行動の速さには呆れていた。ま、そういうわけで、登頂の記録はばっちりと残っている。
 また今回の登山はNHKも参加しており、高性能のテレビカメラで山頂が撮影されていて、竹内氏の登頂も記録されている。(山頂の写真の天気からすると、そのはずだ)
 というわけで、ヘルマン・ブールの昔ならいざしらず、現代では各種機器の発達により、登頂の証明はだいぶと容易になってきているわけだ。

 以上、登頂にまつわる、登山の歴史をふりかえった話。


 ところで、ヘルマン・ブールは写真を撮ったことで、登頂を証明できたのだが、もし氷点下30度とかの過酷な条件でカメラが故障して、写真が撮れなかったとする。
 そうなると、登頂は彼の証言のみにかかり、「ヘルマン・ブールはナンガ・パルバットに本当に登頂したのか否か」は、マロリーのエベレスト登頂の謎に並ぶ、山岳史最大級のミステリとなったはず。
 しかし、もしこのミステリが生じても、それには解決編が用意されていた。

 ブールは山頂に隊友のピッケル(たぶん写真に写っているもの)を登頂の証拠として残していて、そのことも証言していた。しかしそのピッケルは氷雪に埋もれ、のちにナンガ・パルバットに登った人は誰もそれを見つけることはできなかった。
 ところが地球温暖化の影響か、ヒマラヤも氷が溶けだし、1999年日本人登山家により山頂で古いピッケルが発見された。持ち帰られたピッケルは、まさにブールのドイツ隊使用のものと確認され、山岳博物館に収められることになった。

 あの写真がなかったなら、ピッケル発見は50年近く続いていたミステリの解決ということになり、「ヘルマン・ブールは本当に登っていた」との見出しつきの記事が世界中を駆け巡る大ニュースとなったのに、…とかミステリ好きの私としては、勝手な感想を抱いたりもしてしまった。

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May 21, 2012

宮崎の日蝕ロマン 1700年の時を経て

【日向灘】
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 平成24年5月21日は宮崎全域で金環日蝕が観察できるとのことで楽しみにしていたのだけど、前日の予報では曇りとのこと。
 朝起きてみると、やはり空一面に雲がかかっている。それでも雲が少しでも切れることを期待して、日向灘の海岸まで行ってみたが、金環日蝕の時間はずーと曇りであり、そのときに少し暗くなったかな、という程度で過ぎてしまった。

【期待された日蝕の図】
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 晴れていたら、こういう金環日蝕を見ることが出来たのだが、こればかりはどうにもならない。
 私の生きている間は、この地に金環日蝕が起きることはなく、残念であった。


 日蝕は、天空ショーのなかでも最大級の見世物であり、この仕組みがよく分かっていない時代には、神の怒りとも捉えられていたようだ。
 日本における記録では、古事記における「天岩戸」の記事が、日蝕を記した最初のものと考えられている。ここでは天照大神の怒りが、日蝕となったわけであるが、この日蝕は、いつの日蝕であろう?

 日本の歴史初期のスター天照大神にモデルがあるとしたら、それは邪馬台国女王卑弥呼しかおらず、そしてたぶんそうだと言われている。
 卑弥呼の時代は紀元3世紀であり、天文学的にたしかにその時期日本に皆既日蝕が起きている。そして皆既日蝕のせいで、女王の神性が疑われ、卑弥呼が殺されたという説もある。
 それはともかくとして、もし卑弥呼と日蝕に関連があるなら、それは邪馬台国の位置の大きなヒントとなる。

 日蝕は日本列島でバンド状の位置でしか観察できず、その日にどこでも見られるというわけではない。

【日蝕バンド】
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 邪馬台国で皆既日食が起きたとするなら、邪馬台国は日本列島のうち、この紀元3世紀の日蝕バンドのなかのどこかにあったはずとなる。
 邪馬台国の候補地は、北部九州と近畿奈良の二つが最も可能性が高いとされており、この二つはバンド内には入っている。
 しかし、3世紀の皆既日蝕では、九州ではたしかに日蝕は観察できたが、奈良では観察は困難であったとされている。バンドには入ってはいるものの、この時の日蝕は日の出に近い時刻であり、盆地の奈良では、太陽はまだ山に隠れており、日蝕を観察できなかったからだ。
 そうなると、邪馬台国は九州にしぼられることになる。

 考古学的には、邪馬台国が北部九州にあったのか、近畿奈良にあったのか、いまだに結論はついていない。
 紀元3世紀に30万人も人が住んでいた遺跡がどこかに見つかれば、それで簡単に決定ということになるのだけど、いまだにそのようなものが見つからない以上、たぶんこれかも正解は出ないであろう。

 それで、邪馬台国の位置は、魏志倭人伝の読解が重要になるのであるが、魏志倭人伝を読むかぎりは、私は「邪馬台国=近畿奈良」説はありえないと思っている。
 魏志倭人伝の一節、「男子は大小と無く、皆黥面文身す。今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う」における邪馬台国の風習、「男子は身体全体に入れ墨をして、また潜水漁法が得意で、魚や蛤を捕る」からは、邪馬台国は南洋風の文化を持ち、かつ水産物の採取が得意であったことが分かる。
 これだと奈良ではおかしい。奈良には海はないし、たとえ川か湖での漁としても、「好んで沈没して、魚蛤を補う」文化にはほど遠かったはずだから。

 ただし、北部九州にしても、この記事はおかしい。この記事からは邪馬台国は、それこそ沖縄あたりの南洋系の文化を持っていたように思え、九州ならせめて宮崎・鹿児島あたりの南九州のあたりにないとおかしい。

 ここで宮崎は西都原古墳の出番となる。
 紀元3世紀において、九州では巨大な遺跡はここにしかない。西都原古墳群は、日本最大級の古墳群であり、この地に大きな人口を持つ都市があったことは間違いないと思われる。
 「西都原=邪馬台国」説はあまり聞いたことはないけど、魏志倭人伝の記事、それに日蝕から、ここが邪馬台国の可能性は高いのではないだろうか。
 それならば卑弥呼の見た日蝕は、宮崎の地での日蝕となる。


 まあ、そういうふうに邪馬台国の卑弥呼にも関連があったかもしれぬ宮崎の日蝕を、千七百年以上の時を経て、また見るのだなあとか思いながら日蝕を観察する予定であったのだが、厚い雲に隔たれてしまい、…繰り返して言うが、まったく残念であった。

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October 27, 2011

秋田編(9)大曲→横手→湯沢横掘 68.8km

 大曲からは南に向けて走行。
 このルート上の横手市金沢は「後三年の役」の起きたところで、古戦場跡や公園、資料館などに寄ってみた。
 なにしろ1000年近い前の争いなので、痕跡のようなものはほとんど残ってはいないのだが、それでも鎌倉幕府の出来たモトのような歴史的重大な事件のあったとこゆえ、歴史好きには是非訪れたいポイントだ。

【資料館近く】
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【平安の風わたる公園】
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 古戦場跡につくられた公園だそうだが、その歴史とは少々離れたネーミングの公園である。
 この三連の太鼓橋など見ごたえがある。

【後三年駅】
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 この地の最寄りの駅の名前が「後三年駅」。
 もちろん「後三年の役」にちなんだものなのだろうが、センスがいいのか悪いのかよく分からんネーミングである。

 ここを越えてしばらくすると横手市市街地になる。
 横手市は「横手焼きそば」で有名なので、一度食ってみようと店を横目で探しながら走行したが、見つからずに横手市を通り過ぎてしまった。
 残念。
 ちゃんと市内の奥まで入るべきであったか。

【小町堂】
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 本日のサイクリングは山形県の手前、湯沢市横掘まで。
 県境は坂を登っていかないといけないので、それで坂の手前の横掘を宿にしたわけで、横掘については位置以外なんの事前情報も持ってなかった。そして着いてみると、ここは小野小町の誕生の地で有名だそうだ。
 日本歴史上最高の美女小野小町は、その歌以外なにも詳しいことが分かっていない人だったはずだが、こんなところに生誕の地があったのかあ。
 そういえば「あきたこまち」とか「新幹線こまち号」とか、秋田県は小野小町を使った名称のものが多いけど、そういうわけだったんだな。
 (私はてっきり秋田は美人が多いから、そういう名称を使っているんだと思っていた)
 というわけで、湯沢市横掘には、小野小町を祀った御堂があるのである。

【民宿 小町荘】
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 宿泊した民宿は「小町荘」という優雅な名前。
 しかし、…普通の民宿だわな。

【夕食(オードブル)】
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 横掘は、小町堂以外はなにもないと言ってよいようなところで、商店街なんてものはない。町なかを散策し、かろうじて見つけたレストラン「バルーガ」で夕食。
 けっこうがっつりした料理が出てきて、ビールを美味しく飲めた。


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June 20, 2011

愛宕山の伝説 -古代史ロマン

【愛宕山】
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 延岡のランドマーク愛宕山には伝説があり、それが展望公園の案内板に書かれている。それによると、「天孫ニニギノミコトが笠沙の岬(=愛宕山)に到来し、ここで妻となるコノハナサクヤヒメと出会った」とのことである。

 日本書記および古事記から神話的装飾をあえて外して天孫一族の足取りをたどれば、彼らは「笠沙の岬に上陸し、それから高千穂の地で勢力を増してから、日向の地に下りてきて、さらに勢力を増したのち美々津の岬から東征へ船出していった」ということになる。
 その天孫一族上陸の地「笠沙の岬」こそ、現在の愛宕山というわけなのだが、…これにはずいぶんと無理がある。そういう無理なことを、堂々と案内板に載せるのもいかがなものかと思わぬこともないが、…まあ神話でそういうことになっているので、いいといえばいいか。


 天孫一族の足取りは、すなわち弥生文化―稲作文化の広がりと一致する。
 稲作文化は東南アジアを発祥の地とする。これが九州に渡ってきて、それから全国へ広がっていった。中国から日本への文化伝達のルートは、中国→朝鮮半島→壱岐対馬→九州がメインルートであるが、稲作文化に関してはそのルートではないことが、近年の学術的調査から判明している。

 稲作文化は朝鮮半島を経由せずに、直接九州に伝わっている。
 そのルートであるが、中国南部から船を出して海流に乗ると、だいたい鹿児島の薩摩半島の野間岬あたりに着くようになっている。たとえば中国南部から出港して遭難した鑑真和上はそこに漂着しているし、またマカオ発で日本を目指したフランシスコ・サビエルも同じようなところに上陸している。

【笠沙の岬】
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 数百年もあいだに幾度も幾度も行われた、中国南部からの九州への船旅を行った者たちのなかに、天孫一族がいたことは間違いなく、この渡航者たちのなかで歴史を伝える力を持っていた天孫一族によって、あいまいな形ながら、いかなるルートで彼らの文化が広がっていったかが記録に残された。

 新文化の到来の記録として、九州には天孫降臨の伝承のある地は二つほどあるが、海を渡っての天孫上陸の伝承の残る地は一つしかない。それは、やはり中国からの船旅の到着点である野間岬周辺であり、現在の鹿児島県南さつま市笠沙町である。
 地理的条件からも、伝承からも、神話に伝わる「笠沙の岬」は、ここと断定してよいであろう。


【笠沙→高千穂→美々津】
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 笠沙の岬に上陸した天孫一族の移動を地図で現わせばこういう感じとなる。
 笠沙に上陸した一族がその近傍である鹿児島や熊本南部で勢力を持てなかったのは、そこが稲作に適した地でなかったということより、そこには隼人族や熊襲族などの、強力な土着の縄文族が勢力をふるっており、そこでの生存競争には打ち勝てなかったからであろう。
 そして一族は長い旅ののち、高千穂~阿蘇に安住の地を持ち、そこで勢力を蓄える。その後一族は海沿いの日向に出てさらに力を強くさせ、それから東へ向けさらに勢力を拡大させていったというのが神話に伝わる、天孫一族の行跡である。

【海→愛宕山】
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 さて、もし延岡の愛宕山が、伝説の笠沙の岬とすると、天孫一族は図のごとき行跡をたどったことになる。
 明らかに、これはあり得ない。
 中国南部から九州を目指した場合、この日向灘の愛宕山に着くまでには、関門海峡というものが途中にあって、九州上陸が目的なら、彼らはこの周囲で北部九州に上陸するはずであり、日向の地までわざわざ来る理由がない。
 ではなぜ愛宕山が、笠沙の岬と伝えられるようになったのだろう?


 日向の地に天孫一族が居住していたことは歴史的事実である。
 愛宕の山が上陸の地「笠沙の岬」ではないにせよ、この延岡の地でひときわ目立つランドマークがなんらの信仰を受けていたのは間違いなかろう。

 日向の地には愛宕山以外にも、天孫一族に関与した伝説を持つ山が多く、
 (1) 行縢山:クマソタケルが住んでいたとされる
 (2) 可愛岳:ニニギノミコトの御稜とされる
 (3) 速日の峰:ニギハヤノミコトの降臨した山とされる
 と、延岡から見ることのできるほとんどの山に、その手の伝説が残っている。

 笠沙の岬にしろ、クマソタケルの地にしろ、実際の場所は鹿児島なので、日向とは相当に離れている。それなのに、そのような伝説が残されたのは、おそらく遠い日々に行われた先祖の大遠征を記憶に残すために、これらの地にその古き伝説を付与し、遠征のミニチュア版を今住んでいるところにつくることによって、一族の記憶を紡いできたのでは、などと私は思っている。

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February 10, 2011

本因坊道知と八百長の話

 元禄時代に道策の登場で囲碁のレベルは一気に上がった。
 道策師匠指揮する本因坊道場は、日本全国から囲碁の俊英が集まり、活況を呈した。
 江戸時代は囲碁の家元は四家あり、そのなかでは本因坊家が別格の存在であった。道策は次代の家元として、その俊英集う弟子のなかでも特に優秀な者を選ぶが、残念なことに選ばれた跡目、小川道的、佐山策元は2人続いて若くして夭折してしまう。これは集団生活が災いしての、結核感染であったと現代では推察されている。

 策元の死後、道策は跡目をすぐには立てようとはしなかった。
 何故なら坊門の弟子のうち、その時10歳の神谷道知が、どうみても囲碁の天才であり、道知はやがて誰よりも強くなるのは確実なので、あわてて跡目を立てる必要を認めなかったからである。

 そして不世出の大棋士本因坊道策は58歳で生涯を閉じるが、その臨終の席で、当時13歳の道知を後継者に指名し、道知はその若さで本因坊家を継ぐことになる。

 道策の炯眼通り、道知は棋力を加速度的に上げて行き、15歳の時に、家元の一つである安井家の頭領から挑まれた争い碁に圧勝し、その地位を確たるものとする。

 その後も道知は囲碁の鍛錬を怠たらず、めきめきと囲碁の実力を伸ばしていったのだが、20歳を超えたころから困ったことが生じてしまった。
 あまりに強くなりすぎて、相手をするものがいなくなったのである。
 
 「孤高の天才」というものはどの分野にも存在するが、音楽・絵画・文学等々ではそれは十分に成り立つけど、囲碁は対戦型ゲームである。同等とまでは言わぬも、少々劣った程度のものが同世代にいないと、まともな勝負の棋譜が残せない。
 というわけで、大成後、本因坊道知はまともな棋譜を残せなかった。

 ここで、最初のテーマの八百長の話に移る。


 江戸時代、囲碁界は将軍お抱えの職業であり、各家元は将軍より扶持を受けていた。その家元の大事な仕事に、年に一度江戸城に登城して、各家元の代表者たちが囲碁を打ちあい、その棋譜を将軍に献上する、「御城碁」というものがあった。

 道知は本因坊家の代表として当然御城碁に参加していたが、道知は黒番では5目勝ち、白番では2~3目負けと、いつもワンパターンの碁ばかり打っていた。

 さて、江戸時代には棋界に「名人」という存在があった。
 現代では「名人」は数あるタイトル戦の一つであるけど、江戸時代の名人は、将軍の囲碁指南役であり、全棋士の段位認定権を持つという、名実ともに棋界の最高実力者であった。それほどの権威者であるため、名人は卓越した実力を認められ、各家元から推挙された者しかなることはできなかった。

 道知が少年の頃の名人は道策であり、そして道策の次は道節因碩という人であった。道節因碩は道知より40歳ほど年上で、少年道知の後見者であり、まだ若き道知を指導、育成した。道知はそのことに恩を感じて道節因碩を名人に推挙し、そして道節因碩は名人に就位した。

 道節因碩は享保四年に死去し、さあ次は道知の番である。
 道知は他家からの名人推挙の知らせを待っていたが、いつまでたってもその知らせは来ない。
 まあ、あんまり力のない人たちにとっては、名人など煙たいだけの存在であり、できるならいないほうがいいにこしたことはないわけで、各家元も知らんぷりを決め込んでいたわけだ。

 しかし道知としは、それに納得できないわけがあった。
 道知は温厚な人物であり、人に対して怒ることはまずない人であったのだが、このときばかりは怒った。
 道知は、各家元に書状を送る。
 それには、「おれを名人に推挙しないというなら、今後の御城碁では、事前に相談して、碁を作るような交渉にいっさい応じず、本気で実力を出して対局するぞ」と書かれていた。

 碁というもの、手合いが違うと形にならない。50手も進まぬうちに、弱い方の石はすべて働きを失い、一方的な殺戮劇に終わってしまう。道知が本気を出したら、どの家元もそのような惨状を呈すのは明らかだ。そんな棋譜を将軍に献上することなどできない。

 家元たちはあわてふためいて道知を名人に推挙し、そして道知は名人となった。


 この騒動、この書面から、道知の御城碁はすべて「事前に相談して作った碁」であり、すなわち八百長であることが分かった。(道知が怒ったのも、「せっかく八百長までしてお前たちを立てたのに、おれを名人に推挙しないとは何事だ」というわけである)
 一人だけ化け物のように強い者がいると、八百長でもしないと、その業界の秩序が保たれなかったゆえであるが、それにしても、ここまで堂々と八百長の証拠が残ったのは稀なることとはいえる。
 (というか、これ将軍にバレたら、本因坊家以下、家元全員打ち首になるようなとんでもないことだよなあ。各家元ともそれが分かっていたろうけど、しかし焼き捨てるのも悔しいから、こっそり隠しており、そして後世に残ったわけだ。)

 本因坊道知は37歳で生涯を閉じるが、成人してからは、ついに真剣に碁を打つことなく終わってしまった。
 棋聖道策が天才と認めたこと、そして10代の時点でとんでもなく強かったこと、成人してからまともな勝負をする者がいなくなってしまったことから、道知が途方もなく強かったことは明らかなのではあるが、なにしろその強さを発揮する場がなかったので、道知の本領を示した棋譜は後に残ることはなく、だから道知の本当の強さは、もはや誰も知ることはできない。

 本因坊道知は、囲碁人として位人身を極めた人であるけど、碁打ちとしては不幸であったと言われている。囲碁の神様から凄まじい力を与えられたのに、それを使う機会がついに与えられなかったからだ。
 囲碁の神様もときとして変なことをする。

 なお、囲碁の神様は基本的にはしっかりしており、囲碁の名手たちには、だいたい同時代には好敵手がいて、素晴らしい棋譜がたくさん残っている。


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 その1:八百長するのはいいとして、文章に残してはいかんだろう and 本因坊道知の話

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January 21, 2011

カッサンドラの悲劇

Laokoon


 前エントリで紹介した画家カッサンドルはペンネームであり、ギリシャ神話に登場するトロイの王女カッサンドラからその名をとっている。

 王女カッサンドラは悲劇的人物であって、予知能力を持ちながら、誰もそれを信じず、自分の国と自分自身が滅びる未来を見ながらも、それを変えることができずにその予知とおりに滅びてしまった。

 カッサンドラがなぜ予知の力を持ったかと言えば、太陽神アポロンの仕業である。カッサンドラは可憐な美少女であり、彼女に惚れたアポロンは何度も言い寄るのだけど、純情なカッサンドラはそれを受け入れようとしなかった。
 業を煮やしたアポロンは自身が持つ予知能力を分けてあげるから、私のものになりなさいと迫り、予知能力をカッサンドラに与えた。アポロンのものになる決意をしたカッサンドラではあったが、その予知能力をもらった瞬間、将来アポロンに捨てられる自分の姿を予知して、ただちにアポロンから逃げ去ってしまう。
 プレイボーイのアポロンが純情な娘にそういう能力与えりゃ、そういう結果になるのは目に見えているのであり、アポロンはなんともまぬけな神様であるが、主神ゼウス以下ギリシャの神様は皆だいたいそういう感じである。

 自らのまぬけさが招いた当然の結果なのに、アポロンは己の愚かさを反省することはなく、カッサンドラにたいそう腹を立てた。そして、いったん与えた能力は奪うわけにはいかないので、その代わり「カッサンドラは予知能力はあるけれど、誰もその予知を信じない」という呪いをかけた。
 たかが小娘に与えた能力にそのような呪いかけるとは、神様にしては、ずいぶんと器量の小さい話に思えるが、主神ゼウス以下(…以下略)。

 こうしてカッサンドラはいろいろな未来を予知するのであるが、トロイの人はだれもその予知を信じることはなかった。

 彼女はそれでもトロイの運命を決めるような事態のたび、それをやってしまえばトロイは破滅すると、己の予知を主張するのであるが、人々はカッサンドラを嘲笑するだけで、その予知を信じようとはせず、やがて予言通りにトロイは滅びてしまった。

 さて、神話ではカッサンドラの予知予言が人から信じられなかったのは、アポロンの呪いのせいであるということになっている。説明の難しいもの、なんだかよく分からないこと、運命にせいにするしかないもの、とかを「神様のせい」にするのはギリシャ神話の特徴であり、これもそのたぐいなのだろうが、トロイ物語を現代的思考で読めば、カッサンドラの予言を人々が信じなかった理由は神のせいにせずとも、はっきりしている。

 カッサンドラの予言を人が信じなかったのは、カッサンドラが悲劇ばかり予言していたからである。
 人間というのは、自分が聞いて嫌なこと悲しいこと辛いことは、信じたがらない存在である。とくにトロイ物語のように、戦争がからむと、人々はこちらが勝って当然との景気のいい話ばかりを信じたがり、冷静な「これじゃ負けますよ」というふうな意見は、それこそ売国奴の意見とばかり、怒号とともに排斥するものだ。
 カッサンドラは、負けます、破滅しますというふうな予言ばかりしていたので、人から嫌われ、疎外され、その予言はなんの役にも立たなかった。

 社会とは度し難い人たちの集まりであり、たとえ正確無比な予知能力をもっていたところで、それを役に立てるには技術がいる。

 カッサンドラは何度も予言をしては、それを信じさせられずにいたので、少しは学ぶべきであった。
 彼女の予言の帰結は、トロイと、それに自分自身の破滅を示していた。それならばそれを防ぐ努力はしなければいけない。

 トロイの破滅は、馬鹿王子パリスとスパルタ王妃ヘレナとの不倫愛に始まる。カッサンドラはそれを予知し、パリスの王家復帰やギリシャ行きを、トロイが破滅するからと反対するのだが、誰もそれを信じない。
 ならばカッサンドラは、パリスがいかにいい加減で、自分のことしか考えない男ということを、きちんと情報を集め、そういう男にトロイの命運をかけるようなことを任せてはいけないと、説得力をもってみなに説明するべきであった。
 それが出来ない、あるいは失敗したなら、こっそり夜中にパリスの部屋に忍び込み、寝首を掻いて、トロイの悲劇の元凶を断つべきであった。

 カッサンドラは、完璧な予知能力をもっていたので、その時は仁義に反する、あるいは人道にもとる行為でも、彼女は確信をもってそれを行える資格をもっていたであろう。
 しかしカッサンドラは、自分の予言を誰も信じないことを嘆くのみで、トロイの破滅の道を止めることはできなかった。

 10代の小娘にそのようなことを望むのは酷ではあろうが、いちおう能力を持つものには、それなりに責務というものがあるのである。


 ここでいきなり話は現代に戻る。
 ちかごろ政治が動いているけれど、菅首相は財政再建について本気モードに入っているようだ。
 菅首相は自分が政権を担当することになって、あまりの日本の財政破綻ぶりに恐怖を感じ、消費税増税を画策している。
 「少子高齢化が進む日本では、現役世代のみに社会負担を任せていては、社会保障が成り立たなくなる。文明国家として社会保障は維持しないといけないので、その財源は消費税増税によって得るしかない。これを成功させないと、日本は破滅する」
 との日本破滅の予言を宣言して、この計画に野党が参加しないなら、それは歴史への反逆とまで言いきっている。

 間違いだらけの民主党の政策で、これは正しい。予言として、まったく間違っていない。
 ただしギリシャ神話の昔から、正しい予言が受け入れられるのは、きわめて困難と話は決まっている。とくにこのように増税という誰もが嫌がることが付随する予言なんて、誰も聞きたくないし、信じないであろう。

 じつは、トロイに限らず、国が滅びるときには、それを見通すことのできるカッサンドラは幾人も出現した。しかし予言のできるだけのカッサンドラには、悲劇を回避する力はなく、カッサンドラはその存在じたいが個人的悲劇といえた。

 平成の日本、菅首相が、ギリシャから続く、カッサンドラの系譜につながる人物になってしまうのか。それとも、ここで人々の予想を覆す胆力を菅首相が発揮して、日本を破滅から救うのか。

 その結論は、あと数年で知ることができる。

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 (おまけ)
 冒頭の彫像は、トロイの神官ラオコーンの像。
 カッサンドラとこの人のみがトロイの木馬の城内搬入を反対し、それゆえ命を失った。
 周囲が過激な主張で盛り上がっているときに、冷静で正しいことを主張するのが極めて危険な行為であることは、今も昔も同じなのである。

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January 02, 2011

奈良 正月あちこち 歴史あれこれ

【春日大社】
Kasuga

 奈良の初詣は、やはり春日大社から。
 平城京の昔からあるこの神社は初詣の人気も高く、人がいっぱいだ。
 春日大社はかつて栄華を誇った藤原氏の氏神を祀っており、私としてはなにを祈願したらよいのかよく分からない神社でもある。
 ところで奈良公園にうじゃうじゃといる鹿は、この神社の神の使いということになっており、奈良では鹿は神獣である。奈良時代から大事に保護されていたこの鹿たちは、人に不用心ということもあり、戦後の食糧難の時代には食用に狩られまくって、絶滅の危機に瀕したという哀しい歴史がある。

【興福寺】
Kohukuji

 興福寺の五重の塔。
 奈良でひときわ目立つ、ランドマークタワーである。
 興福寺は中世まで奈良一帯を支配下に置いていた最強の武力集団であった。鎌倉時代・室町時代と、世が武士の時代になっても、興福寺の方が強いので、この地には守護大名がいなかった。
 織田信長という怪物の出現によって、はじめて興福寺は武装解除されることになる。そして信長の命により、奈良大和は松永久秀に任されることになった。

【東大寺】
Todaiji

 東大寺大仏殿。なかにはもちろん奈良の大仏が安置されている。
 奈良の大仏は、源平合戦時代と戦国時代のとき、2度にわたって焼かれて焼亡している。その放火の首謀者2名はいずれも非業の死を遂げ、「大仏の祟り」と称された。けっこう恐い仏さまなのである。
 なお、戦国時代に大仏を焼いたのが松永久秀であるが、彼はあるとき信長から家康にこう紹介された。「この男は天下の大悪人である。常人になしえぬことを三度も行った。すなわち主君を殺し、将軍を殺し、大仏を焼きはらった」。戦国の世では、これは信長の褒め言葉と思うのだけど、久秀は罵倒と感じて信長を恨み、のちに反乱をおこしてしまい、あっさり平定され無念の爆死を遂げる。

 松永久秀の生涯はまさに数奇なもので、伝記を読んでいるととても面白い。そして信長との関係でみると、彼らはいかにも「似た者同士」であって、信長は明らかに久秀に共感を感じていると思うのだけど、久秀のほうにはそういう感情はついになかったようだ。

【薬師寺】
Yakusiji

 薬師寺のツインタワー、東塔と西塔を望む。
 薬師寺は薬師如来を本尊とする。薬師如来は病を癒す医薬の仏であり、薬師寺は天武天皇が皇后の病の平癒を祈って建立されたという歴史を持つ。皇后とはのちの持統天皇のことであり、その後健康であったことから、けっこう御利益のある寺といえる。

【薬師寺 東塔】
Yakusiji2

 薬師寺のシンボルである東塔。
 三重の塔に庇を三つ重ねた独特のリズムある建築法から、「凍れる音楽」とも称されている。奈良時代から現存している、歴史ある文化遺産だ。
 1300年もの歴史をもつ建物だけあって、そうとうにガタが来ているようで、本年から本格的な解体改修工事が行われることになる。大変な手間のかかる工事であり、完成には10年くらいかかるとのこと。
 薬師寺東塔のファンの人は今のうちに見ておかないと、工事が始まってしまえばあと10年は見られません。

【雪の東塔】
Snow_yakusiji

 「凍れる音楽」ということで参考までに、5年前に訪れたときの薬師寺東塔の写真。このときは年末に訪れたのだが、ちょうどこの日に雪が降っていた。雪をまとった寒々とした凍りかけの東塔は、音叉のようでもあり、弾けば「凍れる音楽」が鳴り響く、そんな姿に見える。

【唐招提寺金堂】
Tosyodaiji

 薬師寺の近くには唐招提寺がある。
 今から工事の薬師寺東塔と違って、こちらは修理後完成してまだ日も浅い唐招提寺の金堂。シンメトリックな堂々たる姿であり、独特の重圧感がある。
 唐招提寺はいうまでもなく唐僧鑑真の建立した寺院である。唐の高僧鑑真和上の日本渡航の苦難の物語は、世にかくも高潔で、また不撓不屈の精神の持ち主がいるかと感嘆させられる。井上靖作の「天平の甍」がそれを書いて有名。

【平城京跡】
Heijokyo

 平城京跡、朱雀門。
 この広大な更地に立派な門のみ建っているのも、シュールな景色ではある。
 それにしても平城京跡って、そんなに不便なところにあるわけでもないのに、なんにも利用されずに広大たる空き地として放置されているというところに、奈良という地の妙なすごさを感じてしまう。
 この規模の都市で、市の中心地近きところに「何にも使っていない広大な空き地」があるのって、たぶん日本では奈良だけであろう。

【せんとくん】
Sentokun_2

 昨年行われた平城遷都記念行事のマスコットキャラ「せんとくん」。名前は知っていたが、実物を見るのは初めてだ。
 記念行事が終わったあとも、まだ現役のようである。


 有名どころをぶらぶらまわっての奈良めぐりであった。
 京都と違って、奈良は一つ一つの建物のスケールが大きく、また古くから遺されてきた歴史ある建物が多く、この地も独自の魅力に満ちあふれている。

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August 31, 2010

8月31日 (暦の話)

 現在の太陽暦の原型は紀元前153年にローマで原型が作られた。そのときの月の名前およびその意味を、以下にずらりと並べる。

 1月(January)=Janus 門の神
 2月(February)= Februs 贖罪の神
 3月(March)= Mars 軍神
 4月(April)=Aphrodite 愛の女神
 5月(May) =Maius 繁殖の女神
 6月(June) =Juno 大神ゼウスの妻ヘラ
 7月(Quintilis) =quintus 5
 8月(Sextilis ) =sex 6 
 9月(September) =septem 7
 10月(October) =octo 8
 11月(Nobember)=nobem 9
 12月(December)=decem 10

 1月から6月まではその月にちなんだ神の名前が月の名前となっている。しかし7月からは、神の数がネタ切れになったというわけでもないだろうに、数字そのものが月の名前になっている。たぶん途中でいちいちその月にちなんだ神を探すのが面倒になったからであろう。古代ローマ人ってけっこうアバウトなところがあったから。
 なお、月の数字が2つずつずれているのは、紀元前153年以前は3月が一年の初めの月であり、3月が1月だったからである。

 この暦は一年の日の数が365日に10日ほど足りなかったので、ユリウス・カエサルによって改訂が行われ、以後ユリウス暦としてヨーロッパで長く使われることになった。

 ところで、先のローマ暦とユリウス暦は、7月と8月の名前と違っている。
 まずは7月(July)。カエサルが紀元前44年に暗殺されたのち、カエサルが神格化されたため、カエサルも暦のなかで神々とともに名を刻む資格を持ち、カエサルの誕生月の7月が、カエサルの名前Juliusからとられ、Julyとなった。
 次いでカエサルの後継者であり、ローマ帝国初代皇帝であるアウグストゥスが神格化されたことにより、カエサル同様に、アウグストゥスの誕生日の月の8月がAugustusの名を使いAugustとなった。

 ちなみに30日と31日が交互となる太陽暦において、なぜか8月のみは先の7月に続いて31日ある。これは、「アウグストゥスがユリウス・カエサルの月が31日あるのに自分の名の月が30日じゃ、自分の位が低いみたいで嫌だと言って、2月から無理やり1日持ってきて30日を31日にした」という説が、いちおう巷間ひろく伝わっており、信じている人もけっこう多い。しかしアウグストゥスという人はそういうことはしないタイプの人であり、それはただのホラ話である。だいたい8月はAugustという名前になる以前から、31日あった。ユリウス暦が紀元前45年に始まった時点で8月は31日と決まっていたのである。(参考URL→Julian calendar
 とにもかくにもこうやって、月の名前は1月から8月まで神の名前を持つことになった。ならば、残りの9月から12月までも現人神であるローマ皇帝たちの名前がつけられていってよかったはずだが、現在に残る暦では、8月のAugustで打ち止めである。

 じっさいのところ、アウグストゥスの後を継いだ二代目皇帝ティベリウスも、その誕生日の月11月を、皇帝の偉大さを讃えるためにティベリウスという名前にしようという法案が、元老院(国会みたいなもの)で議題となっている。
 タキトゥスの史書「年代記」を読むと、ローマの歴史ある元老院も、帝政時代には、議員たちは皇帝にへつらう阿諛追従の徒になり果てていたようで、とにかく皇帝に気にいられるためには何でもする、というふうな法律をいくつも定期的に出している。
 ティベリウス帝はきわめて有能であり、その実務能力の高さは歴代皇帝でも図抜けたものがあって、たしかに偉大な人物であった。しかし彼は、この手のこびへつらいは大嫌いな人であった。
 「お前らそんな下らん法律をつくるより、ちゃんとまともに仕事しろ。だいたい皇帝ごとに月の名前を変えていたなら、13人目はどうするんだ?」と嘲けながら言い放ち、この法律はおじゃんとなった。

 もっともティベリウスのような人は例外的存在であり、人間のうち大部分の者はこの手の阿諛追従に弱いわけであって、ティベリウスのあとの皇帝、カリグラ、クラウディウス、ネロは、みなさん元老院の追従を受けて、喜んで月の名前を自分の名にした。9月はGermanicus 、3月はClaudius 、4月はNeroneusてな具合である。
 しかしカリグラにしろネロにしろ、神格化するにはレベルの低い人物であり、かえって暴君とか性豪とかの不名誉な別名のほうが後世に残ったわけで、彼らを神格化するのはおかしいと生前から思われていた。ゆえに、彼らが死去するとただちにその月の名前は元に戻された。
 彼らのあとも、自分の名前を月につける皇帝が散発的に現れはしたが、同様に死去とともに元に戻ることになる。

 ローマ皇帝は歴代100人以上存在したけれど、今現在まで月にその名前を残せたのは、アウグストゥスただ一人だけであった。
 結局歴史は、ローマ皇帝のうち神と讃えられる価値のある人物は、アウグストゥスしか認めなかったのである。
 そしてそれは2000年が過ぎた今は、たしかに正しいといえる。歴史というものは残酷なまでに正確な評価を行うものなのである。

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