時事

November 13, 2021

天才快進撃:将棋の革命児 藤井聡太

【ネムルバカ@石黒正数(著) より】

Nemurubaka

 令和3年は二人の若き天才、大谷将平と藤井聡太の活躍にずいぶんと心が躍った。二人とも前代未聞の記録を次々と打ちたて、これからもさらなる飛躍を遂げること確実であり、我々はその高みに登っていく活劇を楽しんでいくことができる。
 それにしても、野球、将棋、どの分野も、努力の限りを尽くしたトッププロ達が、人の為す限界ギリギリのところでせめぎ合って、わずかな差を凌ぎきって勝ちをつかむ、凄惨な修羅場である。ところがひとたび「天才」というものが出現すると、天才はそんな勝負の鬼達をものともせず、易々とせめぎ合いの限界を突破して、彼らを置き去りにし、新たな世界に行ってしまう。まったく天才というのは、世の不思議であり、不条理でもあり、そしてエキサイティングなものである。 

【竜王戦第四局終局時】

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  1113日、将棋竜王戦において藤井聡太は豊島竜王を4タテで下し、竜王の座につくことによって19歳にして将棋界の頂点に立った。これは彼の才能からはまったく驚くべきものでなく、挑戦者になったときから、というよりは棋士になったときからの予定調和的出来事であった。

 そして勝ち進むうち、藤井聡太はその強さよりも、将棋そのものに注目を浴びている。その将棋の質から、藤井って30年に一度の天才と言われていたが、どうもそれは過小評価で、100年に一度の天才なのでは?とも言われるようになってきた。

 というのは、藤井が近頃指すようになった将棋は、今までの将棋の歴史と異なる、まったく独自のものと化しているからである。

【美濃囲い】

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  将棋を習うときに、まず習うことは「玉を囲え」ということである。将棋は自玉を詰まされると負けのゲームなので、自玉の安全度を優先させるため、玉を中央の戦線から端のほうに動かし、そして傍を金・銀で囲う。上はその囲いの代表例の「美濃囲い」であるが、このような囲いを完成させてから、相手への攻めに入る、というのが駒組の原則である。初心者はそう習い、そういう将棋を続け強くなり、そうしてプロになっても同様の将棋を指す。つまり「玉を囲う」は将棋の常識であり、これは将棋というゲームが誕生してから、ずっと正解とされていた。

 しかし、それに現在進行中で若き天才が改革をもたらしている。

 将棋というのは自玉は確かに大事だが、基本は「相手を先に詰ませば勝ち」というゲームである。ならば自玉を囲う手間など時間の無駄で、「とにかく敵より先に攻撃をしかけて相手の玉を詰ませばいい、それで勝ちだ」。そういう発想の転換を行った。その発想をもとに藤井は自玉を囲わず居玉のまま猛攻をしかけるスタイルを確立し、次々と勝ち星を積み上げてきた。
 そんなに勝率の高い戦法をなぜ今まで他の棋士は発見できなかったのだろうと疑問に思う人はいるだろうけど、思いついた棋士はたぶんいくらでもいると思う。ただし実行すると高い確率で破綻するので、それでやる者は払底した、というところだろう。

 相手よりも早く攻めれば勝ち、と書けば簡単だが、「攻めれば相手に駒を渡す」という将棋の特質上、どこかで反撃のターンは入るので、その時自陣が居玉だと、防御力が弱いのであっという間に負けにしてしまう。居玉はものすごく運用が難しいのである。ところが藤井聡太は盤全体の駒でバランスをとって、たとえ居玉でも安全なマージンを持って戦っているので、少々危ない目にあったとしても最終的には必ず勝ってしまう。つまりは天才にしかできない芸当で、それで藤井聡太は連戦連勝を続けている。

【居玉 VS 居玉】 

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 分かりやすい例として、今年の王将リーグ戦からの対豊島将之戦をあげてみる。
 自玉を囲っていては藤井に速攻をかけられ主導権を握られることを豊島は重々承知しているので、自分も居玉のまま、歩を犠牲に手得を得て先に猛攻をかけたのであるが、その攻撃がいったんやんだのち、藤井に攻めのターンが回ると、桂馬が飛んだらもう豊島陣は崩壊している。居玉の弱さがそのまま出た形で、すべての駒が攻撃目標になり、玉の逃げ場もない。このあとすぐ豊島は投了に追い込まれている。

 まったく、自玉を囲おうとすると速攻をかけられボコボコにされ、では居玉のまま攻めたら居玉の弱さをつかれてやはりボコボコにされる。相手からすれば理不尽としか言いようのない、まさに才能の暴力そのものの革新的将棋を指しているのが、藤井聡太という天才である。

 

 この若き天才による将棋の革新はさらに進化していき、今まで見たことのなかったような将棋を次々に見せてくれるであろう。将棋ファンとして、素晴らしいスターのいる時代に居合わせた幸運に感謝。
 あと欲をいえば、将棋の名棋譜って一人でつくるものでないので、もう一人くらい次に続く天才好敵手が現れてくれれば有難いが、そんなに何十年に一人の天才が幾度も現れるわけもなく・・・まあ無理か。

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July 17, 2020

天才が天才を語る @将棋棋聖戦雑感

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 現在の将棋界の最強者渡辺棋聖に、新進気鋭の高校生棋士藤井聡太七段が挑んだ棋聖戦は激闘の結果、藤井七段のタイトル奪取となり、最年少タイトル獲得の記録更新となった。

 ここで将棋の歴史をさらりと解説してみる。
 江戸時代は幕府に庇護されて家元制であった将棋界が、明治維新になってスポンサーを失い、家元制度を廃止して実力制に変更したのち、その世界は中国大陸の歴代王朝みたいなものになった。
 将棋という激しいゲームは、その強さは純粋に才能によって決まるので、強い者は子供の頃から図抜けて強く、その強さは頭の体力が弱って来る40才代まで持続する。そして将棋の世界では、真の天才はだいたい25年に一度くらいの周期で出現する、というのが今までの歴史で分かっている。人類って、それが種としての能力の限界のようなのだ。この25年に一度の天才が覇者となって将棋界を20年間くらい統一し、その力が衰えてくると群雄割拠の戦国時代がしばし続く。やがてそのうち棋界の法則に従い、一人の超天才がまた出現して棋界を統一する。そういうことをずっと繰り返してきた。
 おおざっぱにいえば50年代から70年代までが大山康晴の時代、70年代から90年代が中原誠の時代、そして90年代からが羽生善治の時代である。羽生は平成の30余年を第一人者で棋界に君臨することになった。鬼神とも畏れられたその強さは、しかし近年となってさすがに衰えて来て、ずっと保持してきたタイトルを次々と手放すことになり、そこから将棋界は一時期8人もの棋士で8つのタイトルを分け合うまさに戦国時代になった。こうして将棋界は、次代の覇者を迎えるばかりの状況となった。
 その時代の覇者は誰か? ということに関しては4年前に既に答えは出ていた。2016年に当時中学生の藤井聡太がプロ入りしたからである。彼がやがて棋界を制覇する器であるのは衆目の一致するところであり、そしてあとは、いつ彼が棋界の覇者になるのかということだけが将棋ファンの関心となっていた。

 羽生級、藤井級の天才は滅多に出てこないけど、しかし、今回の挑戦を受けた渡辺棋聖だって大変な天才である。なにしろ彼も中学生の時にプロになり、20歳にして将棋界最高位の一つである竜王を獲得し、それから現在に至るまで何らかのタイトルを保持している、将棋史に残る名棋士であるのは誰もが認めるところである。
 そして渡辺は頭の回転が早く、笑いのセンスもよくて、彼の将棋の解説はとても面白く分かりやすい。また文才もあってブログや週刊誌のエッセイも質が高い。さらには元棋士であった妻はメジャー少年雑誌に連載を持っており、そこで渡辺棋士のリアルな将棋生活が楽しくかつ詳細に書かれている。渡辺は将棋界随一のスポークスマンであり、その棋譜とともに、将棋界への貢献度は非常に高いものと言える。
 しかしながら、羽生が日本中誰でも知っている有名人なのに比べて、渡辺の人気は将棋界に限定されていて知名度ははるかに低い。渡辺明の名を聞いたのは、今回の藤井新棋聖誕生のニュースが初めて、という人は多かったろう。
 渡辺明の有能さに比して、その待遇はあまりに低すぎる、と私などは残念に思っているのだが、その原因については、渡辺明がキャラクター的に地味であったからというのが定説になっており、これは本人にはどうしようもないことなのであって、重ね重ね残念である。これについては当人が漫画で茶化して述べていて、まあ面白いけど、ちょっとかなしい。

【将棋の渡辺くん(1)】

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 渡辺明は将棋の評論家としても出色の才があり、その核心をついて正直な評は参考になることが多い。
 渡辺明は強敵ぞろいの羽生世代(羽生、森内、佐藤、郷田等々)と互角以上に戦い続け、さらには自分より若い世代の挑戦を退け続けてきた強者であるが、ついに渡辺時代というものは築けなかった。いや、渡辺の棋士人生では今が最も強いのは明らかであり、羽生世代がすっかり衰えた今、彼が覇者になる可能性もないことはなかったのだが、藤井聡太の台頭があまりに予想通りであったため、その実現は極めて可能性が低くなった。渡辺自身がそれを確実に想定しており、将棋界は羽生時代ののち自分たちがゴチャゴチャ争っているうちに、藤井くんがそれを横目に一挙に抜き去り、自分たちは藤井くんを追いかける存在になるであろうと既に一昨年の時点で言っていた。

【将棋の渡辺くん(2)】

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 渡辺明ほどのトップレベルの棋士になると、トーナメント戦上位か、タイトルリーグでしか棋戦が組まれないため、新人棋士は指す機会がほとんどないのだが、藤井は強いのでトーナメント戦を容易に勝ち抜き上位に上がって来るので、プロ入り二年目にしてさっそく渡辺と対戦が組まれることになった。
 それはトーナメント朝日杯の決勝戦であった。渡辺は藤井との対戦に対し、こちらは長くプロでトップをはってきた先輩だ。いくらなんでも今はまだ自分の力のほうが上だろう。ここは、「おれと戦うなんて10年早いんだよ」、と圧勝して先輩の貫録を見せつけてやる、という予定だったのだが、あに図らんや、自分のほうが鎧袖一触されてしまい、藤井は想像以上にはるかに強い、自分はもう抜き去られているのではなかろうかと考え、いや待て、藤井とて万能というわけではない、苦手な戦法や指し方もあるであろう、自分はそれをしっかりと研究して勝負に持ち込まないといけないと自省した。

【将棋の渡辺くん(3)】

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 それから2年が経った。
 藤井はついにタイトル戦である棋聖戦トーナメントを勝ち抜き、最年少記録で挑戦者となった。
 渡辺棋聖は最も手強い挑戦者を迎えることになった。渡辺は藤井の強さは十分に知っているが、相手はまだ17歳、そしてマスコミの注目を大いに浴びるこの一戦では、なんとしてでも勝たねばならない大一番である。渡辺は宣言通り、対藤井戦へ徹底的な研究を重ねてこの戦いに臨んだ。

 今回の棋聖戦の全四局は、将棋史に残る熱戦ぞろいで、どれも大変に面白かった。渡辺は精緻を極めた構想で、中盤までに優位を築く。しかし藤井は盤面全体を使った妙手奇手のたぐいを繰り出し、局面を複雑極まりないものに誘導する。そして終盤に近づき、最善手をずっと続けないと勝てないような際どい局面にいたると、たいていは渡辺が最初に最善手を逃す立場になり、するとそこを起点として一挙に藤井が優勢を築きあげそのまま押し切ってしまう。こういう戦いが繰り返され、結果3勝1敗で藤井が最年少でタイトルを獲得したのは全国に大きく報道されたとおり。

 この棋聖戦について渡辺明がブログや談話で述懐しているけど、我々からは拮抗した名勝負にみえていた各局も、渡辺にとっては、競いあっているうちに、相手から予想もしない手が次々に出て来るので、自分がどう指したらいいのか分からなくなり、良い対応手を見つけられずに、ずるずると負けに引きずり込まれていった、もう棋力が違っていて、お手上げとしかいいようのないものであったそうだ。しかし、相手が圧倒的に強いということは分かったが、まさかこのままずっと負け続けるわけにもいかないので、なんとかさらなる研究を積み重ね、彼の弱点をみつけ反撃の手がかりにしたいとも語っていた。

 天才のことは天才が最も知っているのであって、今回の藤井新棋聖の強さの本質というのは渡辺の批評がたいへん分かりやすく、有難いものであった。

 私は、昭和50年代、谷川浩司の名人奪取の頃からずっと将棋を観戦しているけど、羽生の台頭から君臨あたりが、棋譜そのものも、世間の盛り上がりも一番面白かった。そして羽生に続く30数年ぶりの新覇者の登場、これによってあと30年間はまたスリリングで熱い棋戦の数々を楽しめそうである。人生の新たな楽しみが出来たことに感謝。

 …………………………

・ 記事中の漫画は、伊奈めぐみ著「将棋の渡辺くん」から。漫画自体も面白けいど、wikipediaに書かれている執筆に到る過程もまた面白い。

 

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April 15, 2019

ノートルダムの詐欺(?)男

【ノートルダム大聖堂@2017年夏】

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 一昨年の夏パリを訪れたとき、パリの観光名所であるノートルダム大聖堂を訪れようとしたところ、入り口の前に大行列ができていた。この大行列に並んで待つには、直射日光の照りつけるパリの夏はあまりに暑すぎ、私はあっさりと大聖堂のなかに入るのを断念し、まわりをぶらぶらと散策し、外の姿の写真でも取っていた。
 すると、中年の小太りの男性が話しかけて来た。
 こういう観光地で異国人が話しかけてきたら、それは詐欺師か物盗りかに決まっているので、普段は相手しないのだが、その人の姿が普通の観光客にしか見えなかったので、つい相手をしてしまった。
 私が日本から来たと言ったら、自分も横浜に建築家の知り合いがいるのでそこに行ったことがある、と返すので、横浜の印象はどうだったかと聞くと、まともな話は返って来ず、いかにもウソっぽかった。
 そして大聖堂には入らないのか?と尋ねるので、「この暑い中、長い時間待ってまで入りたくない」と言うと、「それはよかった。じつは私は入場チケットを持っている。本当はそれでワイフと一緒に来るつもりだったのだが、ワイフが体調が悪くて来れなかった。一枚10ユーロでいいから、一緒に入らないか」と言ってきた。
 ノートルダム大聖堂は、他の観光名所の教会と違って入場料はとらず、そのため無料なのはいいが、行列が大変だと、ガイド本には載っている。いかにもうさんくさい話なのだが、しかし10ユーロで本当に待たずに入れるなら、それはお得だ。
 それで私はその話に乗り、その男のあとについていったのだが、行列の先頭まで行くと、いきなり列の人の抗議の声を無視して強引に入り込んだ。ひえ、これは単なる悪質割り込みだ、これはそこにいる警備員につまみ出される、と私は思い、逃げる準備に入った。しかし男は警備員に何か話しかけると、警備員は入れ、という感じで入り口に腕を向けた。男は私について来い、と手招きしたので、列の人たちにすみませんねえと思いながら、男のあとをつけ、無事に大聖堂のなかに入ることができた。
 チケットなんてないじゃんか、でも入れたし、いったいどういう仕組みになっているんだろう、と私は頭に疑問符をいくつも浮かべながら、とりあえず男にMerciと言って、10ユーロ渡した。

 結局男がいかなるテクニックを用いたのか分らないが、まあ最初の契約通りに、10ユーロで大聖堂に私は入れたわけで、これは正常な商行為と言える。しかし、題名が「詐欺(?)男」となっているのは、このあとに余計な続きがあるからだ。

 大聖堂に入ったのち、男は大聖堂を案内してやるという。こういう怪しげな人物は、これ以上相手したくなかったので、No thank you、あとは私は勝手に観光しますと言うと、自分はガイドをするつもりだったのでガイド代を当てにしていた、それでは困るのでとりあえず5ユーロ払え、と言う。そんなもん最初から言えよ、とは思ったもの、異国の地で、たかが5ユーロでもめるのも面倒だったので、おとなしく5ユーロ払って、そこでお別れとなった。
 彼はまたたぶん同様の詐欺(?)を行うために、大聖堂の外に出て行ったであろう。

【大聖堂】

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   そういうわけで、5ユーロぶん不快な目にあって入った大聖堂であるが、荘厳にして煌びやかな空間、優美にして厳かな彫像の数々、そしてゴシック美術の粋を極めた薔薇窓、じつに素晴らしいものであった。

 そのノートルダム大聖堂、4月15日の失火により大規模火災が生じ、多くの部分が壊れてしまった。完全な復旧には一説によれば50年はかかるとのことである。そうなると私は一生のうちに、もうノートルダム大聖堂を見ることはない、ということになる  。あの時、うさんくさい話に応じ、大聖堂に入ったのは、もはや得ることのない貴重な機会をつかんでいたのだ。
 美しいもの、素晴らしいもの、それらはずっと在り続ける保証などなく、いつ失われてもおかしくないので、見る機会があるならすぐにでも行かねばならない、そういう普遍の教訓を改めて思い知った。

 そしてそれとともに、あの顰蹙なノートルダムの詐欺(?)男、じつは私の恩人であった。ノートルダム大聖堂焼亡の報を聞き、人生なにがどうなっているか、あとにならないと分からない、それもまた思い知った。

 

【炎に包まれるノートルダム大聖堂】

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April 11, 2019

事象の地平線@ブラックホール撮影の快挙に思う

【世界初のブラックホール画像】

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 たとえばゴビ砂漠のような、何も遮蔽物のないような、だだっ広い平原に居て、ふと「地球に果てはあるのだろうか?」と思ったとする。
 それでまず遠くを見てみると、はるか彼方には地平線が広がっている。肉眼ではその性状は良く分からないので、望遠鏡を使って見てみる。それでもその地平線が果てかどうかは分からない。それでさらに高性能の望遠鏡を注文することにした。
 さてその高性能望遠鏡が届いたとして、「地球に果てはあるのか、あるならどういうものか」という疑問への解答は得られるであろうか。
 私たちは、地球は丸い、それゆえ視覚的には地平線から先は崖の下みたいなものである、ということを知っているので、たとえいかなる高性能の望遠鏡を得たとして、地平線の先からは何の視覚情報を得られないことを分っている。その試みは必ず徒労に終わるのだ。

 話をもっと壮大にして、「宇宙に果てはあるのか?」という深遠かつ難解な謎について考えてみる。これについては、「分かるわけない」というのが模範的解答なのであるが、ただし現在の物理学では「宇宙に果てはある」というのが正解になる。
 これはつまり先の地平線の話と一緒で、私たちが物理法則の下に存在している限り、観察範囲には限界があり、それ以上のものについては観察することは不可能なのであって、ということはそれらは私たちにとって存在していないに等しく、ならばその限界線が宇宙の果てなのである。これを「Event Horizon」、強引に和訳して「事象の地平線」と言う。

【事象の地平線:簡単な概略図】

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 なぜ限界があるかといえば、それは私たちの住む宇宙では、光速が一定であるという大原則があるからだ。そして情報の届く速さは、電磁波にしろ光にしろ、光速が最速であり、これ以上の速さで情報を得ることはできない。
 これをふまえて、宇宙の果てを観察しようとする。宇宙の果てとは、途方もなく遠いところにあるはずだが、その情報は光の速さで来る。星への距離は、光が一年で到達する距離で表すけど、1光年離れた星を観察すると、今見えているその星の姿は1年前の姿である。数億光年離れた星なら、数億年の姿だ。
 ところで宇宙には始まった年があり、それは138億年前であったと証明されている。そうなると138億光年離れた星を観察すると、それはまさに星が、宇宙が生まれたときの姿ということになる。そして、150億光年離れていた星なら、その星の光は宇宙に放たれ地球に向かっている途中であり、それを私たちは観測することはできない。
 つまり、138億光年で境界線が引かれ、ここから先を私たちは決して観察することができない。この境界線が「事象の地平線」である。-もっとも、以上は分かりやすく述べたので、じっさいは宇宙は膨張しているので、この距離はもっと長い。

 事象の地平線は、物理学において実質的に宇宙の果てであり、その先はどうなっているか全く分からない。その先には永遠に似たような宇宙が続いているのか、それとも進み続ければ元のところに戻って来る閉じた空間になっているのか、あるいはまったく別の物理法則の支配する世界が広がっているのか、いずれもあり得るのだけど、観察する手段がない以上、それらは単なる仮説に過ぎず、つまりは分かるわけない、ということになる。

 それから先まったく私たちの手の届かないところ、ということで、宇宙のロマンを感じさせる「事象の地平線」。これはもう一種類、宇宙に存在している。それが今回史上初めて撮影に成功することのできたブラックホールだ。

 ブラックホールはその膨大な重力によって、周囲の空間を歪め、近くのものを次々に引き寄せ、破壊し、飲み込む、宇宙の凶暴なモンスターである。その重力は、光さえも引き込むため、光は一方向にしか進まず、ブラックホールからは何の情報も得ることはできない。つまりブラックホールにも「事象の地平線」があり、その先は宇宙の虚無のごときものなのである。

 今回撮影に成功したM87星雲のブラックホールは、その存在が初めて示されたのは今から約100年前の1918年ヒーバー・カーチス博士の観察によってである。もちろんその当時にブラックホールという概念はなかったのだが、その星域に宇宙ガスが激しく噴出する現象を望遠鏡で発見し、何だかよくわからん現象が起きていると報告し、そして相当後にそれがブラックホールの星間物質破壊に伴う現象ということが判明した。

 それで、そこにブラックホールがあることは長いこと分かっていたのだが、なにしろ5500万年光年という遥かな距離にある天体ゆえ、詳細な観察は不可能であった。
 それを、今回世界約80の研究機関による国際チームが地球上の超高性能電波望遠鏡を集めまくって、口径1万kmという地球サイズの仮想望遠鏡を造り、そこで収集したデータから、ブラックホールの撮影を成功させるという快挙を成し遂げた。そして、そこにははっきりと、ブラックホールの名前そのものの、黒い穴が写っている。この穴の内側にあるのが、かの「事象の地平線」である。

 宇宙ファン、あるいはSFファンにおいて、「実在するけどそれ自体は見ることができない」存在であった「事象の地平線」を見ることができて、本当に感激ものである。

 この写真をこの世に出すために、膨大な努力と、莫大な費用をかけた国際チームにひたすら感謝。そして世の技術の進歩にも感謝。

 

 なお、私が「イベント・ホライゾン(事象の地平線)」という言葉を初めて知り、それについて調べたのは、「イベント・ホライゾン」というSF映画によってであった。「巨大宇宙船イベントホライゾン号が遥か彼方の深宇宙を探険していたらそこには地獄があって、その恐ろしい旅をくぐりぬけたのち無人の漂流船と化したが、突如海王星の傍に現れたので、それを調査に行く」という壮大深遠なテーマをもとに、多額の予算と多大な手間をかけて撮影された大作映画なのだが、しかし出来あがったのは、超絶B級スプラッター映画であった、というきわめて残念な映画であった。こちらの「イベント・ホライゾン」についても、いろいろと語りたいことはあるが、とりあえず今回は、ブラックホールの「事象の地平線」の感想にて終了。

 

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 参考図書 & DVD

 宇宙創成 サイモン シン

 宇宙に終わりはあるのか 吉田伸夫

 映画 イベント・ホライゾン 

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April 01, 2019

新元号「令和」に思う。

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 五月からの新元号が「令和」に決まった。
 良い元号だと思う。

 出典は万葉集の梅花の宴序からとのことで、この文がまたいい。
 「天平二年正月十三日、師の老の宅に萃りて、宴会を申く。時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」
 万葉集中の有名歌人にして有力政治家の大伴旅人の邸宅で行われた、梅の花を囲んでの宴、それについて記した文である。当時大伴旅人の住んでいたところは大宰府であり、大宰府は梅の名所であるが、当時から梅の名所だったようだ。
 庭いっぱいの梅が紅白それぞれ爛漫と咲き誇り、周りは梅の香りに満たされ、招かれた客人たちはその美しき景色を愛でながら、おおいに歓談し、飲み、騒ぎ、楽しむ。記録者は、この素晴らしき時を、「もし翰苑にあらずは、何を以ちてか情を述べむ」 ―私たちに文字が、文学があるのはなんと有難いことか、この喜びの時を表現する術をもっているわけだから、と述べる。そして古の人は梅についておおいに詩を書いた。我々もそれにならって梅を題材に和歌を読もうではないかと続け、このあと客人たちが読んだ三十二首の和歌が並んでいる。

 古の人とは、古代中国人のことであり、四世紀ころのことを言っているそうだ。梅花の宴が開かれた天平二年は8世紀なので、400年の時を経ての、文学のつながりがある。そして、現代21世紀の日本の元号に、この序文からの言葉が使われたので、1300年の時を経て、また文字がリレーされたのだ。
 記録者(おそらく山上億良)が言うとおり、文字そして文学というものはまったく有難いものであり、これがある限り、文化というものは連綿と受け継がれていく。この伝統を我々は大事に紡いでいきたいものである。

 なお、「令和」という元号には、「美しい調和」という意味が込められており、まったくこの時代、世に調和、そして平和がもたされてもらいたいものだ。
 ただ万葉集の序が書かれた背景を思うと、そこは含蓄に富んでいる。あの時代は、大和朝廷の政治が不安定化し、藤原氏が実権を握るため、朝廷は権謀術数うずまく争いの場と化し、多くの権力者が血を流しあっていた。
 そして大宰府というのは、中央政府からの一種の避難所になっており、そこは政争のない、平穏の場となっており、だからこそ閑雅な梅の宴も開くことができた。ただその分、中央には影響力もなく、有力者たちは無聊をかこつ歯目になり、かつての要衝大宰府は僻地扱いされていった。
 「令和」の時代は、世界はいよいよ混沌となり、各地の争いは激化するのが必定である。その嵐の吹くなか、いかにして本邦は、平和でありえるか。大宰府方式で行くか、あるいは他の手でいくか。これまで以上に知恵が要されるのは間違いない。

 

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February 25, 2018

平昌オリンピック雑感:「兄より優れた弟など存在しない」& 高木姉妹の話 

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 冒頭の句、「兄より優れた弟など存在しない」は、コミック「北斗の拳」からのものであり、この台詞を放った人物ジャギの悪辣なキャラのインパクトもあって、名言・名言の宝庫である当作中でも、もっとも有名なものの一つである。
 この台詞、客観的には「人それぞれだろう」の一言で済ませばいいだけのことにも思えるが、しかし、当事者、すなわち優秀な弟(妹)をもってしまった兄(姉)にとってはなかなか深刻であり、奥が深い、そういう台詞とも言える。

 話は本題に移る。
 8年前のバンクーバーオリンピック、その時スピードスケートの選手のメンバーに15歳の高木美帆が選ばれた。当時のスピードスケートにおける有名な選手は、橋本聖子、岡崎朋美といったところであり、失礼ながらこの種目は、年配の女性が活躍する分野と一般的に認識されていたところ、突如一世代以上違う若い中学生が登場したわけで、それは鮮やかな印象を与えた。
 もちろん彼女はオリンピック選手に選ばれるだけあって、抜群の実績もその若さで築いており、当時は「スケート界の宝」、「日本一有名な中学生」などと称された。今でいえば、将棋の藤井六段みたいなものであり、それほどセンセーショナルなものであった。

 彼女がスケートを始めたのは、兄、そして姉がスケートを行っていたからである。両者とも優秀なスケーターで、特に姉の菜那は小学生、中学生の全国大会で優勝するほどの実力者であった。
 この優秀なる姉に憧れ、その背中を追いかけていた、妹美帆は、じつは天才であった。リンクに上がるたびに速度を速めて行き、その勢いで中学生の新記録を連発して、あれよあれよといううちに実力者の姉を追い抜いてしまった。そして、スピードスケート史上最年少でオリンピック選手に選ばれた。

 姉、高木菜那にとっては、これは面白くないに決まっている。自分のマネをして競技に入った妹が、じつは天才であって、自分が努力のすえに築いてきた地位をあっさりと追い越してしまったのだ。あまつさえ彼女は有名人となり、自分はどこにいっても「高木美帆の姉」と認識されるようになってしまったのだから。
 妹が幼いころは、当然はるかに自分に劣っていたわけで、それを教え鍛えていたら、いつしか自分を凌駕する存在になってしまい、あの台詞じゃないが、「姉より優れた妹がいるなんて・・・」と、忸怩たる、あるいは憤怒の思いはずっとあったであろう。

 とまれ、ここで終われば、「優れた妹が、あっさり姉を追い抜いた」、ありふれた話に過ぎなかった。けれど高木姉妹の物語はこの後二転三転する。

 新星のごとく現れ、将来を嘱望された高木美帆は、しかし、バンクーバーののち失速し、その恵まれた才能を花開かせることはなく、低迷することになった。
 それを横目に台頭したのが姉の菜那である。彼女は妹に強いライバル意識を持ち、不屈の努力を重ね、次のソチオリンピックの代表選手に選ばれるまでに己を鍛え上げた。

 これに衝撃を受けたのが、高木美帆である。一時ははるかに追い抜いたはずの姉が、追い抜き返してしまった。口惜しくないはずがない。
 これからまた姉妹のバトルが始まる。姉妹の専門は中長距離だったので、分野が重なる。オリンピックに出場できる選手には枠があるので、姉妹はその狭い枠を目指して努力するわけだが、とにかく相手に抜きんでねば、出場できるチャンスが大きく減ることになる。
 そのバトルについては、姉妹愛など全くない、とにかく相手に勝たねばの意識の強い、修羅の世界であった。高木姉妹は、両者正直な人であり、そのあたりの事情を赤裸々に語っていて、読んでてたいへん面白いのだが、当事者にとっては面白いどころの話ではなかったであろう。


 そして話はようやく現在、平昌にたどりつく。
 彼女らの切磋琢磨たる努力は、二人を同時に平昌オリンピックに導いた。
 ただし、その実績ははるかに妹美帆が上であった。彼女はその天賦の才能を花開かせ、世界における中長距離の第一人者となり、ワールドカップでは何度も優勝もはたしていた。
 そして高木美帆は平昌でも活躍し、個人種目で銀・銅のメダルを獲得した。残るは金である。

Ceremony

 そして、迎えた団体パシュート。3人のメンバーのうち、2名は高木姉妹であり、彼らは、見事な滑りをみせて圧勝して金を獲得した。そしてこの金を得たのは高木美帆の力に多くかかっていた、というのは衆目の一致するところである。彼女が強大な動力源となり、チームを引っ張ったことによって、あのオリンピックレコードとなる速度を出せたのである。
 もっともパシュートはチームの統一も重要な勝ちの要素であり、日本がそれに最も長じていたのは事実であって、それには高木姉妹の、姉妹ならではのコンビネーションも大いに預かっていたであろう。

 高木菜那は、フィジカルには及ばず、とうてい勝てなかった妹に、それを戦術的にサポートすることにより、お互いを高めて、世界のトップに上り詰めることができたのだ。妹よりも優れていなかった姉は、しかしそれを自覚して、サポートすることにより、己も高めることができたのだ。

 姉妹の厳しき葛藤の物語は、平昌で美しく結実したのである。


 ・・・というふうに、話をしめるはずだったが、この姉妹の物語には次の章があった。

 女子スピードスケートの最終種目「マススタート」の選手に高木菜那は選ばれていた。この種目は競輪みたいなものであって、肉体的な力とともに、智略も要され、全体を通して優れた戦略をめぐらす必要がある。
 彼女は完璧といってよいレース運びで、なんと優勝を果たした。
 妹が個人種目で果たしていなかった金を獲得したのである。

Gold

 天才の姉も、じつは天才であったのだ。今までそれに人が気付かなかったのは、才能の方向が違っていたからであって、姉はきちんとその方向の才能を伸ばしていたのである。

 高木菜那は、これからは「高木美帆の姉」扱いはされることなく、ピンで主役を張れる、本来もっていた実力にふさわしい扱いを受けることになるであろう。そしてそれはさらに高木姉妹の力を向上させていくであろう。

 最初のほうで、スピードスケート界の年齢の話をしたけど、今回500mで31歳で金メダルをとった小平選手の例をみてもわかるとおり、この競技は息の長いものであり、この姉妹の物語はまだ続いて行くに違いない。

 4年後、北京での彼女らの活躍が今から楽しみである。

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August 22, 2016

2016リオオリンピック雑感

【鷲巣巌@「アカギ」第28巻より】
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 まずはギャンブル漫画「アカギ」の登場人物鷲巣巌の台詞から。
 鷲巣巌は卓越した頭脳と精神力の持ち主で、その能力を最大限生かして巨万の富を得て、戦後の日本の政財界の裏の帝王として君臨していた。彼は75年の生涯の全ての勝負に勝ち続けた、ギャンブル漫画史における最強の人物である。
 しかし彼は人生の最終盤に、悪魔のごとき賭博の天才(=アカギ)に出会ってしまい、自分の血液を賭けの対象とした、文字通り生命をかけての勝負をすることになる。白熱の勝負が繰り広げられ、両者とも血を限界ぎりぎりまで抜かれて、お互いあと一回勝てば、相手の命を奪い、そして最終的に勝てるという状況になる。
 ここで、ついに勝利を確信した鷲巣巌が発した言葉が冒頭。

 「勝つには、勝ち切るには、何と多くの辛抱が必要なことか

 人生の全てで勝ち続け、勝ちを積み上げて人生を築き上げて来た男の述懐だけあって、とても説得力がある。
 そう、まったく、勝つとは辛抱のいるものなのである。途方もなく。


 今回のリオオリンピックは地球の裏で開催されていることから、放送の時間が早朝に偏り、出勤前の時間が利用できて、多くの競技をライブでじっくりと見ることができた。
 放送はもっぱら日本選手が出場しているものになり、それで柔道、卓球、レスリング、体操、バトミントン等々、オリンピックのときしか見ないような競技をふんだんに見ることになる。これらが、見ていて非常に心臓に悪い。どの競技も瞬間々々で勝負が動き、ほんのわずかな油断も許されないものばかり。棒から手が離れるなり、着地が乱れるなり、相手に後ろをとられるなり、投げられるなり、あっという間の出来ごとで勝負がひっくり返る、そういう瞬間が競技中ずっと続いているわけで、まったく見ていてたまらない。
 今回日本勢は金メダルを量産したけど、それには安心して見ていられるものは殆どなかった。王者と言われた体操の内村選手も薄氷を踏むような勝利だったし、伊調選手も最後の3秒での奇跡的逆転勝利であった。バトミントンダブルは絶望的状況からの挽回であり、どれも勝者と敗者の差は紙一重であった。

 それでもやはり勝者と敗者を分かつものは、じつは歴然とあったのであろう。
 傍から見た一般者でさえ心臓に悪いほどの緊張感を与えるのに、今までとんでもない努力を重ねてきた当の本人たちのプレッシャーがいかなるものかと考えると、それは想像を絶するものには違いなく、それをねじふせて、最後まで己の最高を出すことに尽力できたものに、最終的な勝者の栄光が与えられた。
 その凄まじい精神の劇の「芯」が、まさに鷲巣御大の言う、「辛抱」に違いない。途方もないプレッシャー、緊張感、それらに耐えきった、すなわち辛抱しきった者が最後に勝利を得る。
 オリンピックのように勝利の価値が大きなものは、それだけ辛抱も大きなものが必要となり、今度のオリンピックではそれらの葛藤劇もまた見ることがでた。体力、精神、いずれも超人的な人々たちの4年に一度の祭典。
 そして、それが次は日本にやってくる。

【リオオリンピック 閉会式】
Photo

 次回は東京である。
 ということは、現地開催ゆえライブは基本的には週末しか見られない。それはもったいない。
 それで、4年後はなんとしてもライブそのものを見たいので、いつもはとらぬ夏季休暇を4年後にはしっかりと取って東京でナマで見たいと思う。
 ここで問題はチケットだ。
 リオオリンピックで、本当にもったいないと思ったのは、会場がいくらでも空席があったことである。あれは日本では考えられない。18年前の長野オリンピックでは、鍛え抜かれた超一流のアスリート達の芸に魅せられ、どのマイナー競技でさえすぐに完売になり、「チケットぴあ」のいずれのチケットもソールドアウトになっていたのは記憶に新しい。(って、20年近く経ったのだが)
 東京オリンピックも当然のごとく、チケットの争奪は大変であろう。
 ここはなんとしてもチケットGetの知恵を振り絞らねばならないのだが、・・・まあ、4年あるのでゆっくり考えておこうか。
 私がチケットをGetできたかどうかの解答は、4年後にまた、とのことで。

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April 16, 2016

阿蘇大橋崩落に唖然@熊本地震

 木曜日の夜に突然スマホから地震緊急警報が鳴り、その後しばらくして震度4くらいの強い地震があった。ああなかなか便利な仕組みだなあと思ったのち、何よりこわい津波を警戒して震源地をチェックすると、それは熊本であり宮崎県北からはずいぶん離れていた。この距離でここまで揺れるのだから熊本は大変だろうなと思った。
 そしてその後も、宮崎県北は震度4クラスの地震が夜どおし何度も生じ、家がぐらぐらと揺れた。九州とは地震は少ない地なので、滅多におきぬ現象。私が今までの人生で経験した地震を、今夜一晩で追い抜いた質と量であった。しかしさすがに時間が経つとともに、最初の大きな一発からは、地震の大きさは小さくなっていき、また余震の間隔も長くなっていった。もうこのままフェイドアウトしていくのだろうなと思い、翌日は予定通り関西へ出張した。

 関西では、当然地震警報など鳴ることもなく夜を過ごし、さて翌朝、6時のニュースを見て、唖然としてしまった。

【ニュース画像より】
Aso_bridge

 なんで阿蘇大橋が崩落しているんだ?
 ここは熊本市の震源とは離れているし、それに地震は木曜夜だったはず。
 それでSNSをチェックしてみたら、金曜深夜にとんでもない地震がやってきたとの報告がずらずらと載っていた。
 結局木曜夜の地震は前震であり、その後1日ほどして本震が訪れ、さらには震源地は阿蘇から大分方向に移動して、幾度も強い地震を起こしたという、前例のない、時間差攻撃を起こした震災なのであった。

 現代はネットというものがあり、またSNSというものもあるので、熊本在住の知人の安否は容易に分かり、いちおう皆無事であったが、それでも近況報告を読み、Uploadされた写真を見ると、そこでは信じがたいことが書かれ、とんでもない光景が載っていた。

 震災の規模は大きく、また範囲も広大なことから、復旧、復興には長期間がかかるのは間違いなかろう。


 話は戻り、それにしても、阿蘇大橋の所の山崩壊はほんとに痛い。
 阿蘇大橋のあった立野は、阿蘇の外輪山の唯一の切れ目であり、阿蘇の玄関みたいなところである。それが、よくもまあピンポイントで、この交通の要所に山崩れが起きたものだ。なんと不運なことか。
 そして、まずは山崩れところを通っている、九州横断の軸である、国道57号線とJR豊肥線を復旧させねばならないわけだが、山一つが崩れているのだから、どうやって復旧させてよいのか見当もつかないし、たいへんな難工事が要されるのはまちがいない。


 しかし、いかに難しかろうが、時間がかかろうが、復旧はなされねばならないし、またなされるであろう。
 この天災の多い国土に住み続けていた我々には、それを克服してきた、技術と胆力があるわけだから。


 阿蘇大橋は、1ヶ月ほど前に自転車旅行で渡った。
 まさか、それが渡り納めになるとは夢にも思わなかったわけであるが、いつかまたこの黒川の渓谷に新たなる大橋がかけられる日が来て、そしてそこを自転車で渡ってみたい。

【阿蘇大橋@3月13日平成28年】
Asoohashi


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January 07, 2015

「私はシャルリではない」:一人の日本人がシャルリエドブ社テロ事件について感じこと

Je_suis

 1月7日に、フランスのシャルリ週刊誌社をテロリストが襲撃する事件があり、12人の社員が殺害された。この悲劇に対して、多くのフランス人が追悼の意を捧げ、パリでは表現の自由を守るための大規模なデモが行われた。
 私も、この勇敢な記者たちの死にたいして、哀しみと同情の念を持った。…最初のうちは。

 しかしいったん彼らの風刺漫画を見て、一気にその同情の念が失われてしまった。

 これはひどい。ひどすぎる。

 私は風刺というものは、高度な知性と批評精神から成り立っているものと思っていた。しかしこの風刺画にはそのようなものは一かけらもなかった。
 そこには、イスラム教徒に対する侮辱と憎悪しか感じることは出来なかった。

 イスラム教徒が開祖ムハンマドを何よりも崇敬しているのは、世界的常識である。そのムハンマドを貶める、この下品でインモラルな漫画を見て、イスラム教徒でもない私が不快感を感じるくらいだから、敬虔なムスリムの多くは激しい憤りを感じただろう。
 基本的にはムスリムは穏健な人が大部分で、その憤りを行為にするこはなかったであろう。しかしフランス語を読めるムスリムは何億人もいるのだから、そのうちの僅かな者が殺意を覚えてもまったく不思議ではない。
 ペンの暴力に対して、その手段を持たぬものが、剣を用いたのは自然なこととさえ覚えてしまう。

 もちろん私はテロ行為は絶対に許されるべきでないと確信している。しかしこれほどの侮辱に対して、暴力が行われたことについては、理解はできる。
 (繰り返して言うが、どんな理由があっても、テロは絶対的に許されないと私は思っている。)

 今度の事件を機会に、人々は表現の自由が大事だと主張した。
 もちろん表現の自由はとても大事である。しかし、表現というものは、それが発信されたなら、必ず人に影響を与えるものであるから、その自由は決して無制限なものではありえない。それはあくまでも、節度と良識に基づいてなされるべきである。

 文明人は、人に自分の考えを広く伝える手段を持っている。
 そして、文明人である以上は、節度と良識に基づき、その意見を発信するべきだと思う。そうでなければ、その発信された意見は、容易に暴力に化すことができる。それこそ今回の事件と同様に。

 フランスのデモでは、「私はシャルリだ」とのプラカードを掲げる多数の人がいた。しかし、彼らが求める無制限の自由は、また新たなる争いを産むのではないのか?
 その光景をながめ、一日本人の私としては、「私はシャルリではない」とつぶやくしかなかった。


 そして、シャルリーエブドとは比べ物にならない小さなブログの書き手の私であるが、他山の石として、自戒に努めたいと心底思った。

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Je ne suis pas Charlie : La pensée de un Japonais au attentat contre Charlie Hebdo.

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 Le 7 Janvier 2 terroristes ont attaqué au bureau du journal Charlie. Et 12 personnes ont été tués. C’était une tragédie choquante. Beaucoup de français se sont sentis tristes, et ils ont tenu la démonstration pour faire appel à la ≪Liberté de l’expression≫ à Paris.
 Je me suis aussi senti une émotion de triste et compassion, …au début.
 Cependant une fois que j’ai vu des bandles dessinées qu’ils disaient ce sont la ≪Satire≫, J’ai aussitôt perdu cette émotion.

 Les BDs. Ce sont terrible. Trop terrible !

 Je pensais la ≪Satire≫ est formé par l’intelligence supérieure et l’esprit de critique. Mais il n y a pas un morceau des celles dans les BDs. Je ne me suis rien senti que l’insulte et l’haine pour musulmen dans les BDs.

 C’est sens commun que musulmen prieux respecte le plus Mohammed qui est un chef religieux. Et ces BDs que sont vulgaires et immmorals l’a insulté trés impoliment. Comme je – je suis japonais et n’est pas musulmen – me suis senti désagréable , beaucoup de musulmens semblent avoir en colère sérieusement.
 Généralement plupart des musulments sont doux, ils n’ont pas fait changer cette colère pour un action. Mais il y a plusieurs cent millions musulmens qui lisent le français dans le monde. Il est naturel que peu de gens décide de avoir recours à la violence.
 Contre la violence de plume, on qui n’a pas ce moyen doit penser que one utiliser l’épée.

 Evidemment je suis convaincru que terrorisme n’est jamais permis, absolument!
 Mais je peux comprendre l’émotion que ils ont fait cette violense.
 (Je me répéte que tous terrolismes ne sont jamais permis malgré que il y a toute raison)

 Concernant cette affaire, on réclame la liberté de l’expression.
 Bien sûr celle est trés important. Mais celle n’est pas illimité.
 L’exprssion doit influencer sur le monde. Donc cette libeté doit être fait avec le modération et le bon sens.
 Si l’expression perd ceux, celle seviendra exessive. L’expression exessive cause une querelle, et enfin celle enlevera la liberté de l’expression soi-même.

 L’homme civilisé a le moyen de répondre son avis. Et il faut avoir la modération et le bon sens pour répondre.
 Sinon l’expression deviendra facilement la violence de mot. Et celle invitera nouvelle violence comme cette affaire.

 En démostration beaucoup de français marchaient en ayant un placard ecrit ≪Je suis Charlie ≫.
 Mais je –un japonais- n’a pas pu le consentir.
 Je préviens si cette situation continue, l’affaire pareille arrivera. J’ai du penser ≪Je ne suis pa Charlie≫.

 Je suis un écrivain de ce petit blog que ne être pas comparé à ≪Charlie Hebdo≫. Mais je dois apprendre le bon sens plus car j’ai su cette affaire.

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