読書

November 10, 2009

読書:ヒルクライマー 高千穂遥(著)

 主人公は不摂生が災いしてメタボに悩む中年男であり、あるとき郷里で行われていた白馬栂池自転車ヒルクライムレースを見て、あれはメタボ対策になると思い自転車を購入して、サイクリングを始めた。するとたちまち自転車の魅力にはまってしまい、今までの不摂生な生活を捨てたのはよいとして、家族サービスもいっさい止め、仕事以外の生活の全てを自転車に捧げてしまうまでに熱中する。食事も、運動も、睡眠も、体格改造も、全ては、より速くより強く走るためのものになる。
 この手の「はまってしまった」人は存外多いもので、主人公がレース出場のために参入した自転車クラブでは、同じような自転車バカばかりであり、他人には異常としか思えない生活が、彼らにとっては当たり前のものとなっている。

 主人公は節制と努力の賜物で、みなから一目おかれる立派なヒルクライマーに成長する。しかし、その代償に家庭生活を切り捨てたことから、可愛がっていた一人娘からは離反され、口もきいてくれないまでに嫌われる。そりゃある日娘から「自転車と私とどちらが大事なの」みたいなことを言われ、「…察してくれ」というふうに答えるくらいだから、嫌われるのは当たり前に決まっているのだが。

 一般に結婚をして家庭を持っている社会人にとっては、最も大事なものは家族のはずである。
 その家族を失ってまではまってしまう「自転車」というものの素晴らしき魅力をこの小説は存分に伝えてくれる、…というわけもなく、普通人からすりゃどう読んでも、「プロでもないのに、そこまでやるなよ」との感想を持ちますな。

 小説は、娘がたまたまヒルクライマーの若い男とつきあうことになり、そのことから「自転車に憑かれた人」の存在を、理解はしないまでも、実在することを納得せざるを得なくなり、父と和解するところで、感動的(?)に幕となる。

 著者の高千穂遥はディープな自転車愛好家として知られており、小説中の主人公は、著者の等身大の人物なのであろう。そしておそらくは作中に示されるように、著者は家庭生活をずいぶんと犠牲にしたものと思われる。作中の自転車乗りの妙な自己弁護からするに、著者はこの作品を家族への贖罪のために書いたようにも邪推してしまうなあ。


 ところで男というのは、「はまって」しまいやすい種族のようであり、自転車はともかくとして、スキー、ゴルフ、ロッククライミング、カヌー、マラソン等々、はまってしまった人は多く、その実物例を何人も私は知っている。
 小説「ヒルライマー」の主人公はまだ定職を持っているからましなほうで、私の知っているスキー愛好家たちは、夏と秋は非常勤でバイト生活で金をため、冬から春へのオンシーズン中はゲレンデにこもってひたすらスキーに明け暮れる。そしてそういう人はスキー界ではまったく珍しくない存在だ。彼らの生活はうらやましいようであり、うらやましくないようでもある。

 なんにせよ、「はまることなく」人生を過ごした自分は、幸運であったのか、不運であったのか。いろいろ考えさせられる小説ではあった。

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ヒルクライマー 高千穂遥(著)

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November 04, 2009

読書:オイアウエ漂流記 荻原浩 著 

 この小説、2年ほど前に週刊新潮に連載されており毎週楽しみにしていたのだけど、話がそろそろ佳境に入ってあたりで唐突に終了となり、ひょっとして打ち切り?とか思っていたが、その週刊誌の発行元の新潮社にて大幅に改稿加筆を行っての発刊である。打ち切りじゃなかったみたい。

 ポリネシア諸島に観光地開発の下見に行ったリゾート開発会社の社員一行4名、スポンサー企業の御曹司1名、新婚旅行中の夫婦2名、あやしい外人1名、戦没者祈祷の旅の祖父・孫の2名の計10名が、悪天候による小型飛行機の墜落で小さな無人島に漂着する。外界との連絡手段もなく、救助の手はいつまでたっても差し伸べられず、彼らは孤島でサバイバル生活を送らざるを得なくなる。

 幸いなことに南の島なので、生きるのに必要なものは努力をすればなんとか得られる。どころか海や山に入れば、美味そうなものが次々に見つかり、ココナッツ、ミニリンゴ、マンゴー、キノコ、ヤシガニ、オオコウモリ、熱帯魚、貝、等々。
 とはいえ、それらを得て生活していくにはそれなりに技がいるのであり、遭難した者のなかに、木登りの達人、ココナッツ割の達人、火を起こす達人、など意外な能力を持つものがいることが判明し、かれらの力によりサバイバル生活は円滑にまわっていく。

 無人島での生活は、以前の文明社会での人間関係が成り立たなくなり、島に適した実力によって人間関係が再構築されそうなもので、当然そういう諍いが少々生じるが、しかし元の人間関係がなんとはなしに継続されていくのが、日本人社会のゆるいところか。

 捜索もまともにはされていないようで、孤立したサバイバル生活は半年以上続く。人々もその生活に慣れてきたころ、唐突に救出劇が始まり、あっという間に小説は幕となる。
 なんだか中途半端な終わり方で、これでは週刊誌に連載していたときと同様、欲求不満の残る終わり方だな。
まあ、ヴォリュームが大幅に増えたぶんだけ、読み応えはUPしていたけど。

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オイアウエ漂流記 

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October 12, 2009

読書:利休にたずねよ 山本兼一著

 骨董集めと女遊びにうつつをぬかし、家業が傾くまで蕩尽をつくした、魚屋の道楽息子が、いかにして美の世界を極めつくした巨人に変貌していったか、その謎をミステリ仕立ての形式で描いた小説。

 本書は、利休が秀吉から死を命じられ、それが実行される日の描写から始まり、それから一章ごとに時をさかのぼっていくことにより、ベールを一枚ずつはぐようにして、利休の茶の精神の「芯」を明らかにしていく。
 まず著者は利休の茶会を描き、そこで茶の本質というものを説明している。茶の本質は、もてなしの精神の発露であり、優れた茶の場とは、すなわち優れたもてなしの場である。利休の茶会はたしかに、もてなしの心に満ち、客はくつろぎ、やすらぎ、愉しむ。…そして利休のつくる茶懐石の料理って、ほんとに美味そうだなあ。

 さて、利休のそのもてなしの精神の大元になるものは、ネタバレすれば、利休の若いころの絶望的にまでに狂おしい恋であった。利休には死別してしまった永遠の恋人ともいえる存在があり、利休はずっとその恋人をもてなすことを考え、最良の、最高のもてなしを行いたく、自らを向上させていった。その結果、美学の極致とでもいうべき茶道を完成したというのが、ミステリの解答となる。

 …こういうフロイド的解釈は、さすがにさんざんに使われ、すでに手あかにまみれてしまった小説技法ゆえ、説得力はまるでないのだが、著者の文章の力は卓越したものなので、ついついそれで納得してしまう。

 茶というものを蘊蓄合戦くらいに思っていた人(←おれだ)などには、茶の世界が、広くて深く、また愉快なものであることを知らせてくれ、目からウロコの体験ができる、そういう良書である。

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利休にたずねよ

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October 07, 2009

読書:ナガサキ 消えたもう一つの原爆ドーム 高瀬毅 著

【浦上天主堂廃墟】
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 長崎の浦上は日本でも珍しいまでに幾度もの艱難におそわれた地である。
 長崎の港近き地ゆえ宣教師の訪れとともにこの地域ではキリスト教に帰依する者が多かったが、江戸時代の禁教令により彼らは迫害を受け、幾人もの殉教者を出した。それでも彼らは信仰を捨てずに隠れキリシタンとなって長い年月信仰を守っていた。明治維新とともに開国となり、浦上に外国の司祭が滞在し天主堂を建てたとき、隠れキリシタン達が訪れ、自分たちがキリスト教信者であることを告白した。しかし明治政府は幕府同様にキリスト教信仰を許すことはなく、彼らは囚われ、棄教を強いられ、それに従わないものは牢につながれ殺されていった。諸外国の抗議により明治政府がキリスト教を許可するまでその迫害は続けられた。
 浦上は、我が国のキリスト教の受難の象徴的な地であった。

 その浦上に、昭和20年8月9日、よりによってキリスト教者の国であるアメリカの原子爆弾が頭上で炸裂し、7万人を超える死者を出し、街の建物は破壊された。浦上天主堂も崩壊し、その時ミサを行っていた司教および信者たちも全員死亡した。
 かくも悲惨な迫害をいくども繰り返された浦上は、磔刑に処せられた街のように思える。

 戦争が終わり、街の復旧が進んでいくなか、原爆投下の惨劇を直に伝える天主堂廃墟は、貴重な原爆遺構として、保存が希望され、長崎市議会も保存を決議した。長崎市長も保存の意思を表明していたのであるが、なぜか急にその意を翻し、撤去の方針を打ち出し、1958年に天主堂廃墟を撤去し、そこに新しい教会を建てた。
 今に残されていたなら、広島の原爆ドームに並ぶ、人類の愚行を記念する貴重なモニュメントと成り得た天主堂廃墟は永遠に失われることとなった。

 本書は浦上の歴史、天主堂の歴史、長崎での被爆者達の思いなどを語ったのち、天主堂廃墟の撤去を決めた長崎市長の変節の理由を、当時の資料を集め、解明を企てている。
 変節の理由として、著者は市長が、アメリカの都市に招かれて(当時は国外に出るのは費用的に大変なことであった)、その後意見が180度変わったことから、アメリカの要請があったものとしている。たしかに、キリスト教者により建国されたアメリカという国にとっては、広島の原爆ドームはいざしらず、原爆に焼かれた教会の廃墟は、残されては迷惑なものではあったであろう。
 …著者の追及は、相当の過去の出来事を扱っていることもあって、隔靴掻痒の感はあり、じつのところ真の理由は闇の中なのではあるが、現実として、アメリカ訪問を終えたのち、市長は保存の方針を撤回し、ただちに廃墟撤去を決定し、貴重な遺構である浦上天主堂遺構はこの地から消えてしまった。
 著者の怒りと嘆きは当然のものに思われ、読んでいるこちらも同様の念を持たざるをえない。

【浦上天主堂廃墟のかわりにこのようなものが設置された】
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 浦上教会は原爆資料保存会側から遺跡を残して、新しい協会は現在の平和公園のある地に建てなおすことを勧められた。しかし結局遺跡は撤去され、かわりに平和公園には原爆投下の記録として「平和祈念像」が設置された。

 私はこの像をはじめて見たときに、不快感とまではいかないにしても、それに近い違和感を感じざるを得なかった。日本の歴史上どこにも存在しなかった形式の像であり、どうみても白人男性をモデルにした、ポーズも表情も力の誇示しか示していないような、この像のなにが平和祈念像なんだろう?

 それがこの書を読んで私の違和感の理由が私なりに解けた。
 大戦後、長崎の被爆者たちの思いには、半ばやけくそのような、原爆恩寵論が実在していたらしい。
 すなわち「原爆が我々の上に落ちたのは、我々が戦争という大罪をおかしたため、神が我々を生贄の羊として選び、罰したのだ。原爆は平和をもたらすための神の摂理であった」てな、今となっては寝言にしか思えない論である。(でも以前の長崎市長も似たようなことを言っていたので、信じがたいことだが、まだ長崎には残っている思想なのかもしれない)

 この論から敷衍すれば、あの奇怪な平和祈念像がよく理解できる。
 あの平和祈念像こそ、「神の摂理」であり、「原爆そのもの」であると。
 平和祈念像の、いやらしいまでの力の誇示、arroganceとしかいいようのない表情。「平和」とはまったく異なる像全体の表現は、しかしあれが「原爆」と考えると、まったく矛盾なく理解できる。あの像から感じる第一の印象「力の誇示」は、まさに「原爆」の本質であるから。
 平和とは「力」によってもたらされるもの、という論は、一面の真理であることは否定しない。しかし、長崎の平和公園に、平和をもたらした神として「原爆」を祭るのは、それがアメリカのやったことなら(腹は立つだろうけど)理解できぬこともないが、何万人もの無辜の民間人を虐殺された日本人が、その虐殺の道具を神として祭るのは、どう考えてもおかしいよ。


 原爆投下の象徴としての浦上天主堂廃墟が失われてしまったことを、著者同様に、私も深く惜しむ。


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ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」

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August 26, 2009

読書:自治体クライシス 伯野卓彦 著 

 最近自治体が再建団体に指定される危機に陥っているという記事をよく見るけど、その危機の原因は2007年6月に実行された「自治体財政健全化法」にある。
 地方自治体は今までは自治体が経営する病院や、第3セクターの赤字や借金を会計には載せなくてよかったのだが、それが法律実施後より会計に計上しなければならないことになり、今まで隠していた借金がどっと明るみに出てきてしまった。借金の比率の高い自治体は、民間で破産にあたる再建団体への指定がなされて、夕張市のような悲惨な状況に陥ってしまう。
 法律実施後より、借金まみれの自治体がたくさん出てきて、どの自治体も再建団体指定を逃れるべく必死の努力をしている。

 本書では、いかにして自治体が借金まみれになってしまったかをレポートしている。

 ここでは、財政破綻を来たしている自治体がいくつも紹介されており、最も多くの頁を費やして書かれているのが、青森県の大鰐町。スキー場しか観光名所のない寒村が、バブル時代の波にあおられ、巨大で豪華なレジャー施設、宿泊施設を建て、バブル崩壊とともにそれらの施設のほとんどが廃墟となり、残ったのは50年かけても払い終えそうにない膨大なる借金のみという惨状に見舞われる。町民にとって悪夢以外のなにものでもない物語は、じつは当時の日本中あらゆるところで起きていたことが、本書で書かれている。

 大鰐温泉スキー場、私は6年ほど前に一度行ったことがあるけど、コースの変化に富んでいて、しかも人が少なくて滑りやすいいいスキー場だと思った。いいスキー場ではあるが、交通の便が悪いので、2度行く気は起きず、その後訪れたことはない。九州在住の普通のスキー愛好者は、飛行機使うなら北海道か長野に行くに決まっている。あの位置では、全国から年間50万人集めるという計画は、白日夢にしか思えない。もっともバブルの時期は、そんな計画でどんどん巨大テーマパークが建てられた異常な時代であったのだ。

 バブル時代は、みなが王侯貴族のような生活が出来るであろうと本気で思い、そしてそれを実行してしまった時代であった。今はバブルがはじけ、人は反省をし、身のたけにあった生活をするように本道に帰ろうとしている時代とはなったけど、反省したからといって、作ってしまった借金が消えるわけもなく、あの時代の負の遺産に今も多くの自治体が苦しめられている。

 とはいえ、バブル時代の建築物については精算がそれなりには終わり、各自治体は爪の火を灯すような倹約生活をしながら借金を返す日々を送ることで、結末はついている。  しかしながら、借金を生み出す大物が現在進行中でまだ残っている。
 著者が最後の章で示しているのが、自治体病院の赤字の話だ。自治体病院の多くは赤字であり、それが自治体の財政を苦しめている。

 住民の健康保全は自治体の大事な仕事なので、自治体は公的病院を所有していることが多い。ところで、現在の医療制度では、救急・産科・小児科という分野は必ず赤字になる。しかし儲からない分野だからといって、それを住民の健康を守るためには、公的病院はそれらを放棄することはできず、結果、公的病院は必然的に赤字になり、病院維持のため自治体はそれに補助金をつぎこむ。それが苦しい自治体の財政をさらに苦しめ、町がつぶれるか、病院をつぶすかのところに追い詰められていることが多い。

 病院がいまは自治体にとって、お荷物であり、金を吸い取る怪物になってしまっている。

 霞ヶ関の考えでは、人が不相応なものを望み、つくり、そして失敗したバブルというもので、最後に残ったバブルが公的病院というわけらしい。「いつでも診てくれて、現代の標準レベルの専門的医療がどこでも受けられる」と思っていた病院は、じつは貧乏自治体の住民にとっては、贅沢きわまりない存在であって、それこそバブルそのものであり、もはやそんなものを持てる力を日本の自治体はどこも有していない、と中央政府は結論つけている。

 宮崎でも病院崩壊の記事が毎日のように新聞に載っているけれど、バブルの終焉ということで仕方のないことみたいだ。バブル時代のあの遊興がもうないように、病院が高度に機能していた時代も過去のものになろうとしている。
 本書を読むと、これからは、日本に住むにあたり、私たちは身のたけにあった医療を受け入れねばならない時代となったことがよく理解できる。

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自治体クライシス 伯野卓彦 著 講談社

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August 05, 2009

読書: K2 苦難の道程 出利葉義次 著

 東海大学は山岳部創設50年の記念としてヒマラヤ登山を計画する。
 東海大学山岳部は8000mを超える山を経験したことがなかったので、目標とする山をK2とした。K2は標高8611m、エベレストに次いで世界で2番目に高い山であるが、難易度はエベレストよりも格段に高く、世界一登頂が難しい山とされる。
 なぜそのような山を8000m級の山の経験がない東海大学隊が選んだかというと、「登山は安全が第一なのはもちろんだが、8000mを超える山はどれだって危険だ。ならば一番危険な山を選んだほうが、かえって緊張感が保たれ、油断も生じないであろうから、安全性が高くなる」という、わかったようなわからないような理論により隊長が決断したからだ。

 途中は省くとして、登山隊は総力をかけてアタックキャンプ設営に成功し、選抜された3名による登山隊が登頂にトライすることになった。ベテラン1名と若者2名(学生1名と卒業して間もない女性1名)からなるアタック隊は順調に高度を稼いでいったが、最も頼りとなるベテランが急病のため下山を余儀なくされる。ここで残った2名は登頂の続行を無線で隊長に懇願する。経験少なき若者を、世界で最も厳しい山の頂へ向かわせるべきか、どうか。隊長は、Go signを決断する。
 2名はアタックキャンプから14時間をかけ、苦闘のすえK2登頂に成功する。しかし下山は登り以上に困難を極めた。疲労はつのり、酸素もなくなった状態で8200mの高さで夜に決死の露営を行う。幸運なことに天候が崩れなかったおかげで、彼らは過酷な露営をのりきり、なんとかアタックキャンプにたどりついた。この間、無線連絡はとだえ、アタック隊の生還の可能性がどんどん少なくなっていく。その時間を、全責任者である隊長は、生きた心地もせず過ごすことになる。
 生存と再出発の知らせが無線で届いたときの登山隊の歓喜は、だからより感動的に迫って来る。

 K2サミッターは登山者の最大級の勲章であり、K2に登った者はそれだけで一目置かれる存在となる。無事ベースキャンプにたどりついた若者2名は、いずれも出身地で表彰されている。

 というふうな東海大学隊の登山記録なのであるが、…この本を読んであらためて山野井泰史氏の偉大さが分ってしまった。

 山野井氏は、東海大と同じルートで彼らの2年前にK2登頂に成功している。元々山野井氏は、ポーランド人のクライマーとともにK2の巨大な壁をロッククライミングで登ってから登頂するつもりだったのだが、天候が悪いためクライマー氏はやる気をなくして帰国してしまった。残された山野井氏は、それじゃ一人でK2に登るかと、山稜伝いで登るルートで、単独・無酸素で登頂している。しかもベースキャンプから48時間という早さで。山野井氏の著作では、氏はあまりに淡々と、あっけなくK2に登頂しているので、私はK2もそんなにたいした山じゃないんだなあとか思ったが、もちろんそんなはずは全くなかったのが、東海大の本を読んでわかりました。
 山野井氏はやはり別格の怪物だよなあ。世界最強かどうかはともかくとして、日本最強のクライマーであることは間違いない。

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K2 苦難の道程

参考 山野井泰史著 垂直の記憶

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August 03, 2009

読書: 歓喜する円空 梅原猛著 新潮社

 梅原猛氏の著作は30年来愛読させていただいている。
 梅原氏の考古学ものは、聖徳太子ものにしろ柿本人麿ものにしろ、どれもこれも強引な論理思考で自説を構築していく、トンデモ本すれすれのものばかりのものばかりだけど、膨大な取材と研究をベースに、いずれも独自の迫力でぐいぐいと攻めてくる、妙に説得力を感じるものであり、読み終わるころには、ついつい梅原氏の斬新な新説を信じたくなってしまう。

 今回の本は、江戸時代の僧侶円空をテーマにしたもの。
 12万体の仏像の造顕を請願し、数多くの個性強き円空仏を創作した、巨人的仏師円空の生涯を、彼の残した仏像の地図と写真を豊富に用い解説している。

 円空は異形の仏像を創作した芸術家のイメージが強いが、梅原氏は、仏像に加え、円空の残した和歌や絵画を検討してから、実は円空が大宗教家であり、大思想家であるということを力説している。

 円空が「発見」されたのは、昭和30年代に劇作家飯沢匡氏が円空をモデルとしたドラマを作成し、それがヒットした時らしい。 今までは知る人ぞ知るというマイナー仏師であった円空がこの全国放送にのったドラマにより日本中に有名となり、それ以後円空は仏像に興味持つ人を魅了する存在の座を保っている。

 飯沢氏は、江戸時代という仏教の停滞時のなか作られる仏像は標準的意匠のものばかりだったのに、円空が独創性あふれる仏像を造りえた理由は、「円空は乞食坊主であり、仏教の素養はなかった。円空は出身が木地師(木工品製造の職人)であったため、木の扱いに慣れた職人であり、無学と技術があわさり、あのような仏像を造ることができたのだ」と論じた。
 円空の初期の仏像を見ると、仏教を、そして仏像の伝統的技法を円空がいかに熟知していたかは、驢馬でも駄馬でも分かるので、この説は無茶苦茶なのであるが、世は声の大きい人の意見が勝つことがままある。飯沢氏は、その説は無茶ですよという在野の研究家の反論を、お前らみたいな者に何が分かるかと、反論が出るたび、力いっぱいにそれを否定し、そのうち反論者もその過激な姿勢に恐れをなし、声をあげることもなくなり、円空=乞食坊主・木工職人という説がそれなりに正当性を持つことになってしまった。
 飯沢氏は熱い人であり、自分の説の正当性を主張するときは全力投球であったらしい。

 梅原氏も熱い人であり、この本で、飯沢氏の円空=木地師論を徹底的に批判し、否定している。
 だいたい、円空=乞食坊主論は、円空が自分を乞食坊主と称したことから飯沢氏は円空は乞食をしていた坊主と貶しているわけだが、乞食とは仏教の大事な修行であり、釈迦如来も自らを乞食と称していたわけで、これは円空の卑下でもなんでもない。飯沢氏には、仏教に対する基礎的教養がなかった。そういう人が円空について語るのは問題があるし、そして円空=木地師論にしても、円空が木地師をやっていた記録はまったくない。思いつきのみで、ものを言っては困る。
 てなことを、火を吹くような激しさで語っている。私が思うに、梅原氏も思いつきでものを言うような人であるので、それゆえかえってそういう人の意見に対する攻撃は激しいものを感じる。

 本書の、第二章「円空はこれまでいかに語られて来たか」は、このような円空の本邦での認識論が語られており、たいへん面白い。ここを読むだけでも、本書を買う価値はあるな。


 さて、本書のキモは仏像のみで語られがちであった円空の業績を、遺された和歌とか絵画をともに検討し、その結果、円空が偉大な宗教家であり思想家であったと論じているところである。
 その遺された和歌、…この書で初めて知ったけど、たしかに心をうつものが多く、円空の「心の広さ」を知ることができたが、まあそれでも、稚拙さは否定しがたいのではなかろうか。
 私は本書で、円空の宗教家あるいは思想家としての偉大さを確かに知ったけど、それは年代ごとに丁寧に整理された仏像の写真からである。
 円空は旅を続けた人であるが、明らかに北海道の旅から、彫琢する仏像が格段に深化している。北海道で見続けた人の不幸・苦難というものが、円空の仏教的思想に何らかの影響を与えたことは間違いなく、それ以後の円空の彫る仏像は、ベタな言い方になるが、円空の魂が木のなかからえぐられて出てきたような、そういう生々しさを感じる。

 円空の仏教的思想は、和歌とか絵画とか著作でなく、自らが彫る仏像として結実するタイプのものであり、それゆえ、円空は自分の思想をより深めるためにも、一心不乱に仏像を彫り続けたのであろう。そして、その企ての確かさは、今残された仏像が如実に語っている。

 とりあえず、文庫本のわりには多量に載っている、円空仏の写真を見るだけでも十分に楽しめる本である。

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歓喜する円空

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July 06, 2009

読書:贖罪 湊かなえ(著)

 小学生の一人娘を殺された母親が、そのときに子供と一緒に遊んでいて、犯人を目撃したにもかかわらず犯人の似顔絵さえ作成できない友達四人に、「犯人がつかまらないのはあんたらのせいだ。あんた達を絶対に許さない。私に贖罪をしなさい。それが出来ないなら私があんた達に必ず復讐してやる」と逆恨みの呪いの言葉をかけ、その贖罪意識を背負って生きていかざるをえなかった四人の女性が、それぞれの人生を物語っていく形式の小説。

 語り手たちがそれぞれ背負う罪の意識は、かれらの人生を、その罪の意識に応じたものにねじ曲げていくわけだが、ねじ曲がった先はすべて悪い方向へ、破局へと向かっていってしまう。
 著者のデビュー作「告白」出てくる人物は、誰もが自分のことしか考えていない、非人間的で冷酷な者ばかりであったので、この小説でもそうかと思いきや、それほど人の道を外した者は出てこず、かえって自省というものを行うことのできる一般人を語り手として話が進むので、どうにも読んでて違和感を感じてしまう。

 女性たちの人生の破局は、逆恨み女の呪詛のせいであるが、小説が進むにつれ、子供が殺されたのが、逆恨み女に原因の全てがあることが判明し、それを知った逆恨み女が贖罪を行っていくところで、小説は終わりとなる。

 全体は暗いが、結末は妙に明るく、後味がよい。
 …湊かなえに期待する小説は、もっともっと暗く、後味の悪いものであるはずであり、こんなのは湊かなえの小説じゃねえよ、とか思ったのは私だけではないはず。

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 湊かなえ 贖罪

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June 09, 2009

読書:少年少女飛行倶楽部 加納朋子 著

 近頃は1~2年に一冊発刊程度の寡作ペースとなっているミステリ作家加納朋子氏の新刊。
 「飛行倶楽部」なる、ピーター・パンのごとく自力で空を飛ぶことを唯一の目標とした、中学校の文化クラブに入部するハメになった快活な女の子が、そこでいろいろな変人たちに出会い、種々の妙な出来事に遭遇する青春物語。

 まず「飛行倶楽部」部長の変人ぶりがよい。
 部員の数が足らず廃部の危機にあるクラブに部員を集めるため、高層マンションから飛び降りた過去があり、自殺未遂の噂のある生徒の家を訪ねて、応対に出た母親に「あなたの娘さんのような人こそわがクラブにふさわしい」と入部の勧誘を行う。その突き抜けた傍若無人さ、いいですねえ。

 飛ぶことに実際には興味を持たない、部長以外の部員は、それぞれに変であり、それぞれが起こす妙なエピソードが語られながら物語が進むうち、いつのまにか部員たちは「自力で空を飛ぶ」ことに協力しあい、やがて彼らは空を飛ぶ。飛んだついでに、ささやかな冒険も達成して、みなが満足感を味わううち物語は幕となる。

 爽やかで、でもどこか哀しい、青春の一コマを切り取った物語。
 読み終わったあとの、清々しさは、著者特有のものだな。

 加納朋子氏の作品には、いい人しか出てこない。
 悪く見える人も、じつはそれなりに理由があって悪く見えているだけで、その人間の芯は善良である。デビュー作以来、一貫してそのスタイルは変わらない。たぶん、著者がとてもいい人なんだろう、そう思う。

 ところで、この作品での「知的能力が高く美しいけど、病弱な姉。その姉を一所懸命に支える弟。それを見守る、狂言回し役の活発な少女」という配役設定は、処女作「ななつのこ」とおんなじである。あのとき語れなかった、あるいは語り足りなかったものを、この作で表現したかったのだろうか。もしそうなら、成功していると思う。病弱な姉が常にまとう、かすかな死のにおい。その死のにおいが、若者たちの生をかえって輝かせているわけだが、この微妙な描写は、著者の熟練した腕で初めて可能になったものだから。


少年少女飛行倶楽部  文芸春秋 刊

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April 06, 2009

読書:テンペスト 池上永一 著

 昨年出版され、世評高くずいぶんと売れている本とのことである。幕末期の琉球の歴史が書かれているとのことで、幕末史好きなことから読んでみることにした。

 冒頭は、琉球国の空を龍の群れが暴れまくって嵐を呼び、その嵐のなか琉球の運命を託されることになる、神の子が生まれるというシーン。ファンタジーかと思いきや、それに続く、琉球の中国流の官吏登用試験についてはずいぶんと詳細に現実的に述べられ、どうにもしっくりこない。主人公は、13歳にて儒教の教科書すべてを暗記し、さらには漢語・英語・ドイツ語・日本語も完璧に語ることができる超秀才であり、官吏登用試験に容易に受かる力を持つが、あいにく女性だったのであり、男尊女卑の世の中では試験を受けることができない。そのため宦官ということで性をごまかして、めでたく試験に合格し、官吏になる。彼女は極めて有能であるため、王の覚えもめでたく、出世を続けることになるが、あるとき大蛇に化けて大奥を襲う、清国の化け物大使と対決することになり、彼を殺したことから、殺人の罪で島流しとなる。宦官と称するも、成長した彼女はじつは絶世の美女であり、島で踊りを踊ったことから、その美貌と芸により、琉球に宦官とは別人として戻ることになる。彼女はそこで王の側室を選ぶ試験を受けるはめになり、受かってしまい側室になる… とかいう話。

 琉球王国の衰亡・滅亡を背景に、あまり魅力的でない女主人公の波乱万丈の人生が語られるわけであるが、なんというか、浅田次郎と小野不由美と菊池秀行を、それぞれ出来を悪くして、足して3で割ったような作風だなあ。
 上巻を読んだところで、読み返すこともないだろうから、下巻は立ち読みで済ませてもいいかと思ったが、二段組み427頁の本を立ち読みする気力はなく、結局買って読んでみた。
 下巻が気にはなるのだから、面白くないということはなく、どころか上下巻800頁を超える長編を飽きさせずに読ませるのだから、たいした筆力の持ち主だと思う。ところどころ(大奥の権力闘争とか)、文章があまりに幼稚なところがあり、そういうところは改善の余地はあると思うが、将来的にはもっと密度の高い、立派な長編を期待できるのでは、と思いました。

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テンペスト 池上永一 著

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March 02, 2009

読書:「透明人間の納屋」 島田荘司 著

 島田荘司の新刊と思って買ったら、2003年にジュニア向けに書いたも単行本をノベルス化したものであった。この本、読んでいて文体・内容に少々違和感を感じたが、それで納得。

 本書では、女性の失踪事件が語られる。そのメイントリックは、密室もので、それにいくつかの謎がからむ。
 (1) はめ殺しの窓しかないホテルの一室、ドア前には作業中の人がずっといて、その人たちに気づかれずにドアから出ることは不可能。しかし、その部屋から忽然と一人の女性が姿を消した。
 (2) 女性は後に遺体として、海岸から発見される。しかしその場所はホテル(海に面している)からは、潮流の関係で、遺体がそこに流れることはあり得ない場所であった。女性は人為的あるいは超自然的に動かされたようだ。
 (3) 女性が亡くなる時間に、主人公は自分の部屋の中で、この時間にいるはずのないその女性を見た。しかも女性は、なぜか半透明の姿であった。

 以上のように、それなりに魅力ある謎が盛り込まれた事件ではある。

 ミステリの本道「密室もの」は、ありとあらゆるトリックが考え出され、もう新しいトリックはないだろうと言われている。それゆえ、現代の密室ものをテーマにしたミステリは、パロディか、トンデモものになるしかないとされているが、島田御大が久々に挑んだ密室ミステリーのトリックは、…つまらんな。
 それこそ、今までに考え出されたトリックをいくつか組み合わせただけのもの。御大は、トンデモ系が得意であったはずだが、今回は平凡すぎる。
 その他の謎(2)(3)についても、解答は、ふ~んとしか言いようのないもの。

 本書では、この事件に、朝鮮半島から来た工作員の物語が副筋(こっちが本筋?)として語られる。自らを、所在なき透明人間として認識し生きるしかなかった種類の人の悲劇を書いているつもりなのであろうが、…現実的には、彼らは意味もなしに災いをもたらし、そしていまだに災いが続いている悪霊のごとき存在だったのであり、ちっとも同情する気が起きなかった。
 島田荘司の社会ものは、まったく同情できない人たちを対象に書いているものが多いけど、これもその一種なんでしょうな。

 読後感はいいものではなかったが、退屈はせずに読み通せた。
 いつもながら、作者は筆力のある人だと思う。

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読書:透明人間の納屋 島田荘司 講談社ノベルス

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February 27, 2009

読書:マリオネット・エンジン 西澤保彦 著

 西澤保彦の新刊短編集であるが、収められているのは近頃の作ばかりではなく、10年くらい前のものも含まれている。ミステリものは意識して除外されており、SFやホラーから6編選ばれている。

 最初の「シュガー・エンドレス」が、おもしろい。
 この編の主人公は甘いものが大好物で、甘いものを食べるときに、至高の幸福を感じる。
 しかし、しつけに厳しい母親は、息子が菓子や清涼飲料水などの甘いものを摂取することを許さない。母親が怖い主人公は、甘いものを渇望しつつ、それを得ることが出来ず不満の日々を送っている。
 主人公は高校中退のプータローで、忙しい母親に代わって、家庭の料理を担当している。
 ある日彼はひらめく。料理には味付けで砂糖を必要とするものがある。それなら、料理の味付けに使う砂糖を、少しずつ増やしていき、家族がその味に慣れていけば、ついには大量の砂糖を使った、すごく甘い料理を家で出すことが出来るに違いない。そうなれば、自分は正々堂々と甘いものを家庭で食べることができるではないか。なんというグッド・アイディア。
 主人公は、本人は自覚していなかったのだが、じつは料理の腕に関しては天才的なものがあり、砂糖が過剰でも、味付けのバランスを整えることにより、素晴らしく美味しい料理を次々に作り出すことが出来た。そして作中の解説にあるように、白砂糖は麻薬的魅力のある調味料なのであり、とんでもない量の白砂糖を使った料理は、主人公よりも家族の者に魅了を及ぼし、家庭にとってもう止められない官能的な料理となってしまった。そして、その結果、彼の料理は家族の健康に多大な悪影響を及ぼす。それどころか、その料理はレベルが高いことから、ワールド・ワイドな魅力を持ち、世界規模な災厄をもたらすことになる。

 以上が、だいたいのあらすじ。

 ただ甘いものを食いたいという欲望が、己の料理人としての職人魂から、いつのまにか砂糖を過剰に使った美味い料理を作りたいという欲望に昇華してしまい、それが周囲に深刻な悪影響を及ぼしてしまう。
 最初の動機のつまらなさと、それに対応する被害の甚大さの対照が印象的。
 作中述べられているように、白砂糖は過剰に取ると、じっさいに麻薬的な働きを持ってしまうそうで、小さな範囲では、現実に起きてもおかしくないホラー劇ではある。

 最初の短編の出来がよかったので、あとも期待したけど、その他の短編は、どれもこれも、ところどころいいところはあれど、全体としてはまとまりが悪く、着地がうまくいっていないものばかりな感じ。消化不良だな。
 どんな奇想天外なことを書いても着地はうまく決められる人だったんだけど、どうしたものなんでしょう。
 これは、西澤保彦の旬が過ぎたというわけでもなく、きちんとしたSFを書くには、作風が向いていないんでしょうな、と思います。

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マリオネット・エンジン 西澤保彦 著 講談社ノベルス

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February 15, 2009

読書:幕末史 半藤一利 著

 日本の歴史のなかでは、幕末が、個性豊かな人物が輩出し、資料も多く残っていることから、読んでいて最も面白く感じる。
 近頃出版された半藤一利氏の「幕末史」が評判がよいので、読んでみた。

 冒頭、著者は自らを反薩長史観の持ち主として、明治維新を偉大な改革などはなく、薩長一派の暴力革命と決め付ける。また西郷隆盛は毛沢東のような人物であり、坂本竜馬には独創的なものはない、と論じる。
 ふ~ん。
 明治維新は必要でもない無駄な血を大量に流した暴力革命であり、西郷隆盛は日本史上まれにみるマキャベリストであり、坂本竜馬の行動は師匠の勝海舟の考えに基づくもの、というのは、幕末史の研究が進んだ現代では、ごく常識的な意見となっているのではないだろうか?

 冒頭部読んだだけで、続きを読む気が失せたが、せっかく買ったので読み進める。
 全体的に漫談調の語りで書かれており、分かりやすく、読みやすい。幕末史の概要を知るには、いい入門書のような気がします。
 ただし戊辰戦争について章で、東北諸藩が薩長主体の新政府に対し、「成りあがりどもに対して、懲らしめてやる」との意思から国内戦争を決意したと書いているけど、をいをい、それはないでしょう。

 戊辰戦争(東北戦争)の開戦の流れは普通は以下のようになっている。
 京都で守護職をやって治安を守っていた松平容保が、新政府より「朝敵」に指定される。どう考えても100%朝敵であるはずはない容保が、朝敵との罪で首を切られるのは理不尽である。同情した仙台藩を盟主とする東北諸藩が容保公の助命を行うが、新政府は聞き入れない。それどころか、新政府の東北を管轄する総督府の長、世良修蔵とその一派は仙台で乱暴狼藉のかぎりを尽くし、それに切れた仙台藩が世良を処刑する。総督府のトップを殺したからにはもう引き下がれない。東北諸藩は奥羽列藩同盟を築き、新政府への戦争に踏み切る。
 要するに戦争などする気もなかった東北諸藩が、新政府の理不尽な要求と、総督府トップ以下の無礼な振る舞いによって、切れてしまい、望んでもいない戦争に巻き込まれてしまったというのが戊辰戦争でしょうに。

 このときの東北の恨みは強いものがあった。福島白石には世良修蔵の墓があり、その墓には「賊軍により命を失ってしまった云々」の文字が刻まれていたのだが、その土地の人によって賊軍の文字は削り取られている。地元の気持ちもよく分かるので、そこはいまだ修復されていない。
 歴史好きの私は、わざわざ現地まで行って、世良修蔵の墓を見てきた。たしかにその文字を削り取られた墓碑は、当地の人の無念と恨みを、しっかりと感じさせるものであった。

 話はもとに戻るが、「幕末史」は多くの個性豊かな人物が活躍し、それゆえ複雑でごちゃごちゃしている幕末史を、うまく読みやすくまとめている書であり、これから幕末史を知りたいと思う人に、勧められる本である。

 ついでながら、幕末史について今面白いのは、週間新潮で連載している野口武彦の「幕末バトルロワイヤル」です。幕末に活躍する中心人物から少し外れた人たちが多く登場し、その右往左往するさまを、観察力鋭く書いており、面白いし、教えられることが多いです。

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幕末史 半藤一利 新潮社

世良修蔵についての参考web

世良修蔵暗殺事件の周辺
世良修蔵

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February 13, 2009

書評:ローマ亡き後の地中海世界(下)

Ruins


 ローマ帝国が滅び、地中海が無法の地となり、アフリカ北部に海賊を業とする者たちが現れて地中海を荒らしまわり、地中海沿岸に住む人は恐怖の日々を迎えることになった、というのが前巻の内容であった。

 本巻では、今までは一応は非合法的存在であった海賊が、なんと合法化され、海賊組織が拡大されるという、由々しき事態が生じた時代について語られている。

 16世紀前半、オスマン帝国にスレイマン大帝という傑物が現れる。領土獲得に燃える大帝のもと、オスマン帝国はヨーロッパ東部を飲み込んでいきながら、領土を拡張し、その結果地中海沿岸は3分の2がオスマン帝国の地となる。
 当時のオスマン帝国は、ヨーロッパに対し、文化・文明ともに圧倒していたため、ヨーロッパ全土がその支配下に陥ってもおかしくはなかった。しかし、基本的に内陸国であるオスマン帝国は、強い海軍を持ってなく、正規の海軍はあきれるほど無能であり、そこがネックとなって、ヨーロッパの侵略は一定以上進まなかった。
 スレイマン大帝は海軍強化のために思いきった手をうつ。自国では優秀な海軍は組織できない。そこで海の戦いのプロである海賊の頭領を軍総司令官に招く。傭兵ではなく、公式に正規海軍のトップに据え、海軍を組織しなおしたのだ。これにより地中海の海賊は、オスマン帝国公認の存在となり、その略奪行為は加速度を増し広範囲となり、大規模になる。
 オスマン帝国の海賊海軍は、当然ながら略奪行為に加え、国家レベルでの海戦を、ヨーロッパに対して挑むことになる。これに対抗すべきヨーロッパ諸国は、合従連衡なんて言葉はなきに等しく、お互いに足の引っ張り合い、引きずりあいにばかり力をいれ、強大なオスマン帝国に対する共同戦線をはることができない。
 ヨーロッパがオスマン帝国の海軍をなんとか退けることができたのは、ひとえに、当時のヨーロッパのなかで唯一まともな戦術、戦略をもつ海軍を有するヴェネツィアという国が海戦の司令塔となっゆえである。
 ヴェネツィアという国は、他の国々が、宗教やらイデオロギーや面子やらにこだわり続けるなか、一貫して現実的思考をする国であった。国を益することに対して、生々しいまで現実的思考を行い、行動する。…だいぶ前に塩野氏の「海の都の物語」を読んだとき、泥の干潟のうえに生まれた人工国家が、欧州のなかで最も富を得、最も美しい芸術を生み出す栄光の日々を送り、やがてゆるやかに衰亡していく物語に、ロマンチックで幻想的なものを感じたが、じつはこんなに現実的な国だったことを知って、少し驚いた。というより、「海の都の物語」でもそのことは書いていたはずなんだけど、読み方が甘かったか。

 地中海の海賊は、オスマン帝国の弱体化と、産業革命に成功したヨーロッパ諸国の興隆によるアフリカの支配によって、ようやく終焉する。

 地中海世界がローマ帝国亡きあと、海賊が跋扈する地になってしまったのは、「犯罪行為は罰せられる」という、人間社会の法ルールが機能しなくなったからであった。
 ローマ帝国が地中海世界に与えたものは法秩序である。国家が国民の安全を保障し、法体系を整備し、国民に遵法精神がいきわたれば、国家はかならず繁栄する。国家の衰退は、国家が安全を保障できなくなり、国民に遵法精神が失われたときに起きる。

 そして、今なお北アフリカの地は、ローマ亡き後の世界である。

 上下巻をそろえて初めて全容が見える表紙の遺跡は、北アフリカ、リビアのレプティス・マグナである。この地中海交易の拠点地として栄華を極めたローマ時代の都市は、今は砂漠のなかの廃墟となっている。はるか昔のローマ時代はここには法秩序があり、地中海のあらゆる人が集まる繁栄の地であった。しかし、今、国家がまともに機能しないこの地では、人は訪れることも、定住することもなく、かつての大都市は砂に埋もれていくしかなかった。
 砂から掘り出された遺跡のあまりの壮大さと美しさは、国家というもの、政治というもの、法というものが、いかに人間にとって大切かを物語って余りある。

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ローマ亡き後の地中海世界(下) 塩野七生著 新潮社

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January 26, 2009

書評:ローマ亡き後の地中海世界(上) 塩野七生 著

 この本の巻末に、イタリア全土の海沿いの地に設置された「サラセンの塔」と名づけられた塔の写真が収められている。

【サラセンの塔:Vernazza】
Vernazza

 美しい紺碧の海、地中海に岬が伸び、その岬の突端に堅牢な石造りの塔が建てられている。この塔は、眼前に広がる絶景を楽しむための展望台でも、航海の安全を守る灯台でもない。地中海の対岸アフリカから船を漕いで襲来して来る海賊達を一刻も早く見つけ、逃げ出す時間を稼ぐための監視塔であった。
 ローマ帝国滅亡後の地中海は、交易や漁獲の場ではなく、海賊どもが暗躍する場と化していたのである。海賊どもは富・財産を奪うだけでなく、人間も拉致し、奴隷として売り飛ばしてしまう、恐怖の存在であった。
 中世時代、沿岸の人にとって、地中海はローマ帝国時代とまったく異なる意味を持つものとなっていた。この写真で見るあまりにも美しい紺碧の海が、中世では、自分たちに不幸をもたらす魑魅魍魎どもの跋扈する地と成り果ててしまったのである。

 ローマ帝国時代、沿岸の地が繁栄を誇った地中海世界のこの零落は、なぜ起きたのか?

 著者は様々な要因を挙げている。
 海賊しか産業のない北アフリカの貧しさ、他の宗教の信徒は敵であり人間でさえないという一神教の独善性、政治の機能不全。
 そして著者がアウグストゥス統治時代のローマ帝国の話を巻頭に持ってきていることから分かるように、最も重大な要因は、政治の機能不全であった。
 ヨーロッパの様々な国は、国という組織に最も求められる「自国民の安全確保」という仕事を行っていない。本来なら地中海を安全にする義務を負うべき、神聖ローマ帝国もビザンチン帝国も、権謀術数、税の収奪、国家間の争いには力を入れるが、肝心の自国民保護には、なんら有効な手立てをうっていない。このような、政治が機能しない国では、国民は安心して生活することなど不可能であった。

 政治が機能しなくなった中世の地中海世界で、しかし、海賊に対して、国に頼らず市民たちで人質を取り戻す運動を行ったグループがあった。国境を越えて連帯してグループを作り、武力によらず海賊の地の長と交渉し、奴隷を買い戻して故郷に返す、「救出修道会」「救出騎士団」である。
 一章を設けて述べられる、彼らの超人的、献身的活躍は、人間の強さ,崇高さをよく示していて、感動的である。もっとも彼らの運動は、「奴隷は金になる」という意識を海賊に与え、海賊行為をさらに活発化させてしまったという負の面もあった。

 上巻最後で書かれているように、地中海から海賊を駆逐できたのは、ヨーロッパの国の政治が機能するようになった19世紀半ばのことである。それまで、地中海は無法の地であったのだ。
 この本を読んで、「国」が「国」として機能することの大事さがよく理解できた。
 (もっとも、塩野氏は「ローマ人の物語」でそのことをずっと述べていたわけだが。)

 本書を読み終え、巻末の「サラセンの塔」の写真を見る。
 魔の押し寄せる海を前にする危険な土地。そんなところにしがみついて生きていくしか生きるすべのなかった人たちが住む街がある。街は岬へ続き、岬の果には、祈りを捧げるかのごとき石の塔が立っている。恐怖を包埋する広大な海に対して、それは、あまりに小さく、弱々しい存在。しかし、国家が守ってくれない人々にとっては、このようなものしか頼れるものはなかったのだ。
 サラセンの塔を見るとき、中世という時代の、暗さ、哀しさが、ひしひしと伝わってくる。

ローマ亡き後の地中海世界(上) 塩野七生著


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