読書

August 24, 2016

読書:コンビニ人間 (著)村田 沙耶香

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 月刊誌「文芸春秋」は毎月読んでいるので、年に2回発表される芥川賞作品もそのついでにだらだらと読んでいるが、今回の受賞作「コンビニ人間」は、久方ぶりにとんでもなく面白いと思った作品。たぶん川上弘美の「蛇を踏む」以来だから、かれこれ20年ぶり。

 主人公は、「変人」である。
 彼女は小学生の頃から他人と変わっていた。あるとき公園に小鳥が死んで落ちているのを見つけ母のところに持っていき「これを持ち帰って、焼き鳥にしよう」と言った。なぜなら家族はみな焼鳥が大好きだったからである。しかし母は愕然として、こんな可哀相な小鳥に対して何を言うのかと責めた。
 小学校のクラスで、授業中に男子生徒が喧嘩で殴りあいをしたとき、みんなが「止めて、止めて」と騒いだことがあった。主人公は掃除箱からスコップを持ちだし、一人の頭をぶん殴って戦意を喪失させ、残る一人にも殴りかかったところで周囲に必死に制止される。
 ある時は、ヒステリー持ちの女教師が感情の制御が効かなくなり、教壇でパニック状態になって怒りまくり、みんながおろおろしたとき、彼女は女教師に近づき、スカートとパンツを一挙におろし、そこで女教師を一瞬にして静かにさせ事態を収めた。もっともそのかわりに女教師は泣きだしたわけだが。主人公がそういう行動をとった理由は、「家でみた映画で、服を脱がされた女性がすぐに静かになったシーンがあったから」であった。
 主人公の行動は、彼女なりの体系だった論理に基づき、またその論理はそれなりに正しいのだが、周囲はまったく理解できず、彼女はしょっちゅう親とともに職員室に呼び出され、親はいつも「なんでこの子は普通のことができないんだろう」と嘆く。

 こういう人物がやがて36歳になるまでの人生を題材としたこの小説は、ミステリ系あるいは社会派の作家が書いたなら、やがて社会を震撼させるサイコパスの一代記とかになりそうだが、しかし本小説の主人公は心の優しい人物だったので、そうはならない。

 主人公は自分の論理に基づいた行動により、家族が迷惑を受け悲しむのを知り、そういうことが起きないように努力する。自分を抑え、自分の論理でなく、他人の論理で行動する、すなわち他人の真似をして生きるようにして、無用なトラブルを避けながら人生を送った。

 しかし学生時代まではそれでよいとして、やがては社会に出て自活しなければならない。彼女には、社会のなかで「自分のやりたいようにして生きる」という選択は最初からないので、「社会人」として生きるには何らかの規範が必要になる。
 ここで主人公が見つけたのがコンビニストアのバイトである。
 コンビニでは全てがマニュアル化されている。挨拶のしかた、客への対応、同遼とのつきあい、仕入れ、展示、発注などの業務全般等々。彼女はそれらを完璧に己がものものとした。彼女は思考・行動をコンビニと一体化させ、まさに「コンビニ人間」と化す。
 彼女は「コンビニ人間」となったことで、社会のなかのパーツにぴったりとはまり、それからは順調な人生を送る。そして、その生活は16年続いた。
 さすがに同じコンビニ一店でのバイト生活が16年間も続くと、周囲から奇異の目で見られてくる。何故この人は正社員にもならずにずっとバイト生活を続けているのだろう? そもそも仕事以外ではまったく他人とつきあっていないが、人間的にひどい欠陥があるのだろうか? 等々、主人公にとってはお節介でしかない周囲からの干渉が増え、彼女の「コンビニ人間」としての生活が脅かされてくる。
 その頃、コンビニに生活能力ゼロの全くの駄目男が入社し、主人公が「とりあえず男とつきあえば、社会からまともだと扱われるらしい」と思い、彼がコンビニをクビになったあと、共同生活を始めて、物語は新たな方向に展開する。


 とにかくおもしろい小説である。
 主人公の思考が相当にぶっ飛んでいるわりには、論理としては一貫していて揺るがないので、主人公の存在感がとてもしっかりしている。そしてそういった「自分が確立し過ぎている」人はどうしても社会と齟齬を来し、その社会生活は軋轢を生みがちになる。そういった人がなんとか社会に参加するには、往々にして宗教とかににすがって、そのコミュニティの一員になったりしがちだが、主人公は「コンビニ」という、現代社会の最も機能的で合理的なものを発見し、社会参加へのてがかりとすることができた。
 ただし宗教の信者とかと違って、「コンビニ人間」の存在はまだまだ世間には認知されていないので、周囲には理解されがたい。
 この小説では、「コンビニ人間」として生きて行くことに困難を感じた主人公が、それに対処するため新たな試みを行い、紆余曲折があって、やがていかなる人生を選択するに到ったかまでをきちんと書いている。


 この小説の作者村田沙耶香氏は三十七歳独身女性、大学卒業後からずっとコンビニのアルバイトをやりながら作家稼業を行っていたという。
 それで誰しもこれは自身をモデルにした小説だと思うだろうけど、文芸春秋に載っていたインタヴュー記事によると、「主人公と私はまったく違う」とのことである。ただしコンビニへの愛情は本物であり、自分はコンビニにより救われたとまで言い切る。
 現代社会では不可欠の存在となっているコンビニ。物流以外でも、それは精神社会にも影響を及ぼしている。その目でコンビニを見直すと、いろいろとまた違うものが見えてきそうだ。

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 村田沙耶香著 コンビニ人間

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December 26, 2014

読書:その女アレックス

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 「このミステリーがすごい2014」の海外トップ作品。どの書評も好評であるし、帯の「あなたの予想は全て裏切られる」とのアオリもあり、頭の体操のために読んでみることにした。

 冒頭、主人公アレックスは突然見知らぬ男に誘拐され、檻に監禁される。飢え渇きから死寸前に追い込まれたアレックスは懸命に脱出を図る。
 そして最初はただの犯罪被害者と思われていたアレックスだが、物語が進むにつれそれとは全く違う正体が明らかになっていく。
 彼女を軸として、さまざまな犯罪が現れ、敏腕刑事がアレックスの真実を追っていくという話。


 この小説、主人公の名前がアレックスであり、男・女どちらでもいい、いかにもミスリーディングを導きそうな名前であり、さらにはアレックスの職業が「看護師」なのでこれもミスリーディングを誘いそうだ。だから私はアレックスはじつは男なのではと注意しながら地の文を読んだが、どうも違う。さらにはこの小説の原文はフランス語であり、ならば「看護師」という単語は男と女で違っているということに気づき、地の文で「看護師(たぶんinfirmière)」が出たらもうそれで性別は確定的なので、「アレックス=男」説はあっさりと諦めた。
 それでどこかでもう一人のアレックスがいて、入れ替わっているのではとか思いながら読むうち、話は速度を速め、陰惨なシリアルキラーの物語となり、あれよあれよという間に終末になだれ込んでいく。

 アレックスの数奇な人生は読者をぐいぐいと引き込ませる魅力があり、よく出来た小説ではあるが、しかし「あなたの予想は全て裏切られる」というミステリを期待した読者にとっては、アレックスの物語自体は予定調和的であった。だからアレックスの出場シーンについてどういうワナが仕掛けられているのだろう?と思っていた読者にとっては、拍子抜けなところがあった。

 けれども「あなたの予想は全て裏切られる」というミステリ要素がこの小説になかったかと言えば、いや、それはある。
 それは終末近く、警部が相続した絵に関するシーンで描かれるのであるが、そのために警部の部下達はこういうキャラクターだったのかと納得される、見事な伏線の張り方と、驚きと、さらに素晴らしいことに、感動的な解答であった。いや、びっくりしました。
 アレックスのほうに注意をとられていたので、こっちは油断していたので、驚きは一層であった。
 まったく、ミステリ読み慣れた私がびっくりするくらいだから、この部分にびっくりした読者は多いであろう、とか言ってしまおう。

 ただし、「このミス」で賞賛されたこの小説のミステリの部分が、それかと言えば、本当にそうなのだろうか?
 その部は本筋とは少々離れているため、この部分のミステリを認めて、「このミス」一位になったとも思えないし。
 そのミステリは、いちおう2014年度の、私のミステリとしておこう。

 そしてさらに、この小説は、表紙に仕掛けがあった。
 これもまた一つのミステリの提示であり、読み終わったあと、「なんちゅう絵を表紙にするんだい!」とも思ったが、とにかくこれは作者と関係ないところで、出版社がミステリを一つ作っていたわけで、…一本やられましたという気にはなった。あんまりいい趣味とは思えなかったけど。

 表紙の説明をすると、軽いネタバレになるので、段落を落として、軽いネタバレ解説をしておきます。

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         軽いネタバレ

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 表紙には、上半身、両足を椅子に縛られた女が描かれている。
 冒頭からしばらくしてアレックスが個室に監禁されるシーンになるので、その光景かと思いきや、そのところは表紙とまったく違う光景であり、???となる。
 そして物語が進むにつれ、これはずっと以前の、どうやらアレックスがモンスターになったきっかけとなった拷問の場面の絵ということが分かる。さらには詳細そのものは描けないので、奇妙な髪形によってその部分をシンボライズしていて、かなり悪趣味な絵である。
 アレックスが受けた拷問はたいへん残酷なものであり、そのシーンを思い浮かべると、とてもまともに見られる絵ではない。
 本を読み終えると、二度と表紙を見たくなくなる、そういうろくでもない表紙であった。

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その女アレックス 著 ピエール・ルメートル

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December 28, 2013

読書:皇帝フリードリッヒ二世の生涯 (著)塩野七生

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 12月中旬に上下二巻の「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」が発刊されたので、年末はこの大著をじっくり読んで過ごそうと計画していたのだが、読み始めるや、一気に最後まで読んでしまった。

 それは本書の主人公、フリードリッヒ二世が、あまりに多くのことを、あまりに速く、立ち止まることもせずに次々に続けていく、その疾走ぶりに、読み手のほうもついついつられてしまい、頁をめくる手が止まらなくなってしまったからであった。

 本書の主人公である神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世の生きた時代は、13世紀のヨーロッパ中世である。中世はキリスト教が災いして、全てが因習にとらわれ、停滞し、沈滞した時代であった。
 あの時代、なぜヨーロッパがキリスト教を必要したかというと、治安が悪化し、経済が疲弊した社会では、人々の精神の支えとなるものが宗教しかなく、そしてその宗教が制度としてシステム化されたものがキリスト教しかなかったからである。

 ヨーロッパ全土がキリスト教が関与して動くなか、フリードリッヒ二世のみは一神教の弊害を知りぬいていた。
無謬が原則のキリスト教は、誤りを絶対に認めず、その結果社会は進歩を止め、さらには誤った行為はいつまでも続くことになる。

 当時のローマ教会の最も誤った施策とは、イスラム世界との全面戦争、十字軍だったわけだが、フリードリッヒ二世は第六次十字軍の指揮をとっている。そのとき彼は、ローマ教会の誤った干渉をいかに避けるかに力を注ぎ、そして彼の努力により、第六次十字軍は、キリスト教徒、さらにはイスラム教徒の無駄な血をそれこそ一滴も流さずに、十字軍の目的―エルサレム奪還を遂げることができた。

 もっともフリードリッヒ二世は、十字軍で成功を遂げても、「聖地は信者の血を捧げることによって取り戻されるべき」と主張するローマ法王によって破門される。
 ほとんど狂信者の所業であり、このような宗教が世を統べていた時代なのであった。

 フリードリッヒ二世は宗教に対抗するためには、宗教と独立した政治機能を樹立する必要があると考えた。彼はそのために法律を造り、法を運用できる人材を育てることに尽力する。そのために、高度教育機関を設営し、教育を受けた者を増やしていった。また能力あるものは、身分、人種を問わずに採用し、フリードリッヒ二世が当主の南イタリアは人種のるつぼのようになった。

 フリードリッヒ二世のやろうとしたことは、「近代的法治国家をあの時代に作りだす」ということであり、無から有を造りだすようなものであったため、たいへんな苦労と労力がいり、彼は生涯ずっと誰よりも激しく働き続けていたわけだが、その努力の結果、南イタリアでその法治国家をほとんどつくり上げることに成功した。

 フリードリッヒ二世は、近代という扉に手をかけ、一度はほとんど扉を開いたのである。

 もっとも、近代国家は、彼により設計図が書かれ、基礎工事まで出来たのに、後継者たちの早世などもあり、20年ほどで失われてしまった。開きかけた近代の扉は、いったん閉じてしまったのである。
 ヨーロッパで本格的な近代国家が生まれ、近代の扉が真に開くにはあと200年後になった。

 フリードリッヒ二世はあまりにも先見の目があり過ぎたのか、それとも運が悪かったのか、とにかくあの時代の早すぎた先駆者として、その一生を終えたことになる。
 彼はある意味失敗者であったとは言える。

 しかし、本書を読んだとき、彼の時代を見る目の正しさ、そしてなにをしていけばいいを見通す能力の高さには感嘆するしかなく、さらに、56年の生涯を通して、疾走するがごとく仕事をやり遂げて行く姿には感銘してしまう。

 著者が述べるように、自分の人生を生ききった人間には、勝ちや負けなどないのであろう。
 本書は、「自分の天命を知ったのち、一生をかけて懸命にそれをやり遂げた人物の物語」である。それを読み終えたとき、私は静かな感動を覚えた。

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 皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)
 皇帝フリードリッヒ二世の生涯(下)

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October 25, 2013

読書: 島田清次郎 誰にも愛されなかった男 (著)風野春樹

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 大正時代の小説家島田清次郎は、自分を天才と信じきり、傲慢きわまりない態度で生活を送った。彼は周囲との軋轢を積み重ねた結果、全ての人間関係を破壊させ、生活破綻者として社会から追放され、25歳の若さで精神病院に収容されることとなり、その後そこから出ることはなく、31歳で亡くなった。

 ここまで極端でなくとも、高いプライドを持ちながら、そのプライドに値する能力はなにもなく、自分が認められないのは社会のせいと主張し、荒んだ人生を送っている人は、今の時代でもいくらでも居るので、島田清次郎はさほど珍しいタイプの人間ではない。
 ただし、それらのプライドのみ高い凡百の人物たちと島田清次郎が隔絶して違っているのは、彼が20歳のときに書いた小説「地上」が高い評価を受け、大ベストセラーになり、一躍時代の寵児となった実績を持つことである。

 島田清次郎は今では文学史から殆ど忘れ去られた存在であり、かつて大正の文学青年たちがこぞって読んだ「地上」は絶版になって久しく、いわゆる稀覯本的な存在となり、実際に読むのは難しかった。
 ありがたいことに現在はITが発達し、パソコンさえあれば誰でも容易に無料で「地上」を読むことができる。私もkindleを使い「地上」を読んでみたが、全編異様な迫力に満ちた、若々しい青春物語であった。文章力は確かにあり、20歳でこれを書いたなら、たしかに自らを天才を自負してもしかたないとは思える。

 「地上」の成功で、島田清次郎は自尊心を雪だるま式に肥大させていき、自身を大作家と思い込み、周囲の人に対して王侯のように振るまい、隷属を強要する。当然人々は離れて行くのであるが、島田清次郎は自分が正しいと信じ切っているので、周囲との齟齬は増していくばかりだ。
 島田清次郎は当時の文学好きの者にとっては偶像的存在であったので、実物を知らない人には人気がある。しかし、実物を知るとみな幻滅してしまう。
 そして島田清次郎のファンであったけど、実際を知って離れていこうとした令嬢を強引に誘拐監禁した事件を彼は起こしてしまい、結果、社会的人生が断たれ、誰からも相手にされなくなり、精神に異常をきたして、精神病院に収容され、上記のようにその6年後に亡くなった。

 非常に痛い人生である。
 痛ましい、というわけではなく、ただただ痛い人生だ。
 島田清次郎の悲劇は、その最たる原因は彼の生まれ持った性格によるのだろうけど、次は自らを天才と思ってしまったことであろう。島田清次郎が本当に天才であったかどうかは、時代がはっきりと結論つけている。「時代」という審判は残酷なまでに正確であり、本当の天才の作品は必ず世に残るが、彼の「地上」は大いに売れはしたものの、世に残りはしなかった。現在のほとんどのベストセラー作品のように。

 島田清次郎は天才でなかったため、「地上」のあとに続々と書かれた作品はたいしたものではなかった。周囲の者も、それらを低く評価する。しかし島田清次郎は自分を天才と信じているため、自分の作品に問題があるとは思わず、それは周囲の理解力がないためと思い込み、周囲を攻撃し、その攻撃は結局は自分に返り、肥大した自負心に比例して、その反動も大きくなり、やがて彼は破滅する。

 天才でなかったものが、おのれを天才と誤信したための悲劇。その勘違いの元となった成功が大きすぎたため、破滅の規模も大きくなってしまったということだろう。
 繰り返すが、痛い人生だ。


 今では無名に近い人物である島田清次郎の評伝を何故私が読もうかと思ったのは、一つは以前に読んだ「栄光なき天才たち」というコミックの一章にあった島田清次郎の物語がかなりインパクトの強いものだったということと、もう一つは著者が風野春樹氏であったことによる。
 風野春樹氏はネットの黎明期にとても面白い書評感想日記をwebで掲載していた、ネット民にとっては有名人であった。しかしこの頃は氏の書評日記は書かれなくなっていたのだが、今回の発刊にて、久々に氏のまとまった文章が読めるので、それで購入した次第。

 「栄光なき天才たち」では、島田清次郎は、「地上」で一世を風靡し、あとは急転直下に没落した、打ち上げ花火のような人生を送った人物のように書かれていた。
 まあ、じっさいにそうだったのであるが、風野氏はその没落した時代についても詳しく書いている。
島田清次郎は精神病院で廃人になっていたわけではなく、懸命にそこからの浮上を試み、創作を続けていたのである。風野氏はその創作を詳細に検討し、それらは決して精神病者の支離滅裂な戯言ではなく、評価すべきところは多とあると判断している。
 島田清次郎は巷間伝わる、己の傲慢さで破滅した愚人ではなく、人生最後まで己の内なるものを表現しようと苦闘した「努力の人」と肯定的にとらえているのだ。

 この評伝を読む限り、私にとって島田清次郎という人物は、人間的魅力はゼロに等しく、胸糞悪くなる人間の屑であり、彼が見捨てられた理由は非常によく分かる。
 それでも作中には、そんな島田清次郎を、実際に馬鹿にされたり、あるいは小説や雑誌を使って罵倒されたされながらも、彼を助けた人たちが何人もいることが描かれている。それは人間に本来備わっている度量の大きさ、あるいは博愛性というものを示しているのであろうし、島田清次郎があまりに黒く暗いのと対比して、彼らの明るさは、人間のhumanityというものの実在を教えてくれる証しのようにもなっている。
 そして、風野春樹氏の島田清次郎の捉え方も、この性格破綻者に対して決して冷笑的な態度は取らず、島田清次郎の本質を探り、良きものを見出すことをずっと試みている。これもhumanityといってよいものであろう。

 人間には島田清次郎のようなやつもいるが、それでも素晴らしい人間だっていくらでもいる。この本は、島田清次郎という人物を反面教師とした、人間肯定、人間賛歌の書なのかもしれない。


 島田清次郎 誰にも愛されなかった男 (著)風野春樹

【Résumé(まとめ)】
 Ce roman est une biographie de Shimada Kiyojiro qui a existé en réalité.
 Il est un écrivant qui a joué un rôle actif dans Taisho périod, et le livre que j'ai écrit à l'âge de 20 ans est devenu un best-seller, ainsi il est devenu célèbre dès que, c'est l'envie de la littérature de jeunesse.
 Il était convaincu un génie lui-même. Cependant, les livres que j'ai écrit après est plu bas de niveau, et ils n'ont pas été évaluée.
 Mais il pense que le était génie lui-même, il ne pouvait pas comprendre. Car il a continué de se quereller avec l'environnement. Finalement, il ne’est plus contre quelqu'un, il est tombé malade de esprit Il a admis à l'hôpital psychiatrique, et est mort à 31 ans.
 C'est la tragédie de bête homme qui s’est mépris pour le génie lui-même.

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August 02, 2013

立原道造「のちのおもひに」を読み返す

 映画「風立ちぬ」を見てから、堀辰雄の「風立ちぬ」をひさしぶりに読み返し、その流れで当時のいわゆる「軽井沢文学」も読み直している。
 そのなかでもとりわけ立原道造の詩は、いつ読んでもその清新さが印象的であり、その瑞々しさはいつまでも残っていくものだと実感した。
 ただし、年月を経てから読みなおせば、詩は同じでも、読んでいる当人は変化しているわけで、今回読んでみて、以前気付かなかったものも見えて来た。
 立原道造の詩は、抒情豊かで、端正なものであるが、また繊細すぎるところもある。私は、その詩のいくつかに弱々しさを感じ、この夭折した天才詩人について、「こういう弱々しい詩を作るから、早死にするんだよなあ」などと失礼な感想を抱いたことがあった。今読みなおせば、全然そういうことはなく、どころか彼の病弱な身体には、一本の強靭な精神が貫かれていたことも知った。
 昔の私の粗忽な面への反省はともかくとして、立原道造の詩の魅力について書いてみたい。

 今回は一遍の詩を紹介するが、それはて、立原道造の詩のなかでも傑作として知られる、「のちのおもひに」である。

 
  ……………………………………
 
のちのおもひに  立原道造 「萱草に寄す」より               

 夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
 水引草に風が立ち
 草ひばりのうたひやまない
 しづまりかへつた午さがりの林道を

 うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
 ──そして私は
 見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
 だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

 夢は そのさきには もうゆかない
 なにもかも 忘れ果てようとおもひ
 忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

 夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
 そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
 星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

  ……………………………………


 美しも、哀しい調べで書かれている詩である。
 端正なソナタ形式で書かれてこの詩、三節までは分かりやすい語句で書かれている。またこの詩は作者の実 体験に基づくものであり、作中の「島々」「岬」「日光月光」は、具体的にどこのものかも同定されている。
 この分かりやすい詩は、しかし、第三節で語句の重ね合わせで、詩の勢いが高揚したのち、第四節で突如突き放すように転調される。

 「夢は、真冬の追憶のうちに凍るであらう

 第四節は美しい詩であるが、難解ではあり、多くの解釈は可能である。
 私は以前はこの象徴詩的技術を使った部分は、今までの懐かしい思い出を、心に永遠に残すべき結晶化のように解釈していた。
 今思えば、ずいぶんと甘い解釈であったと思う。

 今この詩を読むと、死に近き病床の人の辞世の詩にしか思えない。
 (だいたい「のちのおもひに」という題名からして、ネタバレみたいなものであった。)
 作中使われている「夢」という言葉は、「魂」と置き換えてもよいであろう。動くこともままならず病床で死を迎える作者は、自らの魂を、かつて自分が愛したところへ彷徨させ、自分との別れを物語らせる。その哀悼の彷徨を終え、魂が行き場を失ったとき、魂は凍りつくのである。すなわち、死、である。
 生と死を隔てる扉から、魂は生の場より退場する。その先の世界は、寂寥に満ちた星くづに照らされた道であった。

 ここで語られているのは、作者自身の死である。
 作者は率直に自身の死を見つめ、自らの死の床を想像し、自らの死そして死の世界を考え、それらを表現する言葉を磨きぬき、完璧な詩に昇華させている。その徹底した冷徹な作業を行う、若き作者の精神の強さに、私は慄然とする。

 名作というもの、年を経れば、見えてくるものはまた違ってきて、新たな魅力を知ることができる。
 しばらくは、読書は古典を中心にしてみようと、近頃思った次第。


Wasurena

立原道造 萱草に寄す 
 

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「風立ちぬ、いざ生きめやも」は誤訳とはいうけれど。

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 堀辰雄の小説「風立ちぬ」の冒頭近くで語られる有名な台詞「風立ちぬ、いざ生きめやも」。これは美しい響きの言葉であり、印象深い句なのだが、誤訳であることでもよく知られている。

 「風立ちぬ」の巻頭には、ヴァレリーの詩の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」が引かれていることから、「風立ちぬ、いざ生きめやも」はそれの翻訳であることは明らかではある。
 原詩のほうは、一般的によく使われるフランス語の言いまわしで、特に難しいものではない。英語に訳すと、「The wind is rising, you should try to live」くらい。後ろの句の主語は本来はweなんだろうけど、この句は自分に言い聞かすような言葉なので、youのほうがいいとは思う。
 それで和訳すると、「風が起きた、生きることを試みねばならない」の意味となる。要するに、吹いた風を契機に、著者の「生きるぞ!」との決意を現わしているのである。

 ところで、堀辰雄はここの部分を、「いざ、生きめやも」と訳している。「生きめやも」は「生き+む(推量の助動詞)+やも(助詞『や』と詠嘆の『も』で反語を表す)であり、現代語になおすと「生きるのかなあ。いや、生きないよなあ」となる。ダイレクトに訳してしまえば、「死んでもいいよなあ」であり、つまりは生きることへの諦めの表現である。
 「生きめやも」を逆にフランス語に訳せば、Vous ne devez pas tenter de vivre.…ではあんまりだから、やんわりとVous n'avez pas à tenter de vivre.くらいになるだろうけど、いずれにせよ、己の生への強い意志を詠じた原詩とはまったく反対の意味になってしまう。

 それゆえ、堀辰雄の「いざ生きめやも」は誤訳の典型として知られてきており、例えば大野晋、丸谷才一の両碩学による対談で「風立ちぬ」が取りあげられたとき、両者により、堀辰雄は東大国文科卒のわりには古文の教養がないと、けちょんけちょんにけなされている。

 ただ、誤訳といえば、誤訳ではあろうけど、私は小説「風立ちぬ」では、「生きめやも」でもいいと思う。

 結核に冒された人達の生活を描いたサナトリウム文学を代表として、結核患者が著書の作品には独特の世界が広がっている。
 結核は抗生物質のある現代では治療の方法のある感染症の一つであるが、20世紀前半までは、効果的な治療法のない死病であった。今の感覚でいえば、末期癌のようなものであり、これに罹ったものは、自身の命を常に見つめて生きていくことになる。

 それゆえ、結核患者の作品は、短く限られた命を真摯に見つめ、その貴重な時を文章に凝集させていくため、清明でありながら密度が濃い、独自の文学を創造している。
 彼らの残した作品は、堀辰雄をはじめ、梶井基次郎、立原道造、富永太郎、…と日本近代文学の珠玉の宝物となっている。

 そういった人たち、毎日死と向き合っていた人たちの作品として、「風立ちぬ」を読んでみれば、季節の移り変わりに吹いた風に、「生きよう」という意思が立ちあがるとは思えず、季節の流れとともにこのまま静かに命が消えても、という感慨が起きても不思議ではなく、かえって自然な感情とも思える。
 元々「風立ちぬ」は軽井沢の療養所で、死を迎えいく若い男女の、残された日々の静謐な生活を描いたものであり、「il faut tenter de vivre」という能動的な精神はどこにもなかった、と思う。

 ヴァレリーの原詩では、いくつもの魂の眠る墓地に地中海から風が吹き付け、そこで著者は「生きねばならない」という強い意思を抱くわけであるが、軽井沢の森に吹いた秋の訪れを知らせる風は、地中海の風のようにある意味精神を鞭打つような剛毅なものとはほど遠く、もっと人の心に寄り添うような、人に赦しを与えるようなやさしいものであったには違いない。それゆえ堀辰雄は、吹く風にヴァレリーの詩を想起したとき、敢えてあのように訳したのでは。

 「風立ちぬ」という不朽の名作につきものの誤訳問題。
 いろいろと意見はあるようだが、私は堀辰雄を擁護したい。


 風立ちぬ 堀辰雄著

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August 28, 2012

地球最後のニホンカワウソ

【ニホンカワウソ】
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 ニホンカワウソはかつては日本中の河川に広く生息しており、人々の身近で暮らしていた、さして珍しいものではなかったそうだ。
 日本の河川に住む生き物としては、最大級の大きさであることから、妖怪の「河童」のモデルになったという説もある。
 しかし、ニホンカワウソは毛皮が良質なことから乱獲が進み、昭和に入ってから数が激減したため保護獣に指定され、1964年には天然記念物となった。

【カワウソ VS カッパ ©吉田戦車】
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 カワウソは、もしかしたら今の若い人たちには吉田戦車の漫画のほうが有名になっているかもしれない。
 このカワウソ、本物の可愛いニホンカワウソとは似ても似つかぬ、いかにも吉田戦車風スタイルの怪しげな生き物であるが、このカワウソは友達の河童を強く嫉妬している。
 それは河童がハワイに旅行に行ったことをたまたま知ったためで、それを知って以来、ハワイに行けないカワウソは、河童が羨ましく羨ましくてならない。
 なぜカワウソがハワイに行けないかといえば、カワウソは天然記念物であり、絶滅危惧種に指定されているため、国外への持ち出しが禁止されているからである。そういう貴重種である以上、自分の意思がどうあれ、カワウソは国外には行けないのだ。
 河童もカワウソなみの貴重種のはずであるが、日本政府からは貴重種の指定はないので、渡航は自由なのである。それで、上の画像は、羨ましさのあまり友達の河童を攻撃しているカワウソの図。

【須崎市 マスコット】
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 ニホンカワウソといえば、高知のイメージがあり、そして高知県須崎市は「カワウソの町」として、カワウソを市のマスコットとして、そのキャラクターの絵がいろいろなところに貼られている。

 今年の1月に私が高知を旅行したとき、須崎市も通ったけれど、町のあらゆるところにあったカワウソの絵を見て、ここがカワウソの本場であることを知った。そしてできることなら生のカワウソを見たいと思い、カワウソを飼っているであろう水族館がないかなあ、などと思いながら街を走ったのであるが、そのようなものは見つからなかった。
 まあ、とりあえず、私は希少で珍しいものながら、ニホンカワウソはまだ高知県に生息していると思っていたのである。

 しかし、環境省は平成24年8月28日、ニホンカワウソは既に絶滅していると発表した。
 ニホンカワウソは1979年にその姿を認められたのを最後として、30年以上、誰もその姿を見ていない。このような大型獣が誰にも姿を見られてない以上、絶滅したと判断するしかないとのことであった。

 …なんと、ニホンカワウソはとっくの昔に絶滅していて、地球上にはもはや存在していないのであった。

【最後のニホンカワウソ】
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 そういうわけで、1979年、この写真に撮られたニホンカワウソが最後の一匹であったようだ。
 このニホンカワウソは、両親から別れたのち、仲間を探してずっと高知の川で暮らしていたであろうに、誰とも会うことは出来ず、ずっと一匹で暮らし、そして誰にも知られぬまま孤独のうちに生を終え、そしてその一匹の死をもって、地球上からニホンカワウソは姿を消したのである。

 なんとも哀しく、せつない話である。


 とはいえ、生物である以上、種の寿命というのは確実にあり、ニホンカワウソのみならず、全ての生物は絶滅の運命を持っている。
 今、地上で繁栄を謳歌している人類だって、その運命は決して免れない。
 それが何万年後か、何百年後か、あるいは数日後か、それは誰にも分からないけど、人類も種の寿命を迎え、そして最後の一人となる人は必ずいる。
 その最後の一人となった人は、何を見て、何を聞き、そして何を思うのであろう。

 人類最後の一人、という魅力的なテーマでは、いろいろとSFが書かれているが、そのなかで私にとって最も印象的であったSFの一編、ブラッドベリの「火星年代記」の一章を紹介したい。
 厳密にいえば、一人ではないのだが、いきなり人類の絶滅を見る羽目になった者の視点からの地球の描写。

 登場人物は火星への移民の一人。
 火星にはわずかの移民が住んでいたのであるが、ある時、彼は先住人であった火星人の幽霊のごときものに、「君たちはここで住むしかなくなった。だから火星の土地を君に渡そう」と言われ、広大な火星の土地の権利書を渡される。
 なにがなんだかよく分からないまま、地球で何事か起きたのだろうかといぶかり、火星の夜空を眺めるうち、それは起った。

 Earth changed in the black sky.
 It caught fire.
 Part of it seemed to come apart in a million pieces, as if a gigantic jigsaw had exploded. It burned with an unholy dripping glare for a minute, three times normal size, then dwindled.

 黒い空で地球の姿が変わった。
 それは炎に包まれた。
 地球の一部はまるで巨大なジグソーパズルが爆発したかのように、百万の破片に分裂した。地球は燃え上がって汚い水滴のような閃光を瞬時に放ち、3倍ほどの大きさに膨れ上がったのち、それから小さくなった。

【地球】
Earth

 地球が、そして人類がどのような終末を迎えるかは分からないが、この小説のように全面核戦争で燃え尽きる、なんてのは止めてほしい。
 小説での描写そのものは、大花火みたいで、とても美しいけど。

 それにしても、今読み返すと、この場面の年代は2005年11月ということになっているんだな。
 2012年現在、ブラッドベリの予想に反して、人類は火星に移民どころか、火星への有人宇宙旅行さえできていない。しかし、とりあえずは滅亡もまだしていない。
 私が生きているあいだは、地球も、そして人類も滅びてほしくはないけど、さてどうなることやら。


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 引用文はRay Bradbury作The Martian chroniclesの"November 2005: The off season"より。

 火星年代記: レイ・ブラッドベリ作 1950年出版

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【Résumé(まとめ)】

 Au Japon il y avait des grands mammifères que s’appelle « Nihonkawauso » que habitait le fleuve. ll a été désignée comme monument naturel, et il était célèbre.
 Kochi province est célèbre comme son habitat, Suzaki-ville fait l’animal fétiche.
 Meis Ministère de l'Environnement a annoncé que s’ éteinait à le 28 oût, 2012. Le animal éteinait avant plus de trente ans.
 Cette photo est l’ animal que a été vu la dernière fois. Ce animal est considéré comme le dernier.
 Il a vécu beaucoup dans la solitude, est mort dans la solitude, les résultats, Nihonkawauso a disparu de la face de la terre.
 C'est une histoire triste et solitaire.

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July 25, 2012

読書:サイコパスを探せ! 狂気をめぐる冒険(著)ジョン・ロンソン

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 テレビドキュメンタリー作家である筆者は、精神病についての取材を行っているときに、ある精神宗教団体の人物より、トニーという哀れな人物を救ってくれとの依頼を受ける。

 トニーという青年は傷害罪を犯して捕まった。彼は留置所に入れられているときに他の犯罪者から「実刑だと7~8年は刑務所に入ることになる。しかし精神病者と診断されれば、精神病院に入ることになる。精神病院は刑務所よりもずっと快適に過ごせるところだ」とアドバイスされた。トニーは頭の良い男であり、以前に観た映画で覚えた精神病者のふりをし、それはうまくいって精神病患者と診断され、精神病院に収容されることに成功した。

 しかし、ここで大誤算が生じてしまった。精神病院は病気を治すところなので、トニーは精神病が治癒したと診断されれば、そのとき退院することが出来る。けれど、トニーは精神病者のうち「サイコパス」と診断されてしまった。
 サイコパスについては、日本でも池田小学校事件という、典型的なサイコパスによる悲惨な事件が起きたため有名になったけど、「良心や思いやりが先天的に欠けており、社会の規範を容易に破り、己の思うがままに犯罪を犯す。そしてその行為を決して後悔や反省しない」という異常人格者がサイコパスであり、社会秩序の破壊者である。

 サイコパスの特徴は、生まれついてそういう人格ということであり、そしてその人格がずっと変わらないということにある。すなわち、精神病患者のうち、サイコパスは決して治らない。
 だからサイコパスという診断がついた時点で、トニーは退院できる可能性がなくなり、じっさいにトニーは12年間も精神病院に入れられたままとなってしまった。
 そういう状況に陥ったので、トニーは精神科医に「じつは自分は精神病ではない」と懸命に主張するのであるが、その主張こそ彼が精神病者そしてサイコパスの証拠となるわけで、彼が退院できる目途は全く立たない。

 もっとも、サイコパスは初めから退院不能の存在とされていたわけではなかった。
 人間社会を脅かすプレデター(捕食者)であるサイコパスについては、その存在が1990年代に定義されてから、アメリカではずいぶんと治療についての研究が為された。
 なかには、麻薬(LSD)を用いた怪しげな治療法もあったのだが、それらの治療法のどれもがそれなりに効果を上げ、治療を受けたサイコパスの多くは自分の犯した罪を認め反省した。それで「サイコパスは適切な治療をすれば治る」との報告もなされた。
 しかし、その「治ったはずのサイコパス」を退院させ、社会に戻すと、彼らの再犯率は80%というとんでもない高い値となった。
 つまり、サイコパスは「治ったふりをする」ことに長けた人種であったのだ。

 結局、サイコパスの治療についての研究は打ち切られ、そしていったん犯罪を犯したサイコパスを刑期が終わったからといって釈放あるいは退院させても、また犯罪を犯すに決まっているので、サイコパスは刑期の長短にかかわらず、ずっと精神病院に閉じ込められることになった。

 バットマンに出て来るアーカム精神病院のごときものがアメリカには実在するわけで、アメリカというのは、ずいぶんと極端なことをする国、とも思えるが、サイコパスによる社会的、人的被害は膨大なものであろうから、政府は国民をサイコパスから守るためにもサイコパスを隔離する施策というのは、妥当とも思える。


 トニー救出の依頼から、筆者はサイコパスに興味を持つようになり、刑務所や精神病院の中にいる以外のサイコパスを探したり、それらしき人にインタビューをしたり、というふうな内容の本である。
 ユーモアに富んだ文章で、面白い記事をいくつも並べる形式で書かれており、読みやすい本であるが、ただし書かれているサイコパスの陰惨さと救いのなさもまた印象的な本である。

 トニーが脱出できたかどうか、その後の運命等については、本書を参照ということで。


 ジョン・ロンソン著 サイコパスを探せ


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June 07, 2012

読書:霧笛@ブラッドベリ

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 本日、なんとはなしにNHKの番組を見ていると、「認知症の早期発見法」ということをやっていた。なんでも「1分以内に野菜の名前を10数えられたら、認知症でない」とのことである。試しに10思い浮かべたらあっさり出てきたが、これって家事やってる人に圧倒的に有利なテストではないであろうか。だって、これ、スーパーの野菜売り場を思い浮かべたら、いくらでも野菜の名前は出てくるわけだから。
 で、主婦が家事などやらない旦那にこのテストやったら、面白い結果になるのではとも意地悪なことを思ったりした。

 野菜テストは少々不公平ゆえ、他にいいテストはないかとか考えた。
 「1分間で小説の傑作短編を10あげよ」というのはどうだろう? と思い、私が試してみた。
 本邦では、「心中(康成)」「卵(三島)」「満願(太宰)」「冬の蠅(梶井)」「名人伝(中島)」「鍵(星新一)」「煙草(芥川)」「岩尾根にて(北杜夫)」…等々、ずらずらと思い浮かべられてきりがない。
 ならば、海外の短編にしてみようか。
 まずは「霧笛(ブラッドベリ)」だな。さて次は、というところで思考が止まってしまった。いきなり「霧笛」レベルのものが出ると次が難しい。これに続く短編といえば、えーと、えーと、……
 1分近く考えて、ようやく頭のなかに他の短編が出てきだしてほっとしたが、今回はその「霧笛」の話。


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 「霧笛(The Fog Horn)」by Ray Bradbury

 人里遠く離れた「孤独の湾」と名付けられた寂しい湾に、燈台が一本建っている。
 霧深きその地での燈台の役割は、海を照らしつつ、霧深き夜に霧笛を鳴らすこと。霧で視界も効かず、荒れた海が岸に叩きつける波の音で、その他になんの音も聞こえぬなか、荒涼たる海に響き渡る霧笛の音は、凄愴たるものであった。

 燈台にはベテラン燈台守と助手の二人がいて、徹夜で仕事をしている。
 長き夜のあいま、燈台守は助手に語る。
 この燈台が発する、霧笛のことを。

 以下、彼が語った言葉の原文紹介。

    …………………………………
 We need a voice to call across the water, to warn ships; I'll make one.
 I'll make a voice that is like an empty bed beside you all night long, and like an empty house when you open the door, and like the trees in autumn with no leaves. A sound like the birds flying south, crying, and a sound like November wind and the sea on the hard, cold shore.
 I'll make a sound that's so alone that no one can miss it, that whoever hears it will weep in their souls, and to all who hear it in the distant towns.
 I'll make me a sound and an apparatus and they'll call it a Fog Horn and whoever hears it will know the sadness of eternity and the briefness of life.

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 読み進めるうち、孤独に満ちた、魂が凍るような「霧笛」の音が、心の奥底から響き始め、やがて心を満たし、心を揺さぶってくる。
 そういう、辛いけど、詩的で夢幻的な文章であり、じつにじつに美しい。
 じっさいここはブラッドベリの小説のなかでも相当に有名な個所である。
 こういうほとんど詩のような文章って、訳しようもないのであるが、一応以下に適当に訳しておく。

    …………………………………
 海を越えて、ここに近寄るなと警告する声が必要だ。
 私がその声をつくろう。
 一晩中傍に誰もいない君のベッド、君が帰ったとき誰もいない家、葉を全て落とした晩秋の樹々、泣きながら南へと帰って行く鳥たち、冷たく厳しい11月の海と風、そんな音をつくろう。
 あまりに孤独でそれを聞いた者は誰も忘れられない、それを聞いたものは誰しも、たとえ遠く離れた町に住む人でも心からすすり泣く、そういう音をつくろう。
 私はそういう音を発する装置をつくり、音を発しよう。
 人々をその音を「霧笛」と呼ぶ。それを聞いた者は果てしない悲しみと、そして人生の儚さを知るだろう。

    …………………………………

 なんの救いもない、一人者とかには、ズキ ズキ! ズキ! ! と心を突き刺されまくるような言葉が発せられているが、…とりあえず、こういう孤愁に満ちた霧笛の音が鳴っている燈台が舞台の物語。

 燈台の仕事を進めるうち、燈台守は助手にこの燈台の恐ろしい秘密を語る。
 この燈台には一年に一度、怪物が近付いてきて、霧笛に呼応して叫び声を一晩中上げながら、燈台の周囲を泳ぐのである。
 あるとき燈台守はその怪物の姿を見て驚いた。それは恐竜であった。

 そして燈台守の言う通り、その夜恐竜は現れる。

 規則的に鳴らされる霧笛に呼応して、巨大な恐竜は同じような声で叫ぶ。深い霧に覆われた海、冷たい風が吹きすさぶなか、霧笛と咆哮の応酬が続く。

 「The Fog Horn blew.
 The monster answered.
 ―霧笛は鳴り響き、怪物はそれに応える

 いつ尽きるとも知れぬ恐ろしい響きのなか、燈台守は助手に、「何故やつはここに来るのか分かるか?」と尋ね、そしてその理由を教える。

 はるか昔に滅びたはずの恐竜のうち、ただ一匹が生き残っていた。それは百万年ものあいだ、たった一匹で孤独な海の放浪を続けていた。
 ところが、この燈台に近づいたとき、そこで鳴っている霧笛の音を聞き、恐竜は驚いた。霧笛の音は、その恐竜の声と同じものであった。しかも燈台は形態が首長竜と似ている。恐竜はすっかり燈台を自分の同族と思い、百万年間の放浪の末、ついに同族を見つけたと喜び、仲間への誘いに来たのだ。
 けれども燈台は、生物でもなんでもないゆえ、その誘いにのれるはずもなく、つれなくされた恐竜はそれでもあきらめずに毎年訪れて来るわけである。
 深き霧の海に響く、永劫の孤独を告げる燈台の霧笛と、百万年の孤独を告げる恐竜の咆哮の、決して交わることなき哀しき呼応。

 …しかし、こんなことはもう終わりだ。こうすればどうなる?と燈台守は助手に言い、鳴り響く霧笛のスイッチを切った。

 -霧笛の響きが消えたのち起こる悲劇については、原作を読んでもらうこととして…


 ひさしぶりに「霧笛」を読み返したけど、やはり素晴らしい名作である。
 かつて大いに繁栄した種族のうち、ただ一匹生き残ってしまったがゆえの底知れぬ孤独。そして暗く冷たい海をただ独り、無限の哀しみを背負って放浪する寂しさ。けれども、永遠に続くとも思えた孤独の旅の果てに、百万年の時を経て、同族に邂逅した歓喜。そしてその歓喜が、敢え無く失われてしまったあとの途方もない絶望。
 これが詩的で抒情性に満ちた文章で書かれており、まさにブラッドベリにしか書けない世界である。

 「火星年代記」(←my best 10には必ず入る)「華氏451度」「黒いカーニバル」「何かが道をやって来る」等々、ブラッドベリには山ほど名作があるが、どれを読んでも、ブラッドベリ節に満ちている独特のSFである。

 2012年6月6日、レイ・ブラッドベリ 91歳にて死去。
 若いころよく読んだ作家であるが、今読み直すと、更なる魅力を新たに知ることができた。「霧笛」に引き続き、「火星年代記」を読みかえすことにしよう。


 …………………………………

 「霧笛」は「太陽の黄金の林檎」「恐竜物語」などに収録。

 原文はPDFで手に入る。→ここ

 萩尾望都が漫画(ウは宇宙船のウ)にしているが、これはあんまりお勧めできない。恐竜と燈台の交感は文章だと哀愁に満ちているが、いざ、燈台に対峙する恐竜の姿が、絵になってしまうと、ほとんどギャグの世界だと思うなり。大天才萩尾望都にしては珍しく滑った例。


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April 25, 2012

読書:無菌病棟より愛をこめて (著) 加納朋子

 小説とは結局は「人間」を描く芸なのであろうが、その描かれる多種多様の人間像のうち、リアルに存在する「いい人」を描いて、当代で加納朋子ほど上手い作者はいないと思っている。
 彼女の作に出てくる「いい人」は、宗教書や伝説とかに出てくる聖人や善人系の「いい人」と違い、絵空事ではなく、私たちが今生きている社会に実際に存在している、確かな実在感を感じさせてくれる。

 加納朋子の著作は全部読んでいるけど、今年出た新刊「無菌病室より愛をこめて」は、ミステリではなくて、なんと著者自身の闘病記であった。

 体調が悪くなった著者が大病院で検査を受けたところ、「血液のがん」といわれる急性骨髄性白血病であることが判明。そして精密検査を受けたところ、それは白血病でも特にたちが悪いタイプのものであった。
 白血病に対する抗腫瘍薬による治療はハード極まるもので、そのハード極まる治療を受けても寛解は難しく、結局さらにハードである骨髄移植が適応だと判断され、著者はその治療を受けることになる。
 そして死亡率も高いその治療を乗り越え、なんとかほぼ白血病細胞が消滅するまでにいたった。それでも治療はまだまだ続き、治療は途上であり、これはその中間報告を書いたルポである。

 白血病を含めた悪性疾患に対する治療などについては、かなり詳しいことが書かれた闘病記はすでにいくつかあるが、この本はそれらとはずいぶんと異なったものであった。

 冒頭の話にいきなり戻るが、「いい人」の定義をしてみる。
 「いい人」とは、人の気持ちを思いやり、人の悲しみ苦しみを、自分に置き換えて考えられ、だからこそ人に対して優しくなれる人であろう。

 そして本書で知る加納一家は、著者を含めてみな「いい人」であることが分かる。病気が分かったときの家族の反応、そして著者の反応をみれば、あなたたち、そんなに優しくていいの?とか突っ込みたくなるくらい。

 著者の作に描かれた「いい人」があまりにリアル感があるのは、著者がそういう環境に生まれ、育ったからなんでしょうね。

 著者はこの本が、今まで書いたミステリ等の小説とちがって、あまりにプライベートなものなので、発刊に躊躇を感じたと述べている。
 ただ、それでも発刊を決意したのは、表題に示す「愛」であった。
 「無菌病棟より愛をこめて」の「愛」は、無菌病棟で過酷極まる治療を受けた著者のからの、同じような境遇になってしまった人へのメッセージのことなのである。
 白血病になった人たちに、「決して絶望しないで下さい」と伝えるため、著者はこの作を書いたのだ。

 本書は全体的に淡々とした筆致で書かれているが、行間からにじみ出てくる、哀しみと、同時に現れる明るさが、独自の魅力を与え、そしてあとがきにいたり、静かな感動を与えてくれる。

 名著であるとは思うが、読みたくなかった名著だというのも実感である。


 加納朋子(著) 無菌病棟より愛をこめて

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