映画

December 22, 2017

映画:スター・ウォーズ 最後のジェダイ

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 スペースオペラの大作、スター・ウォーズは当初から9作での構成が予定されており、それは宿命の一族「スカイウォーカー家」の物語が主軸となるものであった。
 1~6部はルーカスによって作成されたが、残りの3部は、ルーカスが体力的に無理だったのか、製作の権利を他社に移し、新たな製作陣でつくられることとなった。

 その再開された3部作は、「スカイウォーカー家の物語」という基本設定は継承されており、今回は4~6部の主人公であった、ジェダイ史上最高の才能の持ち主「ルーク・スカイウォーカー」についてかなりの割合をもって描かれ、彼の運命についてのいったんの結末をみせている。

 のだけど、なんか、どうにも納得いかず、もやもやしたものが残るのが、今回の映画の問題点といえば問題点ではあった。
 まあ、最初から「ジェダイ」というものが、もやもやした、あやふやなものであったから、そうなるのもしかたのないものかもしれないが。

 スター・ウォーズ世界では、「フォース」というものが世に満ちており、それを操る能力を持ち、かつその操作法の修業を積んだものがジェダイと呼ばれる。
 その能力は、遠隔操作でものを動かしたり、あるいは人の呼吸を止めて命を奪ったり、……は近代的動力・兵器が存在している世なのであまり大きな意味はないとして、その他に人の思考を読んだり、思考を操ったりする、というものがある。これは人間社会において、たいへん強力な能力であり、それを持ったジェダイは社会組織の上層部に位置し、「裁定者」「調停者」等の役割を果たしている。しかしそれは同時にたいへん危険な能力でもあり、それゆえジェダイは独自のマンツーマン方式による厳格な教育法を取り入れ、さらにギルド内に厳しい戒律を課している。

 けれども、そんな危険かつ便利な能力は、かならず一定数の者によって、それが善意が悪意かにかかわらず、本来の使い方と違った方法に用いられ、世を混乱に巻き込んでしまう。
 だいたいが、ジェダイの徒弟システム自体がうまく運用できたいたとはとうてい思えず、スター・ウォーズで幾組も出て来た子弟コンビは、かなりの割合で破綻している。マスター・ヨーダだって、ジェダイとしては偉大だったのかもしれないが、師匠として有能であったとはとうてい思えぬし。それで、ジェダイにおいて一定の割合で、「悪いジェダイ」が生まれ、それが災厄の原因となる。
 とにかく、ジェダイがあの社会にとって、常に厄介な存在であったことは間違いない。

 スター・ウォーズ弟7作では、若きフォース使いレイが、隠遁した伝説のジェダイ騎士ルークのもとを訪れ、ライトセーバーを渡すところで幕となっていた。
 その続編の今作では、とうぜん今までの作品群の基本設定を受けつぎ、ルークが師匠となってレイを鍛える、ということにならねばならないのだが、すんなりとはそうならない。
 なにしろルークは、自己であれ他者であれ、ジェダイという存在に疲れ果てており、ジェダイは滅ぶべしという信念に行きついているので、まっとうな修行が始まるわけもない。そして、ついにはスカイウォーカーの一族であり、ルークの甥であるカイロ・レンが暗黒面に堕ちた真の理由も明らかにされ、若きレイはルークとの決別を決意する。
 というわけで、ルークは今作において、廃人に等しい扱いを受けている。

 エンドアの戦いから30年経ち、伝説的存在となってしまったルークにはいろいろあったではあろうし、それに元々ルークはそれほど心の強い人ではない。(スカイウォーカー家の男性のメンタルの弱さは、まさにお家芸みたいなものだし)
 それゆえ、ルークがあれほど心が弱っているのはべつに不思議はないが、しかしその30年間については映画はなにも説明していないので、観る側としては、最初にルークがレイから渡されたライトセーバーをぽいっと捨てたところで、???となり、その後の展開も?マークが続いてしまう。特にカイロ・レンとのシーンは、弟6作目のルークを知る人には最大級の?マークが頭に浮かんでしまうであろう。

 でもまあ、とにかくルークの物語を最後まで描いたのは、それはそれで結構なことだとは思う。
 なによりルークを演じた、マーク・ハミルの演技は素晴らしいものであった。マーク・ハミルにとってルーク・スカイウォーカーは、人生と一体化したような、幸福でもあり不幸でもある、運命的な役であったわけだが、あの複雑な役を見事に演じ切っていたと思う。つまりは観客にとっては理解しがたいルーク像も、マーク・ハミルの熱演により、これもやはりルークなのだと、納得させるものはあったのだから。
 そして終幕近く、孤島に座禅するルークをバックに二つの太陽が沈むシーン。ああ、ルークはこの二つの太陽とともにずっとあったのだと、Epi4から見続けて来たファンにはぐっとくる感動的な名場面であった。


 ・・・ルークのことばかり書いて、他のことには手が回らなかったが、2時間半近い長尺のわりには、見所が多くて、そんな時間を感じさせない面白い活劇だったと思う。
 「スター・ウォーズ」というものに思い入れのあんまりない人には、映画にすんなりと入っていける、よい娯楽映画であろう。

【Binary Sunset】

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 スター・ウォーズ 最後のジェダイ 公式サイト

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December 14, 2017

映画:オリエント急行殺人事件 & 「名探偵」に対する私的考察

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 ミステリ映画の傑作「オリエント急行殺人事件(1974年)を、「超豪華キャストでリメイクした」、というこの映画。前作はたしかに大俳優を綺羅星のごとく配役したオールスターキャストの映画であったけど、今回の配役では大スターといえるのは、ジョニデとペネロペくらいであって、あとは往年の大スターが2~3名、将来大スターになるであろう有望若手女優が一名、残りはまあ普通という、超豪華とうたうには微妙なものであった。
 ジョニデは被害者役なので、そうなると真犯人はペネロペで決まりだろう、と大体のミステリ劇なら想像はつくけど、ただしこの作品はそう単純ではない。
 というのはアガサ・クリスティの原作自体がミステリの代表的古典であって、ミステリ好きなら内容はまず知っているだろうし、また映画のほうも有名な古典的名作であり、つまりはこの映画を観る人の大半は、犯人を最初から知っている、それを大前提として作られているからだ。
 そうなると製作者は、古典の音楽を編曲するかのごとく、いかに現代風にアレンジを利かせるか、というのが勝負になる。アレンジといっても、これほどの古典ミステリを、大改編するわけにはいかないだろうから、原典の本筋を保持したまま、新たな魅力を描出する、そういう手腕が必要になる。どういうふうにみせるのだろう?

 まあ、そんなことをまず考えながら映画を観てみたが、この映画は当たりであった。何より映像が素晴らしい。
 あのころの世界の憧れであった豪華寝台特急が、時代背景そのままに再現され、異様にまでに美しいイスタンブールを出発してから、険しい氷雪の山岳地帯を進んで行き、突然の雪崩による脱線事故が起きる、これら一連の映像美は見事の一言。
 そして、この事故から映画は主に列車内に場面が移り、突然起きた謎に満ちた殺人劇をテーマにさまざまな人間劇が繰り広げられる。

 ここでの劇は、1974年製作の前作が名探偵ポワロの老練な会話術を駆使した推理劇を主体にしていたのに比べ、謎解きは淡泊に進められ、それよりも、列車内にいた人々の「正体」をあぶりだすことにポワロの考察は主体となり、そしてそれはやがてポワロ自体の「正体」もあぶりだすことになっていく。この緊張感に満ちた人間劇は、最後のクライマックスのところ、「犯人は誰か?」ということとともに、「名探偵とは何か?」という問いへも、一定の解答を示すことになり、感動的な終幕を迎える。


 ここで、いったん映画から離れて、「名探偵」というものについて考えてみる。
 いわゆる推理劇、「謎解き」という人々の興味をそそる題材は、古代より多く創作に扱われてきた。これらの謎解きは、種々な立場の人々によって行われてきたのだが、近代になって、「犯罪者を特定できる、もっとも強力な存在であるはずの警察等の公的捜査機関でも手におえないような難事件を解決できる」、超人的頭脳を持った「名探偵」が活躍する推理劇が開発され、それ以降は推理小説は名探偵がセットということになった。

 小説を含めた創作では、様々な職業の人が登場し、それらはほとんど現実に存在する職業ではあるが、こんなに多くの小説が書かれた推理小説において、「名探偵」とはまったくの架空の存在であり、そんな者は現実には存在しない。
 しかし、そういう架空の職業がなぜ創作にこれだけ出てくるかといえば、それは理由は明らかだ。「名探偵」というものがあまりに魅力的だったからだ。

 世の中、ある分野において、何が発祥かという問いは、けっこう難しいことが多いのだが、「名探偵」についてははっきりしている。
 アメリカの作家「エドガー・ポー」が書いた小説「モルグ街の殺人」に登場する探偵「オーギュスト・デュパン」が、名探偵の原点であり、決定版である。これ以後の「名探偵」はすべてデュパンのパロディ、と言ってはなんだが、弟、子、孫、曾孫、そういった存在であり、つまりは派生物である。シャーロック・ホームズが代表的な「子」であり、クリスティ女史創出のポワロは「孫」くらいに位置する。

 さて、現実には存在しないような超人的能力を持った「名探偵」が登場する推理小説は、初期のほうは読者は鮮やかな謎解きを楽しんでいればよかったのだが、そのうちだんだんと問題点が出て来た。
 一番の問題点は、名探偵に精神的負担が課せられることになったことだ。
 推理小説では、通常の捜査では解決困難な難題がテーマになるので、犯人も相当に能力の高い者が担当になる。そうなると、事件が終末に近くなり、真の解答を知るのは、この世に名探偵と犯人のみ、という状況が生じる。それは、犯人を告発できるのは、この世に名探偵一人のみ、という状況であり、つまりは名探偵には必然的に、裁判官的な、人を裁く役が回ってくるのだ。犯人にも、それなりに事情はあるのであって、それを考慮もせずに、ばったばったと犯人を摘発していくことは、名探偵といえど、神ならぬ身、きわめて精神的に負担がかかることであり、こういうことが続くと心が壊れかねない。
 この問題については、当然推理小説創生の早い段階から生じ、特にクリスティと同世代の大作家、エラリー・クイーンにおいて顕著となり、やがては後年のクリスティも直面することになり、読者を当惑させる作品を残している。

 ここでまた映画に戻る。
 しかしながらポワロは、そういう苦悩とは関係ないような名探偵として、冒頭部で登場する。彼は世の中には善と悪の二つしかない、すべては、そのどちらかに分かれるという考えの持ち主で、きわめて怜悧な、あるいは冷淡な精神で事件に対処する。
 ところが、オリエント急行殺人事件では、なにが善か悪か、誰が善人で悪人なのか、非常に複雑難解な状況となり、ポワロは懊悩のすえ、ある決断をくだす。この決断にいたる、ポワロの精神の葛藤劇が、この映画での見せ場というか山場であり、それはとても感動的に描かれていたと思う。とくにその舞台が素晴らしかった。

 以下、その舞台について書いてみる。
 ここからは少々ネタバレを含むので注意。


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【終幕の舞台】
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 推理劇の〆の王道は、容疑者一同を一室に集め、おもむろに名探偵が「犯人はここに居る」と宣言し、それから推理を述べる、というものである。
 オリエント急行殺人事件にもその場面はあるのだが、原作と違い、一同は客車のなかに集まるのでなく、避難先のトンネル内に一列に並んで座っている。
 この構図、誰が見てもダ・ヴィンチの「最後の晩餐」そのものである。

【最後の晩餐@ダ・ヴィンチ】
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 「最後の晩餐」は、いうまでもなく、イエス・キリストが捕えられる前夜を描いた名画である。ここでイエスは、集まった弟子たちのなかに裏切り者がいることを告げ、弟子たちは動揺する、その一瞬を捉えた絵だ。この場面って、容疑者一同集めての、名探偵による犯人(裏切り者)宣告、という推理劇の〆そのものである。
 そして名探偵イエスは、裏切り者はユダ一人だけでなく、お前たち全員だと、アクロバット的な宣言を続ける。身に覚えなき弟子たちは仰天し、そして一番弟子ペテロは、師よなんてことを言うのです、私はけっしてあなたを裏切りませんと主張するが、イエスは、いやお前は一回のみならず三回も私を裏切ると断言する。
 聖書は、最後の晩餐のあと、イエスの言葉とおりに弟子たちが裏切るシーンを、執拗なまでに詳細に描いているが、これらの弟子は将来のキリスト教の主要な布教者であり、特にペトロは初代法王なんだから、もう少しマイルドな描写のしようもあるだろうにと私などは思ってしまうが、ここまでリアルに書いているのは、ようするにこれが当時皆に知れ渡っていた、まぎれなき事実だった、ということなのだろう。
 なにはともあれ、この最後の晩餐における人間劇は、「人間の心の弱さ、卑怯さ」を、厳格に物語っており、そして人間とはかくも弱き存在なので、それを乗り越えるためには、超常的なもの、つまりは宗教が必要ですよ、とそんな結論をつけにいっているのが、聖書という書物ではある。

 そして、現代版の「最後の晩餐」では、人間劇はどう描かれたか。
 さすがに初版から2000年近く経っては、人間も進歩はしたようで、ここで描かれるのは「弱さ」や「卑怯さ」ではない。
 名探偵の指摘に、集まった人々はうろたえることせず、かえって自らの信念を貫こうとする。そして、ポワロの残酷な試しに、そこである登場人物が見せたのは、強い覚悟、強い意志であり、それは人間の精神の崇高性を示すものであった。
 それによりポワロは、心に強い印象を受け、そうして彼は単純な善悪二元論を脱して、次なる高みに脱却していく。
 すなわち、この映画では主人公はポワロであり、主筋はポワロの精神の成長劇だったのである。

 この映画はシリーズ化されるそうで、次は「ナイルに死す」であることが、終幕で明かされているけど、そこでは以前に作られた作品とずいぶんと違ったポワロ像が楽しめそうだ。


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 オリエント急行殺人事件 公式サイト

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September 19, 2017

映画 エイリアン:コヴェナント@プロメテウス続編

Aliencovenant

 地球上の古代遺跡にかつて異星人が地球を訪問して、人類を創造し、かつ文化を指導したことを示す壁画が発見された。それには異星人の居住している星の位置が描かれており、大企業が神を探すために一兆ドルの予算をかけて最新鋭宇宙船プロメテウス号を造り、星間飛行にてその星を訪れた、というのが前作の「プロメテウス」。

 「我々はどこから来たのか? 我々は何か? 我々はどこに行くのか?」という、人類にとっての最大にして深刻なる難問への解答を、大画面を使った映画による映像美で描出しようという野心作であったが、たしかに映像そのものは素晴らしいものの、脚本に穴がありすぎた問題作であった。
 多大な犠牲を払ってたどりついた星は、目標としていた異星人の母星ではなく、一種の軍事実験基地であり、そしてそこには「神」と目されるエンジニアは一体しか居なくて、しかもそれは高い知性を有する存在とはとても思えない怒りっぽい短慮男でしかなく、人類の歴史初の異星人とのファーストコンタクトはただの諍いになり、その諍いはさらにはエンジニアの船とプロメテウス号の戦闘まで発展し、なにがなにやらわからぬうちにプロメテウス号は破壊され、この人類の英知をかけた「神探索プロジェクト」は、ただの喧嘩っぱやい異星人とのバトルに終わってしまった。

 壮大なる宇宙を舞台とした、哲学的、思索的な劇を見るつもりが、不機嫌な宇宙人との単なる喧嘩をみさせられ閉口した観客には、しかしまだ希望が残されていた。
 プロメテウス号はダメになったが、エンジニアの船は機能しており、それを使って生き残ったプロメテウスのクルーが、そもそもの命題であった謎を解きに、エンジニアの母星に旅立ったのが、「プロメテウス」の幕であった。
 続編では、母星にとどりつくだろうから、そこで本来の劇が見られるであろう。

 さて今回公開された続編の「コヴェナント」は、プロメテウスから約20年後が舞台。コヴェナント号は、2000人の選ばれた人類を乗せて新天地の惑星「オリガ6」へ恒星間宇宙飛行を行っていた。ところがコヴェナント号は途中で故障し、その修理のため乗組員は冷凍睡眠から起こされた。そのさいに近くの惑星から、人類の発したと思われる信号を受信し、その惑星の環境が「オリガ6」よりも人類の生息に適していることも判明。コヴェナント号はその惑星の探査を行う。
 この惑星こそが、前作でプロメテウス号スタッフが向かった「エンジニアの母星」であり、そこで前作で謎のまま終わっていたものが、ここで謎解きされるはずである。

 この謎解きを、前作で欲求不満をかかえたままの観客は、5年かけて待っていたのだから、わくわくしながら観たわけだが、・・・しかし観終わっての感想といえば、「それはないよ、スコット監督」というものであった。

 以下、ネタバレ感想。
     
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 コヴェナント号のクルーが降り立った星は、「植物は生い茂っているが、動物はいっさいいない」死の雰囲気濃厚な星であった。そして話が進むうち、この星にいた知的生命体は全て滅びさっていることが分かる。しかもその知的生命体は、プロメテウス号スタッフが会合することを熱望していた「エンジニア」ではなく、人類同様にエンジニアの造ったらしいものであることも分かる。つまりはここは母星ではなかったのだ。
 こうして前作のテーマであった、「遥かなる空間を旅しての、人類の創造主との会合」、という深遠なる劇は、今回もスルーされ、観客はべつに見たくもないエイリアンと人類のバトルをえんえんと見させられることになる。いやこの映画、題名にエイリアンってついているのだから、エイリアンが出ることに不平を言ってはいかんのだろうが、しかし前作じゃついてなかったし、もとよりエイリアンが主題の映画でもなかったし、なんか納得いかん

 まあそんなわけで、このシリーズ、当初の人類創造のミステリというテーマはもう離れて、エイリアン誕生の謎解きが主体になっているようだ。
 しかしそうだとすると、書けば長くなるので端折るが、エイリアン1とプロメテウスシリーズでは、様々なことで齟齬が生じて、映画全体でまったく整合性がとれなくなるけど、それでいいんだろうか。まさかパラレルワールドということで済ませてしまうつもりなのか。


 ところで、前作の舞台の星から今回の星までのプロメテウス号スタッフ、ショウ博士とアンドロイド デヴィッドの旅は、この映画ではいっさい省かれている。デヴィッドはこの映画での重要人物でもあり、省いていいようなものでもないはずだが、スコット監督も悪いとは思ったようで、そこの部分を描いた特別編が公開されている。

【特別映像】

 この短編、とてもいい、すばらしくよい。
 それこそずらずら並ぶコメント欄にある、「本編より、こっちのほうがずっと出来がよい」というのにいたく同感してしまうほど。

 エンジニアの母星へ向かう旅で、デヴィッドはショウ博士からの、優しい思いやりを受ける。前作では周りの者からモノ扱いされて、根性がねじまがり、性悪アンドロイドとなっていたデヴィッドが、“ I’ve never experienced such compassion. ”とつぶやき、母星で出会うエンジニアがショウ博士のような人だったらよいねと言って、こういう人に会いたいと博士の似顔絵を見せる。そういう「回心」したデヴィッドが、長旅を終えて目的の星に着いたとき、“ Look on my works, ye mighty, and despair! 神よ、私のやったことを見よ、そして絶望せよ!”と言い放って、生物にとっての超毒素である「黒い液体」を上空から撒き散らし、惑星に住む者を全滅させる。まさに悪魔のごとき存在と化している。
 この天使から悪魔への変貌、宇宙船のなかでいったい何があったのか。くわしく描写すればシェイクスピアの悲劇のような絶望に満ちた愛憎劇があったと想定はされるが、それは観客の想像しだいということか。

【「神」を滅ぼすデヴィッド】
Scene1


 
 コヴェナント、前作に引き続き、絵はたいへん美しいものであり、さらなる続編が作成されればぜひ見たいものではあるが、あいかわらず脚本がなあ。
 ハリウッドシステムでは、なにより「売れる脚本」が求められるから、こういう脚本になってしまうのはしかたないのかしれないが、しかしほんとうにこういうのがより支持される脚本なのかねえ? どうにも疑問である。


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 映画 エイリアン:コヴェナント 公式サイト

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October 03, 2016

映画:レッドタートル

Redturtle

 映画は嵐の海を必死で男が泳いでいる映像から始まる。
 どうやら船が難破したようで、遭難者である男は懸命に荒れ狂う海を泳いでいるうち、なんとか島へたどりつく。
 そこは小さな無人島であり、運よく植物と水はあったのでそこで男は体力を取り戻した。それから男は無数に生えている竹で筏をつくり、島を脱出しようとするが、筏を海に浮かべ島から離れようとするとすぐに筏は勝手に壊れてしまう。三度目の試みのとき、男の筏のそばに赤いウミガメが近付いて来た。そしてウミガメが海に潜ると、筏はまた壊れてしまった。男は筏が今まで壊れたのはウミガメのせいだと思い込む。

 ある時浜辺にあがってきたそのウミガメを見つけた男は、この邪魔ものをやっつけようと、カメを棒きれで殴りつけ、そしてひっくり返して浜辺に放置した。動けないカメは徐々に弱っていき、瀕死の状態になる。そのとき、男はカメが空に昇天する幻を見て、己の行った行為を悔み、カメを救おうとする。
 カメの傍に付き添っていた男は、カメの甲羅が壊れたことでカメの死を悟る。そしてカメに再び目をやったとき、なんとカメは赤い髪の女に変身していた。
 それから男とカメ女の生活が始まる。
 この奇妙な島での、男の数奇な一生を描いたアニメ映画。

 筋だけ書けば、古来よりよくある異類婚姻譚系の御伽話のようであり、まあ実際そうではある。
 そしてそれらの古典は読者によっていくらでも自由に解釈されてきたけれど、この映画ではさらにいくらでも自由に観客は解釈することができる。
 というのはこの映画には会話はなく、映像と音楽のみで成り立っており、観客はそこからしか情報を得られないからだ。

 「レッドタートル」の映像は、とにかく美しい。
 そしてその映像には、それぞれ特徴があるので、ある程度背景の登場人物の感情を知ることができる。
 男が暮す島での風景は、水墨画のように色を抑えた色彩で描かれており、そこでの男の人生はけっこう起伏に富んでいるが、その生活は島の色彩同様に淡々とした筆致で表現され、ドラマチックな人生のなかに静謐さと諦念を感じることができる。
 けれど島の描写とは異なり、海の色彩表現は陽光と透明感に満ちている。男とカメ女の息子は、その出自から海の生活を得意としており、彼の海での活動、それから島からの出発は明るさに満ちている。
 この映画、アニメ映画だけあって、その表現は映像にも最もかかっているわけだが、さらに会話なしなので、情報量は圧倒的に絵からとなる。それゆえ、この美しい絵から、観客はそれぞれに解釈をして、男およびカメ女と息子とともに映画のなかの人生をたどっていくことになる。その流れはけっして単純ではないゆえ、観客は自分なりの解釈を進めながら観ていくことになる。それは映画全体についてもそうだし、それぞれの場面についても、人によっていくらでも解釈はあるだろう。そしてその解釈の積み重ねのうち、映画は幕を引き 静かな感動が得られ、そして余韻が胸に残る。

 こういう映画は、普遍的な言語的解釈は最初からありえないようなものであり、観る者によって、さまざまな捉え方ができ、そしてそのいずれもが正解、ということになるだろう。
 そして、その捉え方、解釈、感動は、自分の心の変化によってまた変わって行くことも確実ではあり、この映画は人が年を重ねるたび、繰り返して観たくなり、そこから新たなものを得るであろう種の映画であった。
 私たちはそういった名画を既にいくつも持っているけど、「レッドタートル」はそういう名画のなかに入る一つだと思った。


 ・・・しかしながらこの映画、宣伝が乏しいということもあってか、宮崎市内の250人ほどの収容数の映画館に入ったら客が私以外誰もいなかったので驚いた。興行的には大コケのようだが、このままフェードアウトさせるにはもったいない良作であると映画ファンとしては嘆くばかり。


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 レッドタートル  公式サイト

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September 04, 2016

映画:君の名は。

Kiminona

 とあるド田舎に住む女子高生の三葉は田舎暮らしにうんざりしており、それは「もうこんな町いやや~、こんな人生はいやや~、来世は東京のイケメン男子にして~」と神に願うほどであった。その願いがかなったのか、ある日彼女は朝起きると東京新宿在住のイケメン高校生になっていた。戸惑いながら一日を過ごしたあと寝たら元に戻っていたので、それはよく出来た夢と思っていたが、そういうことが何度も続くうち、どうやら自分が本当に東京の男子高校生に入れ替わっていることを知る。
 同時に、男子高校生の瀧も三葉に入れ替わっており、彼もその異常現象に困惑しながら、入れ替わり時の田舎暮らしをそれなりに楽しむ。
 遠距離に住む彼らは、直接に出会うことはできなかったが、それでもノートやスマホを使って連絡を取り合い、次第に好意をだきあう。
 ところがある日、突然にその入れ替わり現象はなくなった。寂しさを覚えた瀧は現実の三葉に会いに行こうと、三葉の住んでいた町を突き止めそこを訪れるが、なんと三葉の住んでいた糸守町は、3年前に隕石が墜落して消滅しており、その時に三葉も亡くなっていたことが分かる。それを知った瀧は彼女を救うために懸命に努力を開始する、という話。

 このように初めのほうは「若い男女高校生の入れ替わり劇」というコミカルな青春物語だったのだが、後半から深刻な劇となってくる。
 そして、それはヒロインの三葉が、生まれながらにして重大な役割を与えられていた人物であったから、ということが分かってくる。

 三葉は糸守町に代々続いて来た神職宮水家の一族であり、実は入れ替わり現象は三葉自身は意識していなかったけど、宮水家の女性に代々伝わる超能力であった。そして宮水家には古より大事な役目が課せられていた。物語冒頭で出て来る彗星は1200年周期で地球に最接近し、そしてその都度糸守町に隕石を落とし、町に壊滅的なダメージを与えるのである。
 宮水家はその記憶を留め、人的被害を最小限に止めるため、何千年も糸守町で彗星到来に備えていた運命の一族であった。この映画は、その運命の一族の壮大な時空のなかでの宿命の劇なのである。

 さて、町を救うための、宮水家の女性に伝わる超能力。これが落下する隕石を破壊できるような強大な念動力であったなら話は簡単だったのだが、そのような便利なものでなく、「人間入れ替わり能力」という微妙なものであったので、三葉はこれを効果的に使う必要がある。
 三葉の入れ替わり能力は自分で制御・発動できるものでなかったので、その入れ替わりとなる対象人物を決めたのは宮水家のバックにある神様なんだろうけど、ここは映画をみていてちょいと理解しにくいところであった。

 たとえば男女高校生が主役のタイムスリップものは、「タイム・リープ あしたはきのう@高畑京一郎」という名作がある。その小説でヒロインが時間を越えて会いに行く男子高校生は、「性格には難があるが、極めて頭がきれる」という人物であり、ヒロインがやがて遭遇する恐ろしい事件を解決できる知的能力を持った者は、周囲に彼しかいなかったので、ヒロインが常に彼のところにタイムスリップしていくのはちゃんと必然性がある。
 しかし「君の名は。」では、町の惨劇を救うために選ばれた瀧君は、性格のよい好人物ではあるが、いたって普通の男子高校生であり、この大事件を救う者としての資格には難があるだろう。

 また、よくよく考えてみれば、三葉は幾度も3年後にタイムリスリップしているわけで、それなら自分の時間軸から3年間の情報は確実なものが得られるはずである。そうすると、自分の時間軸に戻ったとき、彼女は完璧な未来予知ができるわけで、それって超能力として最強に近いものであり、当たる予言をいくつも積み上げていけば、やがて迎える本番の隕石墜落時、人々の避難誘導は容易であったろう。

 どうにも三葉は自分の能力の真の使い方を知らなかったとみえる。
 もっとも2人とも、お互いの時間が3年ずれているということにまったく気づいていなかったのだから、映画的には仕方なかったということなんだろう。それにしても、人の生活空間には時代の変化を告げるものはいくらでもあり、それに気付かない2人は迂闊過ぎる。糸守町がテレビの電波は通じず、新聞も配達されないような秘境の地とかいうのなら話は別だが、そんな描写もなかったし。

 などなど、いろいろと?マークが頭に浮かぶ脚本であったけど、でも全体としてこの映画はたいへん良かった。
 何よりも絵が素晴らしい。神秘的な湖のほとりの糸守町の描写もよいが、とくに東京が見事である。どの東京のシーンも、我々がリアルに知っている東京そのものなのであるが、それが画面上では「それ、どこの東京?」と突っ込みたくなるほど、非現実的なまでに美しい。それは光源の使いかたや、空気の透明感、色の精緻な使い分け等々、きわめて高度な描画のテクニックによってなされているのであるが、エンドクレジットにずらずらと並ぶ作画担当の人たちの名前を見ると、日本アニメ界のトップクラス勢ぞろいという感じであり、まさに日本のアニメ界の総力をかけてつくられた映画といえよう。

 またストーリーも、せつなさ、哀しさがしみじみと伝わってくるものがあった。
 私たちは生きているかぎり、記憶は薄れ、失っていくのであるが、その失うこと、それそのものが哀しいことである。懸命な努力をし、そして感動、喜びを得たようなことでさえ、そのときの感情はやがては薄れていき、記憶そのものもやがては忘却のなかにしまわれていく。
 なにもかもがやがては消え去って行く哀しみ。そして哀しみのみが残っていくという、さらなる哀しみ。それは、ふりかえったときの青春、というものがその代表なのかもしれない。そして、青春のまっただなかにある主人公たちの物語であるこの映画、ハッピーエンドであるはずのラストシーンで、そういうせつない哀しみを感じてしまうのは、たぶん私ら中年特有のものであり、映画館に多く集っていた若者達は、またまったく違う感想を抱くのであろうなあ。


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 映画 君の名は。 公式サイト

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August 01, 2016

映画:シン・ゴジラ

Sinngojira

 映画館で「シン・ゴジラ」の予告編を観ていて、街を横切る巨大な尻尾で示す不安極まる情景、溶岩が中で煮えたぎっているような禍々しいゴジラの造形、それらの映像を見て、邦画の特撮(or CG)の技術のレベルも素晴らしいものになったなあと感心して、この映画の上映を楽しみにしていた。
 しかし予告編の映像を見、その映像の技術の素晴らしさに惹かれて観に行ったところ、いいのはその場面だけで、あとは退屈極まる駄映画、というのは邦画にありがちではある。例えば「進撃の巨人」とか、あるいは「進撃の巨人」とか、そもそも「進撃の巨人」とか。
 そして「シン・ゴジラ」のキャストは、「進撃の巨人」とけっこうかぶっていることから、少々の懸念を感じながら観にいったもの、この映画、近年まれにみる邦画の傑作であった。

 この映画でのゴジラは、今までのゴジラシリーズ通り人智を超えた圧倒的存在であるが、そこには何かのメッセージ的な役割はなく、それは自然そのものが人智を超えた圧倒的存在であるように、ただただ人類に対して圧倒的破壊力を示す。
 ゴジラは別に人類を滅亡させたいという意思があるわけでもない。気まぐれに海からあがって都市に上陸しまた海に戻るだけである。しかし、あれほどの巨大生物が海から上がって川を遡上して都市を横切るだけで、都市は破壊され尽くし、甚大な被害が生じる。それこそ、台風、地震、津波、竜巻等が、誰もいないところで生じれば単なる自然現象なのに、それが人が密集するところに生ずれば、たいへんな大災害になるがごとく。

 この自然そのもの、あるいは災厄神といってもいい存在であるゴジラに対し、それでも日本政府としては、「自然現象だから」と放置できるわけもなく、懸命の努力をする。

 「シン・ゴジラ」は、ここが最大のキモである。
 ゴジラは映像的に圧倒的存在感があるが、しかしそれはあくまでも脇役であり、「シン・ゴジラ」は、この迷惑極まる「荒ぶる神」に対し、それへのリアルな対処をする群像が主役となっている。

 前代未聞の危機が首都を襲っているわけだから、政府、官僚、民間組織は、市民を都市を組織を守るために、努力の限りを尽くす。これに対応する機関はざっと考えて、国交省、外務省、財務省、防衛省、厚労省、警視庁、環境省、文科省、宮内庁、・・・てか、全部の省庁が関与するわけであり、ともかく会議、会議で、最善の対処法を決めていかねばならない。
 最初は省庁の垣根もあり、ギクシャクしているが、それでも各々の役割がはっきりしだし、サポートする有能な者も集めたりしたことから、なんとか対処法を見出していく。

 都市部の事件を題材とした某ヒット映画に、主人公が激高して叫ぶ「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ」との有名な台詞があるが、会議は大事なのである。ものすごく。

 というわけで、この映画は、ゴジラに対してどう対処するかのシミュレーション映画なのであり、徹底して「会議映画」といえる。そういう意味で、斬新な怪獣映画といえる。

 で、会議が主役のこの映画、しかしゴジラの造形もまた素晴らしい。それこそ予告編以上に。
 ゴジラが追い詰められ、そこで炎を吐き、都市を焼きつくすシーン。東京の終末、この世の終わり示すような、黙示録的描写であり、邦画の歴史に残る名場面であった。

 この映画、語りたいことはヤマほどあるが、あまり語ればネタバレばかりになるゆえ、このへんで評を終える。
 とりあえず言いたいことは、これは上映しているうち観ないと絶対損する映画。
 近頃では「パシフィック・リム」以来、そういう感想をいだいた名作であった。

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 シン・ゴジラ 公式サイト

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May 08, 2016

映画:レヴェナント

Revenant


 あらゆる栄光を獲得した大スターが、ただ一つ手に入れていないものーアカデミー主演男優賞を獲るために、過酷な撮影状況のもと、おのれの身体をはって命がけの演技をする、ド根性映画。ここまでやってオスカー獲れなかったら、あとはどうすりゃいいんだ、と誰にも思わせる説得力に満ちている。

 この映画は、「レヴェナント」という優れた映画を観ると同時に、「ディカプリオを題材としたディカプリオ主演のオスカー獲得劇」という映画も楽しめる、二層構造をもったユニークなものである。

 もっともディカプリオがオスカーのために悪目立ちしているかといえば、そういうことはなく、もちろん目立つことは大変目だっているのだが、あの鬼気迫る演技の数々は、極限状態に陥り、そこから奇跡的な復活を果たすという、「極端な男」を演じるには不可欠のものであり、ディカプリオの演技力なくしては、この主人公は造形できなかったであろう。

 あらすじ。
 1800年代の北米。ロッキーの山中で動物を狩り毛皮を集めていた毛皮商人一行が、原住民に襲われ逃避行に入る。そのとき灰色熊に襲われ瀕死の重傷を被った猟師グラスは、一行の足手まといになることから、死の看取りおよび埋葬用に3人をつけてそこに残される。グラスは高熱を出しており、もう間もない命と思われ、原住民が近くに迫っているであろうこともあり、3人のうちの一人ジョンが、てっとり早くグラスを殺そうとしたが、それを見たグラスの息子が反対し、グラスの息子はグラスの目の前で殺されてしまう。そしてグラスはそこに半ば埋葬されたようなかたち、極寒の荒野に一人残されてしまった。
 すぐにでも死ぬと思われていたグラスであるが、そういう目にあったために、強靭な精神力を発揮し、折れた足を引きずりながら、ジョンへの復讐のため生還の地を目指す。

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 灰色熊に無数の傷をつけられ、さらには咽も裂かれているので飲水もまたできない、しかも足は解放骨折しているのでまともに歩くこともできない。こんなもの、感染症ですぐ敗血症起こして死んでしまうわいとか思ってしまうのであるが、でもこの映画は実話を元にしているのであり、だからこそ、実在のグラスは「レヴェナント(revenant)蘇りし者」と呼ばれたわけで、世の中、信じられぬほど逞しい生命力を持っている人がいるのである。

 ともかく、グラスの壮絶なるサバイバル劇は、まあやりたい放題であって、たいへん迫力ある。そこまでやるか、という場面もいくつもあり、究極の努力をなさねば生き残ることは出来ない、その厳しさが迫って来る。

 そしてグラスの生きるための努力を主筋に、そのグラスを脅かす過酷なロッキーの自然。これが、もうじつにじつに美しい。
 鋭い針葉樹の森、白く広がる大雪原、雪をまとった峻厳たる岩山、凍れる河、これこそ映像美という光景がふんだんに現れ、映画館でみる映画の醍醐味を存分に教えてくれる。


 ディカプリオのオスカー獲得がまずは有名な映画であるが、筋もよいし、脇役の出来も非常によく、そして抜群の映像美。
 見事な名作であった。


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 レヴェナント →公式サイト

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April 04, 2016

映画: バットマンvsスーパーマン

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 アメコミ界の二大スター、バットマンとスーパーマンが対決する話。
 これっていろいろと無理があると思う。
 バットマンは一地方都市の用心棒に過ぎないのに対し、スーパーマンは世界規模の存在で幾度も地球の危機を救っているヒーローである。格が違いすぎる。例えれば、鼠が象に喧嘩をふっかけるような話であり、設定に無理がありすぎ、駄映画になるのは確実と思われた。

 しかしそれでも観てみる気になったのは、予告編の出来がよかったのと、バットマンをベン・アフレックが演じるということによる。ベン・アフレックはアホな脚本の映画には出ない役者であり、彼が主演というからには、それなりの意味があるのだろうと思ったのだ。

 そして観た感想といえば、なんだか微妙な出来の映画ということ。

 バットマンがスーパーマンを地球から排除すべき敵と思いこんだのは、スーパーマンの力が圧倒的すぎて、もしもスーパーマンが人類に敵対する存在となったとき、それを制御するすべがないという不安による。
 しかし人類に対して悪意を持つ地球外生物が幾度も地球を襲っているなか、それに対抗しうるのはスーパーマンしかない、という現実があるのに、そのような考えを持つのは、危ない思想であり、ほとんど妄想に近い。
 ただ、バットマンがそういう認識を持つにいたった経過は、きちんと映画では語られており、そこにバットマンの性格というものが如実に表れている。

 正義の味方であるスーパーマンは、人類にとって圧倒的な存在である。そのような傑出した存在に対して、一般民衆は、憧れと憎しみ、この二律背反する感情を常に抱くものである。そして後者の暗い感情は往々にして暴走しがちだ。
 バットマンは全シリーズ通して、良い意味でも悪い意味でも常識的であり、また凡人的な思考の持ち主である。だからこの映画では一般大衆の思考に押される形で、勝手に人類の代表のような存在になり、スーパーマンに対決を迫るわけ。

 まあ、そんなこんなで、神に等しいスーパーマンと、特製強化バトルスーツで武装したバットマンとの戦いが始まる。
 ここのアクションはひじょうに素晴らしかった。

 しかし、アクションよりも、さらなる見所はワンダーウーマンであった。

【ワンダーウーマン】
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 ワンダーウーマンは、映画のタイトルにはまったく出ていないけど、劇場で配られるしおりに主役2人と並んで載っており、そして主役級の活躍をみせるキャラクターである。

【ワンダーウーマン@リンダ・カーター】
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 じつのところ私のような中年世代にとっては、ワンダーウーマンとはリンダ・カーターが決定版であり、ワンダーウーマンといえば、誰しもこのリンダ・カーターの姿を思い浮かべるのであって、最初はこの映画のワンダーウーマンには違和感を覚えた。
 しかし、場面が進むごとに、この美しく、スタイリッシュで、逞しい女性は、神の娘ワンダーウーマン以外のなにものでもないと思えてきて、よくぞこんなにワンダーウーマンそのものの役者をみつけてきたものだと感心してしまった。まあ、「ワンダーウーマンそのもの」をじっさいに見た人はいないんだけど。

 というわけで、ワンダーウーマンの登場からは、彼女の活劇ばかりに目がいってしまい、ワンダーウーマン万歳といった感じとなり、バットマンとスーパーマンの映画がワンダーウーマンの映画に変じてしまった。
 ワンダーウーマンに関しては、同じ役者で、つぎなる映画がつくられるそうで、これは楽しみである。


バットマンVSスーパーマン 公式サイ

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February 05, 2016

映画:オデッセイ

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 マット・デイモンが遠く離れた惑星で一人ぽっちで暮らすSF映画。
 ・・・って、1年前くらいにそういう映画を見た記憶があるんだが、とか、ポスターでの火星にたたずむ宇宙服姿がSWのドロイド BB-8にそっくりだとか、あるいは「火星で自給自足および救出劇」という設定が、まんま「ミッション・トゥ・マーズ」だなあ、とか、そもそもスコット監督こういうの撮ってるより早くプロメテウスの続編作ってよ、とか、観る前にはいろいろとつっこみを入れたくなる映画であったが、いざ観ればたいへんいい映画であった。

 火星探索を行っていたチームが、火星の砂嵐に巻き込まれる。そのときの事故でワトニー隊員が負傷し死亡したと思われた。他の隊員は間一髪のタイミングで、嵐から連絡船で脱出して、母船に戻り地球への帰還を開始した。
 ところがワトニー隊員は奇跡的な幸運で生存していた。
 しかし一行が脱出してしまったため、彼は火星で暮さねばならない。ミッションは1ヶ月間の予定だったので、水、空気、食物は数が限られている。次に火星探査機が来るのは4年後、彼はそれまでサバイバルしなければならない。

 というわけで、前半は「火星のロビンソン・クルーソー」といった物語。
 ワトニー隊員は、己の知力・知識をふりしぼり、そして火星にあるものなんでも使って、水、空気、食物を自作していく。
 このあたり、ワトニー隊員は絶望的な状況にいるのに、全然悲愴さをみせない。どころか、この危機をまるで楽しんでいるかのごとく、一つ一つの難題を明るいノリで解決していく。
 まさに、人間離れした胆力、精神力といったところであるが、よく考えれば彼は宇宙飛行士なのである。
 世のなかに数あまたある職業のうち、宇宙飛行士は最高のエリートであり、知力、体力、精神力について、難関である選抜試験をいくつもくぐりぬけ、それからさらに厳しい訓練に耐え抜いた人たちなので、じっさいにこういうことが起きても、彼らはワトニー同様に、タスクを片づけて行くとも思われる。
 もう一つ感心したのが、ワトニーがNASAが昔に火星に残した機材を用いて、通信機材を組み立てるところ。アメリカって、1970年代にすでに火星に機材を送り込んでいたわけで、やはりすごい国だと改めて思い知った。

 後半は、ワトニー生存を知って、NASAが総力をあげて、ワトニーの帰還作戦を実行するドラマが主体となる。
 このあたりの作戦における、NASAの技術力とか探索力とか情報処理力とかは、「諸君、これがNASAだ」とも言いたげな、やはり世界の知性が集結した組織の実力というものをまざまざと見せつけていて、理系人間として、観ていてワクワクするものがある。

 そうして、映画の画面の魅力もまた素晴らしい。
 我々が今まで見ていた、NASAが発表していた火星の赤茶色い荒涼とした大地が、大画面で鮮やかに、それそのものの姿で現れる。
 火星および宇宙でのドラマもよかったけど、あのリアルな火星の荒野を大画面で観ることができるだけでも、この映画は観る価値がある。


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 映画 オデッセイ 公式サイト

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May 24, 2015

映画:メイズランナー

Maze_runner


 あらすじ。
 外の世界から隔絶された場所に、定期的に記憶を消去された人間が送り込まれる。その場所は巨大な迷路に囲まれており、そこを踏破しなければ外へ脱出はできない。しかしその迷路は自在に構造を変えるので、迷路を解くのは困難きわまりない。しかし閉じ込められた者たちは懸命にその脱出法を探って行く。

 …って、このあらすじみると、誰だって映画「CUBE」の翻案モノ(パクリとも言う)で、舞台を大がかりに変えただけじゃ? とか思うわけだが、この手のsolid situation thriller(異常な状況下に閉ざされた空間で、その謎を解く分野もの)は好きなほうなので観てみた。
 solid situation thrillerは舞台が限定されているので低予算が定番なんだけど、この映画は、大規模なセットを組んでおり、けっこうな予算を使っているらしいのが新趣向とはいえる。

 さて、観た感想からいえば、「せっかくの巨大迷路、その意味があんまり感じられなかった、これは残念」、ということに尽きる。

 「迷路」を前面に出した映画だと、昔はいざしらず、現代では、迷路を知力体力をふりしぼって、それで脱出できてめでたしめでたしで単純に幕、というわけになるはずはない。かならず、なんらかのトリックあるいはオチがあるはずである。
 それで映画中、漠然といくつかパターンを考えたけど、

 (1) 巨大迷路はグループを閉じ込めるものなのでなく、実は外界からの攻撃を守るための盾であった。→反転もの
 (2) 巨大迷路は試練の装置であり、その脱出の過程で、グループの各員の能力を高めるための道具であった。→教養もの
 (3) 巨大迷路は実は異能力の産物であって、それを超能力で造った者がグループのなかにいる。だから迷路は彼を倒さないと消えない。その人物を探すための疑心暗鬼の心理劇がくりひろげられる。→心理サスペンスもの
 (4) 巨大迷路は実は生物であり、グループの者たちはそれを養うための下僕みたいなものであった。→ザルドスもの
 (5) 巨大迷路は実は巨大迷路につながっており、永遠にきりがなかった。→ループもの

 等々いろいろと考えたけど、終幕にいたっての解答は、なんというかかんというか、…よくわからんものであった。

 この巨大迷路本体の謎に関しては、単純にまとめれば「誰が何のために造ったのか」という、WhoとWhat forの二つが大事なのだが、「誰」についてはなんとなくわかったけど、「何のために」は、説明らしきものはあったけど、あれじゃ納得はいかんですわ。

 もっとも、この映画は3部作の一番目なので、謎を完全に明かしたら、ここで終わってしまうから仕方ないのだろうけど、どうにもスッキリこない。

 といわけで脚本はイマイチだったが、では映画は観なくてよいかといえば、あの巨大な迷路の絶望感、そして迷路の俯瞰図を観てさらにその巨大さに驚嘆する、あれは映画館の大スクリーンでみないと分からない。
 それゆえ迷路、特におおがかりな迷路が好きな人にはお勧めの映画である。

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メイズランナー:公式サイト


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