映画

February 24, 2020

映画 キャッツ

Cats-movie

 ミュージカル「キャッツ」の実写版映画。原作は世界で最も人気のあるミュージカルだし、それにスター達が出演するということで注目はされていたが、いざ米国で公開されると、その怪作ぶりのみが話題になり、映画そのものは大コケに終わった、という不幸な作品。
 それでも映画館で観た予告編での映像・音楽は雰囲気のよいものだったし、さらにはそれだけ評判が悪いとかえって観たくもなる。そういうわけで映画版キャッツ観賞。
 私の事前情報といえば、先ほど述べた酷評と、それから以前に映画館に貼ってあったポスターにジュディ・デンチ、テイラー・スウィフトの名前が出ていた、ということくらい。それだとジュディ・デンチがグリザベラ、テイラー・スウィフトがジェミマかな? しかしデンチが今さらグリザベラ歌えるのだろうか、いや歌えるわけないから本職が吹き替えか。テイラー・スウィフトは歌はまったく問題ないけど、踊れるのかね、とか漠然と思っていた。
 そういう情報のみで映画を観ていたのだが、出て来たグリザベラはジュディ・デンチと全くの別人である。そうなると老女が演じる役って、この劇ではグリザベラ以外にないので、ジュディ・デンチはいったい何を演じるのだろうと混乱する。というかこのグリザベラ、全然老いていない、現役感バリバリの中年猫で、なんか変だ。そしてテイラー・スウィフトは群猫のなか、どれを演じているのかよく分からなかったが、歌いだしてボンバルリーナと判明。となるとなんか大スターにしては役不足に思える。歌の重みからするとビクトリアを演じるべきだったのでは。…いや、あんな踊りはプロダンサーしか無理か。そしてジュディ・デンチはといえば、なんとオールド・デュトロノミー。これははっきりいって失敗。キャッツの終幕は、猫の扱いかたについて、じつに下らない歌詞を歌って〆るのだが、あの下らない歌詞を荘厳なバリトンで歌うから面白いのに、ジュディ・デンチのメゾでは軽過ぎて、その下らなさのみが目立ってしまう。ジュディ・デンチの演技はオールド・デュトロノミーの持つ威厳と慈愛をうまく表現していたけど、歌はどうにもならない。

 さて映画全体の感想といえば、まずはオリジナルとは、ずいぶんと内容が違っているなあ、というものであった。オリジナルは、老雌猫グリザベラが主人公であり、個性的な猫たちの歌あり踊りありの宴会芸大会は、グリザベラの歌う「メモリー」への長い前座になっている。そして「メモリー」も二段構えになっていて、幾度かの転調ののちに、「Touch me~」と高い声で歌いあげるところが、ミュージカル全体のクライマックスであって、あそこで観客は誰しもガツンと来て、感動する。そういう構造になっている。
 ところが映画では捨て猫の若い雌猫ビクトリアが主人公になっていて、その猫が「メモリー」の前に、それと同様の「孤独」をテーマとした曲を歌うので、そのあとで歌われる「メモリー」は二番煎じみたいな感じとなり、どうにもこの曲に心が入っていけない。それゆえそのあとのグリザベラの昇天もなんだかピンとこなかった。昇天のシーン自体も、怪しげな気球船が遭難覚悟で空に突っ込んでいくような妙なものであったし。
 というわけで、原作ファンの者が観に行くと、頭に?マークがいくつも浮かんでしまう映画であり、そしてこの映画は原作ファンが客の大半を占めていたであろうから、映画の酷評もまたやむをえなしと言えよう。私も駄作とまでは思えないが、(なにしろ歌と踊りは素晴らしいので)、いろいろと残念な映画であったとは思う。

 それでも部分部分ではいいところもあり、それらは原作ファンとしても楽しめるものであった。それらを紹介してみよう。以下ネタバレ少々あり。

 

【ミストフェリーズ】

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 原作では自信満々の魔法使い猫ミストフェリーズは、映画では気弱なマジシャンとなっている。
 オールド・デュトロノミーがマキャヴィティに瞬間移動術で攫われたのち、オールド・デュトロノミーを取り戻すため、猫たちがミストフェリーズに魔法を使って戻すよう懇願する。ミストフェリーズはそんな凄い魔法なんて使えないので、その無理難題に困惑するけど、断るわけにもいかず懸命に魔法を使っているふりをして、そしてそれは当然上手くいかず泣きそうになる。
 そこへ、自力で脱出したオールド・デュトロノミーが背後に現れ、よく頑張りましたというふうな慈愛の笑みを浮かべ、Oh, well I never, was there ever a cat so clever as magical Mr. Mistoffelees? と歌うところ。原作とはまったく違う筋になってしまっていたけど、ここは和めてとても良かった。

【アスパラガス】

Asparagus

 落ちぶれた老俳優猫アスパラガスはイアン・マッケランが演じている。
 キャッツはCGとメイク技術が高度なので、どの役者も猫にうまく化けているけど、ジュディ・デンチとこの人だけは、いかに猫の扮装をしようが、本人そのものであった。これが大スターのオーラというものか。
 アスパラガスが若き日の自分の栄光の日々を思い出すシーンは、アスパラガスに今も燃え続ける役者魂を表しているが、それをイアン・マッケランは見事に表現している。

【スキンブルシャンクス】

Skimbleshanks

 キャッツのなかで一番の人気者、鉄道猫スキンブルシャンクス。鉄道が好きで好きで仕方がない鉄道オタク猫、なんだけど、映画ではオタク風味が減って、凄腕タップダンサーとして登場。快適な鉄道行進のリズムを、見事なタップスで刻んでいくのはじつに見ものである。単なる鉄オタ猫であった原作とは相当違ってしまったが、これはこれで素晴らしく、改めて原作の歌を聞くと、タップダンスの音がないのが物足りなくなってしまうほど。

 などなど、みどころはそれなりにあったが、原作ファンにはあんまりお勧めできない映画ではあると思う。
 そして、ミュージカルのほうのキャッツの知識がない人が、この映画を観たさいにはどのような感想を抱くのか、そちらにも興味を覚えた。

 

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 映画 キャッツ 公式サイト

 

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June 30, 2019

映画:ゴジラ キング・オブ・モンスターズ

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 日本の怪獣映画史上最も有名なコンテンツである「ゴジラ」を、ハリウッドが巨額の費用をかけてリメイクしたゴジラ実写版その3。
 20年前のエメリッヒ版の一作目は、ゴジラは「俊敏な巨大爬虫類」といった感じで、原作のゴジラの「荒ぶる神」と称すべき威厳も神秘性もまったくないベツモノであったけど、2作目のギャレス版ゴジラは原作の精神に戻り、ゴジラは「人間以上の存在」としてのオーラを放ち、映画全体としても良作であった、と思う。そのゴジラをそのままスライドして用いたのが本作。

 本作の原作は「三大怪獣 地球最大の決戦」で、東宝ゴジラシリーズで最も強力で凶悪なモンスター「キングギドラ」の登場する話である。キングギドラは造形も素晴らしく、他の怪獣がトカゲなり鳥なり昆虫なりのモトネタがあったのに対して、これはまったくのオリジナルであり、この映画で初めて世に出現した異様にして美しい、魅力あふれる怪獣であった。そのキングギドラが、着ぐるみ撮影でなく、最先端のCGによって大画面で登場するのだから、これは観ないと損でしょう。

 そういうわけで観たけれど、脚本ははっきりいってつまらなかった。
 こういった大災害モノでは、家族の物語をそれに並行させるのはハリウッド映画の常道であるが、それらはたいていは映画を面白くするのに役に立っていない。なにしろ向うの人達って、家族が危機に陥ると、世の中がどうなろうが、他人にいかなる迷惑をかけようが、家族を救うためのみ全力を尽くす、てのばっかりで、まあそれは人間の行動様式としては納得はできるものの、それをこれが正義だとばかり延々と見せられると、なんか鼻白んでしまう、というのが正直な感想である。
 この映画でも、怪獣の暴動により世界が危機に瀕する筋に、怪獣制御のキーとなる技術を持つ科学者家族の物語がからむのだが、それがまったくつまらない。

 科学者夫婦は前作でゴジラによって、息子を一人亡くしている。それが原因で家族はみな心に深い傷を受け、離れ離れになったのだが、そこから立ちなおるための妻の思考が極端である。
 彼女は息子が亡くなったのには何か理由があったと考える。そして、息子が亡くなったのは、それは怪獣に殺されたからで、つまりは怪獣は人を殺す存在なので、そのため息子は亡くなった。ではなぜ怪獣が人を殺すかといえば、それは怪獣が人間の上位にある生物であり、彼らは自分の意思で自由に人を殺すことができる存在だからだ。そして怪獣が人間を適度に殺すことによって、何が起きるかといえば、自然環境が改善する。つまり怪獣が適度に人間を間引くことによって、地球は環境汚染、戦争、異常気象を改善することができ、長い目ではそれは人間をもよい影響を与える。そうだ、息子は世界を良くするために亡くなったのだ、ではさらに怪獣を増やして世界をより良くしよう、そういう論理の進め方により、彼女は今世界で眠っている怪獣たちを解き放ち、人類の審判者、あるいは裁定者として、地上あらゆるところに跋扈させようとする。

 この怪獣を神聖化し、人間よりも上位の存在として崇める思想。
 向うのクジラ保護運動なんか見ていると、あきらかに彼らは人間よりもクジラを大切な存在と思い込んでいるので、西洋ではべつだん珍しい思想ではないようには思えるけど、クジラと違って怪獣は獰猛な生き物なので、彼女の行為によって20匹近くの怪獣が野に放たれると、世界は壊滅的ダメージを受けた。
 一人の女性の理性を失った思いこみにより、世界が危機に瀕するという、なんとも哀しくもやりきれない話である。でも、それでも、これで彼女の本望達成、めでたしめでたし、とかいうふうにはならず、その怪獣の大暴れにより彼女の残った一人の娘の命が危なくなると、彼女はそこで半狂乱になり、娘を救うことと、娘を襲っている怪獣を排除することに懸命に奔走することになる。
 怪獣に人類の命を捧げて当然とか言っていた人が、いざ自分の家族の命が危険にさらされると、前言撤回、全く逆の行動に出る。
 狂信者というのは、たとえ根本の思想が間違っていても、その行動に首尾一貫性があるのが本物の狂信者というものであって、ここで彼女は狂信者としての誇りも意義も失ってしまう。
 つまりは彼女の先ほどの思想とやらはただの言い訳みたいなもので、本当は「自分の息子だけが怪獣に殺されたのが腹が立つし、納得いかない。こうなりゃ、他の人達も怪獣に食われて、私と同じように不幸になれ」という考えで、怪獣を世に放ったということが露呈されてしまい、まったくみっともない。

 つまりはこの女性科学者はろくでもない人間なのだが、それは私のみの意見ではなく、彼女は映画内で、他の人物皆、家族や機関関係者、はては環境テロリストからも、お前はおかしい、お前はどうしようもないと非難されており、映画の脚本上からも、最初からどうしようもない愚かであり、魅力のかけらもない人物と設定されているわけで、演じる役者もさぞかし気がのらない役ではあったと思う。
 しかしながら彼女はこの映画では極めて重要な役割を持っている。
 前作で怪獣達はモナークという機関で厳重に管理されていると設定がなされているが、怪獣達が暴れるというテーマの本作では、その管理されている怪獣達を解放するには、こういう愚かな人物が必要不可欠であった。その理由のみで、彼女はこの映画に存在している、ということだったのだ。

 そんなこんなで、この科学者の物語にはイライラさせられたが、しかしキングギドラを始めとして、怪獣たちの造形はとても素晴らしかった。三つの首がそれぞれ独自に動き、かつ大きな翼をはばたくキングギドラの動画って、CG造るのはとても大変だと思うけど、じつに自然に、かつ雄大、雄渾に動きまくっていた。威厳と迫力にあふれるゴジラは前作同様の格好良さ。さらに驚いたのがモスラ。巨大な羽根から放たれる光をまとった姿は、神々しいまでに美しかった。

 これらの怪獣の姿、そしてバトルを映画館の大画面で観るだけでも、ああ、今の時代はこのようなものが観られるようになったのか、と昭和の東宝怪獣映画を観て育った者は感動してしまった。いい映画であった。

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 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 公式サイト

 

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May 02, 2019

映画:アベンジャーズ・エンドゲーム

Avengersendgame

 10年近くにわたって続けられてきたハリウッド大作映画シリーズ、「アベンジャーズ」の最終章。
 アベンジャーズはキャラが多く、それによって派生した作品も多いので、全部は見ていないものの、主筋はアイアンマンとキャプテンアメリカが動かしており、彼らが出ている作品はだいたい見ているし、なにより直接の前作インフィニティ・ウォーも見ているので、本作品も事前学習なくとも問題なく見られると思っていた。

 ところが冒頭近く、全然知らない人物が宇宙空間にド派手に現れ、それが神のごとき超常的パワーの持ち主であり、「いったい、こいつは何者なんだ。こいつが最初から登場していれば、サノスなんて鎧袖一触じゃなかったんかい」とか思ってしまい、上映中ずっと気になってしまった。
 あとでパンフレットで確認すると、それは宇宙の英雄キャプテン・マーベルで、前作の最後でニック・フューリーが助けを求めるためにポケベルで連絡をとった人物その人なのであり、きちんと伏線が張られていていたのであった。しかし映画「キャプテン・マーベル」はつい最近上映まで上映していたけど、インフィニティ・ウォーにつながる作品とは思えず、食指がうごかず見逃してしまっていたのは残念。あれ見ていれば、彼女が登場したとき、待ってました、とのカタルシスが得られたのに。

 そういうわけで冒頭は躓いてしまったけど、3時間かかるこの大作、見どころ、見せ場がずっとスピーディに続き、たいへん楽しく見させてもらった。

 

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 以下の感想、少々ネタバレあり。

 

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 この映画の前半は失われたアベンジャーズを復活させるための、生き残りのメンバーによる冒険談である。それは単なるバトル、知力戦に留まらず、それぞれのメンバーの人生をたどるものであり、静かな感動を呼ぶシーンに満ちていた。
 とりわけ、ブラック・ウィドウの物語。改造人間であるブラック・ウィドウは一般人からすると最強レベルに強いのであろうが、超人ぞろいのアベンジャーズのなかにあっては最弱レベルであり、あんまり役に立っているようには思えなかった。しかし彼女にはその知能と責任感によって、生き残りのメンバーのなかで最も精力的に仕事を行い、そして重大な役張りを果たすことになる。
 アベンジャーズのなかにあって端役であるブラック・ウィドウに、スカーレット・ヨハンソンのような大女優を使うことに私は違和感を感じていたが、しかしこれほど重要な役に成長するなら、それは正しい選択であったことが分かった。・・・しかしながら、スカーレット・ヨハンソンの代表作がどうやらアベンジャーズになってしまいそうなのはいかがなものかとも思ってしまう。「真珠の耳飾りの少女」で有名になったころの彼女が、こういう方向に進むなんて全然予想できなかったなあ。

 そして物語の後半、苦難のすえアベンジャーズが蘇り、勢ぞろいして、リーダーであるキャップの号令、「アベンジャーズ集合!」のもとに始まる大バトル、これは迫力満点であった。とりわけ、ワンダとサノスのタイマン、「ワンダってこんなに強かったのか」と感嘆してしまうほどの圧倒的パワーを見せ、アベンジャーズではキャプテン・マーベル除くと、じつはワンダが最強なのでは、と思ってしまった。まあ、ワンダが叫んでいたごとく、あれはワンダがキレたから強さが増強したらしきせいもあるみたいだが。
 やがて戦闘が続き、敵の強力兵器にアベンジャーズが押されるなか、キャプテン・マーベルが雲のなかから突如現れ、登場するやとんでもない無双ぶりを発揮する。この人ひとりいたらアベンジャース必要ないんあじゃね、って思うくらいの強さで。しかしキャプテン・マーベルって、なんでいっつも遅れてやってくるのだろう?

 などなど思ううち、やがてサノスとアベンジャーズの物語は解決に向かう。前作で、ドクター・ストレンジがトニーに謝って「There was no other way. これしか方法がなかったんだ」と言って消え去ったが、たしかにそういう方法にて。それにしてもこのシーン見て、インフィニティ・ウォーを思い返し、これが唯一の解決法かよ、ひでぇ話だな、ドクター・ストレンジってなんてひどいやつなんだ、そりゃ謝るわけだ、とか思ってしまった。さらにはなにか他に方法がありそうに私には思えた。それこそ、キャプテン・マーベルがいるだろう、というふうに。ただし、そういうのは誰でも思いつくことであり、ドクター・ストレンジの言を信じるなら、ドクター・ストレンジはそういうのを当然含めて、無限に近い選択肢を試したのち、サノスに勝てるには結局あれ一つしか見つけられなかったわけで、まあ仕方なかったのだろうなあ、と無理に納得した。

 大対決が解決したのちは、アベンジャーズ個々の物語に移る。
 映画は、アベンジャーズの主要人物、―冒頭のポスターに出ている者たちのエピローグを語る。それは彼らの人生を語りきっていたり、あるいは新たな人生の幕開けを告げたりで、この10年間彼らにつきあっていた観客として、胸に迫って来るものがあるいいシーンの数々であった。

 莫大な費用をかけて、良い脚本を練り、一流の役者を雇い、そして最新レベルの映像を撮る。まさにハリウッド映画の見本のような映画であり、存分に楽しめた。
 平成の時代、映画の技術は革新的に進歩したが、令和の時代を迎えて、さらに面白く、楽しい映画の数々を経験していきたいものだ。

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 アベンジャーズ・エンドゲーム 公式サイト

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April 11, 2019

事象の地平線@ブラックホール撮影の快挙に思う

【世界初のブラックホール画像】

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 たとえばゴビ砂漠のような、何も遮蔽物のないような、だだっ広い平原に居て、ふと「地球に果てはあるのだろうか?」と思ったとする。
 それでまず遠くを見てみると、はるか彼方には地平線が広がっている。肉眼ではその性状は良く分からないので、望遠鏡を使って見てみる。それでもその地平線が果てかどうかは分からない。それでさらに高性能の望遠鏡を注文することにした。
 さてその高性能望遠鏡が届いたとして、「地球に果てはあるのか、あるならどういうものか」という疑問への解答は得られるであろうか。
 私たちは、地球は丸い、それゆえ視覚的には地平線から先は崖の下みたいなものである、ということを知っているので、たとえいかなる高性能の望遠鏡を得たとして、地平線の先からは何の視覚情報を得られないことを分っている。その試みは必ず徒労に終わるのだ。

 話をもっと壮大にして、「宇宙に果てはあるのか?」という深遠かつ難解な謎について考えてみる。これについては、「分かるわけない」というのが模範的解答なのであるが、ただし現在の物理学では「宇宙に果てはある」というのが正解になる。
 これはつまり先の地平線の話と一緒で、私たちが物理法則の下に存在している限り、観察範囲には限界があり、それ以上のものについては観察することは不可能なのであって、ということはそれらは私たちにとって存在していないに等しく、ならばその限界線が宇宙の果てなのである。これを「Event Horizon」、強引に和訳して「事象の地平線」と言う。

【事象の地平線:簡単な概略図】

Event-horizon

 なぜ限界があるかといえば、それは私たちの住む宇宙では、光速が一定であるという大原則があるからだ。そして情報の届く速さは、電磁波にしろ光にしろ、光速が最速であり、これ以上の速さで情報を得ることはできない。
 これをふまえて、宇宙の果てを観察しようとする。宇宙の果てとは、途方もなく遠いところにあるはずだが、その情報は光の速さで来る。星への距離は、光が一年で到達する距離で表すけど、1光年離れた星を観察すると、今見えているその星の姿は1年前の姿である。数億光年離れた星なら、数億年の姿だ。
 ところで宇宙には始まった年があり、それは138億年前であったと証明されている。そうなると138億光年離れた星を観察すると、それはまさに星が、宇宙が生まれたときの姿ということになる。そして、150億光年離れていた星なら、その星の光は宇宙に放たれ地球に向かっている途中であり、それを私たちは観測することはできない。
 つまり、138億光年で境界線が引かれ、ここから先を私たちは決して観察することができない。この境界線が「事象の地平線」である。-もっとも、以上は分かりやすく述べたので、じっさいは宇宙は膨張しているので、この距離はもっと長い。

 事象の地平線は、物理学において実質的に宇宙の果てであり、その先はどうなっているか全く分からない。その先には永遠に似たような宇宙が続いているのか、それとも進み続ければ元のところに戻って来る閉じた空間になっているのか、あるいはまったく別の物理法則の支配する世界が広がっているのか、いずれもあり得るのだけど、観察する手段がない以上、それらは単なる仮説に過ぎず、つまりは分かるわけない、ということになる。

 それから先まったく私たちの手の届かないところ、ということで、宇宙のロマンを感じさせる「事象の地平線」。これはもう一種類、宇宙に存在している。それが今回史上初めて撮影に成功することのできたブラックホールだ。

 ブラックホールはその膨大な重力によって、周囲の空間を歪め、近くのものを次々に引き寄せ、破壊し、飲み込む、宇宙の凶暴なモンスターである。その重力は、光さえも引き込むため、光は一方向にしか進まず、ブラックホールからは何の情報も得ることはできない。つまりブラックホールにも「事象の地平線」があり、その先は宇宙の虚無のごときものなのである。

 今回撮影に成功したM87星雲のブラックホールは、その存在が初めて示されたのは今から約100年前の1918年ヒーバー・カーチス博士の観察によってである。もちろんその当時にブラックホールという概念はなかったのだが、その星域に宇宙ガスが激しく噴出する現象を望遠鏡で発見し、何だかよくわからん現象が起きていると報告し、そして相当後にそれがブラックホールの星間物質破壊に伴う現象ということが判明した。

 それで、そこにブラックホールがあることは長いこと分かっていたのだが、なにしろ5500万年光年という遥かな距離にある天体ゆえ、詳細な観察は不可能であった。
 それを、今回世界約80の研究機関による国際チームが地球上の超高性能電波望遠鏡を集めまくって、口径1万kmという地球サイズの仮想望遠鏡を造り、そこで収集したデータから、ブラックホールの撮影を成功させるという快挙を成し遂げた。そして、そこにははっきりと、ブラックホールの名前そのものの、黒い穴が写っている。この穴の内側にあるのが、かの「事象の地平線」である。

 宇宙ファン、あるいはSFファンにおいて、「実在するけどそれ自体は見ることができない」存在であった「事象の地平線」を見ることができて、本当に感激ものである。

 この写真をこの世に出すために、膨大な努力と、莫大な費用をかけた国際チームにひたすら感謝。そして世の技術の進歩にも感謝。

 

 なお、私が「イベント・ホライゾン(事象の地平線)」という言葉を初めて知り、それについて調べたのは、「イベント・ホライゾン」というSF映画によってであった。「巨大宇宙船イベントホライゾン号が遥か彼方の深宇宙を探険していたらそこには地獄があって、その恐ろしい旅をくぐりぬけたのち無人の漂流船と化したが、突如海王星の傍に現れたので、それを調査に行く」という壮大深遠なテーマをもとに、多額の予算と多大な手間をかけて撮影された大作映画なのだが、しかし出来あがったのは、超絶B級スプラッター映画であった、というきわめて残念な映画であった。こちらの「イベント・ホライゾン」についても、いろいろと語りたいことはあるが、とりあえず今回は、ブラックホールの「事象の地平線」の感想にて終了。

 

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 参考図書 & DVD

 宇宙創成 サイモン シン

 宇宙に終わりはあるのか 吉田伸夫

 映画 イベント・ホライゾン 

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March 08, 2019

映画:翔んで埼玉

Film
 魔夜峰央作の「翔んで埼玉」は30年ほど前に出版された、埼玉を徹底的にディスったマニアックなコミックで、それを今回武内英機監督が映画化。
 元々のコミックは当時埼玉に住んでいた魔夜氏が自虐を込めてギャグ漫画にしたもので、原作では東京で優雅に学生生活を送っていた主人公が埼玉県民ということがバレたため、逃亡生活に入ったところで、尻切れトンボで終わっていたと記憶している。
 作者は「自分が埼玉から住居を移したため、さすがに埼玉県民でないものが埼玉をディスったギャグは描いてはいけないだろう」と弁解してたけど、いや普通にあれ以上は話の続けようがなかったのが真相だろと私は思っていた。あとを続けるとしたら、逃亡生活のあいだ埼玉県民と差別され続け窮乏のかぎりを尽くす、なんて話にしかならないだろうし、そこまでいくとギャグを通り過ぎてしまうだろうから。
 というわけで、映画ではどのように改変して、うまく着地をつけるのだろうかと思っていたら、最初から主人公の逃亡までは原作そのままなので、少々驚いた。なにしろポリコレ無視のけっこう過激な台詞が多く入っていたから。
【コミックより】
Saitama
 この映画、そのつくりはお笑い満載のギャグ映画ではまったくなく、映画の世界は、関東地区は東京は一級市民のみ住むことを許された特別区であり、埼玉はその上級市民に奉仕する下級市民の住む低層区域であり、そして群馬は魑魅魍魎の跋扈する未開の地、というのが関東人の常識とされているディストピアなのであった。その世界を役者は真面目に、時に鬼気迫るほどの真剣さをもって演じていて、一種の不条理劇が繰り広げられ、シュールな面白みが広がっていた。
【群馬@映画より】
Photo
 そして、映画は魔夜峰央の耽美な世界をそのままリアルに映像化していて、演じる役者は主役、脇役、男女そろえて美形ばかり揃えていて、舞台背景道具もロココ調の貴族趣味で統一している。
 ヴィスコンティ、とまではいかないけど、これほど手の込んだ繊細にして華麗な画面が続く映画って邦画では珍しいだろう。
 映画は後半では原作から外れ、千葉VS埼玉の争いが始まるくらいからギャグ要素が入って来るけど、これが関東ローカルネタであり、「この場面って、あっちでは笑わせどころなんだろうな」と九州人としては反応に困るネタが続き、じっさい50人くらい入っていた映画館、そこでは笑い声は出なかった。
 というわけで、後半はギャグ映画としてはイマイチだったのだけど、演出のテンポは快調であり、話はうまく伏線を拾いながら進んで、そしてなかなか感動的なエンディングを迎える。
 そうか、この映画はまったく埼玉をディスってなく、どころかリスペクトしていたのか。さらには、ひどい扱いかた受けてた群馬、ああいうオチだったんだな。
 笑いどころ沢山のバカ映画を期待して行くと戸惑うけど、しっかりした脚本を元に、芸達者な役者たちが熱演する(少々怪演気味のところもあったが)、邦画の良作であった
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 映画:翔んで埼玉

 

 

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February 23, 2019

映画:エリック・クラプトンー12小節の人生ー

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 エリック・クラプトンについては、「ギター演奏に革命をもたらした天才で、マニアからはギターの神とも称されていた。しかし曲作りはイマイチで、「レイラ」の一発屋と長くみなされていたが、40代後半になって突如傑作「アンプラグド」を発表し、これが全世界で大ヒットして一般人からも広く受けいれられるようになったミュージシャン」というふうぐらいに私は認識していた。
 「アンプラグド」はそのなかの曲が職場の演奏会で選ばれ、私はベースを担当したこともあって、たいへん気に入り、そして他のアルバムを聞いてはみたが、「アンプラグドみたいな曲のほうがいいよなあ」との感想でどれも終わっていた。

 今回、エリック・クラプトンの伝記映画が上映され、「アンプラグド」のライブ場面が見たい程度の興味で観てみた。
 これが、「アンプラグド」以外にもなかなか面白かった。それと私が「アンプラグド」以外の曲に違和感を持っていた理由も分かった。―「アンプラグド」は特殊だったのだ。


 音楽映画では、昨年ボヘミアンラプソディが大ヒットして、じっさい名作だったと思うが、そこでは敢えてフレディ・マーキュリーの異常性については曖昧な表現をおこなっていた。
 しかしこの映画では、エリック・クラプトンは露悪的なまでに、赤裸々に自分の人生を語っている。なにか、もう遺言のようにも感じさせるまでの迫力をもって。

 エリック・クラプトンは若い時に音楽、なかんづくソウルの魅力にとりつかれ、尋常ならざる努力を積み重ね、当代一の技術、表現力を見につけ、聴衆のみならず、プロのミュージシャンからも称賛される存在になっていた。
 しかし私生活は出鱈目であり、酒と麻薬に溺れ、女性関係も荒れ放題で、親友の妻に横恋慕して奪いとり、しかしすぐに他の若い女に目を移し、また乗り換えて行く。アルコール中毒がひどくなると一時期音楽活動を休止していたが、それが治らぬままにコンサート活動を再開し(生活のため?)、酔いどれの状態で演奏をして、観衆から「お前は過去の栄光だけで仕事をしている」と詰られ喧嘩になる。
 そういう具合に映画はここまで描くか、というぐらいにエリック・クラプトンの荒廃した姿を見せているが、やがて彼に子供が生まれ、彼は子供が自分の人生の全てだと思うくらいに溺愛し、酒と麻薬の日々から脱出する。
 しかし残酷なことにその子供、コナー少年は4才にして事故死してしまう。エリック・クラプトンの落込みは悲愴なものであり、周囲の者たちは、彼はまた酒・麻薬に溺れ、廃人になるだろうと思っていた。

 けれどもエリック・クラプトンは、この悲劇のどん底から立直るには、音楽しかないと決意し、自分の魂を、そして幼くして亡くなった子供の魂を救うために、一心不乱に曲を書ことにのめり込む。その結果出来あがったのが、「アンプラグド」の曲々であり、だからこそあれらの曲には今までの彼になかった、真摯な祈りが込められていて、それが人の心を強く揺さぶったのであろう。

 映画では、この「アンプラグド」作成が、頂点であり、終点みたいなことになっていたが、あれから30年近く経っていて、エリック・クラプトンがそれからも酒や麻薬に溺れることなく演奏活動を続けていること、これもまた同様にたいしたことだと思う。


 ついでながら、この映画の売りとして、ミュージシャンたちの貴重な映像が数多くあるということであったが、たしかに大物たちのライブの映像はどれも興味深いものであり、これらを観るだけでもこの映画を観る価値はあると思う。
 そのなかで、ソウルミュージシャンが集うスタジオで、エリック・クラプトンが彼らに混じってセッションを行う映像があったけど、「ボーカルのアレサ・フランクリンは、白人のエリック・クラプトンにソウルが演奏できるのという疑いをもっていたが、いざ演奏を始めるとその演奏を信用した」というふうなシーンがあった。
 しかし、そこで歌が始まると、声量といい表現力といい彼女の歌はとんでもなく素晴らしく、他を圧している。ギターなんて、どうでいいという感じ。ソウルの女王、アレサ・フランクリンの歌を聞くと、圧倒的な才能ってのは、こういうのを言うんだな、と思い知った。それもまたこの映画で得ることのできた知識。

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 エリック・クラプトンー12小節の人生ー

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December 10, 2018

映画:ボヘミアン・ラプソディ

Queen

 人気バンド、クイーンを題材とした映画。
 主人公はいちおうフレディ・マーキュリーであり、彼が出自や容姿、性癖等に社会との疎外感をもつなか、ブライアン・メイとロジャー・テイラーと出会い、彼らと切磋琢磨し続けることによって、音楽パフォーマとしての希代の才能を開花させた。クイーンは当代一流のバンドとして成長し、そして伝説の舞台「ライブエイド」で圧巻の演奏を行い、世界中の聴衆を圧倒させる、そこまでを描いている。
 つまりはクイーンの成功一代記なわけだが、主役がフレディなので、話はいろいろと複雑なことになる。なにしろフレディは、けっこう、というかかなり壊れている人物であり、それがバンドに様々な問題と軋轢を起こし、いたらぬ事件と迷走を生じさせる。
 フレディは本来なら、社会から弾き出されたアウトローとして底辺を流浪する羽目になっておかしくない生活破綻者なのだが、なにしろ傑出した音楽的才能を持っており、そして良いところも多少はある人物なので、彼を理解しようと努めサポートしてくれる人たちが幸運なことに彼の周囲に幾人もいた。それでフレディはその才能を真っ当な方向に伸長させることができた。
 そして「クイーン」というのは、すなわちそのフレディに対する代表的サポーターであった。フレディ以外の3人は、優れた音楽才能を持っているのに加え、あちらの音楽界では珍しいことに、いたって常識人であった。とりわけ、ジョン・ディーコンはあまりにいい人に描かれ過ぎているようにもみえるが、これは映画的誇張というわけではなく、実際に彼はそういう人物であったことは誰もが証言している。
 クイーンというバンドは、フレディのワンマンバンドではなく、フレディは他のメンバーのサポートがあって、真の実力を発揮でき、そのことがバンド全体の実力を高めていき、数々の名曲を生み出すことができた。

 映画はそういうクイーンの内実を丁寧に描きながら、そして伝説のショー「ライブエイド」をクライマックスに持ってくる。このラストの20分が本当に素晴らしい。そしてこの演奏で、「クイーン」そのものも魅力を我々はダイレクトに感じ取ることができる。

 クイーンにはある特殊性がある。

 70~80年代の洋楽ポップス界は、現代とは比べものにならない興隆ぶりで、たくさんの優秀なグループや歌手が百花繚乱と輩出し、多くの名曲を生み出していた。クイーンもそのうちの一つで、それこそ映画でライブエイドに出演するスターたちの名をマネージャーがずらりと並べ、君たちも彼らに比肩しうる人気者なんだよ、てなことを言うシーンがあるが、それはすなわちクイーンにしても当時は「ワン オブ ゼム」であったことを意味する。
 それから30年近くの時が過ぎ、ポップス自体が過去の音楽となりつつあり、大スターたちのヒット曲も懐メロ化しているなか、クイーンの音楽だけが、いまなお現在世界中の多くの人達によって歌われ、世代を越えて聴かれ継がれ、若い人達にとっても自分の世代の音楽のような新しさをもって体験されている。
 あの時代の音楽で、クイーンだけが生き残ったのだ。彼らはあのスター達のなかの、オンリーワンだったことを、ポップスの歴史は示した。
 クイーンがそういう特殊なバンドであったことは、いろいろな理由が考えつくわけだが、理屈とか理論ぬきに、映画でラストのコンサート20分を観れば、その理由が容易に分かる。
 要するに彼らの音楽がとても魅力的だったのだ。結局それに尽きる。そしてそのことを、映画館のなかで、ライブそのものの臨場感あふれる大画面で観れば、それが全身の全感覚を通して、感動をもって伝わってくる。

 私はクイーンのライブを観たことはなく、それは私の人生の後悔の一つだけど、おそらくはそのライブと同等の迫真性をもつステージショーを再現して見せてくれたこの映画に、私は深く感謝する。

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 映画:ボヘミアンラプソディ →公式ホームページ

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December 22, 2017

映画:スター・ウォーズ 最後のジェダイ

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 スペースオペラの大作、スター・ウォーズは当初から9作での構成が予定されており、それは宿命の一族「スカイウォーカー家」の物語が主軸となるものであった。
 1~6部はルーカスによって作成されたが、残りの3部は、ルーカスが体力的に無理だったのか、製作の権利を他社に移し、新たな製作陣でつくられることとなった。

 その再開された3部作は、「スカイウォーカー家の物語」という基本設定は継承されており、今回は4~6部の主人公であった、ジェダイ史上最高の才能の持ち主「ルーク・スカイウォーカー」についてかなりの割合をもって描かれ、彼の運命についてのいったんの結末をみせている。

 のだけど、なんか、どうにも納得いかず、もやもやしたものが残るのが、今回の映画の問題点といえば問題点ではあった。
 まあ、最初から「ジェダイ」というものが、もやもやした、あやふやなものであったから、そうなるのもしかたのないものかもしれないが。

 スター・ウォーズ世界では、「フォース」というものが世に満ちており、それを操る能力を持ち、かつその操作法の修業を積んだものがジェダイと呼ばれる。
 その能力は、遠隔操作でものを動かしたり、あるいは人の呼吸を止めて命を奪ったり、……は近代的動力・兵器が存在している世なのであまり大きな意味はないとして、その他に人の思考を読んだり、思考を操ったりする、というものがある。これは人間社会において、たいへん強力な能力であり、それを持ったジェダイは社会組織の上層部に位置し、「裁定者」「調停者」等の役割を果たしている。しかしそれは同時にたいへん危険な能力でもあり、それゆえジェダイは独自のマンツーマン方式による厳格な教育法を取り入れ、さらにギルド内に厳しい戒律を課している。

 けれども、そんな危険かつ便利な能力は、かならず一定数の者によって、それが善意が悪意かにかかわらず、本来の使い方と違った方法に用いられ、世を混乱に巻き込んでしまう。
 だいたいが、ジェダイの徒弟システム自体がうまく運用できたいたとはとうてい思えず、スター・ウォーズで幾組も出て来た子弟コンビは、かなりの割合で破綻している。マスター・ヨーダだって、ジェダイとしては偉大だったのかもしれないが、師匠として有能であったとはとうてい思えぬし。それで、ジェダイにおいて一定の割合で、「悪いジェダイ」が生まれ、それが災厄の原因となる。
 とにかく、ジェダイがあの社会にとって、常に厄介な存在であったことは間違いない。

 スター・ウォーズ弟7作では、若きフォース使いレイが、隠遁した伝説のジェダイ騎士ルークのもとを訪れ、ライトセーバーを渡すところで幕となっていた。
 その続編の今作では、とうぜん今までの作品群の基本設定を受けつぎ、ルークが師匠となってレイを鍛える、ということにならねばならないのだが、すんなりとはそうならない。
 なにしろルークは、自己であれ他者であれ、ジェダイという存在に疲れ果てており、ジェダイは滅ぶべしという信念に行きついているので、まっとうな修行が始まるわけもない。そして、ついにはスカイウォーカーの一族であり、ルークの甥であるカイロ・レンが暗黒面に堕ちた真の理由も明らかにされ、若きレイはルークとの決別を決意する。
 というわけで、ルークは今作において、廃人に等しい扱いを受けている。

 エンドアの戦いから30年経ち、伝説的存在となってしまったルークにはいろいろあったではあろうし、それに元々ルークはそれほど心の強い人ではない。(スカイウォーカー家の男性のメンタルの弱さは、まさにお家芸みたいなものだし)
 それゆえ、ルークがあれほど心が弱っているのはべつに不思議はないが、しかしその30年間については映画はなにも説明していないので、観る側としては、最初にルークがレイから渡されたライトセーバーをぽいっと捨てたところで、???となり、その後の展開も?マークが続いてしまう。特にカイロ・レンとのシーンは、弟6作目のルークを知る人には最大級の?マークが頭に浮かんでしまうであろう。

 でもまあ、とにかくルークの物語を最後まで描いたのは、それはそれで結構なことだとは思う。
 なによりルークを演じた、マーク・ハミルの演技は素晴らしいものであった。マーク・ハミルにとってルーク・スカイウォーカーは、人生と一体化したような、幸福でもあり不幸でもある、運命的な役であったわけだが、あの複雑な役を見事に演じ切っていたと思う。つまりは観客にとっては理解しがたいルーク像も、マーク・ハミルの熱演により、これもやはりルークなのだと、納得させるものはあったのだから。
 そして終幕近く、孤島に座禅するルークをバックに二つの太陽が沈むシーン。ああ、ルークはこの二つの太陽とともにずっとあったのだと、Epi4から見続けて来たファンにはぐっとくる感動的な名場面であった。


 ・・・ルークのことばかり書いて、他のことには手が回らなかったが、2時間半近い長尺のわりには、見所が多くて、そんな時間を感じさせない面白い活劇だったと思う。
 「スター・ウォーズ」というものに思い入れのあんまりない人には、映画にすんなりと入っていける、よい娯楽映画であろう。

【Binary Sunset】

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 スター・ウォーズ 最後のジェダイ 公式サイト

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December 14, 2017

映画:オリエント急行殺人事件 & 「名探偵」に対する私的考察

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 ミステリ映画の傑作「オリエント急行殺人事件(1974年)を、「超豪華キャストでリメイクした」、というこの映画。前作はたしかに大俳優を綺羅星のごとく配役したオールスターキャストの映画であったけど、今回の配役では大スターといえるのは、ジョニデとペネロペくらいであって、あとは往年の大スターが2~3名、将来大スターになるであろう有望若手女優が一名、残りはまあ普通という、超豪華とうたうには微妙なものであった。
 ジョニデは被害者役なので、そうなると真犯人はペネロペで決まりだろう、と大体のミステリ劇なら想像はつくけど、ただしこの作品はそう単純ではない。
 というのはアガサ・クリスティの原作自体がミステリの代表的古典であって、ミステリ好きなら内容はまず知っているだろうし、また映画のほうも有名な古典的名作であり、つまりはこの映画を観る人の大半は、犯人を最初から知っている、それを大前提として作られているからだ。
 そうなると製作者は、古典の音楽を編曲するかのごとく、いかに現代風にアレンジを利かせるか、というのが勝負になる。アレンジといっても、これほどの古典ミステリを、大改編するわけにはいかないだろうから、原典の本筋を保持したまま、新たな魅力を描出する、そういう手腕が必要になる。どういうふうにみせるのだろう?

 まあ、そんなことをまず考えながら映画を観てみたが、この映画は当たりであった。何より映像が素晴らしい。
 あのころの世界の憧れであった豪華寝台特急が、時代背景そのままに再現され、異様にまでに美しいイスタンブールを出発してから、険しい氷雪の山岳地帯を進んで行き、突然の雪崩による脱線事故が起きる、これら一連の映像美は見事の一言。
 そして、この事故から映画は主に列車内に場面が移り、突然起きた謎に満ちた殺人劇をテーマにさまざまな人間劇が繰り広げられる。

 ここでの劇は、1974年製作の前作が名探偵ポワロの老練な会話術を駆使した推理劇を主体にしていたのに比べ、謎解きは淡泊に進められ、それよりも、列車内にいた人々の「正体」をあぶりだすことにポワロの考察は主体となり、そしてそれはやがてポワロ自体の「正体」もあぶりだすことになっていく。この緊張感に満ちた人間劇は、最後のクライマックスのところ、「犯人は誰か?」ということとともに、「名探偵とは何か?」という問いへも、一定の解答を示すことになり、感動的な終幕を迎える。


 ここで、いったん映画から離れて、「名探偵」というものについて考えてみる。
 いわゆる推理劇、「謎解き」という人々の興味をそそる題材は、古代より多く創作に扱われてきた。これらの謎解きは、種々な立場の人々によって行われてきたのだが、近代になって、「犯罪者を特定できる、もっとも強力な存在であるはずの警察等の公的捜査機関でも手におえないような難事件を解決できる」、超人的頭脳を持った「名探偵」が活躍する推理劇が開発され、それ以降は推理小説は名探偵がセットということになった。

 小説を含めた創作では、様々な職業の人が登場し、それらはほとんど現実に存在する職業ではあるが、こんなに多くの小説が書かれた推理小説において、「名探偵」とはまったくの架空の存在であり、そんな者は現実には存在しない。
 しかし、そういう架空の職業がなぜ創作にこれだけ出てくるかといえば、それは理由は明らかだ。「名探偵」というものがあまりに魅力的だったからだ。

 世の中、ある分野において、何が発祥かという問いは、けっこう難しいことが多いのだが、「名探偵」についてははっきりしている。
 アメリカの作家「エドガー・ポー」が書いた小説「モルグ街の殺人」に登場する探偵「オーギュスト・デュパン」が、名探偵の原点であり、決定版である。これ以後の「名探偵」はすべてデュパンのパロディ、と言ってはなんだが、弟、子、孫、曾孫、そういった存在であり、つまりは派生物である。シャーロック・ホームズが代表的な「子」であり、クリスティ女史創出のポワロは「孫」くらいに位置する。

 さて、現実には存在しないような超人的能力を持った「名探偵」が登場する推理小説は、初期のほうは読者は鮮やかな謎解きを楽しんでいればよかったのだが、そのうちだんだんと問題点が出て来た。
 一番の問題点は、名探偵に精神的負担が課せられることになったことだ。
 推理小説では、通常の捜査では解決困難な難題がテーマになるので、犯人も相当に能力の高い者が担当になる。そうなると、事件が終末に近くなり、真の解答を知るのは、この世に名探偵と犯人のみ、という状況が生じる。それは、犯人を告発できるのは、この世に名探偵一人のみ、という状況であり、つまりは名探偵には必然的に、裁判官的な、人を裁く役が回ってくるのだ。犯人にも、それなりに事情はあるのであって、それを考慮もせずに、ばったばったと犯人を摘発していくことは、名探偵といえど、神ならぬ身、きわめて精神的に負担がかかることであり、こういうことが続くと心が壊れかねない。
 この問題については、当然推理小説創生の早い段階から生じ、特にクリスティと同世代の大作家、エラリー・クイーンにおいて顕著となり、やがては後年のクリスティも直面することになり、読者を当惑させる作品を残している。

 ここでまた映画に戻る。
 しかしながらポワロは、そういう苦悩とは関係ないような名探偵として、冒頭部で登場する。彼は世の中には善と悪の二つしかない、すべては、そのどちらかに分かれるという考えの持ち主で、きわめて怜悧な、あるいは冷淡な精神で事件に対処する。
 ところが、オリエント急行殺人事件では、なにが善か悪か、誰が善人で悪人なのか、非常に複雑難解な状況となり、ポワロは懊悩のすえ、ある決断をくだす。この決断にいたる、ポワロの精神の葛藤劇が、この映画での見せ場というか山場であり、それはとても感動的に描かれていたと思う。とくにその舞台が素晴らしかった。

 以下、その舞台について書いてみる。
 ここからは少々ネタバレを含むので注意。


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【終幕の舞台】
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 推理劇の〆の王道は、容疑者一同を一室に集め、おもむろに名探偵が「犯人はここに居る」と宣言し、それから推理を述べる、というものである。
 オリエント急行殺人事件にもその場面はあるのだが、原作と違い、一同は客車のなかに集まるのでなく、避難先のトンネル内に一列に並んで座っている。
 この構図、誰が見てもダ・ヴィンチの「最後の晩餐」そのものである。

【最後の晩餐@ダ・ヴィンチ】
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 「最後の晩餐」は、いうまでもなく、イエス・キリストが捕えられる前夜を描いた名画である。ここでイエスは、集まった弟子たちのなかに裏切り者がいることを告げ、弟子たちは動揺する、その一瞬を捉えた絵だ。この場面って、容疑者一同集めての、名探偵による犯人(裏切り者)宣告、という推理劇の〆そのものである。
 そして名探偵イエスは、裏切り者はユダ一人だけでなく、お前たち全員だと、アクロバット的な宣言を続ける。身に覚えなき弟子たちは仰天し、そして一番弟子ペテロは、師よなんてことを言うのです、私はけっしてあなたを裏切りませんと主張するが、イエスは、いやお前は一回のみならず三回も私を裏切ると断言する。
 聖書は、最後の晩餐のあと、イエスの言葉とおりに弟子たちが裏切るシーンを、執拗なまでに詳細に描いているが、これらの弟子は将来のキリスト教の主要な布教者であり、特にペトロは初代法王なんだから、もう少しマイルドな描写のしようもあるだろうにと私などは思ってしまうが、ここまでリアルに書いているのは、ようするにこれが当時皆に知れ渡っていた、まぎれなき事実だった、ということなのだろう。
 なにはともあれ、この最後の晩餐における人間劇は、「人間の心の弱さ、卑怯さ」を、厳格に物語っており、そして人間とはかくも弱き存在なので、それを乗り越えるためには、超常的なもの、つまりは宗教が必要ですよ、とそんな結論をつけにいっているのが、聖書という書物ではある。

 そして、現代版の「最後の晩餐」では、人間劇はどう描かれたか。
 さすがに初版から2000年近く経っては、人間も進歩はしたようで、ここで描かれるのは「弱さ」や「卑怯さ」ではない。
 名探偵の指摘に、集まった人々はうろたえることせず、かえって自らの信念を貫こうとする。そして、ポワロの残酷な試しに、そこである登場人物が見せたのは、強い覚悟、強い意志であり、それは人間の精神の崇高性を示すものであった。
 それによりポワロは、心に強い印象を受け、そうして彼は単純な善悪二元論を脱して、次なる高みに脱却していく。
 すなわち、この映画では主人公はポワロであり、主筋はポワロの精神の成長劇だったのである。

 この映画はシリーズ化されるそうで、次は「ナイルに死す」であることが、終幕で明かされているけど、そこでは以前に作られた作品とずいぶんと違ったポワロ像が楽しめそうだ。


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 オリエント急行殺人事件 公式サイト

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September 19, 2017

映画 エイリアン:コヴェナント@プロメテウス続編

Aliencovenant

 地球上の古代遺跡にかつて異星人が地球を訪問して、人類を創造し、かつ文化を指導したことを示す壁画が発見された。それには異星人の居住している星の位置が描かれており、大企業が神を探すために一兆ドルの予算をかけて最新鋭宇宙船プロメテウス号を造り、星間飛行にてその星を訪れた、というのが前作の「プロメテウス」。

 「我々はどこから来たのか? 我々は何か? 我々はどこに行くのか?」という、人類にとっての最大にして深刻なる難問への解答を、大画面を使った映画による映像美で描出しようという野心作であったが、たしかに映像そのものは素晴らしいものの、脚本に穴がありすぎた問題作であった。
 多大な犠牲を払ってたどりついた星は、目標としていた異星人の母星ではなく、一種の軍事実験基地であり、そしてそこには「神」と目されるエンジニアは一体しか居なくて、しかもそれは高い知性を有する存在とはとても思えない怒りっぽい短慮男でしかなく、人類の歴史初の異星人とのファーストコンタクトはただの諍いになり、その諍いはさらにはエンジニアの船とプロメテウス号の戦闘まで発展し、なにがなにやらわからぬうちにプロメテウス号は破壊され、この人類の英知をかけた「神探索プロジェクト」は、ただの喧嘩っぱやい異星人とのバトルに終わってしまった。

 壮大なる宇宙を舞台とした、哲学的、思索的な劇を見るつもりが、不機嫌な宇宙人との単なる喧嘩をみさせられ閉口した観客には、しかしまだ希望が残されていた。
 プロメテウス号はダメになったが、エンジニアの船は機能しており、それを使って生き残ったプロメテウスのクルーが、そもそもの命題であった謎を解きに、エンジニアの母星に旅立ったのが、「プロメテウス」の幕であった。
 続編では、母星にとどりつくだろうから、そこで本来の劇が見られるであろう。

 さて今回公開された続編の「コヴェナント」は、プロメテウスから約20年後が舞台。コヴェナント号は、2000人の選ばれた人類を乗せて新天地の惑星「オリガ6」へ恒星間宇宙飛行を行っていた。ところがコヴェナント号は途中で故障し、その修理のため乗組員は冷凍睡眠から起こされた。そのさいに近くの惑星から、人類の発したと思われる信号を受信し、その惑星の環境が「オリガ6」よりも人類の生息に適していることも判明。コヴェナント号はその惑星の探査を行う。
 この惑星こそが、前作でプロメテウス号スタッフが向かった「エンジニアの母星」であり、そこで前作で謎のまま終わっていたものが、ここで謎解きされるはずである。

 この謎解きを、前作で欲求不満をかかえたままの観客は、5年かけて待っていたのだから、わくわくしながら観たわけだが、・・・しかし観終わっての感想といえば、「それはないよ、スコット監督」というものであった。

 以下、ネタバレ感想。
     
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 コヴェナント号のクルーが降り立った星は、「植物は生い茂っているが、動物はいっさいいない」死の雰囲気濃厚な星であった。そして話が進むうち、この星にいた知的生命体は全て滅びさっていることが分かる。しかもその知的生命体は、プロメテウス号スタッフが会合することを熱望していた「エンジニア」ではなく、人類同様にエンジニアの造ったらしいものであることも分かる。つまりはここは母星ではなかったのだ。
 こうして前作のテーマであった、「遥かなる空間を旅しての、人類の創造主との会合」、という深遠なる劇は、今回もスルーされ、観客はべつに見たくもないエイリアンと人類のバトルをえんえんと見させられることになる。いやこの映画、題名にエイリアンってついているのだから、エイリアンが出ることに不平を言ってはいかんのだろうが、しかし前作じゃついてなかったし、もとよりエイリアンが主題の映画でもなかったし、なんか納得いかん

 まあそんなわけで、このシリーズ、当初の人類創造のミステリというテーマはもう離れて、エイリアン誕生の謎解きが主体になっているようだ。
 しかしそうだとすると、書けば長くなるので端折るが、エイリアン1とプロメテウスシリーズでは、様々なことで齟齬が生じて、映画全体でまったく整合性がとれなくなるけど、それでいいんだろうか。まさかパラレルワールドということで済ませてしまうつもりなのか。


 ところで、前作の舞台の星から今回の星までのプロメテウス号スタッフ、ショウ博士とアンドロイド デヴィッドの旅は、この映画ではいっさい省かれている。デヴィッドはこの映画での重要人物でもあり、省いていいようなものでもないはずだが、スコット監督も悪いとは思ったようで、そこの部分を描いた特別編が公開されている。

【特別映像】

 この短編、とてもいい、すばらしくよい。
 それこそずらずら並ぶコメント欄にある、「本編より、こっちのほうがずっと出来がよい」というのにいたく同感してしまうほど。

 エンジニアの母星へ向かう旅で、デヴィッドはショウ博士からの、優しい思いやりを受ける。前作では周りの者からモノ扱いされて、根性がねじまがり、性悪アンドロイドとなっていたデヴィッドが、“ I’ve never experienced such compassion. ”とつぶやき、母星で出会うエンジニアがショウ博士のような人だったらよいねと言って、こういう人に会いたいと博士の似顔絵を見せる。そういう「回心」したデヴィッドが、長旅を終えて目的の星に着いたとき、“ Look on my works, ye mighty, and despair! 神よ、私のやったことを見よ、そして絶望せよ!”と言い放って、生物にとっての超毒素である「黒い液体」を上空から撒き散らし、惑星に住む者を全滅させる。まさに悪魔のごとき存在と化している。
 この天使から悪魔への変貌、宇宙船のなかでいったい何があったのか。くわしく描写すればシェイクスピアの悲劇のような絶望に満ちた愛憎劇があったと想定はされるが、それは観客の想像しだいということか。

【「神」を滅ぼすデヴィッド】
Scene1


 
 コヴェナント、前作に引き続き、絵はたいへん美しいものであり、さらなる続編が作成されればぜひ見たいものではあるが、あいかわらず脚本がなあ。
 ハリウッドシステムでは、なにより「売れる脚本」が求められるから、こういう脚本になってしまうのはしかたないのかしれないが、しかしほんとうにこういうのがより支持される脚本なのかねえ? どうにも疑問である。


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 映画 エイリアン:コヴェナント 公式サイト

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