雑感

November 13, 2021

天才快進撃:将棋の革命児 藤井聡太

【ネムルバカ@石黒正数(著) より】

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 令和3年は二人の若き天才、大谷将平と藤井聡太の活躍にずいぶんと心が躍った。二人とも前代未聞の記録を次々と打ちたて、これからもさらなる飛躍を遂げること確実であり、我々はその高みに登っていく活劇を楽しんでいくことができる。
 それにしても、野球、将棋、どの分野も、努力の限りを尽くしたトッププロ達が、人の為す限界ギリギリのところでせめぎ合って、わずかな差を凌ぎきって勝ちをつかむ、凄惨な修羅場である。ところがひとたび「天才」というものが出現すると、天才はそんな勝負の鬼達をものともせず、易々とせめぎ合いの限界を突破して、彼らを置き去りにし、新たな世界に行ってしまう。まったく天才というのは、世の不思議であり、不条理でもあり、そしてエキサイティングなものである。 

【竜王戦第四局終局時】

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  1113日、将棋竜王戦において藤井聡太は豊島竜王を4タテで下し、竜王の座につくことによって19歳にして将棋界の頂点に立った。これは彼の才能からはまったく驚くべきものでなく、挑戦者になったときから、というよりは棋士になったときからの予定調和的出来事であった。

 そして勝ち進むうち、藤井聡太はその強さよりも、将棋そのものに注目を浴びている。その将棋の質から、藤井って30年に一度の天才と言われていたが、どうもそれは過小評価で、100年に一度の天才なのでは?とも言われるようになってきた。

 というのは、藤井が近頃指すようになった将棋は、今までの将棋の歴史と異なる、まったく独自のものと化しているからである。

【美濃囲い】

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  将棋を習うときに、まず習うことは「玉を囲え」ということである。将棋は自玉を詰まされると負けのゲームなので、自玉の安全度を優先させるため、玉を中央の戦線から端のほうに動かし、そして傍を金・銀で囲う。上はその囲いの代表例の「美濃囲い」であるが、このような囲いを完成させてから、相手への攻めに入る、というのが駒組の原則である。初心者はそう習い、そういう将棋を続け強くなり、そうしてプロになっても同様の将棋を指す。つまり「玉を囲う」は将棋の常識であり、これは将棋というゲームが誕生してから、ずっと正解とされていた。

 しかし、それに現在進行中で若き天才が改革をもたらしている。

 将棋というのは自玉は確かに大事だが、基本は「相手を先に詰ませば勝ち」というゲームである。ならば自玉を囲う手間など時間の無駄で、「とにかく敵より先に攻撃をしかけて相手の玉を詰ませばいい、それで勝ちだ」。そういう発想の転換を行った。その発想をもとに藤井は自玉を囲わず居玉のまま猛攻をしかけるスタイルを確立し、次々と勝ち星を積み上げてきた。
 そんなに勝率の高い戦法をなぜ今まで他の棋士は発見できなかったのだろうと疑問に思う人はいるだろうけど、思いついた棋士はたぶんいくらでもいると思う。ただし実行すると高い確率で破綻するので、それでやる者は払底した、というところだろう。

 相手よりも早く攻めれば勝ち、と書けば簡単だが、「攻めれば相手に駒を渡す」という将棋の特質上、どこかで反撃のターンは入るので、その時自陣が居玉だと、防御力が弱いのであっという間に負けにしてしまう。居玉はものすごく運用が難しいのである。ところが藤井聡太は盤全体の駒でバランスをとって、たとえ居玉でも安全なマージンを持って戦っているので、少々危ない目にあったとしても最終的には必ず勝ってしまう。つまりは天才にしかできない芸当で、それで藤井聡太は連戦連勝を続けている。

【居玉 VS 居玉】 

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 分かりやすい例として、今年の王将リーグ戦からの対豊島将之戦をあげてみる。
 自玉を囲っていては藤井に速攻をかけられ主導権を握られることを豊島は重々承知しているので、自分も居玉のまま、歩を犠牲に手得を得て先に猛攻をかけたのであるが、その攻撃がいったんやんだのち、藤井に攻めのターンが回ると、桂馬が飛んだらもう豊島陣は崩壊している。居玉の弱さがそのまま出た形で、すべての駒が攻撃目標になり、玉の逃げ場もない。このあとすぐ豊島は投了に追い込まれている。

 まったく、自玉を囲おうとすると速攻をかけられボコボコにされ、では居玉のまま攻めたら居玉の弱さをつかれてやはりボコボコにされる。相手からすれば理不尽としか言いようのない、まさに才能の暴力そのものの革新的将棋を指しているのが、藤井聡太という天才である。

 

 この若き天才による将棋の革新はさらに進化していき、今まで見たことのなかったような将棋を次々に見せてくれるであろう。将棋ファンとして、素晴らしいスターのいる時代に居合わせた幸運に感謝。
 あと欲をいえば、将棋の名棋譜って一人でつくるものでないので、もう一人くらい次に続く天才好敵手が現れてくれれば有難いが、そんなに何十年に一人の天才が幾度も現れるわけもなく・・・まあ無理か。

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July 17, 2020

天才が天才を語る @将棋棋聖戦雑感

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 現在の将棋界の最強者渡辺棋聖に、新進気鋭の高校生棋士藤井聡太七段が挑んだ棋聖戦は激闘の結果、藤井七段のタイトル奪取となり、最年少タイトル獲得の記録更新となった。

 ここで将棋の歴史をさらりと解説してみる。
 江戸時代は幕府に庇護されて家元制であった将棋界が、明治維新になってスポンサーを失い、家元制度を廃止して実力制に変更したのち、その世界は中国大陸の歴代王朝みたいなものになった。
 将棋という激しいゲームは、その強さは純粋に才能によって決まるので、強い者は子供の頃から図抜けて強く、その強さは頭の体力が弱って来る40才代まで持続する。そして将棋の世界では、真の天才はだいたい25年に一度くらいの周期で出現する、というのが今までの歴史で分かっている。人類って、それが種としての能力の限界のようなのだ。この25年に一度の天才が覇者となって将棋界を20年間くらい統一し、その力が衰えてくると群雄割拠の戦国時代がしばし続く。やがてそのうち棋界の法則に従い、一人の超天才がまた出現して棋界を統一する。そういうことをずっと繰り返してきた。
 おおざっぱにいえば50年代から70年代までが大山康晴の時代、70年代から90年代が中原誠の時代、そして90年代からが羽生善治の時代である。羽生は平成の30余年を第一人者で棋界に君臨することになった。鬼神とも畏れられたその強さは、しかし近年となってさすがに衰えて来て、ずっと保持してきたタイトルを次々と手放すことになり、そこから将棋界は一時期8人もの棋士で8つのタイトルを分け合うまさに戦国時代になった。こうして将棋界は、次代の覇者を迎えるばかりの状況となった。
 その時代の覇者は誰か? ということに関しては4年前に既に答えは出ていた。2016年に当時中学生の藤井聡太がプロ入りしたからである。彼がやがて棋界を制覇する器であるのは衆目の一致するところであり、そしてあとは、いつ彼が棋界の覇者になるのかということだけが将棋ファンの関心となっていた。

 羽生級、藤井級の天才は滅多に出てこないけど、しかし、今回の挑戦を受けた渡辺棋聖だって大変な天才である。なにしろ彼も中学生の時にプロになり、20歳にして将棋界最高位の一つである竜王を獲得し、それから現在に至るまで何らかのタイトルを保持している、将棋史に残る名棋士であるのは誰もが認めるところである。
 そして渡辺は頭の回転が早く、笑いのセンスもよくて、彼の将棋の解説はとても面白く分かりやすい。また文才もあってブログや週刊誌のエッセイも質が高い。さらには元棋士であった妻はメジャー少年雑誌に連載を持っており、そこで渡辺棋士のリアルな将棋生活が楽しくかつ詳細に書かれている。渡辺は将棋界随一のスポークスマンであり、その棋譜とともに、将棋界への貢献度は非常に高いものと言える。
 しかしながら、羽生が日本中誰でも知っている有名人なのに比べて、渡辺の人気は将棋界に限定されていて知名度ははるかに低い。渡辺明の名を聞いたのは、今回の藤井新棋聖誕生のニュースが初めて、という人は多かったろう。
 渡辺明の有能さに比して、その待遇はあまりに低すぎる、と私などは残念に思っているのだが、その原因については、渡辺明がキャラクター的に地味であったからというのが定説になっており、これは本人にはどうしようもないことなのであって、重ね重ね残念である。これについては当人が漫画で茶化して述べていて、まあ面白いけど、ちょっとかなしい。

【将棋の渡辺くん(1)】

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 渡辺明は将棋の評論家としても出色の才があり、その核心をついて正直な評は参考になることが多い。
 渡辺明は強敵ぞろいの羽生世代(羽生、森内、佐藤、郷田等々)と互角以上に戦い続け、さらには自分より若い世代の挑戦を退け続けてきた強者であるが、ついに渡辺時代というものは築けなかった。いや、渡辺の棋士人生では今が最も強いのは明らかであり、羽生世代がすっかり衰えた今、彼が覇者になる可能性もないことはなかったのだが、藤井聡太の台頭があまりに予想通りであったため、その実現は極めて可能性が低くなった。渡辺自身がそれを確実に想定しており、将棋界は羽生時代ののち自分たちがゴチャゴチャ争っているうちに、藤井くんがそれを横目に一挙に抜き去り、自分たちは藤井くんを追いかける存在になるであろうと既に一昨年の時点で言っていた。

【将棋の渡辺くん(2)】

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 渡辺明ほどのトップレベルの棋士になると、トーナメント戦上位か、タイトルリーグでしか棋戦が組まれないため、新人棋士は指す機会がほとんどないのだが、藤井は強いのでトーナメント戦を容易に勝ち抜き上位に上がって来るので、プロ入り二年目にしてさっそく渡辺と対戦が組まれることになった。
 それはトーナメント朝日杯の決勝戦であった。渡辺は藤井との対戦に対し、こちらは長くプロでトップをはってきた先輩だ。いくらなんでも今はまだ自分の力のほうが上だろう。ここは、「おれと戦うなんて10年早いんだよ」、と圧勝して先輩の貫録を見せつけてやる、という予定だったのだが、あに図らんや、自分のほうが鎧袖一触されてしまい、藤井は想像以上にはるかに強い、自分はもう抜き去られているのではなかろうかと考え、いや待て、藤井とて万能というわけではない、苦手な戦法や指し方もあるであろう、自分はそれをしっかりと研究して勝負に持ち込まないといけないと自省した。

【将棋の渡辺くん(3)】

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 それから2年が経った。
 藤井はついにタイトル戦である棋聖戦トーナメントを勝ち抜き、最年少記録で挑戦者となった。
 渡辺棋聖は最も手強い挑戦者を迎えることになった。渡辺は藤井の強さは十分に知っているが、相手はまだ17歳、そしてマスコミの注目を大いに浴びるこの一戦では、なんとしてでも勝たねばならない大一番である。渡辺は宣言通り、対藤井戦へ徹底的な研究を重ねてこの戦いに臨んだ。

 今回の棋聖戦の全四局は、将棋史に残る熱戦ぞろいで、どれも大変に面白かった。渡辺は精緻を極めた構想で、中盤までに優位を築く。しかし藤井は盤面全体を使った妙手奇手のたぐいを繰り出し、局面を複雑極まりないものに誘導する。そして終盤に近づき、最善手をずっと続けないと勝てないような際どい局面にいたると、たいていは渡辺が最初に最善手を逃す立場になり、するとそこを起点として一挙に藤井が優勢を築きあげそのまま押し切ってしまう。こういう戦いが繰り返され、結果3勝1敗で藤井が最年少でタイトルを獲得したのは全国に大きく報道されたとおり。

 この棋聖戦について渡辺明がブログや談話で述懐しているけど、我々からは拮抗した名勝負にみえていた各局も、渡辺にとっては、競いあっているうちに、相手から予想もしない手が次々に出て来るので、自分がどう指したらいいのか分からなくなり、良い対応手を見つけられずに、ずるずると負けに引きずり込まれていった、もう棋力が違っていて、お手上げとしかいいようのないものであったそうだ。しかし、相手が圧倒的に強いということは分かったが、まさかこのままずっと負け続けるわけにもいかないので、なんとかさらなる研究を積み重ね、彼の弱点をみつけ反撃の手がかりにしたいとも語っていた。

 天才のことは天才が最も知っているのであって、今回の藤井新棋聖の強さの本質というのは渡辺の批評がたいへん分かりやすく、有難いものであった。

 私は、昭和50年代、谷川浩司の名人奪取の頃からずっと将棋を観戦しているけど、羽生の台頭から君臨あたりが、棋譜そのものも、世間の盛り上がりも一番面白かった。そして羽生に続く30数年ぶりの新覇者の登場、これによってあと30年間はまたスリリングで熱い棋戦の数々を楽しめそうである。人生の新たな楽しみが出来たことに感謝。

 …………………………

・ 記事中の漫画は、伊奈めぐみ著「将棋の渡辺くん」から。漫画自体も面白けいど、wikipediaに書かれている執筆に到る過程もまた面白い。

 

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May 10, 2020

令和2年5月 宮崎のアケボノツツジ

【狛犬@延岡今山八幡宮】

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 GWは遠方へ旅行するか、あるいは登山遠征に行くかがここ数年のルーチンであったのだけど、今年はコロナ禍による緊急事態宣言のために、遠方に行き難くなった。この宣言の本来の目的である感染抑制の趣旨からすれば、人との接触を避けながら車中泊を繰り返し、遠方地で散策なり登山をするなら、とくに問題はないようには思うものの、(じっさい、そういう人々はある程度いたとは思う)、感染者数の少ない県では、ウイルスの持ち込みに対して敏感になっており、宮崎県においてもGW期間中は主な観光地や登山口の駐車場は使用禁止となっていて、さらに「県外の人の来訪は御遠慮ください」との立看板も設置されている。これは他県も同様と想定され、ならばそういう排他的な場所を他県ナンバーでこそこそ移動するのは、どうも精神衛生上よくないと思え、今回のGWはおとなしく宮崎県内をうろうろとすることにした。
 GWの宮崎といえば、なんといっても山に咲き乱れるアケボノツツジ。標高が高く、自然条件の厳しいところにしか生えない樹ゆえ、そこに行きつくまではけっこう大変なのだけど、いったん見ればそれまでの苦労があっさりと報われる絢爛豪華な花なのである。

【諸塚山】

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 アケボノツツジは見るのが大変とは書いたが、例外的なのが諸塚山である。諸塚山のアケボノツツジは登山口から歩いて5分のところに大群落があり、散歩気分でそこまで行くことができる。ただしこれは諸塚山の登山口が標高1200mの高さにあるという、ある種反則的な理由による。そしてその登山口まで車で着くのにはくねくねした山道を長距離走らねばならず、結局はやはり大変なのだ。

【大崩山】

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 GWは全国からアケボノツツジを目指して登山客が集まり、登山口近くは路上駐車があふれる大崩山も、今年ばかりはさすがに閑散としていた。
 人は閑散としていても、それとは関係なく、旬のアケボノツツジは岩稜帯に密集して咲き誇っていた。どの樹々も花のつきが多く、今年は当たり年だったようだ。袖ダキから小積ダキまでの道は満開のアケボノツツジだらけであり、花に酔ったような気になった。

【パックン岩@鉾岳】

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 近頃発見(?)され県北の有名スポットとなった「パックン岩」。ナムコのゲーム「パックマン」のキャラとそっくりということで名付けられた岩である。
 県北の者として、一度は見に行くべきとは思ってはいたもの、ここの登山口に到るまでの県道が狭いうえに、近くに鹿川渓谷という観光地があるため交通量が多く、運転にいろいろと気苦労があるため行く気が出なかったのだが、今なら交通量も激減だろうと思い行ってみた。予想通りに交通量が少なくスムーズに登山口に到着。
 パックン岩は鉾岳への途中にあり、たしかに特徴的な岩である。ま、話のネタにはなるでしょう。パックン岩に来たついでに鉾岳にも登ろうかと歩を進めたが、適当に登っていたせいで尾根を一つ間違え、反対方向の山の頂きに出てしまった。で、同じような高さで向かいの鉾岳を見ると、もうそこでどうでもよくなり、さっさと下山した。そこで咲いていたアケボノツツジが美しかったこともあり、私としては満足であった。

【尾鈴山】

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 尾鈴山は稜線上にアケボノツツジとシャクナゲがほぼ同時期に咲くので、この時期は一粒で二度美味しい登山が楽しめる。
それで登った尾鈴山、すでに花の旬は過ぎており、シャクナゲは終盤、アケボノツツジはほぼ終わりであった。薄桃色の花びらが散りばめられた登山道を歩きながら、そこで眺める終わりかけの花々もまた風情あるものと思うのであった。

 アケボノツツジの咲く山は、他にも夏木山、五葉岳、祖母山、傾山・・・といい山がたくさんあるけど、それらは稜線が県境になっていて、半分大分県みたいな山なので、今回は遠慮して、登るのはすべて純宮崎県の山にしておいた。

 

 それにしても新型コロナ禍、相手はウイルスなので無くなることはあり得ず、免疫獲得、診断治療法の進歩、弱毒化等を経て、既存のコロナウイルス並みの存在になるまでは、相当な時間がかかるのは確実で、我々はこの厄介なものと長くつきあわざるをえない。今、一般人が普通にやれることは感染の大きな原因となっている「三密」を避けるということが一番であろうけど、そうなるといろいろな文化がなくなってしまうだろうなあ。
 山でいえば、「山小屋」なんて三密の典型みたいなもので、今後数年間は山小屋の営業はどこも無理であろう。そうなると今年からの日本アルプスは、テントと寝袋食料を担ぐ体力のある人しか入れない山となってしまう。それはそれでいい面もあろうけど、山小屋がなくなると、登山道をメンテする人がいなくなるわけで、これから登山道はそうとうに荒れることが予想される。コロナのせいで、登山の文化も変わっていくのは哀しいものがある。登山以外にも、あらゆる文化においてひどい影響が出るだろう。
 ただし、人類が経験したウイルスのパンデミックは必ず終焉があった。どんな形にせよゴールは必ずある。この厄介にして面倒なコロナ禍が一日でも早く終息しますように。

【今山大師@延岡】

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April 15, 2019

ノートルダムの詐欺(?)男

【ノートルダム大聖堂@2017年夏】

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 一昨年の夏パリを訪れたとき、パリの観光名所であるノートルダム大聖堂を訪れようとしたところ、入り口の前に大行列ができていた。この大行列に並んで待つには、直射日光の照りつけるパリの夏はあまりに暑すぎ、私はあっさりと大聖堂のなかに入るのを断念し、まわりをぶらぶらと散策し、外の姿の写真でも取っていた。
 すると、中年の小太りの男性が話しかけて来た。
 こういう観光地で異国人が話しかけてきたら、それは詐欺師か物盗りかに決まっているので、普段は相手しないのだが、その人の姿が普通の観光客にしか見えなかったので、つい相手をしてしまった。
 私が日本から来たと言ったら、自分も横浜に建築家の知り合いがいるのでそこに行ったことがある、と返すので、横浜の印象はどうだったかと聞くと、まともな話は返って来ず、いかにもウソっぽかった。
 そして大聖堂には入らないのか?と尋ねるので、「この暑い中、長い時間待ってまで入りたくない」と言うと、「それはよかった。じつは私は入場チケットを持っている。本当はそれでワイフと一緒に来るつもりだったのだが、ワイフが体調が悪くて来れなかった。一枚10ユーロでいいから、一緒に入らないか」と言ってきた。
 ノートルダム大聖堂は、他の観光名所の教会と違って入場料はとらず、そのため無料なのはいいが、行列が大変だと、ガイド本には載っている。いかにもうさんくさい話なのだが、しかし10ユーロで本当に待たずに入れるなら、それはお得だ。
 それで私はその話に乗り、その男のあとについていったのだが、行列の先頭まで行くと、いきなり列の人の抗議の声を無視して強引に入り込んだ。ひえ、これは単なる悪質割り込みだ、これはそこにいる警備員につまみ出される、と私は思い、逃げる準備に入った。しかし男は警備員に何か話しかけると、警備員は入れ、という感じで入り口に腕を向けた。男は私について来い、と手招きしたので、列の人たちにすみませんねえと思いながら、男のあとをつけ、無事に大聖堂のなかに入ることができた。
 チケットなんてないじゃんか、でも入れたし、いったいどういう仕組みになっているんだろう、と私は頭に疑問符をいくつも浮かべながら、とりあえず男にMerciと言って、10ユーロ渡した。

 結局男がいかなるテクニックを用いたのか分らないが、まあ最初の契約通りに、10ユーロで大聖堂に私は入れたわけで、これは正常な商行為と言える。しかし、題名が「詐欺(?)男」となっているのは、このあとに余計な続きがあるからだ。

 大聖堂に入ったのち、男は大聖堂を案内してやるという。こういう怪しげな人物は、これ以上相手したくなかったので、No thank you、あとは私は勝手に観光しますと言うと、自分はガイドをするつもりだったのでガイド代を当てにしていた、それでは困るのでとりあえず5ユーロ払え、と言う。そんなもん最初から言えよ、とは思ったもの、異国の地で、たかが5ユーロでもめるのも面倒だったので、おとなしく5ユーロ払って、そこでお別れとなった。
 彼はまたたぶん同様の詐欺(?)を行うために、大聖堂の外に出て行ったであろう。

【大聖堂】

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   そういうわけで、5ユーロぶん不快な目にあって入った大聖堂であるが、荘厳にして煌びやかな空間、優美にして厳かな彫像の数々、そしてゴシック美術の粋を極めた薔薇窓、じつに素晴らしいものであった。

 そのノートルダム大聖堂、4月15日の失火により大規模火災が生じ、多くの部分が壊れてしまった。完全な復旧には一説によれば50年はかかるとのことである。そうなると私は一生のうちに、もうノートルダム大聖堂を見ることはない、ということになる  。あの時、うさんくさい話に応じ、大聖堂に入ったのは、もはや得ることのない貴重な機会をつかんでいたのだ。
 美しいもの、素晴らしいもの、それらはずっと在り続ける保証などなく、いつ失われてもおかしくないので、見る機会があるならすぐにでも行かねばならない、そういう普遍の教訓を改めて思い知った。

 そしてそれとともに、あの顰蹙なノートルダムの詐欺(?)男、じつは私の恩人であった。ノートルダム大聖堂焼亡の報を聞き、人生なにがどうなっているか、あとにならないと分からない、それもまた思い知った。

 

【炎に包まれるノートルダム大聖堂】

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April 11, 2019

事象の地平線@ブラックホール撮影の快挙に思う

【世界初のブラックホール画像】

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 たとえばゴビ砂漠のような、何も遮蔽物のないような、だだっ広い平原に居て、ふと「地球に果てはあるのだろうか?」と思ったとする。
 それでまず遠くを見てみると、はるか彼方には地平線が広がっている。肉眼ではその性状は良く分からないので、望遠鏡を使って見てみる。それでもその地平線が果てかどうかは分からない。それでさらに高性能の望遠鏡を注文することにした。
 さてその高性能望遠鏡が届いたとして、「地球に果てはあるのか、あるならどういうものか」という疑問への解答は得られるであろうか。
 私たちは、地球は丸い、それゆえ視覚的には地平線から先は崖の下みたいなものである、ということを知っているので、たとえいかなる高性能の望遠鏡を得たとして、地平線の先からは何の視覚情報を得られないことを分っている。その試みは必ず徒労に終わるのだ。

 話をもっと壮大にして、「宇宙に果てはあるのか?」という深遠かつ難解な謎について考えてみる。これについては、「分かるわけない」というのが模範的解答なのであるが、ただし現在の物理学では「宇宙に果てはある」というのが正解になる。
 これはつまり先の地平線の話と一緒で、私たちが物理法則の下に存在している限り、観察範囲には限界があり、それ以上のものについては観察することは不可能なのであって、ということはそれらは私たちにとって存在していないに等しく、ならばその限界線が宇宙の果てなのである。これを「Event Horizon」、強引に和訳して「事象の地平線」と言う。

【事象の地平線:簡単な概略図】

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 なぜ限界があるかといえば、それは私たちの住む宇宙では、光速が一定であるという大原則があるからだ。そして情報の届く速さは、電磁波にしろ光にしろ、光速が最速であり、これ以上の速さで情報を得ることはできない。
 これをふまえて、宇宙の果てを観察しようとする。宇宙の果てとは、途方もなく遠いところにあるはずだが、その情報は光の速さで来る。星への距離は、光が一年で到達する距離で表すけど、1光年離れた星を観察すると、今見えているその星の姿は1年前の姿である。数億光年離れた星なら、数億年の姿だ。
 ところで宇宙には始まった年があり、それは138億年前であったと証明されている。そうなると138億光年離れた星を観察すると、それはまさに星が、宇宙が生まれたときの姿ということになる。そして、150億光年離れていた星なら、その星の光は宇宙に放たれ地球に向かっている途中であり、それを私たちは観測することはできない。
 つまり、138億光年で境界線が引かれ、ここから先を私たちは決して観察することができない。この境界線が「事象の地平線」である。-もっとも、以上は分かりやすく述べたので、じっさいは宇宙は膨張しているので、この距離はもっと長い。

 事象の地平線は、物理学において実質的に宇宙の果てであり、その先はどうなっているか全く分からない。その先には永遠に似たような宇宙が続いているのか、それとも進み続ければ元のところに戻って来る閉じた空間になっているのか、あるいはまったく別の物理法則の支配する世界が広がっているのか、いずれもあり得るのだけど、観察する手段がない以上、それらは単なる仮説に過ぎず、つまりは分かるわけない、ということになる。

 それから先まったく私たちの手の届かないところ、ということで、宇宙のロマンを感じさせる「事象の地平線」。これはもう一種類、宇宙に存在している。それが今回史上初めて撮影に成功することのできたブラックホールだ。

 ブラックホールはその膨大な重力によって、周囲の空間を歪め、近くのものを次々に引き寄せ、破壊し、飲み込む、宇宙の凶暴なモンスターである。その重力は、光さえも引き込むため、光は一方向にしか進まず、ブラックホールからは何の情報も得ることはできない。つまりブラックホールにも「事象の地平線」があり、その先は宇宙の虚無のごときものなのである。

 今回撮影に成功したM87星雲のブラックホールは、その存在が初めて示されたのは今から約100年前の1918年ヒーバー・カーチス博士の観察によってである。もちろんその当時にブラックホールという概念はなかったのだが、その星域に宇宙ガスが激しく噴出する現象を望遠鏡で発見し、何だかよくわからん現象が起きていると報告し、そして相当後にそれがブラックホールの星間物質破壊に伴う現象ということが判明した。

 それで、そこにブラックホールがあることは長いこと分かっていたのだが、なにしろ5500万年光年という遥かな距離にある天体ゆえ、詳細な観察は不可能であった。
 それを、今回世界約80の研究機関による国際チームが地球上の超高性能電波望遠鏡を集めまくって、口径1万kmという地球サイズの仮想望遠鏡を造り、そこで収集したデータから、ブラックホールの撮影を成功させるという快挙を成し遂げた。そして、そこにははっきりと、ブラックホールの名前そのものの、黒い穴が写っている。この穴の内側にあるのが、かの「事象の地平線」である。

 宇宙ファン、あるいはSFファンにおいて、「実在するけどそれ自体は見ることができない」存在であった「事象の地平線」を見ることができて、本当に感激ものである。

 この写真をこの世に出すために、膨大な努力と、莫大な費用をかけた国際チームにひたすら感謝。そして世の技術の進歩にも感謝。

 

 なお、私が「イベント・ホライゾン(事象の地平線)」という言葉を初めて知り、それについて調べたのは、「イベント・ホライゾン」というSF映画によってであった。「巨大宇宙船イベントホライゾン号が遥か彼方の深宇宙を探険していたらそこには地獄があって、その恐ろしい旅をくぐりぬけたのち無人の漂流船と化したが、突如海王星の傍に現れたので、それを調査に行く」という壮大深遠なテーマをもとに、多額の予算と多大な手間をかけて撮影された大作映画なのだが、しかし出来あがったのは、超絶B級スプラッター映画であった、というきわめて残念な映画であった。こちらの「イベント・ホライゾン」についても、いろいろと語りたいことはあるが、とりあえず今回は、ブラックホールの「事象の地平線」の感想にて終了。

 

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 参考図書 & DVD

 宇宙創成 サイモン シン

 宇宙に終わりはあるのか 吉田伸夫

 映画 イベント・ホライゾン 

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April 01, 2019

新元号「令和」に思う。

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 五月からの新元号が「令和」に決まった。
 良い元号だと思う。

 出典は万葉集の梅花の宴序からとのことで、この文がまたいい。
 「天平二年正月十三日、師の老の宅に萃りて、宴会を申く。時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」
 万葉集中の有名歌人にして有力政治家の大伴旅人の邸宅で行われた、梅の花を囲んでの宴、それについて記した文である。当時大伴旅人の住んでいたところは大宰府であり、大宰府は梅の名所であるが、当時から梅の名所だったようだ。
 庭いっぱいの梅が紅白それぞれ爛漫と咲き誇り、周りは梅の香りに満たされ、招かれた客人たちはその美しき景色を愛でながら、おおいに歓談し、飲み、騒ぎ、楽しむ。記録者は、この素晴らしき時を、「もし翰苑にあらずは、何を以ちてか情を述べむ」 ―私たちに文字が、文学があるのはなんと有難いことか、この喜びの時を表現する術をもっているわけだから、と述べる。そして古の人は梅についておおいに詩を書いた。我々もそれにならって梅を題材に和歌を読もうではないかと続け、このあと客人たちが読んだ三十二首の和歌が並んでいる。

 古の人とは、古代中国人のことであり、四世紀ころのことを言っているそうだ。梅花の宴が開かれた天平二年は8世紀なので、400年の時を経ての、文学のつながりがある。そして、現代21世紀の日本の元号に、この序文からの言葉が使われたので、1300年の時を経て、また文字がリレーされたのだ。
 記録者(おそらく山上億良)が言うとおり、文字そして文学というものはまったく有難いものであり、これがある限り、文化というものは連綿と受け継がれていく。この伝統を我々は大事に紡いでいきたいものである。

 なお、「令和」という元号には、「美しい調和」という意味が込められており、まったくこの時代、世に調和、そして平和がもたされてもらいたいものだ。
 ただ万葉集の序が書かれた背景を思うと、そこは含蓄に富んでいる。あの時代は、大和朝廷の政治が不安定化し、藤原氏が実権を握るため、朝廷は権謀術数うずまく争いの場と化し、多くの権力者が血を流しあっていた。
 そして大宰府というのは、中央政府からの一種の避難所になっており、そこは政争のない、平穏の場となっており、だからこそ閑雅な梅の宴も開くことができた。ただその分、中央には影響力もなく、有力者たちは無聊をかこつ歯目になり、かつての要衝大宰府は僻地扱いされていった。
 「令和」の時代は、世界はいよいよ混沌となり、各地の争いは激化するのが必定である。その嵐の吹くなか、いかにして本邦は、平和でありえるか。大宰府方式で行くか、あるいは他の手でいくか。これまで以上に知恵が要されるのは間違いない。

 

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December 11, 2018

「ボヘミアン・ラプソディ」の歌詞の謎について考えてみる

 映画「ボヘミアンラプソディ」を観た人がたいていそうであるように、私もそれからクイーンの音楽CDを棚から掘り出して、その音楽に聴きふけっている。
 クイーンにはいい曲の多いことに感心すると同時に、やはり「ボヘミアン・ラプソディ」はそのなかでも傑出しているな、とも思う。この曲がクイーンを、そしてあの時代の音楽を代表する傑作と評価されているのは当然であろう。

 ただ、この曲、内容がかなり難しい。
 曲全体としては一人の若者のストーリーで、ある若者が殺人という犯罪を犯し、自分の人生が終わってしまったと嘆く。そしてそのあと世間から厳しい非難と糾弾を受け、それに激しく抗うも、その嵐のような責め苦の日々が終わったのち、自分の罪を受け入れ、静かに諦念の境地に到る、という一幕が描かれている。

 ここで歌詞について考えてみるが、いったいその若者は何者なのか、そして殺した相手は誰なのか、さらにはその犯罪の動機はいったい何なのか、という謎がある。
 歌詞では、若者は社会人になりたての若さであり、殺人については銃を一発額に撃った、くらいの情報しかなく、誰が、誰を、いかなる理由で、ということのいっさいの詳細は不明である。
 しかしながら、大きなヒントはある。
 それは若者が我が身を嘆いての一言、「I sometimes wish I'd never been born at all」。「僕なんて生まれて来なかったほうが良かったと思うんだ」、という台詞である。
 「never been born」は、ここでは自責に使われているけど、普通は「お前なんか生まれてこなかったほうがよかったんだ」と、他人を責めるときの定番の悪口である。馬鹿、アホ、間抜け、等々悪口にはいろいろあるが、これは本人の存在自体を否定する、悪口のなかでも特上級のものであり、これを口にするときは絶交覚悟が必定の、強い力を持つ悪口だ。

 古来よりこの悪口は無数に放たれたのであろうが、しかし、史料に残されたもので、最大級に有名なものが一つある。言った人、言われた人は、それこそ世界中知らぬ者のいない有名人だし。
 その史料は、世界最大のベストセラーである聖書で、言った人はイエス、言われた人はユダである。

【最後の晩餐:サンマルコ教会壁画】
Last

 聖書の受難物語の「最後の晩餐」のシーン、十二人の使徒を前にしてイエスは「お前たちのなかに私を裏切る者がいる」と言い、そしてその裏切り者がユダということを示す。それに続きイエスはユダに言い放つ。
 「It would be far better for that man if he had never been born. -お前のようなものは、いっそ生まれて来なかったほうが、ずっとよかったのだ」
 愛と慈悲の人であるイエスにしては、あまりにひどい言い草であり、古来よりここは論争の的になっていて、ゆえにとても大きな罪を犯す運命にあるユダへの同情からイエスはこのように言ったのだと、好意的に読み取る人もいるが、受難物語の筋を追っていけば、ここではイエスは裏切り者に対して単純に激怒していたと捉えるのが、自然な解釈であろう。
 だいたい、「愛と慈悲の人」というイエスのイメージは後世のものであり、聖書に描かれたイエスは、神殿の境内で暴れたり、実がなっていないからといってイチジクの樹に怒って呪いの言葉をかけたりと、相当に気性が荒い人物であったから、これくらいの悪口は平気で放ってなにもおかしくない。

 ボヘミアン・ラプソディの歌詞は神話や史実をいろいろ引用しており、フレディがこの語句を偶然使うことはありえず、意図をもって聖書から取ったのは明らかだと思う。
 そしてもしこの若者をユダとし、殺した相手をイエスとすると、曲で示される若者の激しい懊悩、そして世間の圧倒的な糾弾が、案外とよく理解できる。それこそ、「20世紀の受難曲」としていいくらいに。
 まあ、以上は少々極端な解釈であり、私も「若者=ユダ」とまでは思わないが、それでもnever been bornというキーワードから、若者の犯した犯罪が衝動とか無思慮とかによるものでなく、深く長く悩み抜いた末、自分の最も大切な人を敢えて捨て去る決断をした、深刻な葛藤劇が、そこにあったのは間違いないと思う。あの受難劇のユダの物語のように。

 もちろんボヘミアン・ラプソディの歌詞の本当の意味については、作詞者フレディしか知らないだろうし、そしてたぶんフレディ自体もじつは知ってないとは思う。
 それが、本当に優れた、後世に伝わっていく名作というものであって、その作品は最終的には作者を離れて、聴く人々によって、無数の解釈を与えてくれる。
 ボヘミアン・ラプソディは、そういう名作の、典型的なものであろう

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September 21, 2018

憧れのアビーロード

【アビーロード ジャケット】
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 ビートルズは今では伝説的、神話的グループではあるけど、私のような中年世代にとっては、解散がTVのニュースになったことや、新聞に大きな記事で載ったことが記憶に残っている、僅かながらも時代を共有できた、我が身の一つとなっている大事な存在である。

 ビートルズがポップス音楽史上いかに偉大な存在であるかは、私ごときがいちいち説明するまでもないけれど、その偉大な存在を我々はライブで知る経験は永遠に失われている。
 しかしビートルズがこの世にあった、というその名残は世界各所に残されており、それを目当てにリバプールやロンドンを訪れる人はいまなお多い。それは、なにやら宗教信仰にも似た行為であり、じっさいいくつかの地は「聖地」と呼ばれている。

 今回ロンドンを訪れたさい、是非とも訪れたかった憧れの地、世界一有名な交差点とも言われる「アビーロード交差点」に行ってみた。

【ポールの家】
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 アビーロードに行くためには、普通は地下鉄のセント・ジョンズ・ウッズ駅で下りてから歩くことになる。その途中にポールの自宅があるので、それにまず寄ってみた。
 そしてここからアビーロード交差点へ向かう。

【アビーロード交差点】
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 アビーロード交差点はその有名さは歴史的価値によるものであり、交差点そのものはいたって普通のものである。しかし、観光名所だけあって、観光客が群がっているので、これがそうだと行けばすぐ分かる。
 そして、アビーロード交差点は現役の交差点なので車の通行量は多く、それが邪魔となり、アルバムジャケット通りの構図の写真を撮影するのはけっこう難しい。
 だいたいジャケットでの撮影位置は、車道上なので、撮影ポイントを確保することからして難儀である。

【アビーロード交差点】
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 とりあえず、交差点向かいの安全なところから写真を撮ったが、ジャケットとは異なる方向からの写真になり、風情がない。

【アビーロード交差点】
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 それで、車の流れが切れたところを狙って、車道上から写真を一枚。
 なんとかそれっぽい写真とはなった。
 しかし冒頭のジャケットの写真と改めて比べると、同じところを撮ったのに、まったく芸術的雰囲気がないのは、哀しい。やはりプロが撮った写真は、構図、ピント、フォーカス、光と影、等々全てにおいて素晴らしい。


 アビーロード交差点では、観光客がひっきりなしにポーズをつけて歩いているので被写体には事欠かないが、せっかくなので私もこの交差点を横断してみた。
 1969年の8月8日、今から半世紀近く前に、ジョン・リンゴ・ポール・ジョージの、音楽の歴史をつくった四人組が渡った交差点を、その音楽に強い影響を受けて生きていた、東洋の日本人の私が遠路はるばる来て、自分の足でしっかりと歩いて行く。

 たいへん感慨深いものがあった。

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September 16, 2018

ロンドン橋がロンドン橋でなかった話

【ハロッズの土産物】
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 都市にはその都市を一発で示すような象徴がたいていはあって、ロンドンだと、ビックベン、ロンドン橋、二階立ての赤バス、ロンドンタクシーなどがそれにあたる。
 映画の一シーンやニュースの画像でこれらが出たなら、誰でもその場所がロンドンということが容易に分かるであろう。

 ロンドンを訪れて、まずはそれらを目当てに散策してみることにした。
 名所が数多くあるテムズ河沿いを歩くうち、遠目にロンドン橋が見えてきた。ロンドンに来たのが初めてであるからして、ロンドン橋を見るのも当然初めてであり、鮮やかなる印象を受ける。
 さてロンドン橋まではあとどのくらいであろうと、Google Mapで確認すると、それがやけに近い位置にあることが分かった。1km以上は離れているはずなのに、数百メートル先がロンドン橋ということになっている。
 これはもしかして遠近法マジックというもので、じつはロンドン橋ってとても小さくて、そのため実際よりも遠くに見えるのかなあ、などと思いつつ歩くうち、「ロンドン橋」の一つ手前にある橋に着いたので、そこを渡り、中ほどから写真を撮ってみた。

【橋風景】
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 しかし、その橋、名前がプレートに書いてあったが、それは「London Bridge」、すなわちロンドン橋である。あれっと思い、Google Mapをまた見てみると、まさにこの橋がロンドン橋であることが判明した。どうりで近かかったわけだ。
 なんたることぞ。
 そして、私が「ロンドン橋」と思っていたものは何かというと、それは「タワー・ブリッジ」であり、ロンドンの橋といえば誰もがそれを思いつく、この立派な造形の橋は、本名「タワー・ブリッジ」だったのだ。

【ロンドン橋】
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 「落ちる、落ちる」と全国の子供たちから歌われる不幸な橋「ロンドン橋」は、近代建築による堅牢な橋であり、落ちることはまずないと、実物を見た私は自信をもって言える。
 さてロンドン橋、地理的に重要な位置にあることは分かるけど、橋そのものはいたって普通の橋である。
 テムズ川にはたくさんの橋がかけられており、その多くは美麗な装飾をまとっていたり、豪華な色彩に塗装されたりしていて、どれも目立つのに、ロンドン橋は機能性重視というわけなのか、この橋のみ平凡な印象であった。

【タワー・ブリッジ】
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 ロンドン橋を渡って対岸を歩き、そしてロンドン橋ならぬタワー・ブリッジへと。
 ゴシック様式の二つの塔を持つ跳開橋であり、中世の雰囲気濃厚な、威厳ある橋であり、やはりこの橋のほうがはるかに目立つ。

 それにしても、ロンドンに来なかったら、私は一生この橋をロンドン橋と思い込んでいたわけで、……まあそれでなにが困るということもないのだが、といあえず訂正できておいてよかったなり。

 そして、この橋をロンドン橋と勘違いしているのは私だけではないようで、どころかそちらのほうの人が、日本のみならず世界的に多いようで、「ロンドン橋」あるいは「London Bridge」をキーワードにしてGoogle画像を検索すると、ずら~りとタワー・ブリッジの画像ばかりが並んで出て来るのはいっそ壮観である。

【ビッグ・ベン@修理中】
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 こうして「ロンドン橋」を見物し、そして道路には二階立バスやロンドンタクシーはいくらでも走っており、あとの見るべき名物はビッグ・ベンということになるが、それはなんと修理中であり、真っ当な姿を見ることはできなかった。残念。
 これはロンドンが「また来いよ」と言っている、というふうに思っておこう。

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February 25, 2018

平昌オリンピック雑感:「兄より優れた弟など存在しない」& 高木姉妹の話 

Brothe


 冒頭の句、「兄より優れた弟など存在しない」は、コミック「北斗の拳」からのものであり、この台詞を放った人物ジャギの悪辣なキャラのインパクトもあって、名言・名言の宝庫である当作中でも、もっとも有名なものの一つである。
 この台詞、客観的には「人それぞれだろう」の一言で済ませばいいだけのことにも思えるが、しかし、当事者、すなわち優秀な弟(妹)をもってしまった兄(姉)にとってはなかなか深刻であり、奥が深い、そういう台詞とも言える。

 話は本題に移る。
 8年前のバンクーバーオリンピック、その時スピードスケートの選手のメンバーに15歳の高木美帆が選ばれた。当時のスピードスケートにおける有名な選手は、橋本聖子、岡崎朋美といったところであり、失礼ながらこの種目は、年配の女性が活躍する分野と一般的に認識されていたところ、突如一世代以上違う若い中学生が登場したわけで、それは鮮やかな印象を与えた。
 もちろん彼女はオリンピック選手に選ばれるだけあって、抜群の実績もその若さで築いており、当時は「スケート界の宝」、「日本一有名な中学生」などと称された。今でいえば、将棋の藤井六段みたいなものであり、それほどセンセーショナルなものであった。

 彼女がスケートを始めたのは、兄、そして姉がスケートを行っていたからである。両者とも優秀なスケーターで、特に姉の菜那は小学生、中学生の全国大会で優勝するほどの実力者であった。
 この優秀なる姉に憧れ、その背中を追いかけていた、妹美帆は、じつは天才であった。リンクに上がるたびに速度を速めて行き、その勢いで中学生の新記録を連発して、あれよあれよといううちに実力者の姉を追い抜いてしまった。そして、スピードスケート史上最年少でオリンピック選手に選ばれた。

 姉、高木菜那にとっては、これは面白くないに決まっている。自分のマネをして競技に入った妹が、じつは天才であって、自分が努力のすえに築いてきた地位をあっさりと追い越してしまったのだ。あまつさえ彼女は有名人となり、自分はどこにいっても「高木美帆の姉」と認識されるようになってしまったのだから。
 妹が幼いころは、当然はるかに自分に劣っていたわけで、それを教え鍛えていたら、いつしか自分を凌駕する存在になってしまい、あの台詞じゃないが、「姉より優れた妹がいるなんて・・・」と、忸怩たる、あるいは憤怒の思いはずっとあったであろう。

 とまれ、ここで終われば、「優れた妹が、あっさり姉を追い抜いた」、ありふれた話に過ぎなかった。けれど高木姉妹の物語はこの後二転三転する。

 新星のごとく現れ、将来を嘱望された高木美帆は、しかし、バンクーバーののち失速し、その恵まれた才能を花開かせることはなく、低迷することになった。
 それを横目に台頭したのが姉の菜那である。彼女は妹に強いライバル意識を持ち、不屈の努力を重ね、次のソチオリンピックの代表選手に選ばれるまでに己を鍛え上げた。

 これに衝撃を受けたのが、高木美帆である。一時ははるかに追い抜いたはずの姉が、追い抜き返してしまった。口惜しくないはずがない。
 これからまた姉妹のバトルが始まる。姉妹の専門は中長距離だったので、分野が重なる。オリンピックに出場できる選手には枠があるので、姉妹はその狭い枠を目指して努力するわけだが、とにかく相手に抜きんでねば、出場できるチャンスが大きく減ることになる。
 そのバトルについては、姉妹愛など全くない、とにかく相手に勝たねばの意識の強い、修羅の世界であった。高木姉妹は、両者正直な人であり、そのあたりの事情を赤裸々に語っていて、読んでてたいへん面白いのだが、当事者にとっては面白いどころの話ではなかったであろう。


 そして話はようやく現在、平昌にたどりつく。
 彼女らの切磋琢磨たる努力は、二人を同時に平昌オリンピックに導いた。
 ただし、その実績ははるかに妹美帆が上であった。彼女はその天賦の才能を花開かせ、世界における中長距離の第一人者となり、ワールドカップでは何度も優勝もはたしていた。
 そして高木美帆は平昌でも活躍し、個人種目で銀・銅のメダルを獲得した。残るは金である。

Ceremony

 そして、迎えた団体パシュート。3人のメンバーのうち、2名は高木姉妹であり、彼らは、見事な滑りをみせて圧勝して金を獲得した。そしてこの金を得たのは高木美帆の力に多くかかっていた、というのは衆目の一致するところである。彼女が強大な動力源となり、チームを引っ張ったことによって、あのオリンピックレコードとなる速度を出せたのである。
 もっともパシュートはチームの統一も重要な勝ちの要素であり、日本がそれに最も長じていたのは事実であって、それには高木姉妹の、姉妹ならではのコンビネーションも大いに預かっていたであろう。

 高木菜那は、フィジカルには及ばず、とうてい勝てなかった妹に、それを戦術的にサポートすることにより、お互いを高めて、世界のトップに上り詰めることができたのだ。妹よりも優れていなかった姉は、しかしそれを自覚して、サポートすることにより、己も高めることができたのだ。

 姉妹の厳しき葛藤の物語は、平昌で美しく結実したのである。


 ・・・というふうに、話をしめるはずだったが、この姉妹の物語には次の章があった。

 女子スピードスケートの最終種目「マススタート」の選手に高木菜那は選ばれていた。この種目は競輪みたいなものであって、肉体的な力とともに、智略も要され、全体を通して優れた戦略をめぐらす必要がある。
 彼女は完璧といってよいレース運びで、なんと優勝を果たした。
 妹が個人種目で果たしていなかった金を獲得したのである。

Gold

 天才の姉も、じつは天才であったのだ。今までそれに人が気付かなかったのは、才能の方向が違っていたからであって、姉はきちんとその方向の才能を伸ばしていたのである。

 高木菜那は、これからは「高木美帆の姉」扱いはされることなく、ピンで主役を張れる、本来もっていた実力にふさわしい扱いを受けることになるであろう。そしてそれはさらに高木姉妹の力を向上させていくであろう。

 最初のほうで、スピードスケート界の年齢の話をしたけど、今回500mで31歳で金メダルをとった小平選手の例をみてもわかるとおり、この競技は息の長いものであり、この姉妹の物語はまだ続いて行くに違いない。

 4年後、北京での彼女らの活躍が今から楽しみである。

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