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February 2020の記事

February 26, 2020

グリザベラ@キャッツはなぜ嫌われているのか? & 絵画と寓意

【グリザベラ:Elain Paige】

Elain-paige

 以前キャッツの四季版ミュージカルを福岡で観たのち、西中洲で宴会してからカラオケで二次会を開いていたときに、「グリザベラはどうしてあんなに嫌われているのか?」という話題が出た。
 劇中の野良猫コミュニティでは個性豊かな猫たちが勝手気ままに仲良く暮らしているのに、グリザベラだけは禍々しいもののように扱われ、姿を見せただけで舞台の雰囲気が暗転し、みなグリザベラから逃げ去ってしまう。
 それほどまでに忌み嫌われているグリザベラであるが、劇中ではそれに対する詳しい説明がないので戸惑う人がいるようだ。それで何故グリザベラが嫌われているかについての考察をふんふんと聞いているうち、いろいろな解答例がでたけど、それらは
(1)グリザベラが娼婦だから。
(2)グリザベラがかつて猫のグループにひどいことをしたから。
(3)グリザベラが空気を読まない、いわゆるKY猫だから。
 と三つくらいにまとまることになった。
 これらについて解説を述べると、
(1)の娼婦説についてはまずないだろう。西洋の芸術作品において娼婦という職業はいろいろと複雑な役割を持たされることになるが、たいていは魅力的な役であり、一方的に忌避される存在ではない。だいたい劇中の妖艶猫ボンバルリーナとかディミータとかはその手の職業猫っぽいし。
(2)については、それならきちんとその過去について述べるはずなので却下。
(3)については判断が微妙である。グリザベラがKYなのは事実で、そして「嫌われているのに、それに気がつかずにグループに接しようとするので、さらに嫌われる」悪循環の原因になっているのは明らかなのだが、大本の「何故嫌われているか」の説明にはならない。
 というわけですべて不正解。

 じつはグリザベラが嫌われている理由、それはあまりに明らかなので、劇中ではいちいち説明する必要はないのである。ただしそれは西洋の文化基準によるもので、西洋人には明らかでも、東洋的文化基準とはずれているので、それで我々には分かりにくいんだなあ、とこれらのディベートを聞きながら私は思った。

 正解をあっさりと述べると、グリザベラが嫌われているのは彼女が老女だからである。西洋文化的には、老いたる女性は、それだけで忌避されるべき忌まわしい存在なのだ。東洋にはそんな文化はないので、このへんにどうしても違和感を持ってしまうのであるが、そういう前提があることを知っておかないとキャッツは肝心のところが分からないであろうと思う。

 

 以上については私の勝手な思い込みとか思う人もいるであろうが、これについては西洋の美術の勉強をすると、イロハ的に最初のほうで入って来る知識なので、その手の勉強が好きな人にとっては常識である。
 写真と違って絵画にはそこにあるものは全て意図を持って存在している。そして西洋美術においては、画かれた人物なり静物にはアレゴリー(寓意)とかアトリビュート(特定へのヒント)が関わっているものが多く、それらを読み解くことによって、絵全体の理解が進みやすい。だから西洋の美術を観賞するときに、これらのアレゴリーやアトリビュートの知識があると、より一層理解が深まり、興が増す。
 そして「老女」のアレゴリーはまずは「死」。そして「忌むべきもの」「禍々しいもの」というふうになる。「老女」は人に否応なく死という不吉なものを意識させる、汚らわしい、なるべくなら身近から遠ざけるべき存在、というわけだ。
 私は若いころ美術のムック本でその項を読んだとき、我々の東洋文化の常識から外れたその概念に、ひっでぇなあと憤慨した記憶がある。そして、ならそれは男性だって一緒だろうという当然次に思う疑問に対してのムック本の解答は、老いたる男「老人」のアレゴリーは「叡智」とか「賢明」とかいう良いものである、ということだったので呆れてしまった。つまりあちらの文化的には「老女」というものは若き日の美しさを失ってしまった全く役に立たないどころか忌むべき存在なのに対して、「老人」のほうは若き日の体力は失ってしまってもその分智恵と経験を蓄えた敬すべき存在だ、ということだ。こういうアレゴリーがあるので、西洋の宗教画などでは威厳ある男性の神は老人ないしは壮年の姿で描かれることが多い。対して神々しい女神はまず若い女性の姿であり、老いた姿で描かれることはまずない。


 ともあれ、西洋の芸術では、女性に対して若さを過剰に賛美し、そのかえりに老女を卑下する概念が基礎にあるため、老女はいかなる分野でも大きな役はもらえない。もしもらえるならその不吉さを表に出した「魔女」役くらいであり、だから美術、小説、劇、童話では、存在感ある老女ってたいていは「魔女」である。あの膨大な多種多彩の魅力あるキャラクターを創出した偉大なシェイクスピアでさえ、その多作の劇で、一流の俳優が演じるに値する老女役って、マクベスの魔女くらいであろう。
 まったくこの文化は今にいたるまで徹底しており、ミュージカルのキャッツでは老女グリザベラがああも嫌われているのに対して、老人男性陣では、長老オールド・デュトロノミーは畏敬の対象だし、肥満猫バストファー・ジョーンズも尊敬されていて、老残の駄目オヤジ猫アスパラガスでさえ皆から愛されている。ずいぶんな違いである。

 もっとも21世紀の西洋では、性別・人種等の差別を防ぐべくポリコレがうるさいので、ハリウッドも原作をそのまま映画化することはできず、老女グリザベラは中年女性に、智恵深き長老オールド・デュトロノミーは女性に変更になっている。作成陣もさすがにキャットは元のままでは現代の映画にはできないと認識していたのだ。ただし役割りの改変はよいとして、歌詞はそのまま採用したために、クライマックスの「メモリー」の整合がとれなくなっている。メモリーでは「年をとって私は若き日の美しさを失ってしまい、誰も相手をしてくれなくなった。こういう年老いた哀れな私に誰か触ってください」とグリザベラが切々と感動的に歌い上げるのに、それを歌うのが現役感バリバリの艶満な中年女性じゃ違和感ありまくりで、原作を知らずに映画を観た人はこの場面で、頭に?マークがいっぱい浮かんだのでないだろうか。映画キャッツが多くの評者から、まったくの怪作と評されることになった要因の一つである。
 ま、ポリコレというのはあくまでも建て前なので、ハリウッドの現実は今もそのままである。ハリウッドでは男性俳優が年をとってキャリアップするにつれギャラも上がっていくのに対して、女優は若き頃と比べての年を経ての扱いって男性と比べてひどいの一言だ。「ノッティングヒルの恋人」でのジュリア・ロバーツの嘆きは、今も通用するものだろう。

 こういう妙ちくりんな文化、それが当たり前の概念として存在しているため、西洋の絵画ではそれが堂々と描かれている。
 代表例として、ハンス・バルデゥング・グリーンの「女の三世代と死」をあげてみよう。

 

【The Three Ages of Woman and Death】

3-age

 解説をする必要もないような露骨な絵であるけど、絵には女性の三世代、「赤ん坊と若い女性、それに老女」それに砂時計と折れた槍を持った「死」が描かれている。
 若い女性は美しさの盛りであり、生の豊かさを謳歌しているさなかである。しかしその隣の老女は「美しいお前が味わっている人生の豊かさは束の間のものであって、すぐに私のような醜い存在になってしまうのだ。さあ、早くこっちに来なさい」というふうな表情で布を引っ張っている。そして老女と一体化した「死」は、その流れる時の速さを測るかのように砂時計を見つめている。
 この不快な絵、好意的に解釈するなら、「若きの日は貴重である。だから大事に使いなさい」との教訓を描いたものとかにもなりそうだが、しかし絵そのものからは、中心に置かれた老女の存在感がもっとも強く、それはやはりこの世に実在する、最も死に近きアイコンとして扱われていると解釈せざるをえない。

 

 もう一枚、有名な老女の絵をあげてみよう。

【la Vecchia(老女)】

Col_tempo

 天才画家ジョルジョーネ作。16世紀に画かれたもので、当時肖像画というものはたいてい金持ちから注文されるものであり、こういう一般の女性の老いたる姿の肖像画自体がたいへん珍しい。どのような意図でもって画かれたのか不明であるけど、ヒントらしきものはある。それは老女の手に握られた紙片であり、そこには「Col tempo /(with time)時とともに」と書かれてある。つまりは「老女」そのものを題材にしたものではなく、そこには時間というものが大事な役割を果たしていて、そして老女は時間によってそうなったということだ。この老女は今まで述べた概念に沿うごとく、人生に疲れ切った表情をし、もはや若きときの美しさは全て失われた、死に近き存在に思える。ま、典型的な「老女」だ。
 こういう、「時がたてば、どんなに美しい女でもこうなってしまうんだ」という、女性への悪意に満ちた、掛けておいて不快になるような、どこにも置き場のないような絵ってなぜ画かれたのだろう。
 つらつらと私が妄想するに、この絵にはモデルがあったのだろう。それも若い美人の。ある時その女性に懸想した画家がくどいたところ、こっぴどく振られた。それを逆恨みした画家、なんとか仕返しをしたく、いろいろと考えたところ、己の卓越した技術を用いることを思いついた。その女性の年を取ったリアルな姿を想像して描き、時とともに必ず来る醜い姿を見せつけるという。その陰険な企てに画家は持てる技術を全て使い、その女性が見れば、絶対に己自身の老いた姿ということが分かる超写実的な絵を生みだした。そしてそれを彼女に送りつけ、恐怖と絶望に沈ませるという、思い通りの結果を得て画家は大いに満足した、とかいうのはどうだろう。じっさいそれくらいの強い意思がないと、このような悪意の塊のような絵は描けないと思う。
 ただ、画家の真意なり悪意がどうあれ、老女の概念の典型を目指したようなこの絵は、描いた画家ジョルジョーネが天才であったために、当初の意図を超えた、偉大な名画となっている。
 老女はたしかに人生に疲れ果てた老残の姿をさらしているけど、そこには真摯に懸命に辛い人生をやり遂げた形が、表情に克明に刻まれており、そしてその人生から得られた諦念とか洞察とか悟りとか慈愛といった複雑にして深奥な精神が、その強い眼差しから伝わってくる。余計なことが書かれた紙変がなければ、この絵はある老女の一生の精神劇を画像化した名品として、普通に観賞されるであろうに。まったくもってもったいない。

 

 キャッツのグリザベラついでに、絵の紹介まで来たけど、最後の私の妄想のところ、じつはネタみたいなものがある。
 ジョルジョーネの「老女」のモデル、いろいろと説はあるのだけど、有力なものにジョルジョーネの代表作「テンペスタ」の女性モデルを老化させたものというのがある。テンペスタに描かれている授乳中の半裸の若い女性がそれで、この女性と老女は顔の輪郭とかパーツのつくりがほぼ一致するそうだ。だからもしその若い女性をわざわざ老化させた絵を描いたなら、その理由って、やっぱりモデルへの嫌がらせくらいしか思いつかないので、先のような妄想を思いついた次第。

【テンペスタ La Tempesta】

Latempest

【比較】

Compare

 似ている…… のかなあ。

 

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February 24, 2020

映画 キャッツ

Cats-movie

 ミュージカル「キャッツ」の実写版映画。原作は世界で最も人気のあるミュージカルだし、それにスター達が出演するということで注目はされていたが、いざ米国で公開されると、その怪作ぶりのみが話題になり、映画そのものは大コケに終わった、という不幸な作品。
 それでも映画館で観た予告編での映像・音楽は雰囲気のよいものだったし、さらにはそれだけ評判が悪いとかえって観たくもなる。そういうわけで映画版キャッツ観賞。
 私の事前情報といえば、先ほど述べた酷評と、それから以前に映画館に貼ってあったポスターにジュディ・デンチ、テイラー・スウィフトの名前が出ていた、ということくらい。それだとジュディ・デンチがグリザベラ、テイラー・スウィフトがジェミマかな? しかしデンチが今さらグリザベラ歌えるのだろうか、いや歌えるわけないから本職が吹き替えか。テイラー・スウィフトは歌はまったく問題ないけど、踊れるのかね、とか漠然と思っていた。
 そういう情報のみで映画を観ていたのだが、出て来たグリザベラはジュディ・デンチと全くの別人である。そうなると老女が演じる役って、この劇ではグリザベラ以外にないので、ジュディ・デンチはいったい何を演じるのだろうと混乱する。というかこのグリザベラ、全然老いていない、現役感バリバリの中年猫で、なんか変だ。そしてテイラー・スウィフトは群猫のなか、どれを演じているのかよく分からなかったが、歌いだしてボンバルリーナと判明。となるとなんか大スターにしては役不足に思える。歌の重みからするとビクトリアを演じるべきだったのでは。…いや、あんな踊りはプロダンサーしか無理か。そしてジュディ・デンチはといえば、なんとオールド・デュトロノミー。これははっきりいって失敗。キャッツの終幕は、猫の扱いかたについて、じつに下らない歌詞を歌って〆るのだが、あの下らない歌詞を荘厳なバリトンで歌うから面白いのに、ジュディ・デンチのメゾでは軽過ぎて、その下らなさのみが目立ってしまう。ジュディ・デンチの演技はオールド・デュトロノミーの持つ威厳と慈愛をうまく表現していたけど、歌はどうにもならない。

 さて映画全体の感想といえば、まずはオリジナルとは、ずいぶんと内容が違っているなあ、というものであった。オリジナルは、老雌猫グリザベラが主人公であり、個性的な猫たちの歌あり踊りありの宴会芸大会は、グリザベラの歌う「メモリー」への長い前座になっている。そして「メモリー」も二段構えになっていて、幾度かの転調ののちに、「Touch me~」と高い声で歌いあげるところが、ミュージカル全体のクライマックスであって、あそこで観客は誰しもガツンと来て、感動する。そういう構造になっている。
 ところが映画では捨て猫の若い雌猫ビクトリアが主人公になっていて、その猫が「メモリー」の前に、それと同様の「孤独」をテーマとした曲を歌うので、そのあとで歌われる「メモリー」は二番煎じみたいな感じとなり、どうにもこの曲に心が入っていけない。それゆえそのあとのグリザベラの昇天もなんだかピンとこなかった。昇天のシーン自体も、怪しげな気球船が遭難覚悟で空に突っ込んでいくような妙なものであったし。
 というわけで、原作ファンの者が観に行くと、頭に?マークがいくつも浮かんでしまう映画であり、そしてこの映画は原作ファンが客の大半を占めていたであろうから、映画の酷評もまたやむをえなしと言えよう。私も駄作とまでは思えないが、(なにしろ歌と踊りは素晴らしいので)、いろいろと残念な映画であったとは思う。

 それでも部分部分ではいいところもあり、それらは原作ファンとしても楽しめるものであった。それらを紹介してみよう。以下ネタバレ少々あり。

 

【ミストフェリーズ】

The-magical-mr-mistoffelees

 原作では自信満々の魔法使い猫ミストフェリーズは、映画では気弱なマジシャンとなっている。
 オールド・デュトロノミーがマキャヴィティに瞬間移動術で攫われたのち、オールド・デュトロノミーを取り戻すため、猫たちがミストフェリーズに魔法を使って戻すよう懇願する。ミストフェリーズはそんな凄い魔法なんて使えないので、その無理難題に困惑するけど、断るわけにもいかず懸命に魔法を使っているふりをして、そしてそれは当然上手くいかず泣きそうになる。
 そこへ、自力で脱出したオールド・デュトロノミーが背後に現れ、よく頑張りましたというふうな慈愛の笑みを浮かべ、Oh, well I never, was there ever a cat so clever as magical Mr. Mistoffelees? と歌うところ。原作とはまったく違う筋になってしまっていたけど、ここは和めてとても良かった。

【アスパラガス】

Asparagus

 落ちぶれた老俳優猫アスパラガスはイアン・マッケランが演じている。
 キャッツはCGとメイク技術が高度なので、どの役者も猫にうまく化けているけど、ジュディ・デンチとこの人だけは、いかに猫の扮装をしようが、本人そのものであった。これが大スターのオーラというものか。
 アスパラガスが若き日の自分の栄光の日々を思い出すシーンは、アスパラガスに今も燃え続ける役者魂を表しているが、それをイアン・マッケランは見事に表現している。

【スキンブルシャンクス】

Skimbleshanks

 キャッツのなかで一番の人気者、鉄道猫スキンブルシャンクス。鉄道が好きで好きで仕方がない鉄道オタク猫、なんだけど、映画ではオタク風味が減って、凄腕タップダンサーとして登場。快適な鉄道行進のリズムを、見事なタップスで刻んでいくのはじつに見ものである。単なる鉄オタ猫であった原作とは相当違ってしまったが、これはこれで素晴らしく、改めて原作の歌を聞くと、タップダンスの音がないのが物足りなくなってしまうほど。

 などなど、みどころはそれなりにあったが、原作ファンにはあんまりお勧めできない映画ではあると思う。
 そして、ミュージカルのほうのキャッツの知識がない人が、この映画を観たさいにはどのような感想を抱くのか、そちらにも興味を覚えた。

 

 …………………………

 映画 キャッツ 公式サイト

 

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February 23, 2020

地球温暖化を実感する @冠山~寂地山登山

 近年、いろいろと話題になっている地球温暖化。じっさい地球全体は温暖化に向かっているのだろうけど、今までは年間通して少しは暑くはなるものの、冬はきちんと寒くなっていたから特にその実感はなかった。九州の山においても、冬は寒波が定期的に来て、そして雪は降り積もっていた。
 しかし昨年、寒波は来ても、それは短期間であり、雪の積もる期間は少なく、雪山を楽しめないシーズンとなってしまった。そして今年になると状況はさらにひどくなり、寒波は散発的にのみ来て、その時だけ雪は降るものの、それはすぐに溶けてしまい、まったく白い雪山になってくれない。
 冬、もっとも山が美しくなる季節なのに、こういうことでは春になる前に、雪山を求め九州を離れて遠征せねば。

 それで2月の連休は雪が豊富で、スキー場もたくさんある広島の中国山地へ出かけた。ネットで調べると、火曜日から水曜日にかけて大寒波が訪れたので雪はどっさりあるようだ。
 ・・・ところが、大寒波のあとに、一挙に気温が上がり、土曜日の午前中に雨が降ってしまったので、どうも雪の積もり具合についてはあやしくなってきた。
 それでもなにはともあれ、雨あがりの午後に深入山へと行ってみた。

【深入山】

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 なだらかで木が少ないことから、今の時期は雪が積もって、白いプリンのようになる深入山、みごとに雪がない。でもガスがかかっていてよく見えない稜線には雪があるかも、と期待して登ってみた。

【深入山山頂】

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 深入山は標高1153m。冬、中国山地のこの標高では雪がないとおかしいのだが、雪、ない。困ったものである。
 それでも深入山は景色がよいことで有名なので、周囲のガスが晴れて、見晴らしが良くなるのを待とうとしたが、山頂では強い北風がダイレクトに当たり、まともに立っているのも大変だったので、さっさと下山することにした。

【深入山北斜面】

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 下山路は北側の斜面を行くが、こちら側は日が当らないので、今週積もった雪がまだ残っていた。けれど下るうち、日当たり側に出ると、登山道の雪は溶けて、冷水となって流れ、道全体が小川と化していた。

【しし鍋@旅館松かわ】

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 深入山から下山したのちは、吉和の潮原温泉へ。ここで名物のしし鍋でも食いながら、登山計画を練り直す。
 深入山の状態からみるに、中国山地の雪は標高1200mくらい、そして日当たりのよくないところくらいにしか残っていなさそうである。そうなるとその高さの稜線を持つ山は吉和冠山から寂地山、右谷山にかけての稜線になろう。ではそこを登ってみよう。ただ右谷山まで行ってしまったら時間的に寂地峡に下らざるを得ず、それだと元の登山口に戻るのが大変なので、潮原から寂地山へのピストン登山という、寂地山登山にはあまり一般的でない、冬用の変則コースをとることにした。

【潮原登山口】

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 冠山への登山口。雪、ほとんどない。

【潮原登山口 2018年】

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 こちらは、一昨年登ったときの写真。雪の量がまったく違う。

【登山道】

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 標高1100mくらいになっても雪の量はこのくらい。木の合間から見えているのが冠山。

【登山道】

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 標高が1200mを越えたくらいから雪は出て来る。しかし積雪量は乏しい。

【登山道 2018年】

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 一昨年はこれくらい雪が積もっていて、膝まで沈むラッセルを楽しめたのだが。

【冠山山頂】

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 雪ないな、ないな、と思いながら到着した山頂。ここも標高1300mを越えているわりには雪が乏しい。

【登山道】

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 冠山からはいったん100mほど標高を落としてから、寂地山までの1200mを越える稜線を行く。こちらの道は日当たりの関係からか、ずっと雪は残っており、ようやく雪山気分を味わえた。

【寂地山山頂】

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 いくつかの小ピークのあるなだらかな稜線を歩くうち、今までより少々高いピークがあるなと登って行くうち、着いたピークが本日の最終目的地寂地山山頂であった。
 登山全体を通して、狙い通りに冠山から寂地山にかけて雪山登山を楽しめたのは良かったけど、それにしても2月の中国山地でここまで雪が少ないとは、ほんとうに地球温暖化を実感できた日であった。

 じっさいのところ、雪が少なくて困ることって、一部の業種以外にはないだろうし、除雪の手間がいらないだけ一般の人には助かっているだろうけど、雪山が趣味の者にとっては、今後の趣味の戦略をいろいろと練り直さねば、と思った、今シーズンのあまりの暖冬であった。

 

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