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November 2019の記事

November 19, 2019

ティベリウス帝別荘(Villa Jovis)@カプリ島 探訪記

(1)政治システムについて
 人類は社会性生物であるため、地球上に出現した時点から社会を構築して生活している。そして社会全体を統治する手法―政治について、人類は様々なシステムを考案してきた。そのなかで最も効率のよいものは、有能な政治家がリーダーとなり、トップダウン式に物事を決めて行く、ということが判明している。このことは社会が困難な状況に面し、その解決にスピードが必要なときに特に顕著になる。合議制などを用いて、全体の意見の調整を行ってから解決を図るようなことをしていては、その間に社会が滅びてしまう、ということは普通にあり得るからだ。だから多くの国を巻き込む戦乱の時代には、有能なリーダーが一手に責任をもって率いる国が、最終的に生き残る、ということはよくある。

 この非常に効率的な政治システム、―独裁制は、しかし大きな弱点をいくつか持っていて、それゆえ長期の運営はかなりの困難を伴う。
 その最大の弱点は、一国を任せるに足る有能な政治家、そういう人間自体が極めて少数なことである。そのような人物は一国家においては、100年に一人か二人出ればいい、というのが人類の生物的限界と、歴史は教えている。それゆえ独裁制を登用した国家は、稀に出現する超優秀な人材を除き、大抵は「それなりに優秀」な人物をリーダーに据えることになるが、種々の事情で無能な人が選ばれることもまたあったりする。
 第二の弱点は、第一の弱点と密接に関係しているのだが、リーダーに権限を集中させているため、国家の命運がリーダーの資質によって容易に左右されてしまうことである。これは帝政なり絶対君主制なりの独裁制を用いた国家の歴史を読めば判然としており、そのような国は名君を擁したときは興隆するが、暗君がその座にあるときは存亡の危機に瀕し、たいていはリーダー交代のための内乱に突入する。
 これらに加え、その他いろいろと独裁政治には弱点があるのだが、それらは長くなるので省くことにする。

(2)ローマ帝政の樹立

 共和制ローマは約500年間共和制で政治を行い国民全体で政治を行っていたのだが、ポエニ戦争に勝利して地中海の覇者となり大国化すると、様々な政治問題が噴出して社会が不安定化した。そのためカエサルが台頭して、一時的に独裁制を敷いて社会のリストラクションを行っていた。ところが共和制の国家とは、独裁制に対するアレルギーが強く、カエサルは改革の半ばで暗殺されてしまい、その改革はいったん頓挫してしまった。

 カエサルの跡を継いだのが養子のアウグストゥスである。彼は熾烈な権力闘争を勝ち抜いて、最高権力者の座に着いた。しかしローマを治めるのに、そのまま独裁制に移行しては、まだまだ独裁制アレルギーが残っているなかでは、カエサル同様に暗殺されかねない。そこで彼はいったん権力を元老院(国会みたいなもの)に戻すと宣言し、しかし実権は握ったままで、徐々に元老院を無力化し、実質的な独裁制―帝政を一代で築きあげた。アウグストゥスは大変有能な政治家で、彼の指導は広大なローマ帝国は平和と安定をもたらし、ローマ帝国は大いなる繁栄を謳歌する。
 アウグストゥス統治下のローマ帝国は、「超有能なリーダーのもとの独裁制国家」の典型のようなもので、アウグストゥスが生きているかぎり国家体制はまさに盤石であった。しかしいかに有能な人物であれ、いつかは寿命は尽きる。そしてアウグストゥスは75歳で亡くなり、ここでようやく本記事のテーマであるティベリウスの話題となる。

(3)ティベリウス帝の悲劇

【ティベリウス】

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 ローマ帝国という国は、じつは「皇帝」という職業は正式には存在せず、国民の代表である元老院が国家を運営している、という建前になっていた。しかしアウグストゥスは実質上全ての権力を握って国家を運営しており、そしてそれは非常に上手く機能していたので、アウグストゥスの長い統治のうち、元老院はその政治的な能力を失ってしまった。元老院議員は政治に関しては名誉職みたいなものであり、政治の決定についてはアウグストゥスのイエスマンと化していたのである。

 そしてアウグストゥスが亡くなっては、ローマの政治機能の根本が失われたことになった。しかしアウグストゥスは自分が死んだのちは、あとは野となれ山となれとかいう無責任な考えの持ち主ではなく、きちんと後継者を指名していた。それがティベリウスである。ただし、当のティベリウス自身にとって、それは悲劇的なことであった。

 

 先に、独裁制にとって最大の問題点は「独裁制を行える能力を持つ人物が極めて少ないこと」と述べた。帝政樹立期のローマ帝国にとってたいへん幸運なことに、二代目を継ぐことになったティベリウスはローマ帝政史でも有数の有能な人物であった。しかしそれはティベリウス自身にとっては不幸なことであった。

 ティベリウスという人は教養もあり、威厳もあり、人望も厚く、責任感強く、軍事の才能にも長け、そしてローマきっての名門家の嫡男という、ローマ帝国の第一人者としてこれ以上ない人物だったのだが、政治家としては看過できない欠点があった。彼は高潔な精神を持ち、誇り高く、自他ともに厳しい人だったのである。それは個人としては美点とすべき特質ではあろうが、政治家にとっては険しい欠点となる。政治力とは、すなわち調整能力のことでもある。個人、団体、すべてに存在する利害関係をうまく調整して、世の中を進めて行く、それが政治の大事な役割だ。しかしティベリウスは、無能な者、卑怯な者、下劣な者は大嫌いであり、それらの者たちともやむをえなく付き合わざるを得ない政治家という職業はまっぴらごめんと思っていた。

 そういう彼がローマ帝国の指導者になりたいと思うわけもない。そして元老院で読み上げられたアウグストゥスの遺言書には「後継者として期待していた二人の息子が亡くなってしまった今、私はティベリウスを後継者に指名せざるを得ない」などと失礼なことが書かれていたのだから、それはなおさらであったろう。

 ティベリウスは遺言書読み上げのあと、「偉大なアウグストゥスの指名であるが、私には後継者という重責を果たす能力はない。その地位は辞退して、全ての権力は元老院に戻したいと思う」と述べた。困ったのは元老院である。すでに元老院は政治的能力を失ってしまっている。今さら権力を戻されても、国家が乱れるだけだ。元老院はティベリウスに馬鹿を言うな、あんたがその座を引き受けないと、アウグストゥスが築いたローマが無茶苦茶になってしまうと抗議した。ティベリウスは責任感の強い人間である。自分の気持ちはともかくとして、元老院の言うことも理解できたので、それではこれからはお互い協力してローマ帝国を運営していこうという方針でまとめ、アウグストゥスの正式な後継者となった。

 ティベリウスの治世においては、なにしろティベリウスは有能な人なので、ローマ帝国全体に的確な指示を与え、国家は平和安定を享受した。ただしティベリウスにとって、政治とは彼の精神を蝕んでいくものであった。就位のさい、協力を誓った元老院は政治のパートナーとしてはまったく無能であり、いつまでたってもまともに機能する兆しはなかった。政治家ティベリウスに対して近寄ってくる人たちも、彼にとってはまったく心を許せるものではなかった。政治という職業を続けていくと、彼は人間の嫌な面ばかりを見ることになっていった。まあ政治家という職業は、元々そういうものなのであって、人間にはいろいろな人がいて、そして個人にもあらゆる面があるので、人間とはそういうものだと受け入れ、妥協する必要があるし、じっさいアウグストゥスを始めとする大政治家はそうしてきたのだが、潔癖なティベリウスにとってそれは耐えがたいことであった。そうして政治家という職業を続けることによって、彼の心は病んでいった。
 仕事により心が病んでしまったとき、その治療法の第一は、仕事を放棄して、ゆったりと休むことである。これだけで治ることは、ままある。しかしながら、責任感強いティベリウスには仕事を放棄する選択肢はなかった。それで次なる治療法としてティベリウスはローマ帝政史上、どの皇帝もやっていない荒技に出る。

 ティベリウスは治世12年目にして、ローマからちょっと旅に出るといって、少数の側近と友人を連れてカプリ島に行き、そしてそこから約10年間、亡くなるまでローマに戻らなかった。これは隠遁というわけではなく、ティベリウスは政治家としてはずっと現役であった。つまりローマで人と会うのが嫌で嫌でたまらないので、首都ローマから遠く離れた孤島のカプリ島に引きこもり、人との交わりを絶ったうえで、そこから手紙の交換で指示を出し、亡くなるまでの政治家としての仕事を行ったのである。大帝国の元首としては常識外れ、破天荒な行為ではあるが、ティベリウスにとっては、自らに課した重い責任を果たしつつ、己の人間の心を守るにはこれが唯一の方法であったのだ。

 ティベリウスという人の伝記を読むと、仕事の辛さは言うに及ばす、アウグストゥスにはいろいろとひどい目にあわされ、家族とはうまくいかずなんでもかんでも島流しに処す羽目になり、唯一愛していた息子は暗殺され、本当に不幸な人生なのだけど、それは結局彼が有能であったからそういう目にあったわけで、それを考えると、彼の政治家としての一生の厳しさ、哀しさがより伝わってくる。

 そういう悲劇的な人生を送っていたティベリウスが、心を癒すために選んだカプリ島の別荘、伝記を読んださいに是非とも一度訪れたいと思っていたけど、今年の秋訪れることができた。

(4)ティベリウス別荘 Villa Jovis探訪記
【カプリ島 対岸のエルコラーノからの眺め】

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 カプリ島はナポリから30kmほど離れたところに浮かぶ小島である。全体が巨大な岩であり、周囲は絶壁に囲まれているが、一ヶ所だけ入江になっているところがあり、そこを港として島に渡ることができる。そしてその港から100mほど登った小高い平地が人々の居住地になっており、今もそこにはたくさんの家、建築物が並んでいるけど、ティベリウスの別荘はそこと遠く離れた島の東端にあり、ティベリウス、いったいどんだけ人嫌いなんだ、と思わず突っ込みたくなってしまう。

 そして港から、私はナポリ旅行の主目的ティベリウスの別荘「Villa Jovis」を目指して歩いて行った。お洒落な家々と庭に挟まれた小径をずっと歩いて行き、島の端に近づくとようやくVilla Jovisへと着いた。

【Villa Jovis】

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 かつては豪華な宮殿であったVilla Jovisは、二千年近い前に主を失ったのち、荒れるに任され、今では基礎部と石壁のみかろうじて残されているのみで、往時の栄華をつたえる術もない。政治家の住処としてはおろか、普通の者さえ住むのも不便な地ゆえ、偏狭な主人がいなくなったのちは、誰もそこに住もうとは思わず、時の流れのまま朽ちていったのであろう。
 この宮殿の跡地からは、ティベリウスの見ていたものは、もはや想像もできない。

【カプリ島からの風景】

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 かつてのローマ帝国最高権力者の住居は荒れ果てていたけど、二千年前と同様の眺めは、もちろんある。別荘の高台の前には、紺碧のティレニア海が広がり、そこにカプリ島に向かってソレント半島が突き出ている。その半島を奥に辿って行くと、円錐形の秀峰ヴェスヴィオ火山があり、さらにその奥にナポリの街が扇型に弧を描いている。
 とても美しい、まさに名画のような眺め。

 仕事と人生に疲れ果て、絶望に沈んだ、世界で最も気難しい男が、広大なローマ帝国のなかから、終の棲家として選んだ、カプリ島の東端の崖の上。

 この眺めを見ていると、なぜティベリウスがこの地を選んだのか、はっきりと理解できる。そしてあれほど疲弊させられたティベリウスの心が、この眺めによって癒されることによって、残りの激動の政治人生を全うできた、ということも。

 伝記だけ読んでは分からない、その地に行ったことによってのみ理解できる、そういうものを私はカプリ島の探訪で知ることができた。

 

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November 16, 2019

ブルックナー第八交響曲@メータ指揮ベルリンフィル公演

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 福岡市でメータの指揮によるブルックナー第八交響曲(以下ブル8)の公演があるとのこと。ベルリンフィル演奏とのことで大変そそられるが、S席36000円という値段は、ブル8のような本邦では決してメジャーではない曲目では強気と思われ、私もしばし逡巡したのだが、ブルックナーの交響曲の金管強調の大型なもの、第5や第8は、ベルリンフィルやシカゴ響みたいな超高性能デジタルタイプオーケストラで聴いてみたく、だいたいベルリンフィルが九州に来ること自体が珍しく、さらには名指揮者メータ氏も今年は御歳83才ということで、いつ引退するや分からない、ということもあり、結局チケットをゲットしてみた。それにしても、私がクラシックを聞きだした頃は、メータって「若手の有望指揮者」という位置づけだったんだが、もうそんな歳になっているんだ。そりゃ私も歳取るわけだよ。

 そういうわけで、久々に福岡市へ。会場のアクロスに着いてみたら、当日券は売り切れとの看板が出ていた。こんな一般受けするとも思えない曲の高額演奏会が売り切れとは、福岡市おそるべし、と思った。

 肝心の演奏については、とても素晴らしいものであった。
 ブル8の第一楽章、私はじつはこの楽章は苦手であった。何か大きな深刻な感情があり、ずっとそれを引き摺りながら進む音楽。解決に向かいたい、解放に向かいたい、そういう情熱はひしひしと感じられるもの、一歩進んでは二歩下がり、安らかな休息にやっと入ったと思ったらすぐにまた格闘の場に戻って来る、そういうことを繰り返しながら、最後は何らの解決策もないまま諦めの境地で終わってしまう。大規模で大迫力のある音楽なんだけど、カタルシスがない、やるせない音楽、そういう印象であった。いや、ナマで聴いても印象はその通りであったのだが、ナマだと、音楽が生まれ、それが消え、また生まれ、なんだかある巨大な生命集合体の生ける歴史がダイレクトに見えて来る、特異な圧倒的な経験ができた。これはブルックナーという稀代の大作曲家の傑作を、名指揮者が世界有数の高性能オケを使って演奏したからこそ感じられる、得難いものであった。

 そしてずっと何らかの抑圧を感じていた第一楽章のあと、それを受けて第二楽章は主題を前進、発展させていき、そして爆発する。明らかに景色が変わる。ここにはあの苦しい第一楽章をくぐり抜けて来たものしか得られない。新たな世界がある。その世界に入ったのちは聴衆は音楽の激流にただただ飲まれ流されていく。

 弟三楽章アダージョ。ブルックナーの書いたもののなかで、いや音楽史上で、最も美しい曲。そして深遠な思索を奏でる曲。あまりにも美しい弦の調べのなかに、ホルン、そしてはープが世界の神秘の答えを告げるがごとく、荘厳な調べを奏で、それらの調べが絡み合い、もつれながら、壮大なクライマックスへとたどり着く。あまり出番のないシンバル奏者は、このクライマックの前に立ちあがり、来るぞ、来るぞ、との雰囲気を開場に満たし、そしてクライマックスでバーンとシンバルを鳴らす。ライブならではの迫力。

 フィナーレは、弦楽器のリズムをバックに金管群がファンファーレを鳴らし出すと、一挙にオーケストラの楽団員が倍に増えたかのごとく、オーケストラの音量が膨れ上がり、さらにはこれに凄まじいまでの迫力をもったティンパニが加わって、音の大饗宴が続く。野蛮な、とでも称したい生命力あふれたオーケストラの大饗宴は、ずっとこのまま続いてほしいと思うくらいの充足感をもって進行していくが、やがては全ての楽章の主題をまとめていくコーダに突入し、そしてオーケストラの全力を振りしぼったがごとく輝かしい音を放って終宴となる。

 素晴らしい、じつに素晴らしい。

 ・・・のだけど、まだ残響が残っているのに、拍手した聴衆が少数ながらいたのには心底腹が立った。ブルックナーの音楽って、残響が消えるまでがブルックナーの音楽なのであって、そういう風に作曲されている。それはブルックナーの理解の初歩中の初歩だろうに。ブルックナーの音楽の最後の音が響いたのちは、あれが消えるまで余韻を存分に味わうという幸福な音楽経験をして、それから全ての音が消え去ったのち拍手、が本道というものである。だいたい、それを知らぬ客のために演奏の始まる前にわざわざ会場放送で、「福岡シンフォニーホールではマナー向上に努めています。指揮者の手が下りるまで拍手は控えてください」って流されていたのに、なぜなんだろう。いまだに腹が立つ。ただ、3年前にプロムシュテットが宮崎市でブル7を振ってくれた時、やはり開演前にスポンサーの局アナが舞台に出て来て、「ブルックナーは残響が消えるまでが演奏です。拍手はそのあとにしてください」と具体的な指示をしたのに、終楽章が終わるやいなやただちに拍手、さらにはブラボーと叫ぶ人がけっこういたのに辟易したから、そういう人たちが一定数紛れこむのは仕方ないのだろう。でもそういう「分っていない」人たちが高い金払って、ブルックナー聴きに来る理由がよく分からない。ブルックナーって基本的に「信者」しか聴きに来ない作曲家だし、だいたい「信者」じゃないと、あの長い、難しい曲を、狭い椅子に長時間座って聴けないと思うんだけどなあ。

 以上、「信者」の愚痴でした。

 

 

 愚痴で〆るのもなんだから、ブルックナーへの私流の賛辞も書いておく。
 ブルックナーの音楽、生で聴いてあらためて実感したけど、交響曲ってここまで複雑にして深遠な音を出せる、ということに感嘆した。もちろん、交響曲ってあらゆる種類の楽器を使って合奏するわけだから、その組み合わせによって無限といってよい音が出せるのは分かるけど、その無限に近い音のなかで、それがブルックナーのような崇高にして深遠な調べに結実するのは、たぶん針の穴を通すがごとき困難さを要する作業だと思う。
 交響曲という分野は、いったんはベートォヴェン(特に第九)によって頂点に達して、その達成したあまりの完成度によって、「後世の作曲家は、もはや交響曲を書く気になれない」てなことをブラームスが言っていたりするわけで、じっさいベートォヴェン以後、大作曲家によりいくつもの交響曲は書かれたものの、ベートォヴェンに比肩するようなものはついぞ書かれなかった。そして、そのままだと、交響曲という分野は、そこで完結してしまいかねなくなっていた。

 そこにブルックナーが現れた。って、彼はべつに交響曲の救世主たろうなどと思ってこの分野に進出したわけでなく、交響曲を書くことが己の人生そのものと固く信じ、その道を突き進んできた。けれどもその作曲家人生は決して幸福なものではなく、彼の書く交響曲はその時代にとってはあまりに規格外であり、理解されずにいた。今回聴いたブル8でさえ、当人にとっては畢生の大作だったのだが、途方もない努力の末書きあげたのち、演奏を依頼した指揮者には、無視されるか、あるいは演奏不可能です、と突き返され自信を喪失し、何度も曲を書きなおしたり、さらには昔の自作へも自信を失いその改訂さえやりだしている。

 同時代には評価されず後世で評価された天才って、たいていはたとえ周囲が理解せずとも己のみは自分の天才を信じているものだが、ブルックナーの場合はそういう自負心は得られず、ずっと己の天才性に疑義を感じながら作曲人生を続けねばならなかった。それでも彼が作曲を死ぬ当日まで続けたのは、「自分には音楽しかない」という、強固な信念があったからだ。まあ、世の中には今でもそういうぐあいに「自分には○○しかない(○○は美術、音楽、小説、詩等なんでもいい)」と思い込み、その○○に人生を浪費して終わってしまう凡人はヤマほどいるわけだが、極めて稀に、そのなかに真の天才がいて、その人たちの仕事は後世に残ることになる。そしてブルックナーはそういうなかでも、超弩級の傑出した天才だったので、見事に彼の信念は実ることになった。

 じっさい、ベートォヴェンによって袋小路に入ってしまったかに見えた交響曲は、ブルックナーの手によって新たな扉が開かれた。ベートォヴェン第九の終楽章は、冒頭の不協和音、各楽章のテーマの否定等、苦心惨憺して新たな音楽の扉を開こうとして努力しているけど、結局その扉開けるのを諦めて、合唱へと逃げている。けれども我々はブルックナーによってその扉が開けられたことを知っている。交響曲はまだまだ新しい響き、新しい音、新しい旋律があることを知った。あの偉大なベートォヴェンの先にもまだ傑作の森があることを教えてくれたのである。

 世の芸術には、残念ながら、もうピークを過ぎ、我々はもはやその分野の新たなものは望めず、昔の作品をどう解釈するかにのみ興味が絞られている、そういうものがじつは数多い。しかし、ある大天才の出現により、それに新たな生命が吹き込まれ、その分野が蘇ることもある。ブルックナーの達成した業績はその重要にして貴重な一例だと思う。

 

 

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アクロス山に登ってみる@福岡市

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 標高60mの低山なれど、福岡市での有数の有名な山、「アクロス山」。
 有名ではあるけれど、わざわざ登りに行くほどのものでもないのだが、今回アクロス福岡に用事があったので、そのついでに登ってみた。
 アクロス内には山頂までのルートはないので、天神公園側に二か所設けられた階段を使っていく。

【天神公園から】

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 天神公園から見るアクロス山は、秋山の佇まい。
 都会のまんなかにこのような大規模な人工林があるのは面白い。
 アクロス山には5万本近い樹が植樹されており、種類も多く、樹々を観察しながら登るとさらに楽しい。

【展望】

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 アクロス山は山頂まで行くと、北は博多湾、南は大宰府方向、360度の風景を望めるのだが、時間制限があり、本日はそこまで行けなった。
 というわけで、登頂はしていないのだけど、それでも途中の展望台から見る風景は、都会と川と山々を一望できる素晴らしいものであった。

 

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