音楽:N響宮崎公演
未曽有の大水害が西日本を襲い、各種主要交通機関が不通になっている状況、はたしてN響公演は予定通りに行われるのだろうかと思っていたが、ネットで確認すると、普通に公演は行われるとのことで宮崎市へ。
そして、そこで知ったのだが、N響は九州公演のツアー中で、7日(土)鳥栖市→8日(日)→大分市→10日(火)宮崎市と移動しており、うまいぐあいに災害の少ないところを通りぬけて宮崎まで到達したのであった。
演奏会は、最初の曲は、プログラムを変更して、大水害へ被災者への祈りのために、チャイコフスキーの静かな美しい小品から開始。
メインの曲は、ショスタコーヴィッチの交響曲第五番。
この、作成に関して複雑な背景のある、高名な曲は、いろいろな解釈はできるのだろうが、普通に聞いているかぎり、全体的に重苦しい、出口のないような、圧迫感をずっと感じる。弦も、管もその圧迫に対する、嘆きや憤りや怒りといった負の感情を常に響かせている。
そして最終楽章にいたって曲調は一変し、「その圧迫感、閉塞感を打ち破るかのように、あらゆる楽器が、勝利の歓喜の響きをあげて咆哮し、曲は堂々と幕を閉じる」という解釈から、この曲に「革命」なる副題が、だいぶと昔に我が国でつけられたのではある。
じつは、それはけっこう無茶な解釈ではあって、ほんとのところ曲調はまったく変わってはいず、その歓喜の音楽も、「人間は絶望に沈んでいても、権力者が強制的に笑えといえば、笑うものだ」という手の、強いられた「歓喜」にしか解釈はできず、まあなんというか、救いのない音楽なのである。
ソヴィエトという国家が成り立ち、スターリンの粛清が凄惨を極めていた時代、20世紀で最も優れた音楽家の一人の、蹂躙された精神の劇という、ある意味時代の生き証人ともいえる曲である。
プログラム全体は、ロシア音楽によるもので、メインのショスタコーヴィッチの曲の前座として、チャイコフスキーのチェロ協奏曲風の管弦楽曲が奏でられた。
チャイコフスキーの生きた帝政ロシアの時代は、決してのどかな時代ではなかったのであるが、それでもソヴィエトの頃に比べると、数千万倍は、人間にとって生きやすい時代であったんだろうなあ、と思えてしまう、のびのびとした、軽やかで、花やかな、気持ちのよい音楽であった。
そんなこんなで、いろいろと考えること多きプログラムであったけど、なにはともあれ生で鳴るN響の音はやっぱり素晴らしいもので、このような美しい音を、見事な音響効果を持つホールで聞くのは、すばらしき喜びである。
観衆の大満足の拍手のなか、しかし指揮者は、アンコールには応えずあっさりと舞台から去った。
少々残念ではあるが、翌日鹿児島、翌々日熊本というハードスケジュールでは、それもやむをえまい。N響って、過酷な日々を送っているということを、今回スケジュール表を見て初めて知った。
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