「私はシャルリではない」:一人の日本人がシャルリエドブ社テロ事件について感じこと
1月7日に、フランスのシャルリ週刊誌社をテロリストが襲撃する事件があり、12人の社員が殺害された。この悲劇に対して、多くのフランス人が追悼の意を捧げ、パリでは表現の自由を守るための大規模なデモが行われた。
私も、この勇敢な記者たちの死にたいして、哀しみと同情の念を持った。…最初のうちは。
しかしいったん彼らの風刺漫画を見て、一気にその同情の念が失われてしまった。
これはひどい。ひどすぎる。
私は風刺というものは、高度な知性と批評精神から成り立っているものと思っていた。しかしこの風刺画にはそのようなものは一かけらもなかった。
そこには、イスラム教徒に対する侮辱と憎悪しか感じることは出来なかった。
イスラム教徒が開祖ムハンマドを何よりも崇敬しているのは、世界的常識である。そのムハンマドを貶める、この下品でインモラルな漫画を見て、イスラム教徒でもない私が不快感を感じるくらいだから、敬虔なムスリムの多くは激しい憤りを感じただろう。
基本的にはムスリムは穏健な人が大部分で、その憤りを行為にするこはなかったであろう。しかしフランス語を読めるムスリムは何億人もいるのだから、そのうちの僅かな者が殺意を覚えてもまったく不思議ではない。
ペンの暴力に対して、その手段を持たぬものが、剣を用いたのは自然なこととさえ覚えてしまう。
もちろん私はテロ行為は絶対に許されるべきでないと確信している。しかしこれほどの侮辱に対して、暴力が行われたことについては、理解はできる。
(繰り返して言うが、どんな理由があっても、テロは絶対的に許されないと私は思っている。)
今度の事件を機会に、人々は表現の自由が大事だと主張した。
もちろん表現の自由はとても大事である。しかし、表現というものは、それが発信されたなら、必ず人に影響を与えるものであるから、その自由は決して無制限なものではありえない。それはあくまでも、節度と良識に基づいてなされるべきである。
文明人は、人に自分の考えを広く伝える手段を持っている。
そして、文明人である以上は、節度と良識に基づき、その意見を発信するべきだと思う。そうでなければ、その発信された意見は、容易に暴力に化すことができる。それこそ今回の事件と同様に。
フランスのデモでは、「私はシャルリだ」とのプラカードを掲げる多数の人がいた。しかし、彼らが求める無制限の自由は、また新たなる争いを産むのではないのか?
その光景をながめ、一日本人の私としては、「私はシャルリではない」とつぶやくしかなかった。
そして、シャルリーエブドとは比べ物にならない小さなブログの書き手の私であるが、他山の石として、自戒に努めたいと心底思った。
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