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July 20, 2014

東北旅行 世良修蔵の墓

【世羅修三:1835年~1868年】
Serasyuuzou

 大動乱期幕末は、数々の英傑、偉人を輩出した時代であったが、光の輝きと同時に影も深く、また愚劣な人物も数多く出した時代でもあった。
 その数ある愚劣な人物のうちでも、東北において最も悪名高き人物が世良修蔵である。

 この人物は、戊辰戦争中の東北戦争勃発のキーマンである。
 東北戦争は「日本の歴史の恥」とでもいうべき内戦であり、これを起こしたというだけで、明治新政府には行政機関の正当性はないと断言できるほどの、大義無き、愚かな戦争であった。

 この最悪の東北戦争がなぜ起きたかという理由には、いろいろと複雑な事情があるのだが、とにかく新政府軍の東北鎮撫実務トップという要職にありながら、現地で傲岸不遜な態度で乱暴狼藉を働いた世良修蔵が戦争勃発の原因となったのは誰しも否定できぬ事実である。
 それゆえ戊辰戦争史において、本来長州の無名武士であったはずの世良修蔵の名は、東北戦争における主役級の役割をもって刻まれることになってしまった。

【世良修蔵の墓碑】
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 私は世良修蔵という人物にはじつのところさほど興味はなかったが、その墓碑に興味があり10年ほど前に訪れた。
 世良修蔵は仙台において斬首された。世良修蔵は誰からも憎まれていたため、どこにも墓をつくることができず、無縁仏のような扱いを受けていたのであるが、明治新政府成って、いちおう新政府側のかつての要職者としてこれではあんまりだと、白石市陣場山に改葬された。この時墓碑には「戊辰元年、世良修蔵は賊によって殺された。享年34歳」というふうな語句が刻まれた。
 世良修蔵は、仙台藩壊滅の謀議を図ったため、それを阻止すべく、仙台藩士有志が上司の許可を得て捕縛して処刑したのであり、その正当たる藩務を果たした仙台藩士を「賊」呼ばわりとは何事かということで、後にこの「賊によって」の部分が何者かにより削られた。
 東北人の中央政府に対する憤激の強さの象徴ということで、この墓碑は有名だったのである。

【墓碑:拡大図 赤丸部が該当部】
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 墓碑を拡大したところ。文字が消えているところが「為賊(賊によって)」と書かれていた部である。
この部、ノミで無理やり削りとったような姿を想像していたのだが、実物はヤスリで丁寧に擦り落としたような感じであった。
 webの情報によれば、明治の大赦令によって東北人が赦されたことにより、それに従って官庁レベルでこの処理がなされたとのこと。
 この消えた文字は、巷間伝わる「東北人の恨みの象徴」というようなものではなかったらしい。
 けれども、いくら新政府樹立のドタバタ時とはいえ、「為賊」と平気で彫らせることが、当時の新政府の田舎者ぶりというか、無教養性が如実に現れており、それを伝えるためにも、かえってそのままの姿で残してほしかったとも思う。


 ところで、世良修蔵という人物について、私はのちに知識を得る機会があった。
 歴史のなかではただの愚か者として墓碑だけ残して歴史に埋没してしまったような人物だと思っていたのだが、萩市の博物館を訪れたとき、この人物に対してけっこう詳しい評伝の本があった。
 さすがに長州出身の人物であり、長州ではそこそこ関心がもたれているのであろう。

 世良修蔵は歴史においては、「東北で大義なき戦争を無理やり起こさせるために、薩長が送り込んだ鉄砲玉」という役割をはたしている。そういう捨て駒のような役だったので、「薩長はあえて、失ってもかまわない世良修蔵のような劣悪な人物を東北に送り込んだ」というふうに一般には認識されているわけだが、評伝を読むとあんがいそうではなかった。

 世良修蔵はしっかりした高等教育を受けており、また奇兵隊においても中隊を指揮する尉官レベルの指導力を持っており、幾多の戦果もあげていた。他藩との交渉に対してもきちんと結果を出しており実務能力もあった。あいつぐ内訌により人材が払底していた長州において、残り少ない、希少な有能な若手だったのである。

 そうだとすると、世良修蔵はその能力によって大役に抜擢されたわけだが、それにしては、東北での狼藉ぶり愚人ぶりとはずいぶんと乖離がある。まるで別人だ。
 このミステリに対する解答は、…やはりいくら能力があったとはいえ、役目がその能力以上に大きすぎて、それが手に余り、精神を病んでいったというところなんでしょうねえ。
 こういうことはべつだん珍しいことではなく、それこそ先の大震災のときに、政府の大臣級の人たちが自分の能力を超える事態に半狂乱になって、事態をさらに悪化させていった姿はいまだに記憶に新しいとことであるし。

 ただしそういうことが、結果として招いた悲劇の免罪符となるわけではない。
 世良修蔵は結局は無能だったわけで、その無能さがいまだに東北人に怨恨を残す、あの東北戦争を引き起こした。世良修蔵がいなくても東北戦争は起きたかはしれないが、あのような悲惨な形にはならなかったであろう。

 無能はそれ自体は悪いことではない。しかし立場ある人の無能は、それはそのまま罪となる。
 長州ではそれなりの人物だったとはいえ、仙台時代において、世良修蔵が唾棄すべき最低の人物であったことは間違いない。世良修蔵が最低であった理由は、その能力もないのに重要な役目を許諾し、かつその任に耐えぬことが判明したのちもそれを手放さなかったことによる。それが、世良修蔵自身の悲劇と、そして東北の悲劇を招いた。
 そして、これは今なおいたるところで続く、悲劇の事例でもある。

 世良修蔵の悲劇は決して他人事ではなく、社会を生きる我々にとっては重要な教訓を伝える出来事といえるだろう。

【世良修蔵の墓 2014年】
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Sera

 世に災いをもたらす者を悪人とするなら、その悪人には二種類がある。
 一つは悪を為す強い意思をもってその結果災厄をもたらす者。
 次は、悪を為す意思はないけど、その無能さをもって災厄をもたらす者。
 世良修蔵はその行いがあんまりだったので、前者に思われがちだが、評伝を読むかぎりは後者の代表例であったようだ。

 そういうわけで、十年前からは世良修蔵に対する考えが少々変わったこともあり、私は10年ぶりに墓を訪れることにした。
 今回は墓の入り口の門が閉まっていたので、あえて墓碑までは近づかなかった。

 10年前は寂れた地だなと思った記憶があるが、その記憶に比べ、さらに寂れた雰囲気が増しているようであった。
 元々この墓は世良修蔵とは地縁なきものだし、また世良修蔵は歴史の人気者というわけでは全くない。ここは今でもそうなのだが、歴史マニアしか訪れぬ墓なのだろう。

 かつて東北の恨み、憎しみを一身に背負ったような人物が、徐々に人々の記憶から消え去り、その墓が時とともに草木のなかに埋もれていてく。
 時間というものの有難さと残酷さが、伝わって来る、そういう場所であった。

 ……………………………………
 世良修蔵の墓 地図  白石市福岡蔵本陣場福岡小学校傍

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