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July 2014の記事

July 27, 2014

阿蘇望(2014)撤退記

 九州のみならず全国から坂好きのサイクリスト達が集う、夏の一大イベント阿蘇望。
 夏の暑い時期に峠を4つ、計2800mの高さを自転車で登るという、マニアックなサイクリング大会である。
 この大会は天候に恵まれない年が続いていたのだが、週間天気予報をチェックしていると、当日は「曇りのち晴れ、最高気温31度」という、阿蘇望にふさわしい過酷な条件を楽しめそう、というか苦しめそうな条件になっていた。

 ところが前日になって、予報が変更となり、日曜の阿蘇は曇りのち雨という予報になってしまっていた。いったい阿蘇望に何人雨男(or女)が参加しているんだい、と愚痴りたくなるような話である。
 それでも、午前中は天気はもつようなので、とにかく二つ峠を越えて、午後の二つの峠をどうするかは昼食休憩中に考えることとし、DNSはせずに、前日から阿蘇に入った。

【前日の阿蘇】
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 受付時の阿蘇の風景。雲が一部かかっているが、全体的には好天である。

【阿蘇当日の朝】
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 朝起きて外を眺めると、厚いく雲が低く立ち込めている。明らかに雨雲であり、一目でやる気が失せる風景だ。

【当日の天気図】
Photo

 ついでに天気図をチェックしてみる。
 九州では梅雨は明けたはずなのに、前線の尻尾が九州に戻ってきている。この前線の尻尾は気圧の配置から、これから九州を南下する動きとなる。そして前線の移動時、前線の高さから、九州では阿蘇を中心に雨が降るそうであった。
 とりあえず予報からは前線の動きはゆっくりしているとのことで、午前中はなんとか天気は持ちそうなので、予定通りに阿蘇望に参加することにした。


【出発時】
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 出発時の天候は曇り。そして蒸し暑い。スタートを待つ間は、立っているだけで汗が出るほどである。

【スタートライン】
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 阿蘇望が始まって30分ほどしてから私たちの番が来て、スタートラインについた。
 山は天候が悪く、霧で満ちているのでライトを今から点灯しておいてくださいとの注意があり、ようやくスタート。

【吉田線】
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 ローソンの交差点から草千里浜へ向けての登りとなる。吉田線では、蒸し暑く、風も吹いていないので、ペダルを回すごとに暑さがつのり、最初から阿蘇望のきつさを思い知る。

【吉田線】
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 延々と続く坂を黙々登って行くうちに、吉田線で一挙に風景が広がる所に出る。
 ここのところは、阿蘇望随一の絶景だと思う。

【火の山トンネル】
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 阿蘇望唯一のトンネル、火の山トンネル。
 ここを過ぎると、吉田線はけっこう楽になる。

【草千里浜へ】
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 そして草千里浜に近づくと、あたりは霧が立ち込め、気温が下がり急に涼しくなった。
 涼しい阿蘇望なんて阿蘇望じゃないよという説もあろうが、登ってる最中はそんな気などおきず、この涼しさがただただ有難い。
 しかし、草千里浜の高さになると霧は濃くなり視界がまったく利かない。それに小雨も降り出した。

【草千里浜】
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 草千里浜に着いたことには、視界はより悪くなり、雨粒も大きくなりだしてきた。

【草千里浜展望所】
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 天候がどんどん悪くなるなか、最初の峠である草千里展望台に近づくころ、前方にママチャリを発見。あの重たいママチャリでこの高さまで登るとは大した豪脚である。
 とはいえ当たり前のことながらスピードは出ず、ロードバイクに次々に追い抜かれていったけど、みなから「すごいですね~」と声をかけられていた。

 私も素晴らしい脚力ですね、とか声をかけて追い抜き展望台に到着。小雨が降っているので休憩する気もおきず、写真を数枚撮っただけで坊中線の下りに入った。

【坊中線】
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 小雨のなか濡れた路面でグリップが悪いので、ブレーキを常にかけながら下って行く。ロードバイクとは、「乾燥した舗装路を走ることに特化したデバイス」なので、濡れた下り坂は危ないことこのうえない。
 そういうふうに徐行していくと、…何台ものバイクに抜かれる。そのうち、例のママチャリにも抜かれてしまった。 ママチャリって、登りは遅いけど、下りは速いんだなあ、とか感心しつつ下っていったら、雨が本格的に降りだし、土砂降りとなった。坊中線はただっ広いところであり、雨宿りするようなところもないので、とにかく第一エイドへと向かう。

【坊中線】
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 坊中線は開けた地なので、眺めはよく、晴れた日にはたいへん気持ちのよい道なのだが、雨の日はただただ辛い。

【第一エイド】
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 第一エイドに着いたときも雨は土砂降りのままで、さらには雷まで鳴り出した。そうとう近いようで、定期的に稲光とともに轟音が鳴り響く。
 予報よりも前線の南下が早くなったようで、午前中から天気が大崩れである。とても自転車を走らせられるような状況になく、第一エイドには雨宿りする人がふくれあがる一方となった。

 天気図からして、サイクリングを続けるなら前線を追いかけることになり、この悪天候はずっとついて回るであろう。それに条件の悪い山間部は雷の巣みたいになっているのは明らかであった。
 ロードバイクは雨のなかを走るようにはできていないし、特にびしょ濡れの下り坂は危険きわまりない。ハードなコースである阿蘇望ではそれはなおさらだ。
 さらにはこの雷。フルカーボンバイクなんて雷の餌みたいなものなので、遮蔽物なきまっ平の道路を走っていると直撃の危険さえある。
 この大会、常識的に考えて中止だろうし、どころか現在の時点でレッドフラッグが出てもおかしくない。どこで旗振るのかは分からないが。

 というわけで、この時点で私はあっさりとDNFを決断。山ヤの私は、退却の決断は早いのである。
 まあ、私と同じ考えの人はいくらでもいて、リタイヤする人は続出であった。車でエイドまで迎えに来てもらったり、早々と回収車に乗り込む人もいた。
 私の場合は田中サイクルのサポートカーが走っていたので、店主に電話連絡して、スタート会場まで運んでもらうことにした。

 エイドには田中サイクルのメンバーが数人雨宿りしており、「天気図からは天候の回復は望めない。どうせ大会は中止になるだろうし、なによりこんな天候のなかで走る気はしないから、サポートカーで自分は戻るけど、どうします?」と私は相談を持ちかけたが、若いK君はまだ頑張りたいとのことで、雨の勢いが少々弱まったところでコースに飛び込んでいった。元気だな~。ベテランPさんは少々様子をみたいとのことで、結局田中サイクルメンバーでは、私ともう一人がサポートカーに乗り込み、出発会場のアスペクタまで戻ることとなった。

【車内から】
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 車内からは雨のなか走っているサイクリストを応援。
 走っている人たちが羨ましくも思えるが、またいつ豪雨、雷が訪れるか分からん状況で走る気はやっぱりしない。

【アスペクタ会場】
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 アスペクタ会場に到着。まさか車で戻るとは思ってはいなかったが、仕方ない。
 田中店主、有難うございました。

【アスペクタ会場】
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 そして、アスペクタ会場にはこのように大会中止のお知らせが。
 まあ、当然の判断ではあろう。
 今までのコースでも怪我人がいくらでも出ておかしくはない状況であったわけだし、これ以上進めるわけにはいかんでしょう。

【高千穂】
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 会場に戻っても雨ざらしのアスペクタで何をやるという気もせず、さっさと帰宅することにした。
 阿蘇のなかは悪天候であったが、外輪山を越えた高千穂は晴天である。
 天気図からは、そうであろうとは思うけど、それでもなんか納得いかん風景であった。

【天気図】
Aso

 帰宅して天気図を確認。
 阿蘇望が行われていた午後は、このように九州では阿蘇望のコースのみ、狙ったように雨が降っていた。
 九州中の雨男(or女)がこぞって阿蘇に集結したような、阿蘇のみアンハッピー、残りの九州はハッピーな7月最後の週末なのであった。


 阿蘇望は、やっぱり難しい。
 7月末というのが気候の不安定な時期であるし、それに山岳部の阿蘇はその影響を最も受けるところだ。
 でも、この不安定さを含めた全てが阿蘇望の魅力と思いたい。
 
 それはともかく阿蘇の山々も、阿蘇望も逃げない。
 また来年、健康と体力を保持して、この魅力あふれる阿蘇望を走りたいと思う。

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July 20, 2014

東北旅行 仙台

 東北旅行最後の夜は仙台市で一泊。
 仙台の名物といえば牛タンだから、繁華街に出て郷土料理店を探しながら歩いてみる。
 「銀兵衛」というチェーン店っぽい名前の居酒屋が、良さげな雰囲気があったので入ってみた。
 メニューは地産地消をモットーに地元の食材を主に使ったものであった。

【メニュー】
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Conger

 最初から牛タン食う気もせず、地獲れの造りと、それに穴子焼きを頼んだ。
 どれもよい素材を使っている。

 さらには、これも仙台名物の笹蒲鉾も頼んだ。

【笹蒲鉾】
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 出てきた笹蒲鉾は笹に包まれており、これを笹ごと七輪で炙る。
 笹蒲鉾って笹の形をしているから笹蒲鉾っていうのと思っていたが、じつはこういう意味があったのだ、と私は感心した。それで店の人に、笹蒲鉾って笹を使うから笹蒲鉾だったんですねと言ったら、「いえ、これはシャレでやってるので、当店のオリジナルです」とのことであった。
 感心して損したわい。

 それはそうとこの笹蒲鉾、自分好みの焼き加減にできることもあってなかなかの美味であった。
 しかし美味なのはよいが、量も多く、地酒をかなり飲んでいたこともあり、腹がふくれてしまい、結局牛タンまでは行きつかず。なにやってんだい。

【元祖長浜ラーメン@仙台】
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 繁華街の帰り道、一凛という元祖長浜ラーメンの店を発見。
 「元祖」長浜ラーメンって、豚骨ラーメン好きの福岡人でもいろいろと意見のある難解なラーメンなんだけど、仙台であの系統の味が受け入れられているのであろうか?
 興味をそそられたが、ラーメン食う体力は残っておらず、おとなしくホテルへと戻った。

【仙台空港】
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 仙台福岡便は昨年に比べ使いにくくなっており、午前中の便を使わざるを得ず、仙台はどこも見物できず。
 ただ、空港では全日空の懐かしいダヴィンチヘリのロゴをつけた飛行機を見ることができ、これは仙台での収穫であった。

 仙台から福岡空港に戻り、機外に出た瞬間、…あ、九州ってやっぱり暑いと当たり前の感想をもった。

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東北旅行 世良修蔵の墓

【世羅修三:1835年~1868年】
Serasyuuzou

 大動乱期幕末は、数々の英傑、偉人を輩出した時代であったが、光の輝きと同時に影も深く、また愚劣な人物も数多く出した時代でもあった。
 その数ある愚劣な人物のうちでも、東北において最も悪名高き人物が世良修蔵である。

 この人物は、戊辰戦争中の東北戦争勃発のキーマンである。
 東北戦争は「日本の歴史の恥」とでもいうべき内戦であり、これを起こしたというだけで、明治新政府には行政機関の正当性はないと断言できるほどの、大義無き、愚かな戦争であった。

 この最悪の東北戦争がなぜ起きたかという理由には、いろいろと複雑な事情があるのだが、とにかく新政府軍の東北鎮撫実務トップという要職にありながら、現地で傲岸不遜な態度で乱暴狼藉を働いた世良修蔵が戦争勃発の原因となったのは誰しも否定できぬ事実である。
 それゆえ戊辰戦争史において、本来長州の無名武士であったはずの世良修蔵の名は、東北戦争における主役級の役割をもって刻まれることになってしまった。

【世良修蔵の墓碑】
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 私は世良修蔵という人物にはじつのところさほど興味はなかったが、その墓碑に興味があり10年ほど前に訪れた。
 世良修蔵は仙台において斬首された。世良修蔵は誰からも憎まれていたため、どこにも墓をつくることができず、無縁仏のような扱いを受けていたのであるが、明治新政府成って、いちおう新政府側のかつての要職者としてこれではあんまりだと、白石市陣場山に改葬された。この時墓碑には「戊辰元年、世良修蔵は賊によって殺された。享年34歳」というふうな語句が刻まれた。
 世良修蔵は、仙台藩壊滅の謀議を図ったため、それを阻止すべく、仙台藩士有志が上司の許可を得て捕縛して処刑したのであり、その正当たる藩務を果たした仙台藩士を「賊」呼ばわりとは何事かということで、後にこの「賊によって」の部分が何者かにより削られた。
 東北人の中央政府に対する憤激の強さの象徴ということで、この墓碑は有名だったのである。

【墓碑:拡大図 赤丸部が該当部】
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 墓碑を拡大したところ。文字が消えているところが「為賊(賊によって)」と書かれていた部である。
この部、ノミで無理やり削りとったような姿を想像していたのだが、実物はヤスリで丁寧に擦り落としたような感じであった。
 webの情報によれば、明治の大赦令によって東北人が赦されたことにより、それに従って官庁レベルでこの処理がなされたとのこと。
 この消えた文字は、巷間伝わる「東北人の恨みの象徴」というようなものではなかったらしい。
 けれども、いくら新政府樹立のドタバタ時とはいえ、「為賊」と平気で彫らせることが、当時の新政府の田舎者ぶりというか、無教養性が如実に現れており、それを伝えるためにも、かえってそのままの姿で残してほしかったとも思う。


 ところで、世良修蔵という人物について、私はのちに知識を得る機会があった。
 歴史のなかではただの愚か者として墓碑だけ残して歴史に埋没してしまったような人物だと思っていたのだが、萩市の博物館を訪れたとき、この人物に対してけっこう詳しい評伝の本があった。
 さすがに長州出身の人物であり、長州ではそこそこ関心がもたれているのであろう。

 世良修蔵は歴史においては、「東北で大義なき戦争を無理やり起こさせるために、薩長が送り込んだ鉄砲玉」という役割をはたしている。そういう捨て駒のような役だったので、「薩長はあえて、失ってもかまわない世良修蔵のような劣悪な人物を東北に送り込んだ」というふうに一般には認識されているわけだが、評伝を読むとあんがいそうではなかった。

 世良修蔵はしっかりした高等教育を受けており、また奇兵隊においても中隊を指揮する尉官レベルの指導力を持っており、幾多の戦果もあげていた。他藩との交渉に対してもきちんと結果を出しており実務能力もあった。あいつぐ内訌により人材が払底していた長州において、残り少ない、希少な有能な若手だったのである。

 そうだとすると、世良修蔵はその能力によって大役に抜擢されたわけだが、それにしては、東北での狼藉ぶり愚人ぶりとはずいぶんと乖離がある。まるで別人だ。
 このミステリに対する解答は、…やはりいくら能力があったとはいえ、役目がその能力以上に大きすぎて、それが手に余り、精神を病んでいったというところなんでしょうねえ。
 こういうことはべつだん珍しいことではなく、それこそ先の大震災のときに、政府の大臣級の人たちが自分の能力を超える事態に半狂乱になって、事態をさらに悪化させていった姿はいまだに記憶に新しいとことであるし。

 ただしそういうことが、結果として招いた悲劇の免罪符となるわけではない。
 世良修蔵は結局は無能だったわけで、その無能さがいまだに東北人に怨恨を残す、あの東北戦争を引き起こした。世良修蔵がいなくても東北戦争は起きたかはしれないが、あのような悲惨な形にはならなかったであろう。

 無能はそれ自体は悪いことではない。しかし立場ある人の無能は、それはそのまま罪となる。
 長州ではそれなりの人物だったとはいえ、仙台時代において、世良修蔵が唾棄すべき最低の人物であったことは間違いない。世良修蔵が最低であった理由は、その能力もないのに重要な役目を許諾し、かつその任に耐えぬことが判明したのちもそれを手放さなかったことによる。それが、世良修蔵自身の悲劇と、そして東北の悲劇を招いた。
 そして、これは今なおいたるところで続く、悲劇の事例でもある。

 世良修蔵の悲劇は決して他人事ではなく、社会を生きる我々にとっては重要な教訓を伝える出来事といえるだろう。

【世良修蔵の墓 2014年】
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Sera

 世に災いをもたらす者を悪人とするなら、その悪人には二種類がある。
 一つは悪を為す強い意思をもってその結果災厄をもたらす者。
 次は、悪を為す意思はないけど、その無能さをもって災厄をもたらす者。
 世良修蔵はその行いがあんまりだったので、前者に思われがちだが、評伝を読むかぎりは後者の代表例であったようだ。

 そういうわけで、十年前からは世良修蔵に対する考えが少々変わったこともあり、私は10年ぶりに墓を訪れることにした。
 今回は墓の入り口の門が閉まっていたので、あえて墓碑までは近づかなかった。

 10年前は寂れた地だなと思った記憶があるが、その記憶に比べ、さらに寂れた雰囲気が増しているようであった。
 元々この墓は世良修蔵とは地縁なきものだし、また世良修蔵は歴史の人気者というわけでは全くない。ここは今でもそうなのだが、歴史マニアしか訪れぬ墓なのだろう。

 かつて東北の恨み、憎しみを一身に背負ったような人物が、徐々に人々の記憶から消え去り、その墓が時とともに草木のなかに埋もれていてく。
 時間というものの有難さと残酷さが、伝わって来る、そういう場所であった。

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 世良修蔵の墓 地図  白石市福岡蔵本陣場福岡小学校傍

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東北旅行 会津若松→白石市→仙台市

 東北地方は梅雨が明けていないので、天気は不安定である。
 それでも予報によれば午前中はなんとか晴れ間が見えるとのことであった。

【会津若松市】
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 猪苗代湖経由で福島市方面に抜けることとした。
 カーナビを適当にセットすると最短距離を選ぶようで、幹線道路を外れ妙な山道へと誘導された。(昨日もそうであったが)
 くねくねと曲がりくねった道で運転しにくかったが、それでも高い高度を走る山道から盆地の会津若松の街を見ることができ、結果的に良かった。

【天鏡閣】
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 猪苗代湖の湖畔に立つ、由緒正しき別荘「天鏡閣」。
 皇族所有の別荘だっただけあって、外観も内部も非常に格調高い。
 いったん荒廃したのち、昔の姿に復元したそうだが、ずいぶんと費用がかかってであろうと思われる。

【猪苗代湖】
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 天鏡閣は猪苗代湖を見下ろす別荘なのだから、二階から眺める猪苗代湖はさぞかしの美景と予想していたが、樹々が邪魔してたいしてよい姿を見ることが出来なかったので、改めて湖へ下ってみた。
 火口湖特有の形のよい湖である。

【浄土平】
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 猪苗代湖からは磐梯吾妻スカイラインを使って、福島へ抜けることにする。
 この道路は、東北有数の美しい山岳の景観を楽しめるところのはずなのだが、あいにく標高の高いところに雲がかかっており、何も見えないままこの道を抜けることになってしまった。

【白石城】
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 白石市は、戊辰戦争の発端となったいろいろな出来事をかかえてた地である。
 白石城においても諸侯の会議が開かれた歴史を持っている。この城、昔の形式の山城であり、天守閣に登れば市街地を一望でき、いわゆる殿様の気分にひたれる。うん、いい風景だ。

【世羅修蔵の墓】
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 白石市にある、世羅修蔵の墓。
 日本激動の時代幕末は、多くの英傑、偉人を産んだが、また同様に多くの愚物を産んでいる。その愚物のなかで、悪名ナンバーワンの人物が世羅修蔵であり、いまだ汚物のような扱いを受けている存在である。
 この人物の墓の碑文には、東北人の恨みを示す傷跡が残っているとのことで、10年ほど前にそれを見に訪れたことがあった。
 その後、この人物について知識を得る機会があり、彼についての私の認識が少々変わったことがあって、また墓を訪れてみることにした。

 墓には鉄門があって、内部には入れぬようになっており、件の墓碑は近くでは見られなくなっていた。
 そして以前に訪れた時に比べ、墓地全体が寂れた雰囲気になっており、この墓地は人から忘れられた存在になっていっているようであった。
 かつて東北の恨み、憎しみを一身に背負ったような人物の墓が、時とともに草木のなかに埋もれていてく。時間というものの有難さと残酷さが、伝わって来る、そういう場所であった。

 この項については、別項でもう少し詳しく書いてみたい。

【仙台市】
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 白石市からはそのまま国道を北上し、仙台市へ。
 東北の中核都市仙台市は全国レベルでも巨大な規模の都市であるが、さらに駅周囲は再開発の真っ最中であり、いろいろ問題を抱えた東北のなかでの、この市の活気ぶりにはいつ来ても感心する。

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July 19, 2014

東北旅行 会津若松市東山温泉

 会津若松市の奥座敷である東山温泉は、奈良時代の名僧行基まで由来がたどれる由緒ある温泉である。
 会津若松市は観光名所なので、いろいろと訪れるべきところが多いのであるが、そういうところはあらかた訪れたことがあり、また天候が小雨であったことから、あちこち歩く気も起きず、本日の宿の東山温泉でおとなしく過ごすこととした。

【今昔亭】
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 宿は今昔亭という、この地の粋人の別荘を改築した旅館。
 なかは近代的であり、あんまり昔の面影は残っていないみたい。

【部屋風呂】
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 部屋風呂は、半露天で檜造りの立派なもの。お湯も源泉掛け流しである。

【大浴場】
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 部屋風呂もよかったけど、宿の大浴場は前を流れる川が眺めらて、景色がよろしい。
 正面の崖からときおりカモシカが下りてきて、風呂から姿を見ることもあるそうだ。たしかにいかにもカモシカが好みそうな崖だ。

 降っていた雨が上がったので、東山温泉を散策してみた。
 東山温泉は、湯川という小さな川に沿って旅館の立ち並ぶ、山間の落ち着いた雰囲気の温泉地である。

【東山温泉 湯川】
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 このように湯川に沿って歩いてみる。
 ときおりレトロな感じの売店もある。

【東山温泉 からり妓】
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 山間の鄙びた地にある温泉地であるが、この温泉には芸妓さんが現役で活躍しているそうだ。この通りも芸妓さんが歩くので、「からり妓の小径」という風情ある名前がついている。

【東山温泉 土方歳三】
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 会津若松は戊辰戦争の舞台となったところである。そのときにこの地を新撰組の土方歳三が湯治に訪れたそうで、ホテルには歳三副長が描かれている。

【東山温泉 向瀧旅館】
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 歴史ある東山温泉の象徴のような旅館が、向瀧旅館。
 この木造の建物は国の文化財に指定されており、東山温泉のかつての栄えを物語っている。

【東山温泉 バス駅】
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 東山温泉の入り口までコミュニティバスが走ってきてるけど、街の雰囲気にあわせたレトロ調のバスである。

【東山温泉 雨降り滝】
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 湯川には小さな滝がいくつもあり、それぞれ個性のある名前が付けられている。
 そのなかで、この雨降り滝が、雨が降ったあとのこともあり、その名前にふさわしい迫力のある姿を見せていた。

【東山温泉 川床】
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 本日の宿では、夕食は川床でも取れるようになっていた。
 川床って見た目は雰囲気よろしいが、あんがい涼しくなく、虫が寄ってくることもあったりして、あまり好きでないので、無難に部屋食にしておいた。

【夕食】
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 夕食は郷土食コースみたいなものを選んだが、あんまり「会津若松」という感じではなく、「温泉旅館の豪華コース」という感じであった。
 地元で獲れた天然鮎は、丸々太った落ち鮎であり少々意外。べつにこの時期に出さずともとは思うのだが、地方によっては落ち鮎が初夏の鮎より珍重されるところがあり、ここもその手なのかなと思った。まあ、落ち鮎ふつうに美味しかったけど。
 牛しゃぶしゃぶは、福島牛。じつは福島は牧畜の盛んなところであり、この福島牛は立派なブランド牛なのであり、美味でありました。


 たらふく食べ、たらふく飲んだあとは、ごろんと横になり、前を流れる川で美しい声で鳴くカジカガエルの声に耳を傾けながら、山間の温泉街の風情を楽しむのであった。

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 東山温泉観光案内図→ここ

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東北旅行 いわき市→白河市→会津若松市

【マリンタワー】
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 いわき市を一望できるマリンタワー。
 面白い形をしているけど、登ってみれば、風景をよく見るための工夫をこらした形であることが分かる。

【小名浜港】
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 3年前の震災で大被害を受けた小名浜港であるが、東北の海運の基幹港であることもあり、復旧は力を込めて行われていたようで、今では新たなスタイルの港に生まれ変わっている。

【小名浜港 道の駅から】
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 マリンタワーから見下ろしたのち、小名浜港に行けば、この周囲に大きな復興の工事が進捗中なのもよく分かる。
 中央奥が、マリンタワー。

【小名浜港 道の駅売店】
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 小名浜港は物流の拠点であると同時に、海産物もよく揚がるところである。道の駅では新鮮な海の幸が売られている。
 そのなかに季節外れのズワイガニも売っている。浜茹でということで冷凍ではないようだが、どういうものか興味を持ち、試しに土産に買ってみた。

【火力発電所】
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 小名浜は津波によって海岸線が壊滅的な打撃を受けたところである。
 そのなかで基礎工事のしっかりしている家と、元から頑丈である火力発電所が、他が全て流されたなかで、その 建物が生き残った。
 3年前ここを訪れたとき、その一種異様な風景に衝撃を受けたが、今もなおその風景が残っていた。そして家々はいまだ住む人のない、廃屋のままであった。

【海岸線】
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 海岸線の防波堤も津波で破壊されたままの姿であった。
 ただし、向いに見える、丘を越える道は、以前は通行止めになっていたが、いまは開通していた。

【土嚢】
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 崩れた防波堤の代わりに、積み上げられたナンバー付きの土嚢。
 ここの海岸線の整備はまだまだのようである。

 以前は海水浴場もあったこの海岸、ほとんど人の姿のないところであったが、そのなかでただ一人、男の人が海岸に座って、ラジコンを飛ばしていた。
 写真に小さくどちらも写っている。


【白河市小峰城】
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 3年前、白河市を訪れたとき、街のシンボル小峰城は石垣が崩れていて、立ち入り禁止であった。
 小峰城は江戸時代から続く由緒ある城である。地震の多い東北地方、いくらでも地震には耐えてきたであろうに、2011年の大震災には耐えきれなかったことに、その地震がいかに規模の大きいものであることかを知った。

 さすがに3年たった今はもう再建できているかと思ったら、まだ工事中であった。
 東北再建、まだまだ進行の途上である。

【会津若松】
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 白河市からは、本日の宿泊地である会津若松の東山温泉へ向かう。
 カーナビを最短距離にセットしてたら、車がほとんど通らぬ、妙に難しい山道に誘導された。でも景色が良かったので、これもよい経験になった。

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July 18, 2014

東北旅行 いわき市 スパリゾートハワイアンズ

 3年前自転車で旅行中に福島に寄ったとき、東北の最大級の規模を誇るいわき市のリゾートホテルのハワイアンズが、建物が半壊しながらも、震災の避難の拠点施設として奮闘しているというニュースを聞いた。
 そしてそのニュースでは、ハワイアンズが避難民援助を行いながら復興工事を続け、なんとか名物のフラダンスショーを再開できるまでに復興し、仮営業にこぎついたとも報じていたので、私は泊まってみて、フラダンスショーも見た。

 フラダンスショーは見事なものであり、たいへん感心したのであるが、ホテルそのものはまだまだ工事中であり、客も少なかったので、なんともわびしい印象も受けてしまった。
 それで、ハワイアンズの本来の姿を見たいという希望を持っていたのだが、やがて全ての施設が再建なったというニュースを聞き、それからようやく訪れることができた。

【大食堂】
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 ハワイアンズは大規模のホテルなので、食堂の一つであるバイキングスタイルのホールは、(たぶん)500人くらいが入るくらいの広大なところであった。
 ここ、3年前にも夕食を取った記憶があるのだが、あのときとは閑古鳥が鳴いていたとまでは言わないが、閑散とした人の入りであったけど、今回は2回転制で、かつ段違いの人の数であり、人で満杯の賑わいよう。またバイキングの料理も、豊富になっていた。

【フラダンスショー】
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 いわき市ハワイアンズといえば、なんといってもこのフラダンスショー。
 映画「フラガール」で一躍有名になったのであるが、その前に、東北の温泉地で南国ハワイのフラダンスをショーにするという突拍子もない発想が、じつは今の勝利に直結していたはず。

 このフラダンスショー、じつに立派な芸となっている。
 踊りのプロがシーズン通して安定した芸を見せるというのは、中核都市でもそうはない見世物なのであり、映画「フラガール」で語られていたとおりの、地道な努力の積み重ねがここに花開いていることがよく分かる。


 ハワイアンズには、フラダンスショーと温泉以外にも、水をテーマにしたテーマパークがいろいろとあり、楽しもうとすればきりがなく楽しめるところである。
 駐車場の車のナンバーを見ると、関東圏からたくさん客が来ているようであったが、それだけ魅力のある施設なので、今後も東北の一大リゾートとして、発展していくことは確実であろう。
 なんといっても、あの大震災を切り抜けてきたわけだから。

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東北旅行 仙台空港→いわき市

 連休を利用して、東北旅行へと出かけた。
 テーマはいろいろとあるのであるが、その一つは3年前に福島を訪れたときに、震災後の傷跡が生々しく残っていたところの復興ぶりを見ることにある。
 というのは、3年前に福島いわき市の有名なリゾート地「ハワイアンズ」を訪れた時、建物の多くは震災で壊れており、再建中であったのだが、それでも残された施設を利用して、そして名物のフラダンスショーを再開していた。 その不屈の精神ぶりに、私は感銘を受けたのである。
 その後「ハワイアンズ」から、仮設状態のホテルへの訪れへの感謝の手紙をいただき、やがて再建成ってグランドオープンの報も知ったことから、再訪しようと思った次第。

 九州からは、仙台空港で東北へと飛ぶ。
 福島いわき市へはレンタカーで行こう。
 いわき市に行く前に、仙台空港傍の閖上浜へと寄ってみる。

【閖上 湊神社】
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 仙台周囲の震災の象徴の地である、閖上浜、そしてそこを見下ろす湊神社。
 津波に襲われ、この地は広大な更地となっている。
 神社前の社務所に寄って、交通安全記念のお守りをGET。それからその周囲を散策する。
 重機が入って、基礎工事をしており、この地もこれからの利用方針が立っているようであった。

【国道6号線 南相馬市】
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 仙台からいわき市までは国道6号線を南下するのが一番便利なのだが、国道6号線は原発事故のせいで、途中で通行止めになっていることが、道路の案内表示に載っていた。
 だから。いわき市に行くためには、国道6号線通行止めの手前で途中の枝道に入り、いったん西方向に行き、あとは内陸部の道路を使ってから南下する方針とした。
 案内表示では、国道114号線までは6号線は通っているので、国道114号線の交差部をめざす。

 しかし、このルート途中までは活気のある街が並んでいたのであるが、南相馬市に入ってからは、津波の傷跡が色濃く残っていた。
 震災から3年以上が経つのだから、これらの放棄された廃屋は片付けられていてもよさそうに思うのだが、…結局原発事故の影響で、片付けるのも困難なのであろうか?

【浪江町】
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 浪江町に入り、ここから国道114号線を使って内陸部に入ろうとしたのだが、…あれ、通行止めになっている。
 今までの道は車の通行量はそれなりにあり、当然114号線も使えるものと思っていたのだが、使用不能になっていた。
 そして、このあたりは海岸から少し離れているので、建物はまともなままであった。しかし、人が住むのを禁止されているので、生活の気配はまったくない、まさにゴーストタウンとなっている。
 崩れた家々が並ぶ地が廃墟になっているのは分かるが、このように普通の家が立ち並ぶ街が、廃墟そのものとなっているのは、一種異様な風景であった。
 この風景は胸をうつものがあり、いろいろなことを考えさせられた。

【道の駅そうま】
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 これ以上はどうしようもなかったので、いったん相馬市に引き返し、道の駅そうまに寄る。ここは震災の影響をたいへん受けたところであり、それらを記録する展示室があり、それらを見るとあの震災の前代未聞の恐ろしさがよく理解できた。
 そしてここで国道6号線から国道115号線を使って内陸部に入り、それからいわき市へと向かった。

【ハワイアンズ】
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 いわき市のホテルハワイアンズへ到着。
 このホテルは正面玄関へ、激しい傾斜の激坂がある。
 以前自転車でここを訪れたときは、この坂を越えるのにずいぶん苦労した記憶があるが、今回は車なので、楽勝だ。

【ハワイアンズ】
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 以前訪れたときは、客は総数50名くらいしか泊まっていなかったけど、今回はこの広いホテル満室である。駐車場の車のナンバーを見ても、関東圏からたくさん客が訪れてきているようであり、ホテルハワイアンズは力強く復興しているようであった。

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July 06, 2014

映画:オール ユー ニード イズ キル

All


 宇宙からの侵略者、というか侵略用機械「ギタイ」の攻撃によって人類は滅亡の危機に瀕していた。ここで反攻のために人類は持てる戦力全てを使った総攻撃をかける大作戦を行う。
 士気を高めるために前線に広報活動を行うように要請された広報担当の将校ケイジ少佐は、己の臆病さから命令を断ったため、二等兵に降格され、強制的に前線に送られる羽目になった。
 戦闘能力ゼロのケイジは、最初の攻撃で命を落とす。しかし死んだはずが気がつくと、一昨日に時間が戻っていた。また同じ攻撃に出るが、やはり命を落とし、そうなるとまた時間が戻っている。目が覚め、闘い、そして死に、また目が覚めるの無限ループ。

 何をやろうが出口のない、一種の不条理劇。
 ひとつ間違うとギャグになってしまいそうな筋なのだが、…じっさい前半の一部はギャグ映画みたいになっている。
 なにはともあれ、目の前一つずつの危機を解決していくために、明日への切符をもぎ取ろうとケイジは努力を続け、やがて臆病者であった兵士は、数え切れぬループを繰り返すうち、百戦錬磨の鍛え抜かれた兵士に変貌を遂げていく。
 このあたりのケイジ役のトム・クルーズの演技はまさに名優だけあって、じつに見事だ。


 ところでこの映画、原作は日本のSF小説「All you need is kill」である。この小説、ラノベ風文章のわりに、内容は本格的なハードSFであり、独自の設定がしっかりしている。
 原作から先に読んだ私としては、この映画には、なによりもヒロインである女兵士リタの活躍の映像を期待していた。原作では、リタは人類最強、というより人類のなかで唯一別格の存在であり、無敵であったはずのギタイ群を彼女はただ一人殺戮し続けていたわけで、その闘いぶりはまさに闘神というべきものだったから。
 映画でも最初のナレーションでリタの活躍をテレビが報じ、人類のヒーローと褒めたたえている。ビルにも人類希望の象徴として彼女の姿が貼られ、そしてリタが大太刀片手に戦場に現れるシーンは格好いいの一言であり、これからリタがギタイを何百も破壊する姿が見られる、と期待するわけだが、…リタはギタイをいくつか倒したのみで、その後簡単に返り討ちにあって殺されてしまい、あれれ?となる。

 まあ、予告編でリタがケイジとともにあっさりと爆発で死ぬシーンがあることから、妙には思っていたのだが、この映画はリタの強さは相当に改変されていた。
 映画は原作とは筋が変更されていて、その筋の流れとして、リタが強すぎては話は進まないのでしかたがないとはいえ、原作を読んでから映画を観た人は、だいたいここを残念と思ってしまうのでは。

 それでもリタの役割の変更は、映画ではもちろん意味のあるもので、前半でケイジを苛め抜くシーンの笑わせどころはともかくとして、互いをパートナーと認め合ってからの行動ぶり、それに心を通わせる情緒深い場面、どれも趣きあるものだ。
 原作とはちがう魅力が十分にこの映画にはあった。

 映画はループを続けるうち、解決法がどうやら別にあることが分かったことから、リタとケイジの作戦がいきなり変更となり、物語は人類存亡を賭けての終末戦へ向かっていく。
 そして全てが終わってからの、ハリウッド風の強引なエンディングは、賛否両論はあるのだろうけど、それなりに整合性はとれていたとは思う。


 設定の面白さ、トムの名人演技、よく出来た脚本、そして何よりも圧倒的な映像の迫力。とくに前半のビーチ上陸作戦は、まるでノルマンディ上陸作戦を実況中継したような迫力満点のものであり、観ておおいに満足できた映画であった。

 そしてこの手の映画はやはりIMAXに限ると思った次第。
 九州にひとつのみあるIMAXは、しかしあとしばらくすると上映はゴジラに変わってしまうので、IMAXで観たい人は急ぐべし。


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 映画:オール ユー ニード イズ キル

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July 05, 2014

ミュージカル:キャッツ

Cats

 福岡キャナルシティでの劇団四季のキャッツを見てきた。

 簡単なあらすじ。
 一年に一度、美しい満月が輝く夜、あるゴミ捨て場でたくさんの猫たちが集まり宴会を開く。その宴では、一匹の猫が選ばれて、「天上に昇って新たな生命を得る」という報酬を受ける。
 そこで個性豊かな猫たちが、歌って、踊って、様々な芸を見せて、自己紹介をする。タップダンスあり、ロックスターパフォーマンスあり、鉄道芸あり、劇中劇あり、どれも見事なものだ。どの猫が選ばれてもおかしくはないレベルの芸が続くなか、「誰よりも賢い猫」ミストフェリーズが圧倒的なダンスとマジックショーを見せ、観客も盛り上がり、この猫が選ばれるであろうという雰囲気になる。
 そこへ老娼婦猫グリザベラが現れる。彼女は皆から忌み嫌われ、他の猫の傍によることさえ拒絶されるほどの存在だったのだが、舞台にあがり、「memory」を歌いだすと、皆その美声と表現力に呆然とし、歌い終えると、皆手のひらを返して歓喜で彼女を迎え、そうしてグリザベラが「選ばれた猫」となり、天上への階段を上って行く。
 まさに「芸は身を助く」という諺の実践例である。
 このグリザベラの登場から歌唱、昇天までは、そうとうにベタな筋であり、…ここで泣いてたまるかとか思っても、ぜったいに感動して涙が出てしまう。
 まあキャッツという劇の核心は「memory」のところにあるわけだから、演出側もここに一番力を入れ、歌手も一番歌唱力のある人を使うのだろうが、やはり「memory」は泣ける。

 キャッツは美味しいところは全部グリザベラが持っていってしまっているけど、それでもたくさんの猫たちの歌唱とダンスもまた見事なものなのであり、舞台のどのシーンも見ていて楽しいものであった。各猫のダンスをそれぞれもっと集中して見たかったと思うし、キャッツが通い詰めるリピーターの多い劇というのもよく理解できた。


【memory】

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