立原道造「のちのおもひに」を読み返す
映画「風立ちぬ」を見てから、堀辰雄の「風立ちぬ」をひさしぶりに読み返し、その流れで当時のいわゆる「軽井沢文学」も読み直している。
そのなかでもとりわけ立原道造の詩は、いつ読んでもその清新さが印象的であり、その瑞々しさはいつまでも残っていくものだと実感した。
ただし、年月を経てから読みなおせば、詩は同じでも、読んでいる当人は変化しているわけで、今回読んでみて、以前気付かなかったものも見えて来た。
立原道造の詩は、抒情豊かで、端正なものであるが、また繊細すぎるところもある。私は、その詩のいくつかに弱々しさを感じ、この夭折した天才詩人について、「こういう弱々しい詩を作るから、早死にするんだよなあ」などと失礼な感想を抱いたことがあった。今読みなおせば、全然そういうことはなく、どころか彼の病弱な身体には、一本の強靭な精神が貫かれていたことも知った。
昔の私の粗忽な面への反省はともかくとして、立原道造の詩の魅力について書いてみたい。
今回は一遍の詩を紹介するが、それはて、立原道造の詩のなかでも傑作として知られる、「のちのおもひに」である。
……………………………………
のちのおもひに 立原道造 「萱草に寄す」より
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
──そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
……………………………………
美しも、哀しい調べで書かれている詩である。
端正なソナタ形式で書かれてこの詩、三節までは分かりやすい語句で書かれている。またこの詩は作者の実 体験に基づくものであり、作中の「島々」「岬」「日光月光」は、具体的にどこのものかも同定されている。
この分かりやすい詩は、しかし、第三節で語句の重ね合わせで、詩の勢いが高揚したのち、第四節で突如突き放すように転調される。
「夢は、真冬の追憶のうちに凍るであらう」
第四節は美しい詩であるが、難解ではあり、多くの解釈は可能である。
私は以前はこの象徴詩的技術を使った部分は、今までの懐かしい思い出を、心に永遠に残すべき結晶化のように解釈していた。
今思えば、ずいぶんと甘い解釈であったと思う。
今この詩を読むと、死に近き病床の人の辞世の詩にしか思えない。
(だいたい「のちのおもひに」という題名からして、ネタバレみたいなものであった。)
作中使われている「夢」という言葉は、「魂」と置き換えてもよいであろう。動くこともままならず病床で死を迎える作者は、自らの魂を、かつて自分が愛したところへ彷徨させ、自分との別れを物語らせる。その哀悼の彷徨を終え、魂が行き場を失ったとき、魂は凍りつくのである。すなわち、死、である。
生と死を隔てる扉から、魂は生の場より退場する。その先の世界は、寂寥に満ちた星くづに照らされた道であった。
ここで語られているのは、作者自身の死である。
作者は率直に自身の死を見つめ、自らの死の床を想像し、自らの死そして死の世界を考え、それらを表現する言葉を磨きぬき、完璧な詩に昇華させている。その徹底した冷徹な作業を行う、若き作者の精神の強さに、私は慄然とする。
名作というもの、年を経れば、見えてくるものはまた違ってきて、新たな魅力を知ることができる。
しばらくは、読書は古典を中心にしてみようと、近頃思った次第。
立原道造 萱草に寄す
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