« 映画: 風立ちぬ | Main | 立原道造「のちのおもひに」を読み返す »

August 02, 2013

「風立ちぬ、いざ生きめやも」は誤訳とはいうけれど。

Kaze_2

 

 堀辰雄の小説「風立ちぬ」の冒頭近くで語られる有名な台詞「風立ちぬ、いざ生きめやも」。これは美しい響きの言葉であり、印象深い句なのだが、誤訳であることでもよく知られている。

 「風立ちぬ」の巻頭には、ヴァレリーの詩の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」が引かれていることから、「風立ちぬ、いざ生きめやも」はそれの翻訳であることは明らかではある。
 原詩のほうは、一般的によく使われるフランス語の言いまわしで、特に難しいものではない。英語に訳すと、「The wind is rising, you should try to live」くらい。後ろの句の主語は本来はweなんだろうけど、原文の「il faut~」は、主語の存在に厳格なフランス語文法のなかで例外的に主語を曖昧にする語法であり、わざと主語をぼかしており、つまりは自身を客観的にみて、それに言い聞かすような言葉なので、英訳する場合の主語はyouのほうがいいとは思う。
 それで和訳すると、「風が起きた、(お前は)生きることを試みねばならない」の意味となる。原詩のこの部分は、前からの流れとして、体に吹き付ける強い風が心を高揚させ、「生きてやるぞ!」との決意を促す詩句である。

 ところで堀辰雄はここを、「いざ、生きめやも」と訳している。「めやも」は「む」(推量の助動詞)と「やも」(助詞『や』と詠嘆の『も』で反語を表す)の合わさったものである。文法的解析をすると小難しいが、「めやも」は普通はセットで使うので、これが動詞のあとにつくと、その動詞の推量と反語を導くというのは古文の初歩的知識である。なにより中高生の古文でよく習う大海人皇子の名歌「人妻ゆゑに我恋ひめやも」が特に有名で、この「めやも」が反語表現ということを理解してないと、この高名な和歌はさっぱり内容が分からないから、必ず習う。私も中学校で学んだ。そして、「生きめやも」は動詞「生く」に「めやも」がついたので、現代語に訳すと、「生きるのかなあ。いや、生きないよなあ」となる。より直截的に訳せば、後半は「死んでもいいよなあ」であり、つまりは生きることへの諦めの表現である。
 だから「生きめやも」を逆にフランス語に訳せば、Vous ne devez pas tenter de vivre・・・ではあんまりだから、やんわりとVous n'avez pas à tenter de vivreくらいになるだろうけど、いずれにせよ、己の生への強い意志を詠じた原詩とはまったく反対の意味になってなってしまう。

 それゆえ、堀辰雄の「いざ生きめやも」は誤訳の典型として知られてきており、例えば大野晋、丸谷才一の両碩学による対談で「風立ちぬ」が取りあげられたとき、両者により、堀辰雄は東大国文科卒のわりには古文の教養がないと、けちょんけちょんにけなされている。

 ただ、誤訳といえば、誤訳ではあろうけど、私は小説「風立ちぬ」では、「生きめやも」でもいいと思う。それは「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」をそのまま原文に忠実に「風立ちぬ、いざ生かむ」とか「風立ちぬ、いざ生くべし」などと勇ましく訳し、それを作品の基調ととらえたら、あの繊細で静謐な作品世界と矛盾するからだ。

 結核に冒された人達の生活を描いたサナトリウム文学を代表として、結核患者が著書の作品には独特の世界が広がっている。
 結核は抗生物質のある現代では治療の方法のある感染症の一つであるが、20世紀前半までは、効果的な治療法のない死病であった。現代の感覚でいえば、末期癌のようなものであり、これに罹ったものは、自身の命を常に見つめて生きていくことになる。

 それゆえ、結核患者の作品は、短く限られた命を真摯に見つめ、その貴重な時を文章に凝集させていくため、清明でありながら密度が濃い、独自の文学を創造している。
 彼らの残した作品は、堀辰雄をはじめ、梶井基次郎、立原道造、富永太郎、…と日本近代文学の珠玉の宝物となっている。

 そういった人たち、毎日死と向き合っていた人たちの作品として、「風立ちぬ」を読んでみれば、季節の移り変わりに吹いた風に、「(なんとしても)生きよう」という強い意思が湧き上がるとは思えない。吹く風が伝える季節の移ろいを感じることで、このまま静かに命が消えてもという感慨が起きて何ら不思議ではなく、かえって自然な感情とも思える。
 元々「風立ちぬ」は軽井沢の療養所で、死を迎えいく若い男女の、残された日々の静謐な生活を描いたものであり、「il faut tenter de vivre」という能動的な精神はどこにもなかった、と思う。

 ヴァレリーの原詩では、いくつもの魂の眠る墓地に地中海から風が吹き付け、そこで著者は「生きねばならない」という強い意思が湧くわけであるが、軽井沢の森に吹いた秋の訪れを知らせる風は、地中海を吹き荒れる強風のようなある意味精神を鞭打つ剛毅なものとはほど遠く、もっと人の心に寄り添うような、人に赦しを与えるようなやさしいものであったには違いない。それゆえ堀辰雄は、吹く風にヴァレリーの詩を想起したとき、敢えてあのように訳したのでは。

 「風立ちぬ」という不朽の名作につきものの誤訳問題。
 いろいろと意見はあるようだが、私は堀辰雄を擁護したい。

 風立ちぬ 堀辰雄著

 

|

« 映画: 風立ちぬ | Main | 立原道造「のちのおもひに」を読み返す »

読書」カテゴリの記事

Comments

堀辰雄を調べていて、こちらにたどりつきました。この項もそうですが、話題が多岐にわたって、とても楽しいblogですね。また訪問をさせていただきます。

Posted by: 小出信也 | August 05, 2016 07:27 AM

「いざ生きめやも」の解釈参考になりました。有限の生命を自覚したとき正確よりもやさしさが一番です。

Posted by: 高野茂 | February 21, 2017 08:24 AM

主人公たちの生への静謐さはご指摘の通りですが、やはり誤訳であろうと思います。
但しここで誤訳と言うのは、原詩の意味を取り違えたというのではなく、正しく理解はしているのですが、それとは正反対の古典語表現をしてしまったということです。
つまり、「さあ、生きよう」と言う意味で、それとは正反対の「いざ生きめやも」と表現してしまったということなのですが、それは「春」の章で、ヒロインの「私、なんだか急に生きたくなったのね……」と言う言葉に対して、「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句を思い出していることからも明らかではないでしょうか。
これを「死んでもいいよなあ」とは、前後関係からも理解できないでしょうし、作者が「死んでもいいよなあ」と考えていたとすれば、作者はフランス語には堪能であったはずですから、原詩を引用することはなかったと思いますが、如何でしょうか。

Posted by: 池本 清 | June 16, 2021 05:02 PM

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 「風立ちぬ、いざ生きめやも」は誤訳とはいうけれど。:

« 映画: 風立ちぬ | Main | 立原道造「のちのおもひに」を読み返す »