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December 18, 2012

偉大なる凡人 -米長邦雄氏訃報を聞いて

Yonenaga


 闘病が伝えられていた米長邦雄氏の死去の報を聞き、氏の全盛期時代の将棋をおおいに楽しませてもらった者として、寂しさを覚えざるを得なかった。

 米長氏は、将棋はもちろん強かったが、エンターテイナーとしての活躍も広範囲であり、日本将棋界のスポークマンとしてこれほど活躍した人もおらず、日本将棋界の最大級の功労者であろう。

 じっさいに、米長氏の広報活動により将棋界の地位全体は上がっていった。
 そして、米長氏はその位置向上をずっとリアルタイムで生きていた人であった。

 昭和30年代初期、山梨に将棋のすごく強い小学生がいるという話を聞き、佐瀬勇次棋士が米長家を訪れ、米長少年が将棋界へ進むことを勧めたところ、両親は難色をしめした。
 それは当時の人たちの将棋界への認識からすると、当たり前のことであった。

 将棋界は、元々は囲碁・相撲とならび、江戸時代からプロ組織を持っていた由緒ある職能集団であった。けれども江戸幕府の崩壊により、幕府の庇護を失い、自活する必要が生じた。文化人、政治家らの愛好者が多く、スポンサー獲得が容易であった囲碁界と違い、将棋界は庶民層に近い存在であり、それらの世界においてはどうしても賭け将棋が不可欠なものとなって、将棋はゴロツキがやるというイメージが強かった。将棋で生活する人って、ギャンブラー同様に思われていたのだ。

 両親をなんとか説得し、米長氏が棋界入りして順調に段位を上げていき、若手有望棋士と目されたころも、その「将棋指し=ゴロツキ」という偏見は続いていた。

 若き米長氏は将棋で生活できる目途がついたため、付き合っていた女性と結婚しようと思い、彼女の両親に挨拶に行った。しかし、「将棋指しに大事な娘を嫁にやれるか」と、けんもほろろに追い返されてしまい、その後敷居もまたがせてもらえない。困った米長青年は、棋界の巨頭升田幸三に相談に行った。親分肌の升田幸三は、「よし、おれにまかせておけ」と、米長青年を連れ彼女の家を訪れた。
 升田幸三といえば当時の超有名人であり、将棋を知らぬ人でも誰でも知っている。門前払いするわけにはいかない。そして挨拶に現れた父親に向かい、大声で「米長は将棋界の宝。将来の名人である。こんな家の娘にやるにはもったいないわ!」と一喝した。その迫力に押され、うやむやのうちに縁談はまとまり、米長青年は無事結婚できた。米長氏は、升田幸三を生涯の恩人と感謝していた。

 なお、升田幸三の宣言した「米長は将来の名人」との言葉は、なかなか実現されなかった。なにしろ米長氏の同世代には、中原誠という天才棋士がいた。米長氏は全棋士参加の順位戦リーグを勝抜き、その一位となって名人への挑戦権を得るまでは出来るのだが、天才中原名人は途方もなく強いので、米長氏が何度も何度も挑戦しても、その都度退けられる。その失敗は7回にも及んだ。
 さすがに7回連続で敗れては、誰もが米長氏は名人にはなれないと思っていたのだが、最後の8回目の挑戦時、中原名人は変調をきたし、その結果米長氏は齢49歳にして初の名人位を獲得した。
 米長新名人は歓喜の時を迎えたのだが、…このとき、既に升田幸三は2年前に亡くなっており、米長氏は内心忸怩たるものを感じていたのではなかろうか。

 
(中原名人がなぜ変調をきたしたか、-つまりなぜ将棋に集中できない精神状態になっていたかは、今となっては誰しも理由を知っているのだが、それの遠因は米長氏も関与しているのが、この世界の面白くも情けないところだ。)


 米長氏はマスコミに登場すること多く、将棋界を広く世間に知らせる役割をずっと果たしていた。そのため人気も高く、どの棋戦に出ても集客力抜群であったし、注目を集めていた。またその将棋も独特の感性があるもので、局面を複雑化していき、自分の土俵に相手を無理やりねじ込んでいく、いわゆる「泥沼流将棋」であり、将棋そのものも人物同様に面白かった。
 ただし棋力そのものは、超一流には達せなかった。
 米長氏が生きた将棋界には、前世代に大山康晴、同時代に中原誠、次世代に谷川浩司、次々世代に羽生善治という、天才たちが存在しており、彼らの才気溢れる将棋に対し、それをはね返せる力は遂に得られず、万年二位という位置に甘んじざるを得なかった。まあ、そのことが余計に判官贔屓ともなって、米長氏の人気を高めたわけでもあるが。

 将棋というゲームは才能が全てなので、天才でなければ棋界の覇者にはなれない。
 簡単に言ってしまえば、将棋界は「天才数人とその他大勢」の世界であり、ごく僅かの天才たちで、時代ごとに覇者が変わって行く世界である。
 だから、米長氏は20年以上の苦労をかけて得た名人の座を、翌年、次々世代の天才羽生善治にあっさりと奪われてしまい、その後名人の座は羽生世代で回されることになった。

 米長氏は天才たちに挑み続けていたため、かえって凡人であることの悲哀を最も噛みしめざるを得ない存在であったろうが、それでも、氏が将棋界に成し遂げた貢献、―世間に将棋を知らしめ、将棋界を明るい世界に持って行ったことは、いわゆる将棋バカである天才たちには難しい事業であったろう。
 凡人であるがゆえ出来たことであり、天才には出来なかったことを成し遂げた、米長氏は凡人のやるべきことをきちんと知っていて実行した、まさに偉大なる凡人であった。

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