先日、光洋でお会いした大分市の寿司店の店主は、寿司店・和食店で修業した以外に、日本北アルプスの穂高山荘で6年間働いていたという、鮨店主としては異色の経験の持ち主である。
山小屋暮らしが長いことから、店主は当然奥穂高岳近方の山の多くを知っており、特に気に入っていた山として、前穂高岳と、ジャンダルムを挙げ、大分の店を訪れたときに、その写真を私に見せてくれた。
その写真を見ると、私にも奥穂や前穂、そしてとりわけジャンダルムの記憶があざやかに浮かび上がってきた。
【ジャンダルム】

奥穂岳の手前にある山「ジャンダルム」は、フランス語の「gens d'armes」であり、それは「護衛兵」くらいの意味であって、奥穂岳を主人として、それを守るくらいの位置にある山ゆえ、そう名付けられたようだ。
奥穂から見るジャンダルムは、肩肘張った屈強な巨人のごとき姿であり、その怪異なる形態から、まさに唯一無二と言ってよい個性のある山に思える。
ジャンダルムは標高3163mの高峰であり、形も個性的なことから有名な山であるが、この山、一般路にある山としては、たぶん日本で一番登るのが難しい山である。
ジャンダルムは西穂岳と奥穂岳の稜線上にあるので、それに登るには、西穂岳からか、奥穂岳からということになるが、どちらも途中に難所が控えていて、ジャンダルムは基部に取り付くまでが大変なのだ。
【奥穂岳から見る、霧のなかのジャンダルム@1998】

1998年夏、私は初めて北アルプスを訪れた。
1998年の8月の第一週は、梅雨前線がずっと居座っていたため悪天候であり、そして地震も穂高を直撃したという、ろくでなもいシーズンであった。
私の予定としては奥穂→北穂→大キレット→槍岳というルートを行くはずだったが、涸沢経由で奥穂に登り、穂高山荘に泊まったのだけど、大雨により奥穂→北穂の登山道が崩壊してしまったため、このルートでは槍ヶ岳には行けなくなってしまった。しょうがないので、いったん下山して槍沢まで登りなおさねばならないのだが、せっかくなので、翌朝また奥穂岳に登り、西穂方面への偵察へ出かけてみた。
奥穂からはしばらくは平坦な道が続くのだが、やがていきなり稜線がスパッと切れ落ち、行く手を阻んでしまった。
そしてそこから見る、ジャンダルム。
天気が悪く、あたりは霧に満ちていたのだが、それでも霧に浮かぶジャンダルムは、異様なまでに迫力満点な山であり、登攀意欲をそそらせる山であった。
【馬の背】

しかし、ジャンダルムに行くには、切り立った稜線―「馬の背」を下っていかねばならない。
…行かねばならないと書いたものの、どう考えても、この厳しいナイフリッジ(ロープも鎖もなにもない)が一般登山道と思えず、他に迂回路があるはずと思ったが、そんなものは見つからなかった。
さてどうしたものかと思っていたら、霧のなからから登山者が一人現れ、「天気悪いですねえ~」などと挨拶したのち、この急峻な馬の背をするする下っていったので、ここがルートであることが分かった。
ルートが判明した以上、しょうがないので、私も無理やり下って行き、鞍部で写真を撮っている先行者と少々会話を交わしたのち、さらに進んでいった。
この先には「ロバの耳」という、かなりハードな岩壁トラバースルートがあり、ここを懸命に超えて、ようやくジャンダルム基部に到着。ジャンダルムは直登しても登れそうだが、どうも危なそうなので、より安全なルートを探していると、写真を撮っていた人が追いついてきた。
その人は岩手から来た人で、奥穂→西穂の縦走をずっと狙っていたが、2年間ずっと雨でtryできなかった。今回は霧まみれで視界は悪いけど、雨は小雨で済みそうなので、なんとか西穂まで行きます、とのことであった。
これからも厳しい難所が続くので、ジャンダルムはパスします。そう言って、その人はますます濃くなる霧のなかに消えていった。たぶんその日奥穂~西穂を縦走したのは、その人一人だけであったはず。
私は斜めに走っているジャンダルムの登頂ルートをやっと見つけ、そしてジャンダルムに登頂。霧の中、周囲はなにも見えないジャンダルムであった。
ジャンダルムを降りてから、岩手の人を追いかけ西穂まで行こうかと、ちらりとは考えたが、こんな五里霧中な状況で日本屈指の難路を行く気は起きず、おとなしく奥穂に戻って、その日は槍沢まで行き、その後は槍ヶ岳→大キレット(雨のなか)→北穂(北穂山荘に泊まったら、地震が直撃し、夜中にずっと小屋が揺れていた。下山路も一部が崩壊した。)→パノラマルートと辿り、その年の北アルプス行は終了した。
………………… 二年後 …………………
【間ノ岳から望む天狗岳、コブ尾根の頭】

翌々年の2000年夏、私は西穂岳から槍ヶ岳経由で燕岳まで縦走をした。
そのなかの西穂奥穂縦走路は、日本で最もハードな一般路とされていて、山登りする者にとっては一度は行きたい人気ルートである。
そして前回と違って今回は好天であり、稜線から穂高の山並みがはっきりと見え、爽快な登山を楽しめた。
ただし、登山道自体はたしかに悪路であり、とくに間ノ岳は瓦礫を積み上げたような山であって、細い本ルートから外れると、足で踏んだだけで山が崩れていくという過激さであり、ルートファインディングの技術が相当に要されるルートであって、けっこう恐い思いをした。
【西穂ルートから見るジャンダルム】

間ノ岳、天狗と越えていき、コブ尾根の頭を登りつめれば、ようやくジャンダルムを見ることができる。
西穂高からの難路を5時間かけて歩いてきて、このルートの屈指の絶景ジャンダルムに感激の御対面というところであるが…
こっちの方向から見るジャンダルムは、なんか花札の坊主山みたいな形で、なんとも迫力のない姿である。
ジャンダルムを見るのは、奥穂岳からに限るなあ、と思った次第。
【奥穂側から見るジャンダルムのはずが】

ジャンダルムに登ったあと、ロバの耳、馬の背と通り、やっと安全地帯に到着。
ここで、ふりかえれば素晴らしきジャンダルムがいる、のはずであったが、午後から雲が出てきて、ジャンダルムを覆ってしまっていた。
天下の奇峰ジャンダルム、私は両方向から登ったことがあるのに、はっきりくっきりした姿を見たことがない。
ここ10年くらい長野は訪れていないが、ジャンダルムの記憶を思い起こし、鮮明なるジャンダルムを見るために、また訪れようかな、などと思った。