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June 2012の記事

June 24, 2012

コリアンダーはお好き?

 気合いの入った中華料理は様々なスパイスを使い、香り豊かな料理に仕上がっていることが多い。なかには、素材の香りを徹底的に消してしまい、そのスパイスの個性で染めてしまうような、なかなかに微妙な料理もあったりするが、それはそれで中華料理の魅力であったりする。

 先日行った中華料理店の食事会で、メインの料理は「オコゼの清蒸 白髪葱と香草添え」であった。オコゼの質も、蒸し方も、味付けもたいへんよろしく、上物といってよい料理であった。

【オコゼ清蒸 大皿】
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【オコゼ清蒸 取分け】
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 ただ、このオコゼ清蒸、香草がコリアンダーであった。(清蒸では定番の香草ではある)
 コリアンダーは、中華料理では春菜(シャンツァイ)、タイ料理ではパクチーとも呼ばれるが、その独特で強力な香りで有名なスパイスである。

 コリアンダーは本来は日本にはない植物であるけど、似たような香りを放つモノがあるので、香り自体は馴染み深いものだ。

 まずは(1)ドクダミである。

【ドクダミ】
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 湿っぽい季節に、そのあたりの道端、あるいは庭によく生える雑草であり、近づけばきつい臭いがする。
 名前からして怪しげな草なのだが、薬草みたいなものでもあり、私も子供のころはこれを干してつくったドクダミ茶を、「身体にいいから」ということでよく飲まされた。

 ドクダミでもけっこう臭いがきついが、コリアンダーの香りを持つものその(2)のカメムシはその遥か上を行く臭さを持つ。

【カメムシ】
Kamemusi

 田圃に近いところに住む人にはとくにお馴染みの昆虫、カメムシ。
 見た目はつややかな緑のきれいな虫であるが、これを迂闊に触ると、悪臭を放つ分泌液を放たれ、どんなに洗おうが数日間は指に臭いが残ってしまう。
 それくらい、きつく、強烈な臭いである。
 これはまさに毒ガスなみの威力のあるもので、たとえば密閉した空間にカメムシを閉じ込め、そこで分泌液を噴出させると、あまりの臭いの強烈さに、カメムシ自身が悶絶死してしまうほどのものであり、…まあ、そういう間抜けな虫でもある。

 という、本邦でも馴染みがあり、それゆえ上品系統の料理には忌避されがちな香りであるが、エスニック料理ではじゃんじゃん使います。

 このオコゼ清蒸でも、春菜がどっさりと乗っているので、香りも強烈だ。
 食べてる途中で、春菜の香りが口から喉までの全体を占め、そのうちオコゼを食っているのか、春菜を食っているのかよく分からなくなってしまう。
 食ったあとの記憶でも、春菜の香りのほうが主に残ってるし。

 まあ、そういう料理であったのだが、食いしんぼうばかり揃っているメンバーなのに、料理全体に手のついていない者や、春菜を全部どけている者がいた。
 このメンバーでは、料理が残ることは相当に珍しい。
 それくらい、コリアンダーは好き嫌いが激しいスパイスであるのか。

 内訳としては、コリアンダー大好き 30%、そこそこ好き 20%、食べられないことはない 30% まったくダメ 20%、といった比率であった。

 私はコリアンダーは好きだけど、日本人相手では使い方の難しいスパイスではあるなと、今回の食事会で思った。

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June 17, 2012

梅雨の無量塔

 無量塔を1年ぶりに訪れた。
 雨、雨、雨のなかであったので、周囲を散策することもなく、部屋にこもってただただ寛いでいたのであるが、部屋のソファで座っているだけで、それだけで充実した時間を過ごせる、いつもながらの無量塔であった。

 夕食はといえば、

【先付】
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【椀物】
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【八寸】
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【鍋】
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【ローストビーフ】
5beef

 先付けは鮑に塩トマト、野菜サラダ。それにメレンゲをかけたもの。白、青、紫、赤…といった色どりが美しい。
 椀物は、アイナメに根菜の椀。田舎風のしっかりとした出汁でうまくまとめている。
 鍋は黒豚で、濃厚な味の野菜とからんで、豊かな味をつくりあげている。
 〆は定番のローストビーフ。無量塔の味、という感じである。

 半年間、日本全国のいろいろな旅館の料理を食べてきたが、無量塔はそのなかでも一級のものであると改めて思った。

【風呂場より】
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 無量塔は料理や部屋、施設のハード、接客等、どれも良いのであるが、あまり良くないというか、平凡だったのが庭であった。しかし年月を経るにつれ、岩や樹木には苔がむしだし、山水画的な幽玄の雰囲気をまといだしている。
 庭が出来るには、歳月がかかるということか。

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不思議物件:合掌大門@由布市 正雲寺

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 由布院や別府を訪れたとき、B級スポットに興味のある人なら、一度は正雲寺に寄ってみることを勧める。
 ただしそこに行くまでには、怪しげな山道(舗装道ではある)を車で通って行く必要があるので、ある程度の運転技術を持っている人に限るということになるが。

 県道601号線の山のなかのくねくね道を行くことしばらくして、人家が見えだすと、正雲寺はすぐのところにある。
 そして寺正面に、B級スポットマニアには有名な、かの「合掌大門」がある。

 宗教施設というものが異界の範疇と考えるなら、この門は、「この先はこの世のものではありません。ここを通るには覚悟を決めてください」との宣言を告げるがごとく迫力あるものである。
 とにかくこれを初めて見た人は誰でもぎょっとするであろう。
 しかも、じつはこの門は一段グレードダウンされたものであって、以前は金ピカに塗られており、さらに怪しさ満点であった。
 寺の所有者が変わったため、それでは怪しすぎるとのことで、そのような処置が為されたとのことだが、不思議物件愛好家としては、かえすがえすも惜しいことであった。

 門をくぐれば、境内には巨大な金ピカ観音像が2体建てられていたり、良寛像や、一休さん像、仁王像、七福神像等々あったりと、どうゆう宗派の寺なのかよく分からん混沌が広がっている。
 これも以前はもっと怪しげな宗教オブジェがあったのだが、それらを取り払って、また新たな施設をつくったりで…まだまだ整備中のようであり、この寺がいかなる方向に行くのかは不明である。

【金ピカ観音像(阿修羅像?)】
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【良寛像】
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 九州には、怪しさ楽しさいっぱいの寺院として、長崎西海市の「西海楽園」というものがあったが、そこが廃寺となってしまった今、九州の代表的存在として、正雲寺には是非とも頑張ってもらいたいものだが、さてどうなることやら。

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June 16, 2012

梅雨の花@九重&神楽女湖

 6月はミヤマキリシマのシーズンなわけであるが、梅雨の季節でもあるわけで、雨の確率は高い。残念ながら第3週週末はその梅雨のなかでも最強とばかりの降雨となり、それでもミヤマキリシマ目当てに九重に出かけてみた。

 雨で視界もよく利かぬなか、九重まで来たが、いっこうに雨の状態は改善せず。この雨では平治岳どころか、指山も無理だなと思い、猟師山に行ってみることにする。
 九重森林公園のスキー場の舗装路と短い山道を使っての山登りなので、登れることは登れるであろう。

【ミヤマキシリマ】
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 登山道入り口すぐにミヤマキリシマ。もう終わりかけである。
 とりあえず、今年のミヤマキシリマのノルマは果たした。

【ベニバナニシキウツギ】
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 山頂近くには可憐なベニバナニシキウツギが咲いていた。
 雨に濡れた花がいい風情である。

【猟師山】
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 猟師山はピクニック感覚で登れる山であり、普段はたしかにそうなのだが、今回ばかりは稜線に出たところで、強風と大雨の襲来を受け、傘はバラバラになり、濡れ鼠状態になってえらい目にあってしまった。

【傘】
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 こうなってしまうと傘はなんの役にも立たず。


 大事な教訓
 登山で傘を使うときは、コンビニ傘は避けて、まともな傘を使いましょう。
 …というか、面倒くさがらずに雨具着るべきであった。


 翌日は曇りであったので、神楽女湖に菖蒲を見に行った。

【神楽女湖菖蒲】
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 ミヤマキシリマと違って、こちらはまだ咲きだしたところ。
 蕾のほうが多く、3分咲きといったところか。
 それでも、様々な色の菖蒲がリズミカルに咲き誇り、湖を楽しく周回することができた。

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山の中のカレー屋:山猫軒@南阿蘇

【猫の標識】
Cat_way

 南阿蘇のカレー店「山猫軒」は、アスペクタに行く道から標識のところで枝道となっている、コンクリ製のくねくねした山道を登っていったところにある。

【山猫軒】
Shop

 登ることしばらくして、山猫軒に到着。
 ペンション風の木造りの建物。
 こういう店にありがちだが、ここも店主によるハンドメイドの建物である。店主はべつに建築学の知識があるわけでもなかったのだが、こういう家に住みたいとのこだわりで、自分好みの家をつくり上げたとのこと。
 そのこだわりは、中にはいれば、いっそうよく分かる。

【家猫】
Cat

 山猫軒、というだけあって、店内には人なつっこい看板猫がいて、こういう猫はいるだけで空間が癒されます。
 この猫、いちおう山猫ではなく、首輪のついた家猫である。

【カレー】
Cary

 メニューは野菜カレーと肉カレーがあり、半分ずつ二つ一緒に頼めるコースもある。
 黒猫軒のカレーは、南インドカレーとのことで、トマトや野菜の酸味を利かした、スープカレーである。スパイスがちがちのいわゆるインドカレーとは異なり、味も香りも穏やかな感じであり、胃に優しいカレーである。
 阿蘇のカレーって、こういう系統のものが多く、阿蘇の気候にあっているのかな。


 なぜ、こんな人もさして来ないような山奥にカレー店を? という問いはしそこねたけど、店主夫婦は阿蘇がたいへん気にいっており、とくにランニング好きの店主は、阿蘇の山と野をトレーニングで走りまくっているそうで、つまりは阿蘇への愛情の満ちた店なのである。

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June 08, 2012

映画:ダーク・シャドウ

Dark_shadows_2


 ティム・バートンは、つくる映画が傑作と駄作の二つしかないという厄介な人物である。
 なにしろ中間のものがないので、その映画が駄作のときは、徹底的に駄作なのであり、観ているあいだずっと腹が立ち、観終わったのちは、この監督の才能は見限った、もう二度と観るものか!と憤然としてしまうのだが、それでも新作が出ると、ついつい観てしまうのは、やはり定期的に傑作をつくるからなのであって、…さて、今回の新作「ダークシャドウ」はそのどちらであるか?


 結論。駄作であった。


 映画評としては、その一行で終わらせていいのであるが、それだとこのブログの目的「備忘録」にならないので、続ける。

 ダークシャドウのあらすじ。

 主人公はアメリカの地方の裕福な名士の息子であり、何不自由なき生活を送っていた。彼はプレイボーイで、いろいろな女に手を出していたが、召使いの若い娘に手を出したところ、その娘は心底主人公に惚れてしまった。それで娘は「私を恋人にして」と求愛するのだが、それを手ひどくはねつける。
 怒りのあまり娘は魔女と化し、主人公に呪いをかける。主人公は両親、恋人を失い、かつ永遠に生きるヴァンパイアに化けさせられる。血を吸わねば生きられぬ彼は、住人から怪物退治され、鉄の棺に閉じ込められ、200年間地中に埋められたままとなる。
 200年後、偶然に建設工事で棺が掘り出され、主人公はこの世に復活する。彼は200年ぶりに我が館を訪れるのであるが、一族の末裔はまだ当地で暮らしてはいたものの、すっかり零落しており、滅びる寸前となっていた。
 しかも一族は、女主人を除いては、まともな者はおらず、みな異常な秘密を抱えている。
 主人公は一族の長として、一族の復興を宣言し、活動を開始した。

 しかしその街は、主人公がいない間に、魔女の牛耳る街となっていた。
 魔女は主人公一族への憎しみを忘れることなく、200年間この地にとどまっていたのである。

 一族の復興に尽くす主人公と、200年間憎しみを心に燃やしてきた魔女との、200年の時を経ての因縁の対決が始まった。

 …というふうな話で、あらすじだけ書けば、面白そうな映画だな。

 俳優もなかなかよろしい。

【魔女:エヴァ・グリーン】
Witch

 愛と憎しみは表裏一体というけれど、決して報われぬ愛のために、200年間の歳月を憎しみで身と心を焦すことに費やしてしまう、哀れだが、逞しい魔女を熱演。
 存在感たっぷりで、どう考えても主人公を食っております。

【家庭教師:ベラ・ヒースコート】
Beautiful_girl

 この役者、初めて観たが、超美少女。演技云々より、眺めているだけで、映画代のモトが取れるクラスである。
 物語冒頭部からの、列車に乗るシーン、ヒッチハイクするシーン、すべてが絵になっている。
 ただし役が、「幼い時から悪霊にとり憑かれたため周囲から隔絶させられ、運命の指し示すまま館に逃れて来たが、そこでもっと散々な目にあってしまう」という悲惨なもので、…まあ美少女は薄幸と決まっているから、これはこれでいいか。(よくない)

【ヴァンパイア:ジョニー・デップ】
Fool

 怪物にされてひどい目にあうが、それも結局は「身から出た錆」としか思えず、まったく観衆の共感を得られぬ主人公を演じている。
 この人の演技はいつも同じようなものにしか思えぬこともないが、やっぱり上手いです。

 キャストは一流で、筋もそんなに悪くはないのだけど、映画全体ではさっぱり面白くない。
 まったく感情移入できぬ嫌な主人公、観衆の予想を常に斜め横に外す筋、生意気なガキども、誰もが不幸になるバッドエンド、後味悪いエピソードの数々、趣味の悪い映画音楽、妙な役ばかりやらされているヘレナ・ボム=カーター、無駄なまでの映像の様式美、容易に人が死んでいく命の軽視、観客の神経を逆なでするかのごとく滑りまくるギャグ、…どれもが、バートンの映画以外のなにものでない強烈な個性に満ちているのだが、なにかが外れている、どこかが外れている。なにか、どこかがうまくマッチすれば、全てのピースがうまくはまり、傑作になってしかるべきなのだが、出来たものはやはり駄作である。

 バートンの映画は難しい。
 次に期待するか。
 …「スウィニートッド」「アリス」「ダークシャドウ」と三連敗中なのではあるが。


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 ダークシャドウ 公式サイト


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June 07, 2012

読書:霧笛@ブラッドベリ

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 本日、なんとはなしにNHKの番組を見ていると、「認知症の早期発見法」ということをやっていた。なんでも「1分以内に野菜の名前を10数えられたら、認知症でない」とのことである。試しに10思い浮かべたらあっさり出てきたが、これって家事やってる人に圧倒的に有利なテストではないであろうか。だって、これ、スーパーの野菜売り場を思い浮かべたら、いくらでも野菜の名前は出てくるわけだから。
 で、主婦が家事などやらない旦那にこのテストやったら、面白い結果になるのではとも意地悪なことを思ったりした。

 野菜テストは少々不公平ゆえ、他にいいテストはないかとか考えた。
 「1分間で小説の傑作短編を10あげよ」というのはどうだろう? と思い、私が試してみた。
 本邦では、「心中(康成)」「卵(三島)」「満願(太宰)」「冬の蠅(梶井)」「名人伝(中島)」「鍵(星新一)」「煙草(芥川)」「岩尾根にて(北杜夫)」…等々、ずらずらと思い浮かべられてきりがない。
 ならば、海外の短編にしてみようか。
 まずは「霧笛(ブラッドベリ)」だな。さて次は、というところで思考が止まってしまった。いきなり「霧笛」レベルのものが出ると次が難しい。これに続く短編といえば、えーと、えーと、……
 1分近く考えて、ようやく頭のなかに他の短編が出てきだしてほっとしたが、今回はその「霧笛」の話。


    ……………………………………

 「霧笛(The Fog Horn)」by Ray Bradbury

 人里遠く離れた「孤独の湾」と名付けられた寂しい湾に、燈台が一本建っている。
 霧深きその地での燈台の役割は、海を照らしつつ、霧深き夜に霧笛を鳴らすこと。霧で視界も効かず、荒れた海が岸に叩きつける波の音で、その他になんの音も聞こえぬなか、荒涼たる海に響き渡る霧笛の音は、凄愴たるものであった。

 燈台にはベテラン燈台守と助手の二人がいて、徹夜で仕事をしている。
 長き夜のあいま、燈台守は助手に語る。
 この燈台が発する、霧笛のことを。

 以下、彼が語った言葉の原文紹介。

    …………………………………
 We need a voice to call across the water, to warn ships; I'll make one.
 I'll make a voice that is like an empty bed beside you all night long, and like an empty house when you open the door, and like the trees in autumn with no leaves. A sound like the birds flying south, crying, and a sound like November wind and the sea on the hard, cold shore.
 I'll make a sound that's so alone that no one can miss it, that whoever hears it will weep in their souls, and to all who hear it in the distant towns.
 I'll make me a sound and an apparatus and they'll call it a Fog Horn and whoever hears it will know the sadness of eternity and the briefness of life.

    …………………………………

 読み進めるうち、孤独に満ちた、魂が凍るような「霧笛」の音が、心の奥底から響き始め、やがて心を満たし、心を揺さぶってくる。
 そういう、辛いけど、詩的で夢幻的な文章であり、じつにじつに美しい。
 じっさいここはブラッドベリの小説のなかでも相当に有名な個所である。
 こういうほとんど詩のような文章って、訳しようもないのであるが、一応以下に適当に訳しておく。

    …………………………………
 海を越えて、ここに近寄るなと警告する声が必要だ。
 私がその声をつくろう。
 一晩中傍に誰もいない君のベッド、君が帰ったとき誰もいない家、葉を全て落とした晩秋の樹々、泣きながら南へと帰って行く鳥たち、冷たく厳しい11月の海と風、そんな音をつくろう。
 あまりに孤独でそれを聞いた者は誰も忘れられない、それを聞いたものは誰しも、たとえ遠く離れた町に住む人でも心からすすり泣く、そういう音をつくろう。
 私はそういう音を発する装置をつくり、音を発しよう。
 人々をその音を「霧笛」と呼ぶ。それを聞いた者は果てしない悲しみと、そして人生の儚さを知るだろう。

    …………………………………

 なんの救いもない、一人者とかには、ズキ ズキ! ズキ! ! と心を突き刺されまくるような言葉が発せられているが、…とりあえず、こういう孤愁に満ちた霧笛の音が鳴っている燈台が舞台の物語。

 燈台の仕事を進めるうち、燈台守は助手にこの燈台の恐ろしい秘密を語る。
 この燈台には一年に一度、怪物が近付いてきて、霧笛に呼応して叫び声を一晩中上げながら、燈台の周囲を泳ぐのである。
 あるとき燈台守はその怪物の姿を見て驚いた。それは恐竜であった。

 そして燈台守の言う通り、その夜恐竜は現れる。

 規則的に鳴らされる霧笛に呼応して、巨大な恐竜は同じような声で叫ぶ。深い霧に覆われた海、冷たい風が吹きすさぶなか、霧笛と咆哮の応酬が続く。

 「The Fog Horn blew.
 The monster answered.
 ―霧笛は鳴り響き、怪物はそれに応える

 いつ尽きるとも知れぬ恐ろしい響きのなか、燈台守は助手に、「何故やつはここに来るのか分かるか?」と尋ね、そしてその理由を教える。

 はるか昔に滅びたはずの恐竜のうち、ただ一匹が生き残っていた。それは百万年ものあいだ、たった一匹で孤独な海の放浪を続けていた。
 ところが、この燈台に近づいたとき、そこで鳴っている霧笛の音を聞き、恐竜は驚いた。霧笛の音は、その恐竜の声と同じものであった。しかも燈台は形態が首長竜と似ている。恐竜はすっかり燈台を自分の同族と思い、百万年間の放浪の末、ついに同族を見つけたと喜び、仲間への誘いに来たのだ。
 けれども燈台は、生物でもなんでもないゆえ、その誘いにのれるはずもなく、つれなくされた恐竜はそれでもあきらめずに毎年訪れて来るわけである。
 深き霧の海に響く、永劫の孤独を告げる燈台の霧笛と、百万年の孤独を告げる恐竜の咆哮の、決して交わることなき哀しき呼応。

 …しかし、こんなことはもう終わりだ。こうすればどうなる?と燈台守は助手に言い、鳴り響く霧笛のスイッチを切った。

 -霧笛の響きが消えたのち起こる悲劇については、原作を読んでもらうこととして…


 ひさしぶりに「霧笛」を読み返したけど、やはり素晴らしい名作である。
 かつて大いに繁栄した種族のうち、ただ一匹生き残ってしまったがゆえの底知れぬ孤独。そして暗く冷たい海をただ独り、無限の哀しみを背負って放浪する寂しさ。けれども、永遠に続くとも思えた孤独の旅の果てに、百万年の時を経て、同族に邂逅した歓喜。そしてその歓喜が、敢え無く失われてしまったあとの途方もない絶望。
 これが詩的で抒情性に満ちた文章で書かれており、まさにブラッドベリにしか書けない世界である。

 「火星年代記」(←my best 10には必ず入る)「華氏451度」「黒いカーニバル」「何かが道をやって来る」等々、ブラッドベリには山ほど名作があるが、どれを読んでも、ブラッドベリ節に満ちている独特のSFである。

 2012年6月6日、レイ・ブラッドベリ 91歳にて死去。
 若いころよく読んだ作家であるが、今読み直すと、更なる魅力を新たに知ることができた。「霧笛」に引き続き、「火星年代記」を読みかえすことにしよう。


 …………………………………

 「霧笛」は「太陽の黄金の林檎」「恐竜物語」などに収録。

 原文はPDFで手に入る。→ここ

 萩尾望都が漫画(ウは宇宙船のウ)にしているが、これはあんまりお勧めできない。恐竜と燈台の交感は文章だと哀愁に満ちているが、いざ、燈台に対峙する恐竜の姿が、絵になってしまうと、ほとんどギャグの世界だと思うなり。大天才萩尾望都にしては珍しく滑った例。


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June 01, 2012

電波の日

 初めて知ったけど、本日6月1日は「電波の日」だそうである。
 電波には種々の役割があるが、その第一の役割は通信である。
 その価値を知らしめたのは昨年の東日本大震災ということで、TV放送に加え、メール、SNSなどにより情報が迅速に伝わり、被災地に的確な情報を与えることが出来た、電波の役割の重要性が知れ渡った、というようなことを総務省が発表し、その電波の普及に尽力した地方放送局の表彰なども行っていた。

 たしかに電波による情報の発信は、その速報性において追随を許すものなどなき優秀なツールである。
 あの3月11日、津波警報のサイレンが外で鳴るのを聞き、去年の警報同様の狼少年かくらいな軽い気持ちで仕事をしつつ、TVを見たら、仙台の大地が大津波に飲まれる光景が生中継で流れ、たまげてしまった。
 こういう人生で初めて見る大惨事に接し、「なにが起きるか分からない。なにが起きてもおかしくない」という恐怖にかられ、職場の同僚とともに、徹夜態勢で職場に残った。とんでもない惨事が次から次へと流れるTVやネットで情報収集しつつ、結局宮崎県北には1m50cmの津波が来ただけで、無事に夜は明けたのであるが、あのとき情報を的確に伝えてくれるツールが無かったら、あの夜はいかに不安極まりないものであろうかと、たしかに思う。


 ただし、その素晴らしい電波が、肝心要の東北で役目を十分に果たしていたかといえば、とてもそう言えないのは断言できる。

 私は昨年、東北のあちこちを訪れたのであるが、そこで聞いた体験談では、あの311は「情報の遮断」に苦しんだ、ということが多かった。
 情報を伝えるべく最も頼りになるテレビは、東北が広範囲に停電しているので、まったく使いものにならない。携帯電話にしろ、スマートフォンにしろ、バッテリーは生きていても、そこに情報を流すはずの各通信社の電波塔の多くは倒壊して使いものにならなくなっているし、残った電波塔もそれに基地局も停電のためやはり使いものにならなくなっていた。
 東北の人達は、あの311の夜を、真っ暗ななか、絶え間なく続く余震に揺られながら、「とんでもないことがこの地に起きているけど、それがいったい何が何やら分からない」という不安とともに過ごし、そして運よく翌日に電気が回復した所では、そこで初めて知った大惨事に言葉を失った、ということであった。

 東北から離れた西日本、九州にいる人間は、東北で凄まじいことが起きているのをリアルタイムで見ていたが、その当の被災地である東北では、その情報を知ることが不能で、情報社会の恩恵には全く与ることは出来なかったのである。


 文明を支えるものとして情報伝達としての電波は極めて重要である。
 しかし、その電波を飛ばし、受け取るには、電気というものが絶対的に必要となる。文明を支える根幹は電気であり、電気なければスマホもTVもラジオもただの箱であり、なんの役にも立たない。

 電波の日は電波の有難さに感謝する日だそうであるが、たしかに電波は大事である。しかし、電気はもっともっともっともっともっと大事なのである。

 文明社会の根幹である電気について、私たちは、あまりにもないがしろにしていませんか。
 今年の夏、日本の原発は全て停止し、深刻な電力不足が予測されている。
 電力の30%を原発に頼っている我が国に、脱原発なんて選択は最初からなかったのであるが、ずるずると原発停止を続けこのざまである。

 原発止めて、それで計画停電して、そのときまた大震災が起きたらどうするんでしょうかね。
 電気ないと、避難指示の一つさえできませんよ。病院も機能しませんよ。救えたはずの命も、何千人という単位で失われますよ。

 電波の日にちなんで電波に感謝するのはいいとして、昨今の、あまりに電気および電気会社に対するバッシングに、それはちょっと、というか、ものすごく違うんじゃないんですか、との苦言を呈したくなった次第である。

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