« 緒方@京料理 | Main | 宮崎の日蝕ロマン 1700年の時を経て »

May 20, 2012

ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウ氏死去の報を聞いて

【マタイ受難曲のアリア「我が心、己を清めよ」より】


 例えばいきなり音楽好きで横暴な宇宙人が襲来し、「我々は音楽を愛しており、優れた曲を求めて宇宙を旅している。たまたたまこの星域に来たところ、地球にも音楽があるようだ。それで、地球で最も偉大な音楽の曲を一曲選んで我々に示してほしい。もし、いい加減に選んで、それがつまらない曲だったりしたら、地球を滅ぼしてやる。だから真剣に選べ」てな無理難題を出してきたとする。

 全人類の命がかかった深刻な要求ゆえ、全世界から有識者が集められ、喧々諤々の騒動が繰り広げられることとなるだろう。しかし、やがて議論は白熱した二者択一に収斂されていくことになるのは間違いない。
 それは、「地球の運命を託す」ほどの価値を持つ偉大な曲は、人類はじつのところ2曲しか持ってなく、人類の存亡をかけた選択は、結局は、その2曲のうちのどちらを選ぶかにかかることになるからだ。

 その2曲はもちろん大バッハ作曲の「マタイ受難曲」と「ミサ曲ロ短調」なのだが、このうちのどちらが人類を代表する曲に選ばれるか、私には見当もつかないけど、もし「マタイ受難曲」が選ばれたとする。
 そうなると、宇宙人に「マタイ受難曲」の楽譜が提供されることになる。
 恒星間航空が余裕で出来るほどの技術を持っているなら、それを直ちに聴くのは容易と思うけど、その宇宙人が特異なる地方での楽器・声楽等の再現を面倒と思うような存在だったら、「音源にして寄こせ」とか言い出すかもしれない。

 そうなると、地球人はまた議論をして、「マタイ受難曲」の最高の音源を宇宙人に示さねばならない。
 この場合の議論は、そんなに長引かない。
 なぜなら、「マタイ受難曲」に関しては、至高と称すべき音源が、ちゃんと一つ実在しているからだ。
 そう、カール・リヒター指揮の1958年盤である。

 「マタイ受難曲」は、人類の文化創造の頂点に達するような存在であるゆえ、その演奏も、大変な労苦が要されることになる。
 指揮者のカール・リヒターは、ある意味、バッハを演奏するためだけに生まれて来たとでもいうべき稀なる存在ゆえ、渾身の指揮は当然としよう。
 それでも脇を固める歌手の素晴らしさは、途方もない。
 曲の進行役であるエヴァンゲリストは、要求される精神性の深さから、歌える技量を持つ歌手は数十年に一人くらいしかいないという難役だけど、リヒター盤のヘフリガーは、それを見事にこなしている。(そしてその後、彼を凌駕する歌手はいまだいない)
 ソプラノのゼーフリート、アルトのテッパーも、見事な名唱である。
 しかし、やはりバリトンのフィッシャー=ディスカウの名人芸は、誰しも感嘆するしかない領域。

 マタイ受難曲自体が人類の文化の奇跡的存在であるのだが、この奇跡的存在を、その真実の価値を示すべき演奏が、半世紀以上前の1958年に現実に行われたことが、また奇跡に思える。
 その演奏の核は、リヒターの指揮であり、そして私が思うに、フィッシャー=ディスカウの歌唱であった。


 キリスト教というのは、東洋人にとっては過激な宗教に思える。
 たとえば、仏教の宗祖ブッダは、亡くなるときに、高僧、弟子、大衆、動物たちが回りを囲み、嘆き悲しんだそうである。
 しかし、キリスト教の宗祖イエスが亡くなるときは、弟子はみな逃げ去り、イエスは十字架刑に処され、隣で同様に十字架に架されている泥棒たちと、それから大衆に、「お前が本当に神の子なら、神の力を借りて十字架から降りてみろ!」とか嘲られ罵られていた。ブッダの最期とはえらい違いだ。

 そして憎悪と嘲笑に満ちた声のなか、イエスは息を引きとる。

 それみたことか、この似非預言者め、とか大衆が溜飲を下げたところ、急に空が暗くなり、ゴルゴダの丘に雷が落ち、突風が吹いたのちに、大地震が起きる。
 「うわ、しまった。こいつは本当に神の子であった。おれたちはどうしたらいいのだろう」と、大衆がパニックに陥るまでを、マタイ受難曲は途方もない迫真性をもって描いている。

 キリスト教は、そのキモは、「世界を救おうと思って救世主が現れた。しかし大衆は(弟子も含めて)、その存在の意味を理解できず、理解できないという理由によって、救世主を貶めて殺してしまった。その罪に気づいてしまったのちの後悔と贖罪によりキリスト教が成り立った」ということであり、それをよく解説してくれるのが、「マタイ受難曲」なんだけど、…受難曲の4分の3を占める、イエスへの嘲りと罵りの音楽は、異教徒にしてもきついものがある。

 マタイ受難曲を聞いていて、やはり一番心に染み入るのは、イエスの死ののち、とんでもないことをやって殺してしまったイエスの死を、後悔した人々が、自分を高めることによって心に受け入れたいと願うアリア、「己を清めよ、わが心」。
 私は「マタイ受難曲」の核心は、このアリアと思っているけど、これをフィッシャー=ディスカウが、超絶的な技巧と声で歌っている。


 「己を清めよ、わが心よ」

 Mache dich, mein Herze, rein,
 Ich will Jesum selbst begraben. 
 Denn er soll nunmehr in mir
 Für und für eine süße Ruhe haben.
 Welt, geh aus, laß Jesum ein!
 
 …………………………

 Make you, my heart,to clean,
 I myself would Jesus bury.
 For he shall only in me
 forever. find his sweet repose be here.
 World, go away,let Jesus in!

 …………………………

 己を清めよ、わが心よ
 私はイエスをこの手で葬ろう
 なぜなら彼はこれから私の中で
 いつまでも甘い安らぎの時を過ごし続けるのだから。
 世よ、出て行け、イエスを迎え入れさせよ!


 最初の一行から、フィッシャー=ディスカウはとんでもない高みに達している。
 Mach dichの「d」の発音、Herze reinの「r」の発音。神々しいまでに美しい。
 音程、音量、声質、全てが言いようもなく素晴らしい。


 抽象的芸術である音楽というものは、その本来の姿は、作ったものの頭のなかにしか存在しないものとも思えるが、それこそ地球の運命をかけてもいいような名曲「マタイ受難曲」には、作曲家バッハがたぶん満足できるような演奏が、奇跡的に実在することができた。
 その立役者の一人、フィッシャー=ディスカウに、多大な感謝をささげ、ひさしぶりに「マタイ受難曲」のCDをじっくりと聴くことにしよう。

|

« 緒方@京料理 | Main | 宮崎の日蝕ロマン 1700年の時を経て »

音楽」カテゴリの記事

時事」カテゴリの記事

Comments

カールリヒターってオルガン奏者かとおもってました~
トッカータとフーガは候補にならんのですか?
「未知との遭遇」的でエイリアン受けしそうなのに(笑)

Posted by: 天ちゃん | May 22, 2012 11:36 PM

オルガン奏者と思うほうが少数派と思いますが…(^-^;
でも確かに指揮者兼オルガン奏者でして、受難曲でも通奏低音のパートを弾いています。

「至高の一曲」を選べとなると、個人ごとにたくさんの候補曲が出てくると思いますが、それこそ地球の命運がかかるような大事になると、選ばれる曲は、わずかにしぼられると思います。

これは音楽だけのことでなく、小説、戯曲、絵画、彫刻等などでも、同様のことに思っています。

(ちなみにトッカータとフーガは、教会の中での演奏に特化したような音楽でして、祭壇と司祭等があってなんぼの音楽のような気もしますので、人類の代表曲にするには無理があると思います)

Posted by: 湯平 | May 23, 2012 12:01 AM

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウ氏死去の報を聞いて:

« 緒方@京料理 | Main | 宮崎の日蝕ロマン 1700年の時を経て »