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May 2012の記事

May 28, 2012

吉田秀和氏死去の報を聞いて

 音楽好きの者なら誰もがその評論を愛読していたであろう吉田秀和氏は、戦前から著作活動を行っていたような高齢のかたゆえ、いつ訃報を聞いてもおかしくないなとは思っていたが、5月22日に心不全にて98歳で死去との報を知り、「聞きたくはないが、そのうち聞くに違いない」報を実際に聞いてみると、やはり哀しいものを感じた。


 吉田秀和氏がどれくらいベテランかといえば、かれこれ30年ほど前に全集が発刊されていたほどであり、既にその時点で大家とされていた。
 当時は、氏の著作で手に入りやすいものは文庫本3冊くらいのものであり、それで大学の図書館に10巻並んでいた吉田秀和全集は、たいへん有難いものであり、じっくりと読ませてもらったものである。
 吉田秀和氏は、文章のめっぽう上手い人であった。その文章のせいで、氏に評論された音楽は、聞く前から全て名曲、名演奏に思えてしまうてな陰口(?)も言われていたくらいのものだが、じっさい聞いたこともない曲、聞いたこともない演奏家の音楽が、氏の文章の紹介により、これは是非とも聞かなくてはという高揚感を感じたのは、ほとんどの人が経験したことであろう。

 氏の評論は印象深いものが多かったが、そのなかで、とりわけ印象にのこったことを一つ紹介。

 バッハの大作「ロ短調ミサ曲」中の、クレド「十字架につけられ」という曲は後半部、急に調子が代わり、なんとも神秘的な、彼岸の彼方から響いてくるような神韻縹渺とした音楽となる。吉田秀和氏はこの部を評して「この音楽は優れた芸術家が経験に経験を重ね、さらに晩年となり、死の深遠を覗いたとき、くらいのことにならないと作れない、神品といってよいものだ。しかしバッハはなんとこの曲を20代の若さで作曲している。ここにバッハの途方もない偉大さが示されている」というふうなことを書いていた。またモーツァルトのホルン協奏曲第3番についても、似たようなことを書いていた。
 私はそれらを読み、頭のどこかに入れていたのだが、それらの評が書かれて数十年して、音楽の考古学の発達により、世の名曲群の正確な作成時が明らかになってきた。それらの研究により、氏の指摘していたバッハの「十字架につけられ」はまさにバッハ最晩年の作ということがわかり、またモーツァルトのホルン協奏曲の作成時もずっと後年にずれることが判明した。
 私はそれらの記事を、たしか「音楽の友」か「レコード芸術」か、ともかくそのたぐいの雑誌で読み、以前に読んだ吉田氏の評論とあわせ「吉田秀和はなんと耳の良い人だ」とあらためて感嘆した。

 世にある美しいものは、その真の価値を感じ取れる人がいて、はじめて存在しえるというところがある。そして、その真の価値は、人に知らせる術を持っている人により、より広まり、普遍的なものになりうる。

 吉田秀和氏は、世の美しきものの真の価値を知る術、そしてその価値を知らせうる術の、両方を持った稀有の人であった。
 まさにミューズの神のもとに生まれた人であり、その98年の生涯は、ミューズの神に与えられた使命を見事に果たした、天晴れな生涯といえよう。

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May 27, 2012

登頂の証拠 -登山の歴史をふりかえる

 近代登山の黎明期、アルプスを征服したヨーロッパの登山家たちは次の目標をヒマラヤとした。8000mを越える山がひしめくヒマラヤのなかでも難攻不落を誇った山がナンガ・パルバットであり、その険しく広大な山容から、ヨーロッパの精鋭達の挑戦を頑として阻んでいた。果敢にアタックしても、山は雪崩や吹雪で応え、この山の征服を目指すドイツ隊は合計24人という死者を出すことになり、ナンガ・パルバットは「人食い山」の別称を持つことになる。

 執念の鬼と化したドイツ隊は懸命のアタックを続け、ついに1953年に登頂を果たすのであるが、それを達成したのが、かの鉄人ヘルマン・ブールである。
 その時の登山は、極めて過酷な条件のもとであり、ブールは当時としては破格の単独無酸素にて登頂している。登頂後ブールは決死の下山を続け、ほとんど動けないような、半死人のような状態でベースキャンプにたどり着き、登頂の成功を報告した。

 ここで問題になるのが、ブールが本当に登頂したかどうかである。
 なにしろ単独で登ったので、それを証明してくれる証人はいない。登頂の印として、山頂に何か残しておくとか、岩に字を刻むとかしていれば、後の証拠ととはなるが、下山時ではその物証の証明は無理である。
 「単独無酸素」での8000m高峰は不可能と思われていた時代、それゆえブールの登頂は嘘か妄想かと隊員は思っていたのであるが、…証拠はあった。

 ブールは山頂に到達したとき、息も絶え絶えの態だったのだが、それでも隊旗を結んだピッケルを山頂に立て、写真を撮っていた。
 ナンガ・パルバットの山頂なんてブール以外にそれを見た者は世界中に誰もいないので、「これが山頂」と言われても、誰もそれを証明できないわけなのだが、しかし山頂写真には周囲の山々が写っている。その写り方から、その写真がどこで撮られたかは厳密に判断でき、そしてブールの撮った写真は、そこが山頂であることを間違いなく示していた。
 こうして魔の山ナンガ・パルバット初登頂者の栄誉は、ブールに輝くことになった。
 下がその有名な写真である。

【Summit shot of Herrman Buhl 1953 July 7】
Hermann_buhis_photo_2


 さて、5月26日に竹内洋岳氏がダウラギリ登頂を果たした。
 氏は基本的に単独登山はやらず、今回もパートナーとして写真家の中島ケンロウ氏と共にダウラギリに登る計画であったのだが、中島氏が体調不良でリタイアすることになり、結局単独での登頂となった。
 だから本来なら竹内氏が山頂に立っている姿を中島氏が撮影することで登頂の証拠成立ということになったはずが、仕方なく竹内氏は自分の影の入った山頂の写真を撮ることでその代わりとし、その写真も公開されたわけだが、…

【ダウラギリ山頂写真:竹内氏撮影】
Takeuchi

 この写真、奥に見えている岩山がダウラギリ山頂である。
 しかし、これって「山頂を撮った写真」であり、山頂にいることを証明する写真ではないなあ。


 ダウラギリ登頂記念の写真をずらりと以下に並べると、

【Kinga Baranowska 2008 May 01】
Kinga

【Edurne Pasaban 2008 May 01】
Pasaban

【Air2 Breeze team 2009 May 18】
Summit

【Mario Panzeri 2012 May 17】
Mario

 「Dhaulagiri submmit」のkeywordで検索して適当に拾ってきた写真群であるけど、世界山岳界のスーパースターがずらずら並んでいるなあ、という感想はともかくとして、厳密には登山者が山頂にいる「登頂写真」は一番最後のマリオ氏のものだけのような気もするが、とりあえずは皆、竹内氏が撮った写真に写っている岩山のところで写真を撮っている。
 あそこまで行っておけば「ダウラギリ登山登頂」と認定されるようであり、それゆえ竹内氏の写真は詰めが甘く、下手をすると「登頂の証拠なし」と判断されてしまいかねない
 これは竹内洋岳14座完登認定ピンチか? という状況なのだが、そうでもない。

 現代にはGPSというじつに便利なものがあり、竹内氏はずっとGPSで現在位置を発信しながら登山をしていて、彼の登山はネットにより全世界に生中継されていた。私もそれをリアルタイムでみていたけど、怪物と称すしかないデスゾーンでの行動の速さには呆れていた。ま、そういうわけで、登頂の記録はばっちりと残っている。
 また今回の登山はNHKも参加しており、高性能のテレビカメラで山頂が撮影されていて、竹内氏の登頂も記録されている。(山頂の写真の天気からすると、そのはずだ)
 というわけで、ヘルマン・ブールの昔ならいざしらず、現代では各種機器の発達により、登頂の証明はだいぶと容易になってきているわけだ。

 以上、登頂にまつわる、登山の歴史をふりかえった話。


 ところで、ヘルマン・ブールは写真を撮ったことで、登頂を証明できたのだが、もし氷点下30度とかの過酷な条件でカメラが故障して、写真が撮れなかったとする。
 そうなると、登頂は彼の証言のみにかかり、「ヘルマン・ブールはナンガ・パルバットに本当に登頂したのか否か」は、マロリーのエベレスト登頂の謎に並ぶ、山岳史最大級のミステリとなったはず。
 しかし、もしこのミステリが生じても、それには解決編が用意されていた。

 ブールは山頂に隊友のピッケル(たぶん写真に写っているもの)を登頂の証拠として残していて、そのことも証言していた。しかしそのピッケルは氷雪に埋もれ、のちにナンガ・パルバットに登った人は誰もそれを見つけることはできなかった。
 ところが地球温暖化の影響か、ヒマラヤも氷が溶けだし、1999年日本人登山家により山頂で古いピッケルが発見された。持ち帰られたピッケルは、まさにブールのドイツ隊使用のものと確認され、山岳博物館に収められることになった。

 あの写真がなかったなら、ピッケル発見は50年近く続いていたミステリの解決ということになり、「ヘルマン・ブールは本当に登っていた」との見出しつきの記事が世界中を駆け巡る大ニュースとなったのに、…とかミステリ好きの私としては、勝手な感想を抱いたりもしてしまった。

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May 26, 2012

祝 竹内洋岳氏8000m峰14座登頂

 ヨーロッパでは登山は一流のスポーツとして認められていて、スター級の登山家は英雄的存在であり、またたくさんのスポンサーがついていて大金持ちであったりして、たとえばラインホルト・メスナーは大きな城に住んでいる。
 しかし日本では登山は趣味の延長くらいの位置にしかなく、登山で飯を食っているプロは、ガイド業を除いては竹内洋岳氏、ただ一人しかいない。

 その竹内洋岳氏は、ヒマラヤ8000m越えの山(ジャイアンツ)14座の登頂に挑戦中であったわけで、私も去年そのことについて読書評を書き、「残すはあと2座のみ。栄光の日はいつ訪れることになるのか」と結んだのだが、それを書いて1年もたたぬうち、5月26日偉業達成となった。

 登山の行為のうち、この14座登頂がいかに偉業かというと、それはあのローツェ南壁登攀の次くらいの難易度といえばその凄さが容易に分かると思う。…分からんか。

 8000mを越える高さは、「デスゾーン」と呼ばれ、酸素濃度は平地の3分の1だし、低温、気候等、とうてい人間はおろか生物の存在できるところではない。
 それでも、先鋭的登山家は自然の摂理を無視して、デスゾーンを突破して8000m級の山の登頂に立つ。
 当然に危険極まる行為であり、死の危険が高い。
 8000m級の山に挑戦したさいの死亡率は、wikipediaに詳しくのっているけど、(→ここ)、登山術が発達した1990年以後の記録では、死亡率の高い順に、カンチェジュンガ 22% アンナプルナ 19.7% K2 19.7% と5人に1人が亡くなるというハード極まる山が並ぶ。近年観光化されフィックスロープが張り巡らされたエベレストでも4.4%の死亡率だ。
 確率計算でいえば、14座登って、命を失わずに下山できる可能性は約20%。10人トライして、2人しか成功しないという低い確率。しかもここでの失敗は、すなわち死ということであり、あらゆるスポーツでも死亡率80%なんて無茶な競技はこの「ジャイアンツ14座登頂」くらいなものである。しかもそれに挑む者はトップレベルのクライマーばかりなのであり、その10人のうちの2人しか成功できないというのは、とんでもない難事業なのであって、これを達成できたことは、すなわち国家表彰レベル、国民栄誉賞を与えていいくらいの偉業なのである。
 じっさい、竹内氏のパートナーで一足先に14座登頂を達成したラルフ・ドゥイモビッツ氏は表彰を受けている。

 ところで、竹内氏は日本人初のジャイアンツ14峰登頂者である。
 マナスルの初登頂が1956年の日本隊であることから分かるように、日本の登山の歴史は古く、実力ある登山者も多いのに、竹内氏が初めてであったのは、不幸な歴史がある。
 14座を狙っていた日本のクライマーには、山田昇、田辺治といった世界に誇るモンスター級の登山家がいた。山田昇は「史上最強の登山家」が代名詞であったし、田辺治はローツェ南壁の登攀成功者である。彼らは14座登頂の十分な資格者だったはずなのだが、残念なことに9座登ったところで、遭難死を遂げてしまった。
 9座というのは、日本の山岳会にとって嫌なジンクスとなり、この二人に加え、9座を登った名塚秀二も、9座登ったところで遭難死しており、そして竹内氏も10座目に狙ったガッシャブルムII峰登山中に雪崩に会い、瀕死の目にあっている。
 しかし氏は、破裂骨折した脊椎にボルトを埋め、懸命のリハビリを行い、1年後に同峰登頂のリベンジに成功している。まさに不屈の精神の持ち主だ。

 8000mを越える山の世界では、猛威を振るう大自然の前に、人間などほんとうにちっぽけな存在である。大自然のほんの気まぐれで、あっさりと人間は死んでしまう。じつに過酷な世界だ。
 けれども、それを当然のこととし、それでも己の精神と肉体を鍛えに鍛え、その神々の領域の世界に挑み、そして神の世界に届くような難行を成し遂げる人間がいる。

 極端な登山の世界をナンセンスと思う意見もあるだろうが、人類の歴史とは、ずっと自然へ挑戦を続けてきた歴史であり、そして、こういうジャイアント14座挑戦のような険しい挑戦と成功こそ、人類の力強さ、可能性を改めて知ることができる、大いなる「人間賛歌」であろう。

 その「人間賛歌」を聞くことができた、今回のニュースはたいへん嬉しいものであった。

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May 21, 2012

宮崎の日蝕ロマン 1700年の時を経て

【日向灘】
Photo

 平成24年5月21日は宮崎全域で金環日蝕が観察できるとのことで楽しみにしていたのだけど、前日の予報では曇りとのこと。
 朝起きてみると、やはり空一面に雲がかかっている。それでも雲が少しでも切れることを期待して、日向灘の海岸まで行ってみたが、金環日蝕の時間はずーと曇りであり、そのときに少し暗くなったかな、という程度で過ぎてしまった。

【期待された日蝕の図】
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 晴れていたら、こういう金環日蝕を見ることが出来たのだが、こればかりはどうにもならない。
 私の生きている間は、この地に金環日蝕が起きることはなく、残念であった。


 日蝕は、天空ショーのなかでも最大級の見世物であり、この仕組みがよく分かっていない時代には、神の怒りとも捉えられていたようだ。
 日本における記録では、古事記における「天岩戸」の記事が、日蝕を記した最初のものと考えられている。ここでは天照大神の怒りが、日蝕となったわけであるが、この日蝕は、いつの日蝕であろう?

 日本の歴史初期のスター天照大神にモデルがあるとしたら、それは邪馬台国女王卑弥呼しかおらず、そしてたぶんそうだと言われている。
 卑弥呼の時代は紀元3世紀であり、天文学的にたしかにその時期日本に皆既日蝕が起きている。そして皆既日蝕のせいで、女王の神性が疑われ、卑弥呼が殺されたという説もある。
 それはともかくとして、もし卑弥呼と日蝕に関連があるなら、それは邪馬台国の位置の大きなヒントとなる。

 日蝕は日本列島でバンド状の位置でしか観察できず、その日にどこでも見られるというわけではない。

【日蝕バンド】
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 邪馬台国で皆既日食が起きたとするなら、邪馬台国は日本列島のうち、この紀元3世紀の日蝕バンドのなかのどこかにあったはずとなる。
 邪馬台国の候補地は、北部九州と近畿奈良の二つが最も可能性が高いとされており、この二つはバンド内には入っている。
 しかし、3世紀の皆既日蝕では、九州ではたしかに日蝕は観察できたが、奈良では観察は困難であったとされている。バンドには入ってはいるものの、この時の日蝕は日の出に近い時刻であり、盆地の奈良では、太陽はまだ山に隠れており、日蝕を観察できなかったからだ。
 そうなると、邪馬台国は九州にしぼられることになる。

 考古学的には、邪馬台国が北部九州にあったのか、近畿奈良にあったのか、いまだに結論はついていない。
 紀元3世紀に30万人も人が住んでいた遺跡がどこかに見つかれば、それで簡単に決定ということになるのだけど、いまだにそのようなものが見つからない以上、たぶんこれかも正解は出ないであろう。

 それで、邪馬台国の位置は、魏志倭人伝の読解が重要になるのであるが、魏志倭人伝を読むかぎりは、私は「邪馬台国=近畿奈良」説はありえないと思っている。
 魏志倭人伝の一節、「男子は大小と無く、皆黥面文身す。今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う」における邪馬台国の風習、「男子は身体全体に入れ墨をして、また潜水漁法が得意で、魚や蛤を捕る」からは、邪馬台国は南洋風の文化を持ち、かつ水産物の採取が得意であったことが分かる。
 これだと奈良ではおかしい。奈良には海はないし、たとえ川か湖での漁としても、「好んで沈没して、魚蛤を補う」文化にはほど遠かったはずだから。

 ただし、北部九州にしても、この記事はおかしい。この記事からは邪馬台国は、それこそ沖縄あたりの南洋系の文化を持っていたように思え、九州ならせめて宮崎・鹿児島あたりの南九州のあたりにないとおかしい。

 ここで宮崎は西都原古墳の出番となる。
 紀元3世紀において、九州では巨大な遺跡はここにしかない。西都原古墳群は、日本最大級の古墳群であり、この地に大きな人口を持つ都市があったことは間違いないと思われる。
 「西都原=邪馬台国」説はあまり聞いたことはないけど、魏志倭人伝の記事、それに日蝕から、ここが邪馬台国の可能性は高いのではないだろうか。
 それならば卑弥呼の見た日蝕は、宮崎の地での日蝕となる。


 まあ、そういうふうに邪馬台国の卑弥呼にも関連があったかもしれぬ宮崎の日蝕を、千七百年以上の時を経て、また見るのだなあとか思いながら日蝕を観察する予定であったのだが、厚い雲に隔たれてしまい、…繰り返して言うが、まったく残念であった。

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May 20, 2012

ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウ氏死去の報を聞いて

【マタイ受難曲のアリア「我が心、己を清めよ」より】


 例えばいきなり音楽好きで横暴な宇宙人が襲来し、「我々は音楽を愛しており、優れた曲を求めて宇宙を旅している。たまたたまこの星域に来たところ、地球にも音楽があるようだ。それで、地球で最も偉大な音楽の曲を一曲選んで我々に示してほしい。もし、いい加減に選んで、それがつまらない曲だったりしたら、地球を滅ぼしてやる。だから真剣に選べ」てな無理難題を出してきたとする。

 全人類の命がかかった深刻な要求ゆえ、全世界から有識者が集められ、喧々諤々の騒動が繰り広げられることとなるだろう。しかし、やがて議論は白熱した二者択一に収斂されていくことになるのは間違いない。
 それは、「地球の運命を託す」ほどの価値を持つ偉大な曲は、人類はじつのところ2曲しか持ってなく、人類の存亡をかけた選択は、結局は、その2曲のうちのどちらを選ぶかにかかることになるからだ。

 その2曲はもちろん大バッハ作曲の「マタイ受難曲」と「ミサ曲ロ短調」なのだが、このうちのどちらが人類を代表する曲に選ばれるか、私には見当もつかないけど、もし「マタイ受難曲」が選ばれたとする。
 そうなると、宇宙人に「マタイ受難曲」の楽譜が提供されることになる。
 恒星間航空が余裕で出来るほどの技術を持っているなら、それを直ちに聴くのは容易と思うけど、その宇宙人が特異なる地方での楽器・声楽等の再現を面倒と思うような存在だったら、「音源にして寄こせ」とか言い出すかもしれない。

 そうなると、地球人はまた議論をして、「マタイ受難曲」の最高の音源を宇宙人に示さねばならない。
 この場合の議論は、そんなに長引かない。
 なぜなら、「マタイ受難曲」に関しては、至高と称すべき音源が、ちゃんと一つ実在しているからだ。
 そう、カール・リヒター指揮の1958年盤である。

 「マタイ受難曲」は、人類の文化創造の頂点に達するような存在であるゆえ、その演奏も、大変な労苦が要されることになる。
 指揮者のカール・リヒターは、ある意味、バッハを演奏するためだけに生まれて来たとでもいうべき稀なる存在ゆえ、渾身の指揮は当然としよう。
 それでも脇を固める歌手の素晴らしさは、途方もない。
 曲の進行役であるエヴァンゲリストは、要求される精神性の深さから、歌える技量を持つ歌手は数十年に一人くらいしかいないという難役だけど、リヒター盤のヘフリガーは、それを見事にこなしている。(そしてその後、彼を凌駕する歌手はいまだいない)
 ソプラノのゼーフリート、アルトのテッパーも、見事な名唱である。
 しかし、やはりバリトンのフィッシャー=ディスカウの名人芸は、誰しも感嘆するしかない領域。

 マタイ受難曲自体が人類の文化の奇跡的存在であるのだが、この奇跡的存在を、その真実の価値を示すべき演奏が、半世紀以上前の1958年に現実に行われたことが、また奇跡に思える。
 その演奏の核は、リヒターの指揮であり、そして私が思うに、フィッシャー=ディスカウの歌唱であった。


 キリスト教というのは、東洋人にとっては過激な宗教に思える。
 たとえば、仏教の宗祖ブッダは、亡くなるときに、高僧、弟子、大衆、動物たちが回りを囲み、嘆き悲しんだそうである。
 しかし、キリスト教の宗祖イエスが亡くなるときは、弟子はみな逃げ去り、イエスは十字架刑に処され、隣で同様に十字架に架されている泥棒たちと、それから大衆に、「お前が本当に神の子なら、神の力を借りて十字架から降りてみろ!」とか嘲られ罵られていた。ブッダの最期とはえらい違いだ。

 そして憎悪と嘲笑に満ちた声のなか、イエスは息を引きとる。

 それみたことか、この似非預言者め、とか大衆が溜飲を下げたところ、急に空が暗くなり、ゴルゴダの丘に雷が落ち、突風が吹いたのちに、大地震が起きる。
 「うわ、しまった。こいつは本当に神の子であった。おれたちはどうしたらいいのだろう」と、大衆がパニックに陥るまでを、マタイ受難曲は途方もない迫真性をもって描いている。

 キリスト教は、そのキモは、「世界を救おうと思って救世主が現れた。しかし大衆は(弟子も含めて)、その存在の意味を理解できず、理解できないという理由によって、救世主を貶めて殺してしまった。その罪に気づいてしまったのちの後悔と贖罪によりキリスト教が成り立った」ということであり、それをよく解説してくれるのが、「マタイ受難曲」なんだけど、…受難曲の4分の3を占める、イエスへの嘲りと罵りの音楽は、異教徒にしてもきついものがある。

 マタイ受難曲を聞いていて、やはり一番心に染み入るのは、イエスの死ののち、とんでもないことをやって殺してしまったイエスの死を、後悔した人々が、自分を高めることによって心に受け入れたいと願うアリア、「己を清めよ、わが心」。
 私は「マタイ受難曲」の核心は、このアリアと思っているけど、これをフィッシャー=ディスカウが、超絶的な技巧と声で歌っている。


 「己を清めよ、わが心よ」

 Mache dich, mein Herze, rein,
 Ich will Jesum selbst begraben. 
 Denn er soll nunmehr in mir
 Für und für eine süße Ruhe haben.
 Welt, geh aus, laß Jesum ein!
 
 …………………………

 Make you, my heart,to clean,
 I myself would Jesus bury.
 For he shall only in me
 forever. find his sweet repose be here.
 World, go away,let Jesus in!

 …………………………

 己を清めよ、わが心よ
 私はイエスをこの手で葬ろう
 なぜなら彼はこれから私の中で
 いつまでも甘い安らぎの時を過ごし続けるのだから。
 世よ、出て行け、イエスを迎え入れさせよ!


 最初の一行から、フィッシャー=ディスカウはとんでもない高みに達している。
 Mach dichの「d」の発音、Herze reinの「r」の発音。神々しいまでに美しい。
 音程、音量、声質、全てが言いようもなく素晴らしい。


 抽象的芸術である音楽というものは、その本来の姿は、作ったものの頭のなかにしか存在しないものとも思えるが、それこそ地球の運命をかけてもいいような名曲「マタイ受難曲」には、作曲家バッハがたぶん満足できるような演奏が、奇跡的に実在することができた。
 その立役者の一人、フィッシャー=ディスカウに、多大な感謝をささげ、ひさしぶりに「マタイ受難曲」のCDをじっくりと聴くことにしよう。

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May 03, 2012

緒方@京料理

 GW後半は京都へ和食の食べ歩きに出かけた。
 そのなかで最も印象が強かったのが「緒方」であった。

 和食というのはずいぶんと手間がかかる料理であり、和食の定番である、造り、焼き物、煮もの、椀物、揚げ物…と、こういったものがいずれも高水準のレベルで供されるには、仕入れ、仕込み、調理と大変な手間がかかり、それゆえ真っ当な和食を出す店は限られており、それは京都に偏在している。
 だから美味しい和食を食おうと思ったら、地方在住のものは、わざわざ京都にやってくるわけである。
 そして京都の和食は、だいたい予定調和的な美味しさがあり、なんというか、新幹線にでも乗ったように始発駅から終着駅まで安心して、その流れにのったままコースを楽しむことになるのが普通だ。

 しかし、緒方の料理は、時に京料理の枠を超えて、普通の流れからはみ出すところが結構あり、その激しさには、ちょっとしたカルチャーショックを覚えた。

【鰻八幡巻】
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 これは普通に京料理なのであるが、素材の良さと、技術の良さがしっかりと分かる。

【玉葱椀】
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 京料理は椀ものに尽きるところがあるといえばあるが、その椀の蓋をあけると、なかには玉葱だけ。
 あれっという感じだけど、まずその玉葱が今開いたばかりの花のようであり、見た目に美しい。
 そして薄めの出汁と甘い玉葱との調和も抜群。
 素材の良さの切れ味がじつに鋭い。

【佐賀牛小鍋】
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 さきの玉葱椀や造りのように、シンプルな料理が得意なのかとも思ったが、この小鍋は豊かな味付けの佐賀牛に、たっぷりと多量の花山椒をかけて、馥郁たる花山椒の香りと佐賀牛が混然一体となっている、いわゆる足し算の料理。

 コース全体を通して変化に富んでいて、京料理の新たな魅力が十二分に伝わってきた。

 地元にあれば、春夏秋冬、料理を楽しみたい店である。
 京都の人がうらやましい。

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