親父の仏壇
祖父の家には仏壇があって、祖父の死後は長男である親父の家に仏壇がうつってきた。仏壇というものは、大きくて部屋のスペースを取り、また重くて移動も困難であり、現代的な家にはなじまない。また仏壇があれば、日々線香を焚かねばならず、定期的に法事が営まれることもあり、無宗教の者にとっては、ずいぶんと厄介なものになる。
私は長男であり、流れとしては仏壇がそのうち私のもとにやってくるのは明らかだ。無宗教者であり、筋金入りの物ぐさ者の私としては、まっぴらごめんと言いたいところである。それをさけるには、弟に押しつけるという手もあるが、弟も私と似たようなやつであり、引き受けることはありえない。
そういうわけで、私は親父に「仏壇は親父の代で終わりにして、処分するよ」と宣言していた。親父はふふんと笑い、それでいいよと答えていた。
ただ私の目からは、親父はそんなに信心深い者には思えず、寺に参ることもほとんどなく、家に仏典やら経の本などがあるわけでもなかった。しかし、仏壇は大事にしており、日々線香を焚き、供物をそなえ、そして命日にはお坊さんをよんで経を唱えてもらっていた。
よほど仏壇の好きな男と、私は勝手に思いこんだまま、そのまま月日は流れ、やがて親父は亡くなった。
ところで親父の通夜で、親戚の人たちと夜通し思い出を語りあったのだが、そのとき少しばかり意外なことを知った。親父と祖父はとても仲がよく、親父は祖父をとても好きだったそうだ。息子の私には、親父は祖父の悪口のほうをおもに言っていたので、そういうものだと思っていたのだが、同時代を生きてきた親戚たちの言うことのほうが正しいであろう。
そして仏壇の謎も分った気がした。
人は死ねばゴミになる、とは言うが、そう単純なものでもない。
肉体としての人が死んだとしても、人の思い出に残っている限り、その人は生きている。人が本当に死ぬのは、人々から忘れ去られてしまった、そのときだろう。
親父は祖父をとても好きだった。
だからこそ、日々仏壇に手をあわせ、線香を焚き、供物をそなえていたのだろう。亡き人とこの世の人を結び、心にとどめておく縁(よすが)として、仏壇への祈りは、もっとも親父にとってふさわしいものであった。
そして、仏壇って、本来そういうものなんだろうな。
どうやら、我が家の仏壇は、やがては私が持っていくものとなりそうだ。
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Comments
いい話ですな~
心温まります マジで・・・・
私も両親 大事にします
Posted by: キヨシ | March 25, 2011 09:52 PM
年老いた親が亡くなるのは生物学的に自然なものとはいえますが、いざ亡くなると、いろいろと思うことがあります。ああ、あのときこうすればよかったとか、とかあのときこう言えばよかったとか。
このエッセイもじつは親父に対する鎮魂歌のようなもので、これでそういう思いに一区切りつけようかな、という感じで書きました。
Posted by: 管理人 | March 25, 2011 11:13 PM