私たちはみな究極のギャンブルの勝者である
昨日に引き続き、運の話。
「女か虎か」という有名なリドル・ストーリーがある。
その小説ではある国の裁判の方法が書かれている。裁判の場で、罪人の前には二つの扉が用意されている。一方の扉の奥には美女が、一方の扉の奥には人食い虎が入っていて、美女の扉を選ぶと罪が許されその美女と結婚できる。しかし人食い虎の方を選ぶと、そのまま食われてしまう。5割5割の確率で、「生」か「死」を選ぶ、まさに究極のギャンブルである。
この話はフィクションであるが、じっさいにそのような生と死を選ばざるを得ないギャンブルをしないといけない羽目になったなら、ものすごい圧力が精神にかかるでしょうな。それこそ選ぶ途中で失神してしまいたくなるくらいに。
…しかし、このとんでもないギャンブルを、私たちが実際に経験したことがある、と言ったらどう思うであろう。しかもそれは、ほぼ私たち全員が経験したことがあると言ったら。
私たちが現在この世にいるのは、有性生殖が成功したためである。
有性生殖においては雄側からの精子と雌側からの卵子が接合して遺伝子が組み替えられ新たな個体が誕生する。
その受精のプロセスでは、精子の役割は大変である。精子は2億からの膨大な同胞とともに、子宮から卵管に至る長距離を泳ぎ、卵子の細胞膜を破って、卵子の核を目指す。この2億の同胞との競争に打ち勝った、ただ一つの精子のみが、受精を経て新たな個体になることができる。この過酷な競争は、より優秀な遺伝子を次代に伝えるという生物の定めからも、理にかなったものとはいえる。そして勝ち残った精子が次代に生き残ることができたのは、純粋に能力の問題であり、ギャンブルは関与していないように思える。
ところがそうではないのである。
子宮から卵管は一本道というわけでなく、子宮からは卵管は左右に二本出ている。すなわち子宮から卵管にいたる扉は、二つある。卵巣は交互に卵子を卵管に放出するので、その扉の奥に卵子がいる確率は2分の1であり、卵子のいないほうに行ってしまえば受精は不可能となり、そのまま死んでしまう。
子宮の中を泳いできた精子たちは、卵管に入るとき、左右のどちらかを選ばねばならない。どちらに卵子がいるかは事前に分かるはずはなく、結局己の勘を信じ、運次第のギャンブル勝負で、選んだ扉に突入しないといけない。
そして、この世に私たちが存在するのは、まさに「生か死」しかない、その究極のギャンブルに勝利した結果なのである。
私たちは生まれるときに、2億の同胞たちに勝ち抜いた競争力を持ち、しかもその究極のギャンブルにも勝利した。まさに奇跡とまでいえる、誇るべき偉業である。
…ただ、我が身を考えると、こんな偉業を達成して生まれたのに、それにしては現在の自分はたいしたこないなあとも思ってしまう。
ひょっとして受精のときに全ての能力と運を使い果たしてしまったからなのかな。そして現世でも力を発揮している人って、そのときの余力がまだ残っている人なのかもしれない。