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March 2011の記事

March 31, 2011

私たちはみな究極のギャンブルの勝者である

 昨日に引き続き、運の話。

 「女か虎か」という有名なリドル・ストーリーがある。
 その小説ではある国の裁判の方法が書かれている。裁判の場で、罪人の前には二つの扉が用意されている。一方の扉の奥には美女が、一方の扉の奥には人食い虎が入っていて、美女の扉を選ぶと罪が許されその美女と結婚できる。しかし人食い虎の方を選ぶと、そのまま食われてしまう。5割5割の確率で、「生」か「死」を選ぶ、まさに究極のギャンブルである。

 この話はフィクションであるが、じっさいにそのような生と死を選ばざるを得ないギャンブルをしないといけない羽目になったなら、ものすごい圧力が精神にかかるでしょうな。それこそ選ぶ途中で失神してしまいたくなるくらいに。


 …しかし、このとんでもないギャンブルを、私たちが実際に経験したことがある、と言ったらどう思うであろう。しかもそれは、ほぼ私たち全員が経験したことがあると言ったら。


 私たちが現在この世にいるのは、有性生殖が成功したためである。
 有性生殖においては雄側からの精子と雌側からの卵子が接合して遺伝子が組み替えられ新たな個体が誕生する。
 その受精のプロセスでは、精子の役割は大変である。精子は2億からの膨大な同胞とともに、子宮から卵管に至る長距離を泳ぎ、卵子の細胞膜を破って、卵子の核を目指す。この2億の同胞との競争に打ち勝った、ただ一つの精子のみが、受精を経て新たな個体になることができる。この過酷な競争は、より優秀な遺伝子を次代に伝えるという生物の定めからも、理にかなったものとはいえる。そして勝ち残った精子が次代に生き残ることができたのは、純粋に能力の問題であり、ギャンブルは関与していないように思える。
 
 ところがそうではないのである。

 子宮から卵管は一本道というわけでなく、子宮からは卵管は左右に二本出ている。すなわち子宮から卵管にいたる扉は、二つある。卵巣は交互に卵子を卵管に放出するので、その扉の奥に卵子がいる確率は2分の1であり、卵子のいないほうに行ってしまえば受精は不可能となり、そのまま死んでしまう。

 子宮の中を泳いできた精子たちは、卵管に入るとき、左右のどちらかを選ばねばならない。どちらに卵子がいるかは事前に分かるはずはなく、結局己の勘を信じ、運次第のギャンブル勝負で、選んだ扉に突入しないといけない。

 そして、この世に私たちが存在するのは、まさに「生か死」しかない、その究極のギャンブルに勝利した結果なのである。
 私たちは生まれるときに、2億の同胞たちに勝ち抜いた競争力を持ち、しかもその究極のギャンブルにも勝利した。まさに奇跡とまでいえる、誇るべき偉業である。

 …ただ、我が身を考えると、こんな偉業を達成して生まれたのに、それにしては現在の自分はたいしたこないなあとも思ってしまう。
 ひょっとして受精のときに全ての能力と運を使い果たしてしまったからなのかな。そして現世でも力を発揮している人って、そのときの余力がまだ残っている人なのかもしれない。

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March 30, 2011

延岡を竜巻が襲った日

 東日本大震災で大津波が街を押し流す映像をみて、明日は我が身と思った人は多いであろう。
 日本は海岸沿いに平野が集中しているので、そこに住んでいる人が圧倒的に多く、いざあのような津波が突然襲来したときは、もうどうしようもなくなってしまうに違いない。そして、日本は海岸沿いなら、どこでもあの津波が来る可能性があるのである。

 延岡も調べてみると、400年前に大津波に襲われた記録が残っていて、やはりその例外でないことが分かる。そして将来的に発生が予測される東南海・南海地震のさいは、5~6メートルの津波が生じるとされている。延岡市の人の住んでいるところは、標高5メートル以下の土地ばかりなので、そりゃ大変だと思ったが、市作成のハザードマップをみてみるとその対策はなされているようで、この規模の津波が来ても、案外に家が流されるような浸水を来すような場所は少ない。防波堤等の治水対策がそれなりに為されているのであろう。
 もっとも、今回の大震災のように高さ10メートルを越えるような想定外の津波が来たら、なすすべもなく市は壊滅であるが。

 そのようなことを、延岡市内の某寿司店でしゃべっていると、店主は「天災とは恐いものです」と力を込めて語った。

 じつは延岡市は、地震ではないが、凄まじい天災に襲われた経験がある。
 それは5年前、平成18年の竜巻襲来である。台風13号の到来による気流の乱れによって日向灘に発生した大竜巻は、突如として延岡市に上陸し、街の中心部を縦断し、家屋を鉄道を破壊して、去っていってしまった。
 店主はその日は店を兼ねた自宅の3階に居たのだけど、なにやら凄い風の音がして、「台風とは違う音だなあ」と思っているうち、いきなり窓が吹っ飛び、そこから洪水のごとく風が吹き込んできて、部屋のあらゆるものを巻きあげながら、向いの窓も破り、それらを連れて吹きぬけていった。店主はたまたまその風の通り道と離れた場所にいたので難を逃れたけど、もしも、その通り道に居たら、部屋から飛び出て行った家具と同じ運命をたどって、3階から放り出され、致命傷を負ったに違いなかった。

 こういう生死を分けるものは「運」しかないと、店主は実感をこめて語った。
 そしてもう一つ運のよいことに、店である一階は無事だったので、翌日から仕事をすることができ、この災害で被ったン百万円の損害も、順調に支払うことができたとのこと。

 まったく、想定外の天災をくらった場合、人のできることなど知れている。
 生死を分かつものは結局は運なわけで、そうして私たちが現在生きているということは、運がよかったからなのである。

 運のいい人。
 自らがそれであることの幸運を、ありがたく思っておきたい。


Train


 画像は延岡の竜巻ドキュメントより。

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March 29, 2011

山田木白の会@第3回

 3月17日に宮崎市の光洋で開かれた和と洋のコラボ「山田木白の会」のレポをまだUpしていなかったので、Upしてみよう。

 この日は大震災からまだ数日ということで、いろいろなアクシデントが生じた。まず主賓であるはずのフィリップ・バカレ氏がフランス政府の勧告によって、来日したらすぐに帰国してしまった。バカレ氏の家族の一人は航空機の手当がつかず、軍の輸送機に乗って帰ったそうで、異国の人の帰国の航空事情は相当に混乱していたそうだ。
 また東日本からの食材が当然不可能になってしまい、メニューも変更を余儀なくされてしまった。それでも主催者の懸命な努力により、無事に会は開催された次第。

 一分間の黙祷ののちに始まった会の料理のいくつかを紹介。

【ぼくらのコロッケ】
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 胡麻豆腐と海老とアワビをエスニック風に揚げて、それにメヒカリの唐揚げを添えている。最初から濃厚な風味の料理。

【ホワイトアスパラガスと蛤の茶碗蒸し 桜の塩漬け添え】
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 艶々した茶碗蒸しは、滑らかで、pureな食感で口のなかをくぐり抜けて行く。

【春の野菜の炊き合わせテリーヌ仕立て】
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 春野菜が鮮やかな食感と味で花開く、そんな料理。

【フランス産鳩のポトフ山本風】
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 和と洋の微妙な中間点で、独自の世界をつくっている。

【お茶のシャーベット】
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 お茶のシャーベットは、口に入れての一瞬の鋭さとそのあとの柔らかさ、そのバランスが見事。

【握り コハダ、赤身】
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 コハダは用意された酒にあわせてか、いつもよりしっかりと〆られた酢と塩の利いたもの。

【蛸茶飯】
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 蛸茶飯は蛸が食感も味も存在感抜群で、口のなかで蛸が暴れるような料理。


 全体を通して、練りに練られた、工夫と技術のつまった料理の品々であった。
 宮崎の一流の和と洋の料理人が互いの技を競い合わせ、そこから生じる化学反応で、新しく、面白い料理が生み出されてくる。
 そしてそれらは、完成度ということでは、各々が専門としている分野のものにはちょいと及ばないものがあるかもしれないが、それでもここには、「食」の確かな存在感がある。

 この会の料理には独自の熱気があり、すなわち料理人たちの過剰なまでの、「美味い料理を作るんだ」「美味い料理を作って楽しんでもらうんだ」の心意気が、むんむんと伝わってくる。そして、それが客にとっても大変に心地よい。

 宮崎の料理界を担う新進気鋭の料理人たちが集い、各々の研鑽の場とする「山田木白」の会。今回が3回目なのだが、これからもさらなる進化をみることができそうだ。

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March 28, 2011

自粛は誰のため?

 3月も末になり、世間ではそろそろ送別会・歓迎会のシーズンであり、また気候もよくなることから各種のスポーツイベントや大会が開かれるはずなのであるが、自粛というものが流行りだし、それらの中止が相次いでいる。
 これは東日本大震災からの影響なのであるが、震災や原発事故の被害が直接ある東日本,関東でならいざしらず、西日本・九州もそれにならっているのはどうしたものか。

 この自粛ムード、40歳を過ぎた人にとっては既視感を覚えるものだ。
 すなわち先の昭和帝が危篤に陥ったとき、日本全国を自粛ムードが覆い、先帝が病に倒れられてからは、賑やかなイベント、会合は中止が続き、おかげで経済活動がずいぶんと沈滞してしまった。
 この自粛は、べつに政府機関や公的機関が命じたものでもなく、陛下の危篤という事態に国民が哀しみを覚え、…覚えるのはいいとして、勝手にそういう自粛ムードの「空気」に国民がひたってしまい、なんでもかんでも自粛という行動に走ってしまったのである。
 そういう自粛になんの意味があるとも思えず、またそのような自粛は昭和帝がもっとも望まなかったものであるに決まっているのに、陛下が崩御されるまで、その自粛は継続してしまった。

 そしてあれから23年がたち、また同じような光景を私たちは見ることになっている。まったく民族の性格というものは変わらないなあ、とか思ってしまう。


 今度の大震災。映像で見るだけでも強い精神的ショックを受ける、そのようなものであったことは事実である。そしてあれを見てショックを受け、哀しみの気持ちから何もしたくなくなった気持ちも分からないでもない。しかし何もしたくない感情は個人の裡にとどめるべきで、世間に広めるべきではないだろう。
 私はもちろん近頃世に出てきだした「不謹慎だ」「被災者の気持ちを考えろ」の意見のことを言っている。
 そして、今どんなに哀しくても、その感情は長続きしない。人間の精神は逞しく、いかなる哀しみもやがては時とともに薄れゆき、思い出の一つに仕舞われていく、そういうふうにできている。そうでないと人生は辛すぎるから。
 そうして哀しみが薄れてしまったとき、あとで振り返れば、「なんであのときあんなに自粛してしまったんだ?」とか思うに決まっている。


 ところで九州最大のサイクルイベントであるツール・ド・国東があと1ヶ月くらいに迫ってきている。主催者側からはまだはっきりした知らせはないが、わたくし的には、「東日本の被災者の気持ちを慮って」とかのわけのわからぬ理由では中止にしてもらいたくない。
 いや、ほんと、全国から大人数のサイクリストが集まって、大分国東半島を走るツール・ド・国東やらないと、まじで日本の復興遅れますぜ。

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March 27, 2011

九州新幹線の宮崎への贈り物

【祝!九州新幹線全線開CM180秒】

 3月12日に九州新幹線博多~鹿児島ルートが開通して、鹿児島から北九州までがつながった。それを祝福してのCMがこれであり、見ていて、これから素晴らしいこと、愉しいことが始まるんだ! というわくわくした予感が沸き起こってくる、名CMだと思う。
 ただし、「ひとつになってくれてありがとう、一つになった九州に新しい力が生まれています」とのナレーションに、「いや、宮崎一つになってないんですけど」という突っ込みを入れた宮崎県民はけっこういると思う。

 じっさい九州新幹線が開通して、宮崎の陸の孤島ぶりは際立ったものとなってしまった。他県の博多への時間が2時間以内におさまったのに比べ、宮崎市から博多はJR特急で5時間15分、高速バスで4時間10分。新幹線を無理やり使おうとしても、最寄りの新八代駅まで車で2時間以上はかかり、いやしくも県庁所在地ともあろうものが、新幹線のローカル駅まで2時間というのもなさけない話だ。
 九州新幹線が小倉から、あるいは鹿児島から宮崎へ伸びて来る計画はまったくなく、21世紀を過ぎても九州は一つにはなりそうにない。
 いっそ宮崎は九州から独立してやろうかしらん、などと、宮崎県民としては拗ねてしまいたくもなり、九州新幹線開通騒ぎは宮崎には縁のないものと思っていた。


 しかし、先日日豊本線の特急に乗ったとき、「あれ?」と思った。客室は広々として、シートの具合もよく、アメニティがレベルアップしている。そしてその客室はどうも見覚えがあり、鹿児島本線を走っていた「リレーつばめ」にしか思えない。検札に来た車掌さんに聞いてみると、その通りであった。
 すなわち鹿児島本線を走っていた787系リレーつばめは新幹線開通とともにお役御免となり、はるばる宮崎までやってきて余生を過ごしているのである。
 そして787系は、以前走っていた485系RED EXPRESSと比べ、乗り心地もいいし、それになんといっても客室中央に大きなLaggage Ruckがある。これがあると、大きな荷物があっても容易にそこに置くことができる。自転車積んでの輪行の場合、今までの485系では最後列の座席の後ろにしか輪行袋を置く場所がなかったのに比べ、これは大いなる利点だ。

 そういうわけで、宮崎県民で大きな荷物を列車に積む人、とくに自転車乗りにとっては、素晴らしき贈り物をくれた九州新幹線開通であった。

【787系客室】
Tubame


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March 26, 2011

プロメテウスの業苦

 人類の黎明期、人類とは、暗闇のときは野獣たちの到来に怯え、寒いときは洞窟のなかで震え合うしかない、そういう弱々しい存在であった。
 その姿を哀れみ、天上の神プロメテウスは、神が独占していた「火」を人類に与えようとする。しかしその企ては、主神ゼウスによって、「人類に火を与えると、やがて彼らはつけあがり、神々をもおびやかす存在になりかねない」として拒絶される。だがプロメテウスはその拒絶の命令を振り切り、人類に火を与えた。

 その結果、人類は火を所有し、夜は明るくなり、寒き日も暖が取れるようになり、さらには火によって調理、土器、武器作成などもできるようになり、人類は万物の霊長となった。

 しかしながら人類に火を与えたプロメテウスは、主神ゼウスの怒りをかい、岩山に鎖で縛りつけられることになる。身動きとれぬプロメテウスにゼウスは鷲をけしかける。鷲はプロメテウスの腹を裂いてその肝を啄ばむ。生きながらにして内臓を食われる激痛に苛まされるも、不老不死である神プロメテウスは翌日には回復している。その回復したプロメテウスをまた鷲が襲い肝臓を啄ばむ。この果てをもしれぬ業苦は3万年続いた。

 これがギリシャ神話伝えるところのプロメテウスの物語である。


 人類の文明というものは、畢竟、火の利用と制御につきるところがある。
 天上のものかどうかはともかくとして、火を得た原初の人類は、それにより多大なる恩恵を受けることになった。しかしながら、火はまたおそるべく災厄をももたらしたわけであり、身を焼き、家を焼き、街を山を焼き、はては戦禍で国をも滅ぼしたことさえある。

 岩山で想像を絶する苦痛と戦っていたプロメテウスの姿は、じつは火の恩恵を受けていた人類が、同時に火によって苦しんでいたもう一つの姿の象徴であろう。

 神話ではやがてプロメテウスは解放されるのであるが、じっさいの歴史では、プロメテウスはずっと岩山につながれ鷲に責められていた。火の使い方が多岐にわたるにつれ、その災厄も規模が大きくなり、苦難はさらに激しいものとなっていた。しかしその苦難との戦いとともに、人類は火の使い方を昇華させ、さらに文明を高度に発展させてきた。
 私たちの今の文明は、プロメテウスの業苦のもとにある。


 現在日本は国難といってもよいほどの災害にみまわれている。
 そして、福島では原発の事故に対して、人類の英知をふりしぼった対応がなされており、彼らの奮闘にはまさに頭が下がる思いである。

 この原発事故から、学ぶべきものは多いのだろう。そしてたとえば、原発はもう廃止という意見も出るには違いない。
 ただ、原初の時代から火の獲得とともに続いてきた、プロメテウスの業苦と格闘の物語を鑑みるに、この現在進行形である21世紀のプロメテウスの物語を経て、ここから更なる高みに、我らの文明が達していくことを私は祈念してやまない。

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March 25, 2011

春への準備

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 2月の半ばから寒さがゆるみ、このまま春になると思いきや、3月は寒い日が続いてた。しかし、さすがに3月も下旬になれば、一歩一歩という感じで暖かさが感じられてきて、春近しという雰囲気になっている。

 そして、今冬はすさまじい寒さであり、雪も大量に降って、そのモニターとして非常に重用していた、九重長者原のライブカメラ九重瀬の本高原のライブカメラを見れば、もはや雪に苦労して車を走らせることもなくなったのが分かった。

 それで、ようやくスタッドレスタイヤをノーマルタイヤに履き替えることにする。
 雪の降ること少なき宮崎延岡でスタッドレスタイヤを履いている者は稀なる存在ではあり、じっさいこれが役に立ったのは3回のみであったので、延岡でのスタッドレスタイヤはコストパフォーマンスはすごく悪いものと言える。それでも、冬の山道に突っ込むとき、ノーマル+チェーン持参と比べて、スタッドレス装備では、安心感が全然違う。今冬、雪山をさんざん楽しめたのは、スタッドレスタイヤあってのことであって、これじゃないと雪の山道など出かける気にはなれなかったもんな。

 その頼もしきスタッドレスタイヤも、本日で御役目御免である。
 私はノーマルタイヤ4本を家から出し、これらをコロコロと転がせながら駐車場に持って行って、それから車に積み込み、イエローハットに履き換えに行った。
 乗りのいい兄ちゃんの「どうです、役に立ちました?」との言葉に、「3回だけでしたね」と答えると、「でも、使わなくても安心感があったでしょう」と私が思っていたことと同様のことを言った。

 なにはともあれ、タイヤは交換。春への準備である。

 ついでといってはなんだが、春への準備はもう一つ。
 春の宴会の定番、花見の予想を立てねばならない。延岡の花の名所「城山公園」に桜の咲き具合を見に行ってきた。
 毎年、普通は3月末くらいが満開の時期になるのだけど、今冬はやはり例年に比べ寒いらしく、まだまだ固い蕾ばかりであった。
 それでもわずかばかり花を開こうとしている蕾もあり、ここでも春近きことを知らせている。

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March 24, 2011

親父の仏壇

 祖父の家には仏壇があって、祖父の死後は長男である親父の家に仏壇がうつってきた。仏壇というものは、大きくて部屋のスペースを取り、また重くて移動も困難であり、現代的な家にはなじまない。また仏壇があれば、日々線香を焚かねばならず、定期的に法事が営まれることもあり、無宗教の者にとっては、ずいぶんと厄介なものになる。

 私は長男であり、流れとしては仏壇がそのうち私のもとにやってくるのは明らかだ。無宗教者であり、筋金入りの物ぐさ者の私としては、まっぴらごめんと言いたいところである。それをさけるには、弟に押しつけるという手もあるが、弟も私と似たようなやつであり、引き受けることはありえない。
 そういうわけで、私は親父に「仏壇は親父の代で終わりにして、処分するよ」と宣言していた。親父はふふんと笑い、それでいいよと答えていた。

 ただ私の目からは、親父はそんなに信心深い者には思えず、寺に参ることもほとんどなく、家に仏典やら経の本などがあるわけでもなかった。しかし、仏壇は大事にしており、日々線香を焚き、供物をそなえ、そして命日にはお坊さんをよんで経を唱えてもらっていた。

 よほど仏壇の好きな男と、私は勝手に思いこんだまま、そのまま月日は流れ、やがて親父は亡くなった。
 ところで親父の通夜で、親戚の人たちと夜通し思い出を語りあったのだが、そのとき少しばかり意外なことを知った。親父と祖父はとても仲がよく、親父は祖父をとても好きだったそうだ。息子の私には、親父は祖父の悪口のほうをおもに言っていたので、そういうものだと思っていたのだが、同時代を生きてきた親戚たちの言うことのほうが正しいであろう。

 そして仏壇の謎も分った気がした。

 人は死ねばゴミになる、とは言うが、そう単純なものでもない。
 肉体としての人が死んだとしても、人の思い出に残っている限り、その人は生きている。人が本当に死ぬのは、人々から忘れ去られてしまった、そのときだろう。

 親父は祖父をとても好きだった。
 だからこそ、日々仏壇に手をあわせ、線香を焚き、供物をそなえていたのだろう。亡き人とこの世の人を結び、心にとどめておく縁(よすが)として、仏壇への祈りは、もっとも親父にとってふさわしいものであった。

 そして、仏壇って、本来そういうものなんだろうな。

 どうやら、我が家の仏壇は、やがては私が持っていくものとなりそうだ。

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March 21, 2011

How to 葬式

 父が脳出血で突然倒れ、すでに危篤状態であり、もってあと1日という報が入った。
 父は80歳を越えた高齢者であり、ここ数年体調はすぐれず、「長患いはしたくない。死ぬときはポックリといきたい」と常々言っていたので、このまま亡くなれば、まさに望み通りの大往生であり、見事な人生の幕の引き方だな、と一報を聞いてそう思った。

 ただし、そのように亡くなるのはよいとして、亡くなったとき、「大往生でした、はいお終い。」というわけにはいかず、その後から、遺体を埋葬するまでの一連の作業が始まることになる。家族構成上、私が喪主になるので、私がいろいろと仕切りをする立場なのだが、なにしろ突然のことであり、なんの準備もしていないので、なにから手をつけていいのかも分からない。

 ところでこの一年、なぜか私の知人たちに、心疾患,脳疾患等で父親が急死することが続いていた。そのうちの一人は、身内が誰もいないので、たった一人で葬儀、告別式、法要を行い、ずいぶんと大変であったなんての愚痴mailをもらったことがあったので、こういうことに相当詳しいはずであり、mailで相談してみる。
 その返信の最初のほうに書いてあった「ひょっとして私らのまわりは、親父突然死がブーム?」ってな一文が私のツボに入り、つい笑ってしまったのであるが、…笑っている場合ではない。そのあとの本文および、追加でやってきたmailには、いろいろとした注意事項があってそれをじっくりと読んだ。それらの情報は、今回ずいぶんと役に立った。Eさんにこの場をかりてありがとうと言っておこう。まあ、このblogをみている人ではないのだが。

 さて、その日は面会に病院を訪れ、病院傍のホテルに泊まり、集まった家族とどのような葬儀をするかについての相談をして、だいたいの形を決めた。
 そして翌日の土曜日午後に父親は死去。ほとんど苦しみもなく、たぶん自分が死ぬという意識を一度も持つことなく迎えたであろう、安らかな死であった。私も、よろしければ、かくのごとく死にたいと思う、そんなうらやましい死でもあった。

 その後は、通夜、葬儀、出棺、火葬、骨上げ、法要という一連の流れに入る。
 なにしろ少子化、核家族化のご時世、身内の葬式を出すのは始めての経験であるからして、要領のよく分からないところも多々あったが、そこはきちんと葬儀社のプロがサポートしてくれて、なんとか無事に葬式は終了となった。
 土曜日に亡くなったので、日曜通夜、月曜葬儀・出棺・初七日法要と、ぴったりと全日程が連休内におさまり、仕事を持つ親戚の人にもさして迷惑のかからぬ、理想的な日程となった。
 父は気配りするほうの人であったが、これはその最後の気配りであって、喪主としてはたいへん有難いことであった。


 葬式というのは、日常のなかに突如現れる非日常の世界である。
 今回もいろいろと慌てて、不手際なこともあったりはしたが、それでもなんとか正常な流れで進行させ、父を気持ちよくあの世に送り出すことができたとは思う。
 そして葬式のやりかたというのも大体分かったので、これからの教訓として生かせることもできる。

 順当にいけば、次は母親の番であり、それまで私が生きていることが、子としてとても大事な義務なのであろうなあ。
 しみじみと、そう思った。

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March 15, 2011

和食:ふじ木(@宮崎市)で春野菜料理

 まだ寒い日は続いているものの、季節は確実に春に向かっており、食材も春のものが出始めている。
 本日は、「ふじ木」で春野菜を主に使った、春の料理を愉しむ会が開かれることになりそれに参加してきた。

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 まずは、野菜の煮物から。
 タラの芽に、人参、芋、それに筍。筍は国富町の採れてたのもの。
 甘くてほくほくした食感がたいへんよろしい。

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 青々とした菜の花のお浸しに、昆布〆の平目を巻いて。それに雲丹を乗せている。氷のうえの日向夏に食材が全て乗り、色鮮やかな、春の訪れを告げる、そんな演出がおもしろい。

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 椀物は、蛤の金波椀。それに、春の野菜として、独活と菜の花に木の芽。
 出汁は蛤の味の、くっきりとよく出たもの。ふじ木のたしかな調理の技術がよく分かる椀である。

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 造りは鯛の薄造り。
 鯛の爽やかな食感と味が、また春らしい。

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 ここでちょっと趣向を変えて、冬が旬であるイイダコの柔らか煮が出て来る。
 ぎっしりと飯粒が詰まったイイダコを食いながら、もう冬はおわりなんだなあとか思う。

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 次は山菜と野菜の温サラダ。ゼンマイ、ワラビ、タケノコ、コゴミ、ソラマメなどなど。山菜独自のクセの強さと、春野菜の味の強さが、うまい具合に一つの皿でまとまっている。

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 〆はふじ木名物、宮崎牛のしゃぶしゃぶ。
 柔らかで、上品な脂ののった宮崎牛を、さっと湯にくぐらせれば、旨みもまた引き立ってくる。


 昨年に引き続いての、ふじ木の春野菜料理。
 これを経験すると、春の料理はまずはこれで始めたいと思ってしまいますな。

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March 13, 2011

神話的光景と自省

 東北沖大地震の災害の凄まじさが報道によって日々明らかになってきている。
 その映像では、突然の大津波が海より押し寄せ、街が濁流に飲み込まれ、街そのものが押し流されていく。そして津波のあとも大火が襲い、街は火に包まれて灰塵と化していく。誰しも、この世の終わりとでも思いたくなるような、壮絶にして悲愴な光景。

 これらの光景は、民族の記憶、DNAに深く刻まれるに違いないイベントに違いない。そして、これが映像として記録を残すすべを持たない古代で起きたとき、ノアの箱舟の大洪水の物語、あるいは街が業火で滅びるソドムとゴモラの物語などの神話となって、語り継がれてきたのであろう。

 その神話的光景を、現時代に報道で知ってしまった私たちは、思い知らされてしまう。
 ―私たちの住む世界は、なんともろく、なんと不確実なものなのであろうか。

 そして、そんな世界に住んでいるからこそ、私たちは日々を誠実に、悔いなく過ごすことに、懸命な努力をしないといけない。
 それが、たまたまこの世に生き残り、生きているものの義務のような気がする。

 あの大災害の光景を見て、つい真面目にそう思ってしまった。

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March 11, 2011

天災の驚異と恐怖

 延岡で午後にサイレンが鳴り響き、火災警報かなにかと思っていたら、津波の警報であった。
 昨年にも津波警報があり、日豊本線が不通になったりして大変ではあったのだが、津波じたいはたいしたことはなく、今回もそのたぐいと思っていたのだけど …NHKで実況中継される宮城県名取市の、津波に田畑と住宅地が飲みこまれていく映像をみて、言葉を失ってしまう。

 その後も次々に届けられる、街が壊滅していく、衝撃的な映像をみると、改めて私たちの住む国が、いかに危険なところかということを思い知った。

 この大震災は、間違いなく戦後最大の災害となるであろう。
 夜が明けたとき、いかなる悲惨な光景が広がっているか、考えるだに恐ろしい。

 そして津波警報はまだ解除される気配もなく、今夜は徹夜でTVを見ることにする。

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March 10, 2011

前原外相が辞任したわけだが

 民主党菅政権も、いよいよ末期状態になり、外相の前原氏が辞任ということになった。
 報道によれば、前原氏の地元の焼肉屋経営の女性店主が年5万円を毎年前原氏に政治献金を行っていた。その店主は在日韓国人であったため、それは政治資金規正法に接触するおそれがあるため、前原氏は責任をとって外相を辞任したとのことである。
 前原氏は、中学2年生のときに父親が自殺して、母子家庭で困窮をきわめていた。その前原氏を、近所の焼肉店店主は見どころのある若者と見込んで援助を行い、前原氏が成長して政治家になってからは、政治献金を行って見守ってきた。
 (たぶん)小さな焼肉店の店主からは年5万円の献金は決して易しい負担ではなかったはずだが、前原氏は破格の出世をたどり、所属政党はいつのまにか与党となり、前原氏は次代の首相も狙える重要閣僚となった。
 これは一種の美談であり、政治献金とは本来かくあるべきものだと私などは思うのだけど、献金者が法律で禁止されていた外国籍者ということで、前原氏は法律違反の疑いがかかり、結果外相辞任に到ってしまった。

 外国籍者の政治献金禁止という法律の趣旨は、よく理解できる。
 年月を経た情報公開が法に定められているアメリカではCIAが自民党に資金援助を行っていたことが明らかになったし、ソ連では崩壊後に公的文書が公開になって社会党が資金援助を受けていたことが明らかになった。異国の巨額の資金援助で、過去の日本の政治は影響を受けていたわけで、こういうことが二度と起きてはいかんのは当たり前である。
 しかし、前原氏のケースは、それとは別個に扱うべきものであろう。

 年間細々と5万円を献金してきた、焼肉店の在日韓国人のおばちゃんの誠意は、前原氏に政治家としてのやる気は起こさせたであろうが、先に示した資金援助とは異なり、その金で前原氏が韓国の走狗になるなんて思いもしなかったであろう。

 然り、外国からの政治献金の禁止は、その当該国への利益供与の危険があるから禁止すべきものなのである。
 だいたい前原氏は、韓国,中国には、日本の政治家中、最も強硬にもの申す人物であり、だからこそ、かの国々から蛇蝎のごとく嫌われていたわけであって、それは日本国民だれしも知っているであろうに。

 前原氏の献金については、いちおう法律違反ということにはなるが、資金の出所が100%分かるはずもなく、こういうものが遵守が絶対となれば、政治家の大部分が辞任しないといけない、すなわち法律に不備のあるものなのである。
 たとえば以前の年金未納問題も、まともに調べたら与野党議員の多くが違反しており、結局うやむやになったのも、もとに不備があったせいで、このようなものを政局の問題にしては、本来はいかんのである。

 もっとも、自民党としては、民主党から法律違反でもなんでもない、事務所経費問題とか、失言とかで、審議拒否をやらかされたあげく、何人も大臣の首がとび、はては自殺者も出たわけなので、その意趣返しとして、大事(おおごと)と思っているわけでない案件で、大臣を責め立て、内閣を機能不全に陥らせてやりたい気持ちも理解できないでもないが、自民党はいちおう50年与党やってた政治のプロであろう。
 相手はほとんどアマチュア集団で、叩けば叩くほどホコリが立つ連中なんだから、そのアマチャア度を叩くのは政治問題に絞って、それこそ法律を自民党で全部立案するくらいの気概で政治を運営しないと、日本の政治は機能しなくなってしまうと思う。

 じっさい、今回の政局、前原氏は年5万円の献金で辞職したわけだが、外国の人がこれをみた場合、「年5万円の不正で外務大臣が首になるのか。日本とはなんと政治倫理のしっかりした国だ」と感心するのか、それとも「年5万円の不正で外相が首になるのか。日本とはなんと外務大臣の役割が軽いのか」と呆れるのか。いったいどちらに思うかを考えると、今回の騒ぎがいかに国益を害したか。
 これも民主党および自民党の罪である。

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March 09, 2011

コミック:機動戦士ガンダム THE ORIGIN(22) 安彦良和 著

Sayla_3


 とりあえず、ア・バオア・クー戦での一シーン。要塞に潜入し捕虜となったセイラさんのジオン兵士を前にしての一喝の場面。セイラさんは、なんと気高く、美しく、逞しいことであろうか。


 さて、私はガンダムは、なんとなく主人公アムロの成長物語だと思っていたけど、じつはアムロは地球連邦軍最強の武器として成長していっているだけであり、結局のところ物語では「極端に強い」戦術兵器としての役割しか果たしていない。
 それに対して、敵役のシャアは一貫して物語を動かしており、すなわちガンダムは、一年戦争を利用した、シャアのザビ家復讐とジオン再興の物語だったのである。そのことは原作でも一応語られてはいたのだけど、THE ORIGINを読むといっそうよく理解できる。

 第22巻は一年戦争のクライマックス、ア・バオア・クー戦を舞台としており、実質上ここで戦争の趨勢が決まり、ジオン体制が崩壊していくさまが描かれている。
 原作では司令官二人のわきの甘さが目立ち、あまりにあっけなくジオンの体制が崩壊するのであるが、本作のほうでは、キシリア殿はそう甘くはなく、体制崩壊にはちゃんとした理由があったことをサイドストーリーとして書いている。
 その理由とは、キシリア体制に反感を持った兵士たちが、絶好の神輿としてかつてのプリンセス「アルテイシア・ソム・ダイクン」を得たことである。この僥倖により、反乱兵士たちの士気が一気にあがり、要塞内で体制が崩壊してしまったわけ。

 原作でもセイラさんは気丈な女性であったが、本作ではさらに過激性を増して、やたらに攻撃的、戦闘的な女性として登場していた。それこそ、作中で兄のシャアが「あんなの、アルテイシアじゃない」と嘆くくらいに。
 その「強いセイラさん」像は、この反乱軍蜂起のときのための、長い伏線であったことがはじめて本巻で分かる次第。

 ガンダムファーストは日本アニメ史上に残る名作だったわけだが、それのコミック化である本作は、あきらかに原作より、深くて、面白い。最終巻になるであるだろう、次の23巻がまた楽しみである。

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 機動戦士ガンダム THE ORIGIN(22)

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March 05, 2011

馬見原で宴会

 五ヶ瀬スキー場は五ヶ瀬町にあるので「五ヶ瀬スキー場」という名前になっているけど、地理的には馬見原(蘇陽)にあると考えたほうが分かりやすい。

 馬見原は地図を見て分かる通り、阿蘇→椎葉と熊本→延岡の二つのルートが交差する交通の要所であり、かつては商人達がここに泊まり、栄えていた時代があった。
 現代では交通の便が良くなって、中九州横断の熊本→延岡は2時間半で通れるようになり、馬見原で一泊する必要もなくなったことから、…そうとうに寂れてしまっていて、ここは典型的な過疎地となっている。

 その過疎地に、私の勤める会社の支店がかつてあって、私も勤務した経験がある。その後本社は職員を引き上げてしまい、私らとは縁のない地域になっていたのだが、それでも地元の職員たちはいまだここで過ごしているわけである。
 その人たちと、それからかつて勤務していた人たちとで、ひさしぶりに会おうかとのことで、宴会をすることになった。

【宴会メニュー1】
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【宴会メニュー2】
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 場所は県境近い「五郷」という居酒屋。
 店が3軒ほどある以外、周囲には半径2kmくらい、人家さえ見当たらないという、本格的な過疎の地である。
出てくる料理は地元風のものかと思いきや、猪肉以外は、「チキン南蛮」「刺身盛合わせ」「地鶏モモ焼き」等、宮崎の普通の居酒屋メニューであった。
 以前この界隈に勤めていたころ、猪鍋、鹿肉刺身、ハチの子、山菜等々、珍しくも過激な地料理を食わせられた記憶があるが、…まあ、べつにそういうものを食いたいわけではなかったので、これはこれでいいか。

 五郷のあとは、近くのカラオケスナックで二次会をやり、そして馬見原の宿へと戻った。

 地元の人たちとは10年ぶりくらいに会い、この地域での仕事ぶり、生活ぶりを聞いたけど、こういう過疎の地で、懸命に地方を支えている人たちの努力には、素直に感銘を受けた。

【丸萬会館(夢屋)の部屋】
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 泊まったところは、馬見原の中心地の旅館「丸萬会館」。居酒屋「夢屋」の二階にあたる。
 ここは馬見原が栄えていたころから現役の旅館であり、なんと築120年の三階立て木造建築である。そうとうに由緒ある旅館であり、そうなるとこの部屋のつくりも、微妙にノスタルジックな味を感じる。


 さて、「馬見原」という地名。ここが交通の要所であることから、荷物を積んだ馬がさかんに通っていたことから名付けられたらしい。
 ただし地元民に言わせれば、それは違うそうです。その説によれば、

 …馬見原は阿蘇外輪山の続きに位置する高原であり、少し小高いところに登れば、阿蘇山を望むことができる。だから馬見原という地名は、阿蘇を見ることができる原だからそう名付けられた。ただし阿蘇が何故「馬」かといえば、阿蘇はかつて馬付きの名前で呼ばれたことがあった。すなわち、阿蘇こそかの「邪馬台国」であり、馬見原は「邪馬台国を見ることのできる原」だからその名前である。つまり、馬見原は邪馬台国の本当の位置をも知らせるすごい地名だと。

 阿蘇=邪馬台国という説はあることはあるので、たしかにそれなりの説得力のある、そしてロマンに満ちた地名説だなあ、とは思ったが、さて真相はいかに。

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五ヶ瀬でスキー & 「なんちゃってモーグラー」講義

【五ヶ瀬スキー場】
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 今シーズンは雪山ばっかり登っていて、スキーをまともに滑っていなかったので、これが最後の機会であろうと、五ヶ瀬スキー場へと行ってきた。

 本日は見事な快晴である。
 3月にしては雪はまだ多く残っており、1キロコースがフルで滑ることができた。今シーズンの雪の多さがよく分かる。

【モーグルバーン】
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 五ヶ瀬の名物は、モーグルバーン。西日本のスキー場では、これがあるとこは珍しい。
 「なんちゃってモーグラー」の私としては、これを愉しまないわけにはいかず、かれこれ10本は滑った。1年ぶりのモーグルは最初のうちはなかなかリズムが合わずにガタガタと滑っていたけど、後半では勘が戻ってきて、それなりのリズムで滑ることができた。

 ところでモーグルを滑る人にもいろいろあり、それを大雑把に分けると
 (1) モーグラー以前: モーグルバーンに入ってはいくものの、スピードの制御ができなくなり、コブからはじき出されてしまうか、転倒してしまう。
 (2) なんちゃってモーグラー: ターンも板のずらしも、なっちゃいないが、それでもなんとかコブから出ずにコースを滑りきる。
 (3) モーグラー: きちんとしたカービングでコースを滑る。見た目の格好よさは前者とはケタ違いである。


 モーグルの滑り方はインストラクターにずいぶんと習ったけど、コブをカービングで滑っていく技術は私にはとても無理であり、いまだに私は「なんちゃってモーグラー」にとどまっている。ただし、「なんちゃってモーグラー」の技術があれば、不整地はどこでも滑られるようになるので、まあこれ以上の技術もいらないよなあとは思っている。

 五ヶ瀬のモーグルバーンを滑っている人たちを見ていると、「モーグラー以前」の人も多く、滑るうちに途中でコブから脱出している。その原因はスピードのコントロールができなくなってしまったことが主である。
 モーグルコースを滑るようになれる第一ステップの技術は、「コブ内でのスピード制御」にあるわけだが、これについてはインストラクターから習った講義がずいぶんとためになったので、ブログで紹介しておく。

【コブ上のスキーヤー】
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 モーグルバーンのなかでは、スキーヤーは板をコブにぶつけることと、板を横にずらすことによってスピードをコントロールしている。そして溝内のコブの上に乗ったときは最も減速できているはずだが、初級者では、ここからスピードが出てしまい、次のコブで速度が増してしまって、コブからはじき出される、というパターンとなりがちだ。
 これはなぜかというと、コブを越えるさいに、どうしても身体が後ろに傾いてしまい、そのためブレーキがかからずに、どんどんスピードが出てしまうからである。

【板の跳ね上げと、滑る方向の意識】
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 コブの中を進むときは、コブが恐いので、初級者は身体は後傾がちになる。
 それで、インストラクターから習ったのは、「ともかく身体は前傾、前傾!」である。そのためには、(1)コブを越えたときは板の後ろを跳ね上げる (2)コブを越えたときは、コブの底目指して落ちていくと意識を持つ この二つを常に留意しておくと、身体は必ず前傾になる、ということであった。
 言うは易し行うは難しで、なかなか実行はできなかったけど、ともかくこの二つを頭の中で唱えるうちに、私もなんとかコース内での前傾姿勢は保たれ、スピードの制御はできるようになった。

 そして意識が前方向に向かううち、スキー先端をどこにぶつけるかというラインが知らずして見えて来ることがある。そうなると板はコブを次々と滑らかに越えて行き、素晴らしい速度とリズムでモーグルバーンを滑走することができるので、「おれって、じつはものすごく上手いんじゃないの?」とか思ったりすることがある。
 私はこれを「スキーの神がおりてきた時」と称しているが、これは不整地好きのスキーヤーはけっこう経験するものだそうだ。残念ながら、スキーの神様は滅多におりてくることはなく、本日10本滑ったけど、神はついにおりてこなかった。

 来シーズン、また頑張って滑ってみるか。

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March 02, 2011

鮨:光洋@3月

 美味しい鮨が食いたくなり、ぶらりと光洋に行って来た。

 肴は、フグ皮ポン酢和え、煮ナマコ、のれそれ、平目、鰯、牡丹エビ、アワビ、ノドグロの焼物、鯛の兜煮、などなど。冬から春にかけての旬の端境期であり、それぞれに季節を感じさせるものである。

 鮨は、鯛、鰯、鯵、金目鯛、赤身、ヨコワ、コハダ、北寄貝、ミズイカ、雲丹手巻き、穴子、玉子など。
 鮨はおおむねシャリとのバランスがよく、安定感が増してきた。文句なしに美味い鮨である。

 さて、本日はD3100でいかに鮨を上手に撮るかの練習も行っており、周囲の視線をものともせず、カウンターでデジイチを構え、条件をさまざまに変えながら鮨を撮影したのであるが、…うまくいかないなあ。

 白玄堂さんの写真のように、いかにも美味そうな、美しい写真を撮りたいんですけどねえ、と店主に言ったところ、ちょうど白玄堂さんが来店していますよとのことで、白玄堂さんにカウンターまで来ていただき、写真の秘訣についていろいろと教えてもらった。…はずであるが、かなり酔っぱらっていたので、ほとんど内容を忘れてしまったわい。わはは。(←わははじゃないって)
 今度の山田木白の会のときに、改めて教えてもらうことにしようかな。


 とりえず、なんとかブログに載せられるレベルのものをいくつか紹介しておこう。

【牡丹エビ】
Ebi1

【鯵】
Aji

【コハダ】
Kohada1

【鮪】
Maguro1

【金目鯛】
Kinnme1


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