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February 10, 2011

本因坊道知と八百長の話

 元禄時代に道策の登場で囲碁のレベルは一気に上がった。
 道策師匠指揮する本因坊道場は、日本全国から囲碁の俊英が集まり、活況を呈した。
 江戸時代は囲碁の家元は四家あり、そのなかでは本因坊家が別格の存在であった。道策は次代の家元として、その俊英集う弟子のなかでも特に優秀な者を選ぶが、残念なことに選ばれた跡目、小川道的、佐山策元は2人続いて若くして夭折してしまう。これは集団生活が災いしての、結核感染であったと現代では推察されている。

 策元の死後、道策は跡目をすぐには立てようとはしなかった。
 何故なら坊門の弟子のうち、その時10歳の神谷道知が、どうみても囲碁の天才であり、道知はやがて誰よりも強くなるのは確実なので、あわてて跡目を立てる必要を認めなかったからである。

 そして不世出の大棋士本因坊道策は58歳で生涯を閉じるが、その臨終の席で、当時13歳の道知を後継者に指名し、道知はその若さで本因坊家を継ぐことになる。

 道策の炯眼通り、道知は棋力を加速度的に上げて行き、15歳の時に、家元の一つである安井家の頭領から挑まれた争い碁に圧勝し、その地位を確たるものとする。

 その後も道知は囲碁の鍛錬を怠たらず、めきめきと囲碁の実力を伸ばしていったのだが、20歳を超えたころから困ったことが生じてしまった。
 あまりに強くなりすぎて、相手をするものがいなくなったのである。
 
 「孤高の天才」というものはどの分野にも存在するが、音楽・絵画・文学等々ではそれは十分に成り立つけど、囲碁は対戦型ゲームである。同等とまでは言わぬも、少々劣った程度のものが同世代にいないと、まともな勝負の棋譜が残せない。
 というわけで、大成後、本因坊道知はまともな棋譜を残せなかった。

 ここで、最初のテーマの八百長の話に移る。


 江戸時代、囲碁界は将軍お抱えの職業であり、各家元は将軍より扶持を受けていた。その家元の大事な仕事に、年に一度江戸城に登城して、各家元の代表者たちが囲碁を打ちあい、その棋譜を将軍に献上する、「御城碁」というものがあった。

 道知は本因坊家の代表として当然御城碁に参加していたが、道知は黒番では5目勝ち、白番では2~3目負けと、いつもワンパターンの碁ばかり打っていた。

 さて、江戸時代には棋界に「名人」という存在があった。
 現代では「名人」は数あるタイトル戦の一つであるけど、江戸時代の名人は、将軍の囲碁指南役であり、全棋士の段位認定権を持つという、名実ともに棋界の最高実力者であった。それほどの権威者であるため、名人は卓越した実力を認められ、各家元から推挙された者しかなることはできなかった。

 道知が少年の頃の名人は道策であり、そして道策の次は道節因碩という人であった。道節因碩は道知より40歳ほど年上で、少年道知の後見者であり、まだ若き道知を指導、育成した。道知はそのことに恩を感じて道節因碩を名人に推挙し、そして道節因碩は名人に就位した。

 道節因碩は享保四年に死去し、さあ次は道知の番である。
 道知は他家からの名人推挙の知らせを待っていたが、いつまでたってもその知らせは来ない。
 まあ、あんまり力のない人たちにとっては、名人など煙たいだけの存在であり、できるならいないほうがいいにこしたことはないわけで、各家元も知らんぷりを決め込んでいたわけだ。

 しかし道知としは、それに納得できないわけがあった。
 道知は温厚な人物であり、人に対して怒ることはまずない人であったのだが、このときばかりは怒った。
 道知は、各家元に書状を送る。
 それには、「おれを名人に推挙しないというなら、今後の御城碁では、事前に相談して、碁を作るような交渉にいっさい応じず、本気で実力を出して対局するぞ」と書かれていた。

 碁というもの、手合いが違うと形にならない。50手も進まぬうちに、弱い方の石はすべて働きを失い、一方的な殺戮劇に終わってしまう。道知が本気を出したら、どの家元もそのような惨状を呈すのは明らかだ。そんな棋譜を将軍に献上することなどできない。

 家元たちはあわてふためいて道知を名人に推挙し、そして道知は名人となった。


 この騒動、この書面から、道知の御城碁はすべて「事前に相談して作った碁」であり、すなわち八百長であることが分かった。(道知が怒ったのも、「せっかく八百長までしてお前たちを立てたのに、おれを名人に推挙しないとは何事だ」というわけである)
 一人だけ化け物のように強い者がいると、八百長でもしないと、その業界の秩序が保たれなかったゆえであるが、それにしても、ここまで堂々と八百長の証拠が残ったのは稀なることとはいえる。
 (というか、これ将軍にバレたら、本因坊家以下、家元全員打ち首になるようなとんでもないことだよなあ。各家元ともそれが分かっていたろうけど、しかし焼き捨てるのも悔しいから、こっそり隠しており、そして後世に残ったわけだ。)

 本因坊道知は37歳で生涯を閉じるが、成人してからは、ついに真剣に碁を打つことなく終わってしまった。
 棋聖道策が天才と認めたこと、そして10代の時点でとんでもなく強かったこと、成人してからまともな勝負をする者がいなくなってしまったことから、道知が途方もなく強かったことは明らかなのではあるが、なにしろその強さを発揮する場がなかったので、道知の本領を示した棋譜は後に残ることはなく、だから道知の本当の強さは、もはや誰も知ることはできない。

 本因坊道知は、囲碁人として位人身を極めた人であるけど、碁打ちとしては不幸であったと言われている。囲碁の神様から凄まじい力を与えられたのに、それを使う機会がついに与えられなかったからだ。
 囲碁の神様もときとして変なことをする。

 なお、囲碁の神様は基本的にはしっかりしており、囲碁の名手たちには、だいたい同時代には好敵手がいて、素晴らしい棋譜がたくさん残っている。


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 その1:八百長するのはいいとして、文章に残してはいかんだろう and 本因坊道知の話

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Comments

私は囲碁も将棋も不調法ですが、この話は興味深いですね。

大相撲は興行だから八百長がつきものですが、せめて場所数を
昔のように3~4場所に減らしてやれば、所謂無気力相撲は
減るんじゃないでしょうか?

Posted by: itijouji1969 | February 12, 2011 at 10:10 AM

そもそも八百長のなにがいかんか、という根源的な問題があるわけなんですよねえ。
まさか取組全部が八百長というわけもないし、また八百長やれば横綱になれるという甘い世界でもないでしょうに。


場所数を減らすのには私も賛成です。
年6場所というのは、テレビ観戦の需要が増えたための処置だったらしいですが、年6場所+地方巡業という今の興業体制は力士にとってあまりに過酷だと思います。

Posted by: 管理人 | February 12, 2011 at 03:43 PM

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