映画:悪人
今秋の話題映画、「悪人」。
主人公は幼少時に母親に捨てられたことから、他人とコミュニケーションを取ることが苦手となり、人との関わりは通常とは異なる形でしかとりえない。その祖母は若い主人公を田舎の寂れた漁村に留めておくことに、少しのやましさを感じながらも、自分たちの便利のためには仕方ないと思っている。
事件を作ってしまう女性は、社会人なのに援助交際を続け、そういう娼婦もどきの存在なのに自分を過大評価しており、知らずして周りの者を苛立たせている。この女性を殺された父親は、娘の真実の姿は知ろうとせず、他人を責めることに懸命になってしまう。
娘が憧れていた男性は、我がままに育ち放置のお坊ちゃんで、他人の弱さを感じ取ることができず、己の感情のままに、人を平気で殴ったり、蹴ったりするダメ男だ。
主人公と逃避行をする年増の独身女性は、己の勝手な欲望で、庇護したいと思っている主人公をさらに窮地に追いやってることを知ろうともしない。
登場人物は、全てがそれなりの愚かさと弱さを持っている。これらの愚かさ弱さはすなわち「悪」なのであり、どんな人間も生まれながらにして、少なくはあれ、あるいは多くはあれ、「悪」を持っている。この悪が積み重なっていき、人は不幸になり、社会は悲哀に満ちていく。
私たちの人生はそういうものであり、社会とはそういうものである、それが説得力あるリアルさを持って語られ、…なんとも重くて、見ていて辛くなる映画である。
ただし、映画は最後のほうには救いをかすかに現している。
映画の題「悪人」が、そこで初めてこういう意味で使われていたのだなと分かり、そして救いがみえてくる。
以下ネタバレ。
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主人公は一時の激情で殺人を犯したわりには、他人の痛みに対して敏感であり、その痛みを耐えがたいと思っている男であった。それはもちろん母親に灯台の回る波止場で置き去りにされたときの哀しみから来ているわけで、このような思いをしたくない、させたくないと願う彼にとっては、人を傷つけないことは、人生の深刻な課題となる。
彼は自分を捨てた母と再会したとき、母がそのことを真に後悔して、我が身を責めていることを知る。彼は貧しき母に金をしょっちゅうせびることにより、母に自分を憎ませた。母が彼を悪人と思えば、母はもう我が身を責めて苦しむことがなくなるから。
そして逃避行をしていた恋人に対しても、いずれ別れが来た時、彼女が殺人犯をいつまでも待つようなことがあっては苦しめてしまうと思う。彼は恋人の首を絞めて、殺人快楽犯を装うことにより、彼女を逃亡幇助の罪から逃すとともに、彼女に自分を憎ませることで、自分から解放させる。
人は誰しも悪を持ち、そのことが我が身を不幸に導く。しかし人は自分自身にある悪を見つめることに耐えられない存在であり、悪は自分以外のものにしか求めることはできない。
そして、その「悪」を持つ「悪人」がいれば、安心してその悪人を糾弾して、心の安らぎを得ることができる。
すべてを承知して、我が身我が心まで犠牲にして、「悪人」になる。主人公の献身的思いが、映画の核心である。
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悪人 公式サイト
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