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August 2010の記事

August 31, 2010

8月31日 (暦の話)

 現在の太陽暦の原型は紀元前153年にローマで原型が作られた。そのときの月の名前およびその意味を、以下にずらりと並べる。

 1月(January)=Janus 門の神
 2月(February)= Februs 贖罪の神
 3月(March)= Mars 軍神
 4月(April)=Aphrodite 愛の女神
 5月(May) =Maius 繁殖の女神
 6月(June) =Juno 大神ゼウスの妻ヘラ
 7月(Quintilis) =quintus 5
 8月(Sextilis ) =sex 6 
 9月(September) =septem 7
 10月(October) =octo 8
 11月(Nobember)=nobem 9
 12月(December)=decem 10

 1月から6月まではその月にちなんだ神の名前が月の名前となっている。しかし7月からは、神の数がネタ切れになったというわけでもないだろうに、数字そのものが月の名前になっている。たぶん途中でいちいちその月にちなんだ神を探すのが面倒になったからであろう。古代ローマ人ってけっこうアバウトなところがあったから。
 なお、月の数字が2つずつずれているのは、紀元前153年以前は3月が一年の初めの月であり、3月が1月だったからである。

 この暦は一年の日の数が365日に10日ほど足りなかったので、ユリウス・カエサルによって改訂が行われ、以後ユリウス暦としてヨーロッパで長く使われることになった。

 ところで、先のローマ暦とユリウス暦は、7月と8月の名前と違っている。
 まずは7月(July)。カエサルが紀元前44年に暗殺されたのち、カエサルが神格化されたため、カエサルも暦のなかで神々とともに名を刻む資格を持ち、カエサルの誕生月の7月が、カエサルの名前Juliusからとられ、Julyとなった。
 次いでカエサルの後継者であり、ローマ帝国初代皇帝であるアウグストゥスが神格化されたことにより、カエサル同様に、アウグストゥスの誕生日の月の8月がAugustusの名を使いAugustとなった。

 ちなみに30日と31日が交互となる太陽暦において、なぜか8月のみは先の7月に続いて31日ある。これは、「アウグストゥスがユリウス・カエサルの月が31日あるのに自分の名の月が30日じゃ、自分の位が低いみたいで嫌だと言って、2月から無理やり1日持ってきて30日を31日にした」という説が、いちおう巷間ひろく伝わっており、信じている人もけっこう多い。しかしアウグストゥスという人はそういうことはしないタイプの人であり、それはただのホラ話である。だいたい8月はAugustという名前になる以前から、31日あった。ユリウス暦が紀元前45年に始まった時点で8月は31日と決まっていたのである。(参考URL→Julian calendar
 とにもかくにもこうやって、月の名前は1月から8月まで神の名前を持つことになった。ならば、残りの9月から12月までも現人神であるローマ皇帝たちの名前がつけられていってよかったはずだが、現在に残る暦では、8月のAugustで打ち止めである。

 じっさいのところ、アウグストゥスの後を継いだ二代目皇帝ティベリウスも、その誕生日の月11月を、皇帝の偉大さを讃えるためにティベリウスという名前にしようという法案が、元老院(国会みたいなもの)で議題となっている。
 タキトゥスの史書「年代記」を読むと、ローマの歴史ある元老院も、帝政時代には、議員たちは皇帝にへつらう阿諛追従の徒になり果てていたようで、とにかく皇帝に気にいられるためには何でもする、というふうな法律をいくつも定期的に出している。
 ティベリウス帝はきわめて有能であり、その実務能力の高さは歴代皇帝でも図抜けたものがあって、たしかに偉大な人物であった。しかし彼は、この手のこびへつらいは大嫌いな人であった。
 「お前らそんな下らん法律をつくるより、ちゃんとまともに仕事しろ。だいたい皇帝ごとに月の名前を変えていたなら、13人目はどうするんだ?」と嘲けながら言い放ち、この法律はおじゃんとなった。

 もっともティベリウスのような人は例外的存在であり、人間のうち大部分の者はこの手の阿諛追従に弱いわけであって、ティベリウスのあとの皇帝、カリグラ、クラウディウス、ネロは、みなさん元老院の追従を受けて、喜んで月の名前を自分の名にした。9月はGermanicus 、3月はClaudius 、4月はNeroneusてな具合である。
 しかしカリグラにしろネロにしろ、神格化するにはレベルの低い人物であり、かえって暴君とか性豪とかの不名誉な別名のほうが後世に残ったわけで、彼らを神格化するのはおかしいと生前から思われていた。ゆえに、彼らが死去するとただちにその月の名前は元に戻された。
 彼らのあとも、自分の名前を月につける皇帝が散発的に現れはしたが、同様に死去とともに元に戻ることになる。

 ローマ皇帝は歴代100人以上存在したけれど、今現在まで月にその名前を残せたのは、アウグストゥスただ一人だけであった。
 結局歴史は、ローマ皇帝のうち神と讃えられる価値のある人物は、アウグストゥスしか認めなかったのである。
 そしてそれは2000年が過ぎた今は、たしかに正しいといえる。歴史というものは残酷なまでに正確な評価を行うものなのである。

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August 29, 2010

読書:白夜を旅する人々 (著)三浦哲郎

 昭和初期、主人公は東北のある寒村の一家の6人兄弟のうち、末っ子として生まれた。彼が生まれたとき、その姿をみて家族の者は安堵の表情を浮かべた。彼の肌の色が普通であったからだ。
 その一家では、肌と髪が真っ白のアルビノの子が、長女と三女の二人生まれていたので、子供が生まれるたびに、肌の色が気になったのである。
 アルビノの子たちは身体が弱く、二人は日の光の入らぬ家の奥でひっそりと暮らしていた。一家の者たちはその二人を愛し慈しみ育てていたのだが、それでも遺伝病であるアルビノの者の存在は、彼らの心に負担をかけ、一族の重荷となり、彼らは普通の家族生活は送れなかった。

 三人の女の子のうち、次女はアルビノでなく、利発活発で、器量のよい、みなの人気者であった。
 その人気者の次女が、ある時家を出てどこかに出かける姿を見て、主人公は突然いつもと違う雰囲気を感じ、ふとその姿がなにかに似ていると思った。そしてその「姿」が見たこともない妖怪「座敷わらし」ということに思い至った。座敷わらしは、見た目は可愛らしい童子姿であり、「家に住んでいるときは家に福をもたらす。でも座敷わらしが出て行ったらその家は不幸になり没落する」という言い伝えを持つ東北の有名な妖怪である。

 次女は家を出たまま帰ってこなかった。彼女は青函連絡船に乗り、津軽海峡に身を投げ入水自殺したのである。
 
 それから一家は崩壊していく。その年に長男は失踪し、次の年にアルビノの長女は自殺する。主人公はそれらの不幸に耐え、矜持をもって東京の大学に進学する。しかし学費の援助をしてくれていた次男も失踪し、主人公は退学せざるをえなくなる。

 6人兄弟のうち、二人が自殺し、二人が失踪してしまった。

 本書で述べられる主人公の人生は、ほぼそのまま著者三浦哲郎氏の実話であり、なんとも凄まじい人生を送ってきた人だと読んでいて慨嘆してしまう。その物語を三浦氏は抑えた筆致で淡々と描いていて、この暗い物語に不思議な明るさと美しさを与えており、かえって筆者のずっと抱えていた悲嘆を全編ににじませている。

 三浦哲郎氏は作家デビュー時から、自分の過酷な宿命について書いていたわけで、その著作活動の大きな割合を占めるものが、宿命の一族への、何故そうなってしまったかの、問いや、憤り、嘆き、そして鎮魂であったことはまちがいない。
 宿命というものがあるとして、いや、あると信じざるをえない立場におかれたものが、その宿命と真摯に向いあってきた氏の作家活動も、また凄まじいものであったろう。

 作者の代表作である「白夜を旅する人々」における「白夜」とは、昼でも夜でもない、あやふやな、死でも生でもない、非現実的な、しかしそれでも実在する現実であり、著者はその白夜を一生をかけて旅してきた。

 平成22年8月29日、三浦哲郎氏死去。享年79歳。
 ただただ、ご冥福を祈るのみ。

 ……………………………
 白夜を旅する人々

 …ブログで紹介した本は、出版社とか出版年を書くのが面倒なんで、アマゾンにURLを貼って済ませるのをルーチンとしているが、この本絶版になっているんだなあ。今まで紹介した本での初めてのケース。これほどの名作が絶版になっているのは、いとかなしきなり。

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August 28, 2010

和食:ふじ木@宮崎市

 まだまだ暑いのであるが、料理店にはそろそろ秋の素材が入りだし、初秋の味覚を楽しむこととなった。
 地元の抜群の素材を集める店「ふじ木」で、お任せコースを。

【シブダイ】
1

 シブダイは宮崎唯一といっていいブランド魚。夏から秋にかけてが旬で、日向灘を泳いでいる。数が少ないことから県外に出ることの少ない魚であり、だいたい地元で消費される。
 これはかなりサイズの大きい、まるまる太ったシブダイであり、そうなると脂の乗りが素晴らしく、食べてみると、甘くて旨い、上品な脂の味が口いっぱいに広がる。これだけのものは、めったに食べられないだろうなあ。

【マツタケ椀】
3

 マツタケは中国産だけど、なかなかの香り。
 海老真蒸のぷりぷりとした食感も見事。出汁とのバランスもばっちりである。
 この椀食うと、店の実力がよく分かる。

【ヤマタロガニ】
2

 日向の川蟹をヤマタロガニというそうだが、それにしてもこれはでかい。
 これだけでかいと中身も多く、豪快に蟹の身を食べることができる。

 その他、造り、和え物、穴子と野菜の煮物、どれも上出来のものであり、宮崎の旬の料理を十二分に愉しむことができた。

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August 27, 2010

現代のサンジェルマン伯爵たち

 東京足立区の111歳の老人が実はミイラであったという事件から、全国で超高齢者の実在をチェックする作業が進められている。
 これは長寿大国日本の威信が問われるような事態であるが、じつのところ厚生労働省は我が国の100歳以上の人間の存在について、その信頼性に疑問を持っていたらしく、はなから彼らを平均年齢の統計に入れてなかったそうだ。

 昨今流れるニュースをみていると、その厚生労働省の判断は正しかったようで、日本の「死んでいるはずだけど、戸籍上生きている人」の年齢は毎日のように更新を続け、ついには200歳を突破した。日本の戸籍制度は大化の改新まで遡れるので、うまく(?)いけば1400歳なんて人もそのうち見つかるかもしれない。


 超長寿な人で有名な人といえば、やはりサンジェルマン伯爵。一応実在の人物で、フランスのルイ王朝で錬金術師として活躍した人である。この人は謎めいた生活を送っていたのだが、死んだとされたあとも、彼を見たという人は現在まであとを絶たず、今もどこかで怪しいことをやりながら生きているという説がある。サンジェルマン伯爵は、不老不死の象徴としてたぶん世界で最も有名な人物であろう。

 我が国ではやはり八百比丘尼か。不老不死の妙薬「人魚の肉」を誤って食べてしまった八百比丘尼は、永遠の若さを手に入れたのだが、誰と暮らしても連れが先立たれてしまうことに絶望し、尼として俗世と縁を切った生活をすることになる。長寿がかならずしも幸せをもたらすとは限らない哀しい話。

 さて、本邦における似非サンジェルマン伯爵が摘発されることばかりが報道される記事において、ちょいとばかり面白い記事を読んだ。
 高知市でも、100歳以上の老人の存在の確認作業を行っていた。住民課職員がいちいちその人たちの家を訪ねるのは大変な作業であるが、高地市では役所の各部門の連携が良いみたいで、厚生分野の履歴を調べることにより、100歳以上の人の実在を絞ることができた。
まず戸籍上100歳以上の人で、医療保険を使っていない人が13人いた。その13人のうち、介護保険も使っていない人が2人いた。100歳過ぎで、持病も障碍もなく、医療福祉を受けずに生活している人は稀である。当然あやしいわけで、担当者はその2人を訪ねたところ、案の定一名は既に亡くなっていた。しかし、もう一人の方はちゃんと実在していた。なんの医療福祉も受けずに生活しているわけであるからして、さぞかし元気で矍鑠とした老人であったろう。
 似非サンジェルマン伯爵ばかりが報道されるなかにあって、この記事だけは、痛快なものを感じました。

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August 26, 2010

延岡愛宕山、満月の夜

 8月25日は、月齢15で満月の日である。
 夕刻、東の空にぽっかりとまん丸の満月が浮かんでいたので、これは愛宕山の展望台から見ると、日向灘に月の光を映した美しい満月の姿が見られるだろうなと思って、夜に愛宕山へと行ってみた。

【満月】
Moon25

 夕方までは晴れ渡った空だったのだけど、夜になると刷毛で描いたような薄い雲が東の空を覆ってしまい、月はそこから透ける姿でしか見えない。
 そうなると、月本体の姿もイマイチだし、なにより海に映る月の光が一本道にならない。月が夜空に浮かび、日向灘には、延岡まで一直線に月の光が映っている、そういう風景を期待していたのだが、ちょいと残念であった。

 とはいえ月はやはり美しいし、月の光を受け止める静かな日向灘、延岡市の明かりの数々もまた味わい深い。月夜の愛宕山は、夜景の名所である。

【26日の月(+木星)】
Moon_26

 26日の夕方は雨だったので、月など出ることも期待していなかったが、午後8時過ぎに外に出ると、…あれ、雨はやんで月が出ている。
 そうなると昨日見られなかった、「日向灘に一本の筋を引いている月」を見られるかなと思って、またも行ってしまった愛宕山。

 満月に近き月は、雨で洗い流された澄んだ空気を通して、さすがに冴えきった光を海に落としていた。ただ空には雲が残っていて、光はところどころ途切れ、海に一直線という月の光は望めなかった。
 それでも暗き地で皓々と光る月は、その光を浴びたものに、新たな生命を吹き込むようで、明るい月の光のもと、いつもと違う光景を見せてくれた。
 水のごとき怜悧な月の光に照らされたものたちは、例えば愛宕山から見える、建築物でも、電塔でも、送電線でも、岩でも、山々でも、昼とは全く違った表情、滑らかで、つややかな、そして生き生きとした姿をみせてくれる。

 月は美しく、そして月に照らされたものも、また美しい。

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August 22, 2010

鹿児島おいしい一泊二日(3)【過酷な鹿児島市】

 二日目、せっかく鹿児島市に来たのだから、ぶらぶらと外を歩きたいのだが、この息をするのも苦しくなるくらいの暑さのなか、とてもまともに出歩く気はしない。
 こういう時出かけるべき目標は、行って涼しい気分にひたれるところ。
 そうなるとやはり水族館であろう。鹿児島市には大規模な水族館「いおワールドかごしま水族館」があり、ここくらいしか今の気候では行く気はしない。
 ホテルを出発し、水族館前の駐車場に車を止める。

 車から出て、最初の感想。
 暑い、熱い、痛い、それに煙い。
 鹿児島市は暑さの質が違う。なんといっても太陽光線の力が違う。太陽の光が、暑いとか熱いのでなく、痛いのだ。日の当たるところを歩くと(…以下略。)

 なにはともあれの結論。今年の夏の鹿児島市は過酷である。
 駐車場から水族館入口までの100mちょっとの道を歩くだけで、風景が揺らぐがごとき感じられ、あまりの暑さに本気でめげそうになった。冗談抜きに息も絶え絶えの気分でなんとか水族館にたどりつく。そして玄関をくぐれば、現代の文明の利器エアコンのおかげで、館内はとても涼しく、生き返るように気分にひたれる。ああ、もうエアコンなしには生きていけない。私も立派な(軟弱)文明人。

【ジンベイザメ】
Whale_shark

 かごしま水族館の名物、大水槽のなかを泳ぐ「ジンベイザメ」。
 エイや、カツオ、マグロなどの他の魚は雑魚とばかりの態度で悠々と泳ぐ、迫力満点の大きな魚である。これでまだ子供というから、大人に成長したジンベイザメの成魚ってどこまで迫力あるものなのだろう。

 そのほか見どころの多い水族館で2時間くらい過ごして、それから外に出るが、駐車場までの暑いこと。そして直射日光に照らされていた車のなかのまた暑いことといったら。
 クーラー全開で街中まで行き、昼は「紫光」にて鮨を食う。お任せで頼んだ鮨のうちのいくつかを。

【シンコ】
Shinko

 シンコは三枚づけで。
 この時期のシンコはかなりコハダの味に近くなっていて、季節の推移が鮨からも分かってくる。

【鮪】
Tuna

 中トロは三厩、大トロはアイルランド産。
 どちらもこの時期の鮪としては天晴れなばかりの味の濃さ。
 紫光の鮪はいつ食っても、上物である。

【鯵】
Aji

 鯵は裏巻きで。
 関西風の鮨であるが、これもなかなかの美味。

 昨日の「のむら」の鮨は酒の肴に特化したようなオリジナル性の高いものであるが、紫光の鮨はもっと普遍性に富んだもので、本道に近いもの。こちらのほうが鮨をがっつり食った、という気にはなる。
 どちらの寿司店も、優れた個性を持つ、鹿児島市の名店である。

 鹿児島市、おいしい一泊二日であった。
 …それにしても、暑かったし、煙かった。

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August 21, 2010

鹿児島おいしい一泊二日(2)【過酷な鹿児島市】

 火山灰の漂うなか、花火を見ていたらやはり目が痛くなってきたので、適当に花火見物を切り上げ「のむら」へと行く。

【のむら店内:簾の向こうで花火が光った。】
In_shop_2

 のむらは街のまん中にある。鹿児島市はかなりの規模の都市なので、ビルがたくさん建っており、そのため街中からは花火は見えにくいはずだが、のむらの前だけはうまい具合にビルが切れていて、そのビルの合間から花火が見える。とはいえ、店内からは花火は簾越しにしか見えないので、光ったくらいしか分からない。それでも花火会場に近いだけあって、花火の音は重力感たっぷりで迫力があった。2尺玉が上がったらしき時は、店が揺れるほどである。

 本日の造りは、ヤマモチ鯛、汐子、鯵、歯鰹、星鰹などなど。
 あまりの暑さに海も茹であがっているような時期でも、魚の質の高さは相変わらずである。
 しかしこの時期ののむらは、なんといってもウニ。

【ウニ】
Uni_2

 素材が良いだけではここまでの甘さと旨さは出てこない。絶妙の手当を行うことにより、ここまで美味さが引き出される。まさに日本一のウニ。

【茶碗蒸し】
Uni2

 ウニのまろやかな甘さと、卵のほのかな甘さ、それに紅芋や長芋の爽やかな甘さが、多重奏の甘さを演出する楽しい椀。どの甘さも上品であり、酒の肴としてもよくあう。

【ウニ握り】
Uni3

 甘さ抑えめのシャリによって、さらにウニの甘さが引き立つ。
 ウニが主役の、ウニのための握り。

 やはり夏から初秋にかけての、のむらのウニはすごいなあ。

 その他、のむら定番の「トコロテン」「茹で蛸」「炙り太刀魚」「海老」「マグロヅケ」等々、どれもすばらしく美味。
 特に活きシャコを茹で立てで供されるシャコの握りは、ふんわりした食感と、甘みの強さが印象的な、のむら独自の鮨。

【シャコ握り】
Syako

 のむらは海老類の鮨は活きたものの茹で立てが最も美味しいという主義で、水槽に海老類を活かしている。そのシャコを近くで眺めさせていただいた。
 シャコはじつは海老とは別種の甲殻類であり、「口脚目」に属する。「口脚目」とは読んで字のごとく、口の周りに脚がある造りの生き物である。

【シャコ】
Wild_shako

 この頭部、なにかに似ていると思ったら、そう「プレデター」そのものであり、じっさいにプレデターのモデルはシャコだそうだ。(私はカニと思っていた)
 でも、全体像はカマキリにもっと似ているなあ。

 そういう豆知識なども店主から教えてもらいながら、楽しく美味しく、のむらの鮨を堪能させていただきました。

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鹿児島おいしい一泊二日(1) 【過酷な鹿児島市】

 鹿児島錦江湾の花火大会は1万発以上の花火を打ち上げる規模の大きいものであり、その花火は最大は2尺玉という、夜空を一挙に明るくする大物も用意されており、見ごたえのある花火大会である。

 鹿児島の真の夏を味わうために、行ってきました鹿児島市。

【鴨池球場前】
Kamoike

 鹿児島駅から降り路面電車を使って鴨池までまずは用事をすませに行く。
 しかしこの時点で、過酷な鹿児島市にダウン寸前になってしまった。
 今年は猛暑であり全国的に暑いのは周知の事実である。宮崎だって当然暑い。しかし鹿児島の暑さって、気温は宮崎とたいして変わらないのだけど、暑さの質が違う。なんといっても太陽光線の力が違う。太陽の光が、暑いとか熱いのでなく、痛いのだ。日の当たるところを歩くと、日の光が身体を突き刺すように感じ、痛てて~と逃げ出したくなる。しかも電車を出たあとの戸外は妙に埃っぽく、空気そのものがザラザラしていて、風が顔に当たると目がゴロゴロしだし、涙が出て来て目が開けられなくなくなってしまう。これは桜島の噴煙のせいに違いないのだが、今見える桜島はたいして煙は出していない。しかし、鹿児島市全面に持続的に撒かれた火山灰が、恒常的に空間を満たしているのだろうなあということは簡単に理解できた。
 夏の鹿児島市は4~5年は通っているはずだが、ここまで過酷な鹿児島市は初めて経験した。私のように夏の一時期だけ訪れる者はまあいいとして、ここで暮らす鹿児島の人は大変だろうなあと思った。今年の夏、鹿児島市は日本で最も過酷な環境の地ではないのだろうか?

【城山観光ホテル テラス】
Mtsakurajima

 鹿児島市宿泊の際は、「サンロイヤルホテル」か「城山観光ホテル」かが、お勧め。
 鹿児島市は、なんといっても桜島という圧倒的存在感を持つビュースポットを持っている。その桜島、海の高さからそのまま山になる迫力ある独立峰桜島を正対して眺めることのできる宿は案外と少ない。でも前2者なら十分にその桜島の雄姿を愉しむことができる。

【城山観光ホテル 山側】
View_2

 とはいえ、城山観光ホテルは部屋は山側と海側に分かれており、山側の部屋では桜島など180度方向にある風景なので、そういう絶景は全く見えない。たとえばサンロイヤルホテルみたいにほとんどの部屋を海側にするようなつくりにすればいいのにとか私は思うのだけど、城山観光ホテルは狭い山に無理やりホテルを造っている構造上、サンロイヤルホテルみたいに薄っぺらい造りには出来なかったのかな。

 今回は残念ながら、海側の部屋はとれず、山側の部屋。
 山側の部屋はこんな眺めであり、…ビジネス客にしか需要はなさそうである。

 (ただし外来客にも利用できる展望風呂は、桜島を真正面から観ることのできる絶品モノである。宿泊客は当然いくらでも利用できるわけで、私も何度も利用させてもらった)

【花火】
Fireworks

 花火は下から見上げるものという主義を持っている私としては、桜島桟橋まで行って花火をみるつもりであったのだが、まず暑いということ、そして灰が満ちていて外では目が痛いということから、あそこまで行く気は起きず(今年の鹿児島市の気象条件は過酷なのです)、目が痛くなったとき屋内に簡単に避難できるホテルから観覧することにした。
 というわけで、テラスに出て花火大会を観覧。

 鹿児島市の夜景の美しさに加え、本日は錦江湾に遊覧船がいくつも浮かんでおり、錦江湾自体が光の海と化しており、全体が幻想的に美しかった。そこに光の洪水のごとき2尺玉の大輪が開き、さらに鹿児島市と錦江湾を明るく照らす。少し遅れて、身体を震わす轟音が響いてくる。
 さすが花火の本場鹿児島。迫力ある花火を楽しめました。

 しばし花火を眺めてその迫力と美しさを満喫したのち、これが今回のメインの目的、鹿児島の夏を味わうべく「鮨匠のむら」へと向かう。

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August 20, 2010

映画:借りぐらしのアリエッティ

 この世の中には小人(コビト)が住んでいて、その小人には2種類がある。
 一つは野生のなかで狩猟生活をやっているもの。もう一つは人間の家のなかで暮らし、人間の使っているものを盗んで生活しているもの。野ネズミと家ネズミみたいなものか。

 人間の家で暮らしているものは、人間に見つかると家を追い出されるか、あるいは自主的に逃げて行くしかないわけで、家の中での生活必需品の狩り(これを「借り」と称している)は繊細な注意と卓越した技術が必要になる。
 映画は、14歳になって初めて家での狩りに出かける少女アリエッティの冒険から本筋が始まる。小人族の家での探検の技術は確かなもので、そのロープワークや登攀技術は一流のクライマー以上のものである。(支点一つで人間換算でワンピッチ100mを超すクライミングが出来るようなやつは、人間界にはまずいない)
 この小人の冒険のシーンで、小人の目から見る家の風景。全てが巨大に映り、日常見慣れたものが、視点が変わることにより、ここまで妖しくも不思議なものに変わるのかと感心するほどの幻想的なシーンで、これはこの映画の最大級の見どころであろう。

 健気に、逞しく生きる小人族に対して、家に住む人間たちは、あんまり好感はもてない。
 妙に大人びて、ひねた考えの主人公の少年は、重い病気を患っているから仕方ないとはいえ、あまりに考えが厭世的。周りで暮らしていた同族がどんどん去っていき、種の絶滅に怯えている小人に対して、「君らは絶滅する種族なんだから」と言い放つ、その傲慢さと無遠慮さは、…少年らしいといえば少年らしいか。
 その主人公を家で療養させている大叔母は、病弱な子供の前でその母親の悪口を言うデリカシーのなさ。
 通いの家政婦は、小人らを見つけると、弱いものいじめとしか思ないような熱意をもって、駆除にやっきとなる。まあ、床の下に住んでいて、家の細々したものを盗んでいるのが、ああいう可愛い小人なので、私らの感覚からすると、家政婦はやり過ぎのような気もするが、その盗人がトカゲとか大ネズミとかの、禍々しいものだったら、私だって駆除に懸命になるよなあ、とかも思った。

 これらの人間との共生をあきらめて、アリエッティらは、新たに見つけた小人の一人とともに新天地を求め去っていく。
 その決意がアリエッティの真の成長であり、本当の物語はそこから始まるのであろう。そして次はもう「借り暮らし」はやめて、新たな仲間とともに自然のなかで暮らすことになるのだろうな。
 アリエッティの種族が絶滅の危機に瀕しているのは、「人間とともに暮らす」ことを選択してしまったからであり、今度のことでそのことはもう十分に悟ったであろうから。

 ………………………………………
 借りぐらしのアリエッティ 公式サイト

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August 18, 2010

その客はビールと鉄火巻きだけで去って行った。(副題:30分ルールについて)

 とある寿司店で、私がのんびりと酒を飲みながら鮨を食っていたところ、中年の女性客が「一人ですけどよろしいですか」と言って入ってきた。
 彼女はビールを一本頼んで、それから鉄火巻きを頼んだ。そして携帯電話を出して、「もしもし、私今寿司屋にいるんだけど、そこ禁煙の店だったのよ。私、タバコなしでは酒飲んでも楽しくないから、30分後に車で迎えに来て」と話し、とりあえずは鉄火をつまみにビールを飲んでいた。しかし30分過ぎても迎えが来ないので、明らかにいらつきながら何回もメールをしていたが、その何回目かのメールでようやく相手がどこかの駐車場に到着したことの確認がとれたみたいで、その後会計を済まして店を出て行った。

 タバコという合法的麻薬の中毒者の悲哀についてはともかくとして、喫煙者は飲食店に入ると、タバコが吸えると脊髄反射的に思っている人が多く、そういう人たちは店に入るとただちにタバコを吸い出す。
 ただ世の中には、禁煙店も少ないながらあるわけで、タバコ・タバコと思いながら店に入ってきたニコチン中毒者が、そこが禁煙店と知ると、ショックを受けるであろうなあとは思う。

 なら、ショックを受けた時点で店を出ればよいとは思うではあるが、…さて、それはマナー的にどこまで許されるのであろうか?

 知らぬ店を訪れるとき、入った瞬間「あ、この店はダメだ」と悟ることはあるし、あるいは席に着いて注文した時に食べたいモノがことごとくネタ切れということもあり、(焼き鳥店でそういうことがままある)、そういうときは、一食を大事にするならば、さっさと店を出て次の店を探すべきなのではあろう。
 ただ、店に入ったと思ったら、一瞥したのちすぐ出てしまう客がいたならば、店の人は不快に思うに決まっているし、失礼な気もする。
 それゆえ気の弱い私は、そういう店でも、ビール一杯と、なにか肴を一品くらい頼むわけであるが、…最初の「この店はダメだ」との判断が間違っていたことはいまだ経験してない。
 そのビールとつまみを片づける時間がたしかにだいたいは30分である。ずいぶんと無駄な時間の使い方であるが、いちおう社会儀礼というものか。

 30分ルールというものが、私以外にも存在していることを知って、少しうれしくなった。

 あ、でも店に入ったとき、タバコの煙がもうもうと立ち込めている店は、その時点で有無を言わさず私は出ていきます。
 あれだけは耐えられない。

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August 17, 2010

読書:びっくり館の殺人 (著)綾辻行人

 綾辻行人氏の館シリーズは全部で10作を予定しているそうで、これは8番目のもの。
 彼が建てた館では必ず怪しい事件が起きると称される建築家により建築された「びっくり館」で、やはり起きた怪しくも哀しい殺人事件。

 奇怪な館に住んでいると、住人にも奇怪な感情が芽生え、そして静かに狂っていく、というわけでもないのだろうが、氏の「館シリーズ」はたいていそういうパターンで話が進む。今回も同様に、傍目からも狂気にとらわれたとしか思えぬ人物の、何故そういうことをやったのか、何故そうなってしまったのか、ということが、語り手の成長とともに謎が解かれて行く構造。

 この作は、しかしホラーものの風味が強く、物語の最後は、真の犯人が誰であったかを、オカルト的に解決している。
 なにをどう書いてもネタバレにしかならないからこれ以上は書かないけど、ミステリとホラーの融合がうまくできている作品だと思った。


 私は館シリーズの愛読者であり、20年以上前から、処女作である「十角館の殺人」より順次読んでいたが、前作の「暗黒館」ばかりは前巻の半分くらい読んだところで、どうしようもない駄作だと勝手に判断し、それ以上読むのをあきらめた。
 それゆえ、その次の作品「びっくり館の殺人」は、こちらとしても、おっかなびっくり状態で読んでいたのだが、普通に面白かったので安心した。

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 びっくり館の殺人

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August 16, 2010

居酒屋:四季食彩くらや@延岡

 宮崎は全国有数の鶏肉の産生量を誇る県であり、そして地鶏料理で有名なことから、地鶏もさぞかし多く育てているように思われがちだが、そうでもない。
 ホンモノの地鶏の生産は、全鶏肉のうち0.5%に満たない数字であり、「地鶏」が出てくる料理屋はじつは数少ない。宮崎で「地鶏」と称して出てくる地鶏料理はたいていは「ブロイラーの黒焼き」であり、ま、あれはあれで趣があって美味かったりもするが、ホンモノの地鶏料理とは、かなり方向性の違う料理である。

 宮崎の地鶏は「みやざき地頭鶏」が一番有名であるが、ほかにも地頭鶏同様の美味さを誇る地鶏があって、その一つが美郷町宇納間地方で育てられている「うなま山地鶏」。
 ほどよい弾力の肉に、ぎっしりと凝集されたような鶏の味がつまっており、噛めば、鶏自体の濃厚な美味さを愉しめる、そういう美味い鶏である。

【うなま山地鶏焼き】
Unama

 延岡市では「四季食彩くらや」がこのうなま山地鶏を出しており、延岡での美味い地鶏料理屋をきかれたときは、この店を私はまず勧めている。
 「くらや」は、うなま山地鶏を使っていることから分かるように、素材にこだわりのある店であり、魚も県北近海のものをよく仕入れており、旬の美味い魚をいつ行っても味わうことができる。

【鱧焼霜造り】
Hamo

 関西の料理と思われがちな鱧であるが、鱧は九州でよく獲れる魚であり、日向湾でも泳いでいる。
 その鱧料理。鱧は調理が面倒な魚であるが、なかなかきっちりとした骨切りであり、食感もよろしい。

 料理は美味く、酒の品揃えも豊富であり、いい居酒屋である。

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 四季食彩くらや:延岡市中央通2-2-3

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August 15, 2010

読書:ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い(著)小野田寛郎

 日本の戦没者追悼施設は靖国神社であるけれど、政治的なからみがあって、政府高官、外国の要人が参拝しにくいようになっている。
 そのために、10年ほど前に新たな戦没者慰霊施設を作ろうとした運動があった。
 それに対して、当時小野田寛郎氏が文芸春秋誌に思いを寄稿し、それはたいへん印象深いものであった。
 
 小野田寛郎氏は 陸軍少尉としてフィリピンで遊撃作戦の指導に従事していた軍人である。氏は終戦後も投降せずに戦争を続けていた。そのため軍では行方を把握できずに、氏は戦死と判断され、靖国神社に英霊として祀られた。しかしその後氏はルバング島に生存しており、しかもまだ帝国軍人として戦争を続けていることが分った。日本政府は元の直属上司に氏への任務解除令を出すことを命じ、その結果小野田氏は戦争を止め、フィリピン基地に武装解除して投降した。フィリピン政府は小野田氏に恩赦を与え、日本に帰国。当然、靖国神社への合祀は取り下げられることになった。
 このように小野田氏は生きたまま靖国神社に英霊として祀られていた数奇な経験の持ち主である。小野田氏はその経験から、自分はもの言えず靖国に祀られている英霊たちの代弁者となる資格を持っていいであろうと言い、以下のようなことを述べられた。

 自分達は靖国で会おうと約束しあい、あの戦争を戦った。いずれ靖国で会えると思っていたからこそ、国に命を捧げ、身を賭してまで戦った。そして戦いのなかで多くの若い命が散っていった。
 英霊たちは靖国にいる。しかし今、国は靖国と違う慰霊施設をつくろうと言う。それは自分たちへの裏切りである。そんなことが許されるわけはない。国は戦争に負けて良心さえ失ってしまったのか。

 戦争のなんたるかも英霊のなんたるかも知らず、軽薄な論議を重ねる政治家へ対しての、強く迫力ある弾劾であり、読んでいて心打たれるものがあった。

 小野田氏は機会あるごと、英霊への思いを語られている。
 紹介する本書では、文芸春秋での憤りのトーンは抑えられ、若くして散った英霊たちへの、慰霊する施設の必要性を述べてられている。

 すなわち戦争に行ったものたちの多くは若者であり、そしてまだ結婚もしていない者が多かった。彼らは子供を持つこともなく、戦場で亡くなってしまった。彼個人に対しては、しばらくは親が供養し慰霊するであろう。しかし親が亡くなったあとは、やがては供養する人もいなくなる。
 そのとき、国が彼を供養せずに、誰が供養するというのか。
 国のために命を捧げた者を、そのまま放っておくようなことをしてよいわけがない。靖国は英霊たちへの鎮魂の場であるとともに、若くして逝ってしまった者たちへの供養のためにも、大事な存在なのである。
 このようなことを、落ち着いた口調で語る。

 小野田氏の説得力あふれる靖国への思いに、私ごときがなにをつけくわえることもない。
 ただ、戦争を知らない世代の私でさえ、国を愛し、国のために散った人に対して、国は、そして国民は、敬意を払い、安寧を願い慰霊するのはあまりに当たり前のことに思える。


 哀しいことに、真の軍人であり、真の日本人である小野田氏は、帰国したのち、命をかけてまで守ろうとした日本という国を、一度は捨てている。
 しかし小野田氏は、日本のために自分がまだやれることがあることを自覚し、今は日本のためにいろいろと講演や対談などの仕事をしてくれている。

 平成22年8月15日、靖国参拝についてまた民主党の政治家がいろいろとやらかしている。
 小野田氏の復帰というのも、彼らのような不健康であり不実である存在に対しての抗議の面もあったであろう。
 小野田氏のごとき健全な精神が確固として日本に在るときは、彼らをただの愚か者と嘲笑しておればいいのだろうけど、これからも彼らの愚蒙ぶりを嘲笑し、監視し、暴走を阻止するのは、私たちの日本人としてのこれからの大事な務めである。

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 ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い

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August 14, 2010

北川花火大会

 北川町で花火大会をやっているので、行ってみる。
 延岡から15kmほどで、自転車で行くのにちょうどよいくらいの距離。
 しかし、日が暮れてから自転車をこいでいるというのに、暑さに参った。坂のたいしてあるコースでないのに、身体には熱がこもり、汗だらけになる。
 昨年はこんなに暑かった記憶はなく、やはり今年の夏は猛暑だ。

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 北川は山間の町。
 花火の数は1000発と少なめであるが、それでもフィナーレに向けての花火は、なかには一尺玉も含まれているかと思えるほど、大きな、迫力のあるもの。
 花火の打ち上げとともに、巨大な一瞬の明かりに照らされて、山の稜線が影絵にように浮かびあがり、それはきれいなものであった。

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スパイは踊る教壇の上

 前エントリーの題「スパイは踊る国会の中」は、「スパイは踊る教壇の上」という言葉のもじりなのであるが、その大元の言葉を知っている者などほとんどいないであろうから、その言葉をweb上に残すためにも、解説を加えることにする。

 私の父は旧制福岡中学(現福岡高校)の卒業生である。父の中学時代は、もろに大東亜戦争のさなかだったわけで、学生時代はろくに授業もなく、本業は学徒勤労動員とばかりに、蓆田飛行場(現福岡空港)の建設工事にもっぱら従事する、という学生時代を送っていた。
 父は酔っぱらうと、「今の福岡空港はおれたちが造ったんだぞう」とか、「大戦末期には、『震電』が空港にやってきた。B-29を撃墜できるすごい飛行機を、おれはナマで見たんだ」とか自慢していた。空港造設はべつだんうらやましくもないが、あの伝説の前尾翼戦闘機『震電』をナマで見られたのはうらやましい。もしかして震電が飛んだ姿も見たのでは、と尋ねたがそれについては言葉を濁していたので、震電が飛んだ姿は見ていないようだ。
 父の世代は、まさに激動の時代を生き抜いてきたわけで、聞けばもっといろいろと面白い話を得られたはずだが、なんとはなしに機会がなく、今にいたる。

 それでもいくつかは印象に残る福岡中学時代の思い出を私に語っていたわけであり、そのなかの一つが「スパイは踊る教壇の上」。

 学徒勤労動員ばかりに時間がさかれていた父の学生時代であるが、それでも授業はある。そのなかで授業科目で差別をくらっていたのが英語の授業。対米戦争を行っていた時代、英語は敵性言語として、教えるべきものでないと授業科目から外すなり減らすように当局から要請されていた。
 …愚かとしかいいようのない行為ではあった。敵を倒すには、敵を学ぶのが大事であり、ならば敵の言語を学ぶのはまず第一に優先される行為である。じっさいに大戦の際にアメリカは各大学に日本語学科をつくり、日本語の専門家を大量に養成している。この時点で日本の敗北は決まったようなものだ。

 当局の方針がそうならば、学生も学ぶ意欲も失ってしまう。
 それに憤慨したのが福岡中学の一英語教師。
 「戦争の相手国の英語を学ばないような国は、戦争にぜったいに負ける」と、生徒に対して教壇上から強調しながら、英語を学ぶことの大切さを教え、そして英語の授業を行っていた。
 愛国者の集団である生徒たちは、その教師について、あれはアメリカの味方だ、アメリカのスパイだと言い、「スパイは踊る教壇の上」と嘲笑していた。

 父も同様に、その教師をスパイと囃したてていたわけだが、結局予言通りに大日本帝国は負けてしまった。
 そして福岡中学では、「鬼畜米英、神国日本は絶対に負けぬ、一億総特攻」などと熱弁をふるっていた教師たちは、敗戦とともにコロっと態度を変え、日本は神国ではありませんでした、これからは民主主義で行きましょうとか言って前言を翻し、職務を続けていった。
 しかしその英語教師は、自分の教育では日本の誤った道筋を変えることはできなかったと反省し、その責任をとって敗戦後福岡中学を去った。

 スパイどころではない。まさに真の愛国者であり、真の教育者であり、真の男である。父も己のいたらなさを反省していた。

 この話を聞いて、私としては、戦中は言論圧迫の時代というがそれなりに言論の自由ってあったんだなあとか、敵性言語といいながら英語の授業は維持されていたんだなあとか、「暗黒の時代」として伝わるあの時代にも、それなりの自由があったなんだなとかの感想を持ったが、…それとともに、周囲の圧倒的な雰囲気に流されず、強度な知性と確固たる信念を維持していた人間が、確実に存在したという事実に感銘を受けた。

 その英語教師について、ちょいとwebを調べたが、まったく載っていない。
 父の持っていた福岡中学の同窓誌に、当時の思い出が載っていて、生徒の「スパイと罵ってごめんなさい。先生が正しかったのです」てな手記があったのを私は記憶している。
 親元にその小冊子を取りに行くのも面倒なので、より詳しいことは今は書けないが、いつかはまた詳細な、その真の愛国者の話を書いてみたいと思う。


 ……………………………


【話の流れとしては少し違うが、せっかくなので『震電』を紹介】

Shinden

 プロペラを後方に置くことにより推進力が増し、また機首に大型機関銃を搭載することが可能になる。構想ではB-29に容易に追いつくことができ、強力な攻撃を行うことが出来るはずであったが、実戦配備される前に敗戦を迎えてしまった。

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August 13, 2010

スパイは踊る国会の中

 世界最古の職業の一つとされるスパイとは、卑劣な職業でもある。
 彼らは自分の正体を明かすことなく、周囲を欺きながら、敵の秘密を探り、敵の思考を撹乱させることを仕事としている。自らの職業を表に出せない職業は、詐欺師、泥棒、殺し屋等々、だいたいろくでもない職業と決まっており、スパイも当然そのたぐいである。しかしこういう職業につく人には、それなりに理解できる理由はある。

 スパイもいろいろな種類があり、一つは産業スパイ。企業から情報を盗み、敵方の企業に情報を渡す産業スパイは、成功すれば高額な報酬が得られることより、金銭目的として選ぶに足る職業ではある。
 スパイの代表的なものは、007なんかでも有名な政治スパイ。相手国の機密を探り、大物スパイになると首脳部の意見に影響を与え、国策をも変更させてしまう。
 この政治スパイは、多くは公務員であり報酬は少ない。しかも非合法的行為を行っているので(スパイ行為はどの国でも違法である)、常に逮捕,懲役の可能性があり、報われること少なき職業に思える。このハイリスクローリターンの仕事に従事する人のモチベーションは、だいたいは愛国心であり、法を犯し危険を冒しても、自国の役に立ちたいという奉仕心から、スパイを行っている。

 ただ、例えばロシア人がアメリカに行って、ロシアの役に立つスパイ行為を行うとかは理解はしやすい。しかしアメリカ人がロシアのためにアメリカでスパイ行為を行うということも稀ならずあり、この場合は愛国心の発露の具合が理解しにくい。彼らは人によってはロシアのためにスパイ行為を行ったと言うし、人によってはいやいやじつはアメリカのためにスパイ行為を行ったのですとか主張する。どちらにせよ、自国の機密を敵国に売る行為は、売国奴と罵られても仕方なく、こういう「自国を売るスパイ」は、あんまり感心しない職業であるスパイのなかでも、最も下劣な部類に思える。
 とりあえず、世の中にはそういうスパイが現存している。


 先日、わが国首相の菅直人が日韓併合に対しての談話を発表した。
 「大韓帝国併合を反省して謝罪する。ついでに日本で保管している韓国の文化財も返還する」とのことである。
 これには対韓外交における基幹、日韓基本条約を覆しかねないことが述べられており、戦後連綿と続いてきた外交政策を変更しかねない内容を含んでいる。一国への外交を変化させるには、広く国民の意見を聞き、選良である議員を集めての閣議討論を行うべきものであるが、首相はそういうことはせずに、一方的にその談話を作成し、世界に発表した。
 そういう過程で作成された「談話」は、菅直人の「私は日韓併合に関してこう思います」という感想文に過ぎず、そして感想文を書くのはたしかに個人の自由ではあるが、そういうものを首相という立場で公開すると、政治的な公約に近くなってしまう。
 首相は公儀の意見を聞かず一方的に謝罪したけれど、謝罪とは賠償が必須のセットなのは世界の常識である。謝るだけで事が済むなら、だれでも簡単に謝るわい。

 そして、その賠償については日韓基本条約で決定済みとなっている。
 日韓基本条約は韓国国民によく知られておらず、それで韓国には常に日本に賠償を要求する動きがある。そのことについては、日本も、そしてじつは韓国政府もうんざりとしている。それで真の日韓友好確立のために、日韓基本条約を再確認して、日本は韓国に賠償する必要はまったくありませんと日韓政府が公式に同意したのは、つい先ほどの政権交代前の麻生政権の時なのである。
 これに、相当に菅直人は腹を立てていたらしい。それで自分が首相になったとたん、ちゃぶ台をひっくり返すようにして、日本には賠償の用意がありますってな談話を発表した。

 首相の大事な仕事はなんであろうか?
 普通はなによりも国益を守ることである。国益を守るためには、国のリーダーは鬼にも悪魔にもなっていい、そういう存在であり、そういうリーダーこそ国民は支持をする。
 それなのに、菅首相は韓国側には天使になり、我が国には悪魔のようになり、まさに国を売るような行為を行っている。
 あり得ないことである。
 こういうあり得ないことを、なぜ菅首相は良心に恥じず堂々とやっているのか?

 答は一つしかない。
 菅直人はスパイなのである。
 彼がスパイだとすれば、すべての謎は氷解する。
 スパイならば、国を売るような行為こそが仕事なのであり、売国奴と罵られることはかえって名誉になるであろう。そして当然その売国行為を恥じることなく、堂々とやれるわけである。

 思えば、我が国を内から滅ぼすようなことにばかり熱を上げるスパイの先輩として、村山元首相とか、河野洋平氏のような人物がすでに居て、彼らは党のトップも務めた重要人物であった。菅首相も、その流れの一員なのであろう。
 どうやら、世界のどこか、韓国か中国かロシアか、あるいは日本かは知らないけど、対日攻撃を行う政治家のスパイを養成する機関があるらしい。その機関はかなり優秀であり、そのスパイを首相にまで育てることに2回成功している。今の官房長官もスパイっぽいが、彼が次の首相になれば、3回も成功というわけか。

 今の国会は、スパイが首相となって活躍している、なんとも珍妙なところである。
 国会中継をみるとき、我々国民は「スパイは踊る国会の中」とでもつぶやきながら、彼のあるいは彼らの売国劇、亡国劇を、あきれつつ眺めるしかないのか。
 …次期衆院選まではまだまだ長い。


【おまけ:映画「ソルト」より】
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August 12, 2010

映画:ソルト

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 CIAのエージェントである主人公イヴリン・ソルトが、出頭してきたロシア人スパイに尋問を行う。ロシアスパイは語る。「自分は重要な情報を持ってきた。アメリカに潜入しているロシアスパイがロシア大統領を暗殺しようとしている。それを阻止してほしい。そのスパイの名前はイヴリン・ソルトだ」
 予告編で流されるこのシーン、非常に緊迫感があり、これからの波瀾のドラマの幕開けを告げる、いいシーンだとは思うのだけど…

 この後ソルトはCIAから軟禁されるが、そこを強引に脱出して、どう考えても名指しされた二重スパイ以外のなにものでもない活動を始める。
 ソルトは肉体的にも精神的にもたいへん強く、どんな高度から落ちても、銃で撃たれても、ほとんどダメージを受けることなく、ミッションを阻止しようとする人をばったばったと倒していき、まさに無敵である。このソルトの現実離れした、ファンタスティックともいえる強さは、ただソルトを演じているのがアンジェリーナ・ジョリーということでのみ説得力を持つ、そういう映画である。

 いつもながら、アンジェリーナ・ジョリーの映画って、アンジー姉御の強さ、逞しさをまずは楽しむべきものなのだろうなあ。

 ソルトはあらゆる苦難を乗り越え、二重スパイとしての任務を爆走して続けているようにみえるが、その行動にはいろいろな裏のからみがあり、そして意外な人物が最後のほうで正体を現したりと、映画の筋はなかなか複雑で、ドンデン返しもあり、それなりによく出来ている。

 ただし予告編で使われた、作中最も魅力的である冒頭の「イブリン・ソルト、お前がスパイだ」のシーン、あそこの意味だけがついに私には理解できなかった。ソルトを二重スパイと告発することは、ロシア人スパイからしても、ソルトからしても、そして後に正体を明かす謎の人物からしても、彼らが達成しようとしているミッションにおいて無駄であるし、阻害因子でしかありえない。

 有能なエージェント・ソルトが難局にはまってしまった重要なシーンが、ほとんど意味のないシーンとしか思えないように作っているのは、この映画の脚本の重大な欠陥であろう。

 ただ、誰が考えても欠陥であるこのシーンがカットされることなく残り、かつ大々と予告編に使われているというのは、この映画の最大のミステリである。
 そのミステリの解答はといえば、…このスパイ告発のシーンをまず脚本家が考え、それを画にすると大変魅力的であった。それを核として、ソルトのキャラや、物語をつくり上げて、映画全体をつくっていったが、ついにスパイ告発のシーンの納得できる理由を後付けすることができずに映画が完成してしまった、というところか。

 冒頭に魅力的な謎を提示して、しかし解決編になると腰砕けになるミステリ小説はいくらでもあるが、この映画もそのたぐいの部類であったのは残念である。
 まあ、全体としては面白かったんだけど。
 2作目ができたら、たぶん観にいくし。

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 ソルト 公式サイト


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August 11, 2010

読書:死刑絶対肯定論 (著) 美濃大和

 死刑の絶対的必要性を、塀の中の無期懲役囚が説く一種の奇書。
 著者は最も刑罰の重い囚人が服役する刑務所に長く住んでいることから、数多くの無期懲役囚,死刑囚と接しており、持ち前の好奇心から、彼らへの獄中インタビュー(みたいなもの)を行っている。その結果から、著者はこういった罪を犯す者たちに対して、その悪しき人間性に絶望している。

 無期懲役囚たちは、まず間違いなく人を殺しているわけだが、その行為に対してほとんどの者はまったく反省をしていない。どころか、盗みにいってそれを阻止しようとした者を殺した場合など、そいつのせいで自分は人殺しになってしまったと逆恨みをするしまつ。彼らの考えていることは、早くシャバに出ること、シャバに出て楽な生活をすることであり、被害者に対しての贖罪感など、つゆほどもない。

 刑務所という施設は今の日本では、犯罪者の矯正には全く役に立っていない。どころか、少しはまともな人達も、朱に交われば赤くなるとの諺通りに、極悪人どもに囲まれて暮らしているあいだに、同様の悪者になってしまう。
 だから、彼らは仮釈放されたのち、多くの者はまた犯罪を犯してしまう。

 塀の外で理想論をただ語っている人権派の人々の言葉と違い、ナマの現場を知り尽くしている著者の言葉は、じつに説得力がある。

 著者が、しかし、それらの犯罪者のなかで、数は少ないけど、真に自分の犯罪を悔い反省をしている部類の者がいると言う。彼らの多くは、死刑囚である。
 死刑囚というのはいつ絞首台に登るか分からなく、常に自分の死を考えておかないといけない。強制的に与えられる死は怖く、残酷である。その死の正体を知ったとき、彼らは初めて自分が他人に死を強いたことが、いかに非道なことであったかを思い知るそうだ。

 人々は犯罪者を裁いたとき、刑罰を科すことにより、彼らが反省と贖罪をすることを望む。それこそが、人が人を裁く「刑罰」の真の存在意義であろう。
 しかしながら、現実は著者の言うごとく、ほとんどの者は反省などしない。
 犯罪者が本当に反省と贖罪をし、すなわち人間に戻るためには、「死刑」が絶対的に必要である。死刑は世のためであり、そして犯罪者自身のためでもある。著者は死刑の存在意義を熱く説く。

 死刑廃止論はいつもあるのだが、著者のこの説得力のある主張を論破できるような意見は、まあ存在しえないであろう。

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 死刑絶対肯定論

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August 10, 2010

映画:インセプション

 予告篇を観たときは、人のみる夢のなかに勝手に入って、夢をいじることによって、その人の人格,思考に影響を与える話なのだと思っていたが、そうではなかった。

 この映画での夢は、仮想現実としての世界であり、例えば雪山でも、異国でも、異次元の世界でもよく、なんでもありの世界である。
 主人公たちは、その夢の世界を利用して仕事を行い報酬を得るプロなのだが、その仕事にはいろいろな技が必要になる。

 (1)夢を利用するために、主人公たちは特殊な訓練・教育を受けている。それによって、自分の意思で自分が望む夢をみることができる。その夢により、仕事に都合のよい世界を自在に構築できる。
 (2)夢を個人が自由にみられるだけでは話は先に進まない。映画では、複数の人々をコードでつなぐことによって、ある人が造り上げた夢の世界に、そのコードにつなげられた人たちが強引に入ることになり、その夢のなかで全員が活動するようになる。そういうことを可能にする機械が存在している。
 (3)夢のなかで活動している人々は、元の人間の潜在意識が反映しているため、その人々に何らかの働きかけをすることにより、記憶を盗んだり、あるいは感情を植えつけたりすることができる。
 (4)夢のなかにみんなが入ったのち、そこから脱出するには、夢をみている人が目を覚ますか、あるいは登場人物が死ぬことが必要になる。

  これらのルールを映像、会話で解説しながら話は進むのであるが、なにしろテンポの速い映画なので、頭がそのルールについていくのがけっこう大変。

 映画最初のほうでドンパチ騒ぎになるサイトーの夢は2層構造なので理解はまだしやすいが、本番ミッションの夢のほうは4層構造になっており、どれが誰の夢やら、頭がこんがらがりそうになる。せめて画面の端っこにでも、各場面でこれは誰の夢か小さく字幕をつけていればまだ分かりやすかったが、それだと映像的に問題ありか。(その場面で一番活発に動いている者が、「夢をみている人」なんだけど、雪山のシーンはみんな活動しているので分かりにくい)

 物語は感情の植えつけ(=インセプション)を主題に進むわけだが、本当の主筋は「家庭物語」である。
 インセプションのターゲットにされた「巨大企業の創業者である親に疎んじられる、出来の悪い二代目息子」は、冒険のはてに、偽りにせよ(私個人的には偽りではないと思うが)、親子の和解を得ることができる。
 もう一つの本筋は、主人公の家族の愛憎の物語であり、これは…まあ悲惨なようであり、悲惨でないようでもあり。本当に悲惨かどうかは、観る人が判断するしかない。そういうふうにつくられている。

 筋とともに、映画の見どころは、夢の表現。
 夢とはそれを見ている人の精神を投影するものであり、この映画で各人がつくっている夢の風景が、彼らの精神を映像化しているところが面白い。
 映画の重要人物であるサイトーは、経済的に政治的にもたいへんな大物なのであり、第2国家的存在の支配者と想像されるが、彼が見る夢では彼の居城は、なんともしょぼい中華レストラン風建物であり、こういう粗末な建物に何十年もわが魂を閉じ込めていたとなると、彼の栄華の日々の裏にあった心の絶望を感じざるをえず、それだけでも一つの物語をつくってもらいたくなる。
 主人公夫婦の夢では、50年ものあいだリンボ(辺土)の地で、誰も住まぬ高層ビルを数えきれぬほど建てていて、その空疎で空虚なる広大な街は、仮想現実にのめりこんでいってしまった主人公の妻の、荒廃していった精神を如実に示している。果てしなく広がるリンボの地の、これも果てしなく広がる高層マンション群は、奇妙な美しさがあり、その美しさがかえって彼女の精神の荒廃の深さを知らせ、なんとも悲愴な迫力を感じさせる。

 物語の世界の、複雑であるがそれなりに納得できる設定、話の筋の面白さと、「夢」の見事な映像化、どれも高水準であり、「インセプション」は今年の映画のなかではたぶんトップクラスの評判を得られると思う。

 デカプリオは、いつものことながら、出演する映画を選ぶのがうまいなあ。

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 インセプション 公式サイト

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August 08, 2010

延岡の花火

 口蹄疫による宮崎非常事態宣言のあおりで、開催が危ぶまれていた延岡市の花火大会が無事に開かれることになったのだが、…どうにも天気が微妙なことになっている。日本は全国的に高気圧におおわれているのに、よりによって宮崎のみに厚い雲がどんどん押し寄せてくるというろくでもない天気図。

 朝・昼と散発的に雨が降るなか、花火の上がる8時頃には雲が切れそうな感じとなってきて、とりあえずは開催されるとの報が伝わる。
 ただ雨のせいで打ち上げ場所の河原の足場が相当悪くなっていて、それを大会関係者が懸命に修復しているうちに、時間はどんどん過ぎて行った。
 ようやく30分遅れで、花火大会が開始。
 花火は次々に打ち上げられ、壮大な花を開き、延岡市の夜を華麗にいろどる。
 そして最後のクライマックスに向けて打ち上げを加速していくうち、…パラパラと小雨が降ってきた。様子をうかがうように、花火の打ち上げが小休止となるうち、雨はいきなり土砂降りと化す。とても天候の回復の気配はみえず、やむなく花火大会は中止となってしまった。

 花火というのは、雨が天敵だからなあ。
 去年の北浦の花火大会は終わると同時に雨が降るというギリギリのタイミングであったが、今年の延岡の花火は、残念ながら天は味方せず。
 ま、半分だけでも観られてよかったとするか。

 口蹄疫のせいで開催の準備は慌ただしいものになっただろうし、当日の天候は不順であって、大会関係者の方々はたいへんだったと思う。
 本当に御苦労さまでした。

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August 07, 2010

喜泉→Bar麦家

 夏になったので鱧の椀物が食いたくなり、喜泉へと。
 喜泉は一月ほど前に場所を変えており、より繁華街側へと移動していた。

【鱧椀】
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 鱧に蓴菜までは定番として、あと一品が店主の考えどころ。
 今回のあと一品は、宮崎名物の佐土原茄子であり、これがずいぶんと味の濃厚な茄子である。澄んだ出汁に、茄子が暴れるような、味の元気の良さが特徴的。そして鱧の骨切りも、たしかな技術を楽しめる。

【鰹のヅケ】
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 これがまた新鮮な食味の料理であった。
 鰹は手当のよさとヅケの効き具合で、つるつる滑らかな食感であり、ずいぶんと上品な味に仕上がっている。言われなければ、鰹と気付かないような料理だ。

 造り、珍味、焼き物もそれぞれたいへんよろしく、やはり喜泉の和食は美味い。


 さて、喜泉ではけっこうな量を飲んだわけだが、喜泉は場所が変更したことにより、飲み街のなかになっている。すると目の前にBar麦家があるわけで、ついつい寄ってみた。
 たぶん、と思って店の人に聞いたら、やはり喜泉が移動してから、喜泉での食後に寄る客が増えたとのこと。

 喜泉では珍味として「フグの卵巣糠漬」が出た。酒によく合う肴であるが、あまりに酒に合いすぎて飲み過ぎてしまいそうになったので、一切れ残して土産にしてもらった。これをアテにと赤ワインを頼んだのであるが、マダムはけげんな顔。「ぜったいに合わないと思いますよ」と言うけど、とりあえずは試してみます。

 …なんというか、たしかに絶望的に合わなかった。
 フグの卵巣糠漬は断念し、マダムの手作りのツマミで、ふつうに美味しく赤ワインを飲みました。

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August 06, 2010

核廃絶をアメリカが言いだしているわけだが

 1945年8月6日広島に原爆が落とされた。
 アメリカが原爆を使用した理由は、「対日戦争を早く終わらせたかった」の一言に尽きる。これほどの破壊力を持つ兵器を使用されては、敵国は戦意を消失するに決まっているし、じっさいに大日本帝国は原爆投下後しばらくして降伏をした。

 原爆は外交交渉の手段としてじつに効果的ではあったわけだが、しかしその使用法は最悪であった。
 兵器というものは戦場で使うものである。国際法上もそう決まっている。広島は軍都ではあったが、戦場ではない。一般市民が住民の大多数を占めており、彼らが普通の生活を行っている場であった。

 アメリカは原爆を投下する前に、先行してB-29を気象観測目的も兼ねて広島上空を飛行させている。その飛来により広島市民は爆撃を恐れて避難したわけだが、先行機は爆弾を落とすことなく通り過ぎた。そのため次の原爆を積んだB-29が飛来したとき、市民は用心を解いてしまい避難することを怠った。
 爆弾を使用するさい、市民が家のなか、あるいは防空壕に退避されていては、殺傷者の数が減ってしまう。より多くの数の市民を殺戮するために、B-29は見事なコンビネーションを組んで行動してそれに成功し、広島市民14万人が殺された。

 アメリカは東京大空襲の時も、焼夷弾を爆撃目的地の周囲から円状に落として、市民の逃げ場を無くしてから東京を焼きつくすという、冷徹で冷酷な手法を用いて、10万人を超える市民を殺戮している。
 アメリカ人というのは、いかにして人を多く殺すかということについて、ずいぶんと知恵を使い、そのろくでもない知恵をきちんと実行する民族なのである。

 広島原爆投下で日本の首脳部は十二分に震撼したのだが、それに飽き足らずに、アメリカは長崎へも原爆を投下した。ずいぶんと執拗で、念の入った行為である。
 これらの破壊と殺戮行為の果てに、ついに大日本帝国は降伏をした。

 アメリカが終戦のために行った原爆投下という行為は、その実際からすれば、民間人大虐殺以外のなにものでもない。立派な国際法違反であり、もし命令者が裁判にかけられたのなら、極刑は必至というものだ。
 極東裁判でも、被告となった日本の軍人たちは、何人も同じ主張をしているが、戦勝国にはなにを言っても通じず、この20世紀最大級の戦争犯罪はついに裁かれることなく、葬り去られた。

 しかしこのようなことをやっては絶対に将来に禍根を残す。
 その行為が非道であればあるほど、人は、あるいは国家は、その行為がいつか我が身に帰ってくることを覚悟しておかねばならない。


 21世紀劈頭の「同時多発テロ」は、アメリカという国家の「終わりの始まり」であったと後の歴史書に記されるに違いない大事件である。
 そしてあのツインタワーが業火に包まれるシーンをTVで見ていて、不謹慎ながら「ああ、あれこそ日本がやるべきものだったのに…」と思ったのは、私だけではないはず。アメリカが日本にやらかした残忍な行為を考えれば、あのテロをやる資格は日本には十分すぎるほどあったから。

 「同時多発テロ」以後、当時のブッシュ大統領は逆上し、常軌を失ったような戦争行為を繰り返すわけだが、それはそれで仕方なかった。

 同時多発テロでアメリカが思い知ったことは、アメリカを心底憎んでいる組織があること、および大がかりなテロを実行できる経済力と人材を持つ組織が実在すること、である。
 そして、そのテロ組織が本格的に破壊行為を行おうと決意したとき、彼らが戦術核を使っても全くおかしくはない。核は現在の社会ではそれほど入手困難なものではないから。同時多発テロで核が使われなかったのは、ある意味幸運であった。
 ならばアメリカは先回りして、核攻撃を避けるべく必死の努力をせねばならない。為政者のリーダーならば必ずそのことは思うし、思わねばリーダーとして失格である。

 それゆえ、ブッシュ前大統領はアメリカの総力をかけて、アフガン、イラクに先制攻撃をかけて、国を滅ぼした。ただし、これらの行為はテロ攻撃を受けて、アメリカの頭に血がのぼったときに行われた行為であり、計画性には乏しかった。核はなかったし、それにアメリカの戦闘行為は、かえって敵を増やしてしまった。

 同時多発テロから10年が過ぎ、大統領もオバマ氏に代わって、アメリカも落ち着きを取り戻しては来たようである。
 現在の、核開発国に対して、脅迫し、攻撃をするという、あまり効果的ではなかった核抑制法に変えて、オバマ大統領は自国を含めての核削減から核廃絶へ到る方法を主張しだした。
 それもこれも、自国の頭上に核が降ってくることを避けることが目的である。

 兵器は使われることを欲する。
 核兵器も、21世紀のいつか使われることになるであろう。
 そして核が落とされるとして、どの国に落とされることになるであろうか?
 核兵器は通常兵器と異なり、その使用が、政治的、社会的に極めて強い影響を与えることから、使用された場合は、歴史が変わってしまう。
 そのような、歴史を変える力を持つ核兵器が落とされるなら、目的地はやはりアメリカしかない。

 21世紀のいつか、核はアメリカの上に落ちることになる。
 そのとき、アメリカという国家は滅びないにしても、20世紀なかばから続いてきた「アメリカの世紀」は確実に終焉をとげることになるであろう。

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August 05, 2010

無量塔オーナー 藤林晃司氏の逝去を悼む

 私は一時期旅館めぐりに凝っていたことがあり、日本全国の有名な旅館を訪ね歩いた経験がある。それぞれの旅館には、さすがに名前が響くだけある、独自の良さと特徴があり、いろいろと「旅館の文化」というものを学ばせていただいた。

 そしてそれらの旅館を訪ね歩くうち、自分の本当に求めている宿とは、「自分の人生の傍らに常にその旅館があってほしい。人生の節目のときに必ず訪れて、自分とともに、旅館も成長してく、そういう宿」というのが分かってきた。
 旅館はただの泊まる場所ではない。泊まる人と同じように、年月とともに、人の思いに応えて、姿を変えていく、そういう生きているものである。


 「無量塔」はけっこう付き合いの長い旅館であり、中年になってからの私の傍らにある旅館である。
 惜しむらくは最初に訪れた段階で、無量塔は圧倒的な完成度と存在感を示しており、私よりはるかに成長・成熟している宿であった。この成熟度に追いつくには私はまだまだ歳を取らないといけないようだが、とはいえ、それはそれで私のいい目標とはなり、これからもつきあっていきたい宿である。

 「無量塔」の魅力は、なによりも濃密で重たい、「空間」と「時間」の演出である。この宿に泊まった人は、誰しもそこに日常とは異なる空間が存在し、密度の濃い時間が流れていることを感じる。
 この特殊な「空間」「時間」を演出するために、オーナーは懸命に考えに考え抜き、独自の感性を磨きあげたのち、宿は見事なレベルで完成した。

 宿の「形」が出来たのちも、オーナーはそれに魂を吹き込むべく、常に陣頭指揮を取って従業員を動かして、宿をより高次の存在にすべく努力してきた。
 無量塔の魅力の第一は、すなわちオーナーの努力の賜物であった。

 オーナー藤林氏は、無量塔では朝によく姿をみかけることがあり、何度か挨拶をしたことがあるが、お洒落でセンスのいい人であり、ダンディな中年であった。

 藤林晃司氏、平成22年7月26日没、享年57歳。
 近年体調はすぐれなかったそうだが、それでも早すぎる死であろう。
 周囲の者も藤林氏の早すぎる死に、まだ動揺が収まらないとのことである。


 思うに、人生とは、なによりも愉しむべきものである。
 
 本来面白くも愉しくもない人生において、人は懸命に愉しむべき努力をせねばならない。
 その人生の愉しみのための「空間」「時間」、それを現実に用意立ててくれる人は、とても貴重な存在である。
 藤林氏は、その貴重な存在であった。

 藤林氏の早すぎる逝去を心より悼み、近いうちに無量塔に線香の一本でも手向けに行こうかなと思っている。

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