July 2010の記事
July 28, 2010
July 18, 2010
光洋→ブルーツリー
映画を観たついでに光洋に寄ってみて、鮨を食う。
カウンターには横浜にサービスマンの修行に出て行った四男氏が居て、鮨ではなく、鍋をつついている。ノドグロのしゃぶしゃぶだそうだ。夏でなかったら、私も頼みたいメニューである。涼しくなってから注文してみよっと。
四男氏は連休を利用しての帰省。彼が給仕の修行をしている横浜の名イタリア料理店「サローネ」は、漫画「バンビーノ」のモデルとなっている店だそうだ。漫画で出てくる伝説のサービスマン楊大衛も、実在の人物をモデルとしており、その人はサローネで現在も働いているとのこと。料理の評判もいいし、そのような伝説の人がホールのマネージメントをしている店は、すごくレベルの高い店と思われ、一度は行ってみたいものだが、当然のごとく人気店なので予約ととるのは難しいそうである。
四男氏がも少し偉い立場になり、そのコネで予約をねじこめるようになるまでじっくり待つことにするか。
鮨をがっつり食ったのち、閉店後に大将と焼酎バー「ブルーツリー」に行ってみた。
この店のマスターも宮崎の伝説的人物であり、焼酎に対する知識、情熱とも並はずれたものがあり、店の焼酎の品揃えも、またすごいものだ。
大将とマスターのお勧めの焼酎を、マスター手製の美味いおつまみとともに、飲んでいく。そして焼酎のうち、店が近頃入手したもので面白いものを紹介。
右は宮崎の有名な焼酎「百年の孤独」。生産数が少ないから、けっこう入手が困難な焼酎である。左は中国製の「百年孤独」。さすがコピー大国、なんでもコピーをします。中身もホンモノ同様の美味さだったらたいしたものだが、まだ誰もためしておらず。
July 17, 2010
映画:ザ・ウォーカー The Book of Eli
定期的に作成される映画の一大ジャンル「地球滅亡モノ」の、今年度のひとつ。
世界的規模の大戦争が行われたのち、世界は数少ない人類のみが生き残った荒れ地となっている。法律も秩序もない世界で、人々は頼るものもなしに、その日の糧を得るのに精一杯の生活を送っていた。
その荒涼たる世界のなか、30年間ものあいだ「本」を、西にあるという約束の地に運ぶために旅を続ける男の物語。
この「本」は、表題で堂々と「The Book」と大文字で書かれていることから明らかなように聖書(Bible)である。大戦後の世界では聖書は主人公イーライが持っている本一冊のみが残っていた。なぜかと言えば、この大戦が宗教戦争であり、戦争の原因となった宗教書は忌むべきものとして殆どが焼かれてしまったからだ。主人公の本のみが残ったのには理由があり、その理由を最後のほうで町のボスが知って愕然とするシーンがある。
イーライは人々が獣に戻ったような無法の世界で、肉体的にも精神的にも強く、ほとんど無敵で旅を続ける。そしてイーライは強靭な信念をもって、西へ西へと旅を続けて行く。
彼はなぜかくも強いのか?
イーライの語りによれば、彼が目が見えなくなっていたとき、この本が「自分を西に連れて行け。それがお前の使命だ。その旅を続けているとき、お前には本の加護がある」と語り、それを聞いた後イーライは目が見えるようになった。そのようなことが起これば、イーライもその言葉を信じないわけにはいけない。彼は一介のスーパーマーケットの店員から、強固な求道者に生まれ変わり、旅を続けたというわけである。
…いかにもウソっぽくインチキくさい話なのではあるが、私たちは歴史のなかで、同様の経験をしたパウロという実在の人物を知っている。
キリスト教の迫害者側の人間であったパウロは、主の怒りにより盲目となってしまったが、彼を哀れんだキリスト教徒の祈りによって目が見えるようになる。パウロは回心してキリスト教徒になった。彼は宗祖イエスとは会ったことも言葉も聞いたこともないわけだが、自分なりにイエスの言葉を解釈し、その言葉を広めることに人生をかける。パウロは、殉教をも厭わない、決死で情熱的な布教活動を行い、キリスト教をローマ帝国中に広めることに成功する。(でも、最後は皇帝ネロにより殺される)
イエスという創始者の死によって、イスラエルの一地方宗教として消滅するはずであったキリスト教は、パウロの尽力によって世界規模の宗教に発展することになった。
キリスト教というものは、私ら部外者からすると、新約聖書に載っているイエスの言葉と、その実践部隊であるキリスト教会が実際にやっていることに、ずいぶんと齟齬があるように感じるが、その原因はキリスト教最大の布教者パウロにあるというのが定説になっている。(少なくともニーチェはそう言っている)
それはそうとして、あれほどの興隆を果たしたキリスト教が、時を経て滅びる寸前の世になり、主はまたもパウロのように、宗教存続のための道具を選び、そしてイーライは選ばれた。宗教は、まずは言葉である。言葉を記した聖書を守り受け継ぐために、イーライは超人的な力を与えられ、そしてその使命を己の命をかけて全うする。
…未来版、パウロの物語なんだろうなあ。
イーライが持っている聖書に、劇中ただ一人興味を示す男がいる。
ゲイリー・オールドマン演じるところの荒野の町の支配者である。彼は無法の地に秩序を求め、そしてそれをなんとか達成し、人々の集うコロニーを維持している。彼はさらにしっかりとした秩序を求め、それには「聖書」に書かれた知恵が必要と思っている。
それは「聖書」の使い方として、まったくまともな使い方であり、イーライが到着した「西の地」がそこでもよかったはずだが、イーライは彼に聖書を渡すことはせず、さらに西に向かった。
聖書を持ったイーライが西に向かった地で、結局何を見つけたのか? 一応、物語は、その結末まできちんとみせている。
さて、私が思うに、宗教が必要な人は不幸な人であり、宗教が必要な社会は不幸な社会である。
宗教の害を知り、宗教を捨て去ろうとした人たちが、その試行錯誤のすえに不幸な世になり、結局は宗教で世を安定させねばどうにもならなくなる。
この映画はその悲劇を描いた、なかなかの佳作だと思う。
……………以下ネタバレ……………………………
イーライが目指した約束の地とは、印刷機が唯一残っている場所であり、そこに聖書を届けることにより、聖書は製本され、複製され、またも世界中に広まることになった。「聖書の意思」はイーライにともかく印刷できる場所まで連れて行け、そして自分を増やせ、そのあとのお前のことは知らん、てなものなのであった。
そしてイーライが口述筆記で残した聖書全文の印刷本の横に、「コーラン」が置かれていた。イスラム教にも同様の旅を続けてきた超人がいるのか、とそのサイドストーリーを想像して、面白く思った。
ザ・ウォーカー 公式サイト
映画:プレデターズ
知的生命体が文明を極限まで発達させたとき、どのような存在になるのだろうか? 生命体の存続にとっての重要項目、種の維持,食糧確保,健康管理,安全保障の確立などは容易に達成できているであろうから、…そうなると、ずいぶんと退屈な生活をその生命体は強いられそうだ。子孫は勝手に生まれ、食は満ち足りており、病気にはならず、身の危険もない。そういう日々においては、知的生命体は個としての生きることのモチベーションは低いものになりそうである。結局は彼らはなにもすることがなく、俗世とは離れた次元で、高度な思索にふける、仙人あるいは神のような存在になってしまいそうであり、じっさいにそのような知的生命体が登場するSF小説もある。
宇宙人プレデターは、超高度な文明の持ち主である。恒星間宇宙飛行が可能な技術をもっているし、装備にしても光学迷彩服、プラズマガン、レーザー兵器等、非常に進歩した段階のものを用いている。
ここまで極限に近く発達した文明を持っているのに、プレデターは、思索にふける雲の上の存在にはならず、己の命をかけて「強い異星人」と格闘をすることに最も生の価値をおく、ずいぶんと原初的かつ野性的な生きがいを持つ種族だ。
プレデターシリーズ、今までの作品は「強いもの」を求めてプレデターが地球へやってくる話であったが、今回の映画で出てくるプレデターは、狩猟用の星を持っており、そこに地球や他の星から「強いもの」を問答無用に連れてきて、彼らとのバトルを楽しむことにしている。まあ、こちらのほうがプレデターにとって楽であり効率的ではある。
さて今回プレデターの相手となる「選ばれし強いもの」の選択の基準は、なにやらいいかげんで、地球から運ばれて来たもの8名は、ベテラン軍人が大半なの分かるとして、それに「死刑囚」「日本のヤクザ」「医師」が含まれている。非武装の「死刑囚」や「ヤクザ」が重装備のプレデターの相手ができるはずもなく、またメス一本だけ持った「医師」が何の役に立つわけもなく、映画の前半から何やらギャグ映画の雰囲気が生じてしまっている。
メンバーが勢ぞろいした時点で、総勢8名のバラバラで個性的な面子が集まったチームというのはわかり、これが統率されて有能なチームとしてプレデターに対抗する、という筋になるのかと思っていた。一番役に立たなそうな「医師」が、その正体はじつは極めて有能な戦略家で、その指示のもとチームが一丸となってプレデターに対抗するってな方向に話が進むのかなあなどと予想していたが、…医師の正体はぜんぜん違うものであった。
チームはまったくチームとして機能せず、行き当たりばったりの戦闘の末、あるものは生き残り、あるものはそれなりの見せ場をもって斃されるという結末に終わる。
シリーズでの地球人を標的とした作においては、今回の地球人チームがシリーズで最強であったはずだけど、こうもバラバラに行動するのだったら8名出す意味ないんじゃなかろうか。
どう考えても、この8名のチームより、1作目のシュワルツネッガー単独のほうが有能で、強かったぞ。
プレデターズ、なんだかよくわからん映画であった。
ま、次作に期待するとするか。
……………………………
プレデターズ:公式サイト
July 12, 2010
読書: 「星を継ぐもの」 J・P・ホーガン訃報を聞いて。
まずは「星を継ぐもの」の書評から。
21世紀初頭、人類は宇宙の探索を精力的に行っていた。そして2027年、月で奇妙な死体が洞窟の中で発見される。真っ赤な宇宙服をまとったその死体は、どの国の月探査チームにも所属していなかった。チャーリーと名付けられた死体は検査を進めていったところ、なんと5万年前に死亡していたことが分かる。5万年前は地球に人類は登場していたとはいえ、まだ旧石器時代である。月に進出できるような文明が存在していたはずがない。それでは、チャーリーは他の惑星の生物であったか? しかしいかなる生物学的検査も、チャーリーが人類以外のなにものでもないことを示している。
その後研究が進められるにつれ、チャーリーの仲間の死体や使っていた器具,書物などが発見され、それらの解析から、かれらがなにをやっていたかが分かってくる。
5万年前の月世界で、チャーリー達は戦争を行っていたのである。そしてチャーリーの手記にはその結末が載っており、月に設置された超距離砲が発射され、目標となった惑星が火の海に包まれ、滅んでしまうシーンが書かれていた。
それを読み、研究者たちはさらに困惑してしまう。
月から直にその姿が見える惑星は、地球しかない。ならば超絶的な威力を持つ兵器によって5万年前に滅んだ惑星は地球以外のなにものでもないはずだが、地球は現に存在しているし、地球の考古学は、そのようなカタストロフなどなかったことを既に証明している。
一つの謎が解けると、そこからさらに新たな謎が生まれていき、謎は深まっていくばかりとなる。
ここで、木星の衛星探索を行っていたチームが、そこでまったく別の、古代の超文明を発見したことから、事態は急発展し、謎のピースが一つずつ埋まっていく。そして、最後のピース-冒頭に示された、瀕死のチャーリーを支えながら、苦難の旅を続けていた、逞しく頼もしい男「巨人コリエル」の運命が最後のページで示されて、全てのピースが埋まり、パズルが完成して全ての謎が解ける。
広大な宇宙空間と、悠久な人類の歴史の時間を使った、じつに壮大なスケールの物語である。
この小説は最初は作者の世界観が述べられるシーンが延々と続き、ちょっととっつきにくいが、チャーリーが出現するところから物語は面白さを増し、その面白さはどんどん加速度を増していき、ページをめくる手が止まらなくなるくらいに一挙に読める、それぐらいに、はまって読める小説である。
世の中には、本好きの人と会話をしていて、もしその人がその本を読んでいなかったら、「え、その本を読んでいないの? なんて幸せなんだろう。その本を読む喜びが人生に残っているなんて」と言いきってしまえる本が、誰しも何冊かもっている。
SFファン、あるいはミステリファンにとって、J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」は、私にとって自信をもってそう言える貴重な小説である。
もし、SF or ミステリファンで、(そういう人のほとんどは「星を継ぐもの」は読んでいるだろうけど)、たまたまこのブログを見て「星を継ぐもの」を読んでいなかったら、是非とも読んでほしい。読まないと、人生でなにか損をしてしまう、それくらいの価値のある小説である。
J・P・ホーガン、享年2010年7月12日、69歳にて没。
この報を聞いてたいへん驚いた。
SF作家って、大御所のクラークとかハイラインとかブラッドベリとかの例があり、長命なイメージがあったから、次の世代のホーガンはまだまだ現役だと思いこんでいたからである。
SF作家がいったいに長生きなのは、私が勝手に思うに、自分たちの書いていた未来のイメージを見届けるために、執念をもって、せめて結末が予想できるところまで、そこまでは責任をもって生きているからではないだろうか。(再び言うけど、あくまでの私の勝手な考えだ。)
ホーガンの小説は、全体的には、私には「緩さ」をどうしても感じてしまう。
21世紀が「機械」の時代になるのは誰しも分かっていたが、ホーガンはその発展する「機械」および「文明」に、おそろしく楽観的に思える。
たとえば代表作「未来の二つの顔」にしても、機械は、ずいぶんと大人じゃねえ?
「星を継ぐもの」のバックグラウンドにしても、21世紀の地球は宇宙開発に力を入れており、木星の衛星まで有人飛行をできるまでに発達しているが、それは、「20世紀に戦争を解決できて、戦争なき世になったため、予算を宇宙開発に回すことができたから」という、今となっては能天気としかいいようのない予想によっている。
人類は1960年代に月へ有人で着陸できているのだから、たしかに戦争に用いる費用を宇宙に用いれば、今の時代、火星くらいに基地をつくっていてもおかしくはないような気はするが、現実は予算など宇宙に使う余裕はなく、その後月にも行けず、宇宙ステーションをつくるのが精一杯という状況である。
1960年からの半世紀をみれば、私たち人類は結局は「機械」を使いこなせなかった。
人類が使って最も喜ぶ機械は残念ながら「武器」であり、進化した「武器」を制御できるほど、人類は理性も倫理も進化あるいは深化できず、あらゆる国が泥沼にはまりこみ、一番手で宇宙開発をすべき国、アメリカもロシアも、自らその泥沼に最もはまり、とても宇宙の彼方になぞ目を向ける余裕はない。
「星を継ぐもの」では、(たぶん)2030年代には木星の衛星ガニメデに有人探査機を送っている。アポロ計画から連綿と宇宙開発が続いていたなら、それも可能であったかもしれないが、今となってはとても無理だ。
J・P・ホーガンは、おそらく誰よりもそのことを苦々しく思っていたのではなかろうか。
個人の心情をあれこれ忖度するのもなんだが、あれほど、楽観的に未来を語り、未来を楽しんでいた人が、見てしまった現実の未来をどう思ったか。
それについてのなにかの感想でも残っていれば、と思う。それは人類に対して、叡智ある箴言になりうるから。
July 10, 2010
明日は参院選
先の衆院選で民主党が大勝し、政権交代を果たしてから10ヶ月ほどが経ったわけであるが、この期間は、「政治の怖さ」というものをほとほと思い知らせてくれた。
私は安定した時代に生きてきたため、政治というものに対して今まで漠然とした信頼感を持っていた。政治とはそれなりに知識があり経験のある政治家たちと官僚たちが集団となって動かすものであり、なかにはトンデモ法律を考え出すグループがあったとしても、集団としてどこかでフィードバックがかかり、結局は国益に沿った方針に従い、国の政治は動いていく、そう思っていたのである。
しかしながら民主党政権は、そのような、たぶん私以外にも数多くの人が持っていた「漠然とした政治への信頼感」を、見事に吹き飛ばしてくれた。
衆院戦のときの主要マニュフェスト、子供手当,農家個別補償,高速道路無料化,後期高齢者医療制度廃止…などからして、実行しようものなら、財政破綻,農業衰退,物流停滞,医療福祉崩壊をもたらし、国を衰亡させるに決まっているものであった。これらはさすがに財務省の役人が必死に抵抗したみたいで、半分以下しか実行はできなかったが、それでも莫大な予算を使ってしまっている。今となって菅首相は頭をかかえて、消費税増税とか言い出す始末。
そして与党は数を頼りに、マニュフェストにも書いていないような「郵政国営化」の法案を提出し、社会党からの居残りの議員の悲願であった「国労職員補償裁判」の和解を行い、産業界にすさまじい負担を与えるCO2排出25%削減を国連で宣言し、沖縄基地問題で迷走を続け日米関係を悪化させた。
民主党の、亡国行為あるいは売国行為としかいいようのない愚行の多くは、あらかじめマニュフェストとして選挙前に公表されていた。世の中には、自国が滅びるのを楽しみとしている変人もいるだろうから、その亡国のマニュフェストに賛同して、民主党に投票する者がいておかしくはなく、民主党に投票したうちの一部はその確信犯であったろう。しかし先の選挙時の世論調査によれば、そういう変人は少数派であり、民主党に投票した多くの人は、「マニュフェストは実行してもらっては困るものが多いけど、でもとにかく政権交代を実施させ、自民党にお灸をすえたい」との考えであったらしい。こういう人たちは、「お灸族」と称されたわけだが、さすがに10ヶ月がたった今は、自民党に確かにお灸はすえられたけど、それよりもお灸をくらったのは国民自身であったことは分かったはず。
とりあえず、この10ヶ月でやらかしてくれた民主党のバラマキ政策、それにともない国民は大借金を負わせられたのだが、いったいどうしてくれるつもりなのだろう。
ただし、先の「お灸選挙」によって結果として最もお灸をすえられたのは、民主党のツートップ鳩山氏と小沢氏であることは衆目の一致するところであり、衆院選を総括すれば、民主党、自民党、そして国民の誰もが不幸になったという、散々な選挙であったことは間違いない。
明日は参院選選挙。
結局は政治のアマチュア集団であることを露呈した民主党政権が過半数を失うのは間違いなく、またも「ねじれ国会」が再現することになる。
そして自民党がそれに乗じて、以前の民主党の真似をして、なんでも反対し、政治の運営を妨げるようなことをしては、この非常時、さらに我が国は混乱の極みにいたってしまう。国民として、それは困る。
菅首相が打ち出した新たな政策って、ほとんど自民党のものとかぶってるのであり、じつは両党の政策にさしたる差はない。…そしたら、もう民主党と自民党の大連立でいいいじゃなかろうか。
政権交代で政治がよくなるなんて、ただの白昼夢であることを国民は骨身にしみてわかったのだから、二大政党が連立しても国民は許してくれると思う。
もちろん、それは民主党のマニュフェストの撤廃が必須の条件なわけであるが。
July 08, 2010
映画:アイアンマン2
兵器会社社長のトニー スタークは絶対的ともいえる戦闘力を持つパワードスーツ「アイアンマン」を開発し、それを自称「平和の維持」のために、活躍させ、じっさい世界に平和をもたらしている。
しかし、核兵器なみの力を持つ武器を一個人の所有物にしていいとは、当然政府は思わず、政府はトニーに「アイアンマン」を政府の管理下におくように要請し、トニーは公聴会で諮問を受ける。
アメリカンヒーローであるトニーは、「自分が正義であり、自分がその絶対的な武器を所有し、活動することこそが世界全体の利益になる」と、まさにアメリカという国家がかねてから言っているようなことをそのまま主張する。
アメリカは個人が武器を所有することに関しては鷹揚な国であり、トニーの主張を覆えさせることができず、結局「アイアンマン」はトニーの所有下のままになる。
政府よりも、また軍部よりも強い力を持つトニーは、自らの趣味である平和維持活動を楽しみつつ、自分の会社も興隆を遂げさせ、順風満帆の人生を送っているようだったが、…しかし、内なる危機、外からの危機にさらされているのであった、てな話である。
「アイアンマン」は、主役トニー スタークの、どんな驚異的機械でも自分で作成できる、その作成した機械を強引に自分で操る、そしてハチャメチャな結果を生み出す、との過程が魅力なのであるが、…今回もそういう筋なのであるけど、1作目のほうが設定がより無茶だったので、あちらのほうが面白かったなあ。
まあ、あんまり深く考えて観るような映画でもなく、約2時間まったく退屈させずに観ることもでき、米映画のこの種の「観せる技術」はさすがにたいしたものである。
さて、この「アイアンマン2」、役者の格からいえばトニー演じるロバート ダウニー Jr.よりも、また準主役のミッキーロークよりも格上の役者が、謎の組織のメンバーとして二名でてくる。そのうちの一人スカーレット ヨハンソンがアクション担当の役で、生身では(たぶん)一番強い者として活躍している。
【アイアンマン2:スカーレット ヨハンソン】
「レザースーツを身にまとい超人的な体術を用いて、敵をバッタバッタと倒していく強い美女」というキャラは、マトリックスのトリニティを嚆矢として米画の定番となっているようで、いろいろな作品がつくられているわけだが、
【マトリックス:キャリー アンモス】
【イーオンフラックス:シャーリーズ セロン】
【ウルトラヴァイオレット:ミラ ジョボビッチ】
これらの先輩たちから比べると、どうもヨハンソンは違和感を感じてしまう。
「レザースーツの格闘美女」というものは、なんというか、身体の凹凸の少ない、モデル体型の人がやるから、身体の動きがシャープになり、速度感あふれる、切れ味鋭い動きが楽しめる。
しかしヨハンソンはどうみても「ぽっちゃり系」の役者であり(まあ身体は相当しぼったようだが)、殺陣の動作が、一瞬ずつ遅れるような鈍重感を感じてしまい、動きの鮮やかさを楽しめなかった。せっかくトップクラスの役者を使っているのに、なにか使い方を間違っているようで、もったいない気がした。
……………
アイアンマン2 公式サイト
July 07, 2010
7月のシンコ@光洋
6月下旬からはシンコの出る季節となるわけで、鮨屋では、カウンターに座ったとき「シンコありますか?」が挨拶変わりとなる。
光洋をぶらりと訪れ、当然のごとく「シンコありますか」と尋ねるも、「今はキロ5万5千円ですからねえ」とつれない返事。九州で最も早くシンコを出す店だが、今年は、7月の今でもまだ値が落ち着かないか。…って、去年の6月にはキロ5万円くらいのを仕入れていたはずだが。
鮨が次々を握られるなか、お、これが出てきた。
やはり九州で最も早くシンコを出す店。しっかりと仕入れていました。
最初から「ある」と言ってしまうとありがたみが薄れてしまう。フェイントをかけてのサプライズでありました。
シンコって本当にきれいな鮨種だなあ。
そのきれいなシンコは見ためのとおりの、かろやかな香りと爽やかな味が特徴。〆も浅目であり、その特徴をよく生かしている。
さてコハダという魚は、江戸前鮨の象徴であり、江戸前系の鮨屋ではほぼ必ず置かれている。しかし今の時期はコハダよりもシンコのほうの漁に漁師は熱中してしまい、(そりゃ、値段が20倍以上違うわけだから)、そのためこの時期は、全国的にコハダが品薄になる。
光洋も、シンコは仕入れることができたが、いいコハダは仕入れられなかったとのこと。
その代わりのヒカリモノとして、イワシの〆ものが出てきた。
イワシは魚自体の個性がコハダよりも強く、コハダのような「鮨そのもの」という鮨ではないが、それでもたいへん美味しい。
イワシは保存の難しさから、あんまり鮨種にならない魚だけど、これも恒常的にあってほしい鮨種であるな。
終電ぎりぎりの時間まで飲んで食って、シンコも食えて、満足の夜であった。
July 01, 2010
自転車がカチカチ
民話「カチカチ山」の「カチカチ」は、ウサギがタヌキを放火で殺傷せしめんと、背後で火打石を叩くときの音である。不審に思ったタヌキは、その音を「ここはカチカチ山だからカチカチと鳴っているんだよ♪」とのウサギの説明に納得してしまい、担いだ薪が燃えだしたことに気がつくのが遅れ大火傷を負ってしまった。瀕死の惨状からやっと回復したタヌキは、またもウサギに騙されて、湖に泥船で乗り出して、溺死する。
「カチカチ山」の原型は、最初から最後までウサギとタヌキのみが登場し、この陰湿にして執拗なウサギのタヌキへの苛めを描いたものであった。これは一種の不条理劇であり、ウサギがなぜそこまで残酷なことをするかについて、理由を求める読者は多かったらしく、
(1) ウサギが仲良くしていた老夫婦をタヌキがからかったから
(2) ウサギが仲良くしていた老夫婦の耕作をタヌキが邪魔していたから
(3) ウサギが仲良くしていた老夫婦のうちのおばあさんを殺したうえ料理しておじいさんに食べさせたから
などの説を前段に取り入れて、今に伝わる「カチカチ山」のいろいろなバージョンが出来上がってる。
太宰治の解釈によれば「ウサギはただタヌキが生理的に嫌いであったから、タヌキを苛めぬいた」そうだが、あんがいこのあたりが正解のような気がする。世間の数多くの「いじめ」がそうであるように。
それはともかくとして、私のロードバイクが走っているときにカチカチと異音を発しはじめた。
カチカチ山のなかを走っているわけでもないのにそういう異音がしだしたからには、なにか理由があるに違いない。民話「カチカチ山」の昔から、カチカチは不幸を呼ぶ音と決まっている。これはきちんと原因を調べる必要がある。
それで自転車をスタンドに立ててペダルを回してみたが、それだと音が出ない。力を入れて、すなわちトルクをかけてペダルを回さないとこのカチカチ音が出ないのだ。そうなると、どこから異音が出ているのか分からない。クランクなのか、ハブなのか、シートポストなのか、スポークなのか。
なんでもいいから自転車を部品レベルまでバラしてみて、一つ一つ組み立てなおせばその過程で原因が分かりそうだけど、バラすまでは自信があるが、正確な組み立てには自信が持てない。
というわけで専門店に持っていくことにする。
バイクを購入したのは宮崎市の「りんりん館」であり、本来はそちらに持っていくのがいいのであろうが、宮崎市は遠い。手軽に持っていける距離ではない。
ところで延岡にもコルナゴを扱っているサイクルショップ「田中サイクル」があり、ちょこまかしたメンテナンスは今はそこでやってもらっている。バイク乗りは近くにメンテナンスできる店がないといろいろと不便であり、そういう店が近くにあるのは幸運であった。
結局異音の原因はボトムブラケットが緩んでいたからであった。近頃バイクをずいぶんと酷使したからそのせいであろうか。
締め直しにはそれ用の工具が必要であったので、私にはどのみち修理は無理であった。
自転車は自動車と違い、いろいろと自分でいじれるところも楽しみの一つである。ロードバイクは部品が多すぎてまだ無理だろうから、いずれピストバイクでも買ってみて、自分で組んでみようかな。