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March 2010の記事

March 28, 2010

祖母山登山(2) 雪の祖母山

 今回の登山の楽しみの一つは、日の出を見ることであった。
 今の時期祖母山稜線から見る日の出は、東側にある傾山の峰の間から日が登り、峰の間に挟まれた朝日はダイヤモンドのような形で輝き、たいそう美しいのである。小屋番の加藤さんに言わせれば「ダイヤモンド傾」であり、祖母山系の名物だ。

【ダイヤモンド傾(加藤さん撮影)】
Dia

 さて早朝6時前に起き、「ダイヤモンド傾」を見るかと、日の出の時間に小屋の外に出ると、

【祖母山九合目小屋前の風景】
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 なんたることぞ。
 あたりは一面雲に覆われ、しかも粉雪がしんしんと降っている。
 これはダイヤモンド傾どころではない。
 3月末に訪れた寒波は高地では強烈な寒波となり、このように雪まで降らせたのである。ちなみに外の温度は氷点下6度であった。

 春の盛りを告げるアケボノツツジを見に登ったつもりが、雪の祖母山を経験することになってしまった。
 雪の祖母山はこれはこれで風情のあるものだけど、参ったな。春登山のつもりだったので、たいした冬装備を持ってきていない。これで吹雪いていたらとても無事に下る自信はなかったが、運よく風は強くない。少々の寒さを我慢すればなんとか下れそう。でも寒いのは、やはりイヤだなあ。
 唐津のグループがきちんとした重装備で来たのは、十分な理由があったわけだ。

 今回の教訓:山に登るときはきちんと天気図を確認してから登りましょう。

【九合目小屋下テント場】
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 雪は止む気配もなく、どんどん積もってくる。さっさと宮原ルートで下山することにする。
 小屋を出てすぐのところにテント場があるが、この天候のなかテントが一張り。雪を目当てに登ったのか、あるいは予想せぬ雪に戸惑っているのか。
 どちらにせよ、寒そうである。

【馬の背】
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 宮原ルートは、岩場の痩せ尾根があり「馬の背」と名付けられている。ここが凍っているとイヤだなと思っていたが、雪はあまりついておらず、さほどの危険性はなかった。しかし足を滑らせると、命が危ない難所ではあり、慎重に通過する。

【宮原】
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 宮原は標高1400m。ここまで来れば大寒波の下に位置することになり、雪もなくなってきた。
 冬の登山の終了である。

【ミツバツツジ】
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 宮原から尾根を下って行き、二合目からは新道を使って下ることにする。
 自然林のなかを通る宮原新道は、小屋番の加藤さんがコツコツと作りあげた登山道である。旧来の林道を使う登山道に比べ快適な道で、今はこちらが主に使われているが、営林署からは「国定公園で勝手に登山道を作ってはいかん」と怒られたそうだ。
 その新道でミツバツツジが咲いている。アケボノツツジほどの華やかさはないものの、これもきれいな花である。

【尾平風景】
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 10時頃に尾平到着。
 振り返れば祖母山にのみ雲がかかっている。標高1600m以上は氷点下の世界であり、あの雲は雪雲であるからして、今日は祖母山周辺はどっさりと雪が積もっているであろう。
 今日祖母山に登る人は(装備がちゃんとしていたなら)幸運だなと、駐車場にとまっている車をみながら思った。

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March 27, 2010

祖母山登山(1) 尾平~尾平越~古祖母山~障子岳~祖母山~祖母山九合目小屋

 今年の3月は最初の週に大寒波がやってきたのち、温暖な気候が続き、おかげで桜はいつもより早く咲いている。市内ではもう桜は満開である。
 そして宮崎県北の山を代表する花、アケボノツツジも咲き始めたとの情報が伝わってきた。アケボノツツジは5月初めが旬の花で、3月に咲くことなどめったにない。そういう珍しいものは見ないと損と、祖母山にアケボノツツジを見に行くことにしてみる。

【尾平】
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 本日は祖母山登山のコースを、尾平越から祖母山に至る、いわゆる半縦走のコースにとる。まずは尾平に車を止め、尾平トンネルまでは自転車で登ることにした。尾平から尾平トンネルまでは登山道もあるのだが、車道が並走しており、自転車を使ったほうが時間を節約できる。

 背後に鋸の歯のような岩峰を突き立てているのが祖母山とそれに連なる山々。赤矢印が祖母山、黄色矢印が天狗の岩。あと3時間もすればあのギザギザした稜線の上を歩いているわけだ。

【県道7号線】
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 高千穂と緒方を結ぶ県道7号線は、ず~と山の中を行くまさに山道である。
 尾平から500mほどは劇坂が続くが、それを過ぎると写真のような九十九折りの緩やかな坂となり、それほどきつい坂道ではなくなる。

【尾平トンネル】
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 宮崎大分県境の尾平トンネルへと着。尾平の標高が600mで、ここが1000m。400mほどの標高差を40分かけて登った。歩いて登るより、少しは早く着いたか。

【尾平越】
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 トンネルわきの登山口に自転車を止めて、登山の開始。
 200mほど登れば尾平越であり、ここから縦走路に入る。

【古祖母山】
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 さて、縦走路の最初の山「古祖母山」山頂に着いたのだが、どうも様子がおかしい。寒いのである。3月下旬とは思えぬ相当な寒さ。とてもアケボノツツジの咲く気温と思えない。
 そして高度を増せば、寒さはどんどん厳しくなり、山頂ではこのように樹には霧氷がついてカチンカチンに凍っていた。こんな状況では、アケボノツツジがどんなに根性のある樹であっても、花を咲かせることは不可能だな。
 天気情報によれば寒波が26日から来てはいたのだが、平地があんまり寒くないのでそんなに気にはしていなかった。しかし1500mを越える高さでは、3月末にしては時期外れの大寒波といっていいくらいの寒波が襲撃しているようである。

【障子岳】
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 アケボノツツジの花など、ツボミさえ認められないなか、縦走路を進んでいき、次の山「障子岳」山頂へと着。標高は1703m。
 この山頂には「熊の墓」が置かれている(左端に小さく写っている石の碑)。祖母山系には昔熊が生息していて、時々狩られることがあった。熊は狩られると七代祟るという言い伝えがあり、それを恐れた人々が供養のために建てたもの。この熊の墓は明治14年に建てられたという記録が残っており、条件の厳しい山頂で、風雪に耐えてよく残っているものだなと感心。

【天狗の岩】
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 尾平から見て最も特異な形で岩を空に突き立てている「天狗の岩」に到着。岩峰部への岩場は蟻の戸渡り状になっており、注意深く進む必要がある。
 ここからの展望は高度感が抜群で、素晴らしいものである。

【黒金尾根分岐】
Kurogane

 縦走路に戻って祖母山へ向かううち黒金尾根分岐に着。ここからアケボノツツジの樹が多くなり、花の盛りにはピンクの炎が道を照らしているがごとき艶やかさなのだが、本日、花など一輪たりともありはしない。ただの枯れ木の群れだ。やれやれ。

【花の盛りの時期】
Akebono

 同じ場所での花の時期の写真を一枚紹介。
 ここまでのものはもちろん期待はしていなかったが、ツボミくらいは見たかったな。

【祖母山山頂】
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 尾平から歩くこと5時間弱にてようやく祖母山山頂に到着。
 ここで夕焼けを楽む予定であったが、本日は気象条件が悪く、夕日は雲に包まれており、まったく夕焼けせず。これも、やれやれだな。

【祖母山九合目小屋】
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 祖母山山頂からは10分ほどの下りで、九合目小屋へと着く。
 5年ぶりくらいに訪れるが、太陽光パネルが外に並べられたりしていて、前とはちょっと違った雰囲気となっている。

 花もなければ雪もないという時期に宿泊客などいるのであろうかと思っていたが、小屋のなかからは何やら歓声が聞こえ、宴会モードのようである。この山小屋はなぜか宴会好きな人が集う傾向があり、人が泊まっていればだいたい宴会が開かれている。

 小屋番の加藤さんにお久しぶりですと挨拶をして、私も宴会に加わる。
 宿泊者は私の他は唐津から来た3人の1グループだけであり、彼らは小屋の中というのに山用ダウンパーカーを着こんでいて、ずいぶんと重装備である。縦走でもするのであろうかとたずねてみたら、今日は北谷から登ってきて明日また下るとのこと。それだとするとずいぶんオーベースペックだなあ、よほど寒さに弱い人達なのだろうか、とか私は思ったのであるが、…彼らが正しかった。翌朝私は思い知った。

…………………………
祖母山登山(2)に続く

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March 26, 2010

愛宕山の桜

【愛宕山】
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 近頃は暖かい日が続いているので、愛宕山の日当たりのいいところは、桜が満開である。
 愛宕山は延岡のランドマーク的存在の山であり、延岡のどこからでも見ることができ、頂上への道に沿って植えられた桜の花の連なりは、なかなかに美しく、軽く自転車で出かけてみた。

【展望台】
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 展望台下の駐車場。満開の桜から、花びらが風に吹かれて、次々に流れてくる。

【延岡市】
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 高きところから延岡市を望む。
 旭化成の煙突がひときわ目立っている。
 このように延岡市は狭い土地に建物が密集している街であり、夜になればきれいな夜景を楽しむことができる。

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March 22, 2010

サイクリング:六峰街道(延岡→速日の峰→諸塚山登山口→五ヶ瀬) 

 昨日日本列島をすっぽりと覆った黄砂も去り、空は雲ひとつない快晴である。吹く風は爽やかに涼しく、本日は絶好の自転車日和だ。それではロング・ライドを行うことにしよう。10月に途中で止めて、そのままにしておいた六峰街道に行くことにする。

【大瀬川川岸】
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 今年は桜の開花が早く、市内の日のよく当たるところは、ソメイヨシノがもう満開である。川に沿っての道を行き、県道49号線を道なりに進めるとやがて六峰街道の入り口に至る。

【六峰街道 北方側入り口】
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 ここから6つの峰を越えていく六峰街道の始まり。最初の峰はETOランドのある「速日の峰」であり、標高差約700mの坂を9kmかけて登っていくことになる。坂の斜度は全体的に5~10%であり、さほど苦労するところはない。

【ETOランド風車】
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 道が山の南側に回りこんだところでETOランドの風車が見えてくる。あと3kmの地点になれば、だいぶと大きく見える。なぜか今日は風車は回っていない。

【速日の峰 ETOランド】
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 だらだら続く坂を地道に登っていくうちにETOランドに到着。いつもと同じ構図の写真を撮る。風車は修理中のようであり、横でクレーンが操作している。一昨日のすごい風で故障でもしたのであろうか。
 ETOランドから道は六峰街道の山稜部に入ることになり、これからは稜線を走る山岳道路となる。ETOランドの標高は約800mで、街道の最高点が諸塚山登山口の1200mであるから、あと400mの高さをアップダウンを繰り返しながらじわじわと登っていくわけだ。

【中小屋天文台】
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 ETOランドから8kmほど走って、次のランドマーク中小屋山に到着。標高はちょうど1000m。中小屋山山頂には天文台が設けられている。
 この天文台、以前は中に入ってモニター画面で、望遠鏡で記録した星空を見ることができていたそうだが、今は管理する人もおらず廃墟みたいになっている。

 中小屋山付近から飯干峠くらいまでの道は、まさにスカイラインであって、南北両側の広々とした風景を楽しむことができる。阿蘇に祖母傾、それに九州脊梁山地が大きな峰を連ねている姿はじつに雄大で素晴らしい。
 九州には阿蘇登山道、やまなみハイウェイ等の有名な観光山岳道路があり、ドライブしていて美しい景色が楽しめる道ではあるが、なにしろ車の交通量が多く、自転車で走るには難のある道で、サイクリングには適していない。しかし六峰街道は、景色は同様に素晴らしいけど、車の交通量は無きに等しく、自転車で走るにははるかに快適な道である。山岳サイクリングロードとして、もっと有名になっていいと思う。せっかくの観光資源、今のままではもったいなさ過ぎる。
 なにしろ、この絶好のサイクル日和に、六峰街道を自転車で走っていたのは私だけだったのだから。

【道路工事現場】
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 六峰街道は険しい中に刻まれた道なので、ちょっとした自然災害により容易に道路が崩壊してしまう。それを補修しているところに会う。これは崖にコンクリを吹き付ける工事をしている場面。道路の維持には金がかかるのである。

【諸塚スカイライン】
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 中小屋山を過ぎて5kmほどで、いきなり2車線の立派な道路が出現した。山奥の道にしては場違いとも思えるオーバースペックな道路。いちおう諸塚村と日之影町を結ぶ幹線道路だからということらしいが、それでもあんまり利用している人はいなかったなあ。車一台とすれ違った程度の交通量。
 この道はたいした登り降りのない平坦な道が続き、路面の状態も良いことから、存分にスピードを出すことのできる快適な道である。

【日諸峠】
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 六峰街道はいくつもの山の山稜を通る道路なので、峠もたくさんある。その中で名前のついた峠が3つあり、その一つが日諸峠。
 六峰街道は要所要所に案内板が設置されているので、自分が今どこにいるのかが分かりやすく、現在地と道の方向について迷うことなく進むことができる。全体を通して親切なコースである。

【諸塚山登山口】
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 六峰街道最高点はここ諸塚山登山口で、標高は1200m。
 諸塚山は日本で一番早く山開きがある山で、その日は必ずこの登山口がTVに映る。有名なスポットである。
 北方からここまでの道はずっと登り基調であったが、それもここで終了。諸塚山登山口を過ぎると、あとは下りが主体の道となる。

【二上山登山口】
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 諸塚山登山口から飯干峠を過ぎ、ぐんぐん下っていくうち二上山の登山口前に着く。
 いくつもの山を傍に眺めながら走る六峰街道のなかで、この山が一番のスターである。なにしろ日本の歴史の最初に登場する天孫降臨の地がこれだから。
 宮崎にはもう一つ天孫降臨の地の候補地として、霧島の高千穂の峰があるけど、その周囲の土地に伝わる皇祖皇室の伝説の多さからして、こちらがどう考えても天孫降臨の地として本命でしょう。天孫三代が住んでいた高千穂はこの山の麓にあるし、その向こうにはかの有名なる天の岩戸もある。

【五ヶ瀬 六峰街道出口】
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 二上山登山口が標高900mくらいであり、さらにどんどん下って五ヶ瀬側の六峰街道入り口に到着して、六峰街道は終了。北方から計57kmの山岳サイクリングであった。
 ここの標高は600mくらいなので、こちらから六峰街道に登ると北方側からに比べて、500mほど登る高さが少なくて済む。坂を登ることが苦手な人は、五ヶ瀬側から登ったほうがよいでしょう。ただ、そういう人は最初から六峰街道にサイクリングに来るはずもないか。

 さて、六峰街道サイクリングは終了したわけだが、サイクリング自体は終了ではない。まだ帰り道というものが残っている。
 ここに接続している国道218号線を使って62kmの道を帰ることにする。218号線は熊本と延岡を結ぶ基幹道路であり、トラックがばんばん走っているので自転車で走行するのに決して気持ちよい道ではないのだが、さすがに元来た六峰街道を登り返す根性はない。

【青雲橋前】
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 高千穂大橋で高千穂峡を見おろしたり、青雲橋で休憩したりしながら、右横を通り過ぎる車に気をつけつつ自転車を進める。六峰街道と違い、こちらの国道はあんまり走っていて楽しい道ではなく、疲れたなあとか思いながら半ば義務的にペダルを回していく。細見町あたりで国道のカーブを越えて旭化成の大煙突が見えたときは、さすがにほっとした。

 本日の走行距離:137.9km

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March 21, 2010

思い出だけではつらすぎる@中島みゆき

 黄砂のせいで中島みゆきの記事を書いたが、またも中島みゆきの話。
 なにせ高校時代から大学時代にかけて、月曜深夜はオールナイトニッポンの中島みゆきのDJが何よりの楽しみであった、という、あの時代ならどこでもいたコアな中島みゆきのファンの一員としては、中島みゆきについて何かを書いたら、ついでにもう少し何かを書き足したくなったのである。

 といっても私の中島みゆきへの思いを書いても、ただ長くだらだらした際限ない記事になってしまうので、今回は中島みゆきの(私が思う)最高傑作の紹介にとどめておく。

 その曲は「思い出だけではつらすぎる」。

 元々はドラマの主題歌として、柴崎コウに提供した曲であったのであるが、失礼ながらこの曲を柴崎コウは全く歌いきれてない。せっかくの名曲がもったいない、それを挽回すべくとでも思ったのか、中島みゆき御大が改めて自ら歌った曲は、まさに素晴らしいの一言。

 「難しい言葉であなたの居場所を告げないで、探せないから」との冒頭の歌詞から分かるように、この曲は沈鬱な挽歌である。
 亡くなった恋人を探し求めて、心を揺れ動かす女性の、狂おしいまでの思いを、あの中島みゆき節でせつせつと歌いあげている。
 「思い出だけではつらすぎる」「本当の鍵はただひとつ、永遠にあなたが持っている」と、そこまで思う彼女は、歌詞が示す通り、彷徨い歩いた凍えた海辺で、思い出に心中するべく身を投げる寸前まで思いつめるわけだが、…ここで「大人になりすぎて」との逡巡でそれをとどめる。そして、心を強くして、「思い出だけではつらすぎる」ことこそ自分の心の真実であり、、生きるすべであることを知り、その思い出の辛さと共に行きぬくことを決意する。
 この心のドラマを、中島みゆきは完璧に歌いあげており、この曲はそれだけで一幕の見事な劇に思える。

 中島みゆきといえば、ふられた女の「恨み節」ばかり歌っているという印象が強いけど、まさにこの曲はその極限のもの。「先に死ぬ」という究極のふられ方をした女の心の衝撃と懊悩とそれからの立ち直りを、素晴らしい歌詞と曲と歌唱で表現した、絶唱としかいいようのない名作。
 以下のYoutubeから聴けます。

【思い出だけではつらすぎる】
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黄砂に吹かれて

 とんでもない低気圧の襲来で、強雨とともに台風なみの強風が吹き荒れた一日が明けた。低気圧も去ったことだし、さあスカっとした晴天だぞ、遠出するかと玄関の扉を開けると、なんなんだ、これは。四方全部が霧に塗りこめられたように白く染まって、遠景の山はそれに隠れてしまっている。太陽は出てはいるのだが、白い点となってぼんやりと空に浮かんでいる。春霞とかの生易しいものではない。黄砂が満ちているのだ。昨日の強風は、このろくでもない黄砂を置き土産にしていったわけだ。
 しかし黄砂がやってくるとの情報は知ってはいたものの、ここまで激しい黄砂は初めて経験した。

 それにしても尋常ではない黄砂の量である。環境破壊のせいで中国内陸部の砂漠化が進み、黄砂の量が増えてきているとは聞いていたが、ついにわが身に迷惑が及ぶ事態にまでなってしまったか。

 古来には、農耕、文字、工芸技術等の恩恵を寄こしてくれたかの国であるが、近年はエチゼンクラゲや黄砂など、ろくでもないものばかり我が国に寄こしてくるなあ。わざとやってるわけじゃないだろうから、文句を言うわけにもいかんのだろうけど。


 それはさておき、このろくでもない黄砂を題材にした、「黄砂に吹かれて」という中島みゆき作詞のいい歌がある。
 黄砂は遠い異国の砂漠の産物であり、独特のエキゾチックなイメージがある。その黄砂に、果てしなきものへの憧れと、古のシルクロードの旅を思い起こせるロマンスをのせて、片思いのせつない心を「黄砂に吹かれて」と例えた秀逸な歌詞が歌われている。…黄砂も実物さえ見なければ、なかなかロマンチックなものなのだ。

 「黄砂に吹かれて」は20年以上も前に、工藤静香が歌ってヒットしたからよく知られていると思う。ただ、工藤静香は上手な歌手であり、うまく歌っていると思うけど、この時の彼女はまだ若いので当然声も若く、歌の内容が「少女の片思い」という感じがして、「黄砂に吹かれて」という深いイメージがどうにも合わないように思える。

 ここはやはり作詞した本人の、中島みゆき御大の歌で聞きたい。
 こちらを聞けば、この歌が、酸いも甘いも噛みわけた女が、恋の喜びとその諦念を抱え、静かに心の中を吹き抜ける黄砂の風を感じている、その姿を歌った大人の歌ということが分かります。
 名曲です。

【黄砂に吹かれて】

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March 17, 2010

和食:きたうら善漁。

 延岡には北浦という漁港があって、よい魚があがるのだけど、その多くは市外に出てしまって延岡にとどまることが少ない。それを残念に思った北浦の漁師さんが、京都に和食の修行に出て腕を磨いたのちに、地産の魚をふんだんに使う料理を出す店を開いた。店の名前は「ぜんりょうまる」と読み、これは店主の持ち船「善漁丸」をそのまま用いたものである。

 料理には当然こだわりがあり、入念な準備をかけて料理をつくるので、基本的には予約が必須の店である。
 本日は職場の送別会にて使用。料理のいくつかを紹介してみる。

【造り】
Raw_fish

 刺身は、どれも地元のもの。北浦名物「ひむか本サバ」に、尾長グレ、それにコリ魚。コリ魚って初めて聞く魚だけど、クセのない白身魚であった。
 ワサビは擦りたての本ワサビを使っている。地方ではあんがいと珍しいサービス。

【緋扇貝】
Shell

 目にも鮮やかな色の緋扇貝。これは延岡の隣の佐伯市蒲江町の名物である。磯の香りと、弾力ある食感がよろしい。

【赤カマスの若狭焼き】
Kamasu

 カマスは珍しく若狭焼きにて。身はしっとりとした感じで、皮はサクッとした感じで上手く若狭焼きで仕上がっている。おもしろい料理。


 コース全体として、丁寧に調理された、誠実さを感じる料理であった。
 海に近い地方の店の料理は、ただ新鮮さが売りというところが多いけど、この店は新鮮さを生かしつつ、きちんとした和の工夫を加えた和料理を味わうことができる。
 地方の店として、頼もしい良店である。

………………………………………
 きたうら善漁。
 住所:延岡市本町1丁目3-14
 TEL:0982-40-5495

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March 16, 2010

3月15日(2) ブルータスの馬鹿

【馬鹿の船(愚者の船)】
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 私は前項でカエサルを馬鹿と罵ったが、暗殺者はそれよりもさらに馬鹿であった。

 暗殺の理由からして、馬鹿の極みであった。
 カエサルの暗殺の理由は要するに「カエサルが共和制を廃止、独裁者になろうとしたから、それを排除するためにカエサルを倒した」というものである。
 当時ローマは領土が広大になり、統治において各種の深刻な問題が生じるようになっていた。そして身内の合議でものを決める共和制では、決議に時間がかかりすぎて、国としての統制がとれない。ついには、どうにもこうにもならなくなってしまい、国が崩壊の危機に瀕してきたため、それを解決するためにカエサルが改革を行っていたのである。
 国が崩壊の危機に陥り、その危機を救うために先頭に立って改革を進めている者を、独裁者になろうとしているからという理由で暗殺してしまっては、国が壊れてしまう。そんな暗殺は、あり得ない愚行である。

 暗殺の首謀者の一人、マルクス・ブルータスは、カエサルの愛人であったセルヴィーリアの息子である。セルヴィーリアは教養豊かな賢夫人として知られていた。彼女は自分の愛人が息子に殺されたことを嘆きはしたが、息子の善後策を考え、有力者たちとの会議を持つ。

 そのときセルヴィーリアはブルータスが暗殺という野蛮な行為を敢えて行った理由、そしてカエサルを殺した後の混乱をどう制御するのかについて質した。ブルータスは、ただカエサルが共和制を廃止しようとしていたから殺した。殺したあとのことは何も考えていないと言った。
 セルヴィーリアは愕然とした。

 さて、人間とは案外と知的な存在なのであり、正真正銘の馬鹿というのはマレなる存在だ。しかしその正真正銘の馬鹿が実際に目の前に現実の存在として現れると、人はまるで人類そのものを冒涜されたような気分になり、無性に腹が立つものである。
 ここにいたり、マルクス・ブルータスは正真正銘の馬鹿であることが判明した。そのような馬鹿を目の前にして、賢夫人セルヴィーリアはまことに腹が立ったであろう。しかもその正真正銘の馬鹿が、自分が産みそして育てた息子であることで、さぞかし夫人は情けなく思い、さらに腹が立ったと思われる。
 「暗殺後のことも考えずに暗殺するとは、なんたる馬鹿だ!」ということを夫人は言い放ち、それから息子に会おうとはしなかった。
 この馬鹿息子の末路はみじめなものであり、「ローマ共和制を守った暗殺者」としての名誉も得られず、ただの犯罪者としてローマを追放され、そして犬のように殺された。

 ところでブルータスといえば、「ブルータス、お前もか(Et tu, Brute)」の台詞で有名である。これはシェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」中、カエサルが暗殺者たち相手に奮闘しながら、暗殺者の中にブルータスの姿を認め、絶望のあまりはいた最期の言葉とされている。
 この台詞自体はシェイクスピアの創作であるが、たしかに暗殺者の中にカエサルがその姿を見れば絶望するに違いない人物が一人いた。そして彼こそ、ブルータスである。

 しかしややこしいがそのブルータスは、愛人の息子マルクス・ブルータスではない。暗殺者のなかには、マルクスの他にもう一人ブルータスがいて、こちらがそのブルータスである。このブルータスも超絶的な馬鹿であった。まったく古の時代、ブルータスという名前は、その名前がついた者は馬鹿になってしまうという呪われた力を持っていたかのように思えてしまう。
 そのブルータスの名を、デキムス・ブルータスという。
 デキムス・ブルータスは有能な軍人であり、カエサル将軍の信頼篤く、ガリア戦争、内乱戦争にカエサルの腹心として活躍した。カエサルは彼の能力を高く買っており、内乱が治まったのち、デキムスを要職につけ、次期のローマ執政官(首相みたいなもの)にまで指名している。
 しかし、このデキムス・ブルータスが何をとち狂ったか、カエサル暗殺部隊に参加した。理由についてはいろいろあるのだが、結局は「馬鹿だったから」としか言いようがない。

 カエサルが暗殺者のなかにマルクス・ブルータスを認めたところで、「頭の軽い男が妙な口車に乗って、神輿になってしまったのだろう」と瞬時に理由を理解したに違いない。カエサルはマルクス・ブルータスという人間の出来についてよく知っていたからだ。しかしデキムス・ブルータスの姿を認めたときは、誰よりも能力を買い、片腕と頼んでいた男までが、敵に回ってしまったことに、深い絶望を覚えたであろう。どうして今のローマに自分の手法が必要ということが、この賢明と思っていた男にも理解できないのか?
 暗殺者たちに対する抵抗を続けていたカエサルも、さすがにこの時点で心が折れたに違いない。「ブルータス、お前もか」の台詞は、だからシェイクスピアの創作だとしても、真実にとても近い言葉なのである。

 カエサル暗殺ののち、カエサルの遺言状が公開された。それには、「後継者として遠縁のオクタヴィアヌスを指名する。そしてオクタヴィアヌスがこれを拒否した場合は、デキムス・ブルータスを後継者として指名する」という内容が書かれていた。これを知ってデキムス・ブルータスはものすごいショックを受けた。それから猛烈な鬱状態に陥ってしまった。当たり前である。自分をここまで買っていた人物を、わざわざ殺してしまって後悔しない者はいない。
 この暗殺劇、および遺言状公開ののち、デキムスは腑抜けのようになり、やがて犬のように殺された。
 デキムス・ブルータスはせっかく優秀な頭脳を持って生まれたのに、肝心なところでそれを役に立てず、時代の流れに逆らう選択を行い身を滅ぼした。マルクス・ブルータスは単なる馬鹿であったが、デキムス・ブルータスはなまじ優秀であったため、かえってその裏に隠していた馬鹿さが際立ってしまう。


 さて、馬鹿者の集まりであった暗殺者の群れについて、その末路を簡単に述べる。

 ローマのためと称してカエサルを殺した暗殺者たちであったが、ローマ市民はカエサルが誰よりもローマのために尽くしていたことを知っていた。市民たちは、暗殺者たちを許さず、松明をもって暗殺者たちの名前を叫びながら襲撃し、暗殺者たちはとてもローマに住むことはできなくなり、みなローマ市から逃げ出した。

 彼らが逃げ出したあと、ローマの権力を握ったのが、カエサルの後継者オクタヴィアヌスとカエサルの部下アントニウスである。権力を握っていたのがカエサルだったら、何をやろうが少々のことは許してくれたのだろうが、そのカエサルを殺してしまったため、権力者は別の者になっていた。
 そしてその権力者の一人オクタヴィアヌスは、ギボンの評によれば、「冷徹で、冷酷で、計算高く、18歳からずっと偽善の仮面をつけ続けた、老獪極まりない」という人物である。後のローマ初代皇帝に対する評としてはあんまりだという気もしないでもないが、たしかにオクタヴィアヌスはそういう人物であった。最も敵にまわしたくないタイプの男である。そのオクタヴィアヌスが養父カエサルを殺した者たちに、情けをかけることなどありえない。
 オクタヴィアヌス一派は、暗殺者14名は当然として、ついでとばかりその一族郎党も2500名ほども殺しまくり、ローマを殺戮の血で染めて、カエサルの復讐を終えた。

 オクタヴィアヌスはローマの独裁者となり帝政の確立を目指した。
 暗殺者たちの目的、ローマ独裁の阻止は、まったく実を結ばず、彼らの暗殺行為は、自らと自らの周囲の者を滅ぼすだけの結果に終わった。いや彼らの滅亡だけならまだよかったが、カエサル暗殺により、ローマは内乱に突入したため、14年間ローマ市民は争いに巻き込まれ、多数の無辜の人の血が流された。
 ブルータスたちは、なんと愚かなことをやらかしたのであろう。
 まったく、馬鹿につける薬はないとはこのことである。

【馬鹿の船(部分図)】
Fool_ship

 ここで最初に挙げた絵を再掲する。
 これは、中世の画家ヒエロニムス・ボスの手になる「馬鹿の船(The ship of fools」という絵だ。「馬鹿は死なねば治らない」とか、「馬鹿につける薬はない」とのことわざが示す通り、古今東西、社会は馬鹿への対処に苦労していた。
 そして古のヨーロッパには、馬鹿が増えると、彼らを集めて船に乗せてどこかに流してしまうという過激な風習があり、この絵はそれを描いたものである。

 馬鹿にも筋のいい馬鹿と筋の悪い馬鹿の二種類がある。馬鹿を自覚している馬鹿と、馬鹿を自覚していない大馬鹿だ。この絵で船に乗っている馬鹿たちは、筋のいい馬鹿のようであり、たがいに己の馬鹿さを自慢しあっているようで、その船旅は楽しそうだ。彼らなら馬鹿の旅を、他人に迷惑をかけることなく、愉快に続けてくれそうである。

 カエサルを暗殺した馬鹿ものたちもこの手の筋のいい馬鹿ならまだよかった。ローマの現状に不満があるのなら、みんなで馬鹿船に乗って、地中海にでも船を出して、馬鹿の楽天地を目指して、馬鹿の旅をしてくれれば、全ての者が幸せであったであろう。
 しかし、彼らは筋の悪い馬鹿であり、自分たちの馬鹿さに気付くことはなかった。14名の大馬鹿たちは、自分たちの独りよがりの理想論で、己と周りを地獄に陥れる愚かな計画を立ててしまった。彼らは真の馬鹿だから、ついにカエサルの偉大性と崇高さを理解することはなく、ローマの唯一の希望であったカエサルに剣を突き立てた。その剣がじきに自分たちをも貫くことなど、つゆも考えずに。

 こんな馬鹿どもに、馬鹿の船に乗って海を漂っているのがお似合いの馬鹿どもに、畢生の仕事の途中で命を奪われたカエサルが不憫で不憫でならない。歴史上の人物で、カエサルを最も尊敬する私としては、せつにそう思う。

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March 15, 2010

Idus Martiae (3月15日) カエサルの馬鹿

【ユリウス・カエサル】
Caesar

 ヨーロッパにはその歴史を決定づけた者が二人いて、一人は亡くなった日、一人は生まれた日が固有名詞のような存在になっており、ヨーロッパに住む人なら誰もがその日の意味を知っている。

 Idus Martiae、日本語にすれば3月15日は、そのうちの一つである。
 ヨーロッパをつくった男、ユリウス・カエサルの暗殺された日、すなわち命日である。

 カエサルはヨーロッパの歴史の中でも最大級の大物であるからして、数多くの伝記や史伝が書かれている。本邦では塩野七生氏の力作「ユリウス・カエサル」が有名であり、よく読まれている。塩野氏はカエサルの最も好きな言葉として、「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」という言葉を「パクス・ロマーナ」で紹介している。この言葉を引用することにより、塩野氏は「多くの人はそうであるが、カエサルには現実そのものが見えていた」という、カエサルの聡明さを示そうとしているように思える。

 たしかにカエサルが聡明であったことは事実であるけど、…なにかおかしい。この言葉は、私にはカエサルが実際に言ったとは思えない。
 この言葉は、要約すれば「自分とごく少数の人間を除いては、大多数の者はバカである」という意味であろう。そして政治家とは、大多数のバカを制御し統制するというたいへんな仕事であるからして、有能な政治家はそういうリアリズムとペシミズムが必需品であることはよく理解できる。
 じっさい、この言葉はカエサルの後継者オクタヴィアヌスが語ったとすれば、じつにピッタリとはまる。

 しかしカエサルには、ただ「大多数は見たいと欲する現実しかみない。世の中はそういうバカばかりだ」と言い切るペシミズムはついに無かったと思う。カエサルこそ「見たいと欲する現実」を追い続け、命をかけてまでそれを求めた人物であるからだ。

 カエサルは多才な人物であったが、その能力のうち、文人、軍事家としての能力は超一流であることを疑う者はいない。しかし政治家としての能力については、疑問符がつけられて評価されている。その疑問符が付く最大の理由は、「ローマ帝国を建設中なのに、その半ばで暗殺されてしまったから」である。
 優れた政治家と評価される条件の第一は、まず己の仕事をきちんとやり遂げることにある。カエサルは、500年以上続いた共和制ローマを帝政ローマに再建するという困難な大事業を、たった一人で行っていた。カエサルは帝国建設のために数々の難問を解決していっていたわけだが、その多岐にわたる仕事のうち、最も重要なことは、「事業の目途が着くまで、ともかく生きていること」である。
 今だってそういう国はいくらでもあるけど、昔のローマはそれに輪をかけて粛清や暗殺が当たり前であった。政治・社会の仕組みを劇的に変えるような事業を行っていれば軋轢は必須、命が狙われるのは必然である。ゆえに、帝国建設という目的を達成するためには、なによりも暗殺や粛清されないように身を守ることが優先された。

 身を守るためにはどうすればいいか。
 第一は武装するなり護衛をつけるなり物理的に身を守ることである。第二は、自分に敵対する相手を先手を打って粛清してしまうことである。そしてカエサルは敵の多い人であるからして、暗殺の危険が常にあるので、己の絶大なる権力を利用して、敵対勢力を粛清するのは、理にかなった行為と言えた。

 しかし、カエサルは粛清を絶対に行わなかった。
 カエサルは権力闘争を勝ち抜いてローマのトップに登りつめたが、勝ったのちは敵対勢力に対してはただちに許し、そのままの身分と仕事を保障した。カエサルは、いかなる戦争においても捕虜は許し、政敵も投獄したり命を奪うようなことは絶対にしなかった。カエサルは敵に対して寛容な男であり、「寛容(クレメンテ)」はカエサルの代名詞となっている。そして、代名詞となっていることから分かるように、こういうことをする政治家は古今東西カエサルしかいなかった。

 カエサルは粛清を憎んでいた。
 カエサル自体が若いころに粛清のリストになり、殺されかかった過去があり、亡命まで経験している。その粛清されかけた経験として、カエサルは粛清を唾棄すべき行為と認識したのであろう。相手が自分に害を及ぼす可能性だけで、相手の都合も考えずにその命を奪うという行為を、カエサルという誇り高い男は心底軽蔑したに違いない。それで、カエサルは敵に対して粛清は絶対に行わなかった。

 ただ粛清が嫌といっても、せねばならないこともあるだろう、と普通は思う。
 世の中には言っても分からない度し難い者がいて、そういう輩は、許されたことを恩義に感じず、かえって侮辱に感じ、また刃向かってくる可能性が高い。命だって平気で狙ってくるであろう。それを阻止するためには、先立って命を奪うのが一番よい。誰だってそうする。これこそものの道理というものだ。
 ただそれはやはり粛清というものであり、「正しい粛清」といえど、カエサルにとっては卑しい行為である。刃向かう可能性があるからと言って問答無用に命を奪うのは誰でもできる。カエサルなら、刃向かって来れば容易にそれを倒せる。自分はいくらでも許してやる。また刃向かえば同じことをすればよい。
 度し難い政敵に対する粛清は当然の行為であり、それこそ「現実」であるが、カエサルにだって、「見たいと思いたい現実」がある。粛清という行為はカエサルにとって、「見たい現実」ではなかった。粛清など卑しい行為である、だから政敵もいつかはそれが卑しい行為であることを自分同様に理解してほしい。人間とはそのような賢明な存在であるべきだからだ。カエサルはそう願っていた。
 カエサルはリアリストであったが、ペシミストではなかった。どころか筋金入りのロマンチストであった。

 カエサルは元老院に政敵が多かったことから、元老院に出席するときには護衛を連れていた。しかし元老院議員に「カエサルの身の安全を保障する」との誓約を書かせたあとは、その後は護衛なしに登院するようになった。
 政敵にとっては、「暗殺してくれ」と言わんばかりの行為である。
 しかし、その行為はカエサルにとっての「人間はこうあるべきだ」「誓ったからにはそれを守るのが人間だ」との、身をかけた自らの理想主義の表現であった。自分が寛容をもって許した相手は、自分に対しても同様に寛容をもって処して然るべき。人間とはそういう気高い存在であってほしい。これはカエサルの理想であり、願いだ。
 しかし政敵にはそのようなロマンチシズムは、まったくなかった。権力を一手に集めていくカエサルに憎しみと嫉妬をもった元老院議員たちは、マルクス・ブルータスを首領として14名が同志となり、紀元前44年3月15日、元老院においてカエサルを襲撃、カエサルはめった刺しにされ絶命した。
 その時点で、カエサルによるローマ帝国建設はまだ事業半ばであった。

 馬鹿である。

 まったくもってカエサルは馬鹿だ。

 元老院議員の保守派がカエサルを嫌い、恐れていたのは誰でも知っていたことである。旭日の勢いのカエサルを排除しようと、元老院議員がカエサルと大戦争をやったのはまだ5年前のことであり、そのときの敵がまだいっぱい元老院に残っているのだ。そういう連中に誓約書提出させてところで、何の役に立つというのだろう。
 そりゃ、まともな人間なら、ここでカエサルを殺してしまっては、また大きな内乱が起きて死者がいっぱい出てしまうことが必定なので、暗殺などするわけはないのだが、世の中の多くの人は「見たいと思わない現実はみない」のである。

 聡明なカエサルならそんなことは百も承知であろうから、暗殺の危険は誰よりも知っていたことは疑いの余地はない。それでも、カエサルは自分の理想のほうが大事だったのである。だがたしかに理想は大事だろうが、殺されては話にならない。
 この点でカエサルは大馬鹿だし、なにより無責任だ。

 護衛をなくすというカエサルの愚かな行為により、導かれたカエサル暗殺によって、ローマ市民、それに当の暗殺者自身が、大迷惑を被ることになった。

 カエサル暗殺後、当然のことながらローマは大混乱に陥り、内乱に突入した。カエサルが殺されたことに怒り狂ったローマ市民は、暗殺者たちをローマ市から追い出した。そしてカエサルの後継者オクタヴィアヌスとカエサルの部下アントニウスにより、2年以内に暗殺者全員が殺された。それで話が一件落着に治まるわけはなく、次はローマの第一人者を目指して、両者が戦いを繰り広げ、多くの死者が出た。
 内乱が治まり、オクタヴィアヌが最終的な勝者になるまで、14年間の戦いの月日が必要となり、無駄な血が大量に流された。
 これももとはといえば、カエサルの身勝手な理想に責任がある。

 全権を握ったオクタヴィアヌスにより、カエサルの暗殺でいったん中断となったローマ帝国の建設が再開され、帝国完成により平安と繁栄の「ローマの平和」が始まる。
 オクタヴィアヌスは政治家として極めて優秀な人間であり、また徹底したリアリストであったから、建国の政治家にはなによりも「殺されないこと」が大事であることを知っていた。彼は私設軍隊まで作って自身の警備隊とし、元老院登院のさいには、がちがちに護衛を固めて身の安全を確保していた。立派なものだ。

 …ただ、私設軍隊をつくり、護衛で身を固める姿は、オクタヴィアヌスにはよく似合うが、たしかにカエサルにはまったく似合わない。
 カエサルには「人間はこうあってほしい」「人間はこうあるべきだ」という理想があり、それを一生を通して貫いた。
 暗殺されるという大失態を演じはしたが、己が理想に殉じたその姿は、人類とはこのように誇り高くなれるものだということを示している。

 カエサルは馬鹿であったが、誰よりも魅力があり、偉大であった。
 3月15日は、そういう人物の命日である。

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March 12, 2010

光洋のアン肝,宮崎の茶など

 今週の月曜に鮨とフレンチのコラボがあって、光洋の鮨を食ったのであるが、あれはちょいと変化球気味の鮨が多かったので、真っすぐの鮨もがっつり食いたい気分になり、またも光洋にと行ってみる。
 ミズイカ、シャコ、車海老、ミル貝、ヨコワ、コハダ等々、予定通りに真っすぐの鮨をがっつりと食って満足。

【アン肝】
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 ここで鮨ではなく、アン肝の紹介。
 アン肝といえば、やはり「安春計のアン肝」が私のスタンダードとなっているけど、安春計に行った光洋三男氏も安春計のアン肝に感銘を受けたようで、それにならってのアン肝。
 仕入れ、仕込み、ポン酢の加減、まだまだ安春計の域には遠いようだが、それでもなかなかの美味。安春計のアン肝を知って、目指すべき確たる世界があることを知り、精進重ねての一品である。このようにして、美味なるものは、土地、世代を超えて、伝わっていくのであるなあ。

 さて、本日カウンターの隣の客は白玄堂氏であった。お茶についての興味深い話をいろいろと教えていただいたのであるが、へ~と思った豆知識を一つ紹介。

 宮崎は茶の生産量が多く、日本でも4番目の生産量を誇る県だとのこと。量に加え質も優秀だそうだ。しかし、ネームバリューがあんまりないので、他県の茶にブレンドされて用いられているものが多いそうだ。まったく知りませんでした。

 牛肉と一緒のことが、お茶でも起こっている。
 宮崎は一次産業に優れたものをいくつも持っているので、あとは宣伝をうまくすれば、もっと商品価値が高くなり、ひいては産業が栄えることが可能ではないのであろうか。マンゴー、地鶏だけでなく、牛肉、お茶、そういうところも県をあげて宣伝するべきだな、と思った。

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March 10, 2010

春の雪

 朝からとんでもなく寒い日であった。
 3月になっての今年最後の寒波到来という感じである。
 午前中に外をながめると、雪が舞っていた。
 あんまり力のない雪で、強風に翻弄されて舞うだけで、道に触れるなりすぐ溶けていく。とても積もるのは期待できないなと思ってるうち、空は明るくなり、雪雲ごと雪はどこかに消え去ってしまった。

 遠き山々は、まったく冠雪しておらず、岩肌が日のもとで輝くのみ。
 今冬はけっこう寒波が来たが、結局は雪を見たのはこの日だけであった。

 雪の降ったあと、愛宕山には白いものがいくつも見える。積雪ではなくて、山桜が咲き始めているのである。
 雪は春の到来を告げるかのように、印象強く現れ、そしてさっさと去っていた。

 山桜の次はソメイヨシノが咲き始める。例年より1~2週間は早いようだ。
 花見の準備をしなくては。

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March 08, 2010

鮨とフランス料理のコラボレーション@光洋

 以前に光洋で鮨に合わせてシャンパンを飲むという会があり、あんまり感心しなかったので、こういうことは一回経験しておけばいいと思った。
 しかし光洋店主は今度は鮨とフランス料理、それにワインとお茶を組み合わせたコース料理を企画すると言う。フランス料理のコースの途中に鮨が出る料理なんてのは、ほとんどゲテモノ料理の世界だなと思い、ふむふむなかなかユニークな試みですねえとか言って適当に聞き流しておいたのだが、絶対に美味しいです、お勧めですとか力説するので、話のネタにでも食ってみてみるかと、ついつい参加を表明してしまった。…結局、私は物見高い男なのである。

 さて、その参加した食事の会、予想に反してたいへん素晴らしいものであった。
 フランス料理はベルエポックの山本シェフ、和食と鮨は光洋兄弟、ワインは外山酒店の田中氏、お茶は白玄堂の白尾氏という、宮崎料理界のトップレベルのものであるから、素晴らしくて当然であったか。

【海のパスタ】
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 海のパスタは、名前のとおり海を感じさせるもの。コノワタが隠し味程度に使われており、パスタを食べたときにフレーバーとして広がるコノワタ=海の香りが見事。コノワタの使い方が絶妙である。アクセントとしての青唐辛子もよく効いている。

【魅惑のコロッケ】
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 揚げ方からして、美味さが弾けるような生命感がよろしい。
 なかみは海老芋、それに鯛の白子であり、ふわふわの海老芋が白子の旨みをいったん封じ込め、それから一挙に広がる感じが見事。

 山本シェフはクラシカルなフレンチを得意にしていると聞くが、今回の料理は和に寄り添って、和に調和しながら、うまく洋の世界を演出している。まさに匠の芸である。

 鮨の方は、コースの流れとワインに合わせて、柑橘系やスパイスをより使った、いつもより創作系に傾いた鮨が出てきた。これも料理全体にうまく調和していたと思う。
 ワイン、酒、お茶もそれぞれの料理に合わせて出てくるわけで、どれもよく調和がとれていた。

 鮨、和食、洋食、ワイン、酒、お茶、全てが練りに練られた調和度と技巧度を持っていて、このコース料理は、全体として見事な一貫性を持っていたと思う。
 宮崎を代表する料理人たちが、たがいに考えに考え、切磋琢磨しあい、それぞれに腕を振るった料理。このコース料理は宮崎の料理にとって、記念碑的なものであったのではないかと思った。

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March 07, 2010

カレー:カフェギャラリー 阿里美(@阿蘇)

 高森バイパスに櫓みたいな建物のカレー屋が新築されていて気になっていたので、昼飯はそこでカレーを食べようと思っていたが、訪れたらあいにく店休日であった。
 それならばと、やはり高森バイパスにあった、なんとはなしに美味しそうなものを食べさせてくれる雰囲気のあるカフェに寄ってみることにする。
 車をとめて店に入ると大きなコリー犬がいきなりお出迎え。あんまりやる気のなさそうな犬であり、客が入っても、一瞥しただけでよそを向いてしまった。

【店からの眺め】
View_2

 店の位置は有名な一心行の桜の近くであり、大きな窓からは、一心行の桜を見ることができる。やや遠いので迫力には欠けるが、広々とした畑のなかに一本だけ立つ桜の木なので、花の盛りのときは、桜色の点景が浮き出る、きれいな景色が楽しめるであろう。

【カレー】
Curry

 カレーのルーは専門店風のものではなく、落ち着いた普通の味。これに取れたての旬の野菜が多く乗っていて、甘みも旨みも十分。優しいカレーの味がうまく野菜の味を引き立てている。野菜カレーとして、なかなかの逸品だと思う。


 窓から広がる阿蘇南郷谷の風景もうつくしく、阿蘇にドライブに行ったときなど、昼食に寄るのにいい店だと思う。
 なお、この店はカレー店というわけではなく、メインは野菜をたくさん使ったパスタやピザ料理である。

……………………………………
カフェギャラリー阿里美
住所 阿蘇郡南阿蘇村大字中松下奥3300-1
TEL  0967-62-8141

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和食:3月の無量塔

 登山後の夕食は無量塔にて。
 「無量塔の春」と名付けられた料理は、2月も同じ題であったけれど、3月になって春本来の食材がそろってきたことから、さらに春爛漫という感じの、生き生きとした料理となっていた。

【先付】
1

 空豆のサヤにあるのは、アスパラを餅豚で巻いて焼いたもの。それに、クレソン、ジャガイモ、タマネギ、ジャガイモ、タラノメ、トマトと、味の濃くなってきた野菜を添えて、春の濃厚な香りただよう力強い料理。

【椀物】
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 餅米で包んだ山女、それに桜の花、ワラビ、菜の花、人参の椀。出汁は無量塔流の洗練された田舎風のものであり、うまく調和している。

【八寸】
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 雛祭りに見立てた楽しい八寸。雛餅風の卵焼きに、官女の櫛飾りのような野菜の添え物、筍の皮のぼんぼり。造りはヒラメに関サバ。質のいいものである。

 これらの春の到来の喜びを告げる、遊び心のある、愉快で美味しい料理のあとは、いつもの定番の、鍋物、焼き物と、落ち着いたしっかりした料理がでてくる。
 無量塔ならではの、高い技量を示した、メリハリの利いたコースである。


【暁の部屋】
Room

 部屋は「暁」。
 天井まで届く広い窓で、庭との一体感をしめす、近代風のすっきりした造りの部屋であるが、ゴツゴツした岩を壁にはめて、破格感も表現している。部屋全体のつくりとしては完璧に近いものがあり、よく雑誌で紹介されている。
 私としては、もう少しソファが大きかったら、さらに寛げていいのにとかも思う。

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March 06, 2010

登山:指山三俣山ルートは登ってはいけない

 九州北部は毎年3月に一度は寒波が来るので、それを期待して最初の週末に九重に登ろうとしたが、残念ながら寒波は3日ほど遅れて到来するようで、本日の天候は曇り。そして標高の高いところは霧が満ちているというあいにくの天気。
 午後は少しは天候も回復するとのことで、阿蘇の「蕎麦や漱石」でゆったりと蕎麦を食って腹ごしらえしたのち、午後に長者原へと着く。霧は山全体にかかっており、少しでも霧の少なそうな標高の低い山でも登ってみようと思い、指山をめざす。指山は標高1449m、三俣山の尾根筋のコブみたいな山である。

【指山山頂】
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 標高低き指山といえど、この高さに来れば霧は濃くなり、眺めはまったくよくない。

【晴れたときの指山】
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 参考までに晴れているときの指山山頂の写真。
 ここも晴れていれば、背後の三俣山が眼前に見えて、なかなか景色のよろしい所なのであるが、天気ばかりはどうにもならない。

 さて、指山山頂には登ったものの、登山口から30分程度の登山であり、どうにも物足りない。たいして汗もかいていないし、体力も使っていないので、これでは宿に着いたときの温泉の有難みをあじわうことができない。それはつまらぬ。というわけで、天気が悪いけれども、三俣山にまで足を伸ばして、もう少し充実した登山をしたくなった。

 ここで指山三俣山ルートについて簡単に説明する。
 このルートは初級者向けの登山路の多い九重のなかで、ロープを用いらねば踏破できない唯一のヴァリエーションルートとして知られていた。しかし登山愛好家たちによって7年ほど前に登山道の整備が行われ、一番の難所に金属製のハシゴがかけられたことから、誰でも行ける一般道となった。
 ところが平成17年夏の豪雨災害によって、三俣山の斜面が大規模に崩れ、せっかくのハシゴも流されてしまい、登山道が崩壊してしまった。それでまたこのルートは人の来ること稀な道に戻ったのであるが、その崩れ方がただものではないという話を聞いた私はその年にロープを持って、崩壊現場を訪れたことがある。私は物見高い男なのである。
 そのときの記録を紹介。

【指山三俣山難所】
Past2

 三俣山の尾根をずっと登って行って、岩の崖にぶち当たったところが、最大の難所である。

【難所近景】
Past3

 三俣山に登るためにはこのオーバハング気味の岩を乗り越える必要がある。
 ここには登りの補助のためか、トラロープがかかっている。教科書的にはトラロープ(工事現場とかでよく使われているヒモ)は野外では劣化しやすく、強度が落ちていることが多いので、これに頼ったりしてはいけない。
 岩自体はしっかりしており、ホールド、スタンスはあるので岩の経験がある人は通過はたぶん問題ない。しかし下り方向はローブは必須であろう。

【崩壊地】
Past4

 岩を越えると、その先は見事に崩壊していた。足場も大変悪く、いいかげんな歩き方をするとすぐに足元が崩れてしまう。この崩壊した傾斜を登りつめて、灌木群にあたり、そこを藪漕ぎをしたのちに元々あった登山道に合流、それからはとくに問題なく三俣山北峰に到着した。

【三俣山北峰にて】
Past5

 いちおう私がいいかげんな装備で悪路を登ったわけではないという証拠。これだけの登攀具を持ってきたのである。結局は使わずに済んだわけだが。


 さて、その「きちんとした装備をした者しか訪れない」指山三俣山ルートが、近頃また整備されて、岩を巻くルートが開発されたという話を私は仕入れていた。こんな霧の中、あの岩を越える気はしないが、新たな一般道ができたのならそれを使えば三俣山に行くことができる。
 今回は偵察がてらその新道を使って登ってみることにした。

【難所】
Root1

 視界の利かない霧のなか、尾根を登りつめて難所の岩場に到着。トラロープは5年たってもまだかかっていた。岩は湿っていて滑りやすく、岩を越える場所には近づくことさえ困難なので、予定通りに巻き道へ行ってみる。

【新道】
Root2

 岩場を巻くように新ルートがつくられているのだが、いきなり崩れた崖のトラバースから始まる。足場が悪く、かなり危険な道だ。ここを慎重に渡ると林のなかに入り、しばし進むと岩場に拒まれ、そこで折り返しながら登るように目印が付けられている。ただそのルートで行くと崩落地に到達することになるので話がおかしい。直登ルートが正しいはずなので、木につかまりながら直登していったが、やがて藪に拒まれる。藪を突破するとたぶん正規の登山道に合流すると思ったが、濡れた藪を越えるのもイヤだったので、元のところに戻って目印に従って、半分崩壊している崖を横切ると、…やはり出たのは崩壊地であった。

【新道2】
Root3

 結局、新ルートは、岩をよけて崩壊地に合流するわけで、元の登山道に行くには、図で黄色矢印で示した道を通ることになる。ここは浮石の多いガレ場であり、足を踏み外すと一挙に下まで滑りおちる危険性がある。そして滑り落ちる先は、赤矢印で示すところであり、そこは先に示したトラロープのかかっている崖なので、そこを落ちるとまず命はない。まじめな話、命のかかったトラバースルートである。

【三俣山山頂】
Mtmimata_sumitt

 崩壊地越えの道を過ぎると、一般道に合流し、そこからは問題なく三俣山北峰へとたどり着ける。
ここから元来た悪路を戻る気はしないので、違う道で下りることにする。
 北峰山頂からは舞鶴新道の入り口がすぐそこにあるのだが、舞鶴新道もとんでもないことになっているという話があり、とても下りに使う自信は持てず、遠回りにはなるが、おとなしく雨ヶ池経由でおりることにした。

【雨ヶ池の手前】
Root4

 訪れるたびに崩壊が進んでいるとしか思えない三俣山の登山道を下っていき、やがて平坦な湿地帯に出ると、雨ヶ池はもうすぐだ。歩くことしばらくすると、「あと20mで登山道」てな標識が現れる。私のいま歩いている道は、なんなんだ、ケモノ道ですかい、なんて突っ込みを入れたくなるけど、たしかにあと20m歩けば、ずっと歩きやすい道になり、そこからはただ登山口を目指すのみ。


 さて、新しい指山三俣山ルート。
 ネットで「指山 三俣山」と検索すると、このルートの情報はけっこう多く載っているのであるが、どのレポートもとてもお勧めできないと書いてある。
 私も同感、どころか「登ってはいけない」と思う。
 以前の岩越えのヴァリエーションルートしかない時期は、一般の人はたとえあそこにたどり着いたとしても、岩越えの所で引き返していたと思う。しかし、岩を越えなくてよい巻き道があると、ついつい進んでしまう人もいるのではないだろうか。そして新ルートは、道の危険度としては、崩壊が進んだぶん、以前より増しており、さらに生命の危険のある道となっている。
 槍穂や後立山には、もっと危険な一般登山道があるという説もあろうが、ああいう山域は中級者以上が登るところであり、九重はそれと違う。
 新ルートをレポートしている人たちは、だいたいベテランであり、きちんとした装備をもって登っているので、危険度は非常に低いのではあろうが、なにしろ九重山域は初級者が多く登る山である。その初級者のグループがトラロープの岩まで来てしまったとき、こっちに道があるとばかり、新ルートに入り込んでしまうと、立ち往生してしまい遭難騒ぎを起こしてしまう可能性が高いように思える。
 あの新ルートは、今の整備具合では、入り口にロープでも張って、侵入禁止にしたほうがよいと思う。

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March 05, 2010

メキシコ料理:プラサ・デル・ソル@熊本市

 熊本市に出たついで、夕食は何とはなしにスパイシーなものが食べたくなったので、プラサ・デル・ソルに行ってみた。
 プラサ・デル・ソルは熊本市でだいぶ前から営業しているメキシコ料理店であり、たぶん熊本市唯一のメキシコ料理専門店である。オープンキッチンでは、メキシコ人のシェフが調理しており、本格的なメキシコ料理をここでは食べることができる。


【タコス】
Tacos

 メキシコ料理といえば、まずはタコス。
 具は肉から野菜、チーズまで何でもござれ。これに各種のサルサ・ソースを自分の好みで加えて、スパイスたっぷりの料理に仕上げて食いながら、ビールをぐいぐいと飲む。メキシコビールもコロナ以外にもいろいろそろっており、料理にあわせて選ぶことができる。

 店内の調度品、飾り物、それに流れる音楽はメキシコ風であり、店員たちのかわす言葉もスペイン語。
 熊本市の繁華街の地下1階という場所ながら、店に入ればただちにメキシコの雰囲気にひたれる面白い店である。

………………………………………
 メキシコ料理 プラサ・デル・ソル
 熊本市下通町1-10-27 コウエンビル 地下1階
 TEL 096-351-0990

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March 01, 2010

オリンピック雑感(5) 雑感あれこれ

 ・日本のスケート女子追い抜き競技、ドイツにわずか0.02秒遅れの銀メダルであった。個人競技が振るわなかったことから期待もしていなかった種目であったけど、じつは一番金メダルに近い競技だったんだな。

 ・なにかの罰ゲームとして、冬のオリンピックの競技をどれかやらねばならないといけない羽目になったとして、やりたくない競技のアンケートを取ったら、一位はスキージャンプと思っていたが、じつはスケルトンも候補として有力に思えてきた。頭から突進していくスタイルで、氷の溝を140kmを越えるスピードで爆走する競技なんて、ほとんど想像を絶する世界だ。

 なお豆知識であるが、この奇抜な競技スケルトン、日本では平成6年の時点で競技者は3人しかいなかったそうであり、ゆえに「オリンピック選手になるのに最も競争率の低い競技」と評されていたそうだ。

・モーグルは以前は女子と男子の滑り方は違っていたのだけど、(女子はストックを軸に、するんするんとコブの溝を滑って行く感じ)、今度の五輪から女子も男子同様にスキー板のエッジをガンガンとコブにぶつけるスタイルになっている。
 そうなると、それは筋力まかせの滑り方なのでとても男子にはかなわず、観ていてこれほど男女の体力差が如実に表れている競技もないと思った。女子の世界トップクラスでも、日本人の高校生クラスのほうがターンもスピードも上であり、これに比べると女子モーグルはなんだかアマチュアの競技に思えてしまう。
 ただし、じゃあお前、女子レベルでモーグル滑れるのかと言われれば、もちろんまったく無理である。

 ・スケート競技は、スピードもフィギュアもショートラックもアジア人が大活躍であった。となるとスケートを履く競技って、体型的なものか、体力的なものかはしらないが、アジア人種に向いている分野なんだろうな。ただし冬の五輪は北欧人が主導して開催しているという歴史があり、このままで済ますとも思えない。北欧人有利にする、なにか変なルール変更が起きないといいのだけど。

 ・カーリングはオリンピックの時にしか観ない競技であるけど、観ていてじつに面白い。頭を思いっきり使うゲームであり、将棋や囲碁に近いものがある。
 こういう手先の器用さと素早い状況判断が要されるゲームって、日本人にとても向いているのではないだろうか。国家レベルでまじめに選手を養成したら、日本のお家芸になれるような気がする。

 ・フィギア男子の織田信成という選手。競技の最中、靴紐が切れるという論外のアクシデントで順位を落とす。この選手は選手活動の盛りに飲酒運転事故を起こして謹慎生活を送るなどの過去もあり、どうも詰めが甘い。ただし彼は織田信長の子孫という触れ込みであり、それならば仕方あるまいと妙な納得もする。信長は日本史上、最も詰めの甘い男であったから。

 ・フィギュアのプルシェンコ、滑降のスヴィンダルなどを代表として、金確実と予想されながら金メダルを逃した選手は多く、オリンピックの時期に体力と精神力のピークをきちんと持ってくることは、たいそう難しいことが分かる。
 本邦の冬季五輪の歴史をひも解くと、金確実と言われ、じっさいに金を取った団体に、リレハンメルのノルディック複合チームがいる。彼らの偉大さに改めて感服。

 ・閉会式、もっとも盛り上るのは、やはりライブコンサート。
 ただライブパフォーマーの面々をみると、歌は上手いが知らない人ばかりであった。知っていたのはニールヤングくらい。自分の知識の乏しさはともかくとして、でもアメリカとかイギリスなら世界規模で知られているミュージシャンはいくらでも名前が出てくるのに対し、カナダはあんまりその分野の人材に乏しい気がする。カナダでは、歌に興味がない人でも知っているような、ワールドワイドな知名度を持つ歌手はたぶん一人だけだろうし。
 …というか、五輪実行委員会、カナダの国民的歌手セリーヌ・ディオンをなぜ呼ばない?

 ・バンクーバーオリンピックは終了し、4年後の冬季五輪はロシア・ソチにて。
 開会宣言は国家元首がするわけだが、さてそのときは、建前上の元首であるメドヴェージェフ大統領がするのか、あるいは実質上の元首であるプーチン首相がするのか。今のところソチ五輪に関しては、それが一番興味がある。

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