読書:世界は分けてもわからない 福岡伸一(著)
福岡氏は現役バリバリの生物科学者であり、文章も達者なことからその著作は面白いものが多い。
しかし今回の著作は構成を複雑にしすぎているようで、個々の章はよく出来ているものの、全体のまとまりが悪く、どうにも散漫な印象を受ける。まあ、著者は全体に一本の芯を通す努力はしているようなので、それを読み切れない私の読解力に問題があるのだろうけど。
それはともかく、12章あるうち、8章から12章までの最後の5章がここだけでも読む価値があるくらい、抜群に面白い。
1980年代、E・ラッカーという高名な生化学者が、癌化におけるリン酸化カスケード理論、「まず司令塔の酵素があり、それにより酵素が次々にリン酸化し、最後に細胞のリン酸化が起きて、細胞が癌化する」を提唱した。ラッカーの研究室はその仮説を実証すべく、蛋白生成、酵素反応、電気泳動の実験を膨大な数行うのだが、誰もその理論を立証できなかった。
ある時、大学を卒業したばかりのマーク・スペクターという若い研究者が研究室に入り、彼が実験をすると、今まで誰も証明できなかったカスケード理論を立証するデータを次々に生み出していく。スペクターの実験は彼のみしか成功しないものが多く、彼は「神の手を持つ実験者」と皆からみなされるようになる。
スペクターの努力により、ラッカー教授のリン酸化カスケード理論は完璧に近いものに完成し、あの超一流学会誌「cell」にも論文が載った。
…しかし、ひょんなことから、彼の実験はすべて捏造ということがばれ、スペクターは遁走して、いまだに行方不明である。
スペクターは天才的実験者ではなく、天才的詐欺師であったのだ。
ところで、リン酸化カスケード理論は1990年代には完成しており、分子生物学上の大発見とされていた。そのなかでも司令塔蛋白であるチロシン・キナーゼの研究は、新薬開発の宝の山であり、2000年代にはどんどんその阻害薬が実用化され、たぶん本邦ではそれらの薬は何百億から何千億円の規模で使われている。10年ほど前も、私がいた教室ではチロシン・キナーゼの生物活性の研究はいつも誰かがやっているくらいポピュラーな研究であった。
そのため、この章を読んでいてリン酸化カスケード理論が誤りであったことを知り、???と不思議に思った。
正確にいえば、リン酸化カスケード理論は、ラッカー教授の予想通りであった。ラッカー教授の予想した通りの分子量の酵素がリン酸化のために列を並んで存在していた。しかしながら、その酵素はカーク教授の研究室でマーク・スペクターの「発見」したものとはまったく別のものであり、また司令塔の蛋白も、スペクターが示した「src」でなく「ras」であった。
ラッカー教授は自分の考え出した理論だけ発表していたら、いつかはどこかの研究者がそれを立証し、その理論を考え出した大科学者としての名誉をほしいままにしていたはずだが、天才的詐欺師の弟子にだまされたせいで、名声は地に落ちることになった。
リン酸化カスケード理論は、この発見により新しい抗癌剤が続々と生み出されたくらいの、ノーベル賞級の大発明なのであって、誰もが追試をするのは当然で、スペクターの捏造はいつかはばれるに決まっていたのだが、スペクターは奈落に至る捏造の道をひた走り続けた。
スペクターも最初のほうはちゃんと実験をして、そしてリン酸化カスケード理論を証明するdataを得られず、出てくるのは否定的なnegative dataばかりであった。negative dataを量産する研究者とは、じつはあまりに当たり前の存在なのであり、これをpositive dataに化けさせる捏造の誘惑は誰にも生じるのであるが、その誘惑にここまで見事に負け、荘大なホラをふいた研究者もまれなる存在であろう。
スペクターは、必然的に訪れる破滅よりも、捏造のdataを発表して得られる一時の偽りの栄光のほうを、大事に思い、わが喜びとした。
この暗くとも激しい情熱には、心うたれるものがある。
失踪したスペクターが、今なにをやっているのか。
実験の腕は確かだったのでどこかで研究者をしているのか。それとも天性の詐欺師の才能を生かしてその道を進んでいるのか。それとも、普通の生活人となっているのか。あるいは、もはやこの世の人ではないのか。
非常に興味がある。
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世界は分けてもわからない
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