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November 12, 2009

私の好きな絵:セザンヌ「大水浴」

Cezanne


 近代絵画の巨匠セザンヌの絵は、何よりも色が美しい。画面を見ると、それだけで目がひきつけられ、ひきこまれてしまう色の美しさは、セザンヌ特有のものである。それは色そのものの美しさに加え、色を構成するバランスが巧みだったからであろう。セザンヌは、色の構成のためには、構図にかなり無理をかけて絵を描くことが多く、その構図の破格さ(遠近法の狂い、解剖学無視、強引な立体形構成等々)が特有の魅力でもあったのだが、晩年になってそれらの実験的手法がようやく落ち着くところに落ち着き、円熟の極みのような作品を何点も残している。

 それら晩年の傑作のなかでも、特に私がセザンヌの最高傑作と思っているものが、フィラデルフィア美術館蔵の「大水浴」である。

 集団の人物が水浴をする姿を書いた水浴図は、セザンヌの若いころからの一貫したモチーフであり、多くの作図が残されている。その連綿と描かれてきた水浴図の最後の総決算のごとき大作がこの「大水浴」。

 美しい青色を基調に、生き生きとした樹々は画面中央でアーチをつくり、その元にたたずむ女性たちの群像。樹々の形も、女性たちの姿勢も、それ一つずつは不自然なものなのに、全体としてみると、一体の完成した伽藍のようでもあり、完璧としかいいようのない、圧倒的魅力あふれる造形をなしている。

 画面の構図から、絵を見る者の視線は自然と中央下部の女性たちの集まりにまず行き、次に青い川、対岸、対岸の村、そして空へと移っていく。
 最初に見る中央の女性たちは、大地の手をさしのべ、そこでなにかを触れようとしている。そのなにかは、今から大地から生まれ出るもののようでもあり、以前からそこに残されていたもののようでもあり、しかしいずれにせよ、非常に重要な、画面の芯となるものに違いない。その「なにか」としか言いようのないものを、セザンヌはあえて絵具で描くことはせず、キャンパスの白地をそのまま残すことにより表現している。描き残しの部分があることにより、この絵は未完成ともいえるのであるが、わざと描くことをしなかったせいで、この白地の部分は、それが「なにか」ということの解釈において「無限の可能性」を持つことになる。そして大水浴図での神話的な女性たちが触れようとしているものとして、それはもっとも適した表現法であり、それゆえに完成しているといえる。

 キャンパスの白地が残されたものとして、もう一つ、対岸の人物の顔がある。
 現実の事象ばかりを描きながら、しかし全体として、現実離れした、この世のものでもないような風景となっているこの絵で、対岸の人物だけは、この世に確固としてある存在に思える。神話的、あるいは彼岸的風景のなかで、対岸の人物だけは、絵を見る人に正面から対峙して立ち、絵に描かれたものと、そして我々を眺めている。この人物は、絵のなかの批評的存在であり、絵の精神の核と思える。その人物は、作者セザンヌ以外の誰でもないのだが、セザンヌはその自画像的人物を描写するとき、表情を描きこむことはせず、ここも同様に白地のままで残した。そのことにより、その人物は「セザンヌの魂」そのもののような表現を得ており、絵を引き締める確かな存在となっている。

 さてこの絵を見るものの視線は細部をめぐり、やがてまた全体へと戻る。
 褐色の優しげな大地、なめらかな樹々、風にさわぐ青い空、遠景の尖塔を立てた建物、そして先に述べた「未完成」の部、すべての細部がひとつに調和し、全体として完璧な安定を持つ、偉大な作品となっている。

 近代絵画の可能性をとことんまで追及したセザンヌの、晩年の、最大にして最高の達成がここにある。
 この絵の実物を見るためだけにもアメリカのフィラデルフィアに行きたい。せつにそう思う。

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