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October 07, 2009

読書:ナガサキ 消えたもう一つの原爆ドーム 高瀬毅 著

【浦上天主堂廃墟】
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 長崎の浦上は日本でも珍しいまでに幾度もの艱難におそわれた地である。
 長崎の港近き地ゆえ宣教師の訪れとともにこの地域ではキリスト教に帰依する者が多かったが、江戸時代の禁教令により彼らは迫害を受け、幾人もの殉教者を出した。それでも彼らは信仰を捨てずに隠れキリシタンとなって長い年月信仰を守っていた。明治維新とともに開国となり、浦上に外国の司祭が滞在し天主堂を建てたとき、隠れキリシタン達が訪れ、自分たちがキリスト教信者であることを告白した。しかし明治政府は幕府同様にキリスト教信仰を許すことはなく、彼らは囚われ、棄教を強いられ、それに従わないものは牢につながれ殺されていった。諸外国の抗議により明治政府がキリスト教を許可するまでその迫害は続けられた。
 浦上は、我が国のキリスト教の受難の象徴的な地であった。

 その浦上に、昭和20年8月9日、よりによってキリスト教者の国であるアメリカの原子爆弾が頭上で炸裂し、7万人を超える死者を出し、街の建物は破壊された。浦上天主堂も崩壊し、その時ミサを行っていた司教および信者たちも全員死亡した。
 かくも悲惨な迫害をいくども繰り返された浦上は、磔刑に処せられた街のように思える。

 戦争が終わり、街の復旧が進んでいくなか、原爆投下の惨劇を直に伝える天主堂廃墟は、貴重な原爆遺構として、保存が希望され、長崎市議会も保存を決議した。長崎市長も保存の意思を表明していたのであるが、なぜか急にその意を翻し、撤去の方針を打ち出し、1958年に天主堂廃墟を撤去し、そこに新しい教会を建てた。
 今に残されていたなら、広島の原爆ドームに並ぶ、人類の愚行を記念する貴重なモニュメントと成り得た天主堂廃墟は永遠に失われることとなった。

 本書は浦上の歴史、天主堂の歴史、長崎での被爆者達の思いなどを語ったのち、天主堂廃墟の撤去を決めた長崎市長の変節の理由を、当時の資料を集め、解明を企てている。
 変節の理由として、著者は市長が、アメリカの都市に招かれて(当時は国外に出るのは費用的に大変なことであった)、その後意見が180度変わったことから、アメリカの要請があったものとしている。たしかに、キリスト教者により建国されたアメリカという国にとっては、広島の原爆ドームはいざしらず、原爆に焼かれた教会の廃墟は、残されては迷惑なものではあったであろう。
 …著者の追及は、相当の過去の出来事を扱っていることもあって、隔靴掻痒の感はあり、じつのところ真の理由は闇の中なのではあるが、現実として、アメリカ訪問を終えたのち、市長は保存の方針を撤回し、ただちに廃墟撤去を決定し、貴重な遺構である浦上天主堂遺構はこの地から消えてしまった。
 著者の怒りと嘆きは当然のものに思われ、読んでいるこちらも同様の念を持たざるをえない。

【浦上天主堂廃墟のかわりにこのようなものが設置された】
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 浦上教会は原爆資料保存会側から遺跡を残して、新しい協会は現在の平和公園のある地に建てなおすことを勧められた。しかし結局遺跡は撤去され、かわりに平和公園には原爆投下の記録として「平和祈念像」が設置された。

 私はこの像をはじめて見たときに、不快感とまではいかないにしても、それに近い違和感を感じざるを得なかった。日本の歴史上どこにも存在しなかった形式の像であり、どうみても白人男性をモデルにした、ポーズも表情も力の誇示しか示していないような、この像のなにが平和祈念像なんだろう?

 それがこの書を読んで私の違和感の理由が私なりに解けた。
 大戦後、長崎の被爆者たちの思いには、半ばやけくそのような、原爆恩寵論が実在していたらしい。
 すなわち「原爆が我々の上に落ちたのは、我々が戦争という大罪をおかしたため、神が我々を生贄の羊として選び、罰したのだ。原爆は平和をもたらすための神の摂理であった」てな、今となっては寝言にしか思えない論である。(でも以前の長崎市長も似たようなことを言っていたので、信じがたいことだが、まだ長崎には残っている思想なのかもしれない)

 この論から敷衍すれば、あの奇怪な平和祈念像がよく理解できる。
 あの平和祈念像こそ、「神の摂理」であり、「原爆そのもの」であると。
 平和祈念像の、いやらしいまでの力の誇示、arroganceとしかいいようのない表情。「平和」とはまったく異なる像全体の表現は、しかしあれが「原爆」と考えると、まったく矛盾なく理解できる。あの像から感じる第一の印象「力の誇示」は、まさに「原爆」の本質であるから。
 平和とは「力」によってもたらされるもの、という論は、一面の真理であることは否定しない。しかし、長崎の平和公園に、平和をもたらした神として「原爆」を祭るのは、それがアメリカのやったことなら(腹は立つだろうけど)理解できぬこともないが、何万人もの無辜の民間人を虐殺された日本人が、その虐殺の道具を神として祭るのは、どう考えてもおかしいよ。


 原爆投下の象徴としての浦上天主堂廃墟が失われてしまったことを、著者同様に、私も深く惜しむ。


……………………………………………
ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」

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