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August 2009の記事

August 30, 2009

鹿児島あちこち

 鹿児島へは鮨の食べ歩きにでかけたというわけでもなく、鹿児島観光名所をあちこち訪れたので、かるく紹介。

【磯庭園】
Sakurjima

 鹿児島市の第一の観光名所。磯庭園。薩摩の大名であった島津家の別荘跡です。
 正面に広がる桜島の勇壮な姿が借景として抜群。
 庭には南洋系の植物がたくさん植えられ、純日本風の庭園のつくりに妙なミスマッチング感を与え、独自の異国的な情緒があります。

【塩浸温泉】
Shiobitashi

 鹿児島市は暑いので、少しでも涼しいところへと霧島方面に向かう。
 途中にあるのが、塩浸温泉。坂本龍馬が寺田屋事件のあと、傷の療養と、それに新婚旅行を兼ねて訪れたところとして有名である。
 …しかし、工事中。老朽化した温泉施設に加え、龍馬が入ったという川沿いの露天風呂もなぜか工事中になっている。(シートをかぶせているところ)
 道路から丸見えの、いったい誰が使うのであろうかという変な風呂であったが、あれも修復するのかな?

【塩浸温泉2】
Ryouma_park

 施設に加え、橋まで修理中。この橋のむこうに、龍馬と妻おりょうの像が立っている公園があるのだが、渡れないのでは行けません。

【丸尾の滝】
Maruo_fall

 霧島名所、丸尾の滝。
 滝の近くなら涼しいのではと思ったが、まったく清涼感なし。それもそのはず、この滝を流れているのは温泉なのである。

【目の湯】
Menoyu

 えびの高原に向かう途中にある「目の湯」。温泉がそのまま小川となって流れている、なんとも勿体なくも羨ましい川であり、ところどころ湯船風に岩を組んでいます。秋から冬にかけては少々ぬるめな温度であることが多かった記憶があるが、夏に訪れてみて、川に手を入れてみると、案の定あついあつい。これに浸かるには根性がいるな。


 なにはともあれ、夏の鹿児島は暑かった。…あたりまえの話か。

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鮨:紫光@鹿児島市天文館

 紫光で昼に鮨をお任せで食う。
 ヒラメ、ヒラメ昆布〆、ヒラメ縁側昆布〆、野菜、松茸、シンコ、サバ、アジ、赤身、中トロ、大トロ、海老、アオリイカ松笠焼、アワビ、アナゴ、玉子…といったところ。

【シンコ】
Sinnko

 シンコは鹿児島市でも食べられるのです。
 シンコを地元でも食べたいという、鹿児島の鮨好きな人たちの後押しもあり、紫光では東京なみに夏の早い時期からシンコが出てくるのである。
 シンコも美しく、シャリも地紙型の美しいもの。

【松茸】
Matsutake

 ちょっと珍しいネタである松茸。
 もう松茸と思ったけど、季節は9月のすぐ前なんだよな。
 時の経つことの早きかな。

【中トロ】
Tuna

 鮪は、赤身・中トロ・大トロの3連発。
 ほんと鮪は旨みが増してきました。このレベルになると、堂々と鮨の主役を張れます。
 鮪は大間のもの。もう大間の鮪が出てくる季節になってきたわけだ。
 先日光洋に行ったときは三厩の鮪が出てきたので、津軽海峡は、今は旨い鮪がいっぱい泳いでいるみたい。


 紫光の鮨は、普通に美味しいのが特徴かな。
 どれもいい素材にいい仕事をした鮨が、落ち着いた雰囲気のもとに供されます。
 腰を据えて、しみじみと美味さをかみしめながら鮨を食う。そういう静かな鮨の味わい方もいいものだと、紫光の鮨を食うたびに思います。

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August 29, 2009

鮨:夏の鮨匠のむら

 夏に鹿児島市を訪れる気はとてもしないのだが、ちょいとした用事があり、暑いなか鹿児島市へと着。
 鹿児島、暑いっす。鹿児島に降り立つとただちに熱風が吹きつけてきて、立っているだけで身体中に熱がこもってしまう。さすが亜熱帯。

 夕刻のむらを訪れ、命がよみがえるような生ビールをまずはぐいぐいと飲む。
 今日も山登りの帰りですか、と店主がたずねる。こんな気候のなか、無理ですって。

 さて、今の時期ののむらは赤雲丹が途方もなく美味くなってきているはずであり、これをまずは楽しみにしていた。
 のむらの赤雲丹は、最高の時期には言葉を失うくらいに美味くなる。
 以前この店を贔屓にしているロッテマリーンズのS選手が雲丹を食いたくなり、同僚に「日本一の雲丹を食わせてやる」と言って、羽田空港に連れて行った。同僚氏はてっきり北海道に向かうかと思いきや、なぜか飛行機の行先は鹿児島であった。怪訝に思いながらのむらに連れて行かれた同僚氏は、そこで雲丹を一口食うや、確かに日本一の雲丹を食べていることを確信したそうだ。
 まあ、そういうエピソードがあるくらいのすごい雲丹なのである。

【雲丹】
Urchin

 その雲丹。
 …美味い。とんでもなく、美味い。
 盛夏を過ぎ、卵の一粒一粒の丸っこい食感が感じられるくらいまで熟れてきている。味は甘く、旨みも十分。特筆すべきは、味の純粋さ。この甘みと旨み以外には、余計な味はなく、ただただ甘みと旨みが口のなかいっぱいに広がる。
 雲丹の素材が極上とはいえ、それを殻から出しただけではこのような味にはならない。しっかりと寝かせて、身が崩れる前ぎりぎりのタイミングで出すから、ここまで濃厚な美味さを発現できるのであろう。
 ただただ、言葉もなく雲丹をがつがつと食う。(ついでにがんがんと酒を飲む)

 本日の肴に鮨は、メイチダイ、ロウニンアジ、スジコ、丸サバ、タコ、シャコ、マグロ、アマダイ、エビ、サヨリ、サンマ、イワシなどなど。

 どれもが素晴らしく美味い。
 雲丹がそうであったように、のむらの料理は素材が抜群によいのに加え、その手当が高いレベルで為されている。最初の魚が獲れたときから、馴染みの漁師によって細心の注意をもって〆られており、それにのむら独自の調理が加わり、素材となる魚が、その魚の最も美味しい形となって料理となる。食われる魚としても、魚冥利に尽きるであろうという、そんな料理だ。

【海老】
Shrimp

 地元の素材を大事にするのむらならではの海老料理。
 鹿児島特産のボタンエビみたいな海老だそうだ。(正確な名前忘れた)
 清冽な甘みがたいへんよろしい。

【筋子】
Ikura

 この筋子も素晴らしい。味の豊かさは、あの極上の雲丹にも負けないくらい。

【雲丹と筋子の丼】
Don

 その雲丹と筋子のコラボレーション。
 お互いの味がジャマすることもなく、相乗効果で、面白みのある豊かな味の丼となっている。

 夏も盛りを過ぎ、魚は明らかによくなってきている。
 本日の店主はノリノリであり、(まあ、いつもノリのいい人ではあるが)、美味い素材を得て美味い料理を出す喜びのオーラを発散させながらの、のむら劇場であった。
 開幕から閉幕まで、十二分に堪能させていただきました。

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August 28, 2009

期日前投票に行く(2) 最高裁裁判官国民審査

 社会人になってわかったのは、私たちの社会に対して司法の強い影響力である。
 我々の住む社会は法治社会ということになっているが、社会を律するところの法律は、正否がはっきりしているものが案外と少なく、それを運用する側が恣意的に判断できるものが多い。
 そのため運用者側に、良識・知識・常識といったものが揃っていないと、法律は妙な解釈をされ、社会のための法律が、法律のための社会みたいな関係になってしまう。

 私らの業界では、トンデモ判決がここ10年ほど立て続けに出されたため、特定の部門の業務が壊滅的打撃を受けた。それは主に危険を伴う部門の業務であり、もともとは業界人の使命感とか義務感によって成り立っていたわけだが、司法が「それは違法だ」と判断したがゆえ、誰もやる者がいなくなり、消滅寸前になりつつある。

 消滅した場合、まあ従業員は危険な仕事が減って助かるわけだが、…周囲の者はたまったものではなかろう。これについては、ここ数年のひどい状況が顕在化して、深刻な社会問題となっている。しかし改善の見込みは全くなく、これはさらに悪い方に進んでいくのは確実である。
 どうなってもおれは知らんぞ、とか言いたくなってしまう。


 このような状況になった主因は先に述べたとおり、エポックメイキングのような司法判決が何件も出たためで、その判決文を読むと、まさにトンデモ裁判としか言いようのないのである。司法側にはそれなりに言い分はあるかもしれないが、結果としてそのような社会生活を破壊に導くような判決を堂々と出す裁判官については、その資質というものに大いなる疑問を持たざるをえない。

 選挙の結果トンデモ政治が行われても、それはそのような議員を選んだ国民のせいであり、「国民はしょせん国民レベルの政治家しか持てない」とか、シニカルに構えることもできようが、裁判官については、そのようなトンデモ裁判官を、我々が選んだわけではない。

 しかし選ぶことはできないが、罷免させることはできる。
 社会規範から外れたトンデモ裁判官が多数跋扈するようになれば、国は潰れるわけで、そうならないための防御機構として、最高裁裁判官の国民審査がある。議員を選ぶことは大切な権利であるが、こちらのほうも負けず劣らず大事な国民の権利だ。

 今の時代、最高裁の判決文は容易にnetで読めるので、国民側の判断材料が豊富なのは素晴らしいことだ。自分らの業界に関した裁判のみならず、世で問題になった最高裁判決をnetで検索し、いろいろと読んだが、…まあ自分の専門分野とはずれるところははっきりと判断はできないのだが、それにしても妙だと思える判決が多い。こういうものを、専門家が解説しているようなweb siteがあればありがたいのだけど。

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期日前投票に行く(1) 衆院選選挙についての雑感

 8月30日は選挙日なのであるが、用事があって投票に行けないので市役所に期日前投票に行く。
 投票はその行為が棄権であれ投票であれ国民の義務と思っているが、休日であっても、仕事があったり、旅行にでかけたりで、なかなか投票に行けないことが多く、この期日前投票の制度は、忙しい社会人にとってはとても有難い制度だと思っている。
 というか、早くオンラインで投票できるようにしろよ、とか思わぬでもない。

 さて、今回の衆院選挙は民主党の大勝が確実視されて、各メディアで大々的に報道されている。
 とりあえず、民主党に魅力があるかどうかはともかくとして、自民党に国民が愛想をつかして、政権交代を求める気分が横溢しているのは間違いない。メディアによる民主党300議席越えの報道って、私にはとても信じられぬけど、民主党が次の与党になることは間違いないことといえよう。

 民主政治は、(1)政権交代を流血騒ぎを起こすことなく行えること、(2)民衆が政治に参加できること、の特長を持つ。(1)は素晴らしい利点だが、問題は(2)である。
 選挙によって生じた政権は、当然のことながら国民が選んだものであり、ならば国民はそれに責任を持たねばならない。今度、民主党が政権をとったならば、そこで生じたことは、鳩山氏や小沢氏や管氏に責任を取れと言って済ませるものじゃないです。ひどい目にあったしても、それは私ら国民も責任を持たないといけない。民主政治はその意味で残酷だ。

 選挙前だから、民主党の悪口を書くわけにはいかないし、もしかしたら民主党が政権をとって素晴らしい政治を行ってくれる可能性もないわけではないが(笑)、あんな泡のようなマニュフェストを恥じらいもせず出せる政党を、さて国民はどう判断するのか。メディアの言うとおりに、300議席を超える大勝になるのか。

 今回の総選挙で、自民党は歴史的敗退におちいるそうで、党は四散し、解党せざると得なくなるそうだ。
 そうなると麻生氏は、50年の歴史を誇った自民党最後の総裁ということになる。

 麻生氏の政権時代をみるに、これほどメディアからぼろくそに言われた人もいないし、部下にも恵まれなかった(まあ、これは選んだ本人が悪いとも言えるが)人もいないが、客観的にみれば、麻生氏は有能であったことは間違いない。
 私もこの人がここまで逞しく、芯の強い人とは思いもしなかった。周囲の雑音を抑え、特にあの経済危機をなんとか乗り切れた手腕は、評価せざるを得ないであろう。

 ほんとのところ私は日本の今後の行きかたは、小泉構造路線でやるしかなかったと信じているが、それを反故にした麻生氏のやり方には、まったく感心しない。
 ただしここまで舵を切ってしまった以上、政治的には継続しかない。そして、政治は継続がなにより大事なのである。

 せっかく、うまくいきだした麻生氏の路線がここで御破算になり、またあの「失われた10年」が始まるかとなると、今度の選挙は、ちょっとばかり憂鬱になってしまう。

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August 26, 2009

読書:自治体クライシス 伯野卓彦 著 

 最近自治体が再建団体に指定される危機に陥っているという記事をよく見るけど、その危機の原因は2007年6月に実行された「自治体財政健全化法」にある。
 地方自治体は今までは自治体が経営する病院や、第3セクターの赤字や借金を会計には載せなくてよかったのだが、それが法律実施後より会計に計上しなければならないことになり、今まで隠していた借金がどっと明るみに出てきてしまった。借金の比率の高い自治体は、民間で破産にあたる再建団体への指定がなされて、夕張市のような悲惨な状況に陥ってしまう。
 法律実施後より、借金まみれの自治体がたくさん出てきて、どの自治体も再建団体指定を逃れるべく必死の努力をしている。

 本書では、いかにして自治体が借金まみれになってしまったかをレポートしている。

 ここでは、財政破綻を来たしている自治体がいくつも紹介されており、最も多くの頁を費やして書かれているのが、青森県の大鰐町。スキー場しか観光名所のない寒村が、バブル時代の波にあおられ、巨大で豪華なレジャー施設、宿泊施設を建て、バブル崩壊とともにそれらの施設のほとんどが廃墟となり、残ったのは50年かけても払い終えそうにない膨大なる借金のみという惨状に見舞われる。町民にとって悪夢以外のなにものでもない物語は、じつは当時の日本中あらゆるところで起きていたことが、本書で書かれている。

 大鰐温泉スキー場、私は6年ほど前に一度行ったことがあるけど、コースの変化に富んでいて、しかも人が少なくて滑りやすいいいスキー場だと思った。いいスキー場ではあるが、交通の便が悪いので、2度行く気は起きず、その後訪れたことはない。九州在住の普通のスキー愛好者は、飛行機使うなら北海道か長野に行くに決まっている。あの位置では、全国から年間50万人集めるという計画は、白日夢にしか思えない。もっともバブルの時期は、そんな計画でどんどん巨大テーマパークが建てられた異常な時代であったのだ。

 バブル時代は、みなが王侯貴族のような生活が出来るであろうと本気で思い、そしてそれを実行してしまった時代であった。今はバブルがはじけ、人は反省をし、身のたけにあった生活をするように本道に帰ろうとしている時代とはなったけど、反省したからといって、作ってしまった借金が消えるわけもなく、あの時代の負の遺産に今も多くの自治体が苦しめられている。

 とはいえ、バブル時代の建築物については精算がそれなりには終わり、各自治体は爪の火を灯すような倹約生活をしながら借金を返す日々を送ることで、結末はついている。  しかしながら、借金を生み出す大物が現在進行中でまだ残っている。
 著者が最後の章で示しているのが、自治体病院の赤字の話だ。自治体病院の多くは赤字であり、それが自治体の財政を苦しめている。

 住民の健康保全は自治体の大事な仕事なので、自治体は公的病院を所有していることが多い。ところで、現在の医療制度では、救急・産科・小児科という分野は必ず赤字になる。しかし儲からない分野だからといって、それを住民の健康を守るためには、公的病院はそれらを放棄することはできず、結果、公的病院は必然的に赤字になり、病院維持のため自治体はそれに補助金をつぎこむ。それが苦しい自治体の財政をさらに苦しめ、町がつぶれるか、病院をつぶすかのところに追い詰められていることが多い。

 病院がいまは自治体にとって、お荷物であり、金を吸い取る怪物になってしまっている。

 霞ヶ関の考えでは、人が不相応なものを望み、つくり、そして失敗したバブルというもので、最後に残ったバブルが公的病院というわけらしい。「いつでも診てくれて、現代の標準レベルの専門的医療がどこでも受けられる」と思っていた病院は、じつは貧乏自治体の住民にとっては、贅沢きわまりない存在であって、それこそバブルそのものであり、もはやそんなものを持てる力を日本の自治体はどこも有していない、と中央政府は結論つけている。

 宮崎でも病院崩壊の記事が毎日のように新聞に載っているけれど、バブルの終焉ということで仕方のないことみたいだ。バブル時代のあの遊興がもうないように、病院が高度に機能していた時代も過去のものになろうとしている。
 本書を読むと、これからは、日本に住むにあたり、私たちは身のたけにあった医療を受け入れねばならない時代となったことがよく理解できる。

……………………………………………………
自治体クライシス 伯野卓彦 著 講談社

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August 19, 2009

寿司@8月の光洋 and 一心鮨本店送別会

 8月って鮨屋ではいいネタの入手がとても難しい季節だと思うが、光洋ではいかなる鮨が出るのであろうかと来店。店に入るとネタケースには見事なくらいネタがそろってなく、うん今はネタ切れの季節かと私は納得してしまった。
 やっぱり夏枯れのシーズンですねえとか私は言ったのだが、店主は「とんでもない、今日はたまたまカウンター予約の客が少ないので、ネタケースには魚は置かず、きちんと保存するために、ネタはネタ箱に入れているのです」と主張。実際に店主はネタ箱からいろいろと美味しい肴と鮨種を出してきたわけで、…おみそれいたしました。

 でも、まあ全体の感想としては8月は魚が弱いですなあ。
 それでも、上手く調理した肴が出てきて、気持ちよく酒が飲めました。

【鰆】
Sawara

 鰆は「春の魚」という字を書くわりには、いつが旬やらよく分からない魚である。
 ただ、たぶん今は旬でないみたいで、味は全盛期に比べ弱め。これをいい味のポン酢で和えれば、上品で豊かな味が広がる。

【鯖】
Mackerel

 8月で真鯖は、養殖はありとして天然はないだろうと思っていたが、目の前で調理する鯖は脂がよくのった上物。それを食ってみれば、脂はけっこうのっていたが、晩秋の鯖にはやはりかなうものではなし。
 でも今の季節にこのレベルの真鯖が出てくるとは驚きである。

 そして、鯖もそうだったが、今日でてきた三厩の鮪も、8月の鮪としては考えにくいくらいの、成熟した濃厚な味。
 どうにも魚の旬がずれてきている。明らかに日本の自然環境は、温暖化が進行し、亜熱帯化していますな。
こういう「本当の旬」というか「本当の季節」を、自分の舌で知ることができるのも、寿司屋の楽しみであります。

 旨い肴と鮨を食い、旨い酒を飲み、客が私一人となってこともあり、さて帰ろうかと思ったら、本日は、姉妹店の職人が退職するのでその送別会をするので、それに付き合いませんかとのこと。この店は人の入れ替わりが激しい店であり、知らぬ間に店の人がいなくなることが多いので、そういうのを寂しく思っていたので、それは是非参加させてくださいと、部外者の私が送別会の焼肉屋(鮨食ったあとは、ちょっときつい)へと同行。

 今回送別される人は光洋の姉妹店というか本店の一心鮨で9年間努めていた方である。今まで学んだ技術を生かして、和食店あるいは鮨店を開くのかと思いきや、郷里の父親の農業を継ぐとのこと。
 となると今まで学んだ職人としての技術が途絶するわけで、もったいなく思える。ただし、次からは同じ食材関係の仕事。美味いものを供するということに関しては同様の仕事なので、それには今まで学んだ「どうやって美味いものを出すのか、つくるのか」という、深奥にしてやりがいのある命題と常に向き合うことになり、今までの経験が必ず役に立つと思う。

【送別会風景】
Koyo_staff

 そういうわけでの送別会風景。
 光洋のスキンヘッド軍団は、こう集まると、どうみても危ない人の集団に見えますな。一応、格闘技集団とか、ヤの字のつく職業の人ではありませんと注釈をいれておきます。
 もし興味を持った方がおられましたら、どの人がどういう役割かを、一度店に来て確かめて下さいませ。

 一人まともな格好の人が、今回の送別される人であります。
 送別にあたり、宮崎の大地で、とっても美味いイチゴを作ってくれることを祈念いたします。

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August 17, 2009

土産:マッカラン18

 知人にロシアに定期的に出かける者がいて、この前にロシアに行ったときに土産はなにがいいかと聞かれたので、「とりあえず、酒」と答えておいた。するとなんとウォッカを買って来た。(当たり前といえば当たり前の話なのだが)
 ウォッカというのは使い方の難しい酒で、ツマミが妙に脂っこくて塩辛いものしか合わない気がして、せっかく買ってきてもらったというのに、なかなか減らない。

 さて、その知人がまたロシアに行くというので、お土産はなにがいいかとまた聞く。「とりあえず、酒」とまたも答える。(これしか欲しいものがない人間なのです)
 「でもウォッカはまだ余っているからいい。空港の免税店でマッカランを買ってきて。できるなら30年ものを」と、マッカランを頼んでおくことにした。

Wisky

 というわけでやってきたのがマッカラン18。30はなかったそうだ。

 私はウィスキーは好きではない。ウィスキーは全体的に味がつんつんして、咽越しの感覚が強すぎ、酒を味わうというより、アルコールを味わうというような気が私にはするからである。
 しかし、マッカランは例外的に好みだ。まず香りが尋常でなく高く、味わいもまろやかで、醸造酒に通じる豊かな味わいがある。

Macallan

 これを薩摩切子の猪口に注ぐと、そこから豊潤な香りが立ち上り、それだけで満足感を感じることができる。マッカランもツマミが難しい酒だが、ツマミもなしにちびちびと飲みんで十分に美味しく、日々、少しずつボトル内の酒の量が減っているところである。

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映画:ナイトミュージアム2 (地方の映画館の問題点)

 延岡市に一軒ある映画館延岡シネマは、座席は階段形式で画面が観やすく、また音響設備もよく出来ており、映画館としては申し分のない存在なのだが、…どういうわけか客が少ない。
 それも極端に。
 宮崎市イオンのシネコンだと客の入りはけっこう良く、宮崎県での映画の人気が低いというわけでもないと思うのだが、延岡シネマで映画を見ると、客の入りの少なさに大丈夫か?と思うことが多い。
 だって、延岡シネマで観た映画では、客の数でいえば、「ワルキュール」私一人、「天使と悪魔(しかも封切り日)」私一人、「おくりびと」3人という惨状であった。(あ、まだ「天使と悪魔」の映画評をblogで書いていなかった)
 映画好きの者としては、まあ貸切状態で映画が観られるのは有難いこととはいえ、いくらなんでもこんな状態で経営が成り立つわけはなく、他人事ながら心配してしまう。とりあえず私がここに住んでいる間だけでも、なんとか持ちこたえてほしい。

 それはともかくとして、ナイトミュージアム2の評に入るわけだが、この映画は第一作が馬鹿らしくも面白い出来で2作目にも期待していたのだが、たぶん良い出来の映画ではあったと思う。主役のベン・スティラーは達者な演技をしていたし、ヒロイン役のエイミー・アダムスも凛々しくも美しかった。
 ただしだ。基本的に子連れの家族向け映画ということもあるらしく、地方では日本語吹き替え版しか上映していなかった。やむをえず吹き替え版を観たが、これは辛かった。
 ナイトミュージアム2はギャグの会話があらゆるところに散りばめられた映画である。主人公と警備員の遣り取りとか、エジプト王と3人の悪者の会話とか、主人公とヒロインのドタバタとか。
 ところが、この映画館でのナイトミュージアム2では吹き替えであったため、そのギャグはすべて日本語に翻訳されている。ギャグというものはだいたいが翻訳が困難なのに、それを無理やり日本語のギャグにするから、セリフを聞いていて、なんかこれは違うだろう、たぶんもっと面白いことを言っているに違いないとか思ってしまう。こういうところが気になって、映画そのものに集中できなかった。
 
…ならば、原語でやるとして、あのネイティブの早口のギャグがお前に分かるのかと言われれば、分かるとまでは断言しないが、日本語よりはよほど分かるはずだ。ギャグの会話とは万国そういうもので、たとえば日本の狂言だって、いちいち翻訳せずとも外国の方だって、あれ見て笑い転げるわけでしょう。

 そういうわけで、今回は地方の映画館の問題点が気になってしまった映画体験であった。

……………………………………………
ナイトミュージアム2 公式サイト

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August 16, 2009

花火@延岡市北浦町

 8月15日は盆であり休日でもあるのだが、朝から仕事に呼ばれ、そのまま夜まで仕事を続け、家々の前に焚く送り火を見ながら家に帰り、しばし寝たと思ったら、翌16日早朝にも職場に呼ばれ午前中もずっと仕事。
 平成21年は元旦も盆もほとんど不眠不休で仕事をしてしまった。世間一般が休んでいる国民的休日に仕事するのはまあ我慢するとしても、それを24時間ぶっ続けで眠らずに仕事するような職業からは、そろそろ足を洗おうかなあなどとも思わぬでもない今日この頃。

 16日の午後は、仕事を終えたのち家に帰って「うまかっちゃんラーメン」をネギを刻んで入れて食い、(うまかっちゃんは、九州味のインスタントラーメンとして出色のできだと思う)、腹が満ちたのちは、すってんと泥のように寝てしまい、起きたのは午後6時であった。

 8月16日は北浦町深江港の花火大会である。
 北浦町は漁業の盛んな所であり、とくに養殖業に力を入れている。サバやカンパチなどの養殖魚の質がよく、全国的に人気があるということで、ここは宮崎では例外的に元気のよい地とされている。ならば、花火もさぞ活気あるものではなかろうか?

 北浦までは25kmほどの距離。自転車で行くにはちょうどよいくらいの距離であるが、問題は天気だ。天気予報をみると、午後6時以後の天気は降水確率50%ということになっている。少々の雨なら花火大会は中止にならないにしろ、雨のなか自転車漕ぐのは嫌だなあ。路面も滑るし、見通しも悪くなり、安全にもよろしくない。といって渋滞するに決まっているところに車で行く気はしない。
 さて、午後6時に起きて、天気はと外をみると、見事に晴れている。天気予報外れたなと思い、自転車で北浦へ発進。

 北浦への道は、前にwebで紹介したように海沿いの道を行けば、楽しいサイクリングロードなのであるが、今回は花火目当てなので、あんなアップダウンの激しい道に行く気にはなれず、国道388号線を使って北浦深江へ直行。
 いつもよりはるかに車の量が多く、深江近くで国道は予想どおり大渋滞となる。その横を私は自転車の特権とばかり、路側帯を使いす~いす~いと抜けていく。途中で車の中から私の名を呼ぶ者がいる。同じ職場の者が花火見物に来ていたのだ。ちょいと挨拶して、先を急ぐ。

【花火】
Fireworks

 漁港を前に花火がいくつもいくつも上がっていく。
 花火の明かりで一瞬浮かびあがる漁船と漁港の姿、広い海面に姿を写しながら放射していく花火の美しさ。やはり花火は、自らを移す水面や海面のあるところで打ち上げるほうが、ぐっと風情が増しますね。

 帰りは駐車場から出るのにも苦労し、その後も渋滞している車の列を横目に見ながら、快適に自転車を漕いで行く…漕いで行く……はずだったが、途中から天気予報通りに雨が降ってきた。
 雨は降らないものと思っていたので、まともな雨具は用意してなく、簡易式のビニール製のポンチョしか持ってこなかった。(これは収納時はポケットティッシュなみの大きさという、持ち運びに便利なすぐれものである。ただしいったんケースから出すと、収納は不可能になる、使い捨て形式というのが、ちょっと難)
 しょうがないので、ポンチョをすっぽりかぶり、てるてる坊主の格好で、ポンチョをひらひらとはためかしながら夜の国道をひた走った。なんか格好悪いなあ。


 翌日花火大会に行った職場の者が、私の自転車の走りを見て、その速さに感心したと言う。自転車をなめるんじゃないよ、平地なら時速30kmで巡航できるんだから、と偉そうに私は答える。
 まあ実際のところ偉いのは私ではなく、Colnago Cambiagoという高性能の自転車なわけだが。

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August 14, 2009

花火@延岡市北川町

 延岡は花火が好きな地らしく、8月に3回も花火大会がある。
 3回とも場所は違っており、街の中(延岡市)、山の中(北川町)、海の傍(北浦町)と、それぞれの風情が楽しめるようなロケーションとなっている。

 本日は北川町で花火大会。15kmくらいのところなので、自転車で国道10号線を北上し北川町に到る。
 北川町運動公園で花火を打ち上げるとの情報は得ていたが、その正確な位置は知らなかったので、人と車の流れる方へと向かい、川の上の橋に花火を待ち構えている人がたくさんいたのでそこで花火を見ることにする。

【花火1】
1fireworks

 花火の音が響き、その方向を見ると花火が空に輪を描いている。
 川面にも花火が映り、いい風景である。
 しかし、花火は近くで見上げるべきもの。これは場所の設定を間違えた。
 ここで自転車の機動力を生かし、花火の打ちあがる方目指しさっさと移動。

【花火2】
2fireworks


 そこで見上げる花火は迫力十分であった。前回の延岡の街中の花火は山の上から見てしまい、物足りなさが残ってしまっていたので、今回ので十分にもとは取り戻せた。(なんの?)

 花火を最後まで見終わり、自転車で延岡市に戻る。
 すると街中で、10時も近いのに花火が上がっている。この花火の打ち上げはまったく事前の情報はなく、またあとで他の人に聞いてもそのような催しがあると誰も知らなかったので、花火好きの個人が上げたもののようだ。
 都城も花火好きの人が多く、個人的な祝いのため、日時場所関係なくやみくもに花火を打ち上げていたものだが、延岡もその手の人が生息している地のようである。
 いいところだ。

【延岡市の花火】
3fireworks


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August 12, 2009

流星の夜

 夏の夜の天体ショー、ペルセウス座流星群は今年は8月12日の深夜だ。
 こういうものは天候にすべてがかかっているわけだが、天気予報をみると晴れないしは薄曇りという感じなので、期待はできる。

 流れ星といえば、私にとってまずは思い出すのは、だいぶと前に真っ暗な阿蘇の夜道を歩いていたときのこと。いきなり夜空が明るくなったと思ったら、ジュワーとかいう音とともに一筋の光が夜空を裂き、それから消えた。そのあと、なんともいいがたい焦げくさい臭いがあたりに漂った。流れ星というものが、宇宙の妙なものが焼け落ちてくる現象ということを、目のあたりに見た体験であった。
 もちろん、たいへん美しい光景であり、その後はあれほどの迫力のあるものは見たことはないものの、それなりに、印象に残る流れ星はいくつも見ており、流れ星は好きである。それらの経験は、たいていは山の中でのことで、星が満天にギラギラ輝く夜空から、そのうちの星の一つがいきなりすってんころりと地上に零れ落ちてくるような、そんな光景を感慨深く見せてもらった。

 流れ星はあんがいと普通にあるものみたいだが、問題は夜空が暗くないと見えにくいということで、それで明かりがある地では、どうしても見にくい。
 しかし、流星群の日は、流星の元の密度が格段に違うので、少々夜空が明るくても、それに負けぬ流れ星が降ってくる可能性が高い。

 本日は夜の2時が流星のピークということで、そのころ外に出る。立ったまま上を見あげていると首が疲れるのは経験上分かっているので、近くの駐車場に銀マットを敷き、寝っ転がって夜空を見上げる。

 …しかし、街のなかなので街灯や建物の明かりがあるのはしょうがないとして、天空に月が輝いているのには参った。かなりの明るさであり、これじゃ相当明るい流星じゃないと見えないなあと思っていたら、長い軌跡を残して流れ星が一つ飛んで行った。これは数が期待できるかなと思ったら、だんだん雲が湧いてきて、夜空を覆ってしまった。
 しばし待つも雲は厚くなるばかりで、結局流れ星を一個見ただけで、もう諦めた。

 寝る前に、熊本の星好きな者に、宮崎はダメだったとmailを送ったら、すぐに熊本も雲だらけでダメでしたとの返事が来た。
 今年は南九州は全体的に厳しかったみたいでありました。
 さて、来年はどうなるか。

【雲と月】
Night_sky

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August 09, 2009

鮨:つく田@唐津市

 福岡で日曜の昼に鮨を食うときは、たいてい薬院の近松を利用している。しかし一月前に近松を訪れており、まだそれほど鮨種も変わっていないだろうから、目先を変え、少し遠いところにあるけど、久しぶりに唐津市の「つく田」に行くことにした。

 昼というのに相変わらず、酒を頼んで、肴と握りを楽しむ。
 昼の肴は、多くは鮨種の刺身を切ったもの。それに、アコヤ貝と、雲丹の塩辛、ミョウガといったところが加わる。つく田の名物、イワシのオイル漬けは、まだサイズが小さく鮨種にならなかったので、肴として出てきた。

【イワシのオイル漬け】
1_sardin

 江戸前鮨の華であるコハダが唐津ではめったに上がらないので、それに対抗できるような光りものを店主がいろいろ考えた結果、唐津ではいい鰯がよく上がるので、これをオイル漬けにすることにより、店名物の鮨として定着。肴としても、はなはだ美味。

【酒の器】
2boul

 つく田の酒器は、唐津在住の陶芸家中里隆氏によるもの。
 中里氏は江戸前鮨が大好物であったのだが、九州ではそれが食べられないことをかなしく思い、地元の一流の料理人をくどき、伝説の銀座の鮨店「きよ田」に修行に行かせて江戸前鮨を会得させ、「器は全部自分が提供するから、寿司店を開いてくれ」と、まずは地元の唐津市に「つく田」を開店させた。さらに仕事でよく出かける福岡市にも江戸前鮨店が欲しくなり、同様にして「安春計」を開店させた。
 なんとも、小説とか漫画のなかにしか存在しないような御仁であるが、そのようなとんでもない食通が世には実在し、そのおかげで私などが、九州で一流の江戸前鮨が愉しめているわけで、ありがたいことである。

 鮨は、鯛、甘鯛コブ〆、水イカ、車海老、赤西貝、時知らずのヅケ、〆イワシ、ホタテのヅケ、雲丹の海苔巻き、アナゴなど。

【時知らずのヅケ】
3salmon

 脂のいっぱいのった鮭が、ヅケることによりさらに美味さが増し、力強い鮨となっている。

【ホタテ貝のヅケ】
5scallop

 これは「つく田」ならではの料理。古い江戸前の技法を用いたとのことであるが、ホタテをヅケたものを、叩いて柔らかくして、シャリを包みこむようにして握る。シャリを支えいるホタテの豊かな味の広がりから、ホタテの新たな魅力が分かる。

【イワシの〆もの】
4sardin

 唐津の鰯はいつでもとても美味しいのだが、今回のは脂がとても乗っており、オイル漬けにするよりは〆たほうがあっているということで、〆もので。口になかに美味さを主張しながら、柔らかくとろけていく食感が素晴らしい。


 「つく田」は本格的な江戸前鮨店であるが、江戸前の華である、マグロ、コハダにはさほどこだわっていない。なぜなら唐津には、コハダはめったに上がってこないし、マグロもいい時期が少ないから。しかし玄界灘を真ん前にした唐津は、日本でも最も美味しい魚があがるところなので、その魚を種に鮨を握っていれば、唐津ならではの江戸前鮨を供することができるわけで、そしてその考えは正しく、九州のみならず全国から鮨好きな人の集まる店として、名を響かせる店となっている。

 九州北部の鮨屋の店主は、アクが強いというか、個性が強いというか、いかにも「鮨屋の店主」というような人が多いという印象が私にはあるが、「つく田」の店主松尾氏は、それとは違い、優しく穏やかな人柄の方であって、店の雰囲気も和気あいあいとした気持ちのよいもので、そういう心地よい空間を作ることのできる、熟練の寿司職人であると思います。

【やすけ】
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 なお、「つく田」の近くには鮨の名店がもう一軒あります。
 こちらは、松尾氏のお兄さんの鮨店です。「つく田」が九州では特殊な鮨を出すことから、県外の客が多いのに対し、こちらの鮨は、素材の新鮮さをうまく用い、鮮魚系でまとめた地元流の鮨であり、地元の人でよく賑わっています。
 店の前を通り、「やすけ」の鮨も食いたいなあと思ったけど、さすがに鮨のハシゴは胃袋的に無理があったので、断念。

…………
つく田 佐賀県唐津市中町1879-1  TEL 0955-74-6665

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August 08, 2009

夏のサーラカリーナ@福岡市

【前菜】
1antipaste

 定番のアンティパスト。全体的に明るめの色彩は夏をイメージしたものか。
 真ん中の鯵を刻んだものをパンに載せたものは初めて見るけど、見た目の美しさ通りの美味しさ。

【冷製パスタ 桃とトマト】
2pasta

 夏といえば冷麺。というわけで、冷製パスタから。
 桃とトマトとチーズの冷製パスタという、面白い組み合わせのパスタであるが、桃は甘さ抑え目で、その桃の果汁がよいスープとなって、全体としてうまくまとまっている。

【パスタ2】
3pasta

 次は通常のパスタ。
 毛蟹、ポルチーニ茸、香草、トマトという、なんとも個性派の素材を用いたパスタ。それぞれが喧嘩しかねない素材の選び方に思えるけど、食べてみれば見事なバランス。全てが調和して、互いの味を高めあって、パスタ料理として一体化するという、今井シェフの名人芸が堪能できる逸品。

【魚料理1:スズキ】
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【魚料理2:アラ】
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 魚料理は、いずれもそれぞれの素材の良さがダイレクトに伝わってくる調理法。見た目もたいへん美しい。

【パスタ3:ミートソース】
7pasta

 ここからはワインは赤ワインに。
 赤ワインに合うパスタということで、ミートソースを。パスタは手打ちパスタで、もちもちした食感がたいへんよろしい。

【肉料理:梅山豚】
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 肉料理は、梅山豚という豚のロースト焼き。この豚は日本では100頭くらいしか飼育されていない貴重なものであり、肉質がとても密で、そして脂がまた上品にして繊細な味わい。まさに絶品もの。口に入れれば、言葉も出なくなるほとの、ぶっ飛んだ美味さが広がる。


 レストランという言葉は、もとは「元気を出させるところ」というふうな意味だったらしいが、サーラカリーナの料理は、まさに食べていると、やる気が元気が自然と出てくる、そんな料理であり、まさにレストランです。
 梅雨があけ、夏の季節を迎えた福岡市は、ビルだらけで熱がこもり、とても今の時期は訪れる気のしない街であるが、サーラカリーナは、そういうことなど無視させるほど魅力に富んだ名店だ。


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August 05, 2009

読書: K2 苦難の道程 出利葉義次 著

 東海大学は山岳部創設50年の記念としてヒマラヤ登山を計画する。
 東海大学山岳部は8000mを超える山を経験したことがなかったので、目標とする山をK2とした。K2は標高8611m、エベレストに次いで世界で2番目に高い山であるが、難易度はエベレストよりも格段に高く、世界一登頂が難しい山とされる。
 なぜそのような山を8000m級の山の経験がない東海大学隊が選んだかというと、「登山は安全が第一なのはもちろんだが、8000mを超える山はどれだって危険だ。ならば一番危険な山を選んだほうが、かえって緊張感が保たれ、油断も生じないであろうから、安全性が高くなる」という、わかったようなわからないような理論により隊長が決断したからだ。

 途中は省くとして、登山隊は総力をかけてアタックキャンプ設営に成功し、選抜された3名による登山隊が登頂にトライすることになった。ベテラン1名と若者2名(学生1名と卒業して間もない女性1名)からなるアタック隊は順調に高度を稼いでいったが、最も頼りとなるベテランが急病のため下山を余儀なくされる。ここで残った2名は登頂の続行を無線で隊長に懇願する。経験少なき若者を、世界で最も厳しい山の頂へ向かわせるべきか、どうか。隊長は、Go signを決断する。
 2名はアタックキャンプから14時間をかけ、苦闘のすえK2登頂に成功する。しかし下山は登り以上に困難を極めた。疲労はつのり、酸素もなくなった状態で8200mの高さで夜に決死の露営を行う。幸運なことに天候が崩れなかったおかげで、彼らは過酷な露営をのりきり、なんとかアタックキャンプにたどりついた。この間、無線連絡はとだえ、アタック隊の生還の可能性がどんどん少なくなっていく。その時間を、全責任者である隊長は、生きた心地もせず過ごすことになる。
 生存と再出発の知らせが無線で届いたときの登山隊の歓喜は、だからより感動的に迫って来る。

 K2サミッターは登山者の最大級の勲章であり、K2に登った者はそれだけで一目置かれる存在となる。無事ベースキャンプにたどりついた若者2名は、いずれも出身地で表彰されている。

 というふうな東海大学隊の登山記録なのであるが、…この本を読んであらためて山野井泰史氏の偉大さが分ってしまった。

 山野井氏は、東海大と同じルートで彼らの2年前にK2登頂に成功している。元々山野井氏は、ポーランド人のクライマーとともにK2の巨大な壁をロッククライミングで登ってから登頂するつもりだったのだが、天候が悪いためクライマー氏はやる気をなくして帰国してしまった。残された山野井氏は、それじゃ一人でK2に登るかと、山稜伝いで登るルートで、単独・無酸素で登頂している。しかもベースキャンプから48時間という早さで。山野井氏の著作では、氏はあまりに淡々と、あっけなくK2に登頂しているので、私はK2もそんなにたいした山じゃないんだなあとか思ったが、もちろんそんなはずは全くなかったのが、東海大の本を読んでわかりました。
 山野井氏はやはり別格の怪物だよなあ。世界最強かどうかはともかくとして、日本最強のクライマーであることは間違いない。

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K2 苦難の道程

参考 山野井泰史著 垂直の記憶

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August 04, 2009

映画:サマーウォーズ

 内気な男子高校生が、憧れていた先輩女子高生にバイトを頼まれ、一緒に先輩の郷里を訪れる。そこで告げられたバイトの本当の内容は、なんと許婚を連れてくるよう家長の曾祖母に命令されたため、そういう人はいないと言えず、とりあえず婚約者の役をしてくれというものであった。
 というラブコメ風な内容から始まるのであるが、男子高校生は、数学について天才的才能を持っており、携帯にmailされた暗号を解いたことから、全世界のライフラインのシステムが「自分で思考するコンピュータプログラム」に乗っ取られ、世界は大混乱に陥る。主人公の滞在する家には、たまたま「その道の傑出したプロ」みたいな人が集っており、世界を救うため、みなが力を合わせて危機に対処する、といった話。

 それなりによくできた脚本で、デジタル社会のなかアナログ回線を駆使して混乱を解決していく曾祖母の活躍、スーパコンピュータを調達して持てる限りの力を使ってプログラムに対峙する人間の意地、難攻不落の敵プログラムへの勝負に全世界から届く応援とか、見せ場が続いて、あきさせることなく映画は続く。

 しかし、なんか浅い。

 細田守監督は、宮崎駿の後継者と目される人の一人だが、その域にはまだまだ達していないなあ。
 たとえば、孫たちを叱咤しながら作戦を遂行していく曾祖母の姿は、ラピュタのドーラ船長とキャラがかぶってしまうけど、存在感については圧倒的に差がある。食事のシーンもずいぶんと力を入れているけど、宮崎アニメの食事シーンのいかにも美味しそうなシーンにはおよぶべくもない。
 …まあ、いろいろとケチはつけるところは多いけど、前作とあわせ、才能豊かな監督であるのは間違いないので、今後も期待したい。

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 サマーウォーズ 公式サイト

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August 03, 2009

読書: 歓喜する円空 梅原猛著 新潮社

 梅原猛氏の著作は30年来愛読させていただいている。
 梅原氏の考古学ものは、聖徳太子ものにしろ柿本人麿ものにしろ、どれもこれも強引な論理思考で自説を構築していく、トンデモ本すれすれのものばかりのものばかりだけど、膨大な取材と研究をベースに、いずれも独自の迫力でぐいぐいと攻めてくる、妙に説得力を感じるものであり、読み終わるころには、ついつい梅原氏の斬新な新説を信じたくなってしまう。

 今回の本は、江戸時代の僧侶円空をテーマにしたもの。
 12万体の仏像の造顕を請願し、数多くの個性強き円空仏を創作した、巨人的仏師円空の生涯を、彼の残した仏像の地図と写真を豊富に用い解説している。

 円空は異形の仏像を創作した芸術家のイメージが強いが、梅原氏は、仏像に加え、円空の残した和歌や絵画を検討してから、実は円空が大宗教家であり、大思想家であるということを力説している。

 円空が「発見」されたのは、昭和30年代に劇作家飯沢匡氏が円空をモデルとしたドラマを作成し、それがヒットした時らしい。 今までは知る人ぞ知るというマイナー仏師であった円空がこの全国放送にのったドラマにより日本中に有名となり、それ以後円空は仏像に興味持つ人を魅了する存在の座を保っている。

 飯沢氏は、江戸時代という仏教の停滞時のなか作られる仏像は標準的意匠のものばかりだったのに、円空が独創性あふれる仏像を造りえた理由は、「円空は乞食坊主であり、仏教の素養はなかった。円空は出身が木地師(木工品製造の職人)であったため、木の扱いに慣れた職人であり、無学と技術があわさり、あのような仏像を造ることができたのだ」と論じた。
 円空の初期の仏像を見ると、仏教を、そして仏像の伝統的技法を円空がいかに熟知していたかは、驢馬でも駄馬でも分かるので、この説は無茶苦茶なのであるが、世は声の大きい人の意見が勝つことがままある。飯沢氏は、その説は無茶ですよという在野の研究家の反論を、お前らみたいな者に何が分かるかと、反論が出るたび、力いっぱいにそれを否定し、そのうち反論者もその過激な姿勢に恐れをなし、声をあげることもなくなり、円空=乞食坊主・木工職人という説がそれなりに正当性を持つことになってしまった。
 飯沢氏は熱い人であり、自分の説の正当性を主張するときは全力投球であったらしい。

 梅原氏も熱い人であり、この本で、飯沢氏の円空=木地師論を徹底的に批判し、否定している。
 だいたい、円空=乞食坊主論は、円空が自分を乞食坊主と称したことから飯沢氏は円空は乞食をしていた坊主と貶しているわけだが、乞食とは仏教の大事な修行であり、釈迦如来も自らを乞食と称していたわけで、これは円空の卑下でもなんでもない。飯沢氏には、仏教に対する基礎的教養がなかった。そういう人が円空について語るのは問題があるし、そして円空=木地師論にしても、円空が木地師をやっていた記録はまったくない。思いつきのみで、ものを言っては困る。
 てなことを、火を吹くような激しさで語っている。私が思うに、梅原氏も思いつきでものを言うような人であるので、それゆえかえってそういう人の意見に対する攻撃は激しいものを感じる。

 本書の、第二章「円空はこれまでいかに語られて来たか」は、このような円空の本邦での認識論が語られており、たいへん面白い。ここを読むだけでも、本書を買う価値はあるな。


 さて、本書のキモは仏像のみで語られがちであった円空の業績を、遺された和歌とか絵画をともに検討し、その結果、円空が偉大な宗教家であり思想家であったと論じているところである。
 その遺された和歌、…この書で初めて知ったけど、たしかに心をうつものが多く、円空の「心の広さ」を知ることができたが、まあそれでも、稚拙さは否定しがたいのではなかろうか。
 私は本書で、円空の宗教家あるいは思想家としての偉大さを確かに知ったけど、それは年代ごとに丁寧に整理された仏像の写真からである。
 円空は旅を続けた人であるが、明らかに北海道の旅から、彫琢する仏像が格段に深化している。北海道で見続けた人の不幸・苦難というものが、円空の仏教的思想に何らかの影響を与えたことは間違いなく、それ以後の円空の彫る仏像は、ベタな言い方になるが、円空の魂が木のなかからえぐられて出てきたような、そういう生々しさを感じる。

 円空の仏教的思想は、和歌とか絵画とか著作でなく、自らが彫る仏像として結実するタイプのものであり、それゆえ、円空は自分の思想をより深めるためにも、一心不乱に仏像を彫り続けたのであろう。そして、その企ての確かさは、今残された仏像が如実に語っている。

 とりあえず、文庫本のわりには多量に載っている、円空仏の写真を見るだけでも十分に楽しめる本である。

………………………
歓喜する円空

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August 02, 2009

花火は見上げて観るもの

 8月1-2日は延岡の夏祭りであり、2日は花火大会が開かれる。
 花火大会というものは、たいていは人家の少ない、広々としたところで花火を打ち上げるものであり、九州では海岸とか港とかで行うのが定番となっているが、今年の延岡の花火大会の会場はほぼ延岡市の真ん中となっており、これはすごいと思った。(どうやって許可をとったんだろう?)

 そこで、どこで花火を観るかということになる。
 私は花火はできる限り真近で観るべきと思う。音、火薬のにおい、光の強さ、いずれも近ければ近いほど迫力があるからだ。
 しかし、延岡の花火大会の場合、せっかく町中でするわけだから、暗闇のなか打ち上げられた花火の美しさとともに、その光に照らされ浮かびあがる町の風景というものも観てみたい。それはいつも見ている町の風景とは、また違った独自の美しさがあるはずだから。

 それで、延岡市を一望できるビュースポットとして、愛宕山に登ることにする。
 花火とともに延岡市の風景を観たいと思う人は、私以外にもいくらでもいるようで、暗くなって愛宕山に登ろうとしたら、愛宕山への入り口の道路は、「駐車場満車」という看板が出ており、車はいずれも係りの人に入場を断られていた。
 私は自転車で登っていったので、その制止を受けることはなく余裕で山頂の駐車場に到着。自転車で登るような者は私だけかと思いきや、他に2台の自転車が駐車していた。しかもママチチャリが。ママチャリで登るのなら、歩いて登ったほうがはるかに楽だと思うのだが、世のなかにはすごい人がいるものだ。

 8時から花火大会が始まった。
 大きく広がる光の輪に、闇のなかから延岡市が照らしだされる、なかなかによい風景。

 …しかし、迫力がない。
 距離が遠いので花火そのものが小さく見えるのに加え、花火ってあんまり高くは上がらないのだな。標高300m弱の愛宕山からでさえ、ほとんどの花火は見下ろす高さにしか上がらない。眼の下の花火というものは、いざ実物を見ると、いじましさというか、妙な哀しさを感じてしまう。まるで線香花火のように。
 花火は、やはり傲慢なくらいに高く上がり、炸裂してもらいたい。

 さっさと愛宕山の花火見物に見切りをつけ、延岡市に下りる。
 花火に近づいていけば、さっきまではまったく異なる花火の輪の大きさに驚く。見上げる花火は空を埋めるかのごとく広がる。そして町なかの花火ゆえ、轟音が建物に反射し、多重音を持って迫力いっぱいに音を響かせる。

 花火は遠くにありて観るものではない。
 可能なかぎり近くで、そして見上げて観るもの。改めて、思い知りました。

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