映画:ノウイング *注ネタバレあり
予告編の飛行機の墜落シーンの出来のよさにひかれ、観てみた。
冒頭あたりの、預言者の少女ルシンダが預言の数字を書いて、森に佇みながらその予言の紙がタイムカプセルに入れられるところを凝視するあたりは、ほとんどホラー映画の乗りであり、ホラー調の映画と思いきや、地球滅亡モノの映画であった。
地球が滅亡してしまう話は、映画ではよく扱われるテーマであり、多くの映画がつくられているけど、だいたいは以下に分類されると思う。
(1) 地球がそのまま滅亡してしまう。
(2) 地球がほとんど滅亡するが、残った僅かな人類が人類再生のために頑張る。
(3) 地球は滅亡するも、神に近い存在に選ばれた僅かな人類が、新たな段階に達する。
それぞれについては、適当に今思いつくだけで、(1)トゥモローワールド、ドクター・ストレンジラブ、続猿の惑星 (2)アイ アム ザ レジェンド、ザ・デイ・アフター・トゥモロー、バイオハザード、マッドマックス、ターミネーターなどなど。
と、たくさんあるように思うけど、(3)のパターンは案外少ないようだ。
それは(3)のパターンについては、半世紀以上前に書かれたA・C・クラークの小説「幼年期の終わり」という傑作があり、このパターンの話をつくろうとすると、誰でもそれが頭に浮かび、その結果どうやってもそれのパロディにしかならないとの思いが、製作者側に生じてしまうからじゃないのかなと、私は思う。
ネタバレすれば、ノウイングは(3)のパターンの滅亡モノであり、超常の力を持つ少数の人類が、超越的存在(天使の格好をしているけど、たぶん宇宙人)に選別され、地球滅亡の日に、新天地へと宇宙船で連れていかれる。
人類は新人類を生み出すための存在であり、地球は新人類の揺籃の場であった、ということが最後で明かされて、幕となる。
ここで映画を離れ、人類の存在意義について考えてみる。
人類が地球でただただ資源を貪って浪費している存在と考えるには、私としては人類の一員としては哀しく思える。それよりも、人類とは、いつか重力のくびきから解き放たれ、宇宙に飛び立ち、宇宙世界に存在しているだろう高次の存在と同等のレベルに達するために、今は雌伏している存在と考えるほうが、誇りは保てる。
ただし、いつか人類がそういう存在になれるときが来るとして、それはもはや今の人類とは異なる存在になっているのは間違いない。
「幼年期の終わり」では、超越者の助けを借り、人類は次の高みの段階に達し、地球を見捨て、高次の存在に同化しようとする。しかし、それを受容できない旧世代の人類は、滅びる地球とともに、自分たちも滅びる道を選ぶ。その姿は、気高さと誇りを持って、感動的に描かれていた。
ノウイングでも、地球の滅亡を回避しようと必死の努力を続けていた主人公は、その企てがすべて失敗したのち、滅亡を受諾して、すべてを許し、家族とともに最期の時を迎える。その姿が感動的に描写されている。
この結末からみると、この映画は、やはり「幼年期の終わり」のパロディにみえるのだが、…感動させてもらったのだから、すべてはよしとしよう。
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映画ノウイング 公式サイト
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