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June 2009の記事

June 29, 2009

剱岳の思い出

 剱岳は7年前に一度登ったことがある。
 日本を代表する名峰なので、季節を変えて数度は訪れたい山だが、なにしろ不便なところにある山であり、九州から行くとすると、富山空港へは福岡から午後に着く便が一本あるのみで、(しかも今は、富山―福岡便そのものがなくなってしまった)、いまだ一回しか訪れる機会を得ていない。
 そのとき見た剱岳の威風堂々たる姿は印象強いものであり、今回の映画を見て、あの時の好天のもとの剱岳を思い出し、北アルプスの縦走も含め懐かしく思った。

 剱岳登山は、室堂平を登山口とする別山尾根ルートが一般的となっている。
 しかしこのルートは、登山口の室堂平の標高が2450mもあるのが問題だ。何度目かの登山ならいざしらず、最初の剱岳登山において、2450mの高さから、2999mの山に登るのは、いくらなんでも反則ワザであるだろうと思い、夏にはあんまり使われていない早月尾根ルートで登ることにした。

【早月尾根登山口】
Sougetu_entrance

 このルートの登山口の馬場島は、標高750m。山頂まで一日で2250mの高さを登る必要があり、登りがいのあるルートであるが、この尾根、「馬鹿尾根」と称されるだけあって、いざ登り始めると、その馬鹿さにうんざりしてしまった。なにしろ樹々に囲まれた登り道がえんえんと続いていくので、展望はきかないし、風は吹かないし、暑さがこもるなか、ただただ坂を登っていくという、山登りというよりは我慢比べのトレーニング的コース。もう二度と行かんわい。
 ようやくにして、標高2200m地点の早月小屋に到達するころ、道は岩稜帯に入り、視界は一挙に開け、ここからが眺めもよいし、道も変化に富み、がぜん面白くなる。

【早月尾根から見る剱岳】
Tsurugi_1

 険しい岩の巨大な塊である剱岳が、晴天の下にくっきりとその姿を見せている。
 明治時代、ここから山頂を目指した測量隊は、稜線の大きな切れ込み(キレット)と、二本の岩塔に行く手を阻まれ、それ以上の行動を断念したと記録に残っているが、それから100年近く経ち、地形が変わってしまったみたいで、さほどの難所はもはやなかった。いくつかの鎖場はあるが、鎖に頼るほどの難路はなく、周囲の絶景を楽しみながら、剱岳山頂に到着。

【剱岳山頂】
Tsurugi2

 瓦礫を積み上げたような山頂に、祠が設置されてある。
 この祠、現在は映画撮影のために撤去されてしまっているとのこと。なんと罰当たりな。

【カニのヨコバイ 上から】
Yokobai_1

 劔沢への下り道は、有名な「カニのヨコバイ」を通る。ここは最初の一歩目のスタンスが見つけにくく、一歩目を踏みだすのにちょっとしたコツがいる。
 見ての通りの断崖絶壁で、ここで足を踏み外して、鎖から手が離れると、一挙に劔沢まで落ちていくこと必定の、スルリ満点の難所だ。
 さすがに、ここだけは鎖に頼らないと、とても通る気がしない。

 そういえば早月小屋で休憩していたとき、小屋の主人から今日はどこまで行くかと聞かれ、「劔沢です」と答えたら、「あなたは速そうだけど、ヨコバイで渋滞があるから、思ってたとおりの時間には劔沢には着かないよ」と忠告された。たしかにちょっとした渋滞はあったけど、ウワサに聞いていた「足のすくんだおばさん達が行列をつくっている、2時間の待ちの渋滞」てな渋滞は、運良くなかった。
 しかし今年の夏は、映画のせいで、すごい渋滞が生じることが予想されますな。

【カニのヨコバイ 下から】
Yokobai2

 カニのヨコバイは、明治の測量隊が山頂へのルートをさぐる際、ここを案内人宇部長治郎が裸足で突破に成功したところだ。(小説の記事からはそうだと思う)
 しかし、他の者が測量の機材を持って登れるルートではとてもないので、ここを使った登頂路は採用されなかった。
 ところで、カニのヨコバイを越えると、山頂まではとくに難所はなく、この壁を越えたところで実質的に剱岳登頂は果たしたことになる。公式には近代で剱岳登頂に成功したのは、測量隊の生田信ということになっているが、実質的には長治郎が、初登頂者といってよいだろう。

【剱岳 別山乗越から】
Tsurugi_3

 劔沢の小屋に泊まったのち、私は上高地へ向けて北アルプスをえんえんと縦走していった。
 その間幸運なことにずっと好天に恵まれ、剱岳もいろいろなところから望むことができた。
 そのうちの何点かを紹介。
 剱岳は劔沢からは、前劔が邪魔するのであんまり姿がよくない。別山乗越まで登ると、姿がよろしくなる。

【剱岳 別山山頂から】
Tsurugi_4

 剱岳は、別山から見るのが姿がもっとも美しいとされている。
 険しい岩稜の尾根を両翼に張った、岩と雪の殿堂たる剱岳が、圧倒たる迫力をもって大地に鎮座している。

【剱岳 雄山山頂から】
Tsurugi_5

 雄山からは、別山の後方に聳える剱岳を眺めることができる。
 立山を御神体とする雄山神社であるが、この風景をみると、剱岳もまた御神体である神社のように思える。

【剣岳 竜王岳あたりから】
Tsurugi_6

 竜王岳のもとの、立山三山と剱岳を一望できる、好写真撮影スポットより。
 ここまで来ると、だいぶ剱岳も遠くなっている。
 なだらかな山々が連なる立山連峰のなかで、剱岳のみが、険しい岩峰を空に突き立てた異形の姿であることがよくわかります。

【おまけ 薬師岳】
Mt_yakushi

 立山を超えて剱岳と別れ、五色ヶ原山荘に泊まった翌日は、薬師岳を越えていく。
この薬師岳が、剱岳に負けず劣らず、馬鹿でかい山であった。
 立山連峰って、山の規模がむやみとでかいところであり、立山連峰の縦走は、縦走というより、3つのでかい山をそれぞれ登り降りするという感覚であった。
 北アルプスの山々は、稜線に出てしまえばさほどのアップダウンがなく山が連なっているのが普通なのに、この立山連峰のみは、そういうことを許してくれないハードな山系であった。

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June 28, 2009

映画: 剱岳 点の記

 新田次郎氏の山岳小説は大量にあり、ほとんどは読んだけど、面白いと思った作品は少なく、登山のガイド本みたいにして読んだものがほとんどであった。
 いったい新田次郎という人は、自身が山好きだったにもかかわらず、「山を登ること、それ自体を目標として山に登る人」に対して、違和感を持ち続けていたようで、実在の登山家をモデルにして書かれた有名な三部作としても、それは奇人変人列伝のように私には感じられた。じっさいに、モデルのなった人はずいぶんと新田氏に怒りを覚えていたという話も残っている。
 しかし、はっきりした目的(たいていは職業として)があって山に登る人を題材した作品、(「強力伝」「芙蓉の人」「剱岳 点の記」など)は、主人公にたいする共感や理解が感じられ、小説としても、奥行きのある良作が多かったように思う。
 特に、誰も登ったことのない前人未踏の険しい山剱岳に測量のための三角点を設置するために、測量機材をかついで難路に挑む、測量技師の物語「剱岳 点の記」は、あの当時の時代の雰囲気、そこで実直に仕事を遂げていく明治の人たちの強さ、そして自然の美しさ、厳しさを描いてすぐれたものであり、著者一番の傑作であろうと私は思っていた。

 その「剱岳 点の記」が映画化されることになり、かつ富山ですごい撮影をやっていることが登山関連の雑誌で報告されていることから、私は上映を楽しみにしていた。

 その映画、カメラマン出身の監督が撮っているだけあって、剱岳の荘厳な姿が圧巻の映画である。作中、測量隊は立山山系のあらゆる所を移動して、剱岳を観察するので、剱岳の各方面からの姿が撮影されるが、そのどれもが、峻険な峰を天空に突き刺した、巨大な岩の殿堂の姿が、圧倒的存在感を持って画面に映っている。
 この映画の主人公は、「剱岳」であり、本来の筋である、測量隊の登頂の苦労とか、山岳会と測量隊の葛藤と交流とかのドラマは、ちっぽけな、どうでもいいことのように思えてしまう。それほどまでに、剱岳の存在感は大きなものであった。

 こういう自然を題材にした映画では、どんなに上手く映像にしたところで、実物には絶対かなわないよ、などという意見が必ず出てくると思うが、実物の剱岳を(一回だけだけど)見た私は、映画の剱岳は実物に負けず劣らずの迫力満点であったと、断言する。だいたい、世間の多くの人は剱岳などそうそう幾度も登れる山でないので、登ったにしても、思い出の姿はだんだんと忘却の彼方へ退いていかざるを得ないわけであり、それが鮮明に映像として提出され、ずっと残るものとして記録されたのは、たいへんありがたいことに思える。

 最初から最後まで剱岳~!という映画であり、それに十分に満足したが、それだけでは感想にならないので、他に思ったことなど。

 ・映画での登山姿が、明治の当時のものを再現しているということで興味深かった。防寒対策に、ミノと笠という時代劇的スタイルに、足元は足袋に草鞋。テントは、防水も防風にもさして効果のなさそうな、支柱で支える布製の天幕。これで雪の降り始めた剱岳を攻めるのだから、前途多難ということは、見ていてすぐ分かる。(遭難して死にかけるし)
 登山技術にしても、別山尾根から剣山頂を目指し、垂直の岸壁を登っていく技師は、藁縄を命綱にして登攀するのだが、それが中間支点をとらずに登っていくという、落ちればグランドフォール以上は確実という、無謀にして非科学的手法。ただし、昔はこれが本当に岩登りのスタンダードだったらしい。おそろしや。

・剱岳登山ルートは、一種のミステリ仕立てになっており、修験者に伝えられた謎めいた言葉を解くことによって見つかる。…ということは当然、剱岳はすでに修験者によって登られていることは明らかであり、登頂を果たした測量隊が、そこで修験者が置き去った錫杖と剣を見つけるシーンは、ミステリの解答編のさらに解答編的快感がある。
 これが実話ということがすごいが、さらにその修験者の登頂が1000年以上も前の奈良時代の話であることもすごい。さらにすごいのが、その後1000年間、錫杖と剣がそのまま山頂に置かれていたことだ。

・ところで私は1000年前の剱岳登山劇は、二人の人物が時間を置いて登場していたと思っている。修験者が山頂に置くものは祠か仏像かが普通で、錫杖と剣というのは変だ。そして錫杖と剣は、ストックとハーケンみたいなもので、大事な登山道具のはずであり、下りのことを考えると、山頂に残すことはあり得ない。ゆえに最初の勇敢な登頂者は、残念ながらそこで力尽きたのであろう。そして風雪のなかで身が朽ちたのち、金属製の錫杖(の頭)と剣だけが残った。この二つは岩陰にきちんと並べて置かれていたとのことから、第二の登山者がいて、彼は丁重にその記念品を、風に飛ばされない岩陰に収め、祀ったものと思われる。その後1000年間、ずっと錫杖と剣は、あの自然環境の厳しい剱岳山頂に留まっていたわけで、日本の山岳史上の奇跡のようにも思えます。

 などなど。

 繰り返し書くが、この映画では剱岳の魅力を、あますことなく伝えている。
 映画の人の入りはよく、どうやらヒットしそうである。そしてこの映画を見た多くの人のうちの一部は必ず剱岳に登りたくなるだろうから、今年の夏、剱岳はえらいことになるのでは、などと思っています。

 剱岳 点の記 

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宮崎の蕎麦

【延岡・田舎家の蕎麦】
Nobeoka

 延岡駅前に田舎屋という蕎麦屋があって、そこで蕎麦を食ったところ、蕎麦の香りが良く、蕎麦の旨みも十分で、良質の蕎麦粉を使い、しっかりした技術を持った料理人が蕎麦を打っている、とてもいい店だと思った。
 なんで延岡にこんな店が…とか、思わぬこともなかったが、延岡って意外と和食系の店のレベルが高く、たぶん旭化成の人たちが種々の店を鍛えて育てあげたんだろうなあと勝手に思っている。

 どこにリンクがあるというわけでない超マイナーな私のブログでも、記事がネットに乗ってしまえば検索エンジンがひっかけるので、ネットで延岡の美味い店を探したい人の一助に、ぼちぼち、「延岡の美味い店」をUPしていこうかなあと思いつつ、…でも今回は延岡の蕎麦屋の話に加えて、宮崎市の蕎麦屋の話。。

 蕎麦好きの私としては、宮崎では蕎麦処しみずが一番の好みであり、宮崎市に行くとついつい食いたくなってしまい、今回も行ってみた。

【しみずの生粉打ち蕎麦(店が暗いのでピンボケ気味)】
Simizu

 この店は街中の蕎麦屋のくせして、酒のアテが少ないのが難だな。蕎麦豆腐がすぐに品切れになったのは仕方ないとして、板ワサとか、…いや板ワサがあれば十分なんだが、蕎麦豆腐がないと他につまみたくなるものはなかった。
 まあ、蕎麦も素晴らしい酒の肴なので、蕎麦を肴に昼間から酒を飲む。
 う~ん。やっぱり美味い。
 しみずの生粉打ち蕎麦は香りも食感もよい。食感とは、つまりつやつやにして滑らかな、なんというか、蕎麦粉が「こんな瑞々しい蕎麦にしてくれありがとう」と礼を言いたくなるような、麺の艶やかさの造形の感触なのであり、しみずはまさに蕎麦が礼を言うような蕎麦であり、いつも見事なものと思う。でも、この食感に関しては、蕎麦の香りを重視した挽きかたとをすると、レベルが落ちてしまう。
 蕎麦って、この香り、旨み、食感のバランスがすごく難しい料理だと思う。

 しみずの蕎麦はそこのバランスが、いわゆる洗練された方向に進んだ、上品な蕎麦と思われ、私は好みだ。

 延岡の田舎屋の蕎麦は、このバランスが、蕎麦粉の旨さをより重視するように私には感じられ、「田舎屋」という名前が宣言するように、蕎麦粉自体の旨さをしっかりと伝える、いわゆる田舎蕎麦系の蕎麦に思えた。

 蕎麦は、奥が深い。
 宮崎にいるからには、美味い蕎麦を食おうと思ったら、気分にまかせて「田舎屋」と「しみず」を訪れることにしよう。
 ところで宮崎の麺といえば、うどん・ラーメンが主体のようだが、宮崎は蕎麦の産地に近き地であり、他にも美味い蕎麦屋はあって当然だし、噂も聞くので、おりをみて、訪ね歩きたいと思う。

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June 27, 2009

シンコ@光洋

 夏が来ればシンコが食べたくなる。
 なぜなら、シンコは文句なしに美味く、また夏の始まりにしか食べられないからだ。(言うだけ野暮か)
 コノシロの若魚のコハダも寿司種としては抜群の素材だけど、シンコはそれとは異なる食感と味覚があり、シンコ独自の旨さを持っていて、初夏を迎えるとぜひとも食べたくなる鮨である。

 このシンコは店泣かせということでも有名だ。
 シンコは、なにしろ値の高い魚であり、走りの頃はキロ5万円を超えるのは当たり前で、旬の国産マツタケを軽く超えてしまう。こんな高価なネタを、仕入れ値段相当の値で出せば、鮨一貫とんでもない値段となり、とてもその値段では出せず、シンコを出すならば店は赤字覚悟で出さねばならない。
 さらにシンコは夜店の金魚すくいの金魚なみのサイズの魚ゆえ、そんな小さな魚を一定量の数捌くだけでも、気の遠くなるような話だ。
 さんざん手間暇かけて、それでやっと出しても、赤字が必然という鮨では、店主にモチベーションが上がるはずもなく、だから九州では「うちは旬を大事にする店なんだ」とか「うちは真っ当な江戸前寿司店なんだ」とかの意地を持っている、ある意味物好きな店主のいる店以外では、シンコが出てくることはない。

 以前は、福岡の安春計くらいしかシンコを出す店を知らなかったので、夏ごとに安春計に行っていたけど、(…今年も行くけど)、宮崎でも光洋がシンコを出すことを昨年から知り、本年も今年初のシンコを食いに行った。

 店に入ると、なぜか店主はスキンヘッド。なにか悪いことをしたとかのウワサは聞いたことはないので、頭を丸めたのは、あら輝さんや、さわ田さんたちのニューウェーブ系寿司店をまねたのでありましょうか? 体格の良い店主が、これで背広着て街を歩いてると迫力あるだろうなあ、とか思いつつ、お任せを頼む。

 さて、コースで出てきたシンコ。

【シンコ3枚つけ】
Shinko1

 美しい鮨です。
 これを口に放り込むと、シンコ独特のモゾモゾした、活きのよい食感が愉しめるが…、ちょっと〆過ぎか。コノシロという魚は成長につれ、妙に鈍重な魚臭さが出てくるという困った魚だが、シンコくらいだと、この魚が基本的にまとっている爽やかな香りがダイレクトに口のなかに広がり、それが楽しいのだけど、このシンコはしっかりと〆ており、その軽やかな食感が楽しめない。

 しかし、二貫目に出てきたシンコは浅めの〆で、シンコの香りがふんわりと広がり、これは好みであった。
 店主としては、シンコ自体の味の淡さを補うために最初のものは強めに〆て、寝かせたのかもしれない。たしかにこのようなシンコを好む人もいるだろうし、…まあ、試行錯誤中なんでしょうな。

【シンコ】
Shinko_dish

 シンコ、ツケ場に出すだけで、こんなに仕入れて仕込んでいるのである。
 皿の上を、ぴちぴちと泳ぐかのごとき、活きを感じさせる仕込み。これを箸で、ずず~と何枚も一挙にさらって頬張って食うと、満足感いっぱいなのだろうけど、それをやると店出入り禁止になるから、やめておいた。

 シンコ、電車で1時間の宮崎市で食うことができるのはとても有難いことだ。しばらく前なら、宮崎でシンコが食えるなんて、とても信じられなかったことだろうな。
 店主は「西日本で一番早くシンコを出す店です」と自慢していが、……甘い。
 「近松じゃあ、先週出てたそうですよ」と、ぼそりと、いらぬことを言っておいた。

 お目当てのシンコ以外にも、美味い肴、鮨のオンパレードで、初夏の光洋を、十分に楽しませてもらった。
 今回はシンコを食ったことがないという者を、ならば今の季節しか食えないので一回くらい食ってみろよと、連れて行ったのであるが、出てくる料理の美味さに感嘆しながら、ついでにシンコも感嘆しながら、さんざんに酒を飲んでいた。
 私の連れてくる客は、どうしてどいつもこいつも大酒飲みばかりなのだろうと、店の人は思ったかもしれないが、べつだん類は友を呼ぶというわけではなく、料理と酒が美味いから、いくらでも飲めるのであります。

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サイクリング:宇納間地蔵尊@美郷町

 宇納間と書いて「うなま」と読む。
 延岡市の居酒屋「くらや」で、うなま地鶏という妙な名前の地鶏の刺身を初めて食べたところ、これが地頭鶏なみの味の濃い地鶏であって、相当に手間隙をかけて育てた地鶏なのは明らかであるが、その旨さのわりに、さほど名が広まっていないのは残念なことに思った。「うなま」って何なんですかと店主に聞くと、北郷の一地区の地名であり、そこでじっくりと鶏を育てており、その地名をつけた鶏を入荷しているとのこと。北郷は宮崎市のさらに南なので、また妙なところから仕入れていますねえと言うと、北郷という名の地は他にもあり、近くの美郷町にもあるんですとの答えであった。

 とりあえず、「うなま地鶏」について調べてみようと、「美郷町」および「うなま」で検索すると、まずは「宇納間地蔵尊」がひっかかる。宇納間地蔵尊は奈良時代の名僧行基が彫ったと伝えられる由緒ある仏であり、それを本尊としているのが全長寺である。全長寺は美郷町北郷地区を見下ろすことができる小高い丘を寺領としており、その頂上に宇納間地蔵尊を祀っている。頂上までは山門をくぐって、1年間を象徴する365段の階段を登っていく必要があるとのこと。
 …365段って、けっこう登り甲斐のある階段だよなあ。あんがいその規模の階段って、(熊本中央町の釈迦院みたいなのは論外として)、珍しいものと思い、登ってみたくなった。
 宇納間まではサイクリング往復に丁度いいくらいの距離であり、サイクリングがてら階段を登ってみることにしよう。
 地鶏については、もうどうでもよくなったので、それ以上調べてはいない。

 延岡からは、北方ゴルフ場の傍を通って、国道388号線に入り、宇納間を目指す。この388号線、宮崎にはよくあることとは言え、広々とした二車線で、路面もていねいに舗装されていて走りやすく、さらに自動車の走行量も少なく、自転車で走るのがとても気持ちのいい道だ。宮崎の田舎道って、自転車のためにあるんじゃないのか、と思ってしまうようないい道がとても多い。宮崎は「自転車王国宮崎」とか称して、全国に宣伝してローディを集めてもいいくらいに、素晴らしい道をいっぱい持っている。
 まじめな話、地鶏とかマンゴーとか、通販で済むようなものよりも、宮崎に来て楽しむしかないようなものに宣伝の力を入れたほうが、地元は潤うと思うなり。

 その388号線は、自転車乗りは誰しも気持ちのいい道と思うらしく、今日は天気が悪いのに、何人ものロードレーサーとすれ違ったり、追い抜かれるなりした。そのうちの一人は、平坦な道を時速40kmオーバーで巡航し、私を追い抜いたのち、あれよあれよという間に見えなくなってしまい、鍛え上げたアスリートのすごさに感心してしまったわい。

【五十鈴川】
Isuzu_river

 宇納間への途中、北郷区の「道の泉」あたりからは、道路横の五十鈴川が渓谷となり、だいぶ山奥まで来たのだなあという気持ちになる。この渓谷を眺めながら道を進めると、やがてT字路に突き当たり、そこが全長寺だ。

【全長寺】
Temple_unama

 さて、ここからが本日の目的の365階段。
 自転車を駐車場に停め、登っていこう。

【階段】
Year_stairs

 階段を登るというのは地味な行為であり、こういう階段がずっと続く。
 365階段、けっこうハードです。

【山頂 地蔵尊】
Jizo

 365階段を登りきって、地蔵尊を祀る地蔵堂があるわけだが、由緒ある地蔵本尊は60年に一度しか開帳しない秘仏であるため、扉は閉ざされている。その代わりというわけでもないのだろうが、賽銭箱前に、16体の小さな地蔵が並んでいる。これって、けっこう珍しい風景では。

【宇納間の町】
Unama_town

 全長寺より眺める宇納間の町。
 山間の静かな町という風情がいいです。
 この小さな町も、宇納間地蔵尊本祭のときは、3万人の人が集まるそうで、どこに車を停めるのだろうとか思ってしまった。

 帰りはまた388号線を戻る。
 今日はロードレーサーの多い日であり、帰り道またロードレーサーに追い抜かれてしまった。今度の人は35kmくらいのスピードだったので、これなら俺でもついて行けると思ってしまい、(往路でとんでもない速さで駆け抜けていったロードレーサーがショックだったのである)、ついつい追いかけていって、しばらく同じ速度で後ろを走らせてもらった。今思うに、先行者、知らぬ者にいきなりついて来られ、後ろにはりつかれ巡航されては、さぞ不気味に思っただろうなあ。自転車倶楽部という名前の入ったレースシャツを着たお兄さん、どうもすみませんでした。
 市街地に入ったところで、道が二手に分かれ、そこで先行するロードレーサーとは別れ、帰宅への道をたどる。

本日の走行距離 58.3km

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June 25, 2009

【マイケル・ジャクソン追悼】 ムーンウォークの勧め

 マイケル・ジャクソンの訃報を聞き、彼が全盛期を迎えたころを知っている者は、それぞれの感慨を持ったであろう。
 私としても、彼の音楽およびプロモーション・ビデオはおおいに楽しませてもらった世代であり、彼の早すぎる死をとても残念に思っている。

 マイケル・ジャクソンの文化への貢献は数えきれぬほどあろうが、私は彼の踊りが一番だと思う。マイケル・ジャクソンの踊りは、シルエットで見ても、「誰も見てもマイケルの踊り」だと分かる、独特にして個性的なものだ。
 マイケルの踊りは、タップダンスとパントマイムを彼独自の感性で統合させたものらしいけど、素晴らしいセンスで突き詰めていったダンスは、マイケルのダンスとしかいいようのない、独自のアートとなっている。新しいジャンルのアートの創造って、天才にしか出来ない偉業であるが、マイケルはそれを成し遂げた人であった。
 そのダンスのなかでも、とくに有名なものが、かのムーンウォーク。

 歩くこと。
 人間にとって歩くという行為は、極めてありふれた日常的なもので、歩くことが出来る人なら、人生でこの行為に使っている時間は、膨大なものになるであろう。しかしながら「歩く」という運動は、あんがいvariationが少ないもので、普通の人は一種類の歩き方しか用いず、その歩き方で一生を過ごすことがほとんどであろう。
 歩くことに用いる時間を考えると、ただ一種類の歩き方のみで、人生のかなりの時間を使うのはもったいない、とも思える。そういう「歩行」の常識のなか、M.ジャクソンは新たな歩き方を創設し、宣伝し、世に大々的に伝えたわけで、…これってけっこうすごいことじゃない?

 ムーンウォークについては、Youtubeとかで検索するといくらでも動画が拾えるし、またレッスン法も載っているので、習得法はどこでも得られる。
 …ただ、あれらを見ていると、ある程度ダンスが出来る人向けのレッスンに思え、私のようなド素人には分かりにくいものがある。
 あとで書くけど、ムーンウォークは、素人こそ行うべき歩行法とも思えるので、「素人でもやれる」講義を、無謀にも私が書いてみることにする。

【基本型】
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 まずは基本型から始めよう。私に絵心がないのは、勘弁してもらうとして、これは人間が歩き始める最初の形である。
 前にまっすぐ伸びている足が前足て、後ろの膝を曲げている足が後ろ足である。
 歩行とは、この基本型の繰り返しである。

【歩行】
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 すなわち歩行とは、前足を地に平らにしっかりとつけて、重心の受け場とする。後ろ足は膝を曲げエネルギーをたくわえ、前足の準備が出来た時点で、つま先で軽く地面を蹴って、赤の点線に示す軌道で先に進める。この間、前足に体重の全てがかかる。
 後ろ足が前に出てしっかりと地面についたら、今度は先ほどの前足の膝を曲げ、さきと同じ運動を同様にを行い、この繰り返しで歩行は成り立っている。
 字で書くと簡単なようだが、これら一連の行為は、精緻にして複雑微妙なバランスの調整が必要であり、ものすごく面倒な演算計算を要する運動であった。そのため哺乳動物で恒常的に二足歩行ができるのは結局人類だけであったし、二足歩行ロボットが現実化されたのは、20世紀も末の話であった。

【ムーンウォーク】
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 さてムーンウォークである。
 ムーンウォークは「前の方へ歩く格好をしながら、滑るように後ろに進む」という歩き方である。具体的に、どうするかというと、
 基本型のフォームで曲げた後ろ足を前に進めるのでなく、その後ろ足を固定して、平らに置いた前足の方を後ろに進め、それを繰り返せば、ムーンウォークだ。
 字で書けば簡単だけど、やってみれば大変なことがすぐ分かる。
 まず、「膝を曲げた後ろ足を固定して前足を動かす」であるが、この後ろ足には当然全体重がかかるわけであり、「膝を曲げてつま先立ちした足で全体重を支える」必要がある。それには、下腿の筋肉がよほど鍛えておかねばならない。
 さらに、ムーンウォークには守らねばならない基本がいくつかあり、

(1)前傾姿勢を保つ
(2)身体の軸を縦軸とも横軸とも固定する。具体的には横から見て、頭と腰の高さが一定、前からみて身体がまっすぐを保ったまま、体の移動を行う。
(3)足の交互の入れ替えはスムーズかつリズム正しく行い、流れのなかで一旦停止の部分があってはいけない。

 これらが守られていないと、いくら本人がムーンウォークをしているつもりでも、まわりから見れば、それは「単なる、あとずさり」ということになる。

 ここでまず問題になるのが(1)と(2)である。前傾姿勢を保つ場合、前傾姿勢というものは前に歩くならその前傾の重力を吸収するべく足が進むのできわめて自然な運動なのに対し、後ろへ移動するのに前傾姿勢を保つことは、そもそも物理的に無理がある。後ろ移動のさいに前傾姿勢を保つために、身体に芯をきちんと入れねばならないし、さらにそれを(2)のごとくに自然な形で移動させるには、腹筋・背筋・腸腰筋の全てを鍛えて、重力に逆らえる筋力を持たねばならない。

 以上のように、ムーンウォークは、下腿および体幹の筋肉がしっかりとしていないと出来ない運動である。
…ということは、逆に考えれば、ムーンウォークを日常的に行っていれば、自然に下腿・体幹の筋肉が鍛えられることになる。
 下腿・体幹の筋肉といえば、山登りや自転車(というかスポーツ全般)において、とても重要な筋肉だ。ここを鍛えていないと、その運動を支える芯がなく、やっていてもただただ疲弊する何が何やら分からない運動をやっていることになる。それゆえ、ここの筋肉を鍛えることは、スポーツを楽しむことの重要課題であり、必須項目なのだ。
 しかしながら、社会人というものは、日頃トレーニングする時間がなかなかとれないものであり、そうそう簡単にはジムに行くとか、周囲をランニングするとかは出来ないことが普通だ。でもここで、室内でもできる運動で筋肉が鍛えられる歩き方「ムーンウォーク」はとても魅力的かつ実用的に感じられる。

 それで、ムーンウォークを普段の歩行の補助に使えば、筋力の鍛錬の一助となるはずであり、明日にでも実行したくなる。
 しかし、ムーンウォークには、(1)(2)以外にも、注意ポイントがあり、じつは(3)が最大の問題となる。ダンスを日常的にやっている人には問題ないのだろうけど、我々ド素人には、このリズム良い運動というのが難しく、もともと重力的に無理のあるムーンウォークを、ダンスの基礎がなき者がやれば、ギッコンバッタンの、ぎくしゃくとした運動になるのが当たり前で、滑らかな運動にはなり得ない。

 そこで私が提唱するのは、「前に進むムーンウォーク」の技術習得である。
 後ろに進むのがムーンウォークなので、前に進むムーンウォークなど、意味自体をなさないという意見もあろうが、もともとこのブログ自体がたいした意味がないので、そのまま話を進める。

 ムーンウォークが面白いのは後ろ向きに滑るようにして身体が動くことであり、では足を逆の方向に進ませれば前に身体が滑るはずである。それにはどうするかといえば、

【前方向ムーンウォーク】
4_2

 話は簡単で、膝を曲げて、今にもポーンとつま先で地を蹴るエネルギーをためている後ろ足を、そのまま地面を這うようにまっすぐ進めるのである。そして後ろ足が進みきって伸びた形で固定したところで、前足の膝を曲げて、元後ろ足に重心を移動したところで元前足を進め、これを繰り返すと、前方向のムーンウォークとなる。
 この前方向ムーンウォークは、進む方向への前傾姿勢である、体重を支える足がフラットなので無理がない、との2点から、本来のムーンウォークに比べはるかに自然な運動であり、習得が容易である。これでリズムをしっかり覚えれば、ムーンウォークはこれの単なる逆運動なので、案外無理なくムーンウォークが習得できたりする。(はずである)

 さて、これで、だいたいムーンウォークの基礎ポイントが理解できたはずだ。どんどんムーンウォークを行うことにしよう。先にも述べたように、日常生活において、スポーツに必要な筋力を得るにはムーンウォークは、理想的に近い運動であり、推奨すべき運動と断言できる。

 …しかしながら、その実行に対しては、ひとつ問題がある。
 本邦ではムーンウォークはまだ日常的動作として市民権を得ていない。そのため、街中でも、建物内でも、この歩き方をしていると奇異の目でみられてしまう。ましてや職場でムーンウォークなどしていると、変人あるいは変態と思われてしまう危険性が大である。

 それがゆえに、ムーンウォークで歩きたいと思ったら、周囲をしっかりと観察して、誰もいないことを確かめてから行う必要があります。長~い廊下などで長距離のムーンウォークやっていると、廊下の上をすいすい泳ぐミズスマシになったような気になり、快適な気分になれますが、そこで誰かがやってきて目撃されると、冷たい目で見られる必定であり、お互いに気まずい雰囲気になって、のちの仕事がやりにくくなってしまったりします。
 経験者が語るのだから、説得力あるだろう。


 あの偉大なマイケル・ジャクソンの貢献にもかかわらず、本邦はまだまだダンスの文化は浸透していない。
 マイケル・ジャクソンは今年に復活ライブを行う予定であった。それが実行されれば、あのダンスがまたセンセーションを巻き起こし、昔よりはダンスに寛容的になった本邦に、ダンスの面白さ、素晴らしさを教え、ムーンウォークが日常的動作として市民権を得られるようになったかもしれない。
 そう思うと、彼の急逝はかえすがえすも残念であった。

 稀代の天才ダンサーでありアーティストであるマイケル・ジャクソンに、哀悼と追悼の念を捧げ、この項を擱筆することにする。
 私が生きた時代に、あなたのダンスと歌を経験することができて、心から感謝しています。

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June 16, 2009

映画:ターミネーター4

 ターミネーター2で出場する、成人したジョン・コナー。
 機械との戦いの場。仁王立ちで、双眼鏡で戦況を覗きながら、的確に戦術を指示する姿は、歴戦の戦いを物語る、大きな傷跡を顔に持つ風貌とあいまい、カリスマ性たっぷりの存在であった。

 T2における少年ジョン・コナーは、悪ガキながら、知能が高く、実行力もあり、勇気あふれる人間であり、このまま行けば、人類の救世主として成長していくこと間違いなき人物であった。
 しかしながらT3でのジョンは、審判の日を回避できたという安心感から、ふぬけ状態になり、しかし審判の日が来ることを心の奥で否定できず、それから逃げることを人生の目的としている、駄目人間となって再登場している。

 ターミネーターは、本来は2作目で終わっていた作品である。
 映画はそれで完結していたし、小説でも、世界核戦争の「審判の日」を回避できたのちは、それからも審判の日が起きぬことに努力する、成人し、合衆国上院議員になったジョン・コナーをサラ・コナーが見守るシーンで終わっている。

 ただ、その結末はやはり甘い。
 未来からとんでもない、「自分で思索する」演算機械が持ち込まれて、それがコンピューターシステムにすでに取り込まれていた世界では、人類を異物と認識し、破壊を挑むコンピューターシステムが誕生するのは当然の話であり、T2で話が終わらす、T3に進むのは、まったくおかしくないと思う。

 それゆえ、ジョンの不安は当然であり、ジョンがああいう苦悩する世捨て人になってしまったのは、かえって物語としては正しく思える。

 T3からはジョンの再生の物語であり、T3はジョンがいかに生き残るかの物語、そしてT4では、その戦闘能力を生かして大佐クラスの位置にいるジョンが、いかに人々の信望を集め、指揮権を得るにいたるかの物語が描かれている。
 まだまだ、T2、あるいはT3で描かれた救世主ジョン・コナーにはほど遠い姿だが、これはこれでいい。そして、名優クリスチャン・ベールは、ジョンが救世主に成長していく物語を、うまく演じきってくれるでしょう。


 さて、ジョン・コナーには、これからすごいことを2つしなければならない運命が待ち受けている。
 一つは、自分の父親を、戻ること不可能な時間の旅に送り込むこと。しかも、それは父がターミネーターとの戦いで死ぬことを、あらかじめ知っている、二重の意味での、回帰不可能な残酷な行為である。
 もう一つは、自分を助けてくれて、自分の父親のように思っていたが、しかし自死を選ばざるを得なかったターミネーターを過去に送り込むこと。映画では描かれていなかったが、小説のなかで、スカイネット本部でずらりと並ぶ、どれも同じようなT-800のなかから、「これだ」と、少年時代に共に戦ったターミネーターを選ぶシーンがあり、そこではそのときのジョンの哀しみがうまく描写されていて、小説中いちばん印象に残るところであった。

 T5、T6では、その重苦しくも辛い、しかしやらねばならないことを、敢然と行う、英雄ジョン・コナーが登場するわけである。
 T4では、そこまでの貫禄を得ていないジョンであるが、続編では、それを敢行できるまでに成長していくジョンの物語が描かれることになるでありましょう。

………………………

ターミネーター4


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June 15, 2009

映画:ターミネーター

 ターミネーター1が封切りになったのはいつの頃であったか?
 思い出に出てくる人物が、大学時代の者ばかりなのでもう20数年以上前なのは間違いない。
 当時は、映画の評は、新聞・雑誌にはメジャー系統のものしか出ず、マイナー系統のものはキネ旬かスクリーンみたいな映画雑誌にしか載らないのが常であった。いちいちそういう雑誌をチェックするのも面倒なので、マイナー系の良作は見逃されること多き時代であったが、ターミネーター1は相当に面白かったらしく、映画好きの者の口コミが広がっていき、たいした宣伝もしないのに、じわじわ人気を上げていった、そういう映画であった。
 (当時、A・シュワルツネッガーはほとんど無名の役者だったのである)

 私にも、その口コミが伝わり、ターミネーターってすごく面白い映画らしいということを知った。それでは、ぜひ見に行こうと思い、新聞の映画館の上映日程を調べたら、(ほんと、ネットのある今の時代って便利だ。昔は新聞が圧倒的な情報源だったのです)、なんと熊本市の映画館は、短期間の上映ののち、すでにT1上映を打ち切っていやがった。ではと、他にやってるところはとみると、八代の映画館で上映していた。八代は遠い。それで、映画好きで車を持っている先輩に、「T1という、なんだかすごい映画があるそうですよ。観にいきませんか」というと、そういう面白い映画があるからには、ただちに行こうと話がまとまった。
 とりあえず、上映時間を調べるために、その映画館に電話をしたら、…、「新聞には載ってたかもしれませんが、もう打ち切りました」とのショッキングな答え。よほど客の入らない映画だったんでしょうな。

 そういうわけで、T1は映画館で観ることが出来ず、私のなかでは伝説の映画となっていた。それでも1年もたつと「ターミネーター」は貸しビデオ屋に登場。それを借りてきて、ビデオプレイヤーを持っている者の家で、映画好きの者を集めての上映会。…昔は、ビデオプレイヤーって高価なものであり、そんなものを個人で持っている者は少数派だったんです。

 そこで観たT1。
 とても面白かった。
 殺しても、殺しても、死ぬことはない、圧倒的強さを持つ、無表情な暗殺者ターミネター。
 それに臆することなく立ち向かう、痩せっぽちの勇敢な好漢、カイル・リース。
 そして、たんなる臆病なウェイトレスの姉ちゃんであったサラ・コナーが、ターミネーターとの闘いから、誰よりも強く、逞しく成長していく姿。

 役者も脚本も映像も素晴らしく、B級ホラー映画にしてはもったいない傑作であった。

 誰でもそう思うらしく、やがてターミネーターはシリーズ化され、2作目は傑作として評価され、そして3作目もつくられた。3作目は、あんまり世評は高くなかったみたいだが、脚本の出来はいいし、役者もいい演技をしているし、よく出来た良作であることは間違いなく、私は好きである。

 そして、改めて、3部作形式のターミネーター新作がつくられ、T4が上映される。
 人類の救世主、ジョン・コナーの物語を、私たちはまた楽しめることになる。


 …映画って、自分の記憶の一里塚的役割になることも、いいところだなあと思いつつ、この項を書きました。

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June 14, 2009

別府現代美術フェスティバル@別府市

【インフォメーション】
Sign

 別府で4月から6月14日まで、町の生活空間を使って現代アートを展示する「混浴温泉世界」なる催しが開かれている。NHKの番組で紹介されていたのをみて、なかなか面白そうだったので、寄ってみることにした。

 会場は、別府駅前商店街と、鉄輪温泉地区、フェリー乗り場の3つに分かれており、とりあえずは駅前から訪ねる。

 訪れて、驚いた。
 町は尋常でなく寂れている。ゴーストタウンとまではいわないが、閑古鳥が集団で飛び回っているような、閑散たる町。
 日曜というのにシャッターのおろされた店ばかりで、活気というものがまったくない。たまに開いている店も、客は少なく、店員は手持ちぶさた。
 駅前商店街の過疎化は、全国的現象とはいえるものの、別府の商店街は規模が大きいだけに、その寂れ方は、町そのものが捨てられてしまったようなスケールの大きさがある。

 かつては東の熱海・西の別府とまで称され、全国からたくさんの行楽客を集めた、日本を代表する温泉観光地である別府が、ここまで凋落していたとは、…しばし唖然とした。

 今回のフェティバルは、この衰退をなんとかするべく、現代アート展で人集めをして、活気を取り戻そうという趣旨のものだったらしい。
 しかし、廃墟になりかけたような町で、ところどころ設置されている作品を眺めていると、それらがそれなりに美しく新鮮さがあるだけに、なんとも町の風景とはミスマッチングであり、作品群は、滅び行くものへ捧げる燈明とか、お供え物のような、供養と祈念のためのもののように思えてしまった。その意味では、全体として、胸に迫るものを感じた。

【清島アパート】
Apartment

 商店街とは少し離れたところにも作品展示場がある。
 もう使うこともなくなってしまったようなアパートを使って、一室ごとに、違う作者が作品をごちゃごちゃと並べている。
 けっこうまともな現代アートが飾られていた商店街と違い、こちらは、美術学校生の卒業制作展という雰囲気が満ち満ちており、作品の出来はともかくとして、元気と活気が感じられ、楽しかった。
 これ、フェスティバルが終わると撤収するんだろうけど、ちょっと勿体ない。

 それぞれのアート展示場を訪れるうち、だいたい別府の中心地はほぼ歩くことができた。別府を紹介する意味では、展示場はうまく設置できていたと思う。
 本日は「現代美術フェスティバル」の日なので、町を訪れてきた人は、妙にアーティスト風のかっこうをした人が多く、町の写真もよく撮っていた。その姿をみて、地元の人が「こんな寂れたところを撮らないでくれよう」と、笑って言っていたのが、印象的であった。

………………………………………
別府混浴温泉世界 

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花菖蒲@神楽女湖(別府市)

 神楽女湖の花菖蒲が花の盛りという話を聞き、別府方面に行くついでに、寄ってみた。
 神楽女湖という美しい名前は、平安時代にこの湖の湖畔に神楽女が住んでいたことから名付けられたと伝わる。神楽女って、神社の巫女さんのことだけど、湖の湖畔に神社は付きものなので、湖畔に神楽女が住んでいるのはあたりまえとも言える。それで神楽女湖という名前の地は他にもいくらでもあっていいはずだが、検索するかぎり、「神楽女湖」という名の湖は大分の盆地のここだけである。

 なんでなんでしょう。
 不思議だ。

 普通に考えれば、平安時代この湖のそばに住んでいた巫女さんが、湖の名前を乗っ取るほどに、尋常ならざる存在であったんでしょうなあ。
 絶世の美女だったとか、狐の化身だったとか、訪れた人を食ってしまう食人鬼であったとか、髪の毛が蛇で見た人を石にしてしまう怪物だったとか、あるいは湖のなかに住む半魚人だったか等々の、湖周辺の人に強烈な印象を与える存在であったことは間違いない。私らが想像をめぐらせば、あらゆるパターンが無責任に思い浮かぶけど、真実はたぶん一つしかないはず。
 それには歴史を調べるしかないが、調べてみると面白い記録が見つかる可能性は高い。なにしろ、ここの土地は、意外と古くから文献が残っている地であり、奈良時代の風土記あたりから歴史に登場している地なので、平安時代の記録くらい探せば、どこか(博物館とか郷土歴史館とか)にある可能性高し。時間のあるとき、またこの地に寄ってみようかな。

 それはさておき、名称のユニークさに加え、湖もユニークだ。
 なにせ湖という名前はついているが、訪れたときは、湖でもなんでもなく、ただの湿地帯だったから。

【神楽女湖】
Lake

 菖蒲の花を前景に、「湖」が奥にあるが、水はまったくない。
 水の上を通るべく木橋と東屋が、所在なげだ。

【花菖蒲畑】
Flower

 いずれアヤメかカキツバタ、…というか、花菖蒲。花々に満たされた公園。
 全体的に7分咲きで、丁度いい具合の咲き方。花の瑞々しき美しさがよくわかります。

 花菖蒲、これほど咲いていれば、その美しさは胸にせまるものがあります。でも、そこに差す強い陽光が、ちょっと邪魔かな。

 花を求めて来た週末旅行であったが、おしむらくは、昨日のミヤマキリシマは燦々たる陽光のもと、そして今日の花菖蒲はしっとりした霧雨で見たかった。
 なかなか、旅と花のタイミングは合わない。いや、花にかぎらず、見たきもの、経験したきものと、旅のタイミングが合うこと自体が珍しい。
 でも、そのタイミングを求めて、私たちは始終旅しているわけで、最高のタイミングを得るまで、旅は終わらない。
 …と書いたが、最高のタイミングを得たところで、その時はいったんは満足するであろうが、すぐに、そこで旅は終わるはすもなきことに誰もが気づくわけで。

 そういうわけで、旅の計画は、えんえんと続いていく。

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無量塔:「汲」

 無量塔は、部屋が魅力的な宿であり、部屋には相当に力を入れている。
 今回は新館の「汲」に泊まったので、そこを紹介してみよう。

【部屋:上座方向】
Room2

 床の間みたいなものがあるから、こちらが上座方向。
 畳敷きのまんなかの半畳は、食事時には持ち上がり、掘りごたつ風になる仕掛けだ。

【部屋:庭方向】
Room1

 無量塔の新館は、庭もよくできている。
 ガラス窓は天井まで届く大きさであり、庭と部屋が一体化した空間をつくっている。

 無量塔には新館が四棟あり、二棟ずつセットで建てられている。「相」「袍」は一戸建ての別荘的雰囲気であり、「暁」「汲」は高級マンション的雰囲気を持っている。
 新館、とくに「暁」「汲」の部屋は、ほぼ完璧である。部屋の空間の使い方、屋外の庭と部屋との調和、家具の設置、いずれも見事。
 趣味がすごく良い、都会的センスの持ち主が、金に糸目をつけずに田舎にセカンドハウスを建てたなら、こういうエレガントな建物が出来るのだろうなあ、と思ってしまう。でも、そういう意味で、こういう部屋は「想定の範囲内」であり、良さに感心はするが、驚きはない。

 ある意味、新館の部屋はオーナーの妥協のようにも感じてしまう。
 無量塔の旧館(特に「吉」とか「明治」)は、オーナーの個人的趣味で突っ走ってしまった、異形の建物であり、移築した古民家に手を入れて、無駄にまで広大な空間を持つ部屋をつくり、そこにペルシャ絨毯、李朝の陶器、日本の家具、北欧のソファ、ヨーロッパの巨大な抽象画…などを、無秩序(というわけでもないのだろうが)につめこみ、全体として「無量塔ワールド」としか言いようのない、不安定でいながら妙に調和のある空間が造形されていた。この空間は、ゴヤの絵に描かれている空間のように、濃厚な密度を感じる空間であり、はまる人には、はまるのである。(はまらない人は、落ち着かない部屋だなあとか思うであろう)

 その、はまる人にははまる旧館の部屋と比べ、新館の部屋は誰でもはまる、スタンダード的な、誉めるしかない、素晴らしい部屋である。まあ、初めて泊まる人には、こちらの部屋を勧めるほうがいいでしょう。ただ、これが無量塔らしい部屋かといえば、ちょっと違うという気がしないでもない。というか、する。

【風呂】
Bath1

 無量塔には大浴場はなく、各部屋にそれぞれの風呂があるのみ。
 でもこの風呂だけで、大浴場はなくとも満足できる、広々とした、源泉かけ流しの絶品の風呂。
 新館の風呂は、天井はガラス、外とは大きなガラス戸で仕切られたのみの、半露天風な開放的なものである。5~6年前くらいから露天風呂付部屋を売りにする高級旅館が、やたらと増えてきたけど、その流れに乗ったものかな? 

 無量塔の本館は、旧館も新館も2棟ずつセットになっており、それぞれ似たコンセプトのつくりとなっている。
 ついでなので、以前泊まった「暁」も紹介。

【「暁」の部屋】
Room3

 壁は石壁になっていて、すこしばかり野外的雰囲気を感じます。
 畳の部は、ここもエレベーター方式。

【「暁」の風呂】
Bath2

 無量塔の部屋風呂は、セットの棟では、必ず一方が長方形で、一方が円形。
 それで、「汲」が長方形なので、こちらは円形。
 円形の風呂って、あんまりくつろげない気がするのは私だけであろうか。


 無量塔の本館は、裏に雑木林があり、鳥がいっぱいいます。
 朝、夜明けとともに、鳥たちがいっせいに目覚め、元気いっぱいに鳴き出します。カッコウにウグイスにヤマバトに…あとはよく知らない鳥たちが、日の出を迎え、我も我もという感じで、林のどこかしこから鳴き声を響かせ、部屋へと音が届きます。
 この天然目覚まし時計のような騒音(?)を、宿酔気味のぼーとした頭で聞きながら目を覚ますと、「…ああ、無量塔に泊まっているんだなあ」と、まずは思います。

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June 13, 2009

夜の由布院・蛍・Bar・「汲」の夜景

 6月の由布院は、蛍が飛び交うことでも有名である。
 町のまん中を流れる大分川は、観光地のなかの川のくせして水はきれいであり、容易に見かけるクレソンやセリはそのまま食材として使えるとのこと。宿でよく出てくるクレソンなどは、裏の川から取ってきたのをそのまま使ってるのでは、と思えるほどの量が生えている。
 それくらい清潔度の高い川であるゆえ、清流にしか住まない蛍が、町の中の川で、夜になれば、あの清澄な光を点滅させてながら飛んでいる。

 由布院を代表する宿、亀の井別荘それに玉の湯のすぐ傍を流れる川が、ちょうどその蛍がよく飛ぶところであり、とくに蛍が密集する場所には、「蛍観橋」なる橋がかけられており、観光名所となっている。

 6月の由布院に来たとなれば、蛍は観らねばならない。そして蛍は怠慢な虫で、虫のくせに10時を過ぎれば寝てしまい光らなくなるので、(…そのてん、24時間活動しているっぽい蚊とかは勤勉な虫だなあとか思いません?)、食事をしたあとは、Barにも寄らずさっさと由布院の中心地に行かねばならない。

 無量塔は由布岳山麓の中腹にあり、そこからそれなりの距離を下って、由布院の町なかに入ることになる。午後9時を過ぎれば、昼間は雑踏そのものであった湯の坪街道も、人っこ一人としていず、店の明かりも全て落ちていて、真っ暗けである。眠りの早い町なのだ。
 そうして大分川に着くと、暗闇に慣れた目に、ぽつん・じわりと、青白く光る蛍が見える。川面に、あるいは川原に、それぞれ一つずつ。あるものは周期をあわせ、あるものは独自のリズムで、それぞれ、淡く幽かで澄みやかな光を、暗闇に滲ませている。
 …蛍の光って、きれいですね。こんなに純粋な、「光」そのものの光って、生きものが放つものしか見たことはないけど、そのなかでも特に蛍は、何かを訴えるような、心に響きを与える光を放ち、それゆえ日本人は、ずっとそれに魅了されていたのでしょう。

 蛍を題材とした和歌には名歌が多いけど、たとえば次にあげる二つの歌、

・物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる (和泉式部)
・彼岸に何をもとむるよひ闇の最上川のうへのひとつ蛍は   (斉藤茂吉)

 新旧を代表する大歌人の蛍を歌ったそれぞれの和歌は、まさに絶唱というべきもので、蛍とわが身を一体化した魂の波動というものが伝わってきます。
 蛍は、なぜかしら、私たちの心そのものを映すかのような、そんな不思議な存在であったようです。

 蛍の輝きに感銘を受けながら、デジカメでなんとか写真を撮ろうとするが、ターゲットは点滅する微かな光ゆえ、夜景モードにしてもうまく写らない。パソコンで見れば写っているかとも思ったが、ただ暗闇に夜灯のみが映った写真がいくつもあるだけであった。
 とりあえず、夜の「蛍観橋」だけでもUPしておこう。

【蛍観橋】
Firefly_view_bridge

 美しくも、すこし哀しき蛍の光を満足いくまで見て、さて、酒でも飲むか。
 無量塔のTan’s Barは10時半がLOなので、戻ってはtime out。すぐ近くの玉の湯のNicol’s Barは11時半がLOなので、こちらで飲もう。
 重厚感あふれるTan’s Barとは違って、Nicol’s Barは明るく開放的な雰囲気があって、その宿の特徴をよく現しているように思える。ギムレット、マティーニ、ジントニックと飲み、楽しい時間をすごし、11時を過ぎたところで宿に戻る。

【Nicol’s Bar】
Nocols_bar

 Barの人からはタクシー頼みましょうかと言われたが、ほどよく酔っ払って歩くのが好きなので、宿へは歩いて戻る。でも、行きは下りだが、帰りは登りなので、それなりに体力がいり、汗をかくとともに酔いがだんだん醒めてしまうのは、ちとかなしき。

【無量塔 夜の玄関】
Entrance

 もう12時に近い。
 無量塔の玄関にはインターホンという無粋なものはないので、電話をかけて、玄関を開けてもらわねばならない。夜にさまよっている客がいることは申し送られているので、すぐ警備員の方が戸を開けてくれる。どうもご苦労かけてすみません。

 それにしても、午後6時前、汗まみれで宿に現れ、風呂に入ったのちすぐに夕食を食い、それから由布院の町にでかけ、深夜に帰ってくるというのは、私にはよくあるパターンとはいえ、無量塔という宿の使い方を根本的に間違っている気がしないでもないが、…まあ、よかろう。宿もそういう客と認識してくれているようだし。

 今回泊まった「汲」という部屋には面白い趣向があって、リビングの前の庭には、池がある。(一見、水風呂に見えるが、入ってはいかんそうだ)
 その池には、水の底にライトが設置されてあり、夜になると、水の揺れとともに、光が揺れて壁に当たり、ゆらゆらと光が揺れ、幻想的な光景をみせている。ロビーの大きなソファに寝そべり、ウイスキーでも傾けながら、この光景を眺めていると、豊かで優雅な時間が過ごせそうだな。他人にも、そして自分にも、そういう時間を無量塔で過ごすべきだと勧めます。

【庭の風景:昼】
Kyu_pool


【庭の風景:夜】
Pool_light


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和食:「無量塔の夏」

 某鮨屋の常連客W氏は旅館めぐりが趣味であり、日本全国の名のある旅館を訪ね歩いていて、その旅館それぞれの趣を、旅情とともに楽しんでいるのだけど、その旅館めぐりの経験値の豊富さから、一つの結論を出さざるをえなくなっている。
 すなわち、「旅館の料理は美味しくない」、と。

 …まあ、全ての旅館の料理が美味しくないというわけではないのだが、たしかに「美味しい料理を出す旅館」がレアであることは事実ではあろう。
 W氏はその中での例外的ケースとして、京都の「美山荘」、調子のよいときの「妙見石原荘」をあげ、これらの宿にはよく通っているとのこと。そして、これくらいしか「食える」料理を出す旅館がないのはかなしいことですと言う。
 私は調子の悪いときの石原荘なら知っているけど、W氏がそう誉めるなら、もう一度くらいは行ってみようかな、湯は極上の宿だしとか思いつつ、九州で美味い宿といえば無量塔をはずすわけにはいかんでしょうと言った。
 そうすると、W氏はたしかに無量塔は7年前に行ってみて美味かった記憶がある。じつは、なんとなく再訪する機会もなく7年が過ぎたわけだが、今年の8月に再訪する予定を入れていると言う。そして今の無量塔はどのようなものであろうかと聞く。7年前に比べると、料理の方向がずいぶんと変わってきており、創作系に傾いてきています、でもそれは「美味い方向への」傾きだから、食通のWさんには必ず満足できる料理が出ると思います、と答えた。

 そして6月に私が経験した、無量塔の料理。今までもよりさらにパワーアップした、見事な和料理。これは、8月にはW氏は必ず幸福な気持ちで食事ができるはずと確信いたしました。

 その料理のいくつかを紹介。

【先付け】:「無量塔の夏」なる題が敷紙に書かれている。
Peach

 生ハムに桃を合わせるという面白い組み合わせのオードブル。生ハムの酸味と塩味が、桃の澄んだ甘みとよく調和している。付け合わせの、赤カブ、レンコン、インゲン豆などが、鮮やかな色取りで、主役のハムと桃を引きたて、色彩的にも面白い。食味も見た目も、初夏の、生きいきとした自然を感じさせる逸品の料理。


【八寸】
Hassun

 以前の無量塔の八寸はsimple is bestという感じの、白身魚と大根のみ、というすっきりした造り皿だったけど、近頃は吉兆風の、ずいぶんと賑やかな八寸になってきた。
 どれもこれもとても手のかかった、そして繊細に細工されたものばかり。甲烏賊の刺身と蓮芋の茎をあわせ紫陽花に見立てたもの。大根を薊のように切ったもの。雲丹を小芋にはさみ、海苔で包んで揚げたもの。見た目の美しさ同様の、高いレベルの旨さを食べて感じることができる。

【地鶏治部煮鍋】
Boiled_chichen

 無量塔の以前の定番「地鶏鍋」は、地部煮鍋として復活(?)
 地部煮鍋とは、なんでも北陸の郷土料理らしいけど、小麦でとろみをつけて、甘辛い出汁で地鶏、野菜を煮あげたもの。出汁も、地鶏も、野菜も味が強く、なんとも混沌とした料理。野菜の味がしっかりしているから、こういう大胆な鍋もできるのでしょう。
 具も美味しく、スープも美味であり、すべて飲み干してしまった。

【焼き物】
Sweat_fish

 焼き物は、出始めの鮎。日田の天然もの。
 まだ解禁開けが近く、サイズも小さめで味が弱めのため、片側だけ焼いて、鮎独自の香りをしっかりと残したもの。上手な焼きかたです。骨煎餅もあり、カリカリの歯ごたえが心地よい。酒のいい肴ともなる。

【変り鉢】
Baked_beef

 〆はいつもの豊後牛の五葷諸味焼き。これに季節野菜をたくさん添えて。初夏は野菜が最も美味しい時期だろうけど、どれも濃厚な旨さと甘さを持った、いい野菜ばかり。無量塔は、由布院現地の農家と契約しており、朝採れたての野菜を料理に使っているそうだが、そういう努力がここまでの料理を支えているわけですな。
 本日の料理の敷き紙に書かれていた「無量塔の夏」という題。たしかに、夏の美味さと、そして力強さを感じることができました。


 無量塔は文句なしの名宿だけど、私としては特に料理が素晴らしいと思う。
 旅館に人が求めるものは、部屋、料理、サービス、庭、風景、風呂など主にあげられるだろうが、私は、料理>部屋>サービス>風呂…というふうな順番で宿を選ぶ人間であり、料理・部屋・サービス・風呂の傑出した宿である無量塔は、今のところ九州で最も気に入った宿となっている。
 冒頭登場のW氏も、料理を1番にあげるタイプの人であり、今の無量塔はたぶんツボに入るであろうと思う。
 とりあえず仲居さんには、8月にかくかくしかじかこういう人が宮崎から来ますよと紹介しておきました。

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登山:九重大船山 ミヤマキリシマ

 6月第一週はミヤマキリシマ満開の時期なので、それにあわせ第一週週末が九重の山開きの日となっている。このときは2万人くらいの大勢の人が九重に押し寄せて来るので、花の盛りにくわえ、人も盛りで、山じゅう祭りみたいに賑やかでよろしいのだが、第一週は他の予定があり、第二週に登ることにする。結果からいえば、天気がこっちのほうが良かったので、ラッキーであった。

【雨ケ池】
Rain_pond

 大船へは最もポピュラーな登山ルートである、長者原→雨ケ池→坊がつる→大船のルートで登ることにする。
 坊がつるへの峠に位置する雨ケ池は、盆地状の湿地帯になっていて、名前の通り、大雨が降ったのちは浅い池となり、その上に木橋がかけられた形となる。もっとも池ができることは滅多になく、だからこの木橋のホントの意味を知らない人は多いと思う。私もここに池ができているのを見たのは、雨のなか登ったときの一回きりだ。
 雨ケ池は植生の豊かなところで、この時期には、ドウダンツツジ(漢字で書けば「燈台躑躅」。まず読めんな)、イワカガミ、ボケ、ミヤマキリシマなどが咲いているはずであるが、もうだいたい散っていた。

【坊がつる】
Bougaduru

 登山者しか見ることのない、九州で最も美しい盆地「坊がつる」。(大船林道経由で自転車で来る者もいるではないかとかのツッコミはいれないように)
 名峰、久住,三俣山,大船山に囲まれ、清流が湿原のなかを流れていく平地。一面の緑の美しさ、取り囲む山の雄大さ、澄み切った空。ここに寝っ転がって、ただただまわりを眺めていたくなる、そんなところ。
 しかし今回は登山に来ているわけで、テントを張った横に寝っ転がって空を見ている人たちを横目に、登山口より大船山に向けて登っていく。

【大船山】
Mt_taisen

 尾根を登り切り、稜線上に出ると、花は盛りの時期であった。
 ドウダンツツジにミヤマキリシマの2ショット、その奥に見える大船山の山肌には、ミヤマキリシマが満開に咲いている。

【大船山 ミヤマキリシマ近景】
Azalea1

 先ほど見えた山肌のミヤマキリシマ、近づくとこんな具合。
 きつい思いをしながら登ったことが、報われる美しい光景です。

【イワカガミ】
Rock_mirror

 稜線にはイワカガミもたくさん咲いていた。
 お菓子のアポロチョコに似たような色と形の、可憐な花。
 小さな釣鐘にも似ていて、風が吹いて揺れると、チリンチリンとかすかな音を立てそう。

【ミヤマキリシマロード】
Azalea_road

 大船山頂まで登ってから、段原まで下りて、そして北大船へ登り返す。ここが今回の山行のハイライト。
 九重山系にミヤマキリシマは多く咲いているけど、北大船周囲のミヤマキリシマの密集度は格別で、それゆえここの群落は天然記念物に指定されている。まったく、この一帯はミヤマキリシマに埋め尽くされており、それを切り割いて、登山道が作られている。天然記念物に何すんねん、と思わぬこともないが、ミヤマキリシマだらけの山なので、そこに道をつくるしかなかったわけであろう。

 残念ながら、花の状態はいまいちで、登山道全体がミヤマキリシマのピンクの色におおわれる、あの素晴らしい風景は見ることはできなかった。
 運よく花盛りのときに登られたときは、人がどんなに手間をかけて作っても作ることができない、この世のものとも思えないような、華やかで、麗しい空中庭園のなかを歩いて行くことができるのだが、…でも、これくらいの咲きかたでもやはり美しく、十分に楽しめるでしょう。

【満開のミヤマキリシマ】
Azalea2

 でも惜しむらくは、このレベルのミヤマキリシマが、まだまだあってほしかった。
 稜線上で、この一株だけが、満開に花を咲かせていた。
 ミヤマキリシマは本気を出すと、ここまで自身を花だらけに飾ってしまう、テンションの高い植物なのである。このレベルのものが山頂付近で咲きそろったときなど、坊がつるから北大船山~平治岳を見れば、山頂から稜線がピンクに染まり、まるで山がピンクの帽子をかぶったかのように見える。
 そしてそのピンクに染まりし稜線の道を行くときは、まさに夢にしかない道を歩む気持ちにひたれる。
 自然がつくりし、季節のなかで束の間にしか姿を現せない、至高の美しき道。山登りの苦労をした人にしか与えられない、その道を、唖然呆然としながら歩んだのは、いつの日だったか。
 
 ずいぶんと前から訪れている九重であるが、自然環境の変化(特に虫害)で、10年以上前からは、あの途方もない、天上の世界そのものの、華やかで、美しく、ピンク色に輝くミヤマキリシマの道は経験できないでいる。
 しかし、いつかは、またあの道に会えることを期待しつつ、毎年この山を訪れている。
 

 北大船を超えてからは、大戸越経由で、坊がつるへと向かう。
 この道は泥まみれなことで有名であり、昨日雨が降ったことから、登山道は泥田んぼ状態になっているのではと予想していたが、それほどのことはなく、ズボンやシャツが泥まみれになることはなく下山できた。
 全行程6時間ほど。
 ほどよく疲れ、ほどよく汗をかき、さて、由布院へ温泉に入りに向かう。

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June 12, 2009

熊本駅前風景

Kumamoto_station

 ひさしぶりに熊本に来て、熊本駅近くのホテルに泊まり、駅前に広がる風景のあまりの変化に驚いてしまった。
 九州JRの駅は、たいていは市街地を離れた不便なところにあることが多く、駅前といえど閑散としているのが常であった。それゆえ、八代市とか大牟田市とか、九州においてはそれなりに人口が多い部類に入る都市の駅も、辺鄙なところにあるゆえ当然人の出入りは少なく、新しく九州新幹線をその都市に通すさい、こんな寂れた駅に、新幹線の駅を作っては乗車客を確保できないとばかり、九州JRはわざわざ別のところに新駅を作ってしまっている。

 熊本市においても、繁華街に近い通町筋(熊本市の紹介の写真でよく載っている、熊本城を背景に路面電車が走っているところ)あたりに、新駅を作れば、さぞかし便利な駅となったはずだが、なぜか熊本市(あるいはJR)は、それを選択せず、現地の駅および周辺の地を思いっきり再開発することにより、新幹線を停めるにふさわしい駅へとつくりなおしている。

 熊本駅、この駅は県庁所在地の名前を持つ駅のくせに、その寂れ方は尋常ではなかった。
 駅そのもののしょぼさはともかくとして、駅周辺には、戦後からまったく変化していないような建物が駅のまん前に立ち並び、この駅に降りた人は、まるで映画「3丁目の夕日」の時代にタイムスリップしたような感覚を覚えるのであった。不詳、昭和50年代末に初めて熊本駅に降りた私も、熊本とはなんちゅう田舎じゃ~と唖然としたことを覚えている。

 駅および駅周辺をどうにかしようと思わぬ人がいないはずもなく、その後ちょこちょこと、改造計画は行われていたのだが、熊本の開発は、駅からはるか離れた東方面が中心であったので、そちらに比べると、まことに熊本駅周囲は遅々としたペースでしか開発は進まなかった。そして、そのまま遅々たる開発が続くと私は思っていたのだが、さすがに新幹線が来るとなると、尻に火がついた状況となり、開発のペースは突如加速した。

 ホテルから見下ろす、駅前風景。
 ごちゃごちゃと存在していた、安く泊まれる年季のいったホテル、いつ行っても客のいない24時間営業の定食屋、なぜここにあるかよく分からん肥後象嵌の店、妙な古道具屋、くるくる店の名が変わる飲食店(最後は長浜ラーメン屋だったか)、ものすごく使いにくい駐車場、そういったものが、いっさい消え去ってしまい、更地になろうとしている。
 このあとなにができるんでしょう。 ホテル? デパート?

 あの場末感が濃厚に漂っていた熊本駅前の風景は、好きでもなかったが、嫌いでもなかった。
 それが消え去りし今は、「昭和の時代」がまた失われてしまったのだなあとの感慨を持たざるをえない。そしてベタながら、「昭和は遠くなりにけり」と、つぶやかせてもらおう。

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寿司: 金寿司@熊本市

 半年ぶりに熊本市に出たついでに、金寿司に行くことにする。
 金寿司は、その酒の質の高さと、肴のユニークさにおいて、九州でも他に追随を許さぬ存在の店と言える。
 寿司屋というものは案外に酒に関してこだわりのない店が多く、天下の名店と呼ばれる寿司屋においても、供される酒は一種類ということは珍しくもなく、(たいてい賀茂鶴か、三千盛なのはどうしたものか)、それが寿司を最高の酒の肴と思っている私のような酒飲みにとっては、少々物足りなく感じさせられることとなっている。

 金寿司はそうではない。
 まず最初に美味い酒ありきだ。(当然、美味い肴と鮨はあとでついてくるけど)

 良い酒を種類多く揃え、料理にあわせていくフレンチスタイルの和食屋は、九州でも僅かながらあるが、(鹿児島の「のむら」とか、博多西中洲の「とき宗」とか)、そういう店では、酒は店主の料理のスタイルに合わせたものが一定化されて置いてあるのに対し、金寿司では、その季節に手に入った最上の酒が、料理の相性とは関係なしに(たぶん)出てくる。それゆえ、この店の酒は訪れるたび、いつも違うものが出てくる。…ストック数は膨大なものがあるので、頼めば、特定の銘柄の酒が出てくることは出てくるけど。

【日本酒試し飲みの図 (店主が奥にちょっと写っている)】
Sake

 今回の酒は、この3種類から。
 初めて飲む酒ばかりだったが、どれも個性的で、美味かったっす。

 さて、まずは鮨から開始。
 白身はカンパチ、ヒラメ、光物はコハダに、アジ。

【コハダ】
Gizzard_shad

 コハダは浅めの〆かた。コハダは肉厚で、コハダそのものの濃い味が広がります。
 シャリは固めの米を使い、かっちりと形を作ったもので、口の中で、米一粒一粒がくっきりと形を感じさせてほどけていく、店主得意の握り方。この鮨を食うと、ああ金寿司の鮨だなあと、すぐ分かる。個性豊かな、美味い鮨です。

 鮨を食って、腹を満たして落ち着いたのち、肴へと移る。この肴で、酒を思いっきり飲むのである。

【カタクチイワシの塩辛】
Sardin

 カタクチイワシを開いて、塩辛にしたもの。これをオイルに漬けると、オイルサーディンです。
 カタクチイワシの身が塩辛になることで熟成して、旨みがぐぐんと増している。
 当然酒によく合い、酒が進む、進む。

【本ししゃも】
Smelt

 そのあたりの居酒屋で出てくるシシャモはロシアあたりから輸入される、正式名称カペリンなる魚なわけだが、この店で出てくるのは北海道産の、本シシャモ。
 やたらに歯ごたえよいカペリンはビールに合うので私は好きだが、こちらの本ししゃもは、あちらに比べ、まろやかで落ち着いた、広がりある味を楽しめる。当然、酒に合うのはこちらであり、酒が進む、進む。

【藤壺つぼ焼き】
Barnacle

 たぶん熊本ではこの店でしか出ない珍味、藤壺。
 藤壺って、そのへんの海辺で磯にしがみついている貝みたいなやつであるが、このようなものをただ焼いては磯臭くて食えたものではないように思えるけど、この店のものはそうではない。
 食用にわざわざ養殖した青森産のものであって、磯臭さなどまったくなく、海老蟹同様の甲殻類独特の香りと旨さが、殻の中に充満している。藤壺は、海老蟹同様に、焼けば中に旨みが濃縮してたまるという作りになっており、中のスープの美味いことといったら。これを肴に、酒が進む、進む。

 …同じようなことを書いていてもしかたないような気がしてきたが、これから後に紹介する肴も、すべて酒が進む、進むのである。

【鮭の腎臓の塩辛】
Salmon_kidney

 内臓の苦味と塩辛の辛味がいい調和をなしている。

【莫久来(ばくらい)】
Salted_entrails_of_trepang

 ホヤにコノワタを合えたもの。
 ホヤの食感に、コノワタの濃厚な味がからむ、二重奏形式の酒の肴。こういうのが、まさに「酒盗」なんでしょうな。

【味噌豆腐】
Misotohu

 チーズのごとき風味を持つ豆腐に、柚子を和えて。これも絶好の酒の肴。

 以上の肴で、酒をさんざん飲んで、〆の鮨へ。

【明太子の鮨】
Cod

 金寿司名物の明太子の鮨。
 一粒一粒の卵がくっきりと分かるこの明太子は、この店のシャリにうまく調和しています。

【赤身ヅケ】
Tsuna

 この店のマグロは、たぶん熊本で一番いいものが出ている。
 熊本は、(というか九州は)、あまりマグロを好む文化圏ではないが、そのなかでこのレベルのマグロを仕入れているのは、立派なことだと思う。

【穴子】
Conger

 穴子はタレと塩で。
 ふんわりした食感はいつもながら見事。


【デザート】
Tea

 たらふく食って、さんざん飲んで、あとは定番の冷菓子とホウジ茶にて終了。十二分に満足しました。


 東京で修行したのち、店主は熊本に店を構え、熊本一の寿司屋と呼ばれ、長く経つ。
 「金寿司」なる店名の由来は、店主の名前による。遠山という名前の男性は、常に「金さん」と呼ばれる定めにあるのだが、最初店主は、修行した店の名前を暖簾分けする形で用いたかったのに、親方から素行不良(笑)を理由に駄目と言われ、それならと、あだ名をそのまま店名にしたというわけ。
 遠山の金さんそのもののごとき気風の良い店主が統べる店ゆえ、その名前は、ばっちり決まっていると思います。

金寿司 熊本市下通り1-11-20 TEL096-351-2053

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June 09, 2009

読書:少年少女飛行倶楽部 加納朋子 著

 近頃は1~2年に一冊発刊程度の寡作ペースとなっているミステリ作家加納朋子氏の新刊。
 「飛行倶楽部」なる、ピーター・パンのごとく自力で空を飛ぶことを唯一の目標とした、中学校の文化クラブに入部するハメになった快活な女の子が、そこでいろいろな変人たちに出会い、種々の妙な出来事に遭遇する青春物語。

 まず「飛行倶楽部」部長の変人ぶりがよい。
 部員の数が足らず廃部の危機にあるクラブに部員を集めるため、高層マンションから飛び降りた過去があり、自殺未遂の噂のある生徒の家を訪ねて、応対に出た母親に「あなたの娘さんのような人こそわがクラブにふさわしい」と入部の勧誘を行う。その突き抜けた傍若無人さ、いいですねえ。

 飛ぶことに実際には興味を持たない、部長以外の部員は、それぞれに変であり、それぞれが起こす妙なエピソードが語られながら物語が進むうち、いつのまにか部員たちは「自力で空を飛ぶ」ことに協力しあい、やがて彼らは空を飛ぶ。飛んだついでに、ささやかな冒険も達成して、みなが満足感を味わううち物語は幕となる。

 爽やかで、でもどこか哀しい、青春の一コマを切り取った物語。
 読み終わったあとの、清々しさは、著者特有のものだな。

 加納朋子氏の作品には、いい人しか出てこない。
 悪く見える人も、じつはそれなりに理由があって悪く見えているだけで、その人間の芯は善良である。デビュー作以来、一貫してそのスタイルは変わらない。たぶん、著者がとてもいい人なんだろう、そう思う。

 ところで、この作品での「知的能力が高く美しいけど、病弱な姉。その姉を一所懸命に支える弟。それを見守る、狂言回し役の活発な少女」という配役設定は、処女作「ななつのこ」とおんなじである。あのとき語れなかった、あるいは語り足りなかったものを、この作で表現したかったのだろうか。もしそうなら、成功していると思う。病弱な姉が常にまとう、かすかな死のにおい。その死のにおいが、若者たちの生をかえって輝かせているわけだが、この微妙な描写は、著者の熟練した腕で初めて可能になったものだから。


少年少女飛行倶楽部  文芸春秋 刊

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June 08, 2009

映画:おくりびと

 良作との世評は高く、観よう観ようと思いつつ、なんとなく見逃したまま半年以上が過ぎていたが、まだ延岡で上映しているので(なんというロングラン)、観てみることにした。延岡というところは映画の人気のないところで、市内に一軒ある映画館は、どの映画の上映でも、観客は私一人のみということがよくあるけど、「おくりびと」は、他に親子二人連れの観客がいて、計3名が入場していた。「おくりびと」は全体として、落ち着いた、暗いトーンの映画なのだが、コミカルな場面もほどよくはさまれていて、いいアクセントをつけている。そういうコミカルなシーンでは、私はゲラゲラと笑うわけだが、他の二名はまったく反応はなく、なんかどうにも調子が悪かった。三名程度の観客数って、映画鑑賞には、ちと微妙な数なんだな。

 「おくりびと」は、死者の遺体を遺族の前で、清め、化粧して、仏着を着せて棺に納める、納棺師という職業の人が体験した、人の生と死の物語を軸に、主人公の心の成長を描いた映画である。
 人の死は、人の数だけ種類がある。その死が傷ましいものであれば、それだけ残された人の心に傷を与え、天寿を全うした人には、見送る人に満足感を与える。

 それゆえ、納棺師の仕事が大変になってくるのは、傷ましい死を迎えた人に対してであり、若くして病気で亡くなった人、自死した人、事故死した人に対しては、家族も悲嘆にくれ、周囲の者に対して筋違いの文句を言ってくる。
 若死にした人の死が傷ましいのは、当人の肉体のみならず、当人の人生がいきなり失われてしまうからである。人生はまだ続いていてよいはずなのに、その人生が突然途切れ、残された者は、まだあってよかったはずの人生、そうであってほしかった人生、そうあるべきであった人生が、その人とともに、唐突に、永遠に、失われてしまい、途方もない喪失感を味わうことになる。
 そのとんでもない哀しみを背に受け、納棺師は、遺体を、せめてそうあってほしかった姿に整え、遺族に少しでも癒しを与え、棺に納める。この儀式は、静謐のなか、荘厳さを感じながら進められ、映画のなかの圧巻となっており、エンドロールでもさらに繰り返される。

 これに対して、天寿を全うした老人の納棺の儀は、納棺師もあまり出る幕はない。棺に横たえられたのち愛人たちにキスマークを次々につけられる老人や、おばあちゃんの夢だったんですと、孫たちにルーズソックスを履かされる老女。ここでの死には、達成感のある明るさがある。

 まこと、よく死ぬこととは、よく生きるということであり、よく生きることとは、よく死ねるということを、映像は、ひしひしと教えてくれる。

 主人公は、毎日死と向かいあう生活を送り、死の重み、つらさ、哀しみに押しつぶされてしまいそうになるが、それでも死を送り出す仕事に誇りを覚えていき、今まで失敗に終わった自分の人生を、仕事を通して見つめなおすことになっていく。
 終幕のシーンは、その象徴であり、死をきっちりとみつめることが、死者の人生を、確かな記憶として刻み、そして残された者の人生を実りあるものにし、明日へとつなげていく、大事なすべということを教えてくれ、そしてエンドロールに入る。

 さすが、アカデミー賞受賞作品。よくできた脚本と、いい俳優に恵まれた、良作であった。

 ……………………

雑感1)久石譲の音楽もたいへんいいです。とくに川原で、主人公がチェロを奏でるところ。変わりゆくけど毎年四季を迎える風景のなか、たしかに存在し続ける自然に対峙し、あまりにもろく移ろいゆく、人間の営みというものへの、慈しみと鎮魂の思いを表現する、深い響きあるチェロの旋律が、とても印象的であった。

雑感2)暗く深刻なテーマの映画ゆえ、ベテランの俳優たちは誰も重厚な演技をしているけど、その中で、広末涼子のみが浮いていた。あの妙に能天気に明るい演技、たぶん彼女は素のままで演技しているのだろうが、それが案外と逸品。広末の代表作になりそう。もともと、死が常に背後にある映画のなか、彼女は唯一、生をつかさどる役割ゆえ、浮いていて当然ではある。配役選んだ人は、good jobである。

雑感3)大半の人が病院で亡くなる今の日本においては、遺体の清拭・化粧は、看護師がエンゼルケアで行い、そのまま棺に納めるものが常と思っていたので、納棺師なる職業はフィクションだろうと思って観ていたが、あとでネタ本の「納棺夫日記」を読むと、東北ではそのような風習があり、実在する職業だったということで、少し驚いた。


おくりびと:公式サイト 

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私のおくりびと体験記

 映画「おくりびと」を観ていて、そういえば自分も、かれこれ20年近く前に似たようなことを体験したなあと思い出した。
 その当時、私は大きな造船所のある港町で働いていた。あの頃は、社会人なりたての見習だったので、祝日休日などなく、毎日早朝から深夜まで職場に泊り込みで働いており、そしてそれは、平穏な日曜日の午後に起きた。
 港に入ってきたタンカー船の事故である。機関室で作業をしていた人が、スクリューのシャフトに巻き込まれて、引き裂かれてしまい、バラバラになって死亡してしまった。タンカーの巨大なシャフトだったので、その破壊力はすさまじく、遺体は、バラバラというより、粉々とも言っていいまでに、肉と骨と内臓が100以上のパーツに分解された。その全パーツは、事故現場から陸上の作業小屋のようなところに移され、ブルーシートの上に置かれていた。

 医者と警察による検視が終わったのち、その凄惨な遺体は、船会社の人が引き取りにきたわけだが、その会社の責任者が、バラバラ粉々の遺体に対面して、卒倒寸前になり、とてもこの姿のままでは、遺族に会わせるわけにはいかない。なんとかしてくださいと泣きついてきた。

 泣きついてはきたものの、このあたりにはエンバーミングを行っている企業などなく、葬儀社に頼んでも、このようなとんでもない遺体は修復してくれないだろう。さて、困った。
 ところでその責任者が泣きついたのは、たまたま休日勤務をしていた私の上司であった。上司というものは常に理不尽でわがままな存在であるが、その理不尽さとわがままさを発揮して、職場で別の仕事をしていた私ともう一人の見習を呼びつけ、このバラバラの死体を見せ、これを組み合わせて、なんとか人間の形に戻せと要請した。
 私も、もう一人の見習も、この死体を見て、目が点になってしまった。これはすごい、こんなすさまじい死体は今まで見たことはないし、これからも見ることはないであろう、そう一目で確信した。じっさいこれ以後、こんな死体は見たことはない。

 それはそうと、我々は、エンバーミングの資格や経験があるわけでなし、また死体修復をする義理があるわけでもなく、この仕事は理不尽きわまりないものなのではあるが、上司の命令であるゆえ、やらねばならない。参ったな。

 上司は修復の方法として、「遺体はこのように縫うのだ」と言い、タコ糸とタタミ針を用いて、遺体の皮膚と筋肉をジグザグにハイスピードで縫っていくのを実践してみせた。こういうことまでやれるのか、芸の広い人だなあと感心はしたものの、上司は死体の縫合の基本法を見せたのち、あとは頼んだと言って、去ってしまった。

 さて、100近くある人体のパーツ。人体のパーツは、上下ならなんとか区別はつくが、左右のパーツは区別がつきにくい。腕らしき肉片が、左腕なのか、右腕なのか、容易には判別しがたい。仕方なく、わかりやすい部分をいくつか設置し、それに合うピースを当てはめ、ジグソーパズルのやり方でまずは全体を組み立てる計画にした。
 このピース当てはめを行ううち、だんだんと要領が分かってきて、なんとか作業は進み、人の形が現れてきた。それからタコ糸で各パーツを縫い合わせていった。
 この作業の途中、なにやら珍しいことが行われているらしいとの噂話を聞きつけた、休日出勤の者が何人か、作業場に訪れたが、みな、一目みて逃げて行ってしまった。ある一名などは、なにやら手伝いに来たみたいだったのだが、現場を見るなり気分不良になり、倒れる寸前にまでなって、あわてて外に追い出す羽目におちいった。(あの現場を見た瞬間、わなわなと震え、顔が真っ青になった姿は今も記憶に残っている。誰が依頼したのかは知らんが、女性をこういう場に寄こすのはどうかと思うなり)

 それやこれやで、4~5時間たって作業は終了。縫合が終わった遺体を、腕・脚・胴体、それぞれをぐるぐると包帯で巻き、なんとか人に見える姿まで修復を行った。上司に、終わりましたよと連絡し、我々は退散。あとは葬儀社の人が、棺に納めたのでしょう。

 日曜の午後、本来の業務とまったく違うことを、えんえんとやらされてしまった。しかも、私は見習いゆえ、まったくの無給のボランティアである。少々の不満を覚え、後日上司に、「そういえば、あの遺体修復の件、むこうの会社の責任者、なんか礼には来ましたか」と聞くと、「そういえば、礼もなにもなかったなあ」と、とぼけた返事。大企業の船会社のくせに、なんたる不誠実。今は大赤字でつぶれる寸前みたいだが、つぶれて当然の会社だわい。

 そういうわけで、不愉快な思い出ゆえ、思い出したくもないので、すっかり忘れていたが、「おくりびと」のせいで思い出した。

 それで、今思うに、向こうの会社の責任者はろくでもないやつだったが、とにかく我々は、遺族に対しては、とても良いことをしたのだなと知った。あのとき遺体修復は、状況からすると、我々がするしかなかった。遺体修復の技術など持っていなかったが、それでも懸命に修復を行い、遺族が対面すると、ひどいショックを与えるに違いなかった元の遺体を、なんとか人様が見ることができる遺体にまで戻すことができた。それは、遺族に対して、大きな貢献であったことは間違いない。
 遺族は、遺体修復は、葬儀社の業者がしたくらいに思ってたであろうが、じつは、葬儀社とまったく関係のない、無給の見習いがボランティアで行っていたのである。

 人生で、たいした悪行も行っていないかわり、たいした善行も行っていない私であるが、この遺体修復の件は、文句なしの善行と思う。
 神もあの世も信じていないが、もしそういうものがあったとして、死ののち、天国と地獄の分かれ道で待っている神が「汝の行った善行を述べよ」と問うたなら、この遺体修復の件くらいは、我が善行として答えていいんじゃないでしょうか。

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June 06, 2009

サイクリング 遠見半島・桃源郷岬

 延岡の海岸線は二つの半島に囲まれており、北側の半島は名前はないようだが、南側は名前がついており、「遠見半島」がその名前だ。風景が遠くまで見ることができることから名づけられたと思われる「遠見」は、絶景が期待できる名前のため、他の地域にも同じような名の半島がありそうだが、検索するとここしかヒットせず、そんなすごい名称を独占するとは、運のよい半島である。
 しかし、訪れてみれば、眺めはたしかにいいものの、県北の他の半島を明らかに凌駕する風景を持つとは思えず、名前負けしている感は否めない。おそらくは、なんらかの歴史的背景が加味されて、そういうすごい名前を持つことになったんじゃないのだろうか? そのうち、調べてみることにしよう。

 さて、その遠見半島を訪れてみたときの記録。

【半島の入り口】
Tophmi_peninsula

 国道10号線から遠見半島方面に入り、平坦な道を行くうち、小高い山が見えてくる。ここらが遠見半島の入り口にあたり、半島とはたいていは山なので、登山口みたいなところだ。左手に見える山が「遠見山」で、この標高308mの山の山麓が遠見半島ということになる。

【遠見山】
Tohmi_mountain

 海岸の近くなのに傾斜が激しいのは、県北の海岸沿いの道の常道のパターンであり、今回もそれを踏襲。6月に入り、気温も暑くなってきたなか、懸命にペダルを回し、汗をかきかき、なんとか遠見山山頂に到着。

【日向灘】
Kadokawa_town

 遠見山山頂より望む日向灘の景色。
 県北特有の、いくつもの尾根が海に入って湾を形成している姿が見える。平地はその間の狭い中洲みたいなところにしかなく、こういうところに10万人以上の住民が住む都市があるのだから、いろいろな意味でたいしたことと思う。
 東九州は交通の不便なところで、東国原知事は高速道路の早期開通を、政府に嘆願しているが、この地形を生で見ると、ここに高速道路をつくるには、多数の尾根をいちいち貫く必要があり、例えて言えば、ピアノの鍵盤の黒鍵を全部ぶち抜くような難工事が要されるわけで、費用対効果の点で言えば、とてもペイするとは思えないなあ。

【桃源郷岬 あじさい畑遠景】
Hydrangea_garden


【桃源郷岬 あじさい畑近景】
Hydrangea

 
 先ほど、遠見半島は、名前のわりにはたいした風景が広がっているわけではないと書いたが、遠くでなく、近くではすごい風景が存在していた。
 山頂手前に、「桃源郷岬 あじさい」とか書いた案内板があり、林道を下っていけばその桃源郷岬に着けるとのことだ。何の予備知識もない「桃源郷岬」であったが、あじさいは、今が旬であるので、見て損はないであろうと思い、行ってみた。
 着いてみれば、ちょっとした観光名所にはなっているようで、辺鄙な場所なのに車が10台ほど停まっていた。でも、ここを自転車で訪れる人はあまりいないらしく、入園料徴収の係りの人は少し驚いていた。

 この「桃源郷岬」、地元の好きものの人が、岬を花で埋め尽くそうと、まずはあじさいを主体に、ひたすら植え続けた所であり、6月になり、岬はあじさいの花で満ちている。
 写真は、岬の平地に集団で植えられたあじさい畑であるが、これだけでもすごい風景なのに、ここ以外の傾斜地や崖にも、あじさいの花(+他の亜熱帯性植物)が咲き乱れていた。この「岬を花で埋め尽くす」計画は、まだまだ実行の途中であり、数年後に訪れると、もっとすごいことになっていそう。
 ここは、また今の時期に訪れたいです。

【土々呂駅】
Totoro_station


 帰りは半島を北側に抜ける道を行く。
 その抜けたところには、漁業が盛んな「土々呂」という町があり、「土々呂駅」もある。
 その地名を聞けば誰だって、洒落でトトロ人形くらい飾ってあるだろうと思うであろう。私も当然そう思い、ついでなので土々呂駅に寄ったが、…なにもなかった。
 ある意味、JR九州はまじめなんでしょうが、でも隣の大分県宇目町の轟(ととろ)バス停が、トトロを使って観光客を集めているのを考えると、せっかく「ととろ」という名前があるのに、もったいないと思わぬこともない。もうちょっと商売気を出してもいいでないのかい。

 本日の走行距離 38.5km

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