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May 18, 2009

ワルキューレ雑感 「独裁国家とヒットラーの異常性について」

 私はアニメでいうところのヤマトやガンダム世代である。これらは面白いアニメであり、大変な人気も博したのではあるが、あのアニメをみると、世間一般には「独裁国家」に対して、妙な誤解が広まっていることが分かる。デスラー総統率いるガミラス帝国も、ギレン・ザビ総帥率いるジオン公国も、よく訓練され、整備も最新である軍隊を持っており、戦争初期に主人公サイドの国家を圧倒する。「独裁国家」は軍事的に強い、という思い込みから、このような描写がされているのであろうが …これはウソである。

 独裁国家は弱いのだ。

 それこそアレキサンダーやカエサルの時代のように、軍事と政治が一体化した国家運営が可能な時代ならいざしらず、政治と軍事が分化して国家が機能する近代においては、独裁国家は、軍事において致命的な欠陥を持つ政治形態となっている。

 国家においては、軍隊というものは常に第二国家というべき存在であり、それ独自で機能することができる。というより独自で機能できる仕組みがないと、軍隊として存在しえない。この特徴により、軍隊は、第一国家に成りかわる可能性を常に持っている。
 軍隊が国家本体を乗っ取ることをクーデターと呼ぶが、これを予防するため近代国家はいろいろなシステムを採用している。そのうち一番汎用されているのは、権力の分散である。短期間で権力中枢を乗っ取られるような政治形態を採用していなければ、クーデターが成功する可能性は非常に低い。たとえば日本においても、東京を自衛隊が占拠したところで、一時的な「東京国」ができるだけであり、日本国は転覆しない。
 しかし権力を集中させた中央集権国家では、中枢を軍隊に攻撃されては、一挙にクーデターが成功してしまう。そして独裁国家とは、中央集権が究極まで行き着いた国家形態であり、まさにクーデターのためにあるような政体なのだ。
 それゆえ独裁国家は、常にクーデターの危機を内包しており、独裁者はその対策を考案する必要がある。
 考案する必要がある、…とは書いたものの、対策はたいてい一つである。
 「クーデターを起こす力を持たないように、軍隊を弱体化させる」。これに尽きる。

 だから独裁政権が成立したら、独裁者はまず最初に軍隊の「粛清」を行う。クーデターを起こす能力のある者を軍隊から排除することにより、軍隊の政権に対する牙を抜いてしまうのだ。ただしクーデターを起こす能力のある者は、当たり前のことながら軍事的に有能な人でもあり、そのような人達を排除すれば当然軍隊の軍事的能力も落ちてしまう。
 これがゆえに、独裁国家は弱くなる。

 代表的独裁国家である、スターリンのソビエト連邦も、毛沢東の中華人民共和国も、政権成立および維持の際は、徹底的に軍部の首脳陣を粛清している。それゆえ二次大戦初期の独ソ戦時は、ソビエト赤軍はあまりに弱く、ドイツ国防軍にやられっぱなしだったのは有名な話で、あわてたスターリンは、粛清して僻地に追いやっていた将軍たちを、早急に呼び戻して戦線を立てなおした。それにより東部戦線は、なんとかまともな戦争を行えるようになった。
 現代の代表的独裁国家は北朝鮮ということになろうが、あの国も金日成時代に軍に対して徹底した粛清を行っているし、今も軍隊は粛清の圧力を受けており、統一した軍隊として機能できないようになっている。ゆえに、いくら核実験をやろうが、ミサイルを持とうが、北朝鮮は弱いのである。これは断言できる。

 その弱いはずである独裁国家の例外が、ヒットラーの第三帝国である。第三帝国の国防軍は強かった。ヨーロッパにおいては、文句なしに最強の存在であった。
 では、なぜ国防軍が強かったかというと、ヒットラーは独裁国家のくせに、軍隊を従わせるための必須の項目である軍隊首脳の粛清を行わなかったからだ。そのため、ナチス政権成立後も、国防軍は以前からの強さを維持することができた。
 ヒットラーがなぜ国防軍に対して粛清を行わなかったかといえば、ナチスの大もとの構想である東部への侵略のためには、軍隊を弱体化させるようなことは、絶対にしてはいけないことであったからだ。軍隊の力を維持する方針が功を奏して、第三帝国は一時的にヨーロッパをほぼ支配することができたわけだが、もちろんこの方針は諸刃の剣となる。

 有能な軍隊は、クーデターを起こす危険が常にあるのだ。

 実際に、ヒットラーほどクーデターを企てられた人物はいないし、またこれほど暗殺計画が立てられた人物もいない。
 ナチス政権樹立後の、すぐの大事件ラインランド進駐において、そんな行動が成功するはずはないと軍部は考え、クーデター発動寸前までになっていた。その後の1938年のズデードン併合事件の際も、軍部はクーデター計画を練っていた。その時のメンバーはそのまま活動を続け、ついに映画で描かれた1944年7月のワルキューレ作戦を起こすことになる。

 こんなに長年にわたり、軍隊には反ヒットラーの活動を行う有力なグループがあったのに、ヒットラーは実際に暗殺計画が実行されるまで、彼らの排除は行わなかった。ある意味まぬけで、迂闊な話に思えるが、ヒットラーは我が身の危険を冒してでも、軍隊の力を維持したかったのである。

 ベルリンの塹壕で自死を遂げるまでヒットラーが暗殺されなかったのには、理由はない。
 ただ運が良かっただけの話であり、一歩間違えば、いつ殺されても全くおかしくなかった。
 歴史というものは、たまにそういうことをする。
 1944年の大本営爆発の時、九死に一生を得たヒットラーは「自分が神より使命を授かった人間ということを確信した」と述べた。神がいるとして、その神はヒットラーにドイツを完膚なきまでに壊滅させるまで、寿命を与えた。歴史という名前の神は常に気紛れで残酷だが、その神は、ドイツにとっては、とりわけ迷惑極まりない、過酷で残忍な存在であったことは間違いない。

 歴史上独裁者は数多く現れたが、ヒットラーは、その誰にも似ていない。
 ヒットラーは権力をこよなく愛し、また権力の行使を愛したが、その権力の行使者である自分に対しては、驚くほど無防備で、価値を認めていないようだ。
 巨大な権力者には、その性癖がどうであろうが、独自の豊かな生活というものがあり、その人間の幅を広げるなり、特徴づけているのであるが、ヒットラーにはまったく生活感というものがない。その生活は空虚であり、人間そのものも空虚感が満ちている。ヒットラーは権力を、自分の生活を豊かにするためにはまったく用いなかったが、もとより自分にそんな価値を認めていなかったのだろう。暗殺も覚悟のうえで生き、そして暗殺がついに為されなかったあとは、当然の結末のように、ゴミをゴミ箱に捨てるかのような気楽さで、自分の頭を拳銃で砕いて、すべての幕を引いた。
 このような、ドストエフスキーの小説に出てくるような人物は、歴史では一人しか現れなかった。

 達成すべき目的を持ち、かつ無私の精神を貫いている政治家は、魅力的な存在である。
 ヒットラーはそのような政治家であった。
 しかし、その目的はあまりにも人道に外れたものであり、無私の精神はかえって、その誤った目的を肥大化させることになってしまった。ヒットラーは残念ながら、きわめて有能な政治家であったため、巨大な目的をほぼ達成することに成功し、ヨーロッパは灰塵に帰す寸前まで破壊された。

 ヒットラーのような人物は、19世紀に、次世代に現れるべき怪物として、ニーチェやドストエフスキーが出現を予言していたとはいえ、歴史上の稀有の存在であろう。ニーチェもドストエフスキーも、虚無主義を体現化した人物の圧倒的な魅力と、その存在が具現化したときの、帰結すべき無為性を、その著作で緻密に描いたが、そのあまりに現実的描写にもかかわらず、当時はそれを夢物語としか誰も思わなかった。しかし一世紀もたたぬうちそういう人物が現実に現れ、その人物の為した途轍もない災厄を、我々は歴史の物語として得てしまった。
 
 このような人物が、もはや二度と歴史の舞台に現れることがないことを、せつに願う。

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