3月の俵屋
京都の宿は俵屋にて。
京都の街なかは花をつけた桜が乏しく、まだ華やぎの季節ではないが、俵屋に入ると玄関奥の坪庭にはこのような爛漫たる桜の花が生けられており、きれいである。このさらに奥には3月らしくお雛様が飾られていたが、うまく写っていない。
俵屋の内部は、複雑にはりめぐらされた廊下の果に部屋が一つずつあるという、アリの巣のようなつくりになっており、いまだに全体像がどうなっているのか私は把握できていない。把握はできていないものの、仲居さんについていけば部屋には無事たどりつける。
俵屋の部屋は、いつ訪れてもその完成度の高さに感心してしまう。
限られた狭い空間を、いかに隙なく構築し、独自の世界を作り上げるかという行為に日本人は熱中してきたのだが、俵屋の部屋はその達成点の典型といえる。調度品、障子、天上、床柱、室礼、椅子、すべてがここしかないというところにはまり、見事な調和をもって、完成された空間をかたちつくっている。
そして、このような完璧な部屋では、緊張感が先立ってしまいそうに思えるが、そうではない。徹底した秩序は、かえって安らぎとくつろぎを与えてくれる。ようは、日本人の心の琴線にダイレクトに触れる、日本人好みの部屋なのだ。
俵屋の部屋って、よく雑誌で写真つきで紹介されているけれど、写真はどうしても部分しか写せないので、俵屋の部屋の一面しか伝えきれていない。俵屋の部屋ばかりは、全体、総合として経験しないと、その魅力は分からないと思う。
というわけで部屋の写真は、なし。かわりに庭の写真でも。
緑が美しいけど、…やっぱり桜は咲いていない。というか桜そのものがない。
庭木として、桜は難しいだろうけど、一本くらい植えていてほしかった、と無理な注文を書いておく。
食事は相変わらずの俵屋風。
最近流行りの創作系和食のような華やかさはないものの、焼き物、煮物、椀物、全てが、よく吟味された素材を用いて、普通に料理されたものが出てくる。この普通さが、たいへんだと思う。驚きや面白さは排除して、京都にしっかりと根付いた、伝統的、本道の料理であり、私は以前はそこが少し物足りなく思っていたけど、40歳を越えると、このような料理のすごさが理解できるようになり、今ではたいへん好みである。
季節の野菜の天麩羅、飯蛸の煮物、胡麻豆腐など。
琵琶湖の諸子、田楽など
白魚の鍋
いずれの料理も、旬の素材をうまく用いて、春を演出しています。
写真はレンズが曇っていたみたいで、いずれもピンボケ気味なのが残念。
さて、世間は大不況なのであり、旅館業も当然その影響は蒙っているだろうが、俵屋くらいの人気旅館になると、どうせ客はリピーターで埋め尽くされているだろうから、たいした影響は受けていないであろうと思い、仲居さんに聞いてみた。すると、とんでもないということで、春・秋のオンシーズンはたしかに予約で埋まっているけれど、オフ・シーズンが問題になっているそうだ。京都は国際観光都市なので、外国から訪れる人は多く、俵屋もオフ・シーズンは外国人観光客がたくさん泊まっていたのだけど、昨年のリーマンショック以来徐々に外国人が減り、年を越えてからは危機的状況になっているそう。…そりゃ、世界同時大不況に加え、円高のダブルショックを受けては、外国人来なくなるでしょうなあ。
でも俵屋でさえ、客が激減するようなら他の旅館はもっと大変なのではないだろうか。とくにお隣の柊家などは、バブリーな新館を建ててしまっているけど、大丈夫であろうかと心配してしまう。余計なお世話でしょうけど。
この不況がずっと続くわけもなく、あと3年ほどの辛抱が、どの業者でも必要になるのだろうけど、その時期いかなる変遷があるのだろうか。ちょっと不安になってしまう。
朝食は焼き魚は塩鮭、それに湯豆腐。
俵屋の朝食に出てくる塩鮭は、肉厚で、味は豊か、塩加減も丁度いい。これほどの塩鮭は私は俵屋のものしか知らない。
湯豆腐は京都の宿の定番。大豆の旨さが濃厚です。
食後のコーヒーを楽しんだのちチェックアウトして宿を出る。
少し歩いたところで、向かいを歩く人にどうも見覚えがある。同じ職場の人だ。向こうも私を見て驚いた表情になり、互いに会釈をかわす。立ち止まって話をしてもいいのだろうけど、向こうはカップルだったので、遠慮してそのまま通り過ぎた。
宮崎でもそうそう顔を見る人でもないのに、遠い京都で会うとはいかなる確率か。それも清水寺とか金閣寺の人気観光地ならわからぬでもないが、観光地でもない麩屋町通りで会うとは。盲亀浮木とか優曇華の花とか、どうでもいい言葉が頭に浮かんだ。
この後嵐山、京都御所と訪れ、京都駅より新幹線で九州へ帰る。
新幹線では俵屋の弁当を開け、それを肴に一杯飲みながら、窓を眺め行く風景を眺める。これも京都に行ったときの、おおいなる楽しみの一つである。